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矢作川太郎さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[59533]2007年6月30日
矢作川太郎
[59410]2007年6月24日
矢作川太郎
[57868]2007年4月8日
矢作川太郎
[57829]2007年4月6日
矢作川太郎
[57500]2007年3月31日
矢作川太郎

[59533] 2007年 6月 30日(土)22:28:11矢作川太郎 さん
役所・役場のその後・・・
[59531]役チャンさん

私も、合併された自治体の役所・役場のその後に少し興味があったので、一時期調べていました。この際ですので、結果報告ではないですけれど、ご紹介したいと思います。

1:主張所になったケース(規模の縮小?)

  水戸市常澄出張所・鹿嶋市大野出張所・潮来市牛堀出張所・あきる野市五日市出張所・新潟市の区役所にならなかった町村役場・富士河口湖町(勝山・足和田・上九一色)各出張所・甲府市上九一色出張所・大紀町柏崎出張所・京都市右京区京北出張所・橋本市高野口出張所・真庭市蒜山振興局(川上・中和)各出張所・広島市佐伯区湯来出張所

2:全く支所機能が失われたケース

  八峰町峰浜庁舎(焼失したため)・世羅町の旧世羅町役場(旧甲山町役場とかなり近接していたため)

3:不明なもの

  あわら市芦原庁舎(市役所市民課芦原分室?)・宗像市玄海庁舎(ヤフー・マピオン地図では赤丸で表示されておらず)

合併からかなり期間が経った所が「出張所」と言う名称の窓口施設になっています。(さすがに連絡所になっている所はありませんが。)政令指定都市に編入された町村の役場も出張所と言う名称になることが多い様ですね。(岩槻市は町村ではありませんし、蒲原町には清水区の蒲原支所が設置されています。)旧自治体域の人口に依って窓口施設の機能が決まってくるのかも知れませんね。それと、
合併しても、本庁とならなかった庁舎は必ず残るものと思っていましたが、
と言うのも、上に記した通りかなり例外があるみたいですね。まあ、大半の自治体庁舎は色々な呼称が見られますが、おおむね支所機能を有した施設が後(跡?)に立地する様です。(呼称に元の自治体名が入れられていない事例もぼちぼちあります。)それに、合併後に老朽化した旧庁舎から新設した支所庁舎へ移転した例も見られますので、旧役所・役場巡りなのか、支所巡りなのか判然としない事もありますので詳しい調査が必要になりますね。

多分、
合併の趣旨から言って庁舎だって積極的に統廃合して良いと思っていますが、火事でもない限り統廃合は進まないものなのでしょうか。
と言われますが、旧世羅町役場やおそらくですが旧芦原町役場が統廃合された、もしくはされると言う端緒が見られるので合併特例法の期限が切れたのちに一気呵成に進むと思われます。支所の統廃合は自治体合併と違って全くと言って良い程、外部の人物に周知されませんので、くれぐれも自治体の住民サービスが低下する事の無いよう頼みたいですが・・・どうでしょうか?

あと、調べていてかなり興味深かったのは山梨県富士河口湖町ですかね。この町では合併の時期と前後して本庁舎を新築した様です。現に昔の役場の位置からわずかに移動してますしね。(特例債に当て込んだかは不明。)あと、それに伴って勝山出張所の庁舎も新築したみたいです。(足和田出張所は旧役場を流用。)特に珍しいと思ったのは分村した地域への上九一色出張所の新設です。(ところで、昔(旧上九一色村時代)に富士ヶ嶺地区に村役場の出先機関ってありましたっけ?)甲府市にも上九一色出張所あり、都合二ヶ所に同名の出先機関があるように結果なりましたね。(精進地区にも出張所が存在。)

次に、気になったのは三重県大紀町の旧紀勢町域の支所機能です。元々崎地区の伊勢柏崎駅前に町役場がありましたが、そこの建物は柏崎出張所になっています。支所はどこにいったかと言うと、海沿いの錦地区に移転?(設置)されています。(以前、東海地方のローカルニュースで話題となった、芦浜原発に当て込んだ分不相応に大きな役場移転予定地に支所をもってきたのだろうか?)

今度は、岡山県真庭市の北部の美甘村を除く3村も変わっていますね。ここには、蒜山振興局(旧八束村の役場から程近い場所に新設?)があって旧3ヶ村の窓口業務が集約されています。その中で、旧川上・中和村の役場が振興局の出張所と言う位置づけとなり珍しい形態になっています。

あと思い当たるのは、熊本県美里町が昔の山口県旧旭村と同じ様な形態になったと言う位のものでしょうか。

以下諸々。

1:旧雄踏町役場(現雄踏地域自治センター)と浜松市西区役所が若干場所が異なりますけど、旧役場の位置に何らかの窓口機能は残されているのでしょうか?

2:旧坊津町役場が南さつま市坊津支所久志庁舎になっていますが、現在の南さつま市坊津支所坊泊庁舎の方は旧坊津町時代には支所か何かだったのでしょうか、それとも新設されたのでしょうか?(今代鼻から車岳にかけての峠が急峻だったからだろうか。それとも、枕崎市と繋がりが深い地区だったので特に支所を設けたのかも知れない。それなら秋目地区は飛び地になっていたのに・・・)
[59410] 2007年 6月 24日(日)19:53:47矢作川太郎 さん
幽霊メンバーでスイマセン・・・。
皆さんご無沙汰です・・・ロムはしていたのですが。

[59388]桜トンネルさん

岡崎市には「落書き帳メンバー」がいらっしゃった気がしますし・・・。
はい!!私です!!(笑)

[59383]雪の字さん

お久しぶりですね。
私が生まれ育った名古屋(敢えて限定する理由は後ほど)でも、黄色であることを「きぃない」と言います。実際には年輩の方がほとんどで、若い人はあまり使いませんけれど。幼い頃には、大人たちが口にするのを、良く耳にしたものです。
この言葉、越すに越されぬ大井川をも越えて分布していることになりますね。

とは言え、[59228] 淡水魚 さん が仰るように、浜松が分布域から外れるとなると、三河地方ではどうなのか、が気になります。三河地方の方言は、名古屋よりもむしろ浜松に近いですから(上で「名古屋」と限定したのはこのためです)三河出身、あるいは在住の方のご教示を頂ければ興味深いです。
明らかに呼ばれてますね。(笑)

両親に聞いてみたところ父は普通に使っていると言い、母は幼いときに使っていたと言いました。(父は豊田(市)の山奥(って言い方は須木では無いですが。)、母は名古屋の出身です。)

そのとき、その場所にいた人にとって、それは当たり前の、珍しくもない風景でしょう。
けれど、それに少しでも近づきたい、と思い焦がれている誰かが、どこかに、いるかもしれません。
(本来はレスすべきでない箇所かも知れませんですが・・・)

私の住んでいるトコロはかなり史跡が点在していて(って言っても大したこと無いですけどね。)たまに、観光客と思しき人を見ます。ある時、とある旅雑誌で見慣れた石垣(江戸時代にはかなり重要な石垣でしたが、今は田畑に囲まれているだけです。)の写真が掲載されており、面食らいました。が、自分も遠隔地の史跡・寺院に行くとかなりテンションが上がりますので、地元の人々から面食らわれているかも知れませんので、結局はお相子でしょうね。

以下、見苦しい愚痴。
このニュース記事によると、長久手町の新設小学校名候補が「市が洞小学校」から再検討されるようです。(それじゃあ、「けやき小学校」だぁ!!!)せっかくの小字名由来の名前を「悪平等」によってツブされてしまうのは悲しいことです。せめて「長南小学校」あたりが落としどころだと思いますが。

因みに全国のけやき小学校一覧です。
[57868] 2007年 4月 8日(日)02:36:31矢作川太郎 さん
春の陽気に誘われて・・・
と書いてみたモノの・・・実際かなりの花曇りでした。

昨日どこへ行ってきたかというと3月18日(今年ですよ!)に開業した刈谷の「野田新町」駅に近場だったので少し行ってみました。(と言っても岡崎駅から単に往復しただけ・・・トホホ)そう言えば、私は刈谷市内の高校に通っていたので、その周辺は数回通った事がありました。(確か、駅用地の南側には小さい自動車展示場があったような・・・)降りてみたところ南口には真新しい車寄せがあって取り付け道路はそのまま見覚えのある幹線道路に通じているだけでした・・・ただ、北側に行ってみると某企業の大工場(多分コレのためだな・・・)が立地しており(今まで気付かなかった。大きすぎて目に入らなかったのか?)北口のすぐ前には高層マンションの建設が進んでいました。あと、駅の自由通路に「祝・開業」の小旗が新駅だと言うことを印象付けていました。ただ、駅員配置駅だったので駅員氏に短い間に二回姿を見られてしまいました。(ハズカチィー!!)でも先方もコチラの意図を承知している・・・と自分に言い聞かせて帰りの列車に乗り込みました。(チャンチャン)

取り急ぎですが一応。

[57835]スナフキんさん
矢作川太郎さんが「字体に翻弄された村」として例示してくださった都祁村のほか、合併で誕生した奈良県葛城市・鹿児島県薩摩川内市(←ここで表示できているこの状態が正確な自治体名です…ややこしいです)が該当しますね。
そうなんですか。(こちらもユーザー補助を使わないと字体の違いが解りづらくて・・・)確かに隔靴掻痒なむず痒さを感じます。(あと、スナフキんさんの方で出ている字体の事を言っているのかどうなのか解らないのが(仰っている「ここで表示できているこの状態」ってそちらの機器で出ている字体の事ですよね?)あぁ、もどかしい。)凄く高度な伝言ゲームだ・・・(苦笑)

確か葛城市が正式な字体は「L+人」の正字ではなく「ヒ」であると主張していると言うことは報道で知っていました。(「正式な」と言うのが役所内部で使用するモノに限られ、個人の書き方を規定するものではない、と言うのがまたややこしい。)

以前少し話題になった「耶馬溪」の場合は難易どちらの字も表示可能で、だからこそややこしい問題でもあったわけですが、
選べる「字体」もややこしいものです。例えば、九州の「葦北郡」と「糟屋郡」なんかが悩みの種でした。私の使っているPCの辞書は「ATOK 2005」なんですが、先日、母の買ったストッキングのメーカーの所在地を何気なくみると「芦北郡芦北町」と書いてありました。しかし、我がATOK君ときたら「葦北郡」しか出ないんです。かと思えば「糟屋郡」には「使用しない」と表示し、「粕屋郡」に「統一」と表示しよるんです・・・ハァ。でも「檮原町or梼原町」には何も表示しない・・・(←某地図会社ではページ毎に「ゆす」の字が違いま(以下略))他では山陽自動車道の「竜野・竜野西IC」が「龍野・龍野西IC」に変わった(SAは?)とか、天竜川←?流域に引き続き「天竜区」と「天龍村」がある(しかも隣接!)とか、火種は尽きませんが、
同じくらいに我々も困っています…。
心中お察しします・・・

余談:そう言えば「祁答院町」当局者は「都祁村」の改称をどの様に見ていたのだろうか?あと、今回の変更でも旧:赤碕町の「石+立+可」は採用されなかったが・・・

[57836]般若堂そんぴんさん

その事に関連してかなり前に朝日新聞に「字体」についての連載記事がありましたが、手元に無く参照できないのが・・・(その後、紙面の字体も「康熙(煕)字典体」に基づくものに変わった様です。)
もちろん,字体の変遷を重視する研究分野もありますが,それらは typography 情報を付加することで十分に対応できそうな気がするのですが.
地名の用字に関しても所謂「幽霊文字」と言う出典不明の漢字が存在する程、激烈に変化が加わっています。(同時代の古文書でも「用字はどれか・漢字か仮名か」と言う事も全く一定しない。)現在、字名・町名にも対策として書き換えや平仮名化をすると言う事もかなり行われており地名の「変化する」性格をまざまざと見せ付けられた気になります。

再び余談:そう言えば、高校時代に葛藤の葛を「L+人」の正字ではなく「ヒ」と書いてテストでペケを貰いました。(元々その担当教員は余り好きではありませんでした。一種の反発の一部でした。)私はその事をとても腑に落ちないと思いましたが、今、勉強している大学の学科を選ぶ理由の一つにもなった様な気がします。さて、「美嚢郡」を書き換えるかどうか考える事にしましょうか・・・
[57829] 2007年 4月 6日(金)19:34:20矢作川太郎 さん
視界はメイリオ??
[57823]スナフキんさん

例のフォントセットの名前は「メイリオ」と言うようで・・・まあ、語源は言わずもがな「明瞭」からであって・・・

いまWindowsをお使いの方ならMicrosoft UpdateでMSフォントセットの更新プログラムが追加されているのをご存じでしょうか。どうもこれ、Windows Vistaでのフォントセットに対応するもののようで、これをインストールすると例えば、今まで正字が出ないことで何かと話題になっていた「葛」や「樽」「楢」「騨」あたりがVista同様に使えるようになるのかもしれません。

はい、つい先日インストールしました。なので、私のパソコンに表示されているフォントは全部「それ」になっています。(印象としてかなり不格好ですが、慣れの問題でしょう・・・)

一応、このページに変更の詳しい内容が書かれています。

そして、字体変更(って言ってもフォントを適用すると強制変更されますが。)のあると思しき自治体名(1990年以降に消滅した旧自治体も含む。)を列挙してみます。(皆さんもフォントの試験用に使って下さい・・・これを作るのに半日かかってしまった。(汗))

芦別市 小樽市 有珠郡 壮瞥町 東津軽郡 蓬田村 岩手郡 葛巻町 上閉伊郡 大槌町 双葉郡 葛尾村 楢葉町 茨城県 北茨城市 東茨城郡 北葛飾郡 秩父郡 長瀞町 東京都特別区 葛飾区 逗子市 河北郡 内灘町 鯖江市 飛騨(←Unicode形式)市 茨木市 神戸市 灘区 東灘区 芦屋市 葛城市 生駒郡 安堵町 北葛城郡 遠賀郡 芦屋町 葦北郡 芦北町 薩摩川内市 薩摩郡

稗貫郡 西茨城郡 東茨城郡 茨城町 東八代郡 芦川村 海部郡 宍喰町

東津軽郡 三厩村 東磐井郡 千厩町 東田川郡 櫛引町 安蘇郡 葛生町 東葛飾郡 中巨摩郡 芦安村 櫛形町 木曽郡 楢川村 坂井郡 芦原町 揖斐郡 谷汲村 山辺郡 都祁村 児島郡 灘崎町 芦品郡 小城郡 芦刈町 壱岐郡 芦辺町 薩摩郡 上甑村 祁答院町 薩摩町 下甑村 樋脇町

他にも鵠沼、蛸島、谷汲、祇園、箭田、箸蔵、等が変更されています。でも「甑島」が出るようになったのがかなり有り難いです。

この中で一番対応に苦慮したのが「都祁村」でした・・・以前は「ネ編」しか出なかったのですが、対応後、今度は「示編」しか出ないようになりよりました!(はぁ・・・)都祁村は平成3年に例の変更をしましたが、もう一つの字体変更をした「倉淵村」→「倉渕村」と違い結局字体に翻弄された村と言う事になった様です・・・(でも地名の冠称「都祁~」や都祁行政センターの名前は変更されるのだろうか・・・個人的に多少気になる。)でも、自治体名でない地名の字体ってかなり柔軟に変更が可能な印象を受けますが・・・所定のプロセスを踏んでの官報告示と違い、市内の地名変更に留められるからでしょうか?

あと、
中には「パソコンで表示ならびに印刷できる文字で代用できるものはそれを用いる」とうたっちゃっているものすら存在します。

そう言えば、私も今までそうやっていた箇所が一つあります。沖縄県那覇市の小禄地区に存在した「ごし」宮城村がそれです。字面は上に「双」下に「牛」と書くのですが、代わりに「双→雙」と言う異字体から「雙」の又の部分を「牛」に代えた字を使っていました。今回の適用であっさり上に「双」下に「牛」の字使えるようになったので良かったですが、まだ広くは使えないようです。「騨」の旧字に関してもメモ帳(ワードパッド)では保存出来ずに使えないので「飛騨(←Unicode形式)市」と書いて使っています。

そう言えばグリグリさん、機種依存文字等を使うと下記の様な警告が出る様になっていてとても有り難かったです。どうも。
★メッセージに数値文字参照「該当文字」があります。数値文字参照は使用しないでください。
[57500] 2007年 3月 31日(土)23:59:53【1】矢作川太郎 さん
私見ではあるが一応レス。
[57443]むっくんさん
[57481]88さん

私も色々と私見ではありますが、例を挙げて関連しそうな事例を紹介したいと思います。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

この問題に関連していると思われる例に常滑市蒲池町(旧:知多郡西之口村の一地区-枝郷)を紹介します。江戸期には、蒲池地区は西之口村の一部と見なされ独立して扱われていませんでした。しかし、郡区町村編制法にかかる合併によって、M.11年に所属する西之口村は近隣の榎戸村と共に大村である「大野村」に繰り入れられました。ですが、一旦合併したものの、産業形態の相違その他と思われる事情によりM.16年に分離し、その際に西之口村とは別に蒲池村が分置されました。その後、明治の大合併によって西之口村に併わせられますが、大字名としてS.51年まで存続し、後には蒲池町が設定される事に至った訳です。ところで、新町起立の際に同時に北隣の「小林町」も起立されました。この小林と言う名前は蒲池地区のさらに内部にあった枝郷に由来します。包含関係を整理して書くと、

西之口村>蒲池村(地区)>小林地区

と言う風になります。私としては蒲池村を江戸期旧村(所謂、藩政村の事)とまではいかないが、「准旧村」位には扱っても良いのではないかと考えます。(まあ、名前が准教授、扱いが冥王星の様ですが・・・) 要するに江戸期から幕末期にかけては別個の村として扱われなかったが、明治期以降にはれっきとした大字として扱われた事実を鑑みるとある程度の重視が必要になると思います。

疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

これもかなり疑問1と領域が重なる点が多いと思います。例として岡崎市真伝町を挙げます。この町は江戸期には東隣の滝町にある「滝山寺」の寺領であった新田地域でした。(余談ですが、父が人から聞いた話に依ると江戸期には滝山寺はかなりの隆盛をしており賑わっていたそうです。)この新田地域がM.24年に真田(若しくは新田)と言う大字になって大字滝から分離したそうです。後にS.30年になると「真伝町」と改称される事になり現在に至っています。その証拠に手元の道路地図(引用の地図では解りづらい。)をみてみると滝町、真伝町相互の境界が「岡崎総合運動場~(岡崎)滝団地」に掛けて若干錯綜している様に見えます。

この事例では前項目と同じく江戸期旧村の一地域をもって成立した町名を取り上げました。同様に仮に○○村と○○(村)新田と言う組になった本郷-新田関係の2つの村(新田)を元にした町名(隣接・非隣接を問わず)が並立した状態に現状なっている場合がいくつかはある事も念頭に置いておいた方が良いでしょう。 ただ、地租改正等のごく初期の段階で本郷-新田関係の2つの村(新田)が合併してただの○○村と名乗っている場合もあるので個々人の必要に応じて如何様にも解釈は可能だと思います。

多種多様の○○新田という名の村?のどこが藩政村でありどこが藩政村とならないのかという線引きをするにあたり、何らかの基準を定める必要がありそうです。

私としては後世の町名起立に何らかの変更を与えたと思われる新田を中心に据えて考えています。(この点かなり曖昧な表現になってしまいます。)

疑問3:複数の村(町)が集まって一つの村(町)とされている藩政村をどのように扱うのか?

これには春日井市坂下町を挙げます。この坂上町は江戸期に名古屋から現:恵那市付近の中山道に至る下街道(善光寺街道)の宿場として機能していました。M.11年以前には東部を「和泉村」、西部を「一色村」と言っていましたが実態は坂下宿と総称されていた様です。角川地名辞典から引用・要約するに、詳細には「宿場南部が和泉村、中部東側が和泉村、中部西側が一色村、北部が一色村」とされています。引用した地図の中央に見える細道が多分旧道です。また、中央右側を流れる内津川に架かる2つの橋の名前が泉・一色橋となっているのも名残でしょう。思うにかなり境界が錯綜していたのでしょう。

疑問4:城下町をどのように扱うのか?

この点については2つ例を挙げたいと思います。それは犬山市(大字)犬山西尾市街地です。どちらも城下町ですが、まず、この2つの市街地の大きな違いは市街地が「大字」か「町の総体(集合体)」で構成されているか、と言う点です。無論、明治期の合併の際も施行の手法が犬山は「稲置村→犬山町」と言うものだけなのに対して、西尾は「(俗に言う)西尾20町+鶴城村(鶴城と言うのは西尾城の別名?)→西尾町」と言う様に異なっています。私はこの2つの市街地がナゼこの様に異なった対応をされたのか大変不思議に思っています。例えば町の数に依ってこの様な差が生じているのでしょうか?この点は後世の調査に期待したい所です。そして本題ですが、私は村的な区域の名前と町名を並立した形で並べるのは少し混乱を生じる恐れがあると思います。理由は、所謂町名は総括する地名の存在を前提としていると考えるからです。イメージとしては、

城下町の総称>個別の町名
江戸期旧村名>小字名

と言う風になるでしょうか?かなり抵抗のある考えでしょうが、明治初期の一時期、城下町の町名にわざわざ総称となる地名を冠称している点を見ると、当時はその様に捉えられていたように思えます。

あと、
もっとも、『滋賀県の地名(日本歴史地名大系25)(平凡社、1991)』では膳所城下町の様子が完全には解明されていないとのことで、侍屋敷町の名称がすべて分かっているのかさえが甚だ疑問ではありますが。。。

との事ですが、郡区町村編制法を適応する際に、(多分)全国的に城下町に於いてかなり町名の整理が行われた様です。多分、その様な町名は通称に依るモノが多いので公称とはかなりの差違があり尚かつ、呼び名が複数有るのが普通だった様なので行われたのでしょう。拘る必要は余り無いと思います。

私としては郡区町村編制法施行期前後の合併は境界錯綜や飛び地、一体化した複数の村の統合・合理化に目的の重きが置かれているように捉えています。ですから、土地所有者や徴税する立場にある人以外にはそれほど気にするべき事柄では無かったように思えます。だから、同時期に合併された村の境界を同定するのはかなり大変だと思います。自分の方針としては集落名や寺院・神社の位置・現地踏査など総合的に踏まえてだいたいで解れば良い方だと思います。(山間部に於いては集落の一体化が進んでおらずかなりの精度で特定が可能です。)

まあ、
このままいくと、「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針になってしまいそうです。
と言うのも一つの選択肢でしょうね・・・

【1】・・・疑問3以降を大幅に改訂。


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