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三丁目さんの記事が30件見つかりました

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[14715]2003年5月5日
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[15652] 2003年 5月 21日(水)18:35:50【2】三丁目 さん
富良野(太白さんからの戴きもの編)
[14604]太白さん
むしろ、富良野が観光開発に成功したのは何故かが若干気になります。ソフト面で成功したのか、あるいは「北の国から」効果か…(例えば、大河ドラマの舞台となった街は観光客が増えると聞きますので)

この件に係るお答については、我が地理アドバイザー(旭川出身だから、自分の庭のようなものと豪語してますが)からの情報をメインに進めます。それで、結論からすると、なんといっても、「北の国から」効果が大きいと思われます。

大河ドラマならば1年限りで、観光ブームもすぐに冷めてしまいますが、「北の国から」は、20年にわたって何年かおきに続編が放送されるという、一地方を舞台とするTVドラマとしては異例に長いシリーズであったため、富良野は長い間、観光客に忘れられることなく、ネームバリューを保ち続けることができたのでしょうね。倉本聡サマサマです。

上富良野町のラベンダー、中富良野町の富田ファーム、富良野市の麓郷の森(北の国からのロケ地)と、1日コースで回れる一連の観光の目玉が、特に若い女性にウケたことと、フラノスキー場周辺に、ホテル、ペンション街が発展し、宿泊客の収容力となって、多くの観光客が訪れることとなりました。

また、北海道の真ん中という地理的条件も、発展の一因と思われます(富良野市自称、北海道のヘソ)。古くからの観光地である、登別温泉・洞爺湖地域と、阿寒湖・摩周湖地域からは距離が遠いため、同様な立地であるトマム(占冠村)、サホロ(新得町)などとともに、その中間宿泊地点にあたります。これら二つが山岳リゾートなのに対して、富良野は、広大な田園風景が特徴的だったために、異なった風景を持つ魅力が、アピールしたものと考えられます。

北の国からシリーズが始まった頃は、ちょうど石勝線が開通した時期(拙稿[15543]をご参照下さい。)と重なり、それまで道東行きの特急列車が停車していた富良野は、スキー客も観光客もトマム等に奪われ、今後さびれてしまうのではないか、と悲観されていましたが、良いタイミングで「北の国から」が始まったものですね。

かつては、スキー場の名は「北の峰スキー場」でした。それがフラノと改称され、本州からもスキー客が押し寄せる、一大スキーリゾートに発展しました。また、ワールドカップが開催されたことも、ゲレンデのイメージアップにつながっていると思います。スキー場の知名度としては、トマム、サホロも躍進したのですが、いかんせん夏の観光目玉に乏しかったために、通年観光客を引き付けることができた、富良野の方が、成功しているのではないでしょうか。

そうはいっても、観光イメージを保ちつづけることは難しいですから、「北の国から」が終わってしまった今は、富良野はこれからどうしようかと、模索しているところのようです。と、地理アドバイザーは申しておりますが、私は、一度よい観光イメージが植えつけられれば、大きなマイナス要因でも発生しない限り、そこそこやっていけるのではないか、と考えております。皆さんは、どう思われますか?やっぱりいずれは、斜陽都市の仲間入り、ですか?

なお、北海道のヘソの話の蛇足として、富良野市では「北海へそ祭り」が、毎年7月に開かれています。HPを読むと、市制施行時に制定された富良野市民憲章に由来するそうで、そういえば、私の先輩社員が富良野在勤時に、この祭りに参加させられた、と言ってたことを思い出しました。
[15601] 2003年 5月 20日(火)19:53:10【2】三丁目 さん
北九州市よりも金沢市の方が?
先日、北陸経済特集をしていた新聞記事の中で、「日銀金沢支店長に聞く」というコーナーがあり、その中で現支店長の経歴が簡単に紹介されていました。本店課長~北九州支店長~本店参事役~金沢支店長、でした。記事では、もうちょっと詳しい経歴が紹介されていましたが、これを見る限りでは、ご栄転されているようでして、えっ?北九州市より金沢市の方が日銀にとって格が上なの?と一瞬思いましたが、

[14440]TKS-Hさん
小樽支店の廃止は北九州支店の廃止と抱き合わせで表明されたのですが、小樽支店のほうが廃止まで進んだのに対し、北九州支店のほうは事実上沙汰やみの状況になった、この違いがどこにあるのかはちょっとわかりません。
を覚えていましたから、納得しました。一般事業会社の人事異動でのご栄転ルートは、たしかに、その都市の経済規模に見合った事業所があることが多いとは思いますが、その会社にとって、その都市がどれだけ大事か(あるいは管轄地域)ということも反映していることを考慮すると、日銀の支店長の人事異動=「支店の格」は、(経済規模的に)比較的ニュートラルな判断で行われているのではないか、と私は思っています。

そういう点で、日銀支店長の人事異動ウォッチャーも、面白いのではないかと思ったのですが、私自身が日銀に勤めているわけではありませんから(苦笑)、全体を見るのは困難なのです。また、何かの機会で目にとまり、面白そうだったら、ご紹介したいと思いました。
ちなみに、経歴を見ると2年に1度異動されているようですから、ちょうど、今年でまる2年の任期を迎えるため、金沢支店長の次はどちらへ異動されるのかなぁと、勝手に興味を持ってしまいました。
[15543] 2003年 5月 20日(火)00:21:24【1】三丁目 さん
道央(札幌)から道東(帯広、釧路)へのルートの変遷
現在は、国道274号線(石勝樹海ロード)で、札幌から一気に道東方面へ行けますが、始めは違いました。まさに、北海道開拓の歴史(比較的最近のこと)、と呼ぶにふさわしい、ルートの変更がありましたから、ご紹介したいと思います。

道東方面へとつながる道路の最初の整備は、狩勝峠越えで、滝川~富良野~帯広へと、1897年(明治30年)に開通しました。ただし、この道路は、現在の狩勝峠越えよりも6km南の別ルートで、馬車の通行もままならない狭路だったため、現在の狩勝峠に道路開削されたのは、1931年(昭和6年)です。

このルートが、最も低い標高で山を越えられるためで、国道38号線として、最初の道東への幹線道路でした。この道路は、札幌から国道12号線で北上し、滝川を起点としてここで東へ曲がり、芦別、富良野、南富良野(幾寅、落合)から狩勝峠を越えて、新得、清水、芽室を通って帯広、釧路へと続きます。

札幌から帯広への最短コースは、夕張市、清水町、と抜けていく山間部ルートですが、その一部として、日高町から清水町までの日勝峠ルート(国道274号線)ができます。これは1965年(昭和40年)のことです。このルートは、札幌~(国道36号線)~苫小牧~(国道235号線)~富川~(国道237号線)~日高町~(国道274号線)~帯広、と大きく南を回るため、札幌~帯広間は、札幌~滝川~帯広(国道12、38号線)ルートに比べると、43kmの短縮にしかなりませんでした。

次に、夕張市から穂別町までの山間ルートが、道道から国道274号線へと1970年(昭和45年)に移行し、苫小牧を回らずにすむようになったことから、札幌からの経路は国道274号線の札幌市・厚別~長沼~由仁~夕張(川端、紅葉山、楓)のコースに変わりました。この時は、夕張から山越えした後、一度穂別町稲里で現道道74号で南下し、穂別町の中心を通り、現道道131号で穂別町富内を通って、平取町幌毛志、振内に出ます。ここから国道237号線で、日高町まで行くというルートです。

1985年(昭和60年)、国道274号線は、穂別町福山まで開通しました。このときは、国道274号線で福山まで行き、そこから現道道610号で南下して穂別町富内まできて、それから現道道131号で幌毛志に出て国道237号線を北上と、このあたりは先述のルートと同様です。たぶん、私が通ったのがこのルートだと思うのですが、片道1回しか通っていないので、記憶に自信がないのです。また、道道の状況から考えると、冬場はたぶん、穂別町福山まで東進はせず、穂別町稲里で南下したと思います。

そして、1991年(平成3年)に、夕張から日高町までの通称石勝樹海ロード(国道274号線)が全線開通し、札幌~夕張~日高町~日勝峠~清水町~(国道38号線)~帯広の最短コースが、道東への主要幹線になりました。最後に完成した、穂別町福山~日高町の区間は最も難所で、長いトンネルと谷間橋が連なる、近代土木技術ならではのルートです。

その後、道央自動車道の恵庭、千歳間のジャンクションから夕張まで高速道路ができ、清水町から池田町までの道東自動車道もできましたが、石原行革担当大臣をして、熊しか通らないと言わしめた、「閑」線道路となっております。

ちなみに、道央から帯広・釧路方面への鉄道ルートは、1907年(明治40年)に、札幌~旭川~富良野~落合~帯広経由として開通しました。それが、1913年(大正2年)に滝川~富良野間が開通したことにより、長らくそのルート(現根室本線)による輸送が続きました。それから遅れること約70年、1981年(昭和56年)に石勝線が開通したことで、ようやく現在の鉄道体系ができあがったのでした。以後、札幌と帯広・釧路とを結ぶ特急列車は、滝川・富良野経由から、すべて石勝線経由に変更されて、所用時間が1時間余り短縮されました。

かつて、陸の孤島と呼ばれた占冠村は、石勝線開通以前は、根室本線・金山駅から、または旧富内線・日高町駅から峠を越えていくか、しか交通がありませんでした。しかし、同線開通後は、石勝高原駅(現トマム駅)、占冠駅が特急停車駅となり、日高町は富内線の廃線で、立場が逆転してしまいました。

日高町も、その後の石勝樹海ロード開通のおかげで、陸の孤島にはならなかったものの、鉄道を利用して札幌へ行くためには、バスで占冠に行ってJRに乗り継ぐのが最短コース、という状況なのと、バスで札幌へ行く場合の直通の本数が多くないことから、立場の低下は否めません。ただ、札幌から帯広へ向かう観光バスは、「夕張市紅葉山から清水までの長い山岳区間のうち、町らしい町は、ほぼ中間の日高町だけであるため、道の駅・日高は、行楽シーズンには、トイレや売店レジに行列ができる大盛況です。」とのコメントも、我が地理アドバイザーからもらっています。

どちらかというと、占冠村は躍進、日高町はそこそこ、穂別町は無念(主要幹線から町の中心がはずれた)、なのではないでしょうか。

[14259]uttさん、
○占冠の無念・・・石勝線は通っているものの、なぜ石勝樹海ロードのコースから外れたのだろうか?峠の高さから見て、占冠~トマム経由のルートの方が経済的で維持(除雪)も容易と思われるのだが。
ということで、国道274号線のルートの経緯、そして鉄道の石勝線開通とあわせると、前述のように、私には思えたのですが、いかがでしょうか?

[15510]seahawkさん
道東自動車道
工事の難所でも札幌とつなげなければ意味がないと思います。もし道央道とつながれば、道東は農業、漁業がさかんなのである程度のメリットは期待できるのではないかと思います。
このお話しがありましたので、この原稿を繰り上げ書き込みしましたが、「熊の道」がそれほど改善されるとは、私には思えないのですけれど、ね。まっすぐな道でトンネルが山を貫くルートばかりだと、冬場の利用は少しはマシかもしれませんけど。でも、それだと建設費がかなり高くつきますよね。
[15459] 2003年 5月 18日(日)16:21:52【2】三丁目 さん
アーカイブテーマの推奨エラー、は、解消できました。
[15452]オーナーグリグリさん
>以前、一度作業したからでしょうが、暗証コードの入力は求められません。
この件、よく分かりません。「暗証コードが違っています」のエラーが出た場合には、次回も「暗証コードの入力」を求める設計になっています。技術的に言えば、エラーの場合にはクッキー保存は行いません。
舌足らずな表現で、申し訳ありませんでした。この件については、両毛人さんが、[15380]で教えて下さった
Cookieを削除してみてください。ツール→インターネットオプションと選択し、真ん中の「インターネット一時ファイル」の部分の「Cookieの削除」で、Cookieを削除します。
で、対処できました。私が以前、まとめてアーカイブ推奨したときは、1件登録が終わるたびに、戻るボタンで戻したところ、最初の2、3件はうまく入ったのですが、それ以外はうまく推奨が入っていなかったのです。それで、昨日改めて、推奨作業を行ったところ、前述の暗証コードエラーメッセージが表示されたのです。両毛人さん、お礼が遅くなりましたが、どうもありがとうございました。
ちなみに、今朝は、1件推奨が終わるごとに、落書き帳トップページを改めてよんで、そこからアーカイブを推奨するようにしました。ただ、どこに私の暗証コードが保存されたのかわからないのですが、それでも暗証エラーが出ましたから、毎回「Cookieの削除」を行い、暗証コード画面を呼び出して、推奨しました。今回は、気になりましたから、念のため、全部の推奨を終えてから、いったん電話を切って、もう一度つなぎ直してから確認したら、全部推奨が入っていました。
たぶん、今後も新規テーマで私が推奨する際は、毎回「Cookieの削除」を行ってから、という手順になるのかな、とは思っていますが、私自身は、その作業はたいした手間とは思っておりませんけれど。

なお、フォントサイズについては、現在の表示に私は慣れましたから、このままが良いと私は思っています。たしかに、マルなのかテンテンなのか判別し難いという点はありますが、文脈の流れで、わかりますし、自分が手持におきたいお話については、ワードにコピーするなどで、個人的に保存していますしね。

あ。それと付け加えるようにお願いして申し訳ありませんが、拙稿[15186]にある「トカチプ」を「トカプチ」に直して頂けませんでしょうか。その後の文章の流れが若干、崩れてしまいますが、[15272]を、アーカイブで一緒にして頂けなければ、誤ったままになってしまい、それでは角川書店に申し訳ないものですから。
[15377] 2003年 5月 17日(土)06:07:45【1】三丁目 さん
アーカイブテーマの推奨エラー
このアーカイブを推奨する>初めてのときは暗証コードの入力>推奨しますをクリック
とすると、以前、一度作業したからでしょうが、暗証コードの入力は求められません。それで、推奨しますをクリックすると、暗証コードが違っています、とエラーになってしまうのです。もう一度、暗証コード入力作業をする必要があると思いますが、WindowsXPが?IEが?PCが?覚えてしまっているようなので、どうすれば入力画面を呼ぶことができるのでしょうか?
お恥ずかしい質問で恐縮なのですが、ワタクシ、パソコンは作業のツールとして、必要最低限のことしか知らないのです。基本的には自助努力するのですが、知らないことのほうが多いものですから(汗)。
[15351] 2003年 5月 16日(金)19:10:46【2】三丁目 さん
記事検索機能アップでオーナーグリグリさんに感謝っ!、とレス、とリンクの仕方について
[15292]オーナーグリグリさんへ
実はかねてから、記事検索については、期間よりは、記事番号で区切った方が良いのではないか、と思っていました。でも、そのことは、なんか余計な作業をお願いするようで、控えていたのです。それと、最近は、検索をすることなく、辞典丸写しネタで、コツコツとやってましたし。
久しぶりに記事検索画面を開いて、私のイメージしていたとおりになっていたので、うれしくなりました。これで、釧路区の検索をサボッたりはできなくなりましたね(笑)。本当に、どうもありがとうございました。

[15260]太白さん
(北海道の支庁名の由来が)アーカイブスに収録されたようですので、お勧めに指定させていただきました。
過分なお言葉、ありがとうございます。せっかく頂いた塩ですから、大切にしていますよ、フフッ(笑)。でも、こんなにダラダラと、他のことまで書くとは、予想されていなかったのではないでしょうか?私が手をつけるからには、19支庁まで遡って、ゼ~ンブ調べちゃいますよ\(^O^)/
なお、他のテーマについても、我が地理アドバイザーからは、コメントをもらったところなのですが、空港や苫東とは異なり、私のテイストを少々加えているところですので、今しばらくお待ち下さいませ。
ただ、今回の語源調査で、室蘭の由来モロランは、室蘭民報かどこかで読んだ記憶はあったのですが、あそこまで具体的な記述があることをもっと早く知っていれば、崎守付近をもう少し注意深く見ておけば良かったのに、とちょっと後悔しました。
また、「箱」館も、諸説があることを初めて知りました。館が箱に見えるから、と、どこかで目にしたそのままと、思っていましたから。

[14259]uttさんへ、も、太白さんと同様なのです。ただし、大樹町については、いろいろと調べているのですが、どうしても、雪印という一企業の話がメインになってしまうから、どのようにまとめたら三丁目風味にできるか、悩んでいるところなのです。大樹町HPからは、私が期待するような情報が得られなくて、雪印の話に深入りしないようにすると、辞典情報の切り貼りになってしまうから、話が膨らまないのですよねぇ。ちょっと難しそう、というか、テキトーにしてしまうかもしれません。その節は、ご容赦くださいね。

[15280]YSKさん
問題提起→提起への回答→問題の解答編 という流れを重視しました。
了解しました。いろいろ工夫されているのですね。ご努力には、頭の下がる思いです。
ちなみに、今朝、推奨作業を行ったのですが、職場で確認したら、また入らなかったので、もう一度しますね。手順は、以前行ったとおりしていますから、間違っていないはずなのですが。
それと、これは迷っているところです。北海道の14支庁管轄字図(作成済)と、1897年当初の19支庁管轄字図(作成中)なのですが、書き込むかどうか、です。支庁境に必ずしも大きな意味があるような気はしませんが、なかなか、19支庁で分かれた図が、ネットでは見つからなかったものですから。見比べるのも面白いかな、と思ったものですから(現在に至るまでには、郡の一部が動いたりしているので)。旧国名別はリンクフリーサイトを見つけましたから、そのURLをご紹介しようかと考えていましたけれど。
それで、これに関連して下記の質問につながりますが、

[13277]ゆうさん
まず、相手先サイトでリンクに対する考え方が書いてあれば、それに従うように努めるのがいいと思います。
私がURLを紹介する場合は、公共団体以外の、法人又は個人が作られているHPの場合、トップページを探してリンクフリーに類する言葉があればご紹介しますが、そのような言葉が見つからなかった場合は、控えているのです。この姿勢でのぞんだ方が、安全ですよね?
[15347] 2003年 5月 16日(金)18:40:06【2】三丁目 さん
支庁名の由来(旧19支庁等編。ラストです。)
今回の出典も、角川日本地名大辞典(昭和62年10月8日発行)です。

札幌:古くは「しやつほろ」ともいい、察糸晃(糸辺に晃です)・札糸晃(糸辺に晃です)などとも書いた。石狩地方中部、石狩平野西部の琴似川・伏籠(ふしこ)川・豊平川流域。地名の由来には諸説があるが、アイヌ語のサッポロベツ[乾いた大きな川・乾く広い川の意]による説が通説となっている(札幌市史)。

函館:函館の地名は、享徳3年に松前藩の祖武田信広とともに蝦夷地に渡ったといわれる河野加賀守政通が建てた館が箱の形にみえたので箱館となったとする説、アイヌ語のハクチャシ[小さな館]からきたとする説(北海道蝦夷語地名解)、河野政通が文安2年に館を築いたとき、土中から筐筥(かごと箱)が出たので地名にしたとする説(蝦夷実地検考録)など諸説がある。

亀田:地名の由来には諸説がある。第1は、亀田一帯をシコツ[大谷の意]と称したが(北海道蝦夷語地名解)、和人が死骨に通ずるとして亀田と改めたとする説(松前紀行)。第2は、「(蛎崎)蔵人十ケ年前より北州カンメテ(今云亀田)切開と号」により(東北太平記)、カンメテが亀田となったとする説。第3は、現青森・秋田・新潟の3県に亀田の地名が多く、同地方からの移住者が出身地名をつけたとする説。第4は、「(亀田村の)湖は往古より大亀の済めるを以って四方を亀太の郡と云ふ」による説(明治19年各村創立聞取書)などがある。

松前町:地名は、アイヌ語のヲマツナイ[帰人のいる沢の意]に由来するとも(蝦夷地名考并里程記)、マッオナイ[帰人のいる所の意]に由来するともいわれる(北海道蝦夷語地名解)。いずれも、もとは現在の大松前川沿いの地名を指したものらしい。
すつつべつ:地名は、アイヌ語のシュフキペッ[茅の多い川の意]に由来し、寿都の語源ともなったという(北海道蝦夷語地名解)。なお、シュプウ[茅のある山崎の意]によるともいう(西蝦夷日誌)。
岩内:地名の由来には、アイヌ語のイワヲナイ[硫黄沢の意]による説(蝦夷地名考并里程記・西蝦夷日誌)、イヤウナイ[熊肉を乾かす沢の意]やイェオナイ[軽石が多い川の意]による説(北海道蝦夷語地名解)がある。

小樽:古くはヲタルナイといい、小樽内・穂足内とも書いた。地名の由来には、アイヌ語のヲタルナイ[砂の解ける小川の意]による説(蝦夷地名考并里程記)、ヲタルーナイ[砂路沢の意]による説(西蝦夷日誌)、オタナイ[砂川の意]による説(北海道蝦夷語地名解)、オタオルナイ[砂浜の中の川の意]による説(北海道駅名の起源・小樽市史)などがある。
増毛:古くはマスケともいい、増慶とも書いた。地名は、アイヌ語のマシュキニ[漁獲がとても多い所の意]に由来するという(北海道蝦夷語地名解)。また、マシケの意味には「鴎の多いところ」(西蝦夷日誌)、「焼いて背負う」(蝦夷地名考并里程記)、「良い」(丁巳日誌)などの諸説があるが、どれも鯡が多い、漁獲が多い意味に関連している。

室蘭:古くはモロランといい、諸蘭・茂呂蘭とも書いた。地名は、アイヌ語のモルエラニ[小さな下り路の意]に由来し(新室蘭市史)、この坂道は現崎守町仙海寺下の小路にあたる。
浦河:古くは「むくち」ムコチといった。地名は、アイヌ語のウララペッ[霧川の意]に由来し、元浦川の河川名にちなむ(北海道蝦夷語地名解)。なお、旧名のムクチは、アイヌ語のムコッチ[ツルニンジンのあるところの意]に由来(同前)。
河西郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。郡名は、十勝川の西部に位置することによるというが、実際には十勝川の南に位置している(北海道の地名)。

紗那:地名は、アイヌ語のシャンナイに由来するといい、下る沢の意。
千島国:国名は、古くより北海道の本島を含めて「蝦夷ケ千島」と称していたことによる。
[15277] 2003年 5月 15日(木)20:32:07【2】三丁目 さん
推奨アーカイブテーマ
実は、朝に作業したときは、もうちょっと多くご推奨したのですが、IEで「戻る」を繰り返したら、少しだけになってしまいました。だから、朝の電話回線がすいている時間に、もう一度作業します。ただ、私がお奨めするのは、「自分」が面白いと思ったテーマ、興味を持ったテーマ、かねてから疑問・不思議に思っていたテーマ、ということになってしまうのですけれど、ね。
ところで「西宮市北部、塩瀬地区と山口地区が「西宮市」である経緯」を、朝お奨めしたのですが、あれも入らなかったようですから、もう一度やり直しますけど。同じ西宮市内なのに、市外局番が078で、あの地域に住むクラブ員に連絡するときは、なぜ同じ西宮市内なのに、市外通話なんだろう、と思っていたからです。それで、あのテーマが記事番号順になっていないのは、何か意味があるのでしょうか?通常は、若い番号の順ですよね。でも、あれは、らるふさん、ニジェガロージェッツさんの書込みが、後ろの方になっているので、あれれ?と思いました。
[15273] 2003年 5月 15日(木)20:05:13【2】三丁目 さん
3市広域行財政検討会(室蘭市、登別市、伊達市)
3市広域行財政検討会が平成14年に設置されましたが、各市のHPを見ると、トップページで市町村合併がすぐにわかるようになっているのは、室蘭市くらいで、登別市、伊達市のHPではどこにあるのか、見つけられませんでした。

そもそも、この3市が合併して「西いぶり市」(ワタクシの案)になるかというと、はてさて。というのも、室蘭市と登別市は、隣接する地区同士で、平坦地で一体となった市街地を形成しています。しかし、室蘭市から伊達市方面へ向かうと、ちょうど崎守のあたりから高くなり、白鳥台があって、黄金、稀府と地形的な制約を受けていることもあり、集落が途切れているのです。
ということで、登別市は細かくご紹介しますが。

1873年(明治6年)幌別郡村名布告、登別村・幌別村・鷲別村の3村となる。
1874年(明治7年)幌別郡各村戸長役場を幌別村に設置。
1919年(大正8年)三か村を大字とし、幌別村発足。(合併、と言うことでしょうね。)
1950年(昭和25年)幌別村開基80年記念式典。
1951年(昭和26年)幌別町制施行。
1961年(昭和36年)幌別町を登別町に改称。
1970年(昭和45年)登別市制施行。

この経緯から見ると、幌別がこれら地域の中心的な存在(行政的にも、郡名にあるくらいですし)だったから、幌別村になったのだと思われます。それが、全国的に有名な登別温泉の名を自治体名に使用することで、知名度のアップを図ったのでしょうか。

以前、白桃さんが[12140]で、幌別町と書かれていたことから、初めて登別市が幌別町であったことを私は知った、と書きましたが、それでも人口(今回はご紹介していませんが世帯数も)は、下記データのとおり、鷲別地区の方が多いです。ここは、室蘭市と隣接して、一体となった市街地を形成している地域です。かつては、幌別地区の方が人口が多かったのですが、1960年頃から鷲別地区内で区画整理が始まったことで、人口が増えました。

ご紹介が遅れましたが、登別市は大きく4地区に分かれ、ちょうど室蘭本線の駅と、概ね一致します(富浦駅周辺は、登別地区になります)。地区別の人口推移は、各年の9月末現在での住民基本台帳ベースになりますが、

地区名平成12年平成13年平成14年平成12年から14年へ減少した率(単位:%)
温泉地区1,9171,8281,7458.97
登別地区5,2995,2235,1383.04
幌別地区23,17922,99623,0970.35
鷲別地区25,29325,16025,0131.11
全市計55,68855,20754,9931.25

本当は、登別市HPによると1983年(昭和58年)時が最盛期人口59,481人ですから、それと比較すれば、差がわかりやすいのではないかと思いましたが、今回は、簡易な調査で済ませています。この3年間での推移だけでも、温泉地区での減少が顕著ですね。斜陽都市と言われると引っかかるところはありますが、人口が減少傾向にあることには間違いありません。

登別市から他市町村への就業者のうち、室蘭市へ向かう人は89%、伊達市のそれは49%です。また、通学者のそれは、登別市から室蘭市が92%、伊達市のそれが56%と、いずれの割合も、登別市と室蘭市の結びつきは強いです。大雑把に言うと、伊達市の室蘭市との親密度は、登別市の半分くらい、という感じです。(いずれも平成12年の国勢調査による)

それで、仮に3市が合併するとなると、どうなるでしょうか。
まず、伊達市は、地名・歴史へのこだわりが根強いのでは、という印象を受けました。伊達市HP>まちの歴史>伊達誕生記、を見ると、市町村の公式HPで、こんなに長く歴史を紹介しているところを、見たことがありません。開拓の祖伊達氏の起こりとして、12世紀から書き始めて長々と。とりあえずA4で打ち出してみたら、18ページにもなりました。とても、全部には目を通す気になりませんでしたよ、私は。だから、伊達市は、3市合併には加わらないのではないでしょうか。どちらかというと、虻田町、壮瞥町、洞爺村の方へ目が向いているようです。

と、だいぶ前からこの原稿を用意していたら、昨日(5/14)の北海道新聞に「伊達市に隣接する4町村(虻田町、壮瞥町、洞爺村、大滝村)が、伊達市への合併に動き始めた、と載っていました」との情報が、我が地理アドバイザーから寄せられました。私もネット道新を早速見ましたが、紙でパラパラと読むのとは違うから、この情報は見つけられませんでした。

なお、室蘭市については、新しく加える記述も特に浮かばないため、記憶だけで書いた拙稿[9574]、それを[11075]にて補足しましたから、もしよろしければご参照下さい。

ということで、合併の可能性があるとすれば、室蘭市・登別市ではないかと、私は思っています。「登別・室蘭合併協議会設置を求める市民の会」というのもできましたしね。もともと、両地域の市外局番も0143で共通でしたし。そうなると、新・室蘭市の誕生でしょうか。

でも、いろいろと調べてみると、登別市民にもいろいな思いがあるようです。室蘭市との合併に前向きな意見がある一方で、「なぜ室蘭市と一緒になるのか、白老だってある」など、合併相手を室蘭市に限定することに、慎重な意見の方が多いみたいです。そもそも、昭和の大合併時に、やはり登別・室蘭での合併話が浮かんだそうですが、当時は、日の出の勢いの室蘭市と、町制施行から日が浅い幌別町という関係でも、結局、立ち消えになってしまいました。

現在も、室蘭市議会では、登別・室蘭合併協議会設置を可決したのに、登別市議会は、この3月に否決しました。室蘭との合併しか考えられない、ではなく、広域的な視野で検討したいから、が理由だそうです。室蘭側からすると、4月の選挙を受けて、登別側がどう変わるかなぁ、という感じのようです。

元登別市民のワタクシとしましては、鷲別地区に住んでいたからかもしれませんが、室蘭市との合併がスムーズだと思うのですけれどねぇ。登別市と白老町とでは、ちょうど室蘭市・伊達市が地形的に一体でないのと同様に、市街地が途切れていますから。ちなみに、私のコア(笑)な調査によると、登別市内での4地区では、室蘭市との一体感に、温度差がある、と聞きました。そのあたりが、登別市内で、一体となって室蘭に目を向ける、という感じになっていない理由のようです。
[15272] 2003年 5月 15日(木)19:46:58【1】三丁目 さん
Re: 岩見沢支庁じゃないわけ
[15231]紅葉橋瑤知朗さん
>[角川日本地名大辞典には]北方領土関係について(千島国と紗那支庁)の、記載はありませんでした。
下巻の最後のほうに、北方領土だけ別になっていますが……。
昼休みに、図書館で確認してきました。上巻が地名編、下巻が地誌編ですから、前回図書館にこもったときは、上巻をメインで調べていましたので、下巻にはあまり目を通していなかったのです。でも、すぐおわかりになったということは、あのように高価な本をお持ちなのですか?私は、辞典系は、図書館を頼りにしているのですが・・・。

>帯広支庁にはならなかったのかというと、1897年(明治30年)当時は、まだ帯広という集落は、内陸だったために、開拓が進んでおらず大きくなかったからではないか、と。

う~ん、元が郡役所だったということを考えると…?
逆に、郡役所が置かれながら、帯広の地名が採用されていなかったということは、広域地名としては使えなかったからではないか、と私は考えましたが。それは、岩見沢も同様だし、旭川、もでしょうか。沿岸部は、江戸期から「場所」による広域名が、ある程度はあって、馴染まれていたのに対して、内陸部では、明治以降の開拓の歴史の中で、漢字地名が付けられていったから、帯広・岩見沢・旭川は、一集落の名ではありますが、広域地名にならなかったのではないか、と私は考えました。

ちなみに、我が地理アドバイザーのコメントは、「旧支庁名を見ると、全て旧国名か郡名のようなので、帯広、旭川、岩見沢は、郡名として存在していなかったからじゃないでしょうか。・・・簡単すぎる?」だそうですが。

なお、拙稿[15186]にて、十勝国の由来を、アイヌ語のトカチプとご紹介したのは、誤りでした。私の転記ミスでして、トカプチが正しいのです。本日、図書館にて確認しました。書込み訂正時間には間に合わなかったので、この原稿にて、訂正させて頂きます。

ついでにもう一つ補足すると、拙稿[13312]で、根釧台地の範囲を地質的(土地の成り立ち的)にご紹介しましたが、角川日本地名大辞典の下巻を見ていたら、「地形区分概要図」が載っており、そこには、釧路平野以外の東側は、根釧台地として大雑把に分けられていました。
ちょうど平野の定義のように、土地の成り立ちに注目するか、表面的に見える地形に注目するか、で分類が異なるのかな?と思いました。
[15222] 2003年 5月 14日(水)21:15:50【1】三丁目 さん
Re:十勝
[15209]YSKさん
フォローありがとうございました。
>十勝国:国名は、アイヌ語のトカチプにちなみ、
十勝の旧名はトカプチ
「チプ」ではなくて「プチ」なんですかねぇ。明日の昼休みに、もう一度、図書館で角川日本地名大辞典を確認してみます。
それはそうと、「帯広」の語源は調査されましたか?
ネット検索してみたら、「帯広とは、アイヌ語「オペレペルプナイ」(川尻の壊れたる川の意)から転化したものである。」なんて記述が見つかりました。なお、今回の調査は、ネット検索ではなく、古典的に、図書館ベースで行っていますので、今しばらくお時間を下さいな。というのも、全ての地名由来がネット検索で出てくれば、それを使っちまえ、と思っていたのですが、全部は見つからなかったので、こういう場合は原点に帰って、辞典だな、と。やっぱり、一つの書込みとして纏める場合は、出典は統一しないと、私はあまり好きじゃないのです。
ただ、拙稿[15187]での河西支庁についての感想は、旧国名由来(石狩、後志、渡島、胆振、日高、釧路、根室)以外の旧支庁名(札幌、函館、亀田、松前、寿都、岩内、小樽、増毛、室蘭、浦河、河西)のうちで、現市町名ではないのが河西だけだから、面白いな、程度のつもりだったのです。なぜ、帯広支庁にはならなかったのかというと、1897年(明治30年)当時は、まだ帯広という集落は、内陸だったために、開拓が進んでおらず大きくなかったからではないか、と。帯広市HPからは、市の歩みについての情報を得られなかったものですから。今度、河西を調べるついでに例の辞典で、帯広の項目も見てみようと考えていました。

そ・れ・と。なぁ~んだ。空知の語源をご存じないのかと思っちゃいましたよ、紅葉橋瑤知朗さん(笑)。
[15197]があったので、書込みする順番を変えて、急遽拙稿[15221]をアップしたのですが。[15213]を拝見する限りでは、ご存じのようですね。
[15221] 2003年 5月 14日(水)20:58:19三丁目 さん
北海道の支庁名の由来・2/2(そのものではありませんが)
今回の出典も、特に記述しない限り、角川日本地名大辞典(昭和62年10月8日発行)です。

釧路郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。江戸期のクスリ場所の一部地域にあたる。郡名は、場所名による。
釧路:古くはクスリといい、久寿里・久摺・久須里などとも書いた。地名の由来に関しては、アイヌ語のクッチャロ[咽喉の意]にちなみ、屈斜路湖畔のアイヌを寛永12年松前藩が現在の釧路に移して場所を開いたことによる説(北海道蝦夷語地名解)、クシュル[越える道・通る道の意]の転訛で、釧路川上流から斜里方面や標津方面へ越す交通路があったことによる説(蝦夷地名考并里程記・東夷周覧)、クスリ[薬・温泉の意]にちなみ、かつて悪病が流行したとき、釧路川の水を呑んだ者は一人も死ななかったという伝承による説(戊午日誌)などがある。

空知郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。郡名は、アイヌ語のソラプチペッ[滝が下る川の意]にちなむ。
檜山郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。郡名は、往古当地が檜山であったことによる。
上川郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。郡名は、十勝川の上流域に位置するところによる。
留萌郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。成立当初は「るるもっぺぐん」と称した。江戸期のル・モツペ場所の地域にあたる。
留萌:古くは「るるもっぺ」「るるもい」「るもえ」ともいい、留萌の漢字表記もあった。地名はアイヌ語のルルモッペに由来し、「此ノ川自然ト奥深ク、汐入ル故ニ号ク」といい(西蝦夷日誌)、「湖ノ静カニ入ル所」の意ともいう(北海道蝦夷語地名解)、1869年(明治2年)開拓史は松浦武四郎提言の地名、留萌(るるもえ)、留持(るるもつ)の中から留萌の漢字名に決定。その後「るるもえ」が「るもえ」となり、住民の大多数が東北・北陸地方の人であったためにエとイの発音が明確でなく、自然にエがイになったという(留萌市史)

宗谷郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。江戸期のソウヤ場所の一部地域とサンナイ場所の地域にあたる。郡名は場所名による。
宗谷:地名の由来には、アイヌ語のショウヤ[海獣のとまる磯の岳の意]による説(蝦夷地名考并里程記)、ソウヤ[峰の巣の意]と呼ばれていた岩名による説(廻浦日記)、ソーヤ[岩嶼、あるいは裸岩の地の意]による説(北海道蝦夷語地名解・アイヌ語地名考)がある。江戸期にソウヤ場所が開設する前の当地の地名に関しては諸説がある。一般的な説は、元来ウエントマリ[悪い泊の意]と称していたが、場所開設に際しウエントマリの名を嫌って、サンナイ(珊内)近くにあったソーヤという大岩名をつけたとする説である(北海道蝦夷語地名解)。このほか、もとはモンセンルモ、訛ってマウサンルム[風の当たる岬の意]と称したとする説(再航蝦夷日誌)、ヒリカトマリと称したとする説(廻浦日記)、パラキナイと称したとする説(蝦夷地名考并里程記)などがある。

網走郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。江戸期のアバシリ場所の地域にあたる。
網走:地名の由来は、アイヌ語のアパシリ[我らが発見した土地の意]による(アイヌ語地名解)。また、アパシリはもとチパシリといい、「幣場・島」の意で、かつて網走湖口近く(現大曲付近)の海中にあった帽子岩を指した名称であった。漁民であったアイヌはこの岩に紙の幣場を設け崇拝したという(戊午日誌)。また一説に、アパシリは「漏る所」の意で、窟の入口が雨漏のようにぬれることによるという。

「場所」とは、「江戸期に、支配人、番人などの和人が滞在して交易や漁業を行った拠点」のことです。

なお、檜山支庁経済部林務課「檜山の地名由来とヒノキアスナロの歴史」によると、
「「今回の文献等について調査を実施してきた結果、ヒノキアスナロ(檜)が生育している山を指して、「檜山(ひのきやま)」という記述がされているが、特定の地名を表す「檜山(ひやま)」あるいは「檜山(ひのきやま)」という記述は確認できなかった。
1869年(明治2年)の国郡制施行にあたり、松浦武四郎が明治政府に提出した建議書において、「古くから檜山(ひのきやま)のあったあたりを、郡名として残したい」という事由で、ここで初めて「檜山(ひやま)郡」と命名されていた。
このことから「檜山(ひやま)」の地名由来は、檜山(ひのきやま)からきているものと考えられる。」」だそうです。これといった定説は、ないようですね。

なお、文中で紹介された説の出典略称一覧は、
蝦夷地名考并里程記:松前并東西蝦夷地場所々地名荒増和解休泊里数山道行程等大概書
廻浦日記:竹四郎廻浦日記
戊午日誌:戊午東西蝦夷山川地理取調日誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、注記がありました。

天塩、釧路については、旧国名の記述の中では、由来が記載されていませんでした。また、北方領土関係について(千島国と紗那支庁)の、記載はありませんでした。
なお、胆振国の由来(拙稿[15186])で引用した「北海道大百科辞典」は、都内の大きな書店をまわって確認したところ、朝日新聞社から出版されていた本だそうですが、現在は絶版です。国会図書館へ行って調べるまではしませんでしたが、都内4区の図書館にはありませんでした。北海道の図書館ならば、あると思いますが。
[15187] 2003年 5月 14日(水)00:47:10【1】三丁目 さん
支庁名の由来(感想編)、と石狩市の難読地名
最初は、19支庁名の由来から全部調べよう、と意気込んでいたのですが、旧国名から書き写し始めたら、途中で挫折してしまいました。でも、残りの、札幌、函館、亀田、松前、寿都、岩内、小樽、増毛、室蘭、浦河、河西、については、追っかけ調べたいと考えております。郡名にしかないのは河西のみで、それ以外は全て市町名でもあるのが、私には興味深かったです。帯広市のことを詳しく調べる必要がありそうですが、たぶん、内陸だから、開拓が遅かったためではないでしょうか。札幌は、本府が置かれた地だから直接海に面してなくとも、関係ないでしょうし。亀田市はなくなっちゃいましたね。

なお、角川日本地名大辞典には、いろいろなことが書いてあり、非常に面白かったです。私が図書館に半日こもってしまったのも、そのためなのですが、例えば、丘珠空港は陸軍の飛行場で、なんて記述もありましたよ。何度もチェックしたので、打ち終わって、ちょっと気が抜けてしまいました。

[15065]紅葉橋瑤知朗さん
>生振村、花畔村
難読ですが、皆さんならなんと読むでしょう(三丁目さんは13日になったら答えを書き込んでください)。
ご指名頂いて恐縮です(汗)。知っていたのと知らないのが混在だったから、ちょっと焦りました。花畔「ばんなぐろ」は知っていましたが、生振「おやふる」は、調べました。ちなみに、我が地理アドバイザーのコメントは「これは札幌人でも難読地名ですなあ」だそうですが。スイマセン、13日を超えてしまいましたね。
[15186] 2003年 5月 14日(水)00:43:31【2】三丁目 さん
北海道の支庁名の由来・1/2(そのものではありませんが)
[14050]太白さん
三丁目さんの「作風」を若干離れますが、北海道の各支庁名の由来も気になります。アイヌ風じゃないので。
ハイ。書いていて、自分でも本来の作風とは、ちょっと違ってたような気が、なんとなくしました(笑)。

Issieさんが、ご自身のHPで「郡の変遷(北海道)」として、表にまとめておられますが、私は最初は、年表風にしてみます。なお、今回の出典は、特に記述しない限り、角川日本地名大辞典(昭和62年10月8日発行)です。コピーではなく手書きで写したため、読点の打ち方等が原文と異なる場合があるかもしれません。その場合は、ひらにご容赦を。

1897年(明治30年):郡役所を廃止し、19支庁を置いた(札幌、函館、亀田、松前、檜山、寿都、岩内、小樽、空知、上川、増毛、宗谷、網走、室蘭、浦河、釧路、河西、根室、紗那)。
1899年(明治32年):札幌、函館、小樽に区制が施かれたため、亀田支庁は函館支庁と改称。(注1)
1903年(明治36年):松前支庁を函館支庁に、紗那支庁を根室支庁に併合。
1910年(明治43年):寿都・岩内・小樽3支庁を廃して、さらに室蘭支庁から虻田郡の一部を合わせて後志支庁を新設。これで、現行の14支庁となる。
1914年(大正3年):増毛支庁は留萌支庁と改称した。
1922年(大正11年):札幌支庁は石狩支庁、函館支庁は渡島支庁、室蘭支庁は胆振支庁、釧路支庁は釧路国支庁と改称した。
1932年(昭和7年):河西支庁は十勝支庁、浦河支庁は日高支庁と改称した。
1957年(昭和32年):釧路国支庁は釧路支庁と改称した。

注1:1897年に設置された函館支庁は、函館区が設置されたことにより、支庁管轄区域から分離したたため、函館支庁は廃止され、函館区役所に移管された。
IssieさんのHPを見たときに、支庁の数を19と見つけられなくて、変だなぁと思っていたのですが、1897~1899年にかけて存在した旧・函館支庁とは、函館市街地(函館区)域を管轄していた支庁で、それが1899年に廃止された。そして1897~1899年に亀田支庁だったものが、1899年以降から新・函館支庁となった、と私は理解したのですが、それでよろしいでしょうか、Issieさん?

それで、支庁名の由来そのものの解説はありませんでしたので、まずは、旧国名の由来から。記述に濃淡が見られますが、原文のままご紹介します。

石狩国:国名は、石狩川に由来し、アイヌ語の河川名イシカラ・ペッ[屈曲の多い・川の意]の音訳による。
後志国:国名は、阿倍比羅夫が郡領を置いたという後方羊蹄(しりべし)の語音にちなんだもので、中央部を流れる尻別川のアイヌ語シリ・ペッ[山の・川の意]を採り、音訳して後志と松浦武四郎が名づけた。
渡島国:古く、斉明天皇の頃より「渡島(わたりしま)」は北海道の入口をさしており、また南部津軽の人たちは、この地を「おしま」と呼んだので、渡島と書いて「おしま」と読むことにしたいという、松浦武四郎の建議書によって国名とされた(北海道の地名)。

胆振国:国名は、日本書紀の斉明天皇4年、阿倍臣が胆振金且(金辺に且と書きます)(いぶりさえ)その他の蝦夷(えみし)を歓待したという故事により命名(北海道駅名の起源)。
なお、ネット検索で出てきたもので、「胆振」の由来については、日本書紀の話に加えて、下記の記述もありました。
古く新井白石が胆振とは北海道の勇払(イブツ)地域のことではないかと物の本に書いています。明治初年、松浦武四郎が、北海道の国郡名について「噴火湾の山越内から沙流境までを一国にしたい。その中で、勇払は大場所でアイヌも多いから、中心地としたらよい」とし、その国名としては「日本書記の胆振に気が付いたので、“胆振”でいかがでしょうか」と北海道開拓使長官に建議したことから、胆振という国名ができました。(北海道大百科事典から)
http://www.yanatec.com/side_pege/muroran-rekisi.htm の「7.開拓の先駆者たち」に記述されています。

日高国:国名は、当地は南向きで暖かく、太平洋岸特有の濃霧も早く晴れ、陽を仰ぐことが多く、「日本書紀」の景行天皇27年に東夷のうちに日高見国ありとの故事から、日高の字を用いて命名したという(北海道駅名の起源、北海道の地名)。
北見国:松浦武四郎の「国名之義ニ付申上候書付」によれば、この地域のソウヤ・モンベツ・シヤリ等の地名は、国名にふさわしくなく、当地一帯が一般的には北海岸などと呼ばれていることや、快晴の日には樺太(サハリン)が見えることなどから北見などはどうであろうか、との武四郎の意見によって北見国とつけられたという。

十勝国:国名は、アイヌ語のトカチプにちなみ、十勝川の河口が2つ並んでいる形を呼んだとの伝承による。(注2)
根室国:国名は、松浦武四郎の「国郡名建議書」をもとにしたもので、ネモロにちなみ根諸国とする案もあった。ネモロはアイヌ語のニ・ムイにより[木・湾]の意(知床日誌)。
天塩郡:1869年(明治2年)~現在の郡名。江戸期のテシホ場所の一部地域にあたる。郡名は、場所名による。
天塩:古くはテシヲ・テシホ・テシユなどと書いた。留萌地方の北西部、天塩川河口域に位置する。地名はアイヌ語のテッシ[梁の意]に由来する(天塩町史)。
注2:「トカチプ」を「萱野茂のアイヌ語辞典」で調べましたが、出ていなかったので、意味は不明です。 to be continued
[15185] 2003年 5月 14日(水)00:39:53【1】三丁目 さん
Re:もし村山市が北村山市だったなら、と市町村雑学の見やすさ
[15147]軒下提灯さん
楯岡町とその周辺の村々が「村山」という広域地名を背負い込むのは、ちょっと荷が重すぎたように思います。村山と言う名は、山形に任せておいたほうが幸せかも。
軒下提灯さんが、初めて書きこまれたのが[14419]からのようですので、拙稿[12833]「楯岡の無念」は、ご覧になって頂けてましたでしょうか?私が調べた限りでは、合併が50年近くも前であり、市名決定の経緯は、わからなかったのです。
ただ、現実的に考えると、山形県より南の地方に、当時、村山市がなかったので、北を冠する北村山市はありえなかったでしょうね。以前[12891]で述べましたが、楯岡市と名乗っていれば、市のHPで、楯岡地域の数字を間違えて掲載することはなかったのでは、と下衆の勘ぐりをしてしまいました。

全然違う話ですが、「村山」市の同名回避を確認しようと、市町村雑学を久しぶりに覗いたら、見やすく、きれいになってたのですね。書き込みを読む前は、こちらやアーカイブズを何度となく見ていましたから、ちょっと感想を言いたくて。オーナーグリグリさんのご努力には、改めて敬意を表したい、と思ったものですから。

本日は、残業のために、私の活動限界時間(0時)を越えてしまいましたが、なんとか用意していた原稿を書込みするしだいです。
[15126] 2003年 5月 12日(月)20:23:20三丁目 さん
Re:市名と中心集落名が異なる市
[15083]軒下提灯さん
市名が集落名に勝つ
非常に興味深いお話でした。私は自分に直結している楯岡(村山市)のことにしか、ピンとは来ませんでしたけれど、いつの日か「楯岡へ行く」が「村山へ行く」になるとは、少なくとも私が生きている間(笑)は、ならないように思います。そのような感覚からすると、現実に切り替わった市を、具体的に列挙して頂いたので、あるところにはある?のね、と感心しました。「村山へ行く」が村山駅へ行く際に使われるのに、抵抗感がなくなったときが、もしかしたら切り替わるタイミングなのかもしれませんね。それであれば、もう少し近い将来なのかしらん。ハテ???これは、その地域で生活していないと、いつ頃からなのか、分からない感覚なのでしょうね。
でも、私がこの「落書き帳選挙区」において、雑魚候補には投票しないことだけは、間違いのないことなのですが(ちょっとしつこかったかな、雑魚さんゴメンナサイ)。
[15122] 2003年 5月 12日(月)19:55:47【1】三丁目 さん
川の疑問へのレス
[15062]Issieさん
>一般的に、太平洋側では北から南に川が流れ、日本海側では南から北に流れるのですが
いろいろなスケールの話が混じりあっていて…。
たしかにそうですね。私も迂闊でした。かねてから歩いていて、神田川を不思議に思っており、思いつきで質問した、浅いものでしたね、と、ちょっと反省。私がイメージしていた河川は、広島県の太田川放水路、兵庫県の神崎川、武庫川(ちょっとマイナーなのを付け加えると藻川も。嗚呼、秘密基地を作って遊んでいた川原)、大阪府の淀川、東京都の多摩川、荒川、石川県の犀川あたりなのですが、神田川では、ちょっと比較するのが無茶でしたね。丁寧にフォローして頂き、ありがとうございました。

[15069]uttさん
松山市を流れる御手洗川の例を紹介します。
松山には、一度しか行ったことがなくて、あまり土勘が働かないのですが、地図と併せて、興味深く拝見しました。
あ、そうそう。昨日の私の疑問にお返事を頂き、どうもありがとうございました。早速、ワードで打ち始めました。改めてきちんとまとめると、調査の行き届いていない部分が見つかりましたから、明日の昼休みに近所の図書館で、もう少しだけ追加調査してから、ご紹介したいと思います。例によって、また長くなっちゃいました(^。^;)。参考文献の記述があるから、書込みを分けずらくて・・・。オーナーグリグリさん、データ量として負担をかける書込みが多くて、申し訳ありません。ペコリ。

[15094]雑魚さん
>このように、逆流?している川は、他にもあるのでしょうか?
屁理屈気味ですが、局地的な蛇行が多い佐賀県の六角川や、最上川における真室川の様な支流も含めれば、該当例は結構あるでしょう。南北云々の視点からは外れますが、源流地が意外に海岸に近い四国の肱川や四万十川などは、経路全般で見るに、途中で大きく屈曲していますね。
蛇行、屈曲は、ちょっと屁理屈じゃないですか、と思ったものの、考えてみたら、自分が例に出した神田川自体、蛇行の例でしたね。結局、部分だけを見ると、不思議な流れ=逆流に見える、ということになってしまうのでしょうか。
[15052] 2003年 5月 11日(日)18:49:08三丁目 さん
太平洋側で南から北に流れる川、又は日本海側で北から南に流れる川、は?
かねてから、青梅街道、又は大久保通りを歩いたときに、なぜ、東京の川が、北に向かって流れるのだろう、と思っていました。今、ジックリと神田川の流れ方を地図で見ましたが、(それが歩いているときに見かけた、南から北へ逆流している川だったのです。)、その源流は、井の頭池、又は善福寺池であることを地図で確認しました。思わず、関東平野は構造盆地、ということを思い出しました。

このように、逆流?している川は、他にもあるのでしょうか?私がお聞きしたいのは、一般的に、太平洋側では北から南に川が流れ、日本海側では南から北に流れるのですが(両地域に住んだ者としての認識です)、そうではない流れ方をする川があるとすれば、その土地での高低差の影響を受けているはずですから、そのような例があるのかな?と思ったのです。

というのも、札幌で、北大生が、川が北から南に流れるのを初めて見た、と言ったのを聞いて、あぁ、この人は太平洋側(神奈川以西)で育ったのね、と思ったものですから。

もちろん、東北地方では、川の流れは南北というよりは、東西であることを前提にお聞きしているつもりです。それは、九州地方においても、同様ですね。

ちなみに、私の神戸に住んでいた後輩は、神戸は北が山で南が海と、わかりやすいのに、東京は何がなんだか方角がさっぱりわからん、と申しておりました。
[15044] 2003年 5月 11日(日)15:03:57【2】三丁目 さん
Re:神戸・明石間の市境変更、と、どなたか教えてください(と、祝15000)
[15016]ニジェガロージェッツさん
この市境変更部分ですが、西神戸・明石間の地図好きの間では結構有名な話です。
興味深いお話を、どうもありがとうございました。私が知っている地域は、思い浮かべながら拝見いたしました。

それで、皆さんにお聞きしたかったことというのは、太白さんからリクエストを頂いていた北海道の支庁名の由来についてなのです。結構、図書館にこもって書き写してきましたけれど(コピーするには量が多かったので)、出典を明らかにすれば、インターネット上で書き込んで構わないのですよね?
ふだんは、私が知っていることと我が地理アドバイザーの話と、それを補足する少々の調べ物(市役所等が公式に出しているものからの引用とか)で書いているものですから、あまり「引用(著作権)」のことを意識していなかったのですが、今回は、もろ「地名辞典」の書き写しだから、このまま書き込んでいいのかなぁ、とフト思ったものですから。

最後になりましたが、
[15017][15020][15025]太白さん
大変面白いデータを提供して頂き、ありがとうございました。平均書込み文字数を下げないように?今後も、執筆活動に励まなくちゃ、と元気づけられました(笑)。
[14992] 2003年 5月 9日(金)21:02:34【1】三丁目 さん
小樽市、市境変更編
今回は、のっけから歴史のご紹介からのスタートで失礼しますが。
石狩市のあゆみ(石狩市HPから、かなり抜粋して引用)
1882年(明治15年):樽川村、開村。
1902年(明治35年):親船町ほか9町と生振村が合併して石狩町に、花畔村と樽川村が合併して花川村になる。
1907年(明治40年):石狩町と花川村が合併して、石狩町になる。
1968年(昭和43年):石狩町、開基300年、開町100年記念式典。
1973年(昭和48年):石狩湾新港が重要港湾に指定され、港湾工事に着手。
1975年(昭和50年):石狩町と小樽市との境界変更施行。
1982年(昭和57年):石狩湾新港入船式典(一部伴用開始)。
1996年(平成8年):市制施行(石狩市誕生)。

昔の地図では、小樽市の領域は銭函から大浜海岸までで、市町境は、新川に注ぐ支流の清川と新川河口により定められており、河川による自然境界となっていました。当時は、新川河口より北側は石狩町大字樽川村でした。

これに比べて、現在の地図では、小樽市の領域は新川よりも北の石狩新港地区まで伸びていて、小樽市銭函4、5丁目となっています。旧来の銭函地区からは離れていますが、新たに小樽市域となった地区とはいえ、住居表示には、銭函が採用されています。

現在も、石狩市には樽川地区があり、市の南西側の3市境にあります。ちょうど手稲通りを挟んで、北西側が樽川地区で、南東側が花川地区になります

経緯を詳細に記述することは、避けたいと思いますが、小樽市が発展してきた経緯、そして石狩新港構築の決定等の前後の流れから、ご想像くださいませ。ちなみに、小樽市HPの「小樽市のあゆみ」には、1975年の欄はありますが、境界変更については、記述されていませんでした。

なお、「樽川村」で検索すると、50件ほど出てきます。長野県木曽郡の、あるいは映画「およう」関連ではない樽川村を見て頂ければ、見る件数は、相当絞れます。私の記述でスッキリしなかった方は、ご自身で検索なさってみてください。

念のため「市境変更」「境変更」で検索してみたところ、小樽市と旧石狩町の話は見つけられませんでした。

ちなみに、検索で出てきた神戸市と明石市の間には、市境変更が何度も行われているのですね。明石市HPに出ていた市域の変遷に関するデータだけでも、1966年、1971年、1972年、1977年、1984年、1986年、1992年、と7回もあったので、驚きました。調べてみたい誘惑にかられたのですが、ニジェガロージェッツさんのお膝元に手をつけるのは、たとえ私が大学生活を送った街とはいえ、地元の図書館で調べないとわからないかもしれない、と思いましたから、やめました。

なお、明石市HP>市のプロフィール>統計情報>明石市統計書 平成14年版(2002年)の中の「土地及び気象」PDFファイルP.3の<地勢>欄に出ていますが、神戸市HP側からは、この情報を見つけることはできませんでした。市境付近で、どちらに帰属するか、区画整理も絡んだ話らしく、両市間で何度か協議されているようですが。詳細は不明です。

町田市と八王子市の市境変更についても、検索結果として出てきたのですが、こちらはよくわかりませんでした。たぶん、変更していないのではないでしょうか。
[14940] 2003年 5月 8日(木)19:57:30【1】三丁目 さん
釧路、ホイホイ編
[14259]uttさん
○釧路の無念・・・鈴木宗男事務所は今、どうなっているのだろうか??ムネオ道路(春別道路)は、どうなるのだろうか??
釧路市の概況、現況については、ご紹介したURLをご覧になって頂けましたでしょうか?
あぁ、そうそう。。占冠村の件については、最初はなんだろう?と思ったのですけれど、もしかしたら、私が準備中だった原稿が、それについてのお返事になるのかもしれません。もう少し、調査するお時間を下さいね。

それで、実は以前、友人とのメールのやり取りの中で、ムネオ君のことにふれていましたから、「久しぶりに鈴木宗男ネタに触れられて、光栄でござりまする」との返事が、やっと到着しました。ということで、以下のほとんどは、原文のとおりです(落書き帳には合わないと私が思う、政治が絡んでいるコメントが、多々ありましたから、半分以上カットしちゃいましたけど)。

鈴木宗男事務所は,今も健在です。釧路市役所のすぐ横の,5,6階建ての小さなビルの2(3?)階の窓にクマの絵のシンボルステッカーが貼ってあり,以前と変わらず鈴木宗男事務所が入居しています。

ムネオ道路(春別道路)とは,国道272号のことだと推定します。この国道は,釧路町別保から別海町上春別,中標津町を通って,標津町までの道路で,釧路から中標津に行く幹線道路としてよく利用されています。この国道のうち,ちょうど別海町域に当たる西春別~上春別の区間だけが,近年特に整備されていて,ちょうど鈴木宗男氏が北海道開発政務次官だった頃ですから,ムネオ道路と呼ばれる所以のようです。

数箇所の交差点で,国道を掘り下げ,交差道を陸橋にしてランプを設けた立体交差ができていて,交通量の少なさを考えると,目を見張る立派さです。工事は今も続けられていて,まだ2,3箇所の立体交差化が進められるようです。地元では,ムネオがどうのこうのではなく,この不況下でありがたい雇用対策として,必要な工事と受けとめているのではないでしょうか。
[14938] 2003年 5月 8日(木)18:56:16【2】三丁目 さん
苫東の感想
[14905]太白さん
苫東については、「全体としては原野」なのでしょうが、それなりの工場等の進出もあるようですね。
拙稿[14858]で、補足してよかったぁと思いました。私には分かりきっていた地域なものですから、原野とは言え、そこそこ工場はあるのよという自分の認識を前提に、大雑把なお返事をしてしまいましたが、もしかして、工場等が進出していることは、意外と知られていないのでしょうか?たしかに、失敗例として名前はよくあがりますが、面積が広いだけに工場がまばらに立地しているためであって、集まっているところでは「それなりに」工業地帯を形成しています。
ちなみに、私はあの勇払原野が、いかにも原野らしい風景に感じられるから、とても好きなのです。
[14937] 2003年 5月 8日(木)18:39:07【1】三丁目 さん
Re:町名、字名、丁目、住居表示
[14928]りょうさん
丁目までが大字なので、漢数字が正しい
ハイ、そのとおりです。ちょうど身近にいた土地家屋調査士の方にも、念のため確認してしまいました。土地家屋調査士の講座で、先生が言ってたそうですよ。書込みをプリントアウトしてその人に見せたら、このような類のことを、一般の人が質問してるんですか?と驚かれました。
ちなみに私が「三」丁目なのも、公式な表示にしたい、との思いからです。
[14863] 2003年 5月 7日(水)19:52:06【3】三丁目 さん
本落書き帳での検索方法(工夫)
[14822]ゆうさんの書込み
[14851]雑魚さん
最近不機嫌気味のデータ検索機能の代替措置を示されましたが、過去ログ検索が今ひとつ実効的でない
ワタクシより以前の、いにしえからこの落書き帳の常連さんでいらっしゃる方々から、さようなお話を頂くとは、意外に思いました。たしかに、昨今必ずしも自分が指定した条件では、検索結果をえられないことが、ありましたけれど。
私は、以前、オーナーグリグリさんから示された(この件に関しては、記事検索しませんでした、スミマセン)期間を区切って検索する方法で、対処しております。というのも、今回加えられた機能を見ますと、2003年2月以降から書込み件数は急増しています。だから、私が検索するときには、期間を分け(今のところは2003年以降と2002年以前)、件数も最大20件までにしています。そうすれば、私が検索した限りでは、だいたい結果を得られますよ。それで、いかがでしょうか?今後もこの書込みペースだと、もう少し期間を短くする工夫が必要かもしれませんが。
なお、私が釧路区を外からの検索で見つけたのは、私の怠慢です。まさか、そんな話題は過去に出とらんかったろう(過去ログを飛ばし読みした私の記憶にもなかったし)、という思い込みで、落書き帳内では、検索をサボっていたのでした。
[14859] 2003年 5月 7日(水)18:41:02【1】三丁目 さん
太白さんからの戴き物(その2)
[14050]太白さん
○丘珠空港の無念:いや、別に丘珠のことが知りたいのではなく、何故新空港は離れた千歳に立地されたのでしょうか。また、なぜまだ新しいのに「新」千歳空港になったのでしょうか。
空港の話は、私自身は全く知らなかったものですから、我が地理アドバイザーと協議の上、一部表現に手を加えましたが、以下は、ほぼ原文のとおりです。

丘珠空港は、未だにプロペラ機しか飛べない飛行場であるため、航空機のジェット化によって千歳空港へ需要が移りました。別の言い方をすると、千歳でなくても構わない、プロペラ機を使用する日本近距離航空(現エアーニッポン)が、丘珠に拠点を置いたとも言えます。

丘珠空港は陸軍の飛行場、千歳空港は海軍の飛行場として戦前からあり、どちらも戦後は自衛隊の滑走路を民間が共用する形で、空港ができたのです。

なお、新空港となった経緯については、[14105]まがみさんがご説明されているとおりなのですが、新滑走路は旧滑走路とクランク状(厳密には、H形の縦棒2本が並行にずれて2割くらい重なっている、といった形です。)につながっており、民航機用滑走路がトラブルに陥った場合には、自衛隊用滑走路に降りることもあります。実際に、友人の乗った飛行機が、冬の東京出張からの帰りに、旧滑走路に降りたことがあるそうです。
また、新・旧滑走路の管制塔は一つで、以前と同様に、航空自衛隊が主導権を握っていると何かで見たそうです。そういう点では、「厳密には」共用を解消できたとは言えないのでは、と申しております。

新千歳空港は、旧千歳空港(航空自衛隊千歳基地)とは全く別の飛行場だと思われている節があるから、その誤解?を解くためにも、よろしく紹介してほしいとのことでした。
(でも、考えてみたら、丘珠空港が自衛隊と共用なのかどうかくらいは、自分でも調べた方が良かったかも、と今、気づきました。普段は、自分が調べていることにアドバイスを求めているから、それなりに自信を持って書き込むのですが、この件に関しては、我が地理アドバイザーの言葉を鵜呑みにしておりました。)
[14858] 2003年 5月 7日(水)18:40:46【1】三丁目 さん
太白さんからの戴き物(その1)
[14050]太白さん
○苫東の無念:特に、今この場所がどうなっているのか気になります。
以下、我が地理アドバイザーが、一言もの申したいそうです。
というのも、私がコメントした「苫東は原野のまま」ではちょっと大雑把すぎる、との指摘がありました。私も仕事の関係で走り回っていた地域ですから、言われれば、ああそうだったなぁ、とイメージが沸いてくるので、せっかく書いてくれた友人の丁寧な原文に、若干の加除修正を加え(もちろん本人の了解を得ましたが)ご紹介したいと思います。それで。

苫東工業地帯は大きく3つのエリアに分けると説明しやすい、と友人は申しております。(行政的には6つに分かれ、臨空柏原地区、臨空東地区、臨海臨港地区、臨海東地区、臨海北地区、臨海西地区、となりますが、以下は原文を尊重します。)

1つめは苫小牧市街地に最も近い勇払北部の地域で、ここにはいすヾ自動車が早くから工場進出しています。

2つめは、苫小牧東港付近の浜厚真地区で、北海道電力の苫東厚真発電所と共同石油備蓄基地が早くから進出しており、近年はリサイクル施設や、サニックスという廃プラ燃料発電所も建設されています。また、東港にはフェリーターミナルができて流通拠点になりつつあり、海洋レジャーの普及から、マリーナ構想もあるとも聞いています。

3つめは、早来町遠浅に近い北部の柏原地区で、新千歳空港に近いという利便性から臨空工業団地として、自動車部品工場や、ハイテク関連の工場が進出しており、最も工業団地らしい体裁を見せています。

全体としては、重厚長大産業を意識した臨海部の広大な用地は、ほとんど空地のままで、内陸の一部地区だけが、臨空工業団地としてそこそこの発展をしている、といったところではないでしょうか。

なお、今の風景は、元々の原野が開発に失敗したためそのまま残っている、という印象がありますが、苫東構想以前には、既に開拓された土地だった部分もあります。だから、必ずしも手付かずの原野が、以前の姿のまま残っている、というわけではないようです。申し訳ありませんが、どのあたりが買収された土地で、どのくらいの割合か、等の詳細については、苫小牧市立図書館で調べる必要があるものですから、この程度の記述にとどめさせて下さい。

太白さん、重ね重ね、ありがとうございました。頂いた塩をかじりながら、書き込み日数を長らえているところです。[14732]uttさんには申し訳ないのですが、用意している胆振・日高関係は、書込めるまでにもう少し時間を頂けますか?そのかわり、4週間ほどの間に熟成?してくるはずですので。
[14810] 2003年 5月 6日(火)23:04:13三丁目 さん
「てん」の略称に続けて(蛇足につられて)
[14805]まがみさん
大阪教育大学附属天王寺高校のことは「ふてん」と略し、私立四天王寺高校のことは「よんてん」と略します。NHKのドラマ「まんてん」の舞台になったのは、「てんよん」とか「てんろく」のある辺り。その中間の「てんご」には、大阪市北区役所があります。
「てんこう」=大阪府立天王寺高校でしたよね。たしか。つい「てんご」に惹かれてしまいました。
[14808] 2003年 5月 6日(火)22:47:40三丁目 さん
一応の報告、とお礼、と宿題?と。
[14696]kenさん
ここの外から、いきなり、Googleで居住地、出身地で、メンバー表がヒットしてしまうというのは、(よく考えればあたりまえですが)ちょっと恐い感じもします。
[14698]オーナーグリグリさん
検索エンジンロボットからの検索対象外とするタグを過去ログ、メンバー紹介ページなどに追加しました。

実はこの件、拙稿[13312]を書くにあたり、「釧路区」でネット検索したときに、落書き帳の過去ログに引っかかって、[4848]夜鳴き寿司屋さんと、[4867]ゆうさんの書込みが出てきたのです。このときは、当時の「区」になるための条件を、念のため調べたいと思って検索したのですが、過去に釧路区のことが話題に出ていたのに気づいたから、助かった、落書き帳はさすが侮れない、と思っていたのでした。

私は、BIGLOBEサーチAttayoを検索に愛用しているのですが、本日、職場から検索してみたら、過去ログにやはり引っかかって、読めますね。
落書き帳 過去ログ [4800][4899]
... [4867] 2002 年 11 月 14 日 (木) 00:07:21, ゆう さん. 釧路・釧路. [4848]夜鳴き寿司屋さん >1920年に当時の釧路郡釧路町が北海道区制が施行された際に「釧路区」と「釧路村」に分離市街化していない地域を「区 ...
と出てきて、読めます。なぜ私の書込みには引っかからないのか、よくわからないのですけれど。
気になったから「居住地」「出身地」「メンバー紹介」の3つを並列のキーワードにすると、「落書き帳メンバー紹介」が、いきなり2番目に出てきて、ビックリしました。とりあえずの、ご報告です。

[14287]でるでるさんへ
連休明けでやっと返事がもらえて、我が地理アドバイザーも、たぶんこの話だと思う、とのことでした。ありがとうございました。

[14732]uttさん
>胆振・日高地方であれば、風景がまぶたに浮かぶ?得意ジャンルなのですが・・・
おお!!楽しみにしておりますよ!!
ZZZ、ZZZ。すいません。まぶたを閉じたら、眠ってしまいました。Zzzさん、お名前を語ったみたいですいません。やると思われてたかなぁ(汗)。見え見えでしたか?
[14718] 2003年 5月 5日(月)19:29:11【1】三丁目 さん
YSKさんと、TKS-Hさんへのレス
YSKさんへ
ヒョエェエェ~。素早い対応に驚きました。北方領土について、書き込んでから1時間も経たないうちに、アーカイブズに採用されていたので、ビックリしてしまいました。書き込み訂正したついでに、気が向いたのでアーカイブズを覗いてみたら、北方領土がテーマに。拙稿も採用されているではありませぬか。。あまり、ご無理なさらないでくださいね。

[14440]TKS-Hさん
(日銀の)小樽支店の廃止は北九州支店の廃止と抱き合わせで表明されたのですが、小樽支店のほうが廃止まで進んだのに対し、北九州支店のほうは事実上沙汰やみの状況になった、この違いがどこにあるのかはちょっとわかりません
あなたさまは、何ゆえ、さようなことを存じていらっしゃるのですか?私は、地元北海道民として小樽支店廃止のことを知っていましたが。はたして政府系のCIA、はたまたKGB(古いかな?)あるいは「エロイカより愛をこめて」バリのご活躍???
ちょっと真面目に考えると、日銀北九州支店は、まがりなりにも政令指定都市にあるのに対して、小樽支店は、たかだか16万人という人口・経済規模だったから、小樽のみ廃止されたのではないでょうか。また、
[14440]TKS-Hさん
戦前、源頼朝の征夷大将軍就任の年は「鎌倉、人でいっぱいに」と覚えていたそうです。
建久3年=西暦1192年=皇紀1852年  →→  1852=イッパイニ
かつて「班日記」という、ま、いわば学級運営上担任の先生が実施していた「集団交換日記」で、私は皇紀とかイスラム暦で何年とかカッコツケテ?書いていましたが、さような年号の覚え方は、初めて知りました。
[14715] 2003年 5月 5日(月)17:15:17【2】三丁目 さん
北方領土、from根室
[14066]TACOさん
[14083][14149]ニジェガロージェッツさん
[14153]kenさん
[14279]TACOさん
としばらく北方領土関係が続きましたが、遅ればせながら、私は、根室市の立場から。というか、自分自身では、このことについて、特段の意見を持ってはいないのです。だから、市のHPからは統計的なデータをほとんど得られなかったため、別件も併せて根室市役所にお問い合わせしたときに、下記資料を送って下さったので、そのご好意に感謝する原稿とします。
頂いたものは
(1)根室(2003市勢要覧)
(2)根室市統計書(平成14年度)

それで、長くなりますが、根室市の歩みを2/3くらいに端折って、以下「」内に引用します。

「1882年(明治15年)に北海道三県の一つとして根室県庁が設置され、根室の開発が進みました。カニ、コンブ、サケなどの北方領土近海の豊かな資源に恵まれ、水産業を中心に発展し、1900年(明治33年)には人口14,000人余りを数え、道東一の活況をみせました。

1945年(昭和20年)の戦災によりマチの大半を消失し、さらに北方領土をソ連邦に不法占拠されたため人口は減少し、産業、経済の復興も一時は危ぶまれましたが、北洋漁業を中心とした水産業で立ち直り、我が国有数の水産都市として発展してきました。

1977年(昭和52年)の経済専管水域200カイリ施行、さらに1992年(平成4年)からは公海でのサケ・マス沖獲り禁止などにより、漁獲高が減少し厳しい状況におかれています。

新しい海洋時代に対応するため、沿岸漁業資源の増養殖をはじめ、水産資源の高次加工などの振興策を積極的に取り組んでいます。また、北方領土返還要求運動原点の地として、さらに国民世論を高め、北方領土返還実現による日ロ両国の平和条約が、早期に締結されるよう全国民の先頭に立って変換運動を展開しています。」とあります。

また、市史とは別に、北方領土返還運動の歩みも載っていました。これは一部の紹介にとどめますが、
「日本固有の領土である国後島、択捉島および色丹島、歯舞群島は、父祖伝来の地であり、これをふたたび我々の手にもどそうとの目的のもとに、この根室の地から叫ばれたのは、終戦直後である昭和20年の秋ごろからである。(中略)

昭和20年9月5日までに北部、中部千島、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の占領を終えたソ連は、9月19日、クリル諸島(千島列島)と南樺太の領土宣言を行った。(中略)

根室と国後、択捉などの島との関係は地理的にも歴史的にも、経済的にも切り離して考えることのできない深い間柄にあった。島の人々は根室の人たちを「本家の人」と呼び、根室の人々は「島の人」と呼んで、たがいに行き来し、また、親戚関係の人もかなりあって、両者の間における親密の度合いは想像以上のものがあった。(以下省略)」

ちなみに、北方領土に係る組織(課以上という意味で)が道内の自治体の中であるのは、下記のとおりです。
北海道庁総務部北方領土対策本部
根室支庁地域政策部北方領土対策室
根室市役所総務部北方領土対策室

なお、根室支庁管内の4町(別海町、中標津町、標津町、羅臼町)では、それぞれ「係」として事務局を設けていますが、支庁管内で横で連携して何かを行う、というよりは、縦組織として道庁~支庁~市町とつながっているそうです。だから何ってわけでもありませんが、個人的興味で確認してしまいました。

根室市統計書には、根室市役所内だけで作成されたものばかりではなく、民間事業者を含め、いろいろなところから集められたデータが載っており、私には興味深かったのです。たとえば、根室市内では、鉄道駅でよりも、バス路線での乗降客の減少のほうが大きかったのは、意外でした。データをどのように紹介したものか、難しかったものですから、今回はご紹介しませんでしたが、載せたほうが良かったですか?

もともとは、北海道に県が置かれたときに、なぜ釧路県でなくて根室県なのだろうという興味だったのです。根室、釧路ともネモロ、クスリとアイヌ語に由来する古い地名で、ともに沿岸部で初期から開拓はされているのです。根室市のあゆみには「道東一の活況」とありますし、根室県が設置の1882年(明治15年)当時は、釧路よりは根室の方が、中心的な存在だったのだろう、と推測しました。あるいは、北方警備の要衝の地として考えられていたからでしょうか?

よくわからなかったながら勝手に述べますが、土地に執着する傾向が強い、日本人の心情を考えると、たとえ釧路集落の方が大きかったとしても、根室の名前を前面に出すことで、根室地元民の、北方警備へのプライドを高めたのかしら、とも思いましたが。これは、完全に私の推測です。


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