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矢作川太郎さんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[59533]2007年6月30日
矢作川太郎
[59410]2007年6月24日
矢作川太郎
[57868]2007年4月8日
矢作川太郎
[57829]2007年4月6日
矢作川太郎
[57500]2007年3月31日
矢作川太郎
[57194]2007年3月7日
矢作川太郎
[57004]2007年2月24日
矢作川太郎
[56914]2007年2月19日
矢作川太郎
[56440]2007年1月26日
矢作川太郎
[55986]2007年1月7日
矢作川太郎
[55768]2007年1月1日
矢作川太郎
[55767]2007年1月1日
矢作川太郎
[55766]2007年1月1日
矢作川太郎
[55358]2006年11月26日
矢作川太郎
[55285]2006年11月22日
矢作川太郎
[55115]2006年11月12日
矢作川太郎
[54962]2006年11月3日
矢作川太郎
[53806]2006年9月4日
矢作川太郎
[53772]2006年9月2日
矢作川太郎
[53693]2006年8月30日
矢作川太郎
[53592]2006年8月24日
矢作川太郎
[53591]2006年8月24日
矢作川太郎
[53519]2006年8月20日
矢作川太郎
[53094]2006年8月6日
矢作川太郎
[53062]2006年8月5日
矢作川太郎
[52983]2006年8月4日
矢作川太郎
[52974]2006年8月3日
矢作川太郎
[52955]2006年8月3日
矢作川太郎
[52943]2006年8月3日
矢作川太郎
[52899]2006年8月1日
矢作川太郎

[59533] 2007年 6月 30日(土)22:28:11矢作川太郎 さん
役所・役場のその後・・・
[59531]役チャンさん

私も、合併された自治体の役所・役場のその後に少し興味があったので、一時期調べていました。この際ですので、結果報告ではないですけれど、ご紹介したいと思います。

1:主張所になったケース(規模の縮小?)

  水戸市常澄出張所・鹿嶋市大野出張所・潮来市牛堀出張所・あきる野市五日市出張所・新潟市の区役所にならなかった町村役場・富士河口湖町(勝山・足和田・上九一色)各出張所・甲府市上九一色出張所・大紀町柏崎出張所・京都市右京区京北出張所・橋本市高野口出張所・真庭市蒜山振興局(川上・中和)各出張所・広島市佐伯区湯来出張所

2:全く支所機能が失われたケース

  八峰町峰浜庁舎(焼失したため)・世羅町の旧世羅町役場(旧甲山町役場とかなり近接していたため)

3:不明なもの

  あわら市芦原庁舎(市役所市民課芦原分室?)・宗像市玄海庁舎(ヤフー・マピオン地図では赤丸で表示されておらず)

合併からかなり期間が経った所が「出張所」と言う名称の窓口施設になっています。(さすがに連絡所になっている所はありませんが。)政令指定都市に編入された町村の役場も出張所と言う名称になることが多い様ですね。(岩槻市は町村ではありませんし、蒲原町には清水区の蒲原支所が設置されています。)旧自治体域の人口に依って窓口施設の機能が決まってくるのかも知れませんね。それと、
合併しても、本庁とならなかった庁舎は必ず残るものと思っていましたが、
と言うのも、上に記した通りかなり例外があるみたいですね。まあ、大半の自治体庁舎は色々な呼称が見られますが、おおむね支所機能を有した施設が後(跡?)に立地する様です。(呼称に元の自治体名が入れられていない事例もぼちぼちあります。)それに、合併後に老朽化した旧庁舎から新設した支所庁舎へ移転した例も見られますので、旧役所・役場巡りなのか、支所巡りなのか判然としない事もありますので詳しい調査が必要になりますね。

多分、
合併の趣旨から言って庁舎だって積極的に統廃合して良いと思っていますが、火事でもない限り統廃合は進まないものなのでしょうか。
と言われますが、旧世羅町役場やおそらくですが旧芦原町役場が統廃合された、もしくはされると言う端緒が見られるので合併特例法の期限が切れたのちに一気呵成に進むと思われます。支所の統廃合は自治体合併と違って全くと言って良い程、外部の人物に周知されませんので、くれぐれも自治体の住民サービスが低下する事の無いよう頼みたいですが・・・どうでしょうか?

あと、調べていてかなり興味深かったのは山梨県富士河口湖町ですかね。この町では合併の時期と前後して本庁舎を新築した様です。現に昔の役場の位置からわずかに移動してますしね。(特例債に当て込んだかは不明。)あと、それに伴って勝山出張所の庁舎も新築したみたいです。(足和田出張所は旧役場を流用。)特に珍しいと思ったのは分村した地域への上九一色出張所の新設です。(ところで、昔(旧上九一色村時代)に富士ヶ嶺地区に村役場の出先機関ってありましたっけ?)甲府市にも上九一色出張所あり、都合二ヶ所に同名の出先機関があるように結果なりましたね。(精進地区にも出張所が存在。)

次に、気になったのは三重県大紀町の旧紀勢町域の支所機能です。元々崎地区の伊勢柏崎駅前に町役場がありましたが、そこの建物は柏崎出張所になっています。支所はどこにいったかと言うと、海沿いの錦地区に移転?(設置)されています。(以前、東海地方のローカルニュースで話題となった、芦浜原発に当て込んだ分不相応に大きな役場移転予定地に支所をもってきたのだろうか?)

今度は、岡山県真庭市の北部の美甘村を除く3村も変わっていますね。ここには、蒜山振興局(旧八束村の役場から程近い場所に新設?)があって旧3ヶ村の窓口業務が集約されています。その中で、旧川上・中和村の役場が振興局の出張所と言う位置づけとなり珍しい形態になっています。

あと思い当たるのは、熊本県美里町が昔の山口県旧旭村と同じ様な形態になったと言う位のものでしょうか。

以下諸々。

1:旧雄踏町役場(現雄踏地域自治センター)と浜松市西区役所が若干場所が異なりますけど、旧役場の位置に何らかの窓口機能は残されているのでしょうか?

2:旧坊津町役場が南さつま市坊津支所久志庁舎になっていますが、現在の南さつま市坊津支所坊泊庁舎の方は旧坊津町時代には支所か何かだったのでしょうか、それとも新設されたのでしょうか?(今代鼻から車岳にかけての峠が急峻だったからだろうか。それとも、枕崎市と繋がりが深い地区だったので特に支所を設けたのかも知れない。それなら秋目地区は飛び地になっていたのに・・・)
[59410] 2007年 6月 24日(日)19:53:47矢作川太郎 さん
幽霊メンバーでスイマセン・・・。
皆さんご無沙汰です・・・ロムはしていたのですが。

[59388]桜トンネルさん

岡崎市には「落書き帳メンバー」がいらっしゃった気がしますし・・・。
はい!!私です!!(笑)

[59383]雪の字さん

お久しぶりですね。
私が生まれ育った名古屋(敢えて限定する理由は後ほど)でも、黄色であることを「きぃない」と言います。実際には年輩の方がほとんどで、若い人はあまり使いませんけれど。幼い頃には、大人たちが口にするのを、良く耳にしたものです。
この言葉、越すに越されぬ大井川をも越えて分布していることになりますね。

とは言え、[59228] 淡水魚 さん が仰るように、浜松が分布域から外れるとなると、三河地方ではどうなのか、が気になります。三河地方の方言は、名古屋よりもむしろ浜松に近いですから(上で「名古屋」と限定したのはこのためです)三河出身、あるいは在住の方のご教示を頂ければ興味深いです。
明らかに呼ばれてますね。(笑)

両親に聞いてみたところ父は普通に使っていると言い、母は幼いときに使っていたと言いました。(父は豊田(市)の山奥(って言い方は須木では無いですが。)、母は名古屋の出身です。)

そのとき、その場所にいた人にとって、それは当たり前の、珍しくもない風景でしょう。
けれど、それに少しでも近づきたい、と思い焦がれている誰かが、どこかに、いるかもしれません。
(本来はレスすべきでない箇所かも知れませんですが・・・)

私の住んでいるトコロはかなり史跡が点在していて(って言っても大したこと無いですけどね。)たまに、観光客と思しき人を見ます。ある時、とある旅雑誌で見慣れた石垣(江戸時代にはかなり重要な石垣でしたが、今は田畑に囲まれているだけです。)の写真が掲載されており、面食らいました。が、自分も遠隔地の史跡・寺院に行くとかなりテンションが上がりますので、地元の人々から面食らわれているかも知れませんので、結局はお相子でしょうね。

以下、見苦しい愚痴。
このニュース記事によると、長久手町の新設小学校名候補が「市が洞小学校」から再検討されるようです。(それじゃあ、「けやき小学校」だぁ!!!)せっかくの小字名由来の名前を「悪平等」によってツブされてしまうのは悲しいことです。せめて「長南小学校」あたりが落としどころだと思いますが。

因みに全国のけやき小学校一覧です。
[57868] 2007年 4月 8日(日)02:36:31矢作川太郎 さん
春の陽気に誘われて・・・
と書いてみたモノの・・・実際かなりの花曇りでした。

昨日どこへ行ってきたかというと3月18日(今年ですよ!)に開業した刈谷の「野田新町」駅に近場だったので少し行ってみました。(と言っても岡崎駅から単に往復しただけ・・・トホホ)そう言えば、私は刈谷市内の高校に通っていたので、その周辺は数回通った事がありました。(確か、駅用地の南側には小さい自動車展示場があったような・・・)降りてみたところ南口には真新しい車寄せがあって取り付け道路はそのまま見覚えのある幹線道路に通じているだけでした・・・ただ、北側に行ってみると某企業の大工場(多分コレのためだな・・・)が立地しており(今まで気付かなかった。大きすぎて目に入らなかったのか?)北口のすぐ前には高層マンションの建設が進んでいました。あと、駅の自由通路に「祝・開業」の小旗が新駅だと言うことを印象付けていました。ただ、駅員配置駅だったので駅員氏に短い間に二回姿を見られてしまいました。(ハズカチィー!!)でも先方もコチラの意図を承知している・・・と自分に言い聞かせて帰りの列車に乗り込みました。(チャンチャン)

取り急ぎですが一応。

[57835]スナフキんさん
矢作川太郎さんが「字体に翻弄された村」として例示してくださった都祁村のほか、合併で誕生した奈良県葛城市・鹿児島県薩摩川内市(←ここで表示できているこの状態が正確な自治体名です…ややこしいです)が該当しますね。
そうなんですか。(こちらもユーザー補助を使わないと字体の違いが解りづらくて・・・)確かに隔靴掻痒なむず痒さを感じます。(あと、スナフキんさんの方で出ている字体の事を言っているのかどうなのか解らないのが(仰っている「ここで表示できているこの状態」ってそちらの機器で出ている字体の事ですよね?)あぁ、もどかしい。)凄く高度な伝言ゲームだ・・・(苦笑)

確か葛城市が正式な字体は「L+人」の正字ではなく「ヒ」であると主張していると言うことは報道で知っていました。(「正式な」と言うのが役所内部で使用するモノに限られ、個人の書き方を規定するものではない、と言うのがまたややこしい。)

以前少し話題になった「耶馬溪」の場合は難易どちらの字も表示可能で、だからこそややこしい問題でもあったわけですが、
選べる「字体」もややこしいものです。例えば、九州の「葦北郡」と「糟屋郡」なんかが悩みの種でした。私の使っているPCの辞書は「ATOK 2005」なんですが、先日、母の買ったストッキングのメーカーの所在地を何気なくみると「芦北郡芦北町」と書いてありました。しかし、我がATOK君ときたら「葦北郡」しか出ないんです。かと思えば「糟屋郡」には「使用しない」と表示し、「粕屋郡」に「統一」と表示しよるんです・・・ハァ。でも「檮原町or梼原町」には何も表示しない・・・(←某地図会社ではページ毎に「ゆす」の字が違いま(以下略))他では山陽自動車道の「竜野・竜野西IC」が「龍野・龍野西IC」に変わった(SAは?)とか、天竜川←?流域に引き続き「天竜区」と「天龍村」がある(しかも隣接!)とか、火種は尽きませんが、
同じくらいに我々も困っています…。
心中お察しします・・・

余談:そう言えば「祁答院町」当局者は「都祁村」の改称をどの様に見ていたのだろうか?あと、今回の変更でも旧:赤碕町の「石+立+可」は採用されなかったが・・・

[57836]般若堂そんぴんさん

その事に関連してかなり前に朝日新聞に「字体」についての連載記事がありましたが、手元に無く参照できないのが・・・(その後、紙面の字体も「康熙(煕)字典体」に基づくものに変わった様です。)
もちろん,字体の変遷を重視する研究分野もありますが,それらは typography 情報を付加することで十分に対応できそうな気がするのですが.
地名の用字に関しても所謂「幽霊文字」と言う出典不明の漢字が存在する程、激烈に変化が加わっています。(同時代の古文書でも「用字はどれか・漢字か仮名か」と言う事も全く一定しない。)現在、字名・町名にも対策として書き換えや平仮名化をすると言う事もかなり行われており地名の「変化する」性格をまざまざと見せ付けられた気になります。

再び余談:そう言えば、高校時代に葛藤の葛を「L+人」の正字ではなく「ヒ」と書いてテストでペケを貰いました。(元々その担当教員は余り好きではありませんでした。一種の反発の一部でした。)私はその事をとても腑に落ちないと思いましたが、今、勉強している大学の学科を選ぶ理由の一つにもなった様な気がします。さて、「美嚢郡」を書き換えるかどうか考える事にしましょうか・・・
[57829] 2007年 4月 6日(金)19:34:20矢作川太郎 さん
視界はメイリオ??
[57823]スナフキんさん

例のフォントセットの名前は「メイリオ」と言うようで・・・まあ、語源は言わずもがな「明瞭」からであって・・・

いまWindowsをお使いの方ならMicrosoft UpdateでMSフォントセットの更新プログラムが追加されているのをご存じでしょうか。どうもこれ、Windows Vistaでのフォントセットに対応するもののようで、これをインストールすると例えば、今まで正字が出ないことで何かと話題になっていた「葛」や「樽」「楢」「騨」あたりがVista同様に使えるようになるのかもしれません。

はい、つい先日インストールしました。なので、私のパソコンに表示されているフォントは全部「それ」になっています。(印象としてかなり不格好ですが、慣れの問題でしょう・・・)

一応、このページに変更の詳しい内容が書かれています。

そして、字体変更(って言ってもフォントを適用すると強制変更されますが。)のあると思しき自治体名(1990年以降に消滅した旧自治体も含む。)を列挙してみます。(皆さんもフォントの試験用に使って下さい・・・これを作るのに半日かかってしまった。(汗))

芦別市 小樽市 有珠郡 壮瞥町 東津軽郡 蓬田村 岩手郡 葛巻町 上閉伊郡 大槌町 双葉郡 葛尾村 楢葉町 茨城県 北茨城市 東茨城郡 北葛飾郡 秩父郡 長瀞町 東京都特別区 葛飾区 逗子市 河北郡 内灘町 鯖江市 飛騨(←Unicode形式)市 茨木市 神戸市 灘区 東灘区 芦屋市 葛城市 生駒郡 安堵町 北葛城郡 遠賀郡 芦屋町 葦北郡 芦北町 薩摩川内市 薩摩郡

稗貫郡 西茨城郡 東茨城郡 茨城町 東八代郡 芦川村 海部郡 宍喰町

東津軽郡 三厩村 東磐井郡 千厩町 東田川郡 櫛引町 安蘇郡 葛生町 東葛飾郡 中巨摩郡 芦安村 櫛形町 木曽郡 楢川村 坂井郡 芦原町 揖斐郡 谷汲村 山辺郡 都祁村 児島郡 灘崎町 芦品郡 小城郡 芦刈町 壱岐郡 芦辺町 薩摩郡 上甑村 祁答院町 薩摩町 下甑村 樋脇町

他にも鵠沼、蛸島、谷汲、祇園、箭田、箸蔵、等が変更されています。でも「甑島」が出るようになったのがかなり有り難いです。

この中で一番対応に苦慮したのが「都祁村」でした・・・以前は「ネ編」しか出なかったのですが、対応後、今度は「示編」しか出ないようになりよりました!(はぁ・・・)都祁村は平成3年に例の変更をしましたが、もう一つの字体変更をした「倉淵村」→「倉渕村」と違い結局字体に翻弄された村と言う事になった様です・・・(でも地名の冠称「都祁~」や都祁行政センターの名前は変更されるのだろうか・・・個人的に多少気になる。)でも、自治体名でない地名の字体ってかなり柔軟に変更が可能な印象を受けますが・・・所定のプロセスを踏んでの官報告示と違い、市内の地名変更に留められるからでしょうか?

あと、
中には「パソコンで表示ならびに印刷できる文字で代用できるものはそれを用いる」とうたっちゃっているものすら存在します。

そう言えば、私も今までそうやっていた箇所が一つあります。沖縄県那覇市の小禄地区に存在した「ごし」宮城村がそれです。字面は上に「双」下に「牛」と書くのですが、代わりに「双→雙」と言う異字体から「雙」の又の部分を「牛」に代えた字を使っていました。今回の適用であっさり上に「双」下に「牛」の字使えるようになったので良かったですが、まだ広くは使えないようです。「騨」の旧字に関してもメモ帳(ワードパッド)では保存出来ずに使えないので「飛騨(←Unicode形式)市」と書いて使っています。

そう言えばグリグリさん、機種依存文字等を使うと下記の様な警告が出る様になっていてとても有り難かったです。どうも。
★メッセージに数値文字参照「該当文字」があります。数値文字参照は使用しないでください。
[57500] 2007年 3月 31日(土)23:59:53【1】矢作川太郎 さん
私見ではあるが一応レス。
[57443]むっくんさん
[57481]88さん

私も色々と私見ではありますが、例を挙げて関連しそうな事例を紹介したいと思います。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

この問題に関連していると思われる例に常滑市蒲池町(旧:知多郡西之口村の一地区-枝郷)を紹介します。江戸期には、蒲池地区は西之口村の一部と見なされ独立して扱われていませんでした。しかし、郡区町村編制法にかかる合併によって、M.11年に所属する西之口村は近隣の榎戸村と共に大村である「大野村」に繰り入れられました。ですが、一旦合併したものの、産業形態の相違その他と思われる事情によりM.16年に分離し、その際に西之口村とは別に蒲池村が分置されました。その後、明治の大合併によって西之口村に併わせられますが、大字名としてS.51年まで存続し、後には蒲池町が設定される事に至った訳です。ところで、新町起立の際に同時に北隣の「小林町」も起立されました。この小林と言う名前は蒲池地区のさらに内部にあった枝郷に由来します。包含関係を整理して書くと、

西之口村>蒲池村(地区)>小林地区

と言う風になります。私としては蒲池村を江戸期旧村(所謂、藩政村の事)とまではいかないが、「准旧村」位には扱っても良いのではないかと考えます。(まあ、名前が准教授、扱いが冥王星の様ですが・・・) 要するに江戸期から幕末期にかけては別個の村として扱われなかったが、明治期以降にはれっきとした大字として扱われた事実を鑑みるとある程度の重視が必要になると思います。

疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

これもかなり疑問1と領域が重なる点が多いと思います。例として岡崎市真伝町を挙げます。この町は江戸期には東隣の滝町にある「滝山寺」の寺領であった新田地域でした。(余談ですが、父が人から聞いた話に依ると江戸期には滝山寺はかなりの隆盛をしており賑わっていたそうです。)この新田地域がM.24年に真田(若しくは新田)と言う大字になって大字滝から分離したそうです。後にS.30年になると「真伝町」と改称される事になり現在に至っています。その証拠に手元の道路地図(引用の地図では解りづらい。)をみてみると滝町、真伝町相互の境界が「岡崎総合運動場~(岡崎)滝団地」に掛けて若干錯綜している様に見えます。

この事例では前項目と同じく江戸期旧村の一地域をもって成立した町名を取り上げました。同様に仮に○○村と○○(村)新田と言う組になった本郷-新田関係の2つの村(新田)を元にした町名(隣接・非隣接を問わず)が並立した状態に現状なっている場合がいくつかはある事も念頭に置いておいた方が良いでしょう。 ただ、地租改正等のごく初期の段階で本郷-新田関係の2つの村(新田)が合併してただの○○村と名乗っている場合もあるので個々人の必要に応じて如何様にも解釈は可能だと思います。

多種多様の○○新田という名の村?のどこが藩政村でありどこが藩政村とならないのかという線引きをするにあたり、何らかの基準を定める必要がありそうです。

私としては後世の町名起立に何らかの変更を与えたと思われる新田を中心に据えて考えています。(この点かなり曖昧な表現になってしまいます。)

疑問3:複数の村(町)が集まって一つの村(町)とされている藩政村をどのように扱うのか?

これには春日井市坂下町を挙げます。この坂上町は江戸期に名古屋から現:恵那市付近の中山道に至る下街道(善光寺街道)の宿場として機能していました。M.11年以前には東部を「和泉村」、西部を「一色村」と言っていましたが実態は坂下宿と総称されていた様です。角川地名辞典から引用・要約するに、詳細には「宿場南部が和泉村、中部東側が和泉村、中部西側が一色村、北部が一色村」とされています。引用した地図の中央に見える細道が多分旧道です。また、中央右側を流れる内津川に架かる2つの橋の名前が泉・一色橋となっているのも名残でしょう。思うにかなり境界が錯綜していたのでしょう。

疑問4:城下町をどのように扱うのか?

この点については2つ例を挙げたいと思います。それは犬山市(大字)犬山西尾市街地です。どちらも城下町ですが、まず、この2つの市街地の大きな違いは市街地が「大字」か「町の総体(集合体)」で構成されているか、と言う点です。無論、明治期の合併の際も施行の手法が犬山は「稲置村→犬山町」と言うものだけなのに対して、西尾は「(俗に言う)西尾20町+鶴城村(鶴城と言うのは西尾城の別名?)→西尾町」と言う様に異なっています。私はこの2つの市街地がナゼこの様に異なった対応をされたのか大変不思議に思っています。例えば町の数に依ってこの様な差が生じているのでしょうか?この点は後世の調査に期待したい所です。そして本題ですが、私は村的な区域の名前と町名を並立した形で並べるのは少し混乱を生じる恐れがあると思います。理由は、所謂町名は総括する地名の存在を前提としていると考えるからです。イメージとしては、

城下町の総称>個別の町名
江戸期旧村名>小字名

と言う風になるでしょうか?かなり抵抗のある考えでしょうが、明治初期の一時期、城下町の町名にわざわざ総称となる地名を冠称している点を見ると、当時はその様に捉えられていたように思えます。

あと、
もっとも、『滋賀県の地名(日本歴史地名大系25)(平凡社、1991)』では膳所城下町の様子が完全には解明されていないとのことで、侍屋敷町の名称がすべて分かっているのかさえが甚だ疑問ではありますが。。。

との事ですが、郡区町村編制法を適応する際に、(多分)全国的に城下町に於いてかなり町名の整理が行われた様です。多分、その様な町名は通称に依るモノが多いので公称とはかなりの差違があり尚かつ、呼び名が複数有るのが普通だった様なので行われたのでしょう。拘る必要は余り無いと思います。

私としては郡区町村編制法施行期前後の合併は境界錯綜や飛び地、一体化した複数の村の統合・合理化に目的の重きが置かれているように捉えています。ですから、土地所有者や徴税する立場にある人以外にはそれほど気にするべき事柄では無かったように思えます。だから、同時期に合併された村の境界を同定するのはかなり大変だと思います。自分の方針としては集落名や寺院・神社の位置・現地踏査など総合的に踏まえてだいたいで解れば良い方だと思います。(山間部に於いては集落の一体化が進んでおらずかなりの精度で特定が可能です。)

まあ、
このままいくと、「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針になってしまいそうです。
と言うのも一つの選択肢でしょうね・・・

【1】・・・疑問3以降を大幅に改訂。
[57194] 2007年 3月 7日(水)03:09:22矢作川太郎 さん
「湖南」地区の人口
[57193]敷守ほむらさん

「郡山市(湘南町を除く)」
と言うのは郡山市(湖南町を除く)の誤記ですね・・・(気象庁だって国の機関なんだからこれ位は・・・)

このページ
を参照すると、

湖南町の人口は

国勢調査人口(平成17年):4.372人
現住人口(基本台帳人口?・平成19.3.1):4.197人

そしてそれ以外の郡山市の人口は

国勢調査人口(平成17年):334.462人
現住人口(基本台帳人口?・平成19.3.1):334.822人
となっていました。

一応ご参考までに、
[57004] 2007年 2月 24日(土)15:20:42矢作川太郎 さん
神社分類
[56760]白桃さん
[56764]EMMさん

全国的に広く分布する神社の話題について一昨日(22日)の朝日新聞の文化面に詳しい特集記事が掲載されていました。この記事は國學院大學(←ナゼ旧字しか出ない?)の岡田荘司教授らの研究グループによる調査に依るもので、神社本庁のデータを元に神社名の単純集計ではなく「祭神ごとの包括的な信仰」に分類を試みたとの事です。

下記に、千社以上あるとされる信仰形態別のデータを一部抜粋しておきます。

1八幡7817
2伊勢4425
3天神3953
4稲荷2970
5熊野2693
6諏訪2616
7祇園2299
8白山1893
9日吉1724
10山神1571
11春日1072

図書館等で(まだ)参照可能だと思いますのでご覧になってみてはどうでしょうか。(全国版でなかったらスイマセン・・・)
[56914] 2007年 2月 19日(月)16:04:53【1】矢作川太郎 さん
豊川市・宝飯郡3町合併情報
でるでるさんへ

先日、御津町で住民投票議案が否決されたのに続き、小坂井町の住民意識調査の結果が判明したのでお知らせします。

賛 成 7,230票 71.87%
反 対 2,830票 28.13%

参考ページ

これで、豊川市・宝飯郡3町の枠組みが動き出しそうなので、反映よろしくお願いします!

【1】・・・リンクを追加
[56440] 2007年 1月 26日(金)22:58:44矢作川太郎 さん
加治駅はドコにある・・・?
[56433]ゆあさん
[56435]白桃さん

私もふと気になって調べてみました。

(2001年版 JR全線全駅:弘済出版社刊・・・鉄狂いだった時に買ったモノです・・・)を見てみますと対外的には「北蒲原郡加治川村下中」に“一応”なっていました。しかし、一筋縄ではいかない様です。

市制町村制時に「下中」の地は上館村の一部となりました。その後、明治34年11月1日に(旧:加治村、上館村、泉村、中川村)により新:加治村が設置されます。(説明の便宜上、旧・新を付加させて頂きます。)時代が下って、昭和30年7月20日に新:加治村と北隣の金塚村が合併して加治川村が成立しますが、直後の昭和31年3月1日に上館村の一部と旧:加治村の全域であった南部10大字と2大字(下中・館野小路)の一部が新発田市に編入されます。加治駅が開業したのが大正3年の事ですから、どうやらこの時から敷地が加治川村と新発田市に跨るようになった様です。(跨っていた事は某辞典により確認。)

しかし、両市・村の「下中」も
合併前
新発田市大字下中の全部
加治川村大字下中の全部

合併後
新発田市下中
となり平凡になってしまいました。しかし、新:加治村の中心駅として開業した「加治駅」がその後新発田市に跨る様になりつつも、ごく最近まで加治川村の中心駅として機能していたと言うのは不思議な感じがします。

オマケ:戦前に新発田を略して指す際に「芝田」と書いていたと言うことも知りました。多分、「新」と略すと新潟と紛らわしいからでしょうが、これ以外にも本来の表記と異なる略称を用いていた所は他にも有るのでしょうか?
[55986] 2007年 1月 7日(日)02:44:40矢作川太郎 さん
そう言えば・・・
[55972]スナフキんさん

もっとも、古い住所を書いたところで当面は不都合なく郵便物・宅配便は届くのでしょうが、どの時点から届かなくなるのかちょっと興味のあるところ…。

昨年末、親から頼まれて年賀状の宛名入力をしたのですが、市町村名が変わった所(従来の自治体名から他の名称になった所)でも「自治体名よりも後」の町名大字名が変更された所とそうでもないがあり、前者でも「町」付けだけをした所から旧自治体域全てへの冠称を行った所など様々な変更点がありました。中でも不規則な冠称や町名大字名の統廃合を調べるのに苦労しました。(私にとっては苦労とも思わない苦労ではあるが、煩わしく思っている人も中には・・・)まあ、このページに頼れば若干は楽になりますが。

そこで、私も気になったことが一つあります。郵便物を送るときには原則として、郵便番号と共に住所を書くわけですが、この住所は郵便番号が正確であれば自治体名を省くことが出来ると聞いたことが有ります。住所を全て明記するに越したことはありませんが、この際に町名大字名が変更された場合(特に合併に関わる場合)は、どの様に解釈したら良いのでしょうか?例えば、旧自治体名が冠称された場合、町名大字名の分量が増えることになります。但しそれは、つい最近まで自治体名だったモノです。ただ、時が経つと自然に冠称を付けるのが当たり前になったりして、コレがまた悩ましいのですが、多分郵便番号が変わらない限り届き続けるのでしょうね。(郵便番号が変わった時点で届かなくなるのか?)時期が時期だけにナンですが、一つ気になりましたモノで・・・

以下独り言・・・
ある作業中、遂に京丹後市と京田辺市を取り違えてしまった・・・いつか有ると思っていたが自分がするとは・・・(遠い目)
十番勝負の最中では無かったのが不幸中の幸いですね・・・
[55768] 2007年 1月 1日(月)06:58:15【1】矢作川太郎 さん
矢作の新年大花火・・・(3) 川俣町・本宮市諸々関連
これが一番長くなりそうですが・・・

[55717]千本桜さん

私も前年は大字・小字と言うモノの複雑さ多様さを知ると共に、それを維持・温存してゆく事の困難さを思い知らされた一年でした。

この事に関してかねがね思うことが有ります。それは、合併に関わる人物(住民を含む)を分類すると4つに分けられると言う事でしょうか。

ア.自治体名に拘り、町名・字名に関心の有る人
イ.自治体名に拘らず、町名・字名に関心の有る人
ウ.自治体名に拘り、町名・字名に関心の無い人
エ.自治体名に拘らず、町名・字名に関心の無い人

書き足し-(数字では恣意的なのでアイウエにしてみます・・・)

あまり良い分け方では無いと自分は思いますが、どうしても考えてしまいます。まあ、少なくともこんな心構えが一番良いと私の口からは言えませんが、少なくともエの様な人はあまり良いとは言えないでしょう。因みに私はアとイの中間くらいでしょうか。(昔はウの傾向が強く今にしてみるとゾッとします・・・)いずれにせよ、実際問題としてアとイの割合は、ウとエを合わせた数より圧倒的に少ないのが現実です。まあ、ココまでは単なるグチですが・・・

ではロムの間、実際何を調べて居たかと言うと合併から離脱した福島県伊達郡川俣町についてでした。(字名についてだけ・・・)実のところ合併離脱について色々調べている内に偶然見つけたページだったりします。ではこのページをご覧下さい。
消える可能性が高いページなので一応、内容を大雑把に転記しておきます。

平成18年12月1日より
「川俣町大字東福沢字柏崎」が「川俣町字柏崎」に変わります。
郵便番号は960-1405から960-1429へ

どうやら、「柏崎」地区は大字無し区域に接し市街化が進んでいるらしいです。私はまた大字に属する小字の大字無し地区への編入なのかと思いました。試しに現在の小字と角川地名辞典巻末の小字一覧と照合したところ、以下の点を除いてほぼ一致することが解りました。(ささいな用字の違いを除く。)

現:鶴子→旧:鶴田の変化したモノ?
現:東大清水→新設された?
現:百枚田→旧:百前田の変化したモノ?

コレを踏まえてみると、恐らく今まで川俣町の大字無し区域を構成していたのは明治9年に町小綱木村・町飯坂村を合併して成立した川俣村の範囲と同一であると思われます。しかし、何故この時期に(合併協議が絡んでいるのかも)、また、どの様な経緯で今回「柏崎」地区が大字無し区域に編入されるのかは良くは解りません。(見落としているだけかも・・・)あと、この事項がどれ程住民に周知されているかも疑問です。

次に、新市誕生に湧く「本宮市」についてです。

※例外として「本宮町大字糠沢字赤木」は、合併後、「本宮市高木字赤木」となるため

とあります。(因みに郵便番号は969-1102から969-1101へ そして旧:白沢村側の糠沢は969-1204です。)
どうやら、「糠沢字赤木」が重複するのでこの様な措置がとられた様です。そもそも、何故2つの「糠沢字赤木」が発生したのでしょうか。まず、その元となる和木沢村(和田・糠沢・高木村による)が明治22年に発足します。その後昭和30年に和木沢村の大字高木と糠沢の一部(小字は赤木しか無いので赤木の一部か?)が本宮町に編入されます。(残りは白岩村と合併し白沢村に。)その結果「本宮町大字糠沢字赤木」と「白沢村大字糠沢字赤木」が出来てしまった様です。(URLが近いうちに無効になってしまうかも。)そう言えば、既に地図画像の方では「本宮町大字糠沢」が拝めなくなっています。(町村界も消えてる・・・ヤフー(マピオン)対応早スギ!!)まあ、こうして本来、糠沢の小字だった「赤木」が見事に高木にも伝播しています。

一応事情としては、都市化の進行であったり、字の重複であったり、郵便番号の整理・詳細化であったりだと思われますが、歴史的な側面からみると一時的な事情で無闇に変えられてしまうのはやはり疑問符を付けざるを得ません。書き足りない事はまだ有りますが一旦切ります。オヤスミナサイ・・・

(注記)後で地名辞典を確認したところ大字高木にも元から「赤木」が有りました・・・しかし、現在に於いては、どのウェブ地図を見ても大字高木には赤木は有りませんでした。う~ん見てはいけないようなモノを見てしまった様な・・・ドツボです。

【1】-リンクと注記を追加
[55767] 2007年 1月 1日(月)04:10:39矢作川太郎 さん
矢作の新年大花火・・・(2) 四ツ郷屋関連
続いては、

[55693]ゆあさん
[55705]敷守ほむらさん

話題になっている「四ツ郷屋」、実は元ザヤ(鞘?)だったりします。(これが地理の不思議なトコロ・・・)

順に追って行くと、
M22(明治22年):丸山(現在の神山)・北山(現在の東山)・木戸(現在の木山)・谷内の4新田村と四ツ郷屋村によって木山村成立。
M34(明治34年):四ツ郷屋が越前浜村と角田浜村と合併し角田村成立、同時に残りの木山村は赤塚村へ合併(詳細は省略・・・)
S30(昭和30年):角田村が巻町と合併
S36(昭和36年):赤塚村が新潟市に編入
H17(平成17年):巻町が新潟市に編入

そして、
H19(平成19年):新潟市が政令指定都市となる(予定)

と言う過程を経て「西区」内に収まる訳です。いや~多くの条件が重なったと言っても不思議なモノですね~。
[55766] 2007年 1月 1日(月)03:03:03【1】矢作川太郎 さん
矢作の新年大花火・・・(1) 小倉関連
明けましておめでとうございます。

レスしようと思っていましたが、新年にまで持ち越すとは・・・(汗)

[55501]88さん

(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?
このあたりになると、「地理」より限りなく「歴史」に近くなってきますが、まだまだ私は不勉強なのでご教示いただければ幸いです。

小倉町の表記見た上で、結論から言わせて頂くと、私の中で「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の位置付けは参考資料の一つでしか有りません。

確か「幕末(中略)総覧」での小倉町を構成する市制町村制以前の町村は「小倉町・長浜村・平松浦」となっていたはずです。一方、角川(地名辞典)に於いては小倉25町(いちいち書くのは気が引けますが・・・ 町は省略させて頂きます。)一応は「京・博労・船頭・舟・新魚・魚・鳥・大坂・宝・船場・米・鍛冶(鍛治?)-昭和46年から現在の1・2丁目が付く・堺・紺屋・古船場・馬借・室・西魚・八百屋・大門・堅・西紺屋・西鍛冶・田・鋳物師」と砂原村のうち長浜浦、干上(日明)村のうち平松浦となっています。(詳細を言えば、この付近では明治20年に町村の統合が行われたので、長浜浦は砂津村の旧:砂原村域の一地域である長浜浦、平松浦は板櫃村の旧:干上(日明)村域の一地域である平松浦となっています。)この後、小倉町には、25町と2大字(長浜・平松)が編成されました。(この点では市町村名変遷辞典にも若干の相違があります。)

まあ、市制町村制以前の変更については告示には多分出ない(実際どうなのでしょうか?)事項なので、参考に出来る資料はごく限られて来るでしょうね。例えば、私は地元の県の市町村変遷を記録した書物を自らの仮説(諸資料が全て矛盾する事項に対する)を補強するために読んでいました。しかし、仮説には符合する部分がある中で明らかに間違った箇所も見受けられました。言うなれば、市制町村制以前の町村の変遷(地租改正や郡区町村編制法に関わるモノ)を追う作業と言うのは大変な事だと察します。(現に私はやろうとしていますが、その後の大字と現町名の関係が解らなければ余り意味が無いと思い、そればかり調べてます・・・)あと、市制町村制の前後に於いて直前の町村名から大字・町名への変換が図られますが、その際に村名の用字の変更や区域の変更が複雑にあり解りづらくさせています。(どちらかと言うとそれ以前は仮の段階(江戸期の自然村に準じた形)で、これを機会に用字や区域を確定させた“自治体を構成する「大字」”を形成したと言う側面も有りますが。)一応参照する資料が多い方が格段にイイと思うので、市町村史にあたってみるのも手だと思います。(でも、市制町村制以前であれば自分が正しいと思った説で行くしか無いように思います。こんなアバウトが許される時代があったのかと考えてみるのも一興でしょう。)

【1】-冒頭の挨拶を追記(築城?)
[55358] 2006年 11月 26日(日)18:29:21矢作川太郎 さん
お察しの通りで・・・
[55341]桜トンネルさん

でも愛知県の平和村(後に平和町)もやっぱり地名になじんでいたものではなかったんですね。(大体想像はついていましたが・・・。)まだマシな名称があったような気もしますが・・・。例えば「中島村」とか・・・。そのころにはもう「中島村」があったかもしれないけど。

その通りです。(まあ自治体名としては入れ替わり立ち替わりになるのでしょうけど・・・)
江戸期から見られる「中島村」は今で言うここ(一宮市萩原町中島)ですね。地名としては戦国期から見られる地名だそうです。そして、郡名の由来となった地名の「ひとつ」として考えられます。(一応、確定的な事は言えないので・・・)

自治体名としては明治22年に、中島郡中島村(中島村・西御堂村・東宮重村・木全村・石橋村の区域)が成立します。しかし、明治39年5月10日に萩原町(現:一宮市)・稲沢町(現:稲沢市)に分割合併されます。(旧:中島村・西御堂村・東宮重村→萩原町、旧:木全村・石橋村→稲沢町)

それとほとんど同じ頃(明治39年5月2日)に六輪村・左右川村・三宅村の一部(旧:三宅村・東城村の区域)をもって平和村(後の平和町)が成立します。(私が見た村名の由来のある一説は、合併の前年-明治38年に日露戦争が終結したために平和を願って付けられたと言うモノでした。)

私としては西中島村がいいかなとも思いましたけど・・・(どちらかと言うと南中島村だろうか。)しかし、それでは”中島郡”の西部なのか、”中島村”の西側に接するのか解らなくなる可能性の方が多いと思います。(第一、広域地名を使った名称が入れ替わり消滅・成立するのは紛らわしいですしね。)多分、本家?中島村を尊重した結果と言うのもあるでしょう。

以下独り言。
六輪村の名称も捨てがたいと思ったがそれは明治の合併直前の村数を数え上げただけなので、平和村の場合「十三輪村」になってしまう・・・(大字が増えたらまた変えるのか??)あと本家?中島村を今の住所から探すのに手間取った・・・第一、町名だけでは、一宮か稲沢かが解らない。(市自体、どちらが北に有るかは解るのだが・・・)一宮市内にあると解っても冠称(萩原町、大和町など)が付いているので一宮市に合併される直前の自治体名が解っていないと佐賀市づらい。←?
[55285] 2006年 11月 22日(水)01:20:22【1】矢作川太郎 さん
南薩三町合併協新市名応募顛末記
出るべきモノが出たと言う感じですが・・・

まずは、私サイドの書き込みを振り返りたいと思います。

[53592]拙稿

無論、南薩三町合併協にも(薩摩知覧市で)応募しようかと・・・これが日本の自治体名(何度も言うが地名では無く。)を適正化するのか、はたまた、全く違う結果を招くのか私にはとても・・・(困)
と本当に困った書き込みですね(笑)。一応、初めは応募する気がまあ有ったんですが、事前の調査無しに軽々しく応募するのもイカンだろうと思い色々調べて行くと、「知覧郡」と言う郡が昔存在した事が判明しました。(と言っても角川地名辞典でチョコチョコ調べただけですけど・・・)早速グーグルで検索してみると、さすが落書き帳このアーカイブが引っかかりました。

その中でも興味深かったのが、
[31459]作々さん

その昔「和名抄」のころはまだ「知覧」の呼び名はありませんでしたが、今の知覧の位置にあったのであろうと推測されている「川上郷」は河辺郡にありました。その後、川上郷は知覧院として河辺郡から独立します。
江戸時代に入り、島津家は中世以後の伝統に倣う形で薩摩国を14郡とし、知覧を独立した郡として編成していましたが、これに江戸幕府が待ったをかけます。つまり寛永4(1664)年、幕府に提出した郡名の記載について、「和名抄」にはそのような郡は出てこず、薩摩は13郡(*)だとして訂正を求められたらしいのです。結局これに従い知覧郡は廃止、隣の喜入郡と合併して「給黎郡(←こちらも古来の表記に改めています)知覧郷」となることになりました。
この体制は明治に入って明治29年の郡区画改正で川辺郡に移動するまで続くことになります。
(作々さん、長く引用してしまってすいません。でも、私の言わんとしていた事を的確に捉えた記事だったので敢えて引用させて頂きました。そして、ありがとうございます。)
まず書き込みの主題とはあまり関係ない事ですが、郡合併直前の給黎郡の変わった形(山を挟んだ喜入・知覧が同じ郡である)に関して溜飲が下がりました。次に一番重要な事が新市域における旧郡の範囲が3町バラバラであったと言う事です。まずアドビファイルである(この資料)を見てください。これによると、合併後従来の大字に旧町名を冠する事が取り決められています。皆さんは所謂大字を識別する為のありふれた冠称であるとお思いでしょうが(私も最初はそう思っていた)、もっと大きな意味が出てくる事が次第に解ってきました。下の表を見てください。

中世→近世→近代(明治以後)→現在
頴娃郡→頴娃郡→揖宿郡→現:頴娃町・指宿市南部(旧:開聞町など)
知覧院→給黎郡→川辺郡→現:知覧町
河辺郡→川辺郡→川辺郡→現:川辺町・枕崎市・南さつま市南部(旧:坊津町など)
(一方、中世において旧:加世田市・大浦町・笠沙町は加世田別符 旧:金峰町は阿多郡だったようです。)

と変遷した様です。これには私も驚きました。(調べてみると、鹿児島県下において中世郷荘の範囲が現代町村の範囲とほぼ一致するケースが他にもある様です。)これを鑑みると薩摩知覧市だとどうも都合が悪い様な気がして来ました。(協議会の募集要項を見て萎縮した事の方が影響したかも。)それに追い打ちを掛ける様に
[54173]熊虎さん

私はパスすることに決めています。
の書き込みも有りスルーしようかと考えあぐねていました。ですが”自治体名を適正化”すると言う抑えようの無い意地が湧き出てきて大局的に考えた名称が良いと言う結論に至りました。そこで、知覧一帯を領有していた佐多島津氏に敬意を表して「島津」の二文字を入れた名称で応募に踏み切りました。と言うのが一連の私の思考の過程(足掻きとも言う)です・・・。

そして、ひと月が過ぎた所で・・・
[55270]はやいち@大内裏さん
の書き込みを(大学内のパソコン室で)目にし、急いで告知内容を見ました。結果、
島津市:5
私の応募したモノ:2←コレじゃバレバレですね・・・

でも、
[55277]k-aceさん

2次候補は、薩南市、南九州市、南薩市、南薩中央市、平和市、さつなん市、島津市の7点。
に残れただけ良しとしましょう。(泣)
島津市って、このエリアは島津氏の出身地なんでしょうか?(そうでないとしたら…)
本当に苦しい所を衝かれた感がありますが、どうやら都城市らしいです・・・。(すいません、あとの祭りですよ(爆))

[55278]作々さん

私は南薩市・薩南市が本命で決まりだと思っていました。意外だったのは、有る筋で人気のありそうな「南鹿児島市」が選考段階でハネられた事でした。これは協議会の見識なのでしょうかねえ?

とにかく、協議会よ、潰れちまえ!と思ってしまうくらい、こんな市名はいやです。
まあ条件が色々タイトだった事も有るんでギリギリ及第点と私は思いますが・・・

【1】・・・ちぃーと(ちょっと)訂正
[55115] 2006年 11月 12日(日)18:22:11矢作川太郎 さん
甘下・甘舌・真舌・味舌・・・
[54962]拙稿で
これから三連休のウチに追々長文(爆)を書きたいと思いますので・・・

と書いておきながら先週はモデムの不調で書き込めませんでした・・・(泣)

では、気を取り直して

[55106]白桃さん
[55110]88さん
[55113]たもっちさん

実を言うと角川日本地名大辞典の大阪府分が手元に有りまして(名瀬有るかはゴニョゴニョ・・・)
少し調べてみました。その結果の改訂版です。(引用の引用は出来ないので[55110]88さん・[55113]たもっちさんから一部ずつ引用・・・)

1950年4月1日町制施行の資料
・ 「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)
・ 「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(2)」(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)
・ 「旧市町村名便覧」(1999年4月、日本加除出版株式会社出版部編、日本加除出版)
・ 市町村合併情報(入力したのは私88)

・「大阪府市町村の沿革」(1961年、大阪府地方課)

に加えて
・ 「角川日本地名大辞典・大阪府」(昭和58年10月、「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編、角川書店)
(地名編・地誌編は1950(昭和25)年の記述のみ、資料編の市町村沿革表では1950(昭和25)年4月1日と記述。)

どうでしょうか?
[54962] 2006年 11月 3日(金)19:42:42矢作川太郎 さん
復帰後最初のレス
皆様、お久しぶりです。彼此2か月間ご無沙汰でした。
一応、ロムの方はボチボチさせて戴きましたが、如何せん夏休みボケから大学に行く体制に持ってゆくまでは書き込むまいとしていたら、ズルズルここまで来てしまいました。追々レスしたい事柄が多くありますが、まずは、ご挨拶をば。

#決してメンバー紹介欄から消えないようにレスした訳では有りません。(笑)
これから三連休のウチに追々長文(爆)を書きたいと思いますので・・・
[53806] 2006年 9月 4日(月)07:35:38【1】矢作川太郎 さん
まとめレス(になってしまうだろうなあ・・・)
[53805]雪の字さん
お役に立てて光栄です。コチラこそ見聞を広める事が出来有り難いと思っています。

[53792]ahokusaさん
私からも私見を書いてみたいと思います。まず、
“政令指定都市の定義”
と言っても、それはズバリ法令で認められて現に指定されている所だとしか言えません。ただ、主観的に言えばそれらしい都市と言うのはある程度限られて来ると思います。私としては、政令指定都市、中核市、特例市と言うのは「機能」を有するに見合った人口を擁すると言う極めて機械的な枠組みで、それらしい都市と言うのは大都市と呼称するに足る「風格」を持っている所だと言うことで、全く相容れない概念が隣り合っている様に思えます。

それでは、比較のために明治時代に郡区町村編制法で郡から分離されると規定された諸都市と現代の政令市を見てゆきたいと思います。(分かりやすくするため現代分に東京を入れる。)

(順序:北から)

明治:札幌・函館・仙台・東京・横浜・新潟・金沢・名古屋・京都・大阪・堺・和歌山・神戸・岡山・広島・赤間関(下関)・福岡・長崎・熊本・(戦災に依り鹿児島は指定されず。)

現代:札幌・仙台・千葉・さいたま・(東京)・川崎・横浜・新潟・静岡・浜松・名古屋・京都・大阪・堺・神戸・広島・北九州・福岡

この2つを比べてみると、(中=中核市、特=特例市)
明治に指定され現代は指定されていない都市
「函館(中)、金沢(中)、和歌山(中)、岡山(中)、下関(中)、長崎(中)、熊本(中)、参考:鹿児島(中)」

現代に指定され明治には指定されていない都市
「千葉、さいたま、川崎、静岡、浜松、北九州」

となります。現代と明治時代では時代背景が全く異なり、単純に比較は出来ませんが、大凡の傾向としては、明治時代には西日本(特に中国・九州)に多く、現代では、東日本(東京の周辺部)に多い事が分かります。

明治に指定され現代は指定されていない都市を見て特筆するべき事は、全てが中核市に指定されており、また余り拠点性が無い様に思える「和歌山」が入っている事です。(和歌山-徳島・小松島航路の影響で四国の玄関口として指定されたか?)

次に、現代に指定され明治には指定されていない都市で特筆される事は、大同合併の末に指定された都市がある事です。(さいたま-3次産業を中心とした合併、北九州-2次産業を中心とした合併)

そして全体を通して言える事は、まず「四国」には指定された都市が無いこと(4つの県都がそれぞれ拮抗していたからか?)、次に現代に於いて新しい形の政令市が出現して来た事です。

まず、第一に通過交通が多くある都市にも指定が及んだ事です。
[53802]とむさん
回廊的役割ってかんじ。
の県に存在する都市が指定されるのも今までに無かった例の様に思えます。

次に、複合型の指定市が出てきた事です。
[53804]hiroroじゃけぇさん
新潟市は自ら「田園都市型政令市」を掲げていたので唯一の一次産業型です。
とありますが、昔は港湾施設を中心とした都市構造だった様なので、コレで新潟市に新たな側面が出てきたとも取れます。

最後になりましたが、思うところを、私としては中央の言う70万人と言う基準が一体どの地域を想定して制定されているか不思議に思います。日本の人口はこれからも偏在してゆくでしょうし、地方ごとによって大都市の人口も大幅に変わって来ると思います。特に四国に政令市が無いのがその証拠とも言えるかも知れません。思い切って45~40万人に基準を引き下げて、100万人以上の都市に新たな制度を作るのも良いかも知れません。

【1】・・・政令市の書き方を訂正
[53772] 2006年 9月 2日(土)10:45:33矢作川太郎 さん
取り急ぎ&割り込み(村章関連)
右左府さんへ

村章に関係して新情報が入りましたのでお知らせします。

[51731]拙稿で
*徳山ダムに沈むため廃村になった徳山村等、要は地名辞典刊行以後に消滅した旧村など、但し静岡県の浜名郡可美村は載っていた。(廃村になると分かっているから、慣行を制定するのも気が引けたのだろうか。)
と書きましたが訂正させて下さい。

このページの中程の画像内にある「かつての徳山村」の案内板に村章らしきモノが見受けられます。どうやら、昭和の大合併以降に存在した大抵の市町村には(角川の辞典に載っていなくても)市町村章が存在していたらしいです。(←私の全くの推測ですが。)

と言うわけで時間があったら確認してみて下さい。(私が言う事ではありませんが落書き帳の方も。)それでは、しっかり勉学の方に勤しんで下さいね。(これは悪魔の囁きとも取れるかも。(苦笑))
[53693] 2006年 8月 30日(水)04:08:39矢作川太郎 さん
既出カクゴ!!
[53667]ペーロケさん

一つだけ思いつきました。
8(でイイんでしょうか?)名称が所属する地方名称(関東など。)で構成されており、なおかつ前方一致である市が存在する。

該当市[東海市、四国中央市]

問題点としてはまず、地方名称をどこまで含むかですね。一応、ごく一般的な地方名称で検証はしたつもりです。(古いモノも含むと坂東市が該当・・・変形型でむつ市もか。あっ!奥州市もあったか。)少なくとも中部で検証すると全体が成り立たなくなるので[甲信越、北陸、東海]で検証しましたが、甲信越は旧国名由来ですよね。(もっと適当な名前が無いか?中部日本・中央高地・関東北西縁???どれも無理がありますねぇ・・・もう既に関東の一部になりかけているのでしょうか?あと、沖縄を地方名から外したと言うのも苦し紛れの言い訳です。)

次に、前方一致で縛ったのは北九州市が該当してしまうからです。(略した地方名称も含むとさらにややこしくなるでしょうね。←その様なモノも一応除外)

市で縛ったのは言うまでもなく(東北町、東海村←コレは所属する地方名では無いか。)を外すためです。一応御託を並べてみましたが、判断はお任せします・・・
[53592] 2006年 8月 24日(木)01:49:04矢作川太郎 さん
天城伊仙町の思ひ出・・・連称自治体名補足
[52681]みやこ♂さん
反応どうもです。

複数の核を有する「地域」や「区域」に何かひとつの名称を付与しなければならないとすると,もしかしたら「連称」は一番わかりやすい“賢い”解決法なのかもしれません。むろん,好みの問題は別として,ですが。

そういえば擦り込みなんでしょうが,わたくしどうも地名って「漢字二文字が基本だろう」って偏見を(明らかに)持ってますね~。
私としては和銅年間の二字化が現代の自治体名にまで影響を及ぼしているのかな?と思います。(これに関してはツッコミ歓迎です。)某辞書(落書き帳でも賛否のあるネット辞書)では戸籍を記載する際に地名の用字が不確定で文字数が不揃いだったので、表記の確定を期(713年5月とされる)に好字・二字化が行われたとあります。(これが、現代までの地名の表記に関する諸問題の発端の様に思う。)

さて、歴史的事実の補足はコレまでにして実際の用例を見てみます。(平成の大合併の事例に限る。)

連称
薩摩川内市・山陽小野田市・由利本荘市・いちき串木野市・横芝光町・東吾妻町・三方上中郡

合成
東御市・福津市・大紀町・宝達志水町・佐久穂町・大仙市・北栄町・長和町・市川三郷町・神河町・紀美野町・宮若市・愛荘町・和水町・小美玉市・八峰町・加賀郡

(漏れがあったらすいません。)
自分としては一文字で地名(自治体名)を代表させるためには、相当な知名度が無いとどこの事を言っているのやら分からなくなる可能性が否定出来ません。例えば、名古屋の事を一文字で表記すると「名」となります。コレを拡大使用して名古屋駅の事を「名駅」と言う事がもはや一般的になっています。(コレが(住所)地名にもなっている。)そして、同地異称(一体感を醸している一地域を細分化するための異なる呼び名、別々の地域が徐々に一体化した例も含む。)を自治体名化するためにひとまず合成しようと言う事で誕生した市名もあります。(稲沢市、蒲郡市、行橋市など)加えて、(自治体名は二字が大半!)と言う一般的なイメージに対応するために、連称より合成が好んで使われる様に感じます。

ひとまず、ここでけりを付けておきます。(何か思うところがまたあれば追って書きたいと思います。)

ところで、題名に徳之島地区合併協で決定した新町名をナゼ入れているかと言うと、私、この新町名募集に応募していたんです。(西徳之島町で応募。)まあ、合併協が休止した今となっては良い?思い出かなと・・・(あと木津川市の方にも「木津市」で応募。)無論、南薩三町合併協にも(薩摩知覧市で)応募しようかと・・・これが日本の自治体名(何度も言うが地名では無く。)を適正化するのか、はたまた、全く違う結果を招くのか私にはとても・・・(困)
[53591] 2006年 8月 24日(木)01:00:00矢作川太郎 さん
これって関西のジョーシキ?(んな訳ないか・・・)
[53584]k-aceさん
余談ですが、京阪は微妙にK府K町を通っていますね。

に少しだけ反応しようと思います。最初そんなわけ無いやろ!と思って手持ちの地図を確認してみました。するとその地図だけは15号線の陸橋が京阪本線に架かる手前の地点でく・・・K町の領域が途切れている様に描かれていました。確認のため他の地図サイトを見てみるとこんな感じになっていました。念のためマップファン・いつもガイドでも見てみると南側陸橋の地点から左側へK町の領域が延び、京阪の線路敷を横切り果ては(陸橋の)向こう側の15号線に付属する側道の際まで延びていました。これはワザと突き出ている所に線路を敷設した訳ではなく、偶然そんな所に掛かる様になっただけの事でしょうけど。偶然と言えば実を言うとここの陸橋の下にはロータリーがあってロータリーコレに採用されていたりします。あと、蛇足ですけど淀駅っていつからこんな構造になったのでしょうか?こっちの方では同じ様な構造になっていたモノに近鉄の八田駅があったのを思い出しました。(地図リンクの方ではそうはなっていませんけど。)これは確か工事で一時的に駅の方面分けが行われていたと思います。(近鉄八田と書いてある方が桑名方面で、西側に「八田町」と書いてある辺りに名古屋方面の駅があった様です。←実際には見て無く地図からの情報ですが。)

以上矢作の些末な小咄でした。(何でこんな記事を書いているかと言うと、いっちゃんさんのオフ会名古屋誘致が流レになったからです。(苦笑)実を言うと9/30に個人的に名古屋まで講演会を聞きに行こうと計画していまして、名古屋開催が決定していれば(どっちがついでか分かったものじゃありませんが。)ついでにオフ会に顔出し出来るなと思っていました。一転して、金沢開催が決定したので憂さ晴らしにこの記事を書いていると言う訳です。(どの道C2H5OHを実践するにはあと丸一年の時間が必要ですが・・・))
[53519] 2006年 8月 20日(日)12:36:55矢作川太郎 さん
まとめレス
皆様ご無沙汰です。(でした。)取り急ぎですが、早速。

[53098]千本桜さん
ご丁寧な訂正・補足どうもです。

では、色々と思うところをば。

まず、変わった形(山の狭窄部を挟んで村域が広がる)と言えば上岩出村なんかを私は知っていますが、どんな事情でこんな風になったんでしょうか?まあ、この事は今回のレスには余り関係無いので例示するに留めます。

次に、
それでいて、村域はfutsunoおじさんお得意の双耳峰青麻山の山頂で結ばれているから不思議。
不思議といえば、この青麻山はピークが二つあるわけですが、標高の高い「あけら山」より、標高の低い「青麻山」が山容全体を表わす名称になっていること。でも、地元に住んでいると、そう呼ばれるのも分かるような気がします。宮や大河原からですと、「あけら山」は「青麻山」の陰になって見えませんから。
で思い浮かべたのは私も一度(ほんの一度ですけど。)登った事がある「立山」でした。(3015m)の大汝山より(3003m)の雄山の方が一般的には有名ですよね。(ただ総称としては立山の方が有名ですが。)でも麓の五百石町が他の3村と合併した時の名称が「雄山町」となった事から地元民にとっては雄山の方がメジャーなのかも知れませんね。(ただその間も布倉村が改称した立山村が併存し、結局「立山町」が全体の名称になりましたが。)

あと、
ところで、一般的には「小字」より「大字」の知名度が高いのが普通ですが、「小字」ではなく「集落」として捉えると、己が帰属する「大字名」よりも著名な「集落名」がたまに見受けられます。宮城県を例に取れば下記のようなところでしょうか。
これも、大字というモノの広域性(拡がり・広ぼう?)が関係してくると思います。大字と言っても単独の集落で構成されているとも限りません。明治の大合併以前の合併も関係してくるでしょうし、その他にも一つの藩政村の中でも異なる気質の複数の集落が形成されている事もあるでしょうしね。(それが、後に知名度の違いに繋がっていくのかも知れませんね。)あと、宿場名が大字名と異なる例も千本桜さんは度々挙げられていますが、私の周りにも宿場名が自治体名と異なる例は数多くありますが、その様な例は余り知りませんでした。思うに複数の藩政村に跨った宿場の総称若しくは、大字の中心から外れた所に形成された宿場の名前だと私は考えます。(この様に多様な近世村落については纏めて書きたいと思いますがいつになるやら・・・)

さて、
[53106]花笠カセ鳥さん
にレスしなければと思いつつも徒然に過ごしていたら、
[53301]雪の字さん
のレスがありました。(本当にありがとうございます。)
なお、「あゆち」「あいち」には、古代から様々な字があてられており、六国史の中でさえ表記はバラバラです。
『万葉集』では「年魚市」「年魚道」ですけれど、『日本書紀』では「年魚市」の他「吾湯市」という表記も見られます。
[53094]で矢作川太郎さんがご提示くださった「愛智」は、『延喜式』『和名抄』に登場するもので、由緒正しい表記です。また、「阿由知」は、『尾張国熱田太神宮縁起』に見られるもので、これも古式ゆかしいものです。
この他にも「阿伊知」「鮎市」といった表記が存在したようです。
なお、「愛知」という表記は、古くは『続日本紀』にあり、『愛知郡誌』によれば、広く使われるようになったのは天保期からとのことです。
私は少なくとも「阿由知通」は愛知郡の局所的な由来では無いとは思っていましたが、「阿由知」の表記自体が由緒正しいモノだとは知りませんでした。(また、浅学を晒してしまった・・・[53094]←皆様御笑覧下さい・・・(苦笑))

[53176]U-4さん
横田基地の滑走路の北半分は瑞穂町内にありますが、基地の主要施設は福生市内、米兵の居住地区は西側の福生市から羽村市にかけてと東側の武蔵村山市の二箇所に分散しています。基地内日本人勤務者の居住地は定かではありませんが、基地の表玄関といえば福生市。瑞穂町は東京都心との距離は比較的近いもののアクセスの悪さからベッドタウン化している地域はごく限られており、お茶畑が広がるのどかな風景が続いています。都市圏というにはどうも・・・
確かに、例の資料には不整合な部分もまま有る様ですね。青梅街道が通っているから、日野自動車工場が羽村市に有るからと言うのも相当無理がありますしね。正確に地域の実態を反映しているかと言うと必ずしもそうでは無い事を留意する必要がありますね。
[53094] 2006年 8月 6日(日)04:03:37【1】矢作川太郎 さん
花火の音を聞きながらの投稿も乙なモノで・・・(汗)
[53082]ハンブルガーさん
ところで矢作川太郎さんが投稿した時間(20:13)は、岡崎市2大イベントの1つである”花火大会”(もう一つは、家康行列がある”桜祭り”)の真っ最中だったのではないでしょうか?
はい、言い訳は言いません!ワタクシは花火見てないんです・・・
ついでに言うと今年の家康行列も見てません。地元にいるのに嘆かわしいばかりです。5年位前には毎年行っていた記憶が有りますが、(花火に。)最近は殆ど御無沙汰で・・・人込みがイヤと言うか、食料の調達がままならないとか、見るポジションが悪いとか言って結局出不精なんですよね。(個人的な事情はコレにて打ち止め!)でも、自宅からでも大音響の片鱗が垣間見える?(垣間聞こえる?)程、音が大きかった事を今日改めて再確認出来ました。まあ、地元伝統産業の祭典ですからね~。

まあ、[51928]の拙稿にも
桜の開花時期や花火大会の時だけ中心街に凄い人数の人が押し寄せる。
と書いてますしね~。でも中心部に余り宿泊施設が無いので、鉄道の方は遅くまで花火ラッシュで大変そうです・・・

そうこうしている内にレスが!
[53090]雪の字さん
「阿由知県」へのご感想どうもです。あと、よく年魚市潟から県名が由来していると書いてあるので「年魚市県」も考えましたが突飛過ぎますよね。もっと一般的で「阿由知通」と用例もある表記を選んでみました。(考えてみれば「池鯉鮒市」位突飛ですね。(汗))ただ、「あいち」の「あい」に愛をあてた例は古くから見られます。(阿由「あゆ」)と言うのは最近になって考案された擬古調の表記かも知れませんし・・・因みに「ち」の表記は智→知と変わった様です。「愛智県」これも奥ゆかしい・・・

トヨタ、中部国際空港、徳川家康、犬山城、吉良上野介、伊良湖岬、八丁味噌、あわ雪、日本モンキーセンター…
愛知の名物、意外に多そうな気がいたします。
に関しても一言、確かに多彩で数多く有りますが、それが「愛知」と言うブランドで統一的にイメージ出来ないと言うのも知名度が低い原因でしょうか?(色々な所があると言う点では魅力的でありますが。)都道府県名若しくは旧国名でイメージ出来る物と言うのも興味深いテーマです。

【1】致命的(地名的では無い?)なミスを修正
[53062] 2006年 8月 5日(土)20:13:55矢作川太郎 さん
色々レス
[53038]ハンブルガーさん
で、これだけだと、1つも地理ネタがないので、自己紹介の一部として、私が数年在住した岡崎市に関する三河ネタを。
私の妻は、岡崎市出身であり、いつも「三河」を誇って語ります。しかしある日、妻が豊川市出身の友達に対して、「三河仲間」と喜んで話したら、その友達はあっさり「うちは、東三河だよ」と返されていました。私が思うに、ほとんどの岡崎市民は、「三河地方の岡崎市」と思っているようだが、他の三河地方の人達は、西三河と東三河を区別しており、岡崎は西三河という認識じゃないでしょうか。
また、矢作川より西側にある、刈谷市、安城市、知立市、豊田市の人達は、三河地方をあまり意識していなく、どちらかというとトヨタ城下町という認識の方が強いと思われます。妻においても、安城市は三河という認識があるが、豊田市、知立市は三河地方に入っていないと思っています。
(うっ!引用が長すぎたかっ!)
まあ、三河地方が一枚岩で無い事は自分でも自覚していますが。結論から言ってしまうと現在「(西)三河」を純粋に標榜しているのは岡崎・西尾位なのかなと思います。(東三河に穂の国を比定する事が有りますが、今回の話には余り関係ないので保留しておきます。)東三河とは違うと言う意識もこちら側には有ります。確かに地形的断絶(山地で隔てられている。)があるのでその様に感じられるのかも知れませんね。かたや、西三河西部は「豊田=名古屋??」の勢力下にあって「三河だ!」と言うよりは尾張の延長と言う位置付けに変わったのかなと思います。(その点安城は微妙な位置付けですし。(新幹線駅が有るがそれは豊田の最寄り駅の様な気もする。))

[53050]穴子家さん
しかし、残念ながらこの夏で廃止となるようですので、興味のある方はお急ぎください。
さいですか・・・名鉄の合理化もここまで・・・(ブツブツ以下自主規制)
とまあ、遠いところ御足路?頂き誠に・・・(こっちは長くなるのでカット・・・)
気を取り直して、
8月2日
京都から、近鉄で名古屋へ。さらに名鉄で岡崎へ。八丁味噌の蔵と岡崎城を訪問。その後、名鉄で名古屋に戻る。名古屋で宿泊。

(感想)二回通過したはずですが、尾張と三河の境がわかりませんでした。名古屋岡崎間の所要時間の短さに驚きました。八丁味噌の蔵周辺は昔ながらの風景が残っているのですね。
こういう事を聞くと地元民としてはショボイもんでしょうと言いたくなりますが、いちいち堪えてみますね。(謎)私としては八丁味噌蔵よりもその手前の愛環の高架にツッコまれるんじゃないかとヒヤヒヤでした。ハァ(実を言うとまじまじと見たことが無い・・・(汗))いつだって見られると言う意識は恐ろしいモノです。あと、境が分からない、時間も掛からないと言うのは名古屋経済圏の膨張の要因でもあるのかなと・・・(境川・自分も良く逢妻川と間違える事があります。高速の高架が見えたら尾張と言うのも有りなんですけどね。所要時間短・通学でほぼ毎日利用していますが、眠れる長さなので意外と長いんじゃないの?と思います。ただ、寝過ごす事が2・3回・・・終電だったら山越えした時点でアウトです。平坦に見えて結構急峻な坂ですので。(歩いては帰れない?)岡崎市~音羽町の峠?)

名古屋城(名古屋嬢!がいきなり変換で出てきて焦った。)・犬山城に関しては地元では無いので、事情に明るく無く詳しくは言えませんが、犬山城は本物志向でない私でも満足いく風格を備えていますよね。(ただ、個人所有でなくなったのはご存知でしょうが。)

読み返してみると殆ど徒然な内容ですいません・・・(苦笑)
[52983] 2006年 8月 4日(金)00:23:32【1】矢作川太郎 さん
愛・知~なんて因果な字なんだろ~♪
[52971]雪の字さん
暖かいお声有り難うございます。

でも、一方で「愛知=名古屋」でも仕方ないかなとも思っています。歴史的にみて愛知郡≒名古屋市に限りなく近づいています。しかし、その動きは現在では休止状態にあります。(現在、旧:愛知郡の範囲から現:名古屋市を取り除くと東部3市2町に分散している。東海市になった所もあるが。)でも、この状態が将来に渡って維持されるとは限らないのでいつまで続くやらと付け加えた次第です。

愛知こぼれ話・・・
そう言えば高校時代に、某大学の学内開放(←今は横文字が主流ですが。)に行った事がありました。その大学には入りませんでしたが、興味深いことがありました。それは、キャッチフレーズ(ひょっとしたら大学の名前の由来そのもの)が「知を愛する者が集う$$$$$$大学(←名前に愛知が入ります)」と言うモノだった事です。私は愛知の字面に引っ張られた「知を愛する者が集う愛知県」と言うとても良くできた冗談を追認した様で正直な事を言うと良くできてるけど良くできてないと思いました。加えてこれ程、字面が地名離れしている県名も珍しいと思いました。(あくまで字面がphilosophyなのか?)個人的には阿由知県の方が地名・地名しているかなと・・・あぁ滋賀県愛知(えち)郡が憎い!読みが違うだけで知を愛する云々言われなくて!(読みも違って元々の意味まで違う・・・ただ、当てられた字が同じだけ・・・(苦笑))

まあ、結局の所
「愛知(郡)であって名古屋(市)でない」果ては「愛知県であって名古屋市でない」
と言う地域が独自性を打ち出すには名古屋と言う名称を超えるための特段の努力が必要でしょうね。頑張ってもらいたい所ですが。

【1】色々修正
[52974] 2006年 8月 3日(木)22:40:46矢作川太郎 さん
三大都市圏ってTOKYO-OSAKA-あとは・・・
[52966]U-4さん
かれこれ愛知県民歴十ん年の矢作です。(「ん」と言うのは数字を伏せた「ん」です。一般的な言い方なのかな?)

たまたま行政区画は名古屋市には入っていないものの、名古屋城下とその周辺地域を総称して「名古屋」と認識しているんではないか、というような気もします。
確かに名古屋市では無く漠然と「名古屋」とすればその範囲は人によって如何様にも変わってきます。例えば私の場合、明治期に設置された名古屋区の範囲が「名古屋」だと感じます。(中区全域と東区の一部)ですが、東海地方の名古屋寄りでは、ごく一般的には幕政期の尾張藩の範囲である尾張一円だとされる事が多いと思います。また、東海地方から離れるに従って「愛知県一円と岐阜・桑名」・「東海三県と遠州地方」・「東海北陸7県(これは海外からでしょうか?)」までと幾らでも拡張は可能でしょう。(この認識には誤用と言う概念を差し挟む術は無い様に思います。)

あと、
さらにもう少し広域のイメージで使う地名は「尾張」ですね。これはキチンと線引きができる言い方です。それ以上の広域を示す言い方はあまりなくて、私の周辺では「愛知」という言い方は、「自治体」もしくは「県という行政区域」を明示するときぐらいしか使われていないんですね。「三河」とは違うという意識が強いのかもしれません。
についても、「尾張国」の独立性に着目して述べたいと思います。前述の尾張藩の範囲であると同時に現在に至っても市町村内に境界が埋もれる事無く維持されているのは特筆すべき事です。(←河川の流路変遷による海西郡・中島郡・羽栗郡の移管を除く)たとえば、因幡国や伊賀国などは地形的条件によって周りから遮断されています。しかしながら、特に三河国との境は「境川」と言う小川によって遮られているだけ(北部は地形的条件が関わる。)です。(最も、遠江国と駿河国の境であった大井川に比べて小さいと言う訳で・・・でも大井川ですら市町村内に埋もれていっている訳で・・・)まあ、一時期東郷町と三好町の合併話があったと言う様な事も聞きましたが、三河国が小藩林立状態だった過去を差し引いても、ここまで同県内に於いて境が明確かつ越えがたくは無いのは全国的に見ても希有な事例だと思います。(でも、知多半島が三河と一緒に扱われた時期も有りましたが。)

加えて、
府県名=県庁所在地市名であれば、大阪市ではなくても「大阪」、広島市でなくても「広島」というのが一般的でしょう(府県名と認識して使っているかどうかはわかりませんが)。しかし、江別市や北広島市の住民が「札幌」、綾瀬市や大和市の人が「横浜」というような使いかたをしているでしょうか。どうも「名古屋」というのは、「札幌」や「横浜」とは違うと思われてなりません。
と言うのもとても興味深いです。どうやら「愛知県」の影が薄いのにはとても複雑な事情が有りそうです。他の三大都市圏を例に挙げれば東京・大阪とも府県名=県庁所在地市名に厳密では無いにせよ大方当てはまります。それに周辺県の県庁所在都市を一つないし複数個都市圏に取り込んでいます。しかし、名古屋は隣県に影響を及ぼすも県庁所在都市を取り込むには至っていません。(県内で影響力がほぼ完結している。)もう一つの条件に府県名≠県庁所在地市名が挙げられます。U-4さんは札幌と横浜を例に挙げられていますのでそれに従いたいと思います。札幌の場合、道庁所在地と道名が不一致ですが、道名の知名度は絶大です。江別や北広島の人は札幌の名を出す以前に「北海道」を出せば内地?に来ていた場合は済ます事が出来ると思います。(道内の人に対しては札幌を出す。)横浜の場合ブランドイメージがまず先行します。札幌同様、県庁所在地と県名が不一致です。しかし、都市圏としては東京の名前に集約されてしまい東京都横浜市の様なイメージとなり「神奈川」の名前がぼやけたとも言えます。(千葉・以前の浦和も同様。)また、綾瀬や大和の人は東京と言ったあと横浜の近くと付け加えるだけで、神奈川を出す必然性が余り見えないのも有るかも知れません。(バックボーンとなる都名(首都名)を出すだけで良い。)一方、名古屋の場合はどちらにも当てはまりません。まず、県名は余り有名では有りません。加えて、何処かに付属している訳では無く他の都市名に付託する必要も有りません。そして、県内で影響力がほぼ完結となれば「愛知=名古屋」だと言う認識になっても仕方が有りません。

とまあ、ダラダラ書き綴ってみましたが最後までお読みいただき光栄です。

最後?
「瑞穂都市圏」なんていうのはどうも「西多摩郡瑞穂町」のことのようだし、「読谷都市圏」というものまであるし・・・
と言うのは、米兵の勤務実態まで反映されているのかな、と言うのが私の見解です。(基地近くに住み、基地などで演習。)あと、有り得ない事ですが、基地で働いている人の影響かなとも考えます。(ある程度の人数であれば周辺都市圏から独立して計算される・・・)どうなんでしょう?
[52955] 2006年 8月 3日(木)03:29:21【1】矢作川太郎 さん
豊田のTOYOTA?日立のHITACHI?そして豊田市の情け・・・
[52948]BEANさん
興味深い話題ですよね。確かに
豊田が名古屋と呼ばれるとすれば、
と言う話は地元にいても良く聞く事ができます。

では、ナゼこの様に言われるのかを推察してみます。私としては「会社名と本社所在自治体名←(ココが肝心!)の一致」では無いかと思います。そう言えば会社名が自治体名に転用された例として良く引き合いに出される自治体に「日立市」があります。実際は全くの逆で自治体名または鉱山名(厳密には地名では無い)から企業名に転じたモノです。(日立村=明治の大合併時に多賀郡-宮田村・滑川村の合併により成立。因みに日立の本社は東京都内らしい。)そう言えば、地元の新聞に日立市が豊田市とは由来が違うことがそれなりに書かれていて少し感心した事が有ります。まあ、それは置いておいて、本題に入ろうと思います。

ズバリ「豊田(市)のトヨタ」と聞いて耳に残るかと言うと私は疑問に思います。ですから、近くの大都市の名前を”代表して”「名古屋(経済圏?)のトヨタ」と呼ばれて居るのだと確信します。まあ、豊田市が挙母と言う地名から解放されると同時に「豊田」と言う自治体名から著しく地名特定性が損なわれた結果所在地として「名古屋」を代表とせざる負えなくなったのだと推測します。

あと、補足として「豊田市に残る挙母(衣)」をご紹介したいと思います。例えば市章などはその代表でしょう。改称前の昭和26年11月に制定されたもので、余り知られてはいません。(個人的にはどうせ変わるんだったらトヨタマークに変更してしまえ、なんて思ったりしましたが、特定の企業のマークは制定しにくい(出来ない)ですからね。)あと市内中心部には「挙母町」が存在します。挙母神社を中心とした一帯なので残ったのかも知れません。(因みにTOYOTA本社所在地は言わずと知れた「トヨタ町」です。)

加えて、
名古屋から遠く離れた地域の人たちに名古屋周辺の詳しい地理的知識を求めるのは酷でしょう。
も良く頷けます。例えばこんな資料があったりします。(中程の都市圏を構成する市町村一覧と言うアドビファイル)私は一時期コレを見て色々データをいじって楽しんでいました。(ある意味恐ろしい資料ですけどね。)コレに依ると名古屋都市圏は南知多町を除く尾張地域と岐阜県東濃の一部と三重県北部の一部となっています。まあ、都市圏として独立していないと単独の都市という認識と一定の知名度は得られにくいでしょうね。だから、
大府とか春日井とか稲沢とか言っても通じないので、あえて「名古屋から来た」と言うこともあるはずです。詳しく説明しようとしても「名古屋の近くの西春」のように、やはり名古屋が出て来ることになると思います。
と言う事態が発生するのでしょうね。

(因みに前の愛知万博が「トヨタ万博」だの「名古屋万博」と揶揄なのかどうか分からない呼び方をされた事もありましたっけ。←私は別に仕方がないと思っていますが。あと、私は県外に出れば「岡崎」または「愛知県」から来たとしか言いません。「間違っても名古屋なんておこがましい・・・」と家族共々思っていますから。実を言うと私は愛知郡にとても所縁のある人物ですが、これは名古屋出身と思われてしまうのでしょうか?私としては愛知郡出身の矜持?を大切にしたいと思っています。←あと何年続くやら・・・愛知郡2町がそれぞれ単独市制したとしてもか・・・)

【1】どうでも良いデータを追加
[52943] 2006年 8月 3日(木)00:14:13【1】矢作川太郎 さん
前言を撤回すべきか?せざるべきか?ココが思案の深渡し・・・
[52899]拙稿の発言を撤回しようかどうか迷っています・・・

[52930]huzisanさん
まあ、辞書の項目に無いと言うのは甚だ明快でありますが・・・
これはひどい、広辞苑ともあろうものが、こんなだらしないことでいいのだろうかと思いました。
辞書の立項のされ方一つをとって「だらしない」の一言で全てを片付けられては立つ瀬が有りません。それは編集当時の編者の意向によって幾らでも変わって来るモノです。

まあ、大和盆地は少なくとも誤用では無いと思う一人の人物がココに居る事が分かって頂ければ幸いです。

【1】最後の文を少し修正
[52899] 2006年 8月 1日(火)18:23:46【1】矢作川太郎 さん
乱れか?変化か?
[52894]huzisanさん

分かりました。これからはあなたのお考えである「大和盆地は誤用」と言うものを前提にした上でお話ししたいと思います。(私としてはこれを全面的に認めた訳ではありません。しかし、そちらには「大和盆地は誤用」とする確固たる証拠がお有りなのでしょうね。これが、どの様な物なのか推量する術は有りませんが、信用の置ける物としてあなたが論拠としているので、その辺りに関しては私も尊重してゆきたいと思います。)私としては大和国の範囲と奈良県の範囲が完全に一致しているので話がややこしくなったのだと考えます。話をこちらの地元である愛知県に移してみましょう。

そう言えばあなたは、
共時的には言葉(地名も当然言葉)は一つ
と仰っていましたね。私はそれを一つの原則でしかないと考えます。例えば、私の住んでいる所の住所を「三河国岡崎市~」と書き始めればそれは正式・公式ではありませんよね。ですから、「愛知県岡崎市~」と書き始める訳です。それは、三河国と岡崎市が同時に存在していない事を根拠とする訳です。ですが、あくまで住所表記などの正式・公式である必要がある場合に限られます。例えば、「岡崎平野」と言う平野があります。では、岡崎平野の範囲を正式に書き表してみろと言われれば、根拠となる資料は何処にも存在しません。つまり、住所と地形名の間には大きな違いが横たわっています。

加えて、愛知県東部を三河と呼ぶのは地元ではごく一般的な事となっています。三河国と言う律令制の統治区域が無実となった現在なぜ「三河」と言う呼称を用いる必要があるのでしょうか。答えは私にはよく分かりません。ただ、他に言い換えようが無いのも事実です。

並びに誤記が正式・公式な表記(言うなれば言葉の書き表し方)に転じた例を挙げておきます。(それに従って音も変わっていますが。)愛知県内に宝飯(ほい)郡と言う郡が有ります。しかし、元々は宝飫(ほお)郡でした。そして、二字化の前は「穂」だったと言う説もあります。音に着目すれば「ほ→ほお→ほい」と移り変わった訳です。ここで皆さんに質問したいのは「宝飯」は誤用であって「宝飫」または「穂」にすぐに戻せと言えるかと言うことです。仮に宝飯が全くの誤りであっても「宝飯」はすっかり定着しています。皆さんどの様にお考えでしょうか?

私は言葉の乱れと変化に関してある線引きをしています。それは、後世に残るか否かです。従来の言葉の枠組みから外れた言葉であっても後世に残ればそれは変化と言えるでしょう。反対に後世に残らなければそれは乱れとする事も可能でしょう。ただそれは、後々にならなければ分からないのが間怠っこしい所だと思いますが。(もしかしたら、この原則が破られる様な事が起こっているのかも知れませんが。)

【1】表現を少し修正


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