[101449] ekinenpyou さん
正保・天保国絵図などいろいろ調査していただきましてありがとうございます。多謝!
国絵図から読み取れる柴田郡内の宿駅は11宿ですが、もう1宿、船岡宿というのがあります。船岡は要害(城下町)として知られていますが、奥州街道から外れているため宿駅としての認知度は低いようです。しかし柴田町史 通史編1は次のように書いています。
宿駅という言葉は一般に町場とほとんど同義語として用いられる。舟岡は幹線街道である奥州街道からはそれるが、枝分かれした脇往還亘理道の宿駅という一面も有していた
そこで、船岡宿を含めた柴田郡内の12宿駅が正保・天保国絵図ではどのように表記されていたかを一覧表にしてみました。
宿駅名 | 藩政村名 | 正保国絵図に表記された名称 | 天保国絵図に表記された名称 | M22町村制 | 現行自治体 |
金ヶ瀬宿 | 平村 | 金ヶ瀬宿と平村がある | 平村があり平村之内金ヶ瀬宿もある | 金ヶ瀬村 | 大河原町 |
大河原宿 | 大河原村 | 大河原宿があり大河原村がない | 大河原村があり大河原宿がない | 大河原町 | 大河原町 |
船迫宿 | 船迫村 | 船迫宿があり船迫村がない | 船迫村があり船迫宿がない | 槻木村 | 柴田町 |
槻木宿 | 入間野村 | 入間野宿と記され槻木宿がない | 入間野村があり入間野村之内槻木村もある | 槻木村 | 柴田町 |
船岡宿 | 船岡村 | 船岡村があり船岡宿がない | 船岡村があり船岡宿がない | 船岡村 | 柴田町 |
村田宿 | 村田郷 | 村田宿があり村田郷がない | 村田郷があり村田宿がない | 村田村 | 村田町 |
菅生宿 | 菅生村 | 菅生村があり菅生宿がない | 菅生村宿とある | 富岡村 | 村田町 |
碁石宿 | 支倉村 | 支倉村と支倉村之内碁石村がある | 支倉村があり支倉村之内碁石宿もある | 富岡村 | 川崎町 |
小野宿 | 小野村 | 小野宿があり小野村がない | 小野村があり小野宿がない | 川崎村 | 川崎町 |
川崎宿 | 前川村 | 前川村と前川ノ内川崎宿がある | 前川村があり前川村ノ内川崎宿もある | 川崎村 | 川崎町 |
野上宿 | 今宿村 | 今宿と記され野上宿と今宿村がない | 今宿村があり今宿村之内野上宿もある | 川崎村 | 川崎町 |
笹谷宿 | 今宿村 | 今宿ノ内笹谷宿があり今宿村がない | 今宿村があり今宿村之内笹谷宿もある | 川崎村 | 川崎町 |
宿駅と村は別物だと思うのですが、国絵図は宿駅と村を同一視しているように感じました。図式規定が付されておらず作者の意図が分かりませんが、例えば正保国絵図には大河原宿があって大河原村はありません。対して天保国絵図には大河原村があって大河原宿がありません。大河原宿を記載しても大河原村を記載しなければ、宿場の有無は伝わっても村全体を表したことにはならないし、大河原村を記載しても大河原宿を記載しなければ、街道にとって重要施設であるはずの宿場の有無が伝わらないと考えます。なので宿駅名と村名の双方を表記すれば良いと思うのですが、各国藩によって村の面積が異なるから全藩統一した表現は難しいのでしょう。例えば
駿河国の藤枝宿は八つの村に跨っていたそうです。ざっと見たところ藤枝宿を構成していた8村あわせても、平村や大河原村1村の面積と同じくらいに見えました。
次に少し話が変わりますが、(享保の新町成立以降)金ヶ瀬宿の所属地名変遷を以下のように推測しました。
年代 | 地名 |
~明治初期 | 柴田郡平村(刈田郡には跨らず) |
明治初期~ | 同郡同村字町※ |
M22町村制施行 | 同郡金ヶ瀬村大字平字町 |
そして昭和31年、大河原町と合併して現在の柴田郡大河原町金ヶ瀬字町になりました。地名の変遷にはドラマを感じます。宮村の金ヶ瀬宿は洪水で壊滅し平村に移転してきました。当初は平村の一角に金ヶ瀬宿があるという感覚だったでしょう。しかし宿場に新町が増設されて平村の村落部と金ヶ瀬宿の町場人口が逆転。平より金ヶ瀬の方が多用される地名になったと推測されます。明治22年、平村・堤村・新寺村が合併。新村名は平村になるかと思いきやさにあらず。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になり、平村は金ヶ瀬村の大字平になりました。平村の金ヶ瀬から金ヶ瀬村の平へ立場が逆転。平村は金ヶ瀬宿に庇を貸して母屋を取られたようなものです。現行大河原町誕生の際に、消滅する金ヶ瀬村の名を継承させるために大字平を金ヶ瀬に改めました。その煽りを食らって消滅に追い込まれた平が不憫です。
※現在の小字(公称)地名「字町」はM6地租改正の頃に成立?
(小字「字町」の成立過程については調べきれませんでした、江戸時代から既に存在?)
「明治6年(1873)柴田郡金ヶ瀬村大字平字町戸割図」とあり、この時点で既に成立していた模様
(ただし金ヶ瀬村は当時まだ無いので、正確には柴田郡平村?)
地租改正にあたっては字の範囲を確定し字限図も作られたでしょうから、明治6年には「町」という名の字があったと推測しますが、江戸時代となると?です。字町戸割図は町の民俗資料収蔵室にあるようなので問い合わせたところ、本年2月の福島県沖地震で被害を受けたようで、現在は入室できない状態です。
旧小野村の場合、釜房ダムの完成で地形がだいぶ変わったところもありますがこのあたり?
現在の小字地名「字町」は藩政時代集落名として使われたもの(いわゆる通称地名)に由来?
宮城県内には仙台市七北田字町、村田町大字村田字町、大河原町金ヶ瀬字町など、「町」という名の小字が随所にあり、川崎町大字小野字町もその中の一つです。この「町」という小字は、概ね藩政時代の宿場町の区域と重なります。