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[78799] 2011年 7月 20日(水)23:01:40【2】88 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時:兵庫県) 小レス
[76732] [76733] [76734] むっくん さん
大変遅くなり失礼いたしました。

[76732] むっくん さん
◎兵庫県
■神戸市 となる従前の町村名の一部について
神戸区 「兵庫橘通一丁目」,「兵庫上橘通一丁目」, 「兵庫上橘通二丁目」, 「兵庫上橘通三丁目」 あり or なし
「幕末以降総覧」・・・各町 あり
「辞典」・・・神戸区(125町1村), 八部郡 荒田村, 兎原郡 葺合村 が合併し市制施行
(注:兎原郡 は 菟原郡 の誤り)
これらについては、「辞典」の「神戸区(125町1村)」がご紹介の資料と一致することもあり、ご指摘のとおり、各町はなかったものと判断し、修正しました

■姫路市 となる従前の町村名の一部について 飾東郡 「姫路」国府寺村の一部 or 飾東郡 国府寺村の一部
「幕末以降総覧」・・・飾東郡 国府寺村の一部
「辞典」・・・飾東郡 姫路96町(旧城下町), 中村の一部, 福中村の一部, 豊沢村の一部, 国府寺村の一部, 野里村の一部 が合併し市制施行
これは、以前むっくん さんにご教授いただいたものと同じパターンでしょうか(過去記事を発見できずだが記憶にあり)。ご指摘のとおり、飾東郡 国府寺村の一部 と判断し、修正しました
#経験的に、総称が付く自治体とそうでない自治体が合併して市制町村制施行する場合、「姫路○○『町』」「△△『村』」のように、総称のつくものは「町」であり、「村」には総称はつかない、という気がします。
もっとも、市街地で「町」であるからこそ、総称がつく、という方が理にかなっているかもしれません。

■武庫郡 甲東村 となる従前の町村名の一部について 武庫郡 門戸村 or 武庫郡 門戸村(本)
「幕末以降総覧」・・・武庫郡 門戸村(本)
 (注:(本)とは書いていないが他自治体に門戸村の一部が含まれる記載がある。以下同じ)
「辞典」・・・武庫郡 門戸村
これは、別途武庫郡 大社村に 武庫郡 門戸村(微)があることもあり、ご指摘のとおり、武庫郡 門戸村(本) と修正しました

■川辺郡 小田村 となる従前の町村名の一部について 川辺郡 善法寺村 or 川辺郡 善法寺村(本)
「幕末以降総覧」「辞典」・・・川辺郡 善法寺村(本)
これは、別途川辺郡 園田村に 川辺郡 善法寺村(微) があることもあり、ご指摘のとおり、川辺郡 善法寺村(本) と修正しました

■川辺郡 尼ヶ崎町 となる従前の町村名の一部について 川辺郡 尼ヶ崎村 竹谷新田村 or 川辺郡 尼ヶ崎町, 竹谷新田村(本)
「幕末以降総覧」・・・川辺郡 尼崎町, 竹谷新田村(本)
「辞典」・・・川辺郡 尼崎町, 竹谷新田村
まず、川辺郡 竹谷新田村 については、別途川辺郡 立花村に 川辺郡 竹谷新田村(微) があることもあり、ご指摘のとおり、川辺郡 竹谷新田村(本) と修正しました。
次に、川辺郡 尼ヶ崎村 or 川辺郡 尼ヶ崎町 については、ご紹介の兵庫県統計書明治21年などの記述に従い、川辺郡 尼ヶ崎町 と修正しました

■川辺郡 稲野村 となる従前の町村名の一部について 川辺郡 寺本村 or 川辺郡 寺本村(本)
「幕末以降総覧」「辞典」・・・川辺郡 寺本村(本)
これは、別途武庫郡 武庫村に 川辺郡 寺本村(微) があることもあり、ご指摘のとおり、川辺郡 寺本村(本) と修正しました

■川辺郡 東谷村 となる従前の町村名の一部について 川辺郡 山下村, 横路村 or 川辺郡 山下町, 横路村(本)
「幕末以降総覧」「辞典」・・・川辺郡 山下村, 横路村 (大阪府 能勢郡 吉川村 には 横路村 の記載なし)
まず、川辺郡 横路村 については、ご指摘のM22.3.5付け(兵庫)県令第34号を受け、川辺郡 横路村(本) と修正しました。
これにあわせて、市制町村制施行時の 大阪府 能勢郡 吉川村 を、「新設/村制」 能勢郡 吉川村, 兵庫県 川辺郡 横路村(微) と修正しました
次に、川辺郡 山下村 or 川辺郡 山下町 の件については、先ほどの 川辺郡 尼ヶ崎町 と同様、ご紹介の兵庫県統計書明治21年などの記述に従い、川辺郡 山下町 と修正しました
#川辺郡 尼ヶ崎町 と 山下町 は、「両方とも村ではなく町でないと数が合わない」状態であったため対応できましたが、これが仮に「どちらか一方だけが町で、他方は村だ」ということにでもなると、お手上げに近くなってしまうところです。
――――――――
[76733] むっくん さん
■有馬郡 本庄村 となる従前の町村名の一部について 有馬郡 長坂村 or 有馬郡 長坂町
「幕末以降総覧」「辞典」・・・有馬郡 長坂村
ご紹介の兵庫県統計書明治21年等の記載に従い、有馬郡 長坂町 と修正しました

■加東郡 下東条村 となる従前の町村名の一部について 加東郡 脇平村 or 加東郡 脇本村
「幕末以降総覧」「辞典」・・・加東郡 脇本村
単なる入力誤りのようです。また、ご紹介の各資料及び現在の小野市脇本町にあたると考えられることからも、ご指摘のとおり、加東郡 脇本村 と修正しました

■加東郡 上福田村 となる従前の町村名の一部について 加東郡 三草村 or 加東郡 三草町
「幕末以降総覧」・・・加東郡 三草村
「辞典」・・・加東郡 三草町
ご紹介の兵庫県統計書明治21年等の記載に従い、加東郡 三草村 と修正しました

■印南郡 平荘村 となる従前の町村名の一部について 印南郡 南西山村 or 印南郡 西山村
「幕末以降総覧」「辞典」・・・印南郡 西山村
ご紹介いただいた資料をもとに判断すると、県令が誤りであると考えたほうがよさそうです。印南郡 西山村 と修正しました

■飾東郡 城北村 となる従前の町村名の一部について 飾東郡 伊伝居山 or 飾東郡 伊伝居村
「幕末以降総覧」「辞典」・・・飾東郡 伊伝居村
単なる入力誤りのようです。M22.2.22付け(兵庫)県令第24号の記載のとおり、飾東郡 伊伝居村 と修正しました

■神西郡 寺前村 となる従前の町村名の一部について 神西郡 北小田村 or 神西郡 上小田村
「幕末以降総覧」「辞典」・・・神西郡 上小田村
単なる入力誤りのようです。M22.2.22付け(兵庫)県令第24号の記載のとおり、神西郡 上小田村 と修正しました

■揖東郡 神岡村 となる従前の町村名の一部について 揖東郡 北横内町 or 揖東郡 北横内村
「幕末以降総覧」「辞典」・・・揖東郡 北横内村
ご紹介いただいた資料をもとに判断すると、県令が誤りであると考えたほうがよさそうです。揖東郡 北横内村 と修正しました

■揖西郡 鍛冶屋村 他が廃置分合して発足する村名について 揖西郡 西来栖村 or 揖西郡 西栗栖村
■市制町村制施行時における従前の 揖西郡 二栢野村 の所属先について 揖西郡 西栗(来)栖村 or 赤穂郡 矢野村
「総覧」「幕末以降総覧」「辞典」「便覧」・・・揖西郡 西栗栖村, 赤穂郡 矢野村
まず、揖西郡 西来栖村 or 揖西郡 西栗栖村 の件は、現在のJR姫新線西栗栖駅にその名残があるように、揖西郡 西来栖村 が正当です。
次に、従前の 揖西郡 二栢野村 の件ですが、ご紹介の兵庫県報類纂 明治21-23年、今井馬吉,山下三郎編、神戸活版所、明治24-25 中のM22.2.22付け(兵庫)県令第24号の参看がすべてを物語っております。なお、兵庫県HP内の23 付録 (excelファイル、23.4シートのたつの市の欄)に、
明24. 3.25 [境界変更] 矢野村の一部(二栢野村)<西来栖村へ>
ともあります。
このため、従前の 揖西郡 二栢野村 は、M22.4.1付けの市制町村制施行時には 赤穂郡 矢野村 に属したと修正しました(揖西郡 西栗栖村赤穂郡 矢野村)。
なお、M24.3.25付けで 赤穂郡 矢野村の一部 (旧 揖西郡 二栢野村)を 揖西郡 西栗栖村 に境界変更する件は、既に入力済みでした

■揖西郡 平野村 他が廃置分合して発足する村名について 揖西郡 東来栖村 or 揖西郡 東栗栖村
「総覧」「幕末以降総覧」「辞典」「便覧」・・・揖西郡 東栗栖村
現在の東栗栖郵便局にその名残があるように、揖西郡 東栗栖村 が正当です。よって、修正しました

■赤穂郡 赤穂町 となる従前の町村名の一部について 赤穂郡 上仮屋村 or 赤穂郡 上仮屋町
「幕末以降総覧」「辞典」・・・赤穂郡 上仮屋町
ご紹介いただいた資料をもとに判断すると、県令が誤りであると考えたほうがよさそうです。ご紹介の兵庫県統計書明治21年などの記述に従い、赤穂郡 上仮屋町 と修正しました

■赤穂郡 相生村 となる変更種別について 「新設/村制」 or 「郡変更/新設/村制」
「幕末以降総覧」「辞典」・・・(変更種別記載なし)
ご紹介の(兵庫)県令第23号に従い、揖西郡 野瀬村 の郡変更を反映し、郡変更/新設/村制 と修正しました
#ちなみに、市制町村制施行時は「あう村」です。町制施行・合併を経て、S14.4.11にあう町→あいおい町に改称

■宍粟郡 山崎町 となる従前の町村名の一部について 宍粟郡 鹿沢村 or 宍粟郡 鹿沢町
「幕末以降総覧」・・・宍粟郡 鹿沢町
「辞典」・・・宍粟郡 鹿沢村
ご紹介いただいた資料をもとに判断すると、県令が誤りであると考えたほうがよさそうです。ご紹介の兵庫県統計書明治21年などの記述に従い、宍粟郡 鹿沢町 と修正しました

続きます。

[78801] 伊豆之国 さん のご指摘により修正。なんかリンクが一つずつずれた? 原因不明。
[78798] 2011年 7月 19日(火)22:40:01【2】hmt さん
「町村の同類」の呼び名
「町村制」を定めた時代の「町と村」に関する政府の考え方については、[63912] oki さんが 「市制町村制理由」 を引用して、説明されています。要するに、
都会輻輳ノ地ヲ除クノ外、宿駅ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ。
【引用部分は33コマ右頁中央付近】ということで、「町村制」という同一の制度を適用することになりました。

しかし、“元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノ”なので、町と村との区別は残されました。
そして、大部分の府県では、郡区町村編制法施行当初には多数存在した「町村の同類」の呼び名【後で例示します】が、「町」と「村」との2種類に統合されました。

ところが、[78790] オーナー グリグリ さん 指摘のように、市制町村制施行時の神奈川県においては、 1市22町293村と共に「1宿4駅」がありました。新潟県「粟島浦」も?[69163]
「日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅」

町村制の本文に使われていない「宿・駅(・浦)」ですが、上記の自治体が、町村制第1条【町村に施行】や第3条【凡町村は従来の区域を存して之を変更せず】の指す「町村」に該当するものであることは、異論のないところでしょう。

“旧神奈川県に集中していたのはどうしてなんだろう”という疑問[7820]もさることながら、「町」という呼び名への統合から漏れただけの単純な理由で、「府中駅」「日野宿」の名が残ったということではないようです。

与瀬・吉野・箱根3駅については、郡区町村編制法時代には 「村」だったにも拘らず、町村制に際して わざわざ「駅」が新たに作られ、しかも2駅の呼び名は 1913年まで続いたのでした[7922]。まことに不可解です。

[78790]グリグリさんが提起された「明治22年原データ」の取り扱いもさることながら、変遷情報が更なる過去に遡ることを考えると、「町村の同類」の取り扱いは大きな問題になるでしょう。

[78794] むっくん さんの記事から、関係部分を引用します。
郡区町村編制法施行下では町や村以外に宿や駅や山や浦などがありました。そしてこれらが町と村のいずれと見做されていたかは全国一律ではなくて道府県によって異なります。
#宿や駅や山や浦などが町と村のいずれに分類されるかという点につき、道府県と国とで異なっていたところもあります。
#郡区町村編制法が施行された当初では区町村以外に宿と駅という区分があった県(e.g.静岡県)もありましたが、遅くても明治10年代末には区町村という区分に全国的に統一されています。

補足すると、郡区町村編制法第2条では、旧町村の区域だけでなく、「名称」も そのまま使われました[7786]
郡町村ノ区域名称ハ総(すべ)テ旧ニ依ル

「旧」名称が記された代表的な資料である 国立歴史民俗学博物館の 旧高旧領取調帳データベース概要説明別記 の一番下に、「地名読み仮名・現行政地名について」という項目があり、宿(しゅく)、出作(しゅっさく)、興野[7786](ごうや)などという「読み例」が 32例も 示されています。
32例の中には、接尾語だけでなく接頭語も含まれていますが、「町村の同類」の呼び名が多数あったことがわかります。

[64165]に記したように、明治13年の郡区町村一覧[62815] 例言 にも、
宿 駅 里 郷 荘 組 通 小路 新田 出作 受所 島 浦 浜 等と称する類は其名に拘らず其実に従ふ
と記されています。

この記載は、郡区町村編制法当時における「町村の同類」の呼び名を例示すると共に、町村数集計に際しての扱いを示しています。“其実に従ふ”という言葉は、多様な呼び名を持つ「町村の同類」につき、その実体を把握しつつ 「町」と「村」との2種類に区分して 集計することを意味しています。

「町村の同類」を町と村のいずれと見做すかの扱いは府県により相違する[78794]とのことですが、「宿」や「駅」の扱いを知るための一例として、神奈川県南多摩郡 を見ると、18町 118村とあります。この表で『仝』という小文字肩書きは 総称 の『八王子』を意味していると思われますが、これが付いた4町12宿、それに横町、日野宿を加えた18町宿が「町」扱いのようです。

7年後の明治20年 地方行政区画便覧例言 には、
町村と並立したる地名にして町村と称せず何宿、駅、通、湊、小路、新田、出作、分、受、島、浦、浜、山、里、竈(中略)の如きは町村の文字なきが故に町村の区別判然せず。由て町の性質あるものは特に*を標し…
というような記載があります。

「町村の同類」を町と村のいずれと区別するかは、表記だけで画一的に決められず、昔からの難問だったようです。
そのために、府県による違い、国と府県での食い違いなども生じるものと思われます。

神奈川県南多摩郡の町村名(89~90コマ)を見ると、今度は 20町 115村と少し変化しています。20町の内訳は『八王子』 19町と日野宿ですが、前者のすべてが○○町となっており、明治13年の4町12宿から様変わりしています。
“町村という区分に全国的に統一”[78794]の傾向は、ここでも見ることができます。

郡区町村編制法時代の2つの資料では「町」扱いをされていた日野宿ですが、[78794] によれば、町村制の時代になると「村」扱いになっています。日野宿「宿長?」の公式職名は、町長から村長に変わったのでしょうか?【町村制52条では「町村長」なので、区別することは無意味かもしれませんが。】

こんな具合に、「町村の同類」の呼び名の問題は、ちょっと調べただけでも 極めて複雑です。
県と国とで扱いが違う例さえあるとなると、町と村への区分けは、何に基づけばよいのやら。

実体把握の権限を有する当時の県や国ならともかく、現代人が明治22年以前の多様な呼び名を「町と村とに仕分けする」ことなど、不可能です。
昔の人が 仕分けした記録も、完全である保証はありません。

変遷情報を明治22年以前に遡る計画を考慮した場合、町か村かという実体の「仕分け」作業には踏み込まず、使われている呼び名だけを頼りに、「1市22町1宿4駅293村設置」のように表記する[78790]案のやり方が、一番確実なのかもしれません。
[78797] 2011年 7月 19日(火)22:34:03【1】88 さん
 Re^3:「日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅」
[78790] グリグリ さん
「宿」「駅」は、「町」でよいと考えます。
なぜならば、M21.4.25法律第1号の市制町村制では、「駅」「宿」という制度はないからです。制度上、「市」「町」「村」しかありません。
「語尾」が「駅」「宿」である、市制町村制の制度上の「町」であると判断します。見た目の名称と、制度上の名称が異なるだけでしょう。
市区町村変遷情報においても、制度上の位置づけで判断すればよいと考えます。
――――――――――
これは、自治体名ではなくても、現在でも、見た目の名称と、制度上の名称が異なる事例はあります。
例えば、今回の平成の大合併でも、「大字○○」を「○○」と、「大字」の二文字を取ったところがたくさんありますが、地方自治法第260条である「字」であることが多いです。「大字○○」「○○」ともに字です。
逆に、「○○町」ではなく単に「○○」という町も、多数存在します。
事例をいくつか挙げます。
事例
「○○町△△」という町合併して高松市となった旧香川郡塩江町の部分(注)
「○○町△△」という字(大字)合併して丸亀市となった旧綾歌郡飯山町,綾歌町の部分
H17.3.22付け香川県告示第163号 (pdfファイル)
「○○町一丁目」という町住居表示実施に伴い大字を町に変更した茨城県鹿島郡神栖町の一部
H17.1.20付け茨城県告示第58号 (pdfファイル)
(注)web上にありませんので、次に記載します。(体裁は引用者が変更、原文は振り仮名つき)
高松市告示第667号
 香川郡塩江町の編入に伴い,平成17年9月26日から,次の表の左欄に掲げる区域において,右欄に掲げる町の名称を設定する旨の地方自治法(昭和22年法律第67号)第260条第1項の規定による高松市長からの届出を受理したので,同条第2項の規定により告示します。
平成17年9月26日
高松市長 増田昌三
左欄右欄
塩江町大字上西甲の区域塩江町上西甲
(以下略)
#地方自治法第260条第1項の規定により届出の受理及び同条第2項の規定による告示は、地方自治法上は知事の権限であるが、同法第252条の17の2第1項の規定を受けた香川県事務処理の特例に関する条例第2条・別表第1により、高松市長が処理する。
――――――――――
「宿」「駅」については、見た目の名称に捕らわれず、市制町村制という法律上の位置づけで判断すればよいと考えます。

#実は、正直に告白すると、日野宿や箱根駅などが市制町村制上の「村」ではなく「町」であった、という確たる証拠を確認してはおりません。元々、人口が集中した集落であり、「町」であろう、と考えただけです。
これについては、その気になって調べれば、根拠をきちんと確認できると確信していますが。
もっとも、「○○村」という名称の市制町村制上の「町」や、「○○町」という名称の市制町村制上の「村」が仮にあったとしたら、お手上げです。

―☆―☆―☆―☆―☆―☆―☆―☆―☆―
・・・と、ここまで原稿を書いていたら、[78794] むっくん さんの投稿がありました。
早速、日野宿を「村」と言い切っていた点があやしくなってきました。
「神奈川県町村合併誌上巻(編・発行:神奈川県、S33)」p.83の件を書こうとしていたら・・・まったく同じ内容のことを[78794] むっくん さんが追記されました。

[78794] むっくん さん と重複しない話を。
「大日本市町村名鑑」(星野文三編、M26.11、博聞社)の8コマ目には、東京府の南多摩郡は2町18村とあります。
しかし、14コマ目を見ると、日野宿です。
2コマ目の緒言によると、
本年(引用者注:明治26年)四月ノ現在ニ拠リ
とあるものの、緒言の末尾が
爾時ニ明治二十六年八月
とあり、8月までの市町村の変更の一部は意図して反映したのかもしれません。
なお、西多摩郡、北多摩郡及び南多摩郡が神奈川県から東京府へ移管されたのは、M26.3.6法律第12号東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律によりM26.4.1付けです。この「大日本市町村名鑑」は、この移管を反映しているものの、M26.6.19付けの南多摩郡 日野宿→日野町北多摩郡 府中駅→府中町は反映していません。
しかし、この場合、日野宿は「町」として扱われているように見えます(南多摩郡は2町18村なので、2町は八王子町と日野宿と考えるのが自然)。
むっくんさんご指摘のように、M22.4.1付け市制町村制施行時には、南多摩郡 日野宿 は市制町村制上の「村」であった場合、いつ、「町」になったのでしょうか。

仮説(1)
M26.6.19付けの南多摩郡 日野宿→日野町のときに、市制町村制上の村→町になった。
この場合、市区町村変遷情報では現在、変更種別を「改称」としているため、「町制/改称」とする必要がある。また、「大日本市町村名鑑」の南多摩郡の「2町18村」が誤りであり、「1町19村」が正当となる。
仮説(2)
M26.4.1付けの神奈川県から東京府への移管のときに、日野宿の名称のままで村から町になった(きっかけとしてはあり得る)。
そして、M26.6.19付けで、日野宿→日野町と改称した。

いずれにせよ、村から町となった時期や根拠が不明です。日野宿→日野町の根拠となる告示等がわかれば判明するかもしれません。
――――――――――
話は戻って、M22.4.1付けの神奈川県市制町村制施行時に、日野宿が町ではなく村であった証拠が、どこかに明確にあると確信しているのですが、現在のところその確認方法がわかりません。
[78796] 2011年 7月 19日(火)22:21:08オーナー グリグリ
Re^2:「日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅」
[78794] むっくんさん、さっそくの興味深いフォローをありがとうございます。
市制町村制の事例とは異なりますが、郡区町村編成法施行下では町や村以外に宿や駅や山や浦などがありました。そしてこれらが町と村のいずれと見做されていたかは全国一律ではなくて道府県によって異なります。
「町と村のいずれと見做されていたかは…」と言われている町と村というのは、当然、郡区町村編成法における町と村という意味ですよね。この法の内容をよく理解していないのですが、町と村に大きな違いや区別することに大きな意味があるのでしょうか。単に町村等というレベルで自治体の扱いを定義したものなのでしょうか。もし、後者であるならば、町、村、宿、駅、山、浦と識別しておいてもよいのではないかと思いました。

次に「1市26町294村」と「1市27町293村」との差の原因を考えます。
まず○○町と△△村はそれぞれ町、村として明らかです。差異の原因としては日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅の1宿4駅のうちのいずれか1自治体が村として取り扱われていると考えることが出来ます。
神奈川県県治一斑(明治22-23年)を見てみますと南多摩郡の町村数が1町19村とあります。郡市役所々在地名として書かれている八王子町は町であることが明らかであることより、日野宿が村として取り扱われていたものと考えられます。
日野宿が村である推察は誠に鋭い洞察であり、私もその通りであると思いますが、できればもう一つ確たる確証が欲しいところです。例えば、日野宿を村と推定した根拠である南多摩郡の町村数のように、日野宿以外の4駅が町である証拠となるデータはないのでしょうか。

神奈川県以外の事例として、新潟県岩船郡の粟島浦も挙げられます。
あぁ、過去記事にもありましたね。これは村として扱われているのですね。お手数をお掛けしました。神奈川県の1宿4駅と新潟県の1浦が、市制町村制施行時にも残っていた町村以外の事例と言うことですね。ありがとうございました。
[78795] 2011年 7月 19日(火)07:06:22k-ace さん
幌別、登別@登別市幌別駅
幌別町が登別町に改称したのは、登別温泉の影響?
って単に北海道で書き込みしたかっただけ。室蘭市に宿泊。
[78794] 2011年 7月 18日(月)17:29:39【2】むっくん さん
Re:「日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅」
[78790]グリグリさん
大正2年まで「駅」が残っていた状況を考えると、神奈川県の市制町村制施行時の注記として「1市27町293村設置」とするのではなく、「1市22町1宿4駅293村設置」とした方がよいのではないでしょうか。それとも88さん原案通り、宿も駅も町と扱ってしまった方が分り易いでしょうか。今後の検索機能の設計などにも多少影響しますので、皆さんのご意見があればお願いいたします。
市制町村制の事例とは異なりますが、郡区町村編成法施行下では町や村以外に宿や駅や山や浦などがありました。そしてこれらが町と村のいずれと見做されていたかは全国一律ではなくて道府県によって異なります。
【追記】
#宿や駅や山や浦などが町と村のいずれに分類されるかという点につき、道府県と国とで異なっていたところもあります。例えば兵庫県武庫郡の西宮鷲林寺新田, 西宮柏堂新田を兵庫県は町として、国は村として分類していたものと推測されます。
#郡区町村編成法が施行された当初では区町村以外に宿と駅という区分があった県(e.g.静岡県)もありましたが、遅くても明治10年代末には区町村という区分に全国的に統一されています。
【追記終わり】

今回の神奈川県の場合においても、当時の神奈川県の資料にあたるしか確認する方法はないものと思われます。
当時の資料である神奈川県県治一斑(明治22-23年)(編・発行:神奈川県、M26.11.10)での町村数は「26町294村」と記載されています。
【追記】
この記述は以前[75043]拙稿でも紹介した神奈川県町村合併誌上巻(編・発行:神奈川県、S33)p.83での、
かくして明治二十二年三月十一日、神奈川県知事沖守固の名をもつて次の県会(注)が公布され、一区、一七七町、一一七七村は、一市、二六町二九四村に統合された。
(注)“県会”は正しくは“県令”だと考えられます。
との記述と一致します。
よって、神奈川県の市制町村制施行時の注記としては「1市27町293村設置」でも「1市22町1宿4駅293村設置」でもなく、「1市26町294村設置」とするのが適切であるものと考えます。

次に「1市26町294村」と「1市27町293村」との差の原因を考えます。
まず○○町と△△村はそれぞれ町、村として明らかです。差異の原因としては日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅の1宿4駅のうちのいずれか1自治体が村として取り扱われていると考えることが出来ます。
神奈川県県治一斑(明治22-23年)を見てみますと南多摩郡の町村数が1町19村とあります。郡市役所々在地名として書かれている八王子町は町であることが明らかであることより、日野宿が村として取り扱われていたものと考えられます。
【追記終わり】

そこで
97 町制 南多摩郡日野宿 南多摩郡日野宿

97 村制 南多摩郡日野宿 南多摩郡日野宿
と変更することになるのではないでしょうか。>88さん

ところで、区以外では神奈川県の事例以外はないのですよね。これは確認です。
神奈川県以外の事例として、新潟県岩船郡の粟島浦も挙げられます。

(訂正)
【1】一部文章修正、大幅追記
【2】一文追加
[78793] 2011年 7月 18日(月)17:12:22【1】hmt さん
秦野市の成り立ち ついでに 60年も使われた「大秦野駅」の謎
[78789]に続いて、行政区域変遷図[76001]の情報提供です。
秦野市>秦野市の紹介>プロフィールから「成立」を選ぶと、秦野市の成立年表 として変遷図があります。

これだけではあまりに素っ気ないので、秦野のことを少し書きます。

秦野に行ったのは60年も前ですが、完全に伏流して、川原石だけの姿をさらす、文字通りの「水無川」には驚きました。
現在は、家庭や工場からの排水が処理され、安定した流量を維持しているようですね。

昭和合併で秦野市が成立する前は、この川が秦野町と南秦野町との境界であったと思われます。従って、1927年4月に小田急が開通して、水無川の南岸に小田急の「大秦野駅」ができた当時の所在地は 南秦野村と思われます。
字名は知りませんが、「大秦野」という地名があったわけではないようす。

秦野盆地は 葉たばこの産地で、「刻みたばこ」原料としての生産が盛んでした。
秦野の「たばこ」を東海道線の二宮まで輸送することを主目的として 明治末期に開業した湘南馬車鉄道は、やがて蒸気動力の湘南軽便鉄道(1918年から 湘南軌道)になり、旅客輸送もしていました。

この 湘南軌道 のルートは、おおまかに言えば二宮から県道 71号を北上し、秦野市街地の東側で水無川を越えます。
1923年の関東大震災では、かなりの被害を受けたものの復旧し、専売局工場まで市内を延長しました。
2代目「秦野駅」の記念碑は、イオン入口の信号付近にあるというので、専売局跡地がスーパーになっているのでしょう。

そこに開通したのが、鬼怒川水力電気の利光鶴松が、全線複線の高速電車によって 東京と小田原との間を直結した 小田原急行鉄道[34571]です。
こちらは 762mm単線の「軌道」ではなく、堂々たる「鉄道」ですが、駅名ということになると、後発だけに 既存の駅に使われている地名も多く、気を使うことになります。

小田原線開業時の主要駅だけ見ても、下北沢(京王電気軌道に北沢>現在は上北沢)、稲田多摩川[13284](南武鉄道の登戸にひと足遅れ)、新原町田[4684][4804](横浜線に原町田)、相模厚木[12553](神中鉄道に厚木)、新松田(御殿場線に松田)と 軒並みです。相模大野は「駅」でなかったから大野信号所。

「大秦野駅」も、この仲間であることは確かですが、どうもすっきりしません。なぜ 南秦野駅(又は 新秦野駅、相模秦野駅)でなかったのでしょう。
1932年の「大東京」実現[74867]より 5年前ですが、言葉としては、周辺地域を含めて「大○○」と呼ぶことが流行し始めていたのかもしれません。

鉄道としての実力から言えば、勝負にならない湘南軌道は、1933年に 旅客営業を休止。貨物もこれに続きました。
こうして、同名回避の必要は なくなったのですが、「大秦野駅」の名は 1987年まで 60年間も使われ続けました。

1944年には 相模厚木駅を本厚木駅に改称しているのですから、遅くともこの時までには、大秦野駅を秦野駅に改めても よさそうに思われます。
地元には、周辺地域を含めた「大秦野」構想があり、この言葉が「気に入られる名前」だったのでしょうか。

鉄道と全く無関係の分野でも、1950年に 神奈川県立秦野高等女学校が、神奈川県立大秦野高等学校と改称しています。
こうなると、鉄道駅の同名回避問題を離れて、「大秦野」が独立の地名になったのか? という印象を受けます。
[78792] 2011年 7月 18日(月)15:43:44オーナー グリグリ
行政区域の変遷(グラフ・表・年表・地図)
まず最初に、[76001]の行政区域の変遷の更新もさぼっており申し訳ありません。

[78789] hmtさん
過去に存在した市町村に関する情報が、2010年に新設合併で誕生したした自治体「加須市」のHP内で「最新情報として更新管理」されていないことは事実です。
しかし、「明治22年以降の市町村合併の経緯を分りやすく表現した図」を集める という[75486]の趣旨からすれば、2010年に役目を終えた 「歴史的存在」である合併協議会のページに、収集基準の (5) までを求める必要があるのでしょうか?
「行政区域の変遷」は最新の自治体を想定していました。そのため、収集基準(5)、すなわち、「最新情報として更新管理されている」ことを求めました。hmtさんが今回提示された旧自治体の行政区域の変遷であれば、おっしゃるように「ある時点で正確な情報」であれば良いと思います。新旧自治体をどのようにまとめて行くか工夫する必要がありますが、「行政区域の変遷」を更新する際には、ご提示いただいた資料を活用できるようにしたいと思います。ご助言をありがとうございました。
[78791] 2011年 7月 18日(月)13:50:55白桃 さん
秋の野に咲きたる花を指折り
かき数ふれば七種の花
八女、尾花沢、銚子、藤枝、葛城、高萩
滝沢村、大網白里町

[78788]グリグリさん
佐々木監督は尾花沢出身ですか・・・
「なでしこ」は秋の七草、「尾花」も秋の七草
尾花+澤選手→尾花沢はスゴイ!
[78790] 2011年 7月 18日(月)13:40:53【1】オーナー グリグリ
「日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅」
[78787] で、
(3)以降のデータにおいて設置された市町村が、市制町村制施行を基準点とした場合のベースラインとなる市町村を定義するデータであり、現在に至る市区町村の網羅された原データと言えます。
と書きましたが、原データはすべて市町村であったかという話題です。

沖縄県の那覇区や首里区、北海道の札幌区、函館区、小樽区など、区でスタートしているところもありますが(厳密には北海道はまだ未合意)、過去にも話題になっている、神奈川県の明治22年(1889年) 4月1日における市制町村制施行(1市27町293村設置)時には、日野宿、箱根駅、与瀬駅、吉野駅、府中駅の1宿4駅が「町」に統一されずにそのまま施行されました。[7922]のIssieさんの記事にも書かれていますが、箱根駅は明治25年(1892年)10月31日に箱根町に改称、日野宿と府中駅は明治26年(1893年)4月1日に東京府に移管され同年6月19日に日野町と府中町に改称、与瀬駅と吉野駅は大正2年(1913年)4月1日に与瀬町と吉野町に改称しています。

大正2年まで「駅」が残っていた状況を考えると、神奈川県の市制町村制施行時の注記として「1市27町293村設置」とするのではなく、「1市22町1宿4駅293村設置」とした方がよいのではないでしょうか。それとも88さん原案通り、宿も駅も町と扱ってしまった方が分り易いでしょうか。今後の検索機能の設計などにも多少影響しますので、皆さんのご意見があればお願いいたします。ところで、区以外では神奈川県の事例以外はないのですよね。これは確認です。
[78789] 2011年 7月 18日(月)13:15:00hmt さん
渡良瀬川改修に伴う茨城県・埼玉県の境界変更
[78776] 88 さん
埼玉県側への境界変更があったとしか考えられないのですが、具体的情報に不足していますので、情報がありましたら、ご教示いただければ幸いです。

およその時期が 1930年代初頭とわかっているので、浦和の埼玉県文書館で 埼玉県報を閲覧するのが 最も確実なのですが、近くの図書館で済まそうと、『新編埼玉県史』を調べました。
しかし、昭和初期の県境変更に関する記載を見出すことはできませんでした。

図書館で地名事典を調べると、平凡社も角川(下記に引用)も昭和5年となっており、1932年は誤記だったようです。
昭和5年7月に現在の渡良瀬川が茨城・埼玉の県境となり,右岸の伊賀袋の大部分と立崎の一部が埼玉県北埼玉郡川辺村へ合併され,大字伊賀袋となる。

年代が確定したので、「渡良瀬川 昭和5年 伊賀袋」でウェブを検索すると、加須市、騎西町、北川辺町及び大利根町の合併の歴史(PDF:111KB) がヒットし、1市3町の廃置分合経緯図2コマに、「S5.7.1」という日付も 明記されていました。
冒頭の説明文には、渡良瀬川河川改修にともない、茨城県猿島郡新郷村大字伊賀袋・立崎【の一部】から編入されたものであることも記されています。

ここから先は、オーナー グリグリさん宛です。

上記1市3町の廃置分合経緯図は、「明治22年以降の市町村合併の経緯を分りやすく表現した図」[75486]に該当すると思われるのですが、一つ気になるのが、[76001]に示された収集基準の (5) です。
(5) 自治体の公式HPに情報掲載ページへのリンクを掲載したページがあること
・公式HP内検索で引っ張り出せる孤立したページは対象外

加須市HP を見ても、既に合併協議会へのリンクはなく、サイトマップの中にもありません。
合併そのものは、既に過去の歴史になっており、合併協議会のページは記録として保存されているが、現在の公式HP内でのメンテナンスはなされていないものと理解できます。

一方、[76013]において、グリグリさんは、次のように説明されています。
収集基準の(5)の意図は、「自治体の公式HPからのリンクであることを重視」というよりも「最新情報として更新管理されている保証がない」というのが真意です。公式HPからのリンクがある=更新管理対象である、という判断です。

過去に存在した市町村に関する情報が、2010年に新設合併で誕生したした自治体「加須市」のHP内で「最新情報として更新管理」されていないことは事実です。
しかし、「明治22年以降の市町村合併の経緯を分りやすく表現した図」を集める という[75486]の趣旨からすれば、2010年に役目を終えた 「歴史的存在」である合併協議会のページに、収集基準の (5) までを求める必要があるのでしょうか?
[78788] 2011年 7月 18日(月)08:58:08オーナー グリグリ
なでしこジャパンおめでとう♪
やっぱりこのメッセージは残しておきたいね。本当におめでとう。素晴らしい試合でした。
ちなみに、なでしこの出身地を調べてみました(育った場所という意味で出生地ではない人もいます)。

北海道札幌市熊谷紗希選手
北見市高瀬愛実選手
岩手県滝沢村岩清水梓選手
山形県尾花沢市佐々木則夫監督
栃木県宇都宮市安藤梢選手、鮫島彩選手
埼玉県さいたま市山郷のぞみ選手
千葉県大網白里町宮間あや選手
東京都大田区丸山桂里奈選手
府中市澤穂希選手
武蔵野市岩渕真奈選手
神奈川県横浜市上尾野辺めぐみ選手
川崎市宇津木瑠美選手
横須賀市近賀ゆかり選手、矢野喬子選手
厚木市永里優季選手
大和市川澄奈穂美選手、大野忍選手
京都府長岡京市海堀あゆみ選手
大阪府堺市阪口夢穂選手、田中明日菜選手
鹿児島県指宿市福元美穂選手

東京都西部から神奈川県のエリアに選手が集中しているのは、日テレベレーザの下部組織である日テレメニーナの出身者が多い(8人:澤、大野、永里、宇津木、丸山、岩清水、宮間、岩渕)ということが影響しているようです。
[78787] 2011年 7月 17日(日)17:31:22オーナー グリグリ
Re:市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
88さん、大変遅くなりましたが、私からも「市区町村変遷情報」「市制町村制施行時の情報」の一通りの完成を心からお祝いいたします。また、当サイトのオーナーとして深く深く感謝いたします。これまでの並大抵ならぬご努力と粘り強い調査の継続が、今回の偉業につながったと強く感じています。この完成を持って、市区町村変遷情報も体系化の第一ステップに到達したと考えています。本当にありがとうございました&ご苦労様でした。

すでに多くの皆さんからお祝いのメッセージとともに、更なる精度向上に向けての多くのご指摘をいただいていますが、皆さんのご協力とご支援が、変遷情報の第二ステップへ向けての大きな力となることは言うまでもありません。私からも引き続き皆さんからの情報提供や、ご声援とご支援をよろしくお願いいたします。

[78774] 88さん
なお、この市町村数の修正については、私では編集不可能な部分であり、別途グリグリさんに修正を依頼し対応していただきました。
この記述が何ヶ所かにありますが、本来は市町村数を自動計算して設定すべきところを私がさぼっている訳ですから、どうぞお気遣いは無用です。むしろ、私の怠慢です。自動計算についての検討も行ってみましたが、市町村の定義など不安定な部分もあり、当面は88さんからの要求により私の方で修正する現在の方式を継続させてください。よろしくお願いいたします。

さて、市制町村制施行時の情報に掲載されている情報は以下の通りです。(1)(2)が市制町村制施行直前の廃置分合等のデータで、施行時と不可分のものと認識されているものです。(3)以降のデータにおいて設置された市町村が、市制町村制施行を基準点とした場合のベースラインとなる市町村を定義するデータであり、現在に至る市区町村の網羅された原データと言えます。このスタートラインの市町村から現在の市区町村へのつながりを、システムで論理的に検証することができるようにし(これは情報の整理や精度向上に寄与すると考えています)、かつ、市区町村データの各種検索抽出表示機能を作り込めるようにしたいと考えています(例えば、過去に存在した昭和村をすべて検索するといったようなこと)。なお、下記の一覧にはまだ北海道が含まれていません。
[78755] 88さん
今後も、北海道・沖縄県の情報の見直し、大都市・区の情報の整理、個別情報の修正作業、検索機能の導入、さらなる変遷情報の遡り、・・・など、課題は山積しており、まだまだ、やりたいこと・やるべきことは、たくさんあります。
と、88さんがおっしゃられていますように、北海道の原データの定義を優先し(暫定的でも構いません)、少しずつ改善と精度向上を計って行けたら良いなと考えています。

■(1)■明治22年(1889年) 3月1日
静岡県静岡県 市制町村制施行直前の廃置分合等
■(2)■明治22年(1889年) 3月31日
宮城県宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等
茨城県茨城県 市制町村制施行直前の廃置分合等
千葉県千葉県 市制町村制施行直前の廃置分合等
神奈川県神奈川県 市制町村制施行直前の廃置分合等
■(3)■明治22年(1889年) 4月1日
青森県青森県 市制町村制施行 1市5町165村設置
岩手県岩手県 市制町村制施行 1市21町219村設置
宮城県宮城県 市制町村制施行 1市19町179村設置
秋田県秋田県 市制町村制施行 1市14町222村設置
山形県山形県 市制町村制施行 2市8町212村設置
福島県福島県 町村制施行 21町392村設置
茨城県茨城県 市制町村制施行 1市40町335村設置
栃木県栃木県 町村制施行 26町145村設置
群馬県群馬県 町村制施行 35町171村設置
埼玉県埼玉県 町村制施行 40町369村設置
千葉県千葉県 町村制施行 42町316村設置
神奈川県神奈川県 市制町村制施行 1市27町293村設置
新潟県新潟県 市制町村制施行 1市47町768村設置
富山県富山県 市制町村制施行 2市31町238村設置
石川県石川県 市制町村制施行 1市15町258村設置
福井県福井県 市制町村制施行 1市9町168村設置
長野県長野県 町村制施行 16町375村設置
静岡県静岡県 市制町村制施行 1市31町305村設置
三重県三重県 市制町村制施行 1市18町317村設置
滋賀県滋賀県 町村制施行 6町189村設置
京都府京都府 市制町村制施行 1市(2区)14町265村設置
大阪府大阪府 市制町村制施行 2市(4区)12町310村設置
兵庫県兵庫県 市制町村制施行 2市26町402村設置
奈良県奈良県 町村制施行 10町152村設置
和歌山県和歌山県 市制町村制施行 1市2町229村設置
島根県島根県 市制町村制施行 1市8町269村設置
広島県広島県 市制町村制施行 1市12町452村設置
山口県山口県 市制町村制施行 1市4町224村設置
高知県高知県 市制町村制施行 1市2町194村設置
福岡県福岡県 市制町村制施行 2市20町364村設置
佐賀県佐賀県 市制町村制施行 1市5町130村設置
長崎県長崎県 市制町村制施行 1市5町180村設置
熊本県熊本県 市制町村制施行 1市26町354村設置
大分県大分県 町村制施行 14町265村設置
鹿児島県鹿児島県 市制町村制施行 1市115村設置
■(4)■明治22年(1889年) 5月1日
東京都東京府 市制町村制施行 1市(15区)9町76村設置
宮崎県宮崎県 町村制施行 5町95村設置
■(5)■明治22年(1889年) 6月1日
岡山県岡山県 市制町村制施行 1市3町451村設置
■(6)■明治22年(1889年) 7月1日
山梨県山梨県 市制町村制施行 1市245村設置
岐阜県岐阜県 市制町村制施行 1市25町938村設置
■(7)■明治22年(1889年) 10月1日
愛知県愛知県 市制町村制施行 1市21町626村設置
鳥取県鳥取県 市制町村制施行 1市4町233村設置
徳島県徳島県 市制町村制施行 1市2町137村設置
■(8)■明治22年(1889年) 12月15日
愛媛県愛媛県 市制町村制施行 1市12町284村設置
■(9)■明治23年(1890年) 2月15日
香川県香川県 市制町村制施行 1市5町176村設置
■(10)■明治29年(1896年) 4月1日
沖縄県沖縄県 沖縄県区制施行 2区設置/沖縄県ノ郡編制ニ関スル件施行 5郡設置
■(11)■明治37年(1904年) 5月1日
島根県隠岐国 町村制施行 1町11村設置
■(12)■明治41年(1908年) 4月1日
東京都大島 沖縄県及島嶼町村制 6村設置
長崎県対馬国 沖縄県及島嶼町村制 13村設置
鹿児島県大島郡 沖縄県及島嶼町村制施行 16村設置
沖縄県沖縄県 沖縄県及島嶼町村制 1町48村設置
■(13)■明治41年(1908年) 10月1日
東京都八丈島 沖縄県及島嶼町村制 5村設置
■(14)■大正12年(1923年) 10月1日
東京都伊豆諸島 島嶼町村制施行 10村設置
■(15)■昭和15年(1940年) 4月1日
東京都小笠原諸島,八丈島(青ヶ島) 町村制 6村設置
■(16)■昭和22年(1947年) 5月3日
東京都八丈島(八丈小島) 地方自治法施行 2村設置
[78786] 2011年 7月 17日(日)10:31:15Issie さん
信州松本!
[78780] じゃごたろ さん
東北六魂祭

…というのは,今朝の新聞記事で初めて知りました。残念なことに,あまり名誉あるできごとの記事ではなかったのですが。
いずれにしろ,すでに各県で十分に“商業化”されたイベントをさらに集めようとした商業イベントですね。
「祇園祭」のそもそもを考えれば別に否定することではないのですが,この「6つ」を選んだ根拠は何か,と考えるとやっぱり少なからず“客観性”に疑問が。青森はなぜ「ねぷた」じゃないの? なぜ,わざわざ「わらじ祭り」を選んだの?

[78783] じゃごたろ さん
地域密着のサッカーではというと、確かにチーム名は「AC長野パルセイロ」と「松本山雅FC」と都市名が入っていますが、この両者が対戦する場合は「信州ダービー」と呼ばれ、決して「長野」という単語がつかわれることはありません。

私はプロ・サッカーにはほとんど全く関心を持っていないので(自分でサッカーをすることは嫌いではないが)詳しいことは知らないのですが,何となく「ようつべ」を眺めていたら,たまたまサッカーの試合の開始前に「信濃の国」を歌っている場面に出くわしました。
どうも,この“長野のチーム”と“松本のチーム”の試合前らしい。で,こちらは松本のチームのスタンドで,そこで応援団が「信濃の国」の1番を歌っている。そして,歌った後のコールが「信州・松本!」というもの…。
相手の“長野側”がどうしているのかわからなかったのですが,「信濃の国」がこんな形で使われているのが面白く感じました。「松本山雅FC](←“サンガ”じゃなくて“やまが”と読むのですね)のファンに対する(あるいは,ファンの間の)キャッチフレーズに「スタジアムに行って『信濃の国』を歌おう!」という意味のものがあるようですね。
神宮球場の「東京音頭」みたいなものでしょうか。
別の動画では,よその県のチームとの試合でしょうか,その開始前に歌手(?)が「信濃の国」をアカペラで歌う場面があって,これには失笑してしまいました。(私はスポーツイベントの開始前に“「国歌」なるもの”をアカペラで歌う最近の風潮に良い感情を持っていません。)

「信濃」と「信州」の微妙な違いとかに関してはここでも過去に話題になっていたような気もしますが,何かあまり若者受けしそうもないような「県歌・信濃の国」がこんな形で使われていることが大変興味深く感じた次第。
あるいは,“全体”を「信州」と呼んでも,その中の個々の地点を「信州○○」と呼ぶのはそれほど一般的ではないような気がする(「信州中野」という“駅名”や,「信州新町」という“合併で創作された新自治体名”はあるが)中で,「信州松本!」というコールも意外に新鮮に感じたのでした。
[78785] 2011年 7月 17日(日)09:41:38なると金時 さん
祇園祭なう
京都もいよいよ夏本番です。
ところで、東北六魂祭とやらで、わらじ祭りだけ全く知りませんでした。
まあ、夏祭りは阿波踊りが一番ですけどね!(ただのお国自慢)
[78784] 2011年 7月 17日(日)07:45:08【3】オーナー グリグリ
公式ツイッター情報追加(増えてきました)
[78779]で、ピーくんさんからの情報を追加しましたが、あらためて公式ツイッターの調査を行いました。ちょっと油断していると、あっという間に情報が増えていますね。やはり、東日本大震災を契機に、防災情報など地域への情報発信のためにツイッターを開設するところが多くなっています。

■自治体ツイッター
都道府県自治体・担当部門名初ツイート
北海道函館市・総務部人事課2011-05-16 11:29:54
宮城県宮城県・広報課2010-07-09 09:07:42
秋田県男鹿市2011-04-06 19:24:36
福島県南会津町2011-03-11 18:09:55
茨城県茨城県・商工労働部観光物産課2010-09-24 15:33:00
茨城県茨城県・医療対策課2010-09-24 16:32:08
千葉県佐倉市・交通防災課2011-06-15 19:02:33
千葉県南房総市・情報推進課2011-03-13 22:27:15
東京都港区2011-06-01 13:56:00
東京都葛飾区・政策経営部広報課2011-06-27 13:03:56
神奈川県相模原市・広聴広報課シティセールス班2011-05-18 19:04:16
神奈川県鎌倉市・広報課2011-06-09 16:45:00
福井県福井県・健康福祉部子ども家庭課2010-04-12 16:56:41
岐阜県可児市・総務課情報管理係2011-05-26 16:15:15
愛知県安城市2011-06-09 09:02:19
三重県三重県・農水商工部マーケティング室2011-06-06 08:51:48
三重県三重県・生活・文化部文化振興室2011-06-17 09:10:44
兵庫県多可町2011-06-23 14:02:26
鳥取県鳥取県・広報課2011-03-03 00:04:16
愛媛県大洲市2011-07-08 09:24:46
愛媛県大洲市・情報管理課2011-06-20 17:12:15
愛媛県大洲市・危機管理課2011-06-20 17:37:54
福岡県古賀市2011-03-30 08:47:04
熊本県熊本県・交通政策課2010-01-04 13:29:07

首長については知事のアカウントが充実してきました。47知事のうち13知事がアカウント開設中。

■首長アカウント
役職名首長名初ツイート就任日
北海道知事高橋はるみ2011-03-01 23:05:352003-04-14
神奈川県知事黒岩祐治2010-04-14 15:32:392011-04-23
三重県知事鈴木英敬2010-01-07 06:15:572011-04-21
沖縄県知事仲井眞弘多2010-05-20 17:12:452006-12-10
三重県松阪市長山中光茂2009-09-18 05:48:102009-02-06

首長アカウントの初ツイートが古いのは、就任前からアカウントを作成している方が多いからかな。それにしても、ずいぶん前から開設しているアカウントが、なかなか見つからないというのは、探し方に工夫が足りないからかもしれません。引き続き皆様からの情報もお待ちしています。
[78783] 2011年 7月 17日(日)00:08:35【1】じゃごたろ さん
「信濃」もしくは「信州」
[78781] Issie さん
「諏訪の祭り」といえば,“7年に一度”(寅と申の年)の「御柱」を措いてこれを凌駕するものはあり得ないと思いますが。

確かに諏訪地域最大のイベントはそうですね。[78780]の書き込みをしていた時は、どちらかというと「東北六魂祭」にあるような毎年行われるような祭りをイメージしてました。

松本平では穂高神社の「御船祭り」が地域を代表する格式高い祭りだし

「お舟まつり」というと真っ先に思い浮かぶのが下諏訪町の祭りです。ご存じかもしれませんが諏訪大社下社には春宮と秋宮がありますが、毎年八月一日に春宮から秋宮へと御神体が遷座する祭りです。祭りの開催を週末に移動することが多くなった今でも八月一日に行われているお祭りです。もちろん半年後の二月一日には秋宮から春宮へと遷座するお祭りもあります。

善光寺平では,諏訪の御柱の前年に同じく“7年に一度”(丑と未の年)めぐってくる善光寺の「御開帳」

善光寺の御開帳ですが、七年に一度以外にも、実は記念になる年には実施されているということを以前きいたことがあります。詳しくどういう年だったかは覚えていませんが。。。



ただ,これが「全信州」を代表するかどうか。

かつてのIssieさんの書き込みでもありましたが(元書き込みの検索はからやきました(※1)。)、現在でも「長野県」を示すのに「信濃」もしくは「信州」という用語を用いるのは普通のようですね。

野球の独立リーグであるBCリーグのチーム名は「信濃グランセローズ」、そして今年から加盟したプロバスケットボールのbjリーグのチーム名は「信州ブレイブウォーリアーズ」。あえて「長野」を避けています。

地域密着のサッカーではというと、確かにチーム名は「AC長野パルセイロ」と「松本山雅FC」と都市名が入っていますが、この両者が対戦する場合は「信州ダービー」と呼ばれ、決して「長野」という単語がつかわれることはありません。

※1 「からやく」とは「面倒くさがる」という意味の方言です。
[78782] 2011年 7月 16日(土)22:10:25ぺとぺと さん
昔の村名
[78755] 88さん
「市制町村制施行時の情報」の完成という偉業の達成おめでとうございます。そしてありがとうございます。きめ細かいお仕事ぶりには本当に頭が下がる思いです。
さて、自分に馴染みのある地域を拝見する中で、いくつか村名等の表記が気になった箇所がありましたのでご連絡します。本来は、むっくんさんのように裏づけとして公的な資料をお示しすべきなのでしょうが、そこまで至らぬこと何卒ご了承ください。

●神奈川県
#171:大住郡成瀬村
大住郡 下粕屋村(本), 見附島村, 東富岡村, 高森村, 下落合村, 石田村(本), 粟窪村
#172:大住郡高部屋村
大住郡 上粕屋村, 日向村, 西富岡村, 下粕屋村(微), 愛甲郡 七沢村(微)
上粕屋村、下粕屋村ですが、「角川日本地名大辞典」の成瀬村、高部屋村の成立に関する記載においては、それぞれ上糟屋村、下糟屋村となっております。(両村については以前[77574]で少し触れております。)

#190:足柄上郡松田村
足柄上郡 松田総領, 松田庶子, 神山村
松田総領は、正しくは松田惣領ではないでしょうか。「角川日本地名大辞典」では松田惣領について「江戸期~明治22年の村名」として記載があります。

●大阪府
#98:豊島郡細川村
この村名の表記は細河村ではないでしょうか。このあたりは私の実家のすぐ近くなのですが、小学校名、中学校名ともに「細河」なので違和感を覚えました。「市町村変遷情報」の1935年10月の池田町の新設に関する記載においても、
豊能郡 池田町, 細河村, 秦野村, 北豊島村
となっています。

ここからは“昔の村名”つながりで少し違った話題を。東海道本線の幸田~岡崎に開業予定の新駅の名前が1906年に消滅した「相見村」にちなんで「相見駅」に正式決定したようです。「吉川美南」とは対極的な命名ですね。昨日の毎日新聞のネット記事をそのまま引用します。
JR東海は14日、愛知県幸田町菱池に建設中の東海道線の新駅の名称を「相見(あいみ)駅」に決めたと発表した。総工費は45億円で、12年春に開業する。地元では明治33(1900)年から、国などに対して「停車場」の建設を要望してきた。新駅名は、誘致を始めた当時の旧相見村にちなんで付けた。ただ、村は明治39(1906)年の合併で消滅しており、現在は「相見」の地名はない。「現存しない地名が駅名に採用されるのは難しいかと考え、第2希望に『幸田相見』などの候補も出していた」と町の担当者。世紀を超えた熱い願いが実現し、先人たちの思いはいかに。
[78781] 2011年 7月 16日(土)22:05:21【2】Issie さん
松本ぼんぼん
[78780] じゃごたろ さん
長野県の場合「諏訪湖祭」は全く知名度がない祭りでしょうが、「諏訪湖祭湖上花火大会」となると第一等のイベントになるのではないかと思います。

「諏訪の祭り」といえば,“7年に一度”(寅と申の年)の「御柱」を措いてこれを凌駕するものはあり得ないと思いますが。
この「御柱祭り」,“総本山”の諏訪大社だけではなくて,その後に順次,諏訪や松本など周辺の関連神社で行われるわけで,長野県県央部(←という呼び方を長野県ではしないけど)ではポピュラーな祭りですね。
ただ,これが「全信州」を代表するかどうか。
松本平では穂高神社の「御船祭り」が地域を代表する格式高い祭りだし,下伊那の遠山郷には「霜月祭り」という伝統のある祭りが受け継がれています。
善光寺平では,諏訪の御柱の前年に同じく“7年に一度”(丑と未の年)めぐってくる善光寺の「御開帳」こそ,一般の「お祭り」のイメージとはずれるかもしれないけれど,神社とお寺の違いだけで,その本質は全く同じ「お祭り」。
そういうお祭りが県内には大小無数にあります。
※私個人は,県内にキャンパスが分散する某大学の学生だったときにたまたま遭遇した松本市郊外神林地区の二子神社のお祭りや,これは学生寮単位でアルバイト参加していた長野市内の妻科神社や新諏訪(しんずわ)神社のお祭りに格別な印象を持っています。

「諏訪湖祭」とおそらく“対等”の位置にあるのが,長野市の「びんずる」や丸子町の「丸子どどんご」,松本市の「松本ぼんぼん」などで,同じようなイベントが県内各地で7月末から8月初めにかけて行われます。
長野の「びんずる」とは,善光寺本堂内に安置されている「おびんずる様」(賓頭盧(びんずる)尊者,ビンドラ・バラダージャ)に由来し,「松本ぼんぼん」は元は松本市内で子どもたちによって行われていたお盆の行事にヒントを得たものですが,今行われているそれはそうした由来とは別の,すぐれて商業的なイベントですね。

先ほど,NHKで京都の祇園祭の中継をやっていました。このお祭りも千年の間に“伝統”を保ちつつも,当然ながら“性格”を変えてきながら続いてきたものですよね。
それに対して,雪捨て場に溜まった雪の“有効利用”から始まった「さっぽろ雪まつり」や,各地で模倣が相次いだ「YOSAKOI」系のお祭りなど,宗教的な背景を持たずに主に商業的なイベントとして最近になって“創作”されたものも少なくない。
それらを同列に扱うのは相当に難しいことだと思います。

つまり,

ところで最近はやりの「都道府県を代表する○○」ですが、「祭り」もどなかた選定したりして。

これは無理だろう,もっと正直に「やめてくれ」と言いたい気持ちがあります。
念のために言えば,私は「商業的“松本ぼんぼん”」や「YOSAKOIソーラン祭り」のような“商業イベント”を否定するつもりはありません。
けれども,それぞれの地域の歴史やお祭りの来歴を,さらに言えばその祭りの存在自体を知らない余所者が,その「無知」の上に何の根拠もない,非常に恣意的な「独断と偏見」で選んだリストに何の価値があるのか,その意義を全く見出せません。
リストアップされるべき「祭り」とは,どのようなものを対象とするのでしょうか。このことは,すでに「山」や「川」でも問題になっていますね。どう定義づけて選択の対象としますか?

少し前に同様の意見があったのでそれに便乗するのですが,私がこの話題にどちらかというと否定的なのは,そのような気持ちがあるからです。

※蛇足
そう言えば「松本ぼんぼん」の歌で思い出したのですが,この歌の1番の歌詞の初めの方に「安曇野」って言葉が出てきます。正確には松本があるのは 安曇野(安曇郡) ではなく,「筑摩野(つかまの)」(筑摩(ちくま)郡)なんですけどね。
[78780] 2011年 7月 16日(土)21:01:53【2】じゃごたろ さん
市道東山山麓線
こんばんは、じゃごたろです。

[78773]Issie さん
「東山」というとほぼ美ヶ原に限定されるようです。

塩尻市と松本市にまたがり、タイトルにあるように「市道東山山麓線」という道路があります。塩尻市と松本市のどちらが起点でどちらが終点かはしりませんが、塩尻市側は国道20号を塩尻峠を越えて塩尻ICの直前で分岐して高ボッチ山麓を北上し、松本市内田の県道松本塩尻線へと至る路線です。

地図を見ると高ボッチ山の南にその名も「東山」がありますが、存在感としては高ボッチ山の方が圧倒的に高いと思います。この路線名も「東山」そのものというよりも、松本平の東側の山々を意味しているのではないかと想像することができますので、必ずしも「美ヶ原」だけを指し示すのではないのではないかと思っています。



これとは別に、TBSの音楽番組で「東北六魂祭」というイベントが紹介されていますが、これは

青森 ねぶた祭り
盛岡 さんさ踊り
仙台 七夕まつり
秋田 竿灯まつり
山形 花笠まつり
福島 わらじ祭り

だそうです。福島県は相馬の野馬追ではないのですね。他の五県は県庁所在地の祭りですから、福島もそれにあわせたのでしょうか。まあ野馬追が仙台ではむりだということは十分承知していますが。

ところで最近はやりの「都道府県を代表する○○」ですが、「祭り」もどなかた選定したりして。

長野県の場合「諏訪湖祭」は全く知名度がない祭りでしょうが、「諏訪湖祭湖上花火大会」となると第一等のイベントになるのではないかと思います。
[78779] 2011年 7月 16日(土)13:01:18オーナー グリグリ
公式ツイッター
ピーくんさんからメールで以下の公式ツイッター追加情報をいただきました。
また、未ツイートだった青森県西津軽郡深浦町役場が6/23からツイートを始めたとの情報もいただきました。

神奈川県横須賀市
和歌山県日高郡印南町
島根県飯石郡飯南町
徳島県名西郡石井町
愛媛県新居浜市
宮崎県秘書広報課

和歌山県、徳島県、愛媛県、宮崎県は初の公式ツイッターです。
これで発見されていない都道府県は、滋賀県のみとなりました。
ピーくんさん、いつもありがとうございます。
[78778] 2011年 7月 16日(土)12:55:57【2】88 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時以降)(各府県) 小レス
[78777]の続きです。[78457][78528] 中島悟 さん ご指摘への対応です。

■T14(1925)6.10付けで 福島県 大沼郡 玉路村 となる従前の町村名の一部について 大沼郡 永玉岡村 or 大沼郡 氷玉岡村
M22.4.1付けの町村制施行時のとおり、大沼郡 氷玉岡村 と修正しました
余談ですが、氷玉岡村は、M10に永会村と関上村が合併して誕生した氷玉村と、福重岡村が合併して誕生した、合成村名です。

■S30(1955).3.1付けで 茨城県 猿島郡 岩井町 となる従前の町村名の一部について 猿島郡 弓間田村 or 猿島郡 弓馬田村
S30.2.28付け総理府告示第246号を確認しました。猿島郡 弓馬田村 と修正しました

■S30(1955).4.15付けで 茨城県 久慈郡 金砂郷村 となる従前の町村名の一部について 久慈郡 郷戸村 or 久慈郡 郡戸村
S30.4.15付け総理府告示第1160号を確認しました。久慈郡 郡戸村 と修正しました

■S30(1955).2.1付けで 群馬県 邑楽郡 板倉町 となる従前の町村名の一部について 邑楽郡 西矢田村 or 邑楽郡 西谷田村
S30.1.31付け総理府告示第66号を確認しました。邑楽郡 西谷田村 と修正しました

■M23(1890).5.17付けで 長野県 更級郡 笹井村 となる従前の町村名の一部について 更級郡上氷鉤村 (かぎ) or 更級郡 上氷鉋村 (かんな)
ご指摘のように、M22.4.1付けの町村制施行時のとおり、更級郡 上氷鉋村 と修正しました

■M31(1898).6.17付けで 長野県 上伊那郡 伊那村 となる従前の町村名の一部について 上伊那郡 上伊那村 or 上伊那郡 東伊那村
ご指摘のように、M22.4.1付けの町村制施行時のとおり、上伊那郡 東伊那村 と修正しました

■S31(1956).9.30付けで 長野県 南佐久郡 小海町となる従前の町村名の一部について 南佐久郡 小牧村 or 南佐久郡 北牧村
S31.9.30付け総理府告示第591号を確認しました。南佐久郡 北牧村 と修正しました

■S32(1957).8.1付けで 長野県 上水内郡 戸隠村 となる従前の町村名の一部について 上水内郡 棚村(たな) or 上水内郡 柵村(さく)
S32.7.31付け総理府告示第349号を確認しました。上水内郡 柵村 と修正しました

■S10(1935).8.1付けで 静岡県 駿東郡 愛鷹村 となる従前の町村名の一部について 駿東郡 高根村 or 駿東郡 鷹根村
単なる入力ミスでした。駿東郡 鷹根村 と修正しました

■M27(1894).7.23付けで 京都府 船井郡 富本村 となる従前の町村名の一部について 船井郡 本庄村 or 船井郡 本荘村
単なる入力ミスでした。船井郡 本荘村 と修正しました
なお、この件は、[67522] むっくん さん で、新設合併年月日についてご指摘があり、[67801] 88 で対応していました。船井郡 本庄村 or 船井郡 本荘村 については、改めて、[67522] むっくん さん ご紹介のM27(1894).7.23付け京都府公示第125号に従い、船井郡 本荘村 と判断します。

■S30(1955).3.31付けで 兵庫県 神崎郡 神崎町 となる従前の町村名の一部について 神崎郡 栗賀村(くり) or 神崎郡 粟賀村(あわ)
S30.3.31付け総理府告示第931号を確認しました。神崎郡 粟賀村(あわ) と修正しました

■M43(1910).7.1付けで 山口県 豊浦郡 安岡村 となる従前の町村名について 豊浦郡 豊岡中村 or 豊浦郡 豊西中村
単なる入力ミスでした。豊浦郡 豊西中村 と修正しました

■S30(1955).7.1付けで 山口県 下関市 となる従前の町村名の一部について 厚狭郡 玉喜村 or 厚狭郡 王喜村
S30.6.30付け総理府告示第1277号を確認しました。厚狭郡 王喜村 と修正しました

■S31(1956).9.30付けで 高知県 高岡郡 葉山村 となる従前の町村名の一部について 高岡郡 市半山村 or 高岡郡 下半山村
S31.9.30付け総理府告示第777号を確認しました。高岡郡 下半山村 と修正しました

■H6(1994).1.1付けの 沖縄県 中頭郡 与那城村 が 中頭郡 与那城町 となる件について
これは、「よなぐすくそん」から「よなしろそん」に改称し、その後、「与那城村」を「与那城町」と町制施行したものです。
個別情報の詳細欄には、この読み方の改称も含めて記載しています(本来は、改称の根拠となるのは、自治省(当時)の告示ではなく、各自治体の改称の条例ですが)。
読み方の改称の表記方法は、「変更対象自治体名/変更内容」欄に記載したり、「詳細(協議状況・経過等)」欄に記載したり、と、一貫していない面があるのは事実ですので、将来の検討課題とさせてください。

■S30(1955).3.20付けで 千葉県 市原郡 千種村 が 五井町, 姉崎町に編入される件について
入力漏れでした。ただし、経緯を確認すると、次のとおりでした。
・S30.3.19付け総理府告示第380号により、千葉県市原郡五井町及び千種村を廃し、S30.3.20付けで市原郡五井町を設置。
・S30.3.31付け総理府告示第922号により、S30.3.31付けで市原郡五井町のうち大字今朝山(一部を除く)、大字白塚、大字柏原及び大字青柳の一部を姉崎町に境界変更する(いずれも旧千種村の区域)
つまり、3月20日から3月30日までの11日間は五井町に属したものの、3月31日からは姉崎町に属するようになったものです。これら2件の情報を追加しました(S30.3.20付け五井町新設合併姉崎町境界変更)。

■S13(1938).2.11付けで 高知県 安芸郡 野根村 が町制施行して 安芸郡 野根町 となる件について
単なる入力漏れでした。追加しました

――――――――――
以上、[78774]から本稿まで、市区町村変遷情報関係の要レス分について、在庫となっていたものの一部をまとめて投稿しました。まだ多数残っていますので、順次対応してまいりますので、少々お待ちください。
また、数々の指摘をいただいている皆様、ご連絡いただきありがとうございます。今回の修正の不具合分その他、お気づきの点がありましたら、ご遠慮なくおっしゃっていただければ幸いです。とても助かっています。
今後ともよろしくお願いいたします。
[78777] 2011年 7月 16日(土)12:54:3188 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時以降)(各府県) 小レス
[78457][78528] 中島悟 さん
ご指摘ありがとうございます。
行番号につきましては、その後の修正作業等により、ずれているものが多数ありますので、変更施行年月日及び変更後の市町村名を記載して閲覧者の便宜を図ります。
調査にあたっては、総理府告示等を確認できたもの(官報情報検索サービスによる)については、その旨を記載することをもって対処し、これらを確認できていないものは、各種文献の記載や前後のつながり等により判断しました。

■S29(1954).8.1付けで 宮城県 遠田郡 小牛田町 及び 古川市 に編入される村の所属郡について 遠田郡 敷玉村 or 志田郡 敷玉村
S29.7.31付け総理府告示第673号で確認しました。志田郡 敷玉村 と修正しました(遠田郡 小牛田町古川市 )。

■S30(1955).9.30付けで埼玉県 熊谷市、行田市 及び 北足立郡 吹上町 に編入される村の所属郡について 北足立郡 太井村 or 北埼玉郡 太井村
S30.9.30付け総理府告示第1433号で確認しました。北埼玉郡太井村と修正しました(熊谷市行田市 北足立郡 吹上町)。

■S29(1954).6.1付けで 千葉県 海上郡 旭町 に編入される村の所属郡について 海上郡 共和村, 豊畑村 or 匝瑳郡 共和村, 豊畑村
S29.5.28付け総理府告示第498号で確認しました。匝瑳郡 共和村, 豊畑村 と修正しました

■S31(1956).9.30付けで 静岡県 周智郡 森町 に編入される村の所属郡について 小笠郡 三倉村 or 周智郡 三倉村
S31.9.30付け総理府告示第628号で確認しました。周智郡 三倉村 と修正しました

■S30.2.1付けで 三重県 桑名市 及び 員弁郡 東員村 に編入される村の所属郡について 桑名郡 久米村 or 員弁郡 久米村
S30.2.1付け総理府告示第108号で確認しました。員弁郡 久米村と修正しました(桑名市員弁郡 東員村)。

■S33(1958).10.1付けで 大阪府 柏原市 となる従前の町の所属郡について
これについては、[78457][78528]で取り消されていますが、せっかくですので経緯をまとめておきます。
・S31.9.30付け総理府告示671号により、同日付けで 中河内郡 柏原町と 南河内郡 国分町 が合併し 柏原町 発足
・S31.9.30付け総理府告示第672号により、柏原町 の属すべき郡を 中河内郡 とする
・S33.6.30付け総理府告示第232号により、中河内郡 柏原町 を 柏原市 とする

■S8(1933).4.1付けで 兵庫県 津名郡 洲本町 に編入される村の所属郡について 津名郡 加茂村, 大野村 or 三原郡 加茂村, 大野村
これは、ご指摘のようにM22(1889).4.1付けの市制町村制施行時が三原郡 加茂村三原郡 大野村であり、その後の郡変更もありません。よって、三原郡 加茂村, 大野村 と修正しました

■S30(1955).2.1付けで 兵庫県 城崎郡 日高町 に境界変更される村の所属郡について 城崎郡 宿南村 or 養父郡 宿南村
S30.2.1付け総理府告示第109号で確認しました。養父郡 宿南村 と修正しました

■M29(1896).9.1付けで 奈良県 平群村と改称される明治村の所属郡について生駒郡明治村 or 平群郡 明治村
ご指摘のように、そもそも、生駒郡の発足がM29.3.30付け法律第45号奈良県下郡廃置法律によりM30.4.1付けですから、生駒郡はありえません。このため、平群郡 明治村を改称して 平群郡 平群村 となった、と修正しました

■S31(1956).9.30付けで 奈良県 大和高田市 に編入される村の所属郡について 磯城郡 陵西村 or 北葛城郡 陵西村
S31.9.30付け総理府告示第701号で確認しました。北葛城郡 陵西村 と修正しました

■S29(1954).7.20付けで 高知県 高岡郡 越知町 に編入される村の所属郡について 高岡郡 明治村 or 吾川郡 明治村
S29.7.19付け総理府告示第644号で確認しました。吾川郡 明治村 と修正しました

■S28(1953).11.16付けで 茨城県 新治郡 石岡町 に従前の町村名の一部について 新治郡 高浜村 or 新治郡 高浜町
S28.11.12総理府告示第230号で確認しました。新治郡 高浜町と修正しました

■S29(1954).5.3付けで 栃木県 芳賀郡 二宮町 となる従前の町村名の一部について 芳賀郡 久下田村 or 芳賀郡 久下田町
S29.4.8付け総理府告示第421号で確認しました。芳賀郡 久下田町 と修正しました

■S29(1954).11.3付けで 栃木県 那須郡 那須町 となる従前の町村名の一部について 那須郡 那須町 or 那須郡 那須村
S29.11.2付け総理府告示第926号で確認しました。那須郡 那須村 と修正しました

■S29(1954).4.1付けで 藤岡市 となる従前の町村名の一部について多野郡 神流村 or 多野郡 神流町
S29.3.29付け総理府告示第303号で確認しました。
しかし、総理府告示でも 多野郡 神流村 であり、M22.3.4付け群馬県令第19号による市制町村制施行時は緑野郡 神流村(196コマ目)であり、その後、M29.3.30法律第41号によるM29.4.1付けの多野郡への変更はあったものの、町制施行した経緯も見当たりません。
よって、そのままとしました
なお、H15.4.1付けで多野郡 神流町が発足しましたが、直接関係はありません。

■S2(1927).4.1付けで 埼玉県 大里郡 熊谷町 となる従前の町村名の一部について 北埼玉郡 成田町 or 北埼玉郡 成田村
[76121] 白桃 さん でも、同じ指摘を頂いていました。
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・北埼玉郡 成田村
単なる入力誤りのようです。北埼玉郡 成田村 と修正しました

■S30(1955).4.19付けで 千葉県 香取郡 神崎町 となる従前の町村名の一部について 香取郡 米沢町 or 香取郡 米沢村
S30.4.18付け総理府告示第1192号で確認しました。香取郡 米沢村 と修正しました

■S30(1955).4.29付けで 千葉県 長生郡 長柄町 となる従前の町村名の一部について 長生郡 長柄町 or 長生郡 長柄村
S30.4.21付け総理府告示第1209号で確認しました。長柄郡 長柄村 と修正しました

■S17(1942).6.1付けで 富山県 婦負郡 婦中町 となる従前の町村名の一部について 婦負郡 速星町 or 婦負郡 速星村
ご指摘のとおり、M22(1889).4.1付けの市制町村制施行時が 婦負郡 速星村であり、その後町制施行しておりません。よって 婦負郡 速星村 と修正しました

■S29(1954).3.1付けで 富山県 射水郡 大門町 となる従前の町村名の一部について 射水郡 水戸田町 or 射水郡 水戸田村
S29.2.27付け総理府告示第57号で確認しました。射水郡 水戸田村 と修正しました

■S15(1940).4.1付けで 静岡県 富士郡 吉原町 となる従前の町村名の一部について 富士郡 島田町 or 富士郡 島田村
ご指摘のとおり、M22(1889).4.1付けの市制町村制施行時が富士郡 島田村であり、その後も町制施行しておりません。よって、富士郡 島田村 と修正しました

■S30(1955).5.1付けで 静岡県 引佐郡 引佐町 となる従前の町村名の一部について 引佐郡 奥山町 or 引佐郡 奥山村
S30.4.28付け総理府告示第1235号で確認しました。引佐郡 奥山村 と修正しました

■S29(1954).3.31付けで 三重県 名張市 となる従前の町村名の一部について 名賀郡 滝川町 or 名賀郡 滝川村
S29.3.24付け総理府告示第147号で確認しました。名賀郡 滝川村 と修正しました

■S30(1955).1.1付けで 京都府 中郡 峰山町 となる従前の町村名の一部について 中郡 吉原町 or 中郡 吉原村
S29.12.27付け総理府告示第1133号で確認しました。中郡 吉原村 と修正しました

■S15(1940).6.1付けで 大阪府 南河内郡 長野町 となる従前の町村名の一部について 南河内郡 千代田町 or 南河内郡 千代田村
ご指摘のとおり、T5(1916).4.1付けで改称して南河内郡 千代田村となっており、その後も町制施行しておりません。よって、南河内郡 千代田村 と修正しました

■S28(1953).7.1付けで 大阪府 豊中市 及び 吹田市 となる従前の町村名の一部について 三島郡 新田町 or 三島郡 新田村
S28.6.25付け総理府告示第127号で確認しました。三島郡 新田村 と修正しました(豊中市吹田市)。

■S30(1955).1.15付けで 大阪府 河内市 となる従前の町村名の一部について 中河内郡 英田町 or 中河内郡 英田村
S29.12.28付け総理府告示第1242号を確認しました。中河内郡 英田村 と修正しました

■S31(1956).4.1付けで 兵庫県 津名郡 一宮町 となる従前の町村名の一部について 津名郡 山田町 or 津名郡 山田村
S31.3.31付け総理府告示第170号を確認しました。津名郡 山田村 と修正しました

■S32(1957).2.11付けで 高知県 幡多郡 大月町 となる従前の町村名の一部について 幡多郡 月灘町 or 幡多郡 月灘村
S32.2.2付け総理府告示第58号を確認しました。幡多郡 月灘村 と修正しました

■S29(1954).4.1付けで 熊本県 宇土郡 宇土町 となる従前の町村名の一部について宇土郡 花園町 or 宇土郡 花園村
S29.3.25付け総理府告示第201号を確認しました。宇土郡 花園村 と修正しました

■S32(1957).4.1付けで 熊本県 上益城郡 矢部町 となる従前の町村名の一部について 上益城郡 中島町 or 上益城郡 中島村
S32.2.2付け総理府告示第61号を確認しました。上益城郡 中島村 と修正しました

■S29(1954).3.31付けで 大分県 大分郡 大南町 となる従前の町村名の一部について 大分郡 判田町 or 大分郡 判田村
S29.3.24付け総理府告示第161号を確認しました。大分郡 判田村 と修正しました

■S22(1947).8.1付けで 沖縄県 国頭郡 上本部村 となる従前の町村名について 国頭郡 本部村 or 国頭郡 本部町
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」とも、国頭郡本部村がS15(1940).12.15に町制施行して本部町に、1947.8.1に上本部村が分立
単なる入力ミスのようです。S15.12.15付け町制施行の国頭郡本部町修正しました

次稿に続きます。
[78776] 2011年 7月 16日(土)12:46:3788 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時以降)(三重県、千葉県、香川県、茨城県・埼玉県) 小レス
[76894] むっくん さん
◎三重県
■河曲郡 川曲村 が 河曲郡 河曲村 となる改称年月日について M24(1891).6.1 or M24(1891).6.12
■安濃郡 草谷村 が 安濃郡 草生村 となる改称年月日について M24(1891).6.1 or M24(1891).6.12
■一志郡 佐田村 が 一志郡 倭村 となる改称年月日について M24(1891).6.1 or M24(1891).6.12
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」とも・・・3件ともM24(1891).6.1付け
しかし、ご紹介のM24.6.12付け三重県告示第61号(pdfファイル、1コマ目)に基づき、いずれもM24.6.12付け改称と修正しました(河曲郡 河曲村安濃郡 草生村一志郡 倭村)。

■北牟婁郡 引本村 が 北牟婁郡 引本町 となる町制年月日について M32(1899).2.2 or M32(1899).2.21
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」とも・・・M32(1899).2.2
ご紹介のM32.2.21付け三重県告示第26号(pdfファイル、1コマ目)に基づき、M32.2.21付け町制と修正しました

■S9(1934).9.1 付けで 北牟婁郡 相賀町 が「あふが」から「あいが」に改称する件について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・記載なし
「あふが」は歴史的仮名遣いの表記ですが、「おーが」と発音し、現代仮名遣いでは「おうが」と表記します。「あふぎ→おうぎ(扇)」と同じです。
(参考:歴史的仮名遣い教室歴史的仮名遣い 読み方の決まり)
ご紹介のS9.8.29付け三重県告示第943号(pdfファイル、1コマ目)に基づき、S9.9.1付け改称を追加しました

■S15(1940).11.3付けで 一志郡 家城村, 境村 が 一志郡 家城町 となる変更種別について 新設/町制 or 編入/町制
「総覧」「便覧」「辞典」・・・新設/町制
「幕末以降総覧」・・・(変更種別不明)
ご紹介のS15.11.1付け三重県告示第1276号(pdfファイル、1コマ目)及びS15.11.2付け三重県告示第1279号(pdfファイル、1コマ目)に基づき、S15.11.3付け編入/改称と修正しました

◎千葉県
■上埴生郡 武丘村 が 上埴生郡 庁南町 に町制/改称する年月日について M23(1890).3.23 or M23(1890).3.12
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M23(1890).3.12
ご紹介のM23.3.12付け千葉県令第37号に基づき、M23.3.12付け町制/改称と修正しました

■平郡 凪原村が 平郡 那古町 に町制/改称する年月日について M25(1892).12.28 or M26(1893).1.27
「総覧」「便覧」・・・M25(1892).12.28
「幕末以降総覧」・・・M26.1.27
「辞典」・・・M26.1.27(M25.12.28)
「辞典」は、お得意の両論併記です。ご紹介のM26.1.27付け千葉県告示第14号に基づき、M26.1.27付け町制/改称と修正しました

■武射郡 旭村 が 武射郡 横芝村 に改称する年月日について M25(1892).12.28 or M26(1893)1.27
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」・・・M25(1892).12.28
「辞典」・・・M26.1.27(M25.12.28)
これも「辞典」は両論併記です。ご紹介のM26.1.27付け千葉県告示第15号に基づき、M26.1.27付け改称と修正しました

■香取郡 香取村 が 香取郡 香取町 に町制施行する年月日について M30(1897).5.5 or M30(1897).4.30
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M30(1897).5.5
ご紹介のM30.4.30付け千葉県告示第67号に基づき、M30.4.30付け町制と修正しました

■夷隅郡 中魚落村 が 夷隅郡 大原町 に町制/改称する年月日について M32(1899).12.20 or M32(1899).12.22
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・ M32(1899).12.22
ご紹介のM32.12.22付け千葉県告示第261号に基づき、M32.12.22付け町制/改称と修正しました
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[75491] 白桃 さん
◎香川県
■大川郡 松原村 が 大川郡 白鳥本町 となる町制/改称年月日について M41(1908).1.1 or M43(1910).1.1 or M42(1909).10.1
「総覧」「便覧」「辞典」・・・M43(1910).1.1
「幕末以降総覧」・・・M41(1908).1.1
香川県立図書館で香川県報(マイクロフィルム)を閲覧すると、根拠となる香川県告示は次のとおりでした。
●香川県告示第五百三十二号
県下大川郡引田村ヲ明治四十二年十月一日ヨリ引田町トシ仝郡松原村ヲ白鳥本町ト為ス
 明治四十二年九月十七日
香川県知事 小野田 元煕
「白鳥町史」(昭和60年3月25日、編集:白鳥町史編集委員会、発行:香川県大川郡白鳥町)の掲載記事の中には、町制・改称に関して諸手続きの一部を紹介していました。
手続きに関しては、香川県知事からの
訓第二百十七号
其村ヲ白鳥本町ト改称スルノ可否本月三十日限答申スヘシ
 明治四十二年六月二日
香川県知事 小野田 元煕
に対し、明治42年6月27日付けの松原村会では、
第三号案
町制実施ノ可否ノ知事ノ諮問ニ対シ答申ノ件
別紙写ノ通リ諮問ニ付キ左ノ通リ

本村ヲ白鳥本町ト改称スルコト可ナリ
との案が示されているようです。
また、町制・改称の施行年月日については、明治四十三年一月一日であるとした上で、
「大川郡誌」に「昭和四十一年一月一日」とあるのは誤り
ともあります。
つまり、香川県告示ではM42.10.1付け施行と一旦は決定したものの、何らかの事情で延期となり、M43.1.1付け施行と変更となった、と推測します。M41.1.1施行とある文献も、何らかの理由による誤りでしょう。
この、M43.1.1付け施行とする香川県告示を発見できていないため、確たる根拠を発見できていませんが、とりあえず、各種資料からM43(1910).1.1施行と判断し、修正しました
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[76950] hmt さん
1932年7月1日に、県に関わる境界変更があり、当時の 茨城県猿島郡新郷村伊賀袋と立崎の一部が、埼玉県北埼玉郡川辺村に編入されました。
[76929]hmt さん
小野袋
迅速測図(1884)の時代からそこそこの集落があった埼玉県北埼玉郡小野袋村は、1889年の町村制で、渡良瀬川下手の柏戸村・向古河村などと共に川辺村になりました。1932年には、茨城県の飛び地になっていた伊賀袋も編入。
この件なのですが、私が調べた限りでは、これを裏付ける資料を発見できておりません。例えば、
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・記載なし
です。
具体的な文献、県告示等の年月日・番号など、何か情報がありましたら、お教えいただけると幸いです。

確かに、3県境の歴史からみても、ご指摘のような境界変更があったことは間違いないでしょう。
現に、市制町村施行直前のM22(1889).3.31に 西葛飾郡 伊賀袋村, 立崎村 ほかが合併して西葛飾郡 新郷村となり、M22.4.1付けでそのまま市制町村制施行
その後、M29(1896).4.1付けで猿島郡 新郷村となった後、S30(1955).3.15付けで新郷村は古河市に編入。

その一方、伊賀袋は現在の埼玉県加須市であり、立崎は茨城県古河市にわずかを残すのみ(地図)。
埼玉県側への境界変更があったとしか考えられないのですが、具体的情報に不足していますので、情報がありましたら、ご教示いただければ幸いです。
[78775] 2011年 7月 16日(土)12:41:0288 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時以降)(大阪府、和歌山県) 小レス
[74517] むっくん さん

まず、府令(県令)・府告示(県告示)と公報発行日との関係について述べます。
例として、ご紹介のうち2件目の例を引用します(旧字体は引用者が置き換え)。
大阪府告示第二百十九号
町村制第四条第百三十条ニ依リ府下住吉郡依羅村大字我孫子、山之内、杉本、杉本新田、庭井、苅田ヲ分割シテ依羅村ヲ置キ大字寺岡、堀、前堀ヲ分割シテ長居村ヲ置ク
明治二十七年十月二十五日 大阪府知事 山田信道
この告示が掲載されている大阪府公報には、表題のところに
大阪府公報 第千三十六号 明治二十七年十月二十九日 毎月月曜木曜日発行 大阪府
とあります。M27(1894).10.25は木曜日、M27(1894).10.29は月曜日です。

むっくんさんは、このような場合、M27.10.25は知事の裁可日(決裁(意思決定)した日)であり、この告示の効力が発生したのは、大阪府公報が発行されたM27.10.29であるとのご指摘のようです。
確かに、過去の議論において、むっくんさんからいろいろとご教示いただきました。

しかし、この議論とは別のこととして、「裁可日」「公報発行日」の間に、告示文を府県庁前等の掲示板又はこれに類するものに掲示することによって周知が図られ、公報はこの後追いで発行されているのが現実ではなかったのでしょうか。
時代があまりに異なる点はありますが、例として、現在の規定として、北海道HP内(北海道公報登載と掲示場掲示の違いについて)を挙げます。
ここには、公報への搭載と別の手続きとして、告示を掲示場に掲示することを明記しています。
このことは、HPだけではなく、S46.1.4付け北海道告示第1号北海道告示式にも示されています。

つまり、公報発行日を待たずして告示日(=この場合は裁可日)を以って掲示板に掲出され、この行為により、この日をもって告示の効力は生じているものと考えます(後追いで、印刷物の公報を発行)。
そうでないと、各公報の発行日を確認しないと告示日だけでは施行日を判断することができない、ということにもなってしまい、現実的ではないのではないでしょうか。
(直接的には、私の編集作業に大いに支障をきたすという意識が私にあることを否定しませんが。)

この考えにより、以下に個別に述べます。
――――――――――
◎大阪府
■志紀郡 道明寺村, 沢田村 が新設合併して 志紀郡 道明寺村 となる新設合併年月日について M23(1890).4.1 or M23(1890).3.31
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M23(1890).4.1
ご紹介のM23.3.31付け大阪府令第27号 (pdf、1コマ)によりM23(1890).3.31付け新設合併と判断し、修正しました

■住吉郡 依羅村 の発足について
施行日 M27(1894).10.25 or M27(1894).10.29
変更種別 住吉郡 依羅村 から 住吉郡 長居村 が分立 or 住吉郡 依羅村 を分割し 住吉郡 依羅村 及び 住吉郡 長居村 を設置
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M27(1894).10.15
冒頭のとおり、M27.10.25付け大阪府告示第219号 (pdf、1コマ)によりM27(1894).10.25付け分割と判断し、施行日はそのままとしました。
変更種別(分立 or 分割)については、[63906] むっくん さん が
分立ではなくて分割とする方がよいかもしれない、と考えられますがいかがでしょうか。「廃し」という文言がないため、分立としておく方が解釈としてはおそらく無難なのでしょうが。
と書いておられ、私も[64607]
告示の表現が微妙ですがむっくんさんの御意見のように「・・・を廃し」がないので、当面の間は無難に「分立」としておきます。
としていたのですが、前言撤回して、告示の表現が
住吉郡依羅村・・ヲ分割シテ依羅村ヲ置キ・・ヲ分割シテ長居村ヲ置ク
ですので、この機会に(旧)依羅村を「分割」したと判断し、修正・追加しました住吉郡 依羅村住吉郡 長居村

■大鳥郡 中上神村, 南上神村 が新設合併して 大鳥郡 上神谷村 となる新設合併年月日について M27(1894).11.10 or M27(1894).11.12
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M27(1894).11.10
冒頭のとおり、M27.11.10付け大阪府告示第225号 (pdf、1コマ)によりM27(1894).11.10付け新設合併と判断し、そのままとしました

■南河内郡 富田林村 が 南河内郡 富田林町 となる町制施行年月日について M29(1896).8.8 or M29(1896).8.20
「総覧」「便覧」・・・M29(1896).8.1
「幕末以降総覧」・・・M29(1896).8.8
「辞典」・・・M29.8.1(8)
冒頭のとおり、M29.8.8付け大阪府告示第222号 (pdf)によりM29(1896).8.8付け町制と判断し、そのままとしました

■M30(1897).4.1付けの 西成郡 津守村 の変遷について
西成郡 津守村 が 西成郡 川南村の一部 を編入(残余は大阪市へ編入)
or
西成郡 川南村の一部 が大阪市へ編入、残余の 西成郡 川南村の一部 が改称して 津守村 が発足
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・西成郡 川南村の一部 が大阪市へ編入、残余の 西成郡 川南村の一部 が改称して 津守村 が発足
単なる入力ミスのようです。ご指摘のように、M29.7.10付け大阪府告示第186号 (pdf、3/4コマ)により、西成郡 川南村の一部(と言っても大阪市へ編入された残余すべてのため、改称の時点では川南村のすべて)が改称して 西成郡 津守村 発足と修正しました

■三島郡 茨木村 が 三島郡 茨木町 となる町制施行年月日について M31(1898).10.14 or M31(1898).10.15
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M31(1898).10.14
■三島郡 高槻村 が 三島郡 高槻町 となる町制施行年月日について M31(1898).10.14 or M31(1898).10.15
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M31(1898).10.14
冒頭のとおり、M31.10.14付け大阪府告示第198号 (pdf)により共にM31(1898).10.14付け町制と判断し、そのままとしました三島郡茨木町三島郡高槻町

■南河内郡 廿山村 が 南河内郡 川西村 となる改称施行年月日について M32(1898).3.30 or M32(1898).3.31
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M32(1898).3.30
冒頭のとおり、M32.3.30付け大阪府告示第69号 (pdf、52/52)によりM32(1899).3.30付け町制と判断し、そのままとしました

■T2(1913).5.1付けで 中河内郡 に発足する村名、従前の村名の一部及び同村がT2(1913).7.1付けで 中河内郡 大正村 となる従前の村名について 中河内郡 三本木村 or 中河内郡 三木本村
■T2(1913).5.1付け合併の変更種別について 新設 or 編入
これについては、[76894] むっくん さん、[78457][78528] 中島悟 さん でもご指摘をいただいておりますので、ここであわせて対応します。
ご指摘のように、M22.4.1付けの市制町村制施行時に丹北郡 木本村, 志紀郡 南木本村, 北木本村 の3村が合併し、志紀郡 三木本村 となったものです(その後、M29(1896).4.1付け郡廃置により、中河内郡 三木本村) 。
変更種別については、
「総覧」「便覧」「辞典」・・・新設
「幕末以降総覧」・・・(変更種別記載なし)
しかし、ご紹介のT2.4.21付け大阪府告示第105号(pdfファイル、10コマ目)及びT2.6.30付け大阪府告示第180号(pdfファイル、1コマ目)に基づき、変更種別は編入、村名は三木本村 と修正しました(M22.4.1付け志紀郡 三木本村T2(1913).5.1付け 中河内郡 三木本村T2(1913).7.1付け 中河内郡 大正村

■T14(1925).4.1付けで 大阪市 に編入される従前の町村名の一部について 西成郡 北中島町, 東成郡 古市町 or 西成郡 北中島村, 東成郡 古市村
「総覧」・・・西成郡 北中島村, 東成郡 古市町
「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・西成郡 北中島村, 東成郡 古市村
ご紹介のT14.2.26付け大阪府告示第50号 (pdf)に従い、西成郡 北中島村 , 東成郡 古市村 と修正しました
なお、町村の並び順も、大阪府告示のとおりに修正しました。

■T14(1925).4.1付け大阪市の区の再編及びこれに付随する区の境界変更について
■S7(1932).4.1付け大阪市の区の再編について
■S18(1943).4.1付け大阪市の区の再編及びこれに付随する区の境界変更について
これにつきましては、大都市・区の変遷に関することとして、別稿とさせていただきます。

◎和歌山県
■那賀郡 粉河村 が 那賀郡 粉河町 となる町制施行年月日について M27(1894).5.1 or M27(1894).5.10
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M27(1894).5.1
これは、ご紹介のM27.5.10付け和歌山県告示第66号に明確に記述されておりますので、M27.5.10付け町制施行と判断し、修正しました

■西牟婁郡 田辺町, 下芳養村 が新設合併して 田辺市 となる新設/市制施行年月日について S17(1942).3.20 or S17(1942).5.20
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・S17(1942).5.20
単なる入力誤りのようです。上記各種文献、そして何よりもご紹介いただいたS17.5.18付け内務省告示第346号によりS17(1942).5.20付け新設/市制と判断し、修正しました
[78774] 2011年 7月 16日(土)12:25:18【2】88 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時) 小レス
[78763] MI さん
[78766] むっくん さん
[78767] 千本桜 さん
メッセージをありがとうございます。
大勢の皆さまからの豊富な話題、示唆に富む発言・ご教示により、私自身が十分把握していなかった諸制度や背景についての理解が深まり、その都度、編集作業を質・量ともに進化させていったという感があります。
また、私自身のチェック作業の不十分な点を、皆様のご協力(情報提供、ご指摘)により、着実に精度が向上していると自負しております。
古い文献を中心として諸文献には明らかな誤りも多く、信憑性には疑問符をつけざるを得ない情報も多々ありますので、これらを精査して、合理的・客観的に見て妥当な「事実」を見極め、これを一元的にまとめるということに大きな意義があると考えています。
また、自治体の変遷は、地名、歴史、文化、経済活動その他に相互に影響があることも事実であり、基礎データとしての側面が大きいと考えます。
まだまだ溜めているレスもありますが、当面は新たな情報の追加作業は予定していませんので、精度を上げることと、市区町村変遷情報の今後に向けた検討を進めていきたいと思います。

この場をお借りいたしまして、一言申し上げます。
改めまして、むっくんさん に御礼を申し上げます。
むっくんさん の、各諸制度等の豊富な知識・調査、情報提供につきましては、市区町村変遷情報のみならず、本「都道府県市区町村」に多大な貢献となっていることは、衆目の一致するところでしょう。
私自身の市区町村変遷情報の編集作業において、まだまだむっくんさんの期待に応えられていない面が多々あろうかと思いますが、少しずつではありますが、積み重ねてまいりたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
――――――――――
[74517] むっくん さん
■和歌山県 伊都郡 橋本町 が発足する経緯・町制施行年月日について M22(1889).4.1市制町村制施行時に合併により発足 or M27(1894).5.10に 伊都郡 橋本村 が単独町制施行
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・ M22(1889).4.1市制町村制施行時に 伊都郡 橋本町 として発足 (M27(1894).5.10付け町制は記載なし)
伊都郡 橋本村 → 橋本町 の件については、各種文献の記載状況は上記のとおりですが、根拠となる、ご紹介のM27.5.10付け和歌山県告示第66号の記述だけでも間違いないところです。さらに、「和歌山県令達全書 県令・告示・告諭・訓令・内訓・達」(岩谷民蔵編、M23)のM22.2.22付け(和歌山)県令第15号79コマ目、「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、M22)第2冊の50コマ目、「大日本市町村名鑑」(星野文三編M26.11)の274コマ目がいずれもM22.4.1付け市制町村制施行時が 伊都郡 橋本村 との記述を確認しました。
加えて、M23.10.6付け内務省告示第34号明治22年12月31日市町村現住人口375コマでも、M22.12.31現在では伊都郡橋本村です。
よって、M22.4.1の市制町村制施行時にも 伊都郡 橋本村 であったと判断し、修正・追加しました(M22.4.1付け 伊都郡 橋本村M27.5.10付け 伊都郡 橋本村→橋本町)。
これにより、和歌山県の市制町村制施行時は、ご指摘のとおり、
(誤)和歌山県市制町村制施行 1市3町228村設置
(正)和歌山県市制町村制施行 1市2町229村設置
修正しました
なお、この市町村数の修正については、私では編集不可能な部分であり、別途グリグリさんに修正を依頼し対応していただきました。

[78457][78528] 中島悟 さん
■M22(1889).4.1付け岩手県の市制町村制施行について
今回の一括登録にあわせて、岩手県の市制町村制施行時の市町村数については、ご指摘のとおり、 「1市21町219村設置」と修正しました
なお、この市町村数の修正については、私では編集不可能な部分であり、別途グリグリさんに修正を依頼し対応していただきました。
■M22(1889).4.1付け奈良県の町村制施行時の町村数について
■吉野郡 上市村, 立野村 が合併して発足して町村制を施行する町村について 吉野郡 上市村 or 吉野郡 上市町
この件については、[78496] むっくん さん でもご指摘をいただいていますが、ここで対応します。
「総覧」・・・吉野郡 上市村 (ただし、その後町制施行の記載はなく、上市町としてS31.5.3付けで吉野町となり消滅)
「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・吉野郡 上市町
・「奈良県統計書 明治22年」(編・出版:奈良県、M23.7.4)の各郡新町村区域に、廃置分合後の町村及び旧町村が記載されています。当該ページ(23コマ目)では、吉野郡上市村であり、吉野郡内は個別に見ると町はなく、26村になりますが、吉野郡計の欄には、「町1 村25」とあります。
ちなみに、同様に、十市郡も個別に見るとすべて村ですが。十市郡計の欄では「町1 村8」で、 田原本町 が 田原本村 と誤記となっているようです。
他の文献は、次のとおりです。
吉野郡 上市町
新町村区域表(編・出版:石田定鹿、M22.3.7)
新旧対照市町村一覧(著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12)
大日本市町村名鑑(著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)
(注:M23.4.1付け吉野郡下市村→下市町も反映済みのため吉野郡は2町となっている)
吉野郡 上市村
M23.10.6付け内務省告示第34号明治22年12月31日市町村現住人口
当該ページ(342コマ目、法令全書ではp.316)
#ちなみに、1年後のM24.7.8付け内務省告示第30号明治23年12月31日市町村現住人口当該ページ(423コマ目、法令全書ではp.351)では、 吉野郡 上市町 です。
その後、上市村 が 上市町 となったと思われる資料も見あたりません。
S31.5.3付けで 吉野郡 吉野町となる従前の町村も、S31.4.30付け総理府告示第231号を再確認してみても、 吉野郡 上市町 です。
これらのことを総合的に鑑み、M22.4.1付けの町村制施行時から 吉野郡 上市町 であったと判断し、修正しました
これに伴い、奈良県の町村制施行時の町村数は、
 (誤)奈良県町村制施行  9町153村設置
 (正)奈良県町村制施行 10町152村設置
修正しました
なお、この市町村数の修正については、私では編集不可能な部分であり、別途グリグリさんに修正を依頼し対応していただきました。

[78763]MI さん
■M22(1889).4.1付け新潟県の市制町村制施行時 刈羽郡 石地町村 or 石地町
失礼いたしました。失念しておりました。ご紹介いただいたように、[68959] MI さん、[69153] 88 のとおりです。
[68959] MI さんを改めて要約すると、新潟県公報の1890(明治23)年4月18日正誤で、
明治二十二年(三月)県令甲第二十二号改称市町村名中刈羽郡 石地町村 ハ 石地町 ノ衍
とあり、M22.3.?付け(新潟)県令甲第22号別冊55/87コマ目の 刈羽郡 「石地町村」が誤りであり、「石地町」が正しい(「衍」とは、「村」の文字が余分との意)、ということです。
よって、刈羽郡 石地町 と修正しました
■M22(1889).4.1付け新潟県の市制町村制施行時 中頸城郡 北大浜村 or 北大瀁村 or 大瀁村
これも[68959] MI さん、[69153] 88 のとおりです。
同じく[68959] MI さんを改めて要約すると、新潟県公報の1890(明治23)年5月2日正誤で、
明治廿二年(三月)県令甲第二十二号改称市町村名中中頸城郡 北大瀁村 ハ 大瀁村 ノ衍
とあり、M22.3.?付け(新潟)県令甲第22号別冊61/87コマ目の 中頸城郡 「北大瀁村」が誤りであり、「大瀁村」が正しい(「衍」とは、「村」の文字が余分との意)、ということです。
よって、中頸城郡 大瀁村 と修正しました
これにより、新潟県の市制町村制施行時の市町村数を、
 誤:1市46町769村設置
 正:1市47町768村設置
修正しました
なお、この市町村数の修正については、私では編集不可能な部分であり、別途グリグリさんに修正を依頼し対応していただきました。

[78767] 千本桜 さん
■M22.4.1付け町村制施行時の情報で、福島県 田村郡 三春村 or 田村郡 三春町
単なる入力ミスでした。田村郡 三春町 と修正しました
――――――――――
市制町村制施行時の情報で、各町村名の表記はさることながら、市町村数については市制町制施行の根本となることから、先行して「これで間違いなし」と断言したいところです。
今回の修正後、もう確定だとは思っておりますが、まだ誤り等がありましたら、お知らせいただけると幸いです。
――――――――――
その他の情報の修正につきましては、追って調査の上、順次対応いたしますので、少々お待ちください。
[78773] 2011年 7月 16日(土)11:24:37Issie さん
美ヶ原
[78772] 千本桜 さん
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。

「美ヶ原」というのは元々,山上の放牧地の名前だったようですが(それほど古い名前ではない),現在の松本では“山全体”の名前として理解されているようです。
個別の峰の呼称としては「王ヶ鼻」,「王ヶ頭」などといった名前があるのですが,それはあくまでも“全体の中の部分”の名前であって,別に“全体”の名前が必要。
で,「美ヶ原」という名前が定着するまでは漠然と「東山」と呼んでいたようです。
「西山」,つまり乗鞍などの北アルプス主稜線やその前に連なる常念などの“前山”の総称に対する呼び名ですね。ただし,松本市街は松本盆地の東縁を限る糸・静線ライン(その一部は最近注目の「牛伏寺(ごふくじ)断層」)よりも東に引き込んだ女鳥羽(めとば)川と薄(すすき)川の扇状地にあるので,「西山」というと西側に見える山並み全部,つまり北アルプスとなるのに対して,「東山」というとほぼ美ヶ原に限定されるようです。
[78772] 2011年 7月 16日(土)08:48:49【1】千本桜 さん
成田山、新月村
[78769] 伊豆之国さん

比叡山の場合は、延暦寺の山号「比叡山」と自然地形の山名「比叡山」が同時に思い浮かんできます。でも、個人的には自然地形の山名「比叡山」の方を強く意識しているようです。高野山の場合は金剛峯寺の山号「高野山」と自然地形の山名「高野山」があると仮定して、個人的には金剛峯寺の山号「高野山」の方を強く意識しています。成田山となると、意識するのは新勝寺の山号「成田山」ですね。こうして考えると、難しいものですね。でも、面白い。
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。国土地理院は王ヶ頭、王ヶ鼻を山名を意味する文字で表記し、美ヶ原は山名を意味しない文字で表記しています。でも、美ヶ原は日本百名山に入っているのですね。

[78770]むっくんさん
本吉郡新月村についてですが、明治8年に合併してその後分離して明治22年に再度合併した可能性はないのでしょうか。

そこに着眼されましたか。さすがに、むっくんさんです。明治8年に合併したけれど、2、3年後には元の新城村と月館(月立)村に分離した可能性は大ありです。ただし、確信は持てません。確信が持てないのは、そのことについて文章化された記述を見たことがないからです。しかし、表組化された市町村変遷表から推測すると、2村間で合併→分離→合併を繰り返した可能性があることを見てとれます。

ここに、宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」があります。昔のことなので記憶は不確かですが、宮城県史からコピーしたように憶えています。この変遷表によると、本吉郡の藩政時代の村数は33村。明治9年は18村。明治11年は19村。明治14年は19村。明治17年は19村。明治22年の大合併直前は19村。明治9年から11年の間に1村増えています。変遷表を読み進むと、明治9年の欄に新月村の名があるのに、明治11、14、17、22年大合併直前の欄には新月村の名がなく、新城村と月立村の名が記載されています。そして、明治22年の町村制を迎えるに当たり新城村と月立村が合併。新月村誕生。このことから推測すると、合併→分離→合併の可能性が大きいですね。

この変遷表は所々に誤字が目につきますが、表から判断する限りでは、「明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等」の合併後名称新月村の参加自治体
本吉郡 新城村, 月館村
の月館村は、月立村と表記すべきかな?と思われます。いずれにしても、誤字が目につく文献ですから真偽のほどは分かりません。ちなみに、現代に通用する地名は「月立」です。「月館」は藩政時代に通用した書き方ではないかと私は思っています。

訂正機能で追加書き込み。
投稿の後で読んでみると、88さんの「市制町村制」施行時の都道府県別一覧に誤記が多い、と受け止められかねない文章になっていました。誤記が目につくのは、私が所持している宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」ですので、誤解なさらないでください。
[78771] 2011年 7月 15日(金)17:52:34【1】山野[山野] さん
どちらでしょう?
合併オタクから見ても「岩舟は何がしたいの?」と言いたくなってしまう。
迷走を極める「岩舟」。またも「どちらが本当なのか不明」という事態に。

引用だらけの記事になってしまいますが…。
今週月曜日([78754])にて
今月15日に臨時会を開く(岩舟町役場HPより)との事で、
流れからしてこの日に採決されるかと予想しています。
…と書いたが、岩舟町役場のHPでは
岩舟町議会第4回臨時会
※平成23年7月15日(金)、平成23年第4回岩舟町議会臨時会が開催されます。(午前10時開会予定)
一方、まちBBS・栃木県下都賀郡岩舟町 part6 正々堂々真っ向勝負!の投稿では、
186 名前:がんばろう日本人 投稿日:2011/07/15(金) 09:43:43
本日 佐野市との合併協議会
7月25日 臨時議会:住民投票条例案可決(予定)
8月28日 住民投票日(予定)
臨時会が延期になったのか、役場に掲載されている予定日が違っているのか(延期だが直していないのか)
掲示板と役場の臨時会情報、10日違うがどちら本当なんだ?
[78770] 2011年 7月 15日(金)13:01:40むっくん さん
本吉郡新月村について
[78768]千本桜さん
本吉郡新月村についてですが、明治8年に合併してその後分離して明治22年に再度合併した可能性はないのでしょうか。

まず明治8年頃に日本全国で行われた町村合併は、地租改正による負担増を出来る限り避けるために行われたといっても過言はないものです。
#当時の町村の多くでは、飛地などが入り混じっていて町村の境界が複雑でした。そのような町村で地租改正が行われた後に合併しないという選択をすると、負担が激増しました。

その後、「別に合併しなくてもよかった、合併前の村に戻りたい」「この村の規模では大きすぎるので2つに分かれたい」などと県当局に申し出をした村も多数ありましたが、「町村の合併や分離においては内務省との調整もあり、県当局側の負担も多大である。そのため、安易には村の分離は認められない。」としてほとんどが却下されています。
とは言え、分離が認められた村も少数ながらあります。ただ、そういった村も結局は明治の大合併で合併していたりします。

この例として長野県小県郡の平井村と高梨村、同県埴科郡の小島村, 寂蒔村, 鋳物師屋村, 打沢村, 桜堂村を挙げます。

(事例1)
M9.8.__平井村, 高梨村→西内村
M14.5.18西内村→平井村, 西内村旧・平井村の区域が平井村として分離
M22.4.1平井村, 西内村→西内村

(事例2)
M9.5.30小島村, 寂蒔村, 鋳物師屋村, 打沢村, 桜堂村→東船山村
M14.5.23東船山村→小島村, 寂蒔村, 鋳物師屋村, 打沢村, 桜堂村
M22.4.1小島村, 寂蒔村, 鋳物師屋村, 打沢村, 桜堂村→埴科村

このような2例があるのですから、本吉郡新月村についてももう少し他の文献も調べられてから結論づけても良いのではないか、というのが個人的な意見です。
#私見ですが、角川地名大辞典にしても平凡社日本歴史地名大系にしても明治22年以前はそれ以降に比べますと、まだまだ調査不足の印象を受けます。例えば、静岡県遠江国榛原郡にはかつて永里村という村がありました。永里村は明治9年に4村合併で成立し、静岡県甲第73号布達(M11.6.3)で元の4村に分割されて消滅しました。上述の事例2の長野県埴科郡東船山村と同じです。ところが、角川地名大辞典にも平凡社日本歴史地名大系にも永里村は記載されていません。
[78769] 2011年 7月 14日(木)23:28:04伊豆之国 さん
「成田山」という山はあるのでしょうか?
[78712][78751]千本桜さん
「高野山」と言う名の山はあるのでしょうか?。
[78715][78762]futsunoおじさん
「山」には宗教的修行の場等の意味もありますので
東京近郊で考えた場合、まず思いつく「宗教的な意味を持つ山」、そこに建つ社寺への参拝で賑わう山というと、高尾山とか大山あたりがすぐ思い浮かぶのでしょうが、「成田山」という場合だと、その地に建つ寺院「新勝寺」の山号を意味するものであって、地形名称としての「成田山」という名の山はおそらく存在せず、航空写真を見ても、果たして「山」といえるほどのものでもなさそうです。「高野山」の場合、「成田山」とは違って確かに「山の中」にはありますが、その地名としての使われ方から見ると、「成田山」の場合に近いようなものではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
[78768] 2011年 7月 14日(木)23:05:01千本桜 さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等
宮城県関係で気が付いた点です。

合併後の名称・宮城郡七北田村について。参加自治体の七木田村は、正しくは七北田村ではないでしょうか。
合併後の名称・宮城郡松島村について。参加自治体に手樽村,幡谷村,北小泉村,竹谷村が漏れているようです。
合併後の名称・宮城郡原町について。参加自治体の仙台区北六番町(微)は、正しくは仙台区北六番丁(微)ではないでしょうか。
合併後の名称・加美郡鳴瀬村について。参加自治体の雑色目村は、正しくは雑式目村ではないでしょうか。
合併後の名称・栗原郡姫松村について。参加自治体の玉沢村は、正しくは王沢村ではないでしょうか。
合併後の名称・桃生郡二股村について。参加自治体の福田村は、正しくは東福田村ではないでしょうか。
合併後の名称・本吉郡十三浜村について。参加自治体に十三榎とあるのが理解できません。十三浜ではないでしょうか。

亘理郡荒浜村について。明治22年、高須賀村が改称して荒浜村になったはずですが「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に荒浜村の記載がありません。単なる漏れでしょうか、それとも「直前の廃置分合等」には該当しないのでしょうか。

本吉郡新月村について。「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に新月村が記載されています。ということは、新城村と月館村が合併して新月村になったのは、明治22年3月31日と判断して良いのでしょうね。ところが、角川地名大辞典には次のような記述があります。原文のまま書き写します。
同8年気仙沼村(気仙沼本郷を改称)・鹿折村・大島村を除く8か村が次のように統合された。
新月村=新城村・月立村
松岩村=赤岩村・松崎村
階上村=長磯村・最知村・波路上村・岩月村
同8年とは明治8年のことです。ところが、同じ辞典の中に明治22年合併らしき記載もあったりして不可解です。結構迷いますね。明治8年にしろ22年にしろ、そんなに遠い昔のできごとではないはずなのに、過ぎてしまったことは曖昧になってしまうものなのですね。
[78767] 2011年 7月 13日(水)22:01:36千本桜 さん
私からも “祝” 市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
[78761] 88 さん
今後とも、市区町村変遷情報をよろしくお願いいたします。

大事業、本当におつかれさまでした。感謝申し上げます。早速、宮城県の市制町村制施行時の情報を拝見いたしました。ひとつ、確認をお願いしてよろしいでしょうか。仙台市の市制町村制施行前の町村名等で、片平町、東一番町、教楽院町など(その他、多数あり)は片平丁、東一番丁、教楽院丁と表記するのが正しいはずですので、参考にされた資料との照合をお願いします。仙台の場合、町人の区域は「町」、武家の区域は「丁」と書き表す慣しがありました。

仙台区を構成する市制町村制施行前の町村名等の中頃にある
田原長町通, 車町, 柳町通, 北目町通, 新小寺小路, 榴ヶ岡, 長泉寺横
の「新小寺小路」は正しくは「新寺小路」のはずですので、ご確認おねがいします。

福島県の市制町村制施行時の情報で、田村郡の「三春町」を「三春村」と誤打されているようです。
[78766] 2011年 7月 13日(水)18:17:09【1】むっくん さん
Re:市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
[78755][78761]88さん
市区町村変遷情報(1990年から明治の大合併である市制町村制施行時まで)を5年がかりで遡られたとのこと、本当にお疲れ様でした。言葉に言い尽くせない苦労もあったことと推察します。


さて[78756]hmtさんでのご提案
市制町村制施行に少し先んじて 廃置分合が実施された 5県[77581]における 旧町村からの合併情報
(略)
実質的には 市制町村制施行と不可分の情報なので、ぜひとも早期に補足していただきたと思います。
[78761]88さんにて採用されたようですので、私からは以下の7点の追加をも取り急ぎ提案します。
[78756]hmtさんのご提案ほどの重要性はないと思われますので取り扱いは88さんに一任します。

(1)大分県でM22.4.1の市制町村制施行に少し先んじて県令甲第11号(M22.3.2)で行われた郡変更([76873]参照)
1889(M22).3.2 郡変更 下毛郡長尾野村 日田郡から下毛郡に

(2)栃木県でM22.4.1の市制町村制施行に少し先んじて勅令第32号(M22.3.13)で行われた郡の廃止([76873]参照)
1889(M22).3.13 編入 下都賀郡 寒川郡, 下都賀郡

(3)島根県でM37.5.1の隠岐国町村制施行に少し先んじて島根県告示第2号(M37.1.9)(「新修島根県史史料編(近代上)」(編・出版:島根県、1966)pp.697-698に記載)で行われた廃置分合
島根県告示第二号
郡区町村編制法ニ依リ隠岐国町村ノ内左ノ通区域名称ヲ変更シ明治三十七年四月一日ヨリ施行ス
明治三十七年一月九日 島根県知事 井原 昂
周吉郡
 西郷町 合
   西郷中町 西郷東町 西郷西町
(以下略)

1904(M37).4.1新設周吉郡西郷町周吉郡 西郷中町, 西郷東町, 西郷西町
1904(M37).4.1新設周吉郡東郷村周吉郡 飯田村, 東郷村, 犬来村, 釜村, 大久村
1904(M37).4.1新設周吉郡布施村周吉郡 卯敷村, 布施村, 飯美村
1904(M37).4.1新設周吉郡中村周吉郡 元屋村, 中村, 湊村, 西村, 穏地郡 伊後村
1904(M37).4.1新設周吉郡中条村周吉郡 原田村, 上西村, 池田村, 有木村, 平村, 八田村
1904(M37).4.1新設周吉郡磯村周吉郡 西田村, 下西村, 今津村, 加茂村
1904(M37).4.1新設穏地郡都万村穏地郡 都万村, 津戸村, 那久村, 油井村, 周吉郡 蛸木村, 穏地郡 南方村(微)
1904(M37).4.1新設穏地郡五箇村穏地郡 郡村, 山田村, 那久路村, 小路村, 北方村, 代村, 苗代田村, 久見村, 南方村(本)
1904(M37).4.1新設海士郡海士村海士郡 海士村, 宇受賀村, 豊田村, 福井村, 布施村, 知々井村, 太井村, 崎村
1904(M37).4.1新設知夫郡黒木村知夫郡 別府村, 宇賀村, 美田村

(4)東京府大島での1908(M41).4.1島嶼町村制施行に少し先んじて、勅令第45号(沖縄縣間切並東京府伊豆七島及小笠原島ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件)(M40.3.16)が内務省令第29号(M40.12.28)で適用されたことにより行われた改称
1908(M41).2.1 改称 波浮港村 波浮港

(5)東京府八丈島での1908(M41).10.1島嶼町村制施行に少し先んじて、勅令第45号(沖縄縣間切並東京府伊豆七島及小笠原島ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件)(M40.3.16)が内務省令第29号(M40.12.28)で適用されたことにより行われた改称
1908(M41).2.1改称大賀郷村大賀郷
1908(M41).2.1改称中ノ郷村中ノ郷

(6)東京府大島での1908(M41).4.1島嶼町村制施行に少し先んじて行われた改称
(実施日は郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42.12.10)による。)
1908(M41).3.1 改称 元村 新島村

(7)東京府利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島での1923(T12).10.1島嶼町村制施行に少し先んじて、勅令第45号(沖縄縣間切並東京府伊豆七島及小笠原島ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件)(M40.3.16)が内務省令第18号(T12.7.7)
明治四十年勅令第四十五号ハ大正十二年八月一日ヨリ之ヲ東京府利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島ニ施行ス
大正十二年七月七日 内務大臣 水野錬太郎
で適用されたことにより行われた改称
1923(T12).8.1改称利島村利島
1923(T12).8.1改称神津島村神津島
1923(T12).8.1改称御蔵島村御蔵島

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最後に。

市区町村変遷情報の今後の課題・方針については、[74238][78755]88さんでほぼ挙げられていると思いますので、私からは
さらなる変遷情報の遡り
について具体的なところを1点だけ書きます。
私見ですが、現在のように全国均一に遡ることはやめ、各府県ごとに遡るようにした方が良いのではないかと思っています。
理由としては各府県ごとに残っている史料について多寡がある為です。さらにその条件下で市区町村変遷情報の信憑性を落とさないようにしなければなりません。
具体的な法的根拠が見つかるところは良いのですが、見つからないことも多々あります。そのような時は、各町村について個々の文献でどのように記されているかを時系列で並べ、その変遷を各府県ごとに作成する必要性に迫られるのではないでしょうか。私は前述の方法で現在の20府県の範囲について調べ、残っている史料が多い複数の府県においては、天保郷帳・天保国絵図まで遡ることにほぼ成功しています。
[78765] 2011年 7月 13日(水)16:01:14【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (8)世界自然遺産区域 海図に使われる広域地名
小笠原村HPに世界自然遺産特設ページが作られ、その中に 世界自然遺産区域 が示されていました。
世界遺産の区域となっているのは、聟島列島、父島列島、母島列島、火山(硫黄)列島のうち北硫黄島、南硫黄島、西之島です。父島、母島では、集落を除いた区域と一部周辺の海域が世界遺産の区域となっています。

“世界遺産になる小笠原群島”という 今回のシリーズ のタイトルは、UNESCO資料の記述
The property numbers more than 30 islands clustered in three groups and covers surface area of 7,393 hectares.
から、世界自然遺産区域を 「3列島」の総称である「小笠原群島」と解釈したからですが、火山列島を含む「4列島」だったようです。但し、第二次大戦の激戦場になって自然が徹底的に破壊された火山列島の主島(硫黄島)は、父島・母島の集落区域と共に除外されています。

林野庁資料 の 3/18コマにも、推薦区域地名と面積とが記されていました。世界遺産の評価基準は(viii)地形・地質【ボニナイトの露出など】、(ix)生態系、(x)生物多様性が挙げられ、最終的には(ix)生態系が認められました。

小笠原の森林生態系は、父島・兄島の乾性低木林と 母島の湿性高木林という 異なる生態系の固有樹種に 特徴があるようです。320mの中央山を持つが 渇水に悩む父島 [78669]に対して、一段と高く 雲を呼ぶ力のある 463mの乳房山を持つ母島の森林は、様変わりした姿を見せるのでしょう。

そして、調査はまだまだですが、916mという東京都島嶼部の最高峰[75152]があり、手付かずの自然状態の 南硫黄島
ここには、やはり世界遺産に値する動植物があると思われます。

世界遺産区域は小笠原群島だけでなく、その西側の火山列島に及ぶことが明らかになりましたが、上位概念の「小笠原諸島」という広域地名は、南鳥島や沖ノ鳥島も含み、行政上の「小笠原村」と同じ範囲に拡がってしまいます。

広域地名ついでに、伊豆大島・南鳥島・沖ノ鳥島を結ぶ巨大な三角形の海域にある島々、つまり「伊豆諸島プラス小笠原諸島」を指す広域地名に触れます。

海洋情報部技報 Vol.27,2009 「我が国の広域な地名及びその範囲についての調査研究」 2/9コマによると、「海図」においては、明治24年(1891)刊行のものから、この海域の島々を一貫して「南方諸島」と表記しているそうです。参考
しかし、私たちが目にする市販地図でこの名を見ることは少なく、私の知るところでは、小学館の「日本列島大地図館」が唯一の例【[33445]に記したように、平凡社の「日本大地図帳」と書いた[29851]は誤記】です。

地図を作る国土地理院と、海図を作る海洋情報部との間で地名等の統一に関する連絡協議会が設けられ、統一作業が進められていることは既に[53057]で触れました。
ところが、我が国の南方及び南西方に位置する諸島・群島・列島の名前とその範囲については、未だ統一に至らず保留状態であるとのことです。

今回の文献の6/9コマによると、3列島を含む小笠原群島、西之島【注】から南硫黄島に至る火山(硫黄)列島、それに沖ノ鳥島・南鳥島を含む小笠原諸島については合意済。
合意ができていないのは、伊豆諸島と小笠原諸島とを総称した「南方諸島」とのことです。

「南西諸島」も 水路部(海洋情報部の前身)が、遅くとも 明治40年(1907)の海図から使い始めた名称です。
こちら は1965年の連絡協議会で国土地理院との間の合意が成立しています。
しかし、その構成要素である個々の諸島・群島・列島の地名は、まだ統一されていません(3コマ、7コマ)。

【注】
西之島は、孤立島として扱われる例 もありますが、地形的には火山列島を北に延長した一部分であると理解されます。
[78764] 2011年 7月 13日(水)13:04:06【1】まかいの さん
学区?校区?
ちょっと遅れましたが、

[78741]いっちゃんさん
[78742]k-ace さん
この辺ではまず耳にしません。
ですから地元の通学区域が「校区」と書かれるとちょっとこそばゆいのです。
越谷市立明正小学校のTOPページに「校区」というのがあるので、この辺でも使われているのかなぁと思い…。
地元では使われていないなら、なぜに「校区」という表現が?

TOPページに「校区」となっているが、クリックして開くと「明正小学校学区」となってます。
要するにこだわりがないような・・・

この明正小学校、学区が分離している上、そのどちらにも学校がない、非常に珍しい学校なのですね。
何もなかった越谷レイクタウンが学区になったのは街開きした4年前からのようですが、
9学級という小規模校ではあるものの、学級は増えている模様です。

そもそもは蒲生東町のみが校区だったみたいで、住宅地近くの原か空き地に小中学校を集めたってところなんでしょうか?
蒲生東町もかつての新興住宅地の様子。
まわりの学校には受け入れが難しかったのかもと想像してしまいます。
越谷市は隣接している学校が多く、人口激増の昭和40-50年代の苦労がしのばれますね。

[65596]EMMさん
石川・富山では小中学校の通学区域のことを「校下(こうか)」と言います。

学校が別のところにある中学校で真っ先に思い浮かぶのが「金沢市立小将町中学校」。
お城の隣で歴史のある学校ながら、生徒はみな「校下」外へと通学しています。
昔から学校を建てる場所を確保するっていうのは大変ですね。
[78763] 2011年 7月 13日(水)06:26:31MI さん
ふたたび「石地町村」と「北大瀁村」について
皆様どうも御無沙汰しております。

[78755]88さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
 本当に編集作業ご苦労様でした。市区町村を語る上での基礎データとして、その重要性は申すまでもありません。私も完成に心からお祝いを申し上げたいと存じます。

 さて、早速地元である新潟県をちょっと眺めてみたのですが、ずいぶん以前に[68959]MI で指摘し、[69153]88さん からレスをいただいていた標記の件が反映されていませんし、そればかりか、中頸城郡「北大浜村」になっているようです。
 どうかご確認をお願いいたします。
[78762] 2011年 7月 13日(水)01:41:49futsunoおじ さん
Re:都道府県を代表する山と川 「高野山」
[78751] 千本桜 さん
(前略)高野山のメインは山頂をもった山々ではなく、それらに囲まれた平坦地形にあるのではないかと感じる私としては、「高野山は山々の総称」という表現に違和感を感じるのです。

“山”という言葉は地形の盛り上がり(山岳)以外にも地域によっては幅広く使われています。樹木の生い茂った場所(つまり“森”)であったり、平地であっても田畑へ農作業に行くことを「山へ行く」という風にいうことを聞いたことがあります。宗教上の修行の場として山岳地帯が選ばれることも多くあり、日本では登山行為が宗教活動として行われてきた経緯もあることから“山”には両方(地形/宗教)の意味を区別する必要もなく近代に至ったものと考えることもできます。

そのような“山”を比べた場合、宗教上の視点では同じようなものであっても、山岳として見ると険しい山・高い山からなだらかな山・低い山まで様々があり、地図上では一方は山岳名となり他方は地名として扱われることもあるのかなと考えます。(ちょっと苦しい説明ですが。なお「都道府県を代表する山」を最初に考えた時点での対象は山岳であって、宗教的なものは意識にありませんでした。)

別の視点では、山の名称を聞いた時に宗教施設を思い浮かべるか、山岳風景を思うかの違いがあります。高野山と吉野山(奈良県)は非常に似通った存在であると思っていますが、この点では高野山は前者、吉野山は桜の山の印象が強いため後者でしょう。都道府県を代表する山としては当然後者であることが有利なはずですが、この場合本質的違いは見えません。

山岳の総称名として高野山を考えた場合は構成する個別の峰としては弁天岳(985m)や高野三山(摩尼山1004m,楊柳山1009m,転軸山910m)を当てはめたくなりますが、地域全体が標高800m以上の高所にあることでそこに立ったら平坦地であっても、山麓から眺めた場合には全体が山として見える可能性があります。(日本のマチュ・ピチュと言ったら言い過ぎでしょうか。)吉野山の場合には宗教施設や居住地域が山上ではなく山腹以下にあるため、この点の印象は異なるでしょう。地名(住所)は「高野町大字高野山」と「吉野町大字吉野山」という具合です。

ということで色々書き並べましたが私自身、高野山というのは選び直してしまった後で微妙なものを感じていましたが、他に選ぶとすると何があるか。それなら吉野山は良いのかという悩みが残ります。となると動かしたくても動かしにくいのが現状でしょうか。(なお私はこれらの地に行ったことがないことをお断りいたします。)
[78761] 2011年 7月 13日(水)00:45:0288 さん
市区町村変遷情報 市制町村制施行の直前に廃置分合等を先行して行った情報を追加
[78756] hmt さん
先ずは大事業の完成を、心からお祝いします。
メッセージをありがとうございます。
スポーツ選手が、記録達成の時にインタビューで「通過点です」とよく答えていますが、私も同じ思いをしています。確かに一つの節目だとは思いますが、まだゴールではありません。改めて、身の引き締まる思いです。
“明治の大合併”の後に、【の大部分】と書かねばならなかったのは、ご承知の通り、市制町村制施行に少し先んじて 廃置分合が実施された 5県[77581]における 旧町村からの合併情報が含まれていないためです。
これは、実質的には 市制町村制施行と不可分の情報なので、ぜひとも早期に補足していただきたと思います。
早速ですが、グリグリさんのお手を煩わせましたが、追加登録を終えました。
市制町村制施行前ではありますが、事実上一体と考える方が現実的であり、グリグリさんの提案により、便宜上、市制町村制施行時の情報の中に加える体裁をとっております。これに先立ち、[78760]で先行する廃置分合等の施行日の件も改めて整理いたところです。

今後とも、市区町村変遷情報をよろしくお願いいたします。
[78760] 2011年 7月 12日(火)23:35:1088 さん
市区町村変遷情報 市制町村制施行の直前に廃置分合等を先行して行った県について
市区町村変遷情報市制町村制施行時の情報に関連して、市制町村制施行及び町村の廃置分合の、それぞれの根拠及び施行日については、[76874] むっくん さん がまとめていらっしゃいます。
そして、大半の府県では市制町村制施行・町村の廃置分合の二つは同日付けで施行されていますが、一部の府県(5県)では、市制町村制施行の直前に、先行して廃置分合等が行われているのではないか、とご指摘がありました。
その後、[75043] むっくん さん、[76809] oki さん でも情報提供・検証をいただき、[77581][78507]拙稿でも対応を苦慮していました。
これにつきましては、[78526] むっくん さん のお話もあり、各情報を鑑みた結果、やはり当該5県とも市制町村制施行の直前に廃置分合等を先行して行った、と判断いたします。

この結果、次のとおりとなります。
県名廃置分合等施行日市制町村制施行日備考
宮城県M22(1889).3.31M22(1889).4.1
茨城県M22(1889).3.31M22(1889).4.1
千葉県M22(1889).3.31M22(1889).4.1
神奈川県M22(1889).3.31M22(1889).4.1
静岡県M22(1889).3.1M22(1889).4.1市はM22(1889).4.1付けで廃置分合
――――――――――
改めて、当該5県の県令を再掲します。
5県の廃置分合の根拠となる県令の冒頭の部分のみを抜粋します。(旧字体は新字体に引用者が置換え)

●宮城県 M22.2.9付け(宮城)県令第8号(宮城)県令第9号(宮城)県令第27号
(宮城)県令第八号 明治二十二年二月九日
管下町村中本年三月三十一日ヲ以テ其区域及名称ヲ更正スルコト別紙ノ如シ
(以下略)

(宮城)県令第九号 明治二十二年二月九日
管下仙台区及宮城郡名取郡中本年三月三十一日ヲ以テ境界ヲ変更スルコト左ノ如シ
(以下略)

(宮城)県令第二十七号 明治二十二年三月三十一日
宮城県管下陸前国登米郡石越村ト陸中国西磐井郡蝦島村トニ係ル飛地ノ所属ヲ組替ルコト左ノ如シ
(以下略)

●茨城県 M22.3.20付け(茨城)県令甲第12号
明治二十二年三月十日(茨城)県令甲第十二号
従前ノ町村ヲ分合シ更ニ区域名称左表之通相定メ明治廿二年三月三十一日ヨリ施行ス
但旧町村名ハ大字トシテ之ヲ存シ飛地ハ其所在地ノ町村ニ編入ス
(以下略)

●千葉県 M22.3.27付け(千葉)県令第18号(jpgファイル)
千葉県令第十八号
本県町村ノ儀別冊之通リ分合改称シ本月三十一日ヨリ施行ス
(別冊ハ別ニ之ヲ頒フ)
明治廿二年三月廿七日 千葉県知事 石田 英吉

●神奈川県 「神奈川県町村合併誌上巻(編・発行:神奈川県、S33)p.83」([75043] むっくんさん、私も同一文献を図書館で借り出して確認)
県令第九号
各町村ノ内内務大臣ノ認可ヲ得明治二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改称ス
明治二十二年三月十一日 神奈川県知事 沖 守固
(以下略)

●静岡県 M22.2.26付け(静岡)県令第18号(静岡)県令第19号
(静岡)県令第十八号 明治二十二年二月二十六日
静岡市区域並市役所位置別記ノ通相定メ明治二十二年四月一日ヨリ施行ス
明治廿二年二月廿六日 静岡県知事 関口 隆吉
(以下略)

(静岡)県令第拾九号
町村ノ内区域、名称、戸長所轄区域名称及役場位置別表之通改定シ他町村内ニ孕在セル飛地ハ一戸長所轄区域内各町村間ノ分ヲ除クノ外悉皆其所在町村ノ地籍ニ組ミ入レ明治二十二年三月一日ヨリ施行ス
但戸長役場位置ノ内直ニ移転シ難キ事由アルモノハ其状ヲ具シ当庁ノ認可ヲ受ケ延期スルコトヲ得
明治廿二年二月廿六日 静岡県知事 関口 隆吉
(以下略)
[78759] 2011年 7月 12日(火)22:27:48笠津前浜 さん
空白の理由
78726] futsunoおじ さん
長崎県、三重県等の川が空白ですが、比較第一位であればいいものではなく県内に広く影響を与えるものという考えでおりますが、今のところ見当たらないかなという状況です。

なるほど、基準がわかりました。
[78758] 2011年 7月 12日(火)22:08:08【1】伊豆之国 さん
有為の奥山、今日越えて‥
ちょっと遅くなりましたが‥

[78729]YASUさん
廃線になった遠鉄奥山線
私は、6年前の「浜名湖花博」で浜松を訪れた際に、その奥山線の廃線跡を歩いたことがあります。浜松城を見た後、そのすぐ裏手から「家康の散歩道」を北西方向に歩くことに。その道が実は「奥山線」の廃線跡だったのでした。緩やかな坂を西へしばらく歩くと、間もなくトンネルに。入口には車輪のモニュメントがあり、現役当時の写真も飾られていました。トンネルを抜けると右へカーブして北へ向きを変え、しばらく行くと三方原合戦ゆかりの犀ヶ崖古戦場へ。更に廃線跡と思しき横道に入り、結局この辺りで引き返してバスで浜松駅へ戻り、この後「花博」へ。豊橋のホテルに宿泊し、翌日は「天浜線」で三ヶ日で途中下車の後、西鹿島で遠鉄に乗り換え浜松に戻り、大凧揚げ、夜の屋台練り歩きと「浜松まつり」を堪能して、静岡市内で2泊目‥。

奥山線に関する貴重な記録をいくつか紹介しておきます(私には知る由もないものなのですが)。
195419581963
ちなみに、奥山線で働いていたディーゼル車のうちの1両が、石川県の尾小屋鉄道に引き取られ、昭和52年(1977)の尾小屋鉄道の廃線後も、小松市内で保存されて今も動くことができるようです(小松市HPより)。奥山線からは、ディーゼル車がもう1両、なぜか全線電化の花巻電鉄に移籍したのですが、こちらはほとんど活躍の場を与えられず、路線廃止と運命を共にしています。

奥山線廃線跡
このHPは十数年前に撮られたものですが、私が天浜線の車窓から見た奥山線の高架橋の残骸は、今も残っているようです。
[78757] 2011年 7月 12日(火)19:24:43【1】オーナー グリグリ
東京都庁がツイッター開始
表題の件、本日のニュースになっていました。初ツイートは昨日からで正式ツイートは本日からとのこと。一方、小山市の公式ツイッターが廃止されていました。京都府伊根町の公式ツイッターも廃止されているようですが、町のHPにはまだ痕跡が残っています。伊根町に問い合わせてみます。ということで、公式ツイッターに東京都庁を追加し、小山市と伊根町を削除しました。
[78756] 2011年 7月 11日(月)23:47:39hmt さん
★祝★ 市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
[78755] 88 さん
昨日7月10日、グリグリさんにより約4千件の情報を一括登録していただき、基本的に完成いたしました。
これにより、直近の平成の大合併(主としてでるでるさん担当)から、昭和の大合併を経て約120年を遡った明治の大合併・市制町村制施行まで、約2万4千件の情報を掲示したことになります。

先ずは大事業の完成を、心からお祝いします。

変遷情報の過去履歴が市制町村制施行の明治22年4月に突入した 2008年、早々と“「明治の大合併」完成直前”という副題の記事[64890]を書いたのですが、これは、膨大な実務を知らない者の仕業でした。
実際は、明治の大合併【の大部分】を含む 今日の姿を見るまでには、更に3年以上、2006年3月18日の 88さん自身の発言[49915]
市町村合併情報の1990年以前のデータについて、お手伝いさせていただくことになりました。
あわよくば、明治の大合併や藩政村までデータを遡り…
から数えれば5年以上の歳月を経て、この大事業は、大きな節目を迎えました。

“明治の大合併”の後に、【の大部分】と書かねばならなかったのは、ご承知の通り、市制町村制施行に少し先んじて 廃置分合が実施された 5県[77581]における 旧町村からの合併情報が含まれていないためです。
これは、実質的には 市制町村制施行と不可分の情報なので、ぜひとも早期に補足していただきたと思います。
その他、88さん自身も言及されているように、課題は山積です。
今後も、一層の充実を実現されることを期待します。
[78755] 2011年 7月 11日(月)19:20:3788 さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
既にお気づきの方もいらっしゃるとは思いますが、かねてより編集作業を続けておりました市区町村変遷情報市制町村制施行時の情報につきましては、昨日7月10日、グリグリさんにより約4千件(新潟県~青森県(東京府を除く))の情報を一括登録していただき、基本的に完成いたしました。
これにより、直近の平成の大合併(主としてでるでるさん担当)から、昭和の大合併を経て約120年を遡った明治の大合併・市制町村制施行まで、約2万4千件の情報を掲示したことになります。
[49915]で、市町村合併情報(当時)のお手伝いをさせていただく旨をお知らせしてから5年余り、やっとここまで来ました。これも、グリグリさん、でるでるさんをはじめ皆様からたくさんご教授いただいたお蔭です。この場をお借りいたしまして、厚く御礼申し上げます。

もっとも、市区町村変遷情報は、これで終わりではありません。
今後も、北海道・沖縄県の情報の見直し、大都市・区の情報の整理、個別情報の修正作業、検索機能の導入、さらなる変遷情報の遡り、・・・など、課題は山積しており、まだまだ、やりたいこと・やるべきことは、たくさんあります。より皆様がご利用しやすいよう、また、様々な話題の基礎データの一つとしてご提供できるよう、さらなる充実に向けて、微力ではありますが尽力してまいりたいと思います。

今後とも、市区町村変遷情報をご贔屓くださるとともに、ご指導・ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
[78754] 2011年 7月 11日(月)17:52:24山野[山野] さん
臨時会(予定)
[78745]グリグリさん
岩舟町はどうなる?
[78718]にて
岩舟町は今回で4度目の住民投票を実施する方針となりました。
今月中にも臨時会を開き住民投票条例案を上程し
…と書きましたが、今月15日に臨時会を開く(岩舟町役場HPより)との事で、
流れからしてこの日に採決されるかと予想しています。
[78753] 2011年 7月 10日(日)21:47:44【3】Issie さん
新・坊っちゃん
私が小学生の頃,NHKで「新・坊っちゃん」というドラマが放送されました。
井上ひさしはある本の前書きで「『坊つちゃん』の映像化はことごとく失敗している」と書いているのですが,小学校6年生の私にはとても面白く思いました。この人がムーミンパパ(の声の人)か,ってね。“正露丸のラッパ”とか…。
これを機会に夏目漱石を読んでみようと思ったのですが,「坊つちゃん」はともかく,ほかの作品は小学生にはあまりにも難しくて,すぐに挫折しました。
で,何の話かというと,このドラマの冒頭の場面が松山に赴任した坊っちゃん(柴俊夫)が“はしけ”で三津浜の港に上陸することろでした。“はしけ”で上陸するのですね。大型船が接岸できる港湾施設が当時の三津浜になかったからです。

[78747] ペーロケ さん
「港にとって河川は害である」

昭和の初めに自動車の普及が始まるまで「車」(人力,馬力を問わず)による長距離輸送が発達しなかった日本において,鉄道網が整備されまで内陸における唯一の大量輸送手段は河川の舟運でした(次に来るのが背中に荷物をくくりつけた駄馬,その次は人間が背負う歩荷(ぼっか)。で,あとはもうない…)。もちろん,水系を越えた全国的な流通についても船による海運が唯一の手段。越前・三国港の繁栄もそれによるものです。
ところが十分な水深を確保するのが困難な河川と外洋とではそれに適当な船の構造が違いますから,必然的にその接点で河川用の船と外洋用の船との荷物の積み替えが起こります。だから,内陸水運の発達した大河川の河口には港(港町)が発達する基本条件があるのです。新潟や酒田などはその典型です。

江戸の場合,徳川入府以前の元の市街は現在の大手町のあたりに形成されていたと考えられています。よく“家康は何もない江戸に飛ばされた”という言い方がされますが,中世以降の江戸は南関東の物流拠点としてそれなりに繁栄していたようです。基礎的な立地条件は荒川(隅田川)の河口ということにあるのですが,実際に市街が形成されたのは隅田川本流ではなくこれに合流する平川(現在の日本橋川)沿いであったのですね。後に,家康の“江戸大改造”で大手町付近は武家町となり,物流の拠点はやや下流の日本橋に移ります。
巨大城下町・江戸のもう1つの港として栄えたのが品川でした。こちらは目黒川の河口に立地しています。目黒川は舟運に利用できるはずもない小さな川ですが,河口の地形が船の発着に利用できたのでしょうね。
近世の城下町はほとんどの場合,このような舟運を意識して都市計画がなされています。大坂(大阪)や広島のようにそのような河川に直接面して建設されているものもあれば,その支流や運河(掘割)を介しているものもあります。たとえば,信州の松本は女鳥羽(めとば)川がお城の外堀の役目を果たすとともに,奈良井川・犀川の舟運を引き込む役割もしています。ただし,千曲川/信濃川は信濃(長野県)と越後(新潟県)の境界付近に急流があって,両者の舟運は断絶していました。ここが両国の国境である所以でしょう。

神戸にとって「河川が毒」だったのは,そこを流れるのが「川」というよりは,すぐ背後にそびえ立つ六甲・麻耶から流れ落ちる「滝」に等しいものであり(「垂水区」とはよく言ったものです),内陸交通路としての機能を全く期待できないばかりか,大量の土砂を運び込むだけの厄介な存在であることによると思います。
つまり,神戸は河川交通との接点として発達した港町ではない。平清盛の日宋貿易がその始まりであったように,主に“海の交通”の拠点として発達した。長崎や平戸,あるいは那覇もこのグループに属するように思います。対外交易の拠点としてなら,後背市場とはほかの交通手段で結ばれていればいいので,港そのものに地形的な後背地は必要ない。だから必ずしも大河川の河口である必要もなく,長崎のようにリアス海岸の入り江深くでも立地し得る。現在の姿からは想像しにくいのですが,那覇は元はベネチアのようにラグーン(潟湖)の出口に形成された砂州の上に立地したようです。
神戸(大輪田)の場合,大きな船が入るのに適した地形には恵まれませんでした。だから,平清盛は大規模な築港事業を行ったのですね。そこは同時代の鎌倉も同じで,ここでも大規模な築港が行われましたが,これはその後放棄されて現在ではごくわずかな痕跡しか残っていません。結局,山を越えた六浦(むつら)・金沢(かねさわ)というラグーン(平潟湾)に面した港がその後も機能し続けました。こちらも中世後期以降,鎌倉とともに衰退し,江戸・品川に主役を奪われることになります。
河川自体は舟運に堪えないような小さなものであっても,その谷を重要な陸上交通路が通っていれば,その河口には海陸接点型の港町が発達します。鉄道から自動車に主役が移った現在においても特に日本海貿易の拠点として重要な敦賀は,遥かな昔,「角鹿」(つぬか)と呼ばれて高句麗や新羅・渤海などとの交易拠点であった時代からの典型例です。
四国の中では比較的に広い平野である松山平野でも重信川にどれだけ交通路としての機能を期待できたか,おそらくは平野全体の陸上交通の集約点,そして海上交通への接点として「熟田津」以来の三津浜の役割があったのだろうと思います。
で,坊っちゃんはここで上陸して,「マッチ箱のような」伊予鉄の汽車に乗って松山市街に向かった…。

[78736] hmt さん
その他に小樽

これは迂闊でした。
確かに道内経済の中枢としての地位は失っても,日本海海運の拠点としての小樽の重要性は今でも大きなものがありますね。「脱落組」とするのは,小樽に失礼でした。
[78752] 2011年 7月 10日(日)20:39:59伊豆之国 さん
「南部」に多い小笠原さん
[78750]hmtさん
小笠原氏のルーツである甲斐国の地名「小笠原」に行き着きます
「小笠原諸島」の話題ですが、ここに来てようやく「私の出番」が回ってきましたので反応させていただきます。
「小笠原」さんは、全国に約9万6千人、全国で236番目に多い苗字と推定されますが、東北北部から北海道にかけての地域が最も多く、青森県が最多で全国の約15%が集まり、県ランクでも全国最高の13位に入ります。更にその青森県を見ると、「津軽」よりも「南部」のほうに分布が集中し、数でこそ青森市が最多ですが、市ランクで最高なのは十和田市の3位、八戸市でも9位に入っています。人口比率で青森県に次ぐ岩手県では、県ランク27位、旧仙台領だった一関市など県南を除く全域に分布し、軽米町で2位、釜石市で4位などが目立つところで、数で最多の盛岡市でも16位に入ってきます。このように旧南部領に多いことから、小笠原氏が同じ甲斐発祥である南部氏に従って、陸奥国に入ってきたことが推測できそうです。
東北以外では、高知県が目立ちます。県ランクで50位、県北東部の長岡郡を中心とした範囲に固まって分布しており、特に大豊町に密集し、町内最多の苗字になっています。この土佐の小笠原氏について、その高知県出身の苗字研究家・森岡浩氏によると、「阿波守護を務めた小笠原氏の一族に、室町時代に土佐長岡郡豊永(大豊町)に住んだ小笠原氏がある」とあるので、この一族が繁栄したと思われます。その他では、愛知県碧南市で市内8位、島根県石見地方にも集中地域があるようです。

一方、小笠原氏の発祥地である山梨県を調べると、県ランクで180位前後と辛うじて全国平均を上回り、県内各地に見られますが、発祥地とされる「小笠原」地名のある北杜市ではわずかに5件。もう一つの「小笠原」がある南アルプス市には40件近くありますが、市内100位以内には入らないようです。県内で最も多いのは大月市で、50件近くあって市内30位台に入っています。

♯蛇足ですが、現・南アルプス市の小笠原には、昭和37年まで山梨交通の路面電車([66626])が走っていました。HP
[78751] 2011年 7月 10日(日)19:12:50【1】千本桜 さん
都道府県を代表する山と川 「高野山」
[78715] futsunoおじさん
「山」には宗教的修行の場等の意味もありますので純粋な山岳を選択したい場合、判断は難しくなりますが「都道府県を代表する山」ではどう考えるべきでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えなければと思っているのですが、考えがまとまらず前進できないでおりました。高野山には複数の意味があります。住所地名の大字高野山、金剛峯寺の山号高野山、自然地形の山名高野山などです。この中で、高野山は自然地形の山名に値するのだろうかと迷っているのです。[78715]で提示していただいた Wikipediaを読んでみました。確かに
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称
と書いてありました。しかし、読み進むと
なお、高野山という名称の山は無い
とも書いてあります。山々の総称名「高野山」はあるが、個々の山名「高野山」はないと受け止めれば済むのでしょうが、高野山のメインは山頂をもった山々ではなく、それらに囲まれた平坦地形にあるのではないかと感じる私としては、「高野山は山々の総称」という表現に違和感を感じるのです。普通一般に山を思うとき、少なからず山頂を意識するはずですが、私的イメージの高野山は山頂がなくても高野山なんです。自分の中にあるイメージを上手く文章化できなくて辛いのですが、私はそんな風に高野山を捉えています。

さらに Wikipediaで金剛峯寺を調べると
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する
と書いてあります。高野山は山ではなく、山に囲まれた平坦地を指すと受けとれます。国土地理院の地形図注記に当てはめるなら、ゴシック体で表記される山には該当しない地形と考えられます。お断りしておきますが、私は全てを知った上で書いている訳ではありません。勉強のつもりで試行錯誤しながら書いています。ですから、間違った考えをしているかもしれないし、途中で考えが変わるかもしれません。以下、いろいろ調べた結果を書き出します。

河出書房の日本歴史大辞典(昭和48年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、略して野山といい、また南山・南岳ともいい、山の形より八葉峰ともいう。
やはり、高野山は山を指す名称なのかと考えがぐらついてきます。

平凡社の世界大百科事典(1972年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、紀伊山脈の1支長峰山地の東部、陣ガ峰、楊柳山、弁天岳など標高1,000m前後の山々の間に横たわる平たん面(東西6km,南北3km)一帯の総称。
おぉ。やはり高野山は山名ではなく、平坦部を中心とした場所名ではないかと、またまたぐらつきます。

角川日本地名大辞典には次のように書かれています。
(高野山は)伊都郡高野町に所在。平安初期、空海が真言宗の根本道場として創建した金剛峯寺の別称として知られる。固有の山名としてではなく長峰山脈の東部、陣ヶ峰・楊柳山・摩尼山・弁天岳など標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地を含んだ総称で、平坦地は標高800mほど、東西6km・南北3kmの広がりをもつ。
「標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地」と書いてあるけれど、山々の全ての斜面を高野山と言うのだろうか?。ひょっとして、高野山に該当するのは盆地に向いた斜面だけで、反対斜面は高野山ではないのではないか?。そこが一般の山と異なるところではないか。そんな思いが湧いてきました。

いろいろ探しているうちに、私のイメージを言い当てたようなHPに遭遇しました。高野山の地形と自然環境というHPには、次のように書いてあります。
和歌山県伊都郡の紀ノ川西南高地に位置する高野町。高野山はその主要部に広がる東西約5km南北約3kmの山上盆地をしめします。一般に◯◯山と言われる時、頂上の有る山を想像しますが、高野山の場合「高野山」と呼ばれる頂上はなく、周囲の峰々と、それらに囲まれた盆地部分全体を含めた地域が、いわゆる「高野山」です。
そうだ、これだ、と思いました。私がイメージする「高野山」は、これなのです。

次に、国土地理院は高野山の名称をどのように扱っているか見てみます。参照した地図はだいぶ以前に発行されたものですが、高野山を判断するのに支障なしと思います。
2.5万分の1地形図(ウォッちず)、5万分の1地形図(昭和54年発行)、20万分の1地勢図(昭和49年発行)、50万分の1地方図(昭和57年発行)いずれも、「高野山」を集落名または場地名として読取れるように表記し、山名としては扱っていません。ですから、これらの地理院図を基に編集発行した民間図には、自然地形の山名「高野山」はありません。S社の3万分の1県別道路地図、Z社の10万分の1道路地図、B社の20万分の1道路地図、S社の50万分の1地方図、どれにも自然地形の山名「高野山」は記載されていません。知名度では下位にあるはずの飯野山(香川県)が記載されているのにですよ・・・。こうしてみると、高野山は山名に値しないように思えてきました。

ところがです。地理院の100万分の1日本(平成2年発行)には、高野山が山名として記載されているのです。標高数値は記載されていませんが、文字に斜体が掛けられていますから、間違いなく自然地形の山を意識した注記です。50万分の1に記載がなくて100万分の1に記載があるのはなぜだろう。あらら、困りました。やはり高野山は自然地形の山名なのでしょうか。そこで、T社発行の110万分の1社会科地図帳をみると、高野山(弁天岳)985と記載されているではありませんか。ごく一般の人が見たら、高野山は別名を弁天岳と言い、標高は985mであると判断するのでしょうね。なんだか、私には納得できないものがありますが、これで良いのでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えたことにはならない書き込みで申し訳ありません。私自身、高野山をどのように捉えたら良いのか分からない状態です。

書込訂正。誤記2ヶ所、弁天山を弁天岳に訂正しました。
[78750] 2011年 7月 10日(日)17:02:18hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (7)甲斐国巨摩郡小笠原
世界自然遺産「小笠原」の地名の由来になった小笠原貞頼発見説[78720]
これを持ち出した宮内貞任は、出自詐称などで処罰されましたが、伝説そのものは生き残りました。

小笠原村HP歴史 冒頭の記載は次の通りです。
小笠原諸島は1593(文禄2)年、信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により発見されたと伝えられています。

小笠原村教育委員会の 発掘された小笠原の歴史 6~7/32コマは、発見史の後に“架空の話なのですが”として、地名の由来に関わるこの伝説を紹介しています。
貞任の主張では、父島は26里×90里、母島は10里×27里あるというのですが、実際には最大でも2里強(父島)、3里強(母島)しかありません。つまり架空の話なのですが(中略)
幕末になって、幕府が小笠原回収に向った時にも、「故事」として引き合いに出されています(→小笠原新治碑)。

3コマの小さい写真では文面がわかりませんが、水野巡検隊[78725]は、住民への説明に利用しただけでなく、本土から持ち込んで建てた「小笠原新治碑」にも、文禄2年の小笠原貞頼発見説を刻み込んでいたようです。

明治政府が編纂した『小笠原島紀事』[78669]も、小笠原貞頼発見伝説を正面から否定するわけではなく、日本の領有権を裏付ける根拠の1つとして、意図的に利用する姿勢だったのではないかと思われます。

もちろん、これらの島々には、「原」コレクションに収録できるような地形「小笠原」が存在するわけではありません。
[78720]で書きましたが、小笠原貞頼伝説によって 地名→人名→地名 を遡ると、小笠原氏のルーツである甲斐国の地名「小笠原」に行き着きます。

[1628] Issie さん
武田氏は甲州に移って大発展して今度は地元甲州の地名から小笠原とか南部とかいった分流を生み出すことになる。

甲斐国巨摩郡「小笠原」にあたる現代の地名は、北巨摩郡明野村→北杜市と、中巨摩郡櫛形町→南アルプス市の2ヶ所があり、明野を「山小笠原」、櫛形を「原小笠原」と呼んで区別されたようです。

明野の「小笠原」は、古代の官制御牧があった山腹で、まさに見通しのよい地形名「原」だったでしょう。
長清寺には小笠原氏の始祖長清の墓と伝えられる五輪塔があり、こちらが小笠原氏発祥の地とされています。
約15km南の「原小笠原」。こちらは甲府盆地の西端で釜無川の西にあった荘園でした。現在は南アルプス市の中心市街地になっています。

小笠原氏は、鎌倉時代に信濃に本拠を移し、室町幕府体制下では信濃守護になりました。
武田信玄により信濃を追われたものの、1583年松本城に復帰。
小笠原貞頼による南海の無人島発見が伝えられる 1593年当時の 小笠原秀政は 古河に移封されていました。
この本家は、松本復帰後、明石を経て 小倉15万石の譜代大名として 幕末まで継続。
宮内貞任と小笠原家との関係を否定したのは、小倉藩の時代です。
小笠原家は、室町時代以降、武家社会で有職故実に詳しい家柄として重きをなしていました。
歴史的にも、弓術、馬術、茶道などいろいろな「小笠原流」がありますが、最も知られているのは「小笠原流礼法」でしょう。現代のサイト
[78749] 2011年 7月 10日(日)13:40:58EMM さん
それも違ってるので
[78747] ペーロケさん
[78733]を書いたときは、旧新湊市域付近の港は一体の港だろうな~と漠然と考えていましたが、伏木富山港と富山新港が別物と仰せであれば、伏木富山港の方を推したいですね。
これまたどこか捉え違いをなさっています。
「伏木富山港」とは伏木港富山新港富山港の総称です。(参考
歴史的な「新湊」はまた別の港で、現在の新湊漁港付近にあった放生津を由来とする港のことを指したようです。
(放生津付近が新湊という名に置き換わった経緯を説明した資料はネット上ではまだ行き当たっていません。時間があったら図書館で調べてくるつもりです)
そして、伏木富山港の範囲には新湊漁港を含みません。(参考
区域が飛び飛びなのは、この「伏木富山港」は重要港湾に指定される際に伏木港と富山港いう離れた2つの港をを1つのものとして指定するために作られた名称であるから、です。
ちなみに、歴史的なものを考えた場合でも、「越中国府が置かれた地であり、勧進帳のエピソードが実際に起きた場所ともいわれ、富山県で最初に開港場とされ、富山県発の測候所も置かれた」伏木港、「室町時代に三津七湊の一つとして名が挙げられている岩瀬湊をルーツに持つ」富山港と比べると、「新湊という港」は越中国→富山県内における歴史的地位もやや譲るものであるようです。
あと、漁港で考えた場合でも、近隣の住人から見た意見ではありますが、富山県内にある漁港で知名度が一番高いのは「氷見漁港」であろうと考えられます。
(産地偽装問題で名が挙がるぐらいですし)

と言う事で、(くどいようですが)隣県に住まう者の意見と言う事ではありますが、「富山県の代表的な港を挙げる」にはまだまだリサーチが足りないのではないか、と考える次第です。

-----

実は、ここ最近の「○○県を代表する××」という話題に関しては[78683]Issieさんに近い意見を持っています。
ある面ではもっと過激かもしれません。
「その土地の歴史や人心を考慮せずに、1人、あるいは数人のイメージだけで「そこの土地を代表する○○」というものを選ぶなんて事ができるのか?その結果、地域の対立感情や禁忌に触れる者を挙げてしまうことはないか?そこまで行かずとも、遠所者の戯言と言われかねないものを挙げてしまう危険性があるのは、私としては非常に怖い」
これが「自分が○○県でイメージする××」と言う切り口であったのであれば特に違和感なく話題に乗ることができたのですが、「○○県を代表する××」だとEMMとしては石川県と、せいぜい「ある程度事情が分かる近隣の県(EMM的には富山>新潟・福井ぐらいが限度と感じてます)」ぐらいしか話題に乗れない…と言うよりもそれ以上のところは恐ろしくて触れない、と言うのが正直なところです。

#補足
「遠所者」は金沢弁ですが、どちらかというと悪い意味で使われる方言で、故に金沢弁の例として語られることがあまりありません。
こちらのサイトに語彙の一つとして取り上げられていますが、えらく丸い表現でとどめているという感じ)
[78748] 2011年 7月 10日(日)13:32:15伊豆之国 さん
岩舟町→岩船町
[78728]山野さん
岩舟は「合併」という名の「底無し沼」に嵌ってしまい、未だに抜け出せずに喘いでおります
「いわふね町」というと、新潟県村上市の「岩船町」。本当に「底無し沼」のような土地であったために、当初予定していた設置場所を変更せざるを得なくなったのが、羽越線「岩船町」駅([76183])。そのときの書き込みでは要約して
どうやら当初予定していた岩船地区は地盤が悪く
と書いたのですが、引用した「越後の停車場」(昭和56年発行)の記事の、その箇所の全文によると
実地測量の段階になると問題が生じた。駅ができることになっていた町裏の八日市一帯は、昔の岩船潟に続く海抜ゼロメートルの沼地の「悪田」だった。今でこそ戦後の土地改良事業などで美田になっているが、足を踏み入れると胸、首まで沈みかねないほどの最悪の地盤だったという
ということで、[76183]でも書いた通り、町内には他に適当な土地もないので、やむを得ず当時の隣村に設置することにし、駅名のほうは当初の予定通り「岩船町」とする、という顛末だったのでした。
ところで、「越後の停車場」の、この岩船町駅の記事の終わりのほうには、栃木県岩舟町の町民が団体列車を仕立てて岩船町を訪ねた、という話が載っていました。
(昭和)54年10月、思いがけない団体のお客様が同駅(岩船町駅)ホームに降り立った。栃木県下都賀郡岩舟町の団体列車。(中略)年に一回は町が主催して町民旅行列車を走らせている。54年の旅行プランの検討で、鉄道地図でこの岩船町駅を発見。「舟」と「船」の字は違うが同じ名前、ぜひ行ってみようということになったのだそうだ。町長以下400人の「岩舟町民」は、「岩船町民」と交歓して持参の県の木「栃」の若木を植樹してお互いに再開を約していった。鉄道は時には見知らぬ者同士を結びつける「縁結び」の役目も果たすのである


[78706]EMMさん
多分「私に怒られた」と言う事で「(怒)」と付けたかなぁと思ったのですが、普通に読むと伊豆之国さんが怒っているものととられるので用法は注意した方がよいです。
それとも実際に怒っていらっしゃる
この件ですが、「自分自身に対して怒っている」という気持ちを表したものでした。
誤解を招くようでしたら今後は表現に気をつけるようにします。
それはさておき、このところ「県を代表する○○」の話題、まだまだ賑わっているようですが、EMMさんの書き込みの中にもあった「祭り」とか「食文化」(郷土料理)なんかも面白そうではあるのですが‥。
[78747] 2011年 7月 10日(日)11:53:27ペーロケ さん
河川は港?
 昨日は呉の海岸で、会社の人と海水浴に行ってきました。梅雨明け前の天気予報ではずっと雨予報で心配してましたが、梅雨明けしたら一転、晴れ予報に。天気予報ってそんなもんなんですかねぇ。お陰で日焼けして、痛いです。クレアラインが有料化(というより、社会実験終了し、有料に戻っただけなんですけど)、心理的に損した気分になりましたが、渋滞もなくスイスイ~♪逆に、下道を走った別の車は渋滞にはまり、結局1時間くらい遅れてきました。

[78735]Issieさん
でも,稚内つながりで言うと,「浦塩航路」の拠点である 敦賀港 も捨てがたいのでは,と。
[78743]デスクトップ鉄さん
私も、かつてボートトレインが走っていた敦賀港に一票。
そう、福井県は悩みました。両港とも訪問の経験がありますが、個人的には三国港の風情が好きなんですよね~。

[78734]デスクトップ鉄 さん
 内陸県の港町、大津以外は港町と呼べるような港が現存しないと判断して、あえて対象外としました。[78733]で都道府県順ではなく、海岸線一周の順としたのも、内陸県が歯抜けになるような印象がなくなるかな~と考えたからなんです。
 もし内陸県にもあてはめるならば、岐阜県は日本ラインではなく、笠松湊を挙げたいです。

[78733]
なんとなく、大河川の河口を利用した港が多いですね。。。
[78735]Issie さん
ま,これは“江”戸がそうであるように,ある意味当然の結果ではないかと。
 私は小学校のとき兵庫県にいましたが、神戸港に流れる湊川や生田川の土砂が港に流れ込むのを防ぐため、わざわざ流路変更したと教えられました。それで、「港にとって河川は害である」という認識がありましたので、河川そのものを港にする場所が多いのが意外でした。もっとも、新潟港みたいに本流を放水路から流して港に土砂を流れ込まないようにする港、酒田港みたいに本流との境界に堤防をつくって土砂の流れ込みを防ぐ港など、対策はいろいろでしょうが。河川そのものを港にしている所は、それぞれ土砂との戦いがあるんだろうな~と想像できます。
 ちなみに、広島市内の河川は、不法ながら船が係留されている場所が多く、吉島の貯木場をマリーナに整備してからは減っているとは聞きますが、まだまだ不法係留は残っています。それと、原爆ドーム前から宮島へ結ぶ「世界遺産航路」もあります。広島のデルタ地帯もある意味「川全体が港」とも言えそうです。それとは別に宇品港という立派な港もありますが。。。

[78737]EMMさん
その「新湊」はどこの港のことを想定していらっしゃるか、図示していただけないでしょうか。
 [78733]を書いたときは、旧新湊市域付近の港は一体の港だろうな~と漠然と考えていましたが、伏木富山港と富山新港が別物と仰せであれば、伏木富山港の方を推したいですね。
[78746] 2011年 7月 10日(日)10:37:42オーナー グリグリ
「市」を敢えて付けますか?
そろそろどうでもよいレベルの議論になってきていますが、もう一度だけ拘ってみます。

[78719] hmtさん
加賀市の「市」という字を 安易に省略してほしくなかった。
これは微妙です。
加賀市の意味ではあっても「加賀市」とは敢えて使いたくない場合もあります。

今回の場合は、母方の実家の「小松」に対して「加賀」を使っています。母方の実家を呼ぶ場合、父方の実家と同じく集落名を使うことが多かったのですが、単に「小松」と呼ぶ場合もありました。その場合、「小松市」とは決して呼びません。この小松は小松市を表しているのではなく、母方の実家を表しているからです。今回、父方の実家を敢えて加賀と呼称したのも、積極的に加賀市を表しているのではなく、あくまで実家の呼称として使いたかったからです。したがって、加賀市とは使いたくありません(使えません)。そう言う意味では、[78713]に書いた、
[78698]で使った「加賀」はすべて「加賀市」の意味で使っています。
という表現は不正確であったかもしれません。父方の実家を表すために現在の市名である「加賀」を便宜的に使った、とした方が正確だったように思います。
[78745] 2011年 7月 10日(日)10:20:35オーナー グリグリ
岩舟町はどうなる?
[78718][78721][78728][78740]山野さん、[78655]BANDALGOMさんの情報に基づき、次の変遷情報を更新しました。いつも情報をありがとうございます。

☆栃木県栃木市または佐野市と岩舟町の合併の動き(岩舟町4回目の住民投票へ)
☆埼玉県川口市と鳩ヶ谷市の合併の動き(廃置分合議案可決)
☆愛知県愛知郡長久手町の市制施行(知事への市制施行申請書提出)

それにしても岩舟町はどうなるんでしょうねぇ。岩舟町にある、北関東道の岩舟ジャンクションや、みかも山公園のとちぎ花センターなど、訪れたことも多く、親しみを感じている町です。町の形だけで言うと、旧藤岡町と旧大平町が栃木市と合併したことにより、岩舟町が栃木市に食い込む形状になり、栃木市と合併すると姿としてはまとまることになるのですが、先行していた佐野市との合併に対して、栃木市との合併がクローズアップされた要因も、そんなところにもあるのかもしれません。
[78744] 2011年 7月 10日(日)09:31:05【1】オーナー グリグリ
元気出して、福島県♪
先週の日曜日から風邪気味で(喉頭炎)体調が良くなかったのですが、金曜日に休暇を取り、那須と会津を旅しました。那須はアウトレットと那須岳(峠の茶屋)散策、会津は大内宿散策。那須は何度も足を運んでいますが、大内宿は初めて。あいにく途中で土砂降りとなりましたが、地元の人が素朴で落ち着いた雰囲気を楽しみました。

大内宿にはそれなりに観光客がいましたが(といっても道路が渋滞するほどの込み具合ではなく)、福島県内で立ち寄ったレストランや磐越道のSAなど、土曜日とはとても思えない人気(ひとけ)のなさでした。栃木県北部の那須も人気が少なかったのですが、福島県に入るとそれが一段と感じられました。東北道や常磐道を全面無料にして観光客も呼び込む政策が欲しいなと強く感じました。

都道府県を代表する山と川、加賀の使い方、変遷情報更新、等々、フォロー案件が溜まってますが、体調今ひとつのためしばしお待ちいただきたく、よろしくお願いいたします。

[78727] 佐賀県さんを受けて、首長&地方議会アカウントから古川康佐賀県知事のアカウントを一旦削除しました。
[78743] 2011年 7月 10日(日)09:14:44【1】デスクトップ鉄 さん
大津港・敦賀港
[78735] Issie さん
やっぱり相当無理があるような。
変化球でコーナーをついたつもりが、ジャストミートされてしまいました。
確かに、大津港は別格です。1882年金ヶ崎(現敦賀港)・長浜間の鉄道開業後の1983年から1889年の東海道線全通まで、太湖汽船が長浜・浜大津間の連絡船を運行していました。今も琵琶湖汽船のクルーズ船には、大津港から武生島、長浜港を経由して大津港に戻る、ロングランのルートもあるようですね。

でも,稚内つながりで言うと,「浦塩航路」の拠点である 敦賀港 も捨てがたいのでは,と。
私も、かつてボートトレインが走っていた敦賀港に一票。
[78742] 2011年 7月 10日(日)05:20:23k-ace さん
Re:校区
[78741]いっちゃんさん
この辺ではまず耳にしません。
ですから地元の通学区域が「校区」と書かれるとちょっとこそばゆいのです。
越谷市立明正小学校のTOPページに「校区」というのがあるので、この辺でも使われているのかなぁと思い…。
地元では使われていないなら、なぜに「校区」という表現が?
[78741] 2011年 7月 10日(日)05:12:42いっちゃん さん
校区ネタ再び
[78739]k-aceさん
#結局、八潮市は未踏のまま。
当日Twitterを拝見しながら、いつ来られるのかと茶菓を用意しつつ首を長くしてお待ち申し上げていたのですが・・・(大嘘)。

さて本題。
校区を見てみると、南中、明正小は通学区域外?
この校区という表現。k-aceさんの書き込みなので別に問題視する必要は無いのですが、[65575]inakanomozartさん、[65594]いっちゃん、[65596]EMMさんの過去記事にありますように、この辺ではまず耳にしません。
ですから地元の通学区域が「校区」と書かれるとちょっとこそばゆいのです。
[78740] 2011年 7月 9日(土)23:23:39山野[山野] さん
廃置分合議案可決済み(埼玉県議会)
川口市と鳩ヶ谷市の件について。

[78655]BANDALGOMさん
最終日の7月8日に議決されるものと思われます。
この後、続報が無いなと思ってリンク先を見てみたら、「原案通り可決」されていました。
平成23年6月定例会議案一覧

…という事で、グリグリさん宜しく。
[78739] 2011年 7月 9日(土)19:34:32k-ace さん
草加、川口、越谷
k-aceです。
先日、草加市に行ってきました。で、結果的に川口市安行地区も散策してきたのですが、そこでそこで遭遇したのが[75278]mul-saさん紹介の自治体越えの地名:川口市安行北谷/草加市北谷と川口市安行小山/草加市小山(コレクション収録済み)ですが、コレクション未収録の自治体越えの地名がその北に。>グリグリさん
川口市安行原/草加市原町○丁目
mul-saさん紹介の通り境界変更によるものです。
後、未収録の自治体越え地名として、福島県から拙稿[77529]の近くで。
浪江町大字中浜/双葉町大字中浜
(現在は原発事故の影響で行けませんが…。)

で草加市あたりを見てみると、地名ではなく学校名ですが残ってました。地名としては越谷市のみ。草加市立川柳小学校越谷市立川柳小学校。どちらも旧川柳村(1955/8/1草加町編入、1955/11/3草加町→越谷町の境界変更)。
その越谷市立川柳小学校付近の地図を見てみると、南中学校、明正小学校、光陽中学校、川柳小学校と市立の小中学校が近接しています。皆既日食の日(2009年7月22日)の[70909]くるりさんの記事から公立学校の隣接・近接は落書き帳で話題になってましたが、見つけたので。ただ小学校同士、中学校同士ではない点が惜しいのですが。校区を見てみると、南中、明正小は通学区域外? 南中以外は通学区域には越谷レイクタウンも含まれています(といってもこれら4校の開校日は最近ではない)。 越谷市立明正小学校校区地図見てみると不思議な感じしますが、明正小学校の場合、そもそもは蒲生東町のみが校区だったみたいで、住宅地近くの原か空き地に小中学校を集めたってところなんでしょうか?

#結局、八潮市は未踏のまま。後「道の駅川口・あんぎょう」のすぐ近くまで来てたようですが、こちらも未訪問。
[78738] 2011年 7月 9日(土)19:02:19N-H さん
港湾労働者
お、港町が話題になっていますね。
実は私、この4月までの約5年半ぐらい、かなりあちこちの港湾に出張って働いておりました。
主なものをあげると、国内は、
東京港(大井、有明)、横浜港(大黒)、神戸港(六甲アイランド)、水島港(水島)、広島港(宇品)、博多港(香椎、箱崎)
ぐらいでしょうか。
一方国外では、香港、アムステルダム、上海となります。
あちこちの岸壁にアンテナを立てたり、通信回線を引いたりして、船やトラックが来たり出たりするのを待ち構えるという地味な仕事でした。
港といっても、漁港ではなく、コンテナターミナルとフェリーターミナルです。自動車輸送船も手がけました。
というわけで、
[78733]ペーロケ さん
福岡 博多港 湾の名前は「博多湾」だが、港の名前は福岡港?博多港?どっち?
これは博多港で正解です。福岡の領域にも港のエリアはありますが、貿易港としては博多のエリアが主体だと思います。
[78736]hmt さん
貨物輸送はというと、コンテナ船、RORO船【いわば運転室抜きの貨物自動車フェリー】航路(6~7コマ)。
こんなところでRORO船の話が出てくるとは思いもかけませんでした。少し上記に補足しますと、通常のコンテナ船は、コンテナを船倉や甲板にクレーンで積み上げで荷揚げ荷卸しをします。ガントリークレーンというキリンのような大きなクレーンが並んでいる専用のコンテナターミナルを使用します。
一方のRORO船は、トレーラがコンテナを牽引したまま通常のフェリーのように船尾付近から船にはいり、トレーラはコンテナを残して船から出ていきます。
RORO船のほうが港の設備が不要であるのと、荷揚げ荷卸しの時間が短いことが特徴です。
前述の博多港の場合、箱崎埠頭はRORO船も着岸するフェリーターミナル、香椎埠頭は大規模コンテナターミナルとフェリーターミナルの両方を持ちます。
また、港は空港と同じく内航用と国際埠頭とで設備はかなり異なります。
東京港でいうと、大井は国際埠頭、有明は内航専用です。
ちなみに上海港はいくつもの巨大な港からなります。私が働いたのは長江に面したRORO船の埠頭でしたが、規模感が全く日本の港とは異なり、これでは勝負にならないかも、と思ったものです。
[78737] 2011年 7月 9日(土)14:11:54EMM さん
先生、しつも~ん
お出かけ先なので手短に。

[78733] ペーロケさん
富山 新湊 万葉線が走る街。
その「新湊」はどこの港のことを想定していらっしゃるか、図示していただけないでしょうか。
[78736] 2011年 7月 9日(土)14:07:05【1】hmt さん
北海道の港湾
[78730] 白桃 さん
この文書によりますと、「2大港町」はなんと申しましょうか、室蘭と稚内なんです!!!

「港町」は、「みなと」と深い関係をもつものであっても、「港湾」そのものとは違う雰囲気の言葉ですね。
小樽や函館を差し置いての「2大港町」に憤慨される気持ちはわかります。

北海道開拓時代から戦前に至る北海道の港としては、札幌など内陸部への連絡や外国貿易の拠点としての「小樽港」、石炭積出や製鉄など工業拠点としての「室蘭港」、本州との間を最短で結ぶ交通拠点としての「函館港」。
これが北海道の「3大港湾」であり、これに伴って「3大港町」も自動的に決まったと思われます。

現在は、札幌が抜きん出た大都市になり、旅客の交通拠点は、新千歳「空港」になりました。
でも、千歳を「港町」であると思う人はいないでしょう。

それはさておき、せっかくの機会なので、北海道の港湾の現状を調べてみました。

[78733] ペーロケ さん
国交省的に言えば、北海道に2つしかない特定重要港湾が苫小牧港と室蘭港

北海道港湾の歴史と現状 4/13コマに、特定重要港湾2港、重要港湾10港、地方港湾23港、合計35港が図示されています。

本州との間の定期フェリー航路(5コマ)は、苫小牧から太平洋・日本海の各港を結ぶ航路があり、その他に小樽から舞鶴・新潟への便もあります。函館からは、青函トンネルがある現在も青森に船便が通じており、大間へのフェリーもあります。

貨物輸送はというと、コンテナ船、RORO船【いわば運転室抜きの貨物自動車フェリー】航路(6~7コマ)。
いずれも苫小牧を主要な拠点とし、一部は釧路にも寄ります。
結局のところ、貨物取扱量の半分を占めるのが苫小牧(11コマ)で、これに次ぐのが室蘭。
北海道への人の出入りが空港経由になった現在、貨物取扱の多いこの両港が特定重要港湾であることは理解できます。

「2大港町」としてノミネートされた稚内。
同じ資料の9コマ、外貿定期航路を見ると、稚内~コルサコフ間のサハリン航路が年間76便(H21)とありました。輸送実績

【追記】
RORO船【Roll-on/roll-off ship】につき、[78738] N-H さんに補足説明していただきました。
RORO船のほうが港の設備が不要であるのと、荷揚げ荷卸しの時間が短いことが特徴です。

コンテナよりも迅速な荷役ができるので、写真 のように、十勝などで生産された新鮮な生乳を、消費地付近の加工工場に送るのに使われているのですね。
新聞用巻取紙輸送の写真を見ると、トレーラー方式でありません。内航船の場合は、運転室もろとも航送される場合も多いようなので、最初に書いた“運転室抜き”とは限らないようです。
[78735] 2011年 7月 9日(土)10:19:20【4】Issie さん
稚泊航路,浦塩航路
[78730] 白桃 さん
室蘭と稚内

ものすごく意地の悪い言い方をしたら,「“大”から脱落した2大港町」。
水産業が衰退した現在では,稚内は利尻・礼文航路が主体のローカル港だけど,元は“日本領南樺太”への玄関口ですよね。当然ながら,それなりのにぎわいはあったのでは。
室蘭港は石炭の積み出し港。私は世代的に石狩炭田の最末期しかリアルタイムで知らないけれど,“複線”(!)の室蘭本線を往来する石炭列車の姿は写真や映像で見ていた覚えがあります。
どちらも港の役割の大半が消えて,室蘭に至っては新参者の苫小牧にその地位を完全に奪われて,脱落しちゃった…,という感じでしょうか。
もっとも,“脱落”組には 小樽 という大物がいるし,ウカウカしていると函館もこちらに仲間入りしてしまうかも。

[78733] ペーロケ さん
福井 三国港 九頭竜川の河口に開けた漁港。

元は北前船で栄えた商港ですね。言うまでもなく,越前随一の港町。
でも,稚内つながりで言うと,「浦塩航路」の拠点である 敦賀港 も捨てがたいのでは,と。
北前船の残照に思いをはせるか,それとも日魯交渉の拠点として育まれた異国情緒に重きを置くか。
どちらも甲乙つけがたい。

島根 浜田港 県内に、浜田以外の大きな港が出てこない。

むしろ,鳥取県の境港の方がその位置と“水木マンガ”からの連想で島根県と思っちゃうんですよね。
島根県としては,境港の対岸の島根半島にある 美保関 というのが歴史的には著名な港町ではあります。あるいは,隠岐航路のフェリーが出ている七類港というのもありますが,これはかなりにマイナー。

なんとなく、大河川の河口を利用した港が多いですね。。。

ま,これは“江”戸がそうであるように,ある意味当然の結果ではないかと。
ただし,この中には「東京港」がそうであるように,明治以降,大型外航船の時代になって一旦「港」から滑り落ちたけれど,その後の大規模な港湾(再)整備によって再び浮上したものもありますね。


[78734] デスクトップ鉄 さん
他の内陸県も探してみました。

やっぱり相当無理があるような。
舟運が内陸の交通手段として完全に壊滅した今,ここに「港」というべきものはもはや存在しない。 あるのは,単なる観光遊覧船の船着き場。
唯一,例外としてノミネートされる琵琶湖の大津港も現状では観光船の船着き場に過ぎないけれど,ここは過去の歴史,たとえば鉄道黎明期に琵琶湖水運を介した水陸連絡拠点として機能していたことを踏まえてのことだろうと思います。
たとえば埼玉県には荒川・新河岸川や古利根川沿いにそんな“港町”が少なからず存在するけど,今は「港」はありませんからね。
[78734] 2011年 7月 9日(土)08:53:55デスクトップ鉄 さん
都道府県の港
[78733] 2011年 7月 9日(土)02:27:29【2】ペーロケ さん
都道府県の顔となる港町
[78730]白桃 さん
国交省的に言えば、北海道に2つしかない特定重要港湾が苫小牧港と室蘭港なので、室蘭は2大港町の一つと言えなくもないですが(笑)。

 港と一言で言っても、港にも機能がいろいろあり、どの機能に適しているかということで、港町の性質が変わるため、どの視点で「二大港町」とするかによって、選び方はいろいろ変わってきます。北海道で言えば、「旅客」を期待するのであれば函館と小樽、「物流」を期待するのであれば苫小牧と石狩新港、「水産」を期待するのであれば釧路と根室あたりが妥当でしょうか。

 個人的な独断ですが、今流行の都道府県を代表する港を挙げてみました。ただし、正式名称とは限りません。

北海道函館港はるばる来たぜ!と思わせる港町。
青森青森港斜張橋のベイブリッジがお出迎え。
岩手宮古港震災で被災したものの、やはり三陸の中心はここ。
宮城塩釜港仙台近郊で松島にも面する。東北地方の物流の要。
福島小名浜港県内最大の人口を擁するいわき市最大の港町。
茨城大洗港那珂湊とどっちが大きいんだろう?
千葉銚子港内房にはもっと巨大な港がたくさんあるが、あえて外房で。
東京東京港正式には「京浜港」という名前らしいけど。。。
神奈川横浜港港のヨーコ♪
静岡清水港三保の松原に囲まれた天然の良港
愛知名古屋港名古屋人は何でも「名」で済ます。ここも「名港」と略される。
三重四日市港規模でも知名度でも、港という意味の名を持つ県都、「津」を圧倒
滋賀大津港滋賀県は内陸県ながら、大津市は港町と呼ぶに相応しい都市。
和歌山和歌山港紀ノ川河口に開けた港町。
大阪大阪港全国から物資が集まる「天下の台所」
兵庫神戸港六甲山に守られた、天然の良港
岡山宇野港石島探検隊の集合場所(笑)
広島呉港大和など、造船で栄えた軍都。
山口下関港源平合戦、明治維新等、歴史で何度も登場する海峡都市
島根浜田港県内に、浜田以外の大きな港が出てこない。
鳥取境港屈指の漁獲高と、ネズミ男が歩く街。
京都舞鶴港陸奥湾に似た湾の中に、二つの都市が仲良く並ぶ軍港。
福井三国港九頭竜川の河口に開けた漁港。
石川七尾港能登湾に守られた港町
富山新湊万葉線が走る街。
新潟新潟港信濃川河口に開けた港町。
山形酒田港最上川河口に開けた港町。
秋田秋田港雄物川河口に開けた港町。
香川高松港四国の玄関口
徳島徳島港大きな川があるのに、中小河川の河口しか利用していない珍しい例?
高知高知港浦戸湾に守られた天然の良港。
愛媛三津浜港万葉集で「熟田津」と詠まれた歴史ある港町。
福岡博多港湾の名前は「博多湾」だが、港の名前は福岡港?博多港?どっち?
佐賀唐津港有明海は大きな港が意外とない。
長崎長崎港江戸時代、オランダと貿易ができた港。
熊本八代港球磨川河口に開けた港町。
鹿児島鹿児島港2つの村役場が立地するほど、南西諸島にとっては重要な拠点港。
宮崎宮崎港大淀川河口の潟湖、一ツ葉入江を利用して作られている。
大分別府観光港国際温泉都市、別府の玄関口。
沖縄那覇港沖縄の離島を結ぶ重要な港。

 なんとなく、大河川の河口を利用した港が多いですね。。。
[78732] 2011年 7月 9日(土)00:43:51【1】千本桜 さん
2大
[78730] 白桃 さん
「2大」は納得できないです

「2大スター夢の共演」の会場を覗いてみたら、大下八郎と大木伸夫がデュエットしていたなんて許せないっすよ! 演歌ファンとしては、おんなの宿で涙の酒なんて最高にシビれるけど。
演歌が似合う北海道2大港町。釧路、苫小牧、小樽、函館がノミネートされました。苫小牧は演歌っぽくないので落選確実ですが、釧路、小樽、函館は激戦でしょうね。

女の宿を、おんなの宿に訂正
[78731] 2011年 7月 9日(土)00:21:01かぱぷう さん
福岡の山
都道府県を代表する山、話題に加わろうにも福岡県はなんとも中途半端な具合でして悶々と(笑)しておりました。福岡に関する話題もちらほら見受けられるようになりましたので、お邪魔しにきました。

[78717] 有明つばめさん
ただ、どれか一つに絞るというのであれば、標高こそ英彦山には及びませんが、「都道府県を代表する山」というのであれば脊振山(1055m)の方が相応しい気がします。

県内最高峰の釈迦ヶ岳はあまりにマイナー過ぎるので、少なくとも福岡市にとっては身近な脊振山の方が相応しいのではないか、と。

[78726]futsunoおじさん
福岡市周辺では三郡山・宝満山の方が存在感があるように思っていましたが背振山という見方もあるのでしょうか。

英彦山は、あまり知名度が高い山とはいえません。筑豊でも「田川地区の山」という捉え方をされている気がします。下手したら田川地区でも香春岳のほうが親近感をもたれているかもしれません。
宝満山・三郡山は、結婚まで朝倉郡筑前町で暮らした我が家の山の神(大学時代はワンダーフォーゲル部に所属)に言わせると「宝満は身近すぎる山」だそうです。確かに筑紫地区では存在感高しなのですが、元福岡市民(私)においては存在感は希薄で、筑紫野市民になって毎日目にするようになるまでは意識したことはほとんどありませんでした。
脊振山は、気象台のレーダーがあることもあり、天気予報でもアナウンサーがよく口にします。寒波が襲来すると新聞記事は「脊振山雪化粧」。福岡市から遠いこともありましょうが、英彦山のメディア露出度は少ないのが実態です。
・・・私も福岡県を代表する山は「脊振山」に一票でしょうか。

#ちなみに、先述の妻に「福岡県を代表する山ってどこやろか?」と問いかけたところ「うーん、福岡県の山ってさ、縦走することがほとんどやったもんねぇ。“山に登る”っていうんなら久住とかのほうが面白いっちゃけど」と答えになってない答えを返してくれました。ありがとね(^^;
[78730] 2011年 7月 8日(金)23:44:00白桃 さん
「北海道2大港町」に大憤慨
最近の話題で、futsunoおじ さんがご提案された「都道府県を代表する山と川」についてですが、結論から申し上げますと、私もオーナーのお考えに近いです。その理由は、こういう場に出されるまでにご本人の呻吟もあったことでしょうし、メンバーからの真摯な意見を当然参考にされることだろうと考えますので、少しの「独断と偏見」があろうとも「落書き帳選」にすべきだと思います。

それに少しは関係するのですが、標題の件で超、超、ムカツイております。
北海道のさる公的機関からの要請で私の勤務先が、2大港町で新しいライフスタイルを見つけ、とかなんとか、そのまま会員の旅行会社に流しているのですが、この文書によりますと、「2大港町」はなんと申しましょうか、室蘭と稚内なんです!!!
美空ひばりの横浜と淡谷のり子の神戸が日本の2大港町って言われると、データ的にはどうなんだろう、と一瞬思っても私はおとなしく妥協します。

けど、けど、なんでやねん!
室蘭と稚内に個人的恨みはなにもありませんが、この二つの市の財政的な困窮、人口急減等々の理由から地元の方のなんとかしたいという気持ちを推し量っても、「2大」は納得できないです。宮城県の2大都市が大崎と大河原である、と定義づけるよりも滅茶苦茶だと思います。
私の室蘭:初代若乃花が沖仲仕をやっていて海に落っこちた街
私の稚内:どういうわけか人口5万人を超えていた時期があった最北の街
[78729] 2011年 7月 8日(金)20:29:51YASU さん
浜松市制百周年記念誌
去る7月1日に浜松市は市制百周年を迎えたのですが、その記念誌がなかなか立派とのことなので、本日もらってきました。
リーフレットに毛の生えた程度のものかと思っていたのですが、ハードカバー(A4版)90ページ、DVD付となかなか力が入っています。
昭和時代の市街地や廃線になった遠鉄奥山線など、貴重な映像を見ることができました。

ところで○○周年を迎えた他の市でも、このような冊子を配布したりするのでしょうか?
[78728] 2011年 7月 8日(金)12:14:40山野[山野] さん
泥舟
雨が上がった途端、また暑くなった。
只でさえ「空っ梅雨」なのに、昨日1日しかまともな雨が降っとらん。
九州・四国はザンザン降りの様だが、少し東海地区にも分けてくれ。

前置は、さて置き(本題)へ。
[78718]でも書きましたが、岩舟町は今回で4度目の住民投票を実施する方針となりました。
今月中にも臨時会を開き住民投票条例案を上程し、来月下旬にも「合併先」を問う投票が実施されます。
尚、結果が出るまで栃木市との法定協は延期する事が昨日、決められたとの事。
選択肢は3択で、(1)佐野市(2)栃木市(3)合併せず単独町制継続。
投票権は18歳以上、投票率が50%未満の場合は無効となるが、得票率の多い方で決める。
投票の結果、選択されなかった合併協は廃止(解散)するが盛り込まれる。
下野新聞より。

岩舟は「合併」という名の「底無し沼」に嵌ってしまい、未だに抜け出せずに喘いでおります。
[78727] 2011年 7月 8日(金)08:15:36佐賀県 さん
佐賀県知事ツイッターアカウント削除、
[78726] 2011年 7月 8日(金)01:30:44futsunoおじ さん
「都道府県を代表する山と川」へのご意見について(その8)
[78716] 笠津前浜 さん
大きな川ではないのですが、県下唯一の一級河川ということで本明川を推薦します。

[78723] ぺとぺと さん
三重県にルーツを持つ者として、三重県を代表する川が未選というのはいかにも寂しいです。
最有力候補は県内最大の流域面積をもつ宮川なのでしょうが、知名度だと内宮の横を流れる五十鈴川なんてのもありかと。

長崎県、三重県等の川が空白ですが、比較第一位であればいいものではなく県内に広く影響を与えるものという考えでおりますが、今のところ見当たらないかなという状況です。


[78717] 有明つばめ さん
ただ、どれか一つに絞るというのであれば、標高こそ英彦山には及びませんが、「都道府県を代表する山」というのであれば脊振山(1055m)の方が相応しい気がします。

福岡市周辺では三郡山・宝満山の方が存在感があるように思っていましたが背振山という見方もあるのでしょうか。


[78723] ぺとぺと さん
[78724] Issie さん
今も丹沢山系を眺めていますが、前衛にある大山はハッキリわかりますが、東西にのびる稜線のどこが丹沢山のピークなのかは全くわかりません

丹沢山地全体を指す場合単に「丹沢」と言う場合が多いようですが、人によっては丹沢山であるかもしれません。ただその中の1峰に丹沢山の名前がついていることで話がややこしくなっています。丹沢を代表する山をあげると最高峰の蛭ヶ岳1673m、登山者数が多い塔ノ岳1491mそれに半ば独立した位置にある大山1252mであるように思います。狭義の丹沢山1567mは蛭ヶ岳と塔ノ岳の間にあり特段に目立つ存在ではないように思いますが、日本百名山では「丹沢山 1673m」となっており標高は蛭ヶ岳の数字が充てられています。

狭義の山名が広義の山名と同じである場合、その山群の主峰であり最高峰であることが多い様です。変わった例では山群名称を「九重山」、主峰の単独山名を「久住山」と地元で決めたところがあります。(読みはどちらも「くじゅうさん」。最高峰は中岳。)ここの町名には「旧・久住町」と「九重町(ここのえまち)」があります。

広義の飯豊山は通常「飯豊連峰」と言いますが、主峰の飯豊山を特に意識して呼ぶ場合「飯豊本山」となります。その北にある「朝日連峰」の主峰は「大朝日岳」ですが小朝日岳・西朝日岳・袖朝日岳に囲まれています。これらは日本百名山での山名は「九重山」、「飯豊山」、「朝日岳」で表されています。

山群中の個々の山名には方角を表す名称が使われることが多くあります。日本で富士山に次ぐ高峰である「北岳」は約50年ほど前には白根山の最も北に位置するということで「白根山 北岳」でしたが、その後「北岳」だけで使われることが普通になりました。「白根(又は白峰)」は「白峰(しらね/はくほう)三山」というような場合だけ目にするようです。
[78725] 2011年 7月 7日(木)22:27:15【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (6)オランダ人は 最初に小笠原群島を見つけたが…
1856年に出版されたペリーの『日本遠征記』は、(ハワイからの移民の存在を知りながら) 「無人島」として放置していた幕府に 小笠原の価値を教える結果になりました。

幕府老中安藤信正は、文久元年(1861)に外国公使たちに対し「小笠原回収」を通告[78720]
我が南海属島 小笠原島(中略)追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。

安藤が意識した“貴国人”とは 米国出身でハワイから来た移民のことで、この件については、米国公使ハリスから事前の了承を得ていたと思われます。ハワイ王国と日本との国交はなかったはず。

この 1861年というのは、アメリカで南北戦争が始まった年であり、既に開国の要求を受け入れた日本との間で、太平洋の小島の領有を争う気が起こらない、今から思うと絶妙のタイミングでした。

米国が争わない以上、やるべきことは 咸臨丸で現地に渡った 外国奉行水野越後守忠徳が、住民の代表セボリーに会って、日本統治の根拠を説得することです。
水野は、米国公使館書記官ポートマンからのセボリー宛書簡も持参し、日本に対する米国の好意的態度も証明しています。

この時に、通訳として同行したのが中浜万次郎。井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』で知られる彼は、少年時代に土佐国中浜村から漁に出て、鳥島に漂着。救助された米国捕鯨船の船長に可愛がられ、米国で学んだ後に捕鯨に携わったが、やがて自力で小舟を購入して 琉球経由で帰国した という経歴を持ちます。

31年前の セボリーたちの入植と、更にその3年前の 英国領有宣言に対しては、186年前に 日本がこの島を発見・調査した[78669]という事実を伝え、今後は 日本人の移民も 島に送ることにするが、先に入っている住民の 既得権は保護することを説明しました。

この時に、水野が ついでに 持ち出したのが、文禄2年の小笠原貞頼伝説[78720]です。
こんな 詐欺まがいの話を わざわざ持ち出したのは、『三国通覧図説』などを通じて 欧米にも知られていた話 であることと共に、幕府が 最大の拠り所とする 1675年の探検よりも 早い時期の発見 に対抗する手段として 活用する目的があったのではないかと思われます。

南蛮人が 日本近海に現れた記録として 有名なのは、ポルトガル人による 天文12年(1543)の種子島 鉄砲伝来ですが、同じ年に フィリピンから北に進んだ スペイン船サン・ホアン号のトーレ船長が、日本の近海域 北緯25度あたりで 火山島を発見したとされます。硫黄島と思われるこの島は、探検されませんでしたが、広い意味では 「小笠原諸島」の最初の発見です。

スペイン船は、フィリピンとメキシコとを結ぶ海域をよく通っていたはずです。
しかし、結果的には火山列島(硫黄列島)を発見しただけ。スペインは小笠原群島発見の機会に 恵まれませんでした。

南蛮人に次いで現れたのが紅毛人です。ユトレヒト同盟から 1581年に独立宣言したオランダ。驚異的な勢いで海外進出し、1602年に設立された オランダ東インド会社 VOC は ジャカルタを本拠地としました。日本との出会い 第1号は リーフデ号の漂着(1600)[77689]

1639年7月21日、オランダ東インド会社の クワストとタスマンによる 北太平洋探検船は、新しい島を発見し、2人がそれぞれ指揮した船の名から、エンゲル島とグラフト島と 名付けました。
船を停泊させる場所を見つけられず上陸しなかった とのことですが、これが母島と父島であったと伝えられます。

よく探せば、良港(父島の二見港)があったのに、詰めが甘く、オランダは小笠原を確保することができませんでした。

もっとも、このタスマンという探検家。1642年に発見した島により、その名が知られていますが、タスマニアも後にイギリス領。
更に東に航海して発見した ニュージーランドも、2つの大きな島であることを認識できず。
オーストラリア大陸で 最も豊かな南東部も 見逃したままで、イギリスのキャプテン・クック[45308] の手柄になりました。
オランダとイギリスの 国力の違いもあるのでしょうが、どうも詰めが甘く、結果的には イギリスに してやられた という印象です。

小笠原回収の時代に戻ると、上陸・探検こそしていませんが、オランダ人による小笠原発見(1639)は、1675年の幕府探検よりも明らかに前です。
オランダ人の話を持ち出された場合、これに対抗するのは、文禄2年(1593)の小笠原貞頼伝説しかない。
こう考えて予防線を張ったのが、水野の真意だったのではないでしょうか。
[78724] 2011年 7月 7日(木)19:44:43【2】Issie さん
皆さんお毛がなくておめでたい
[78723] ぺとぺと さん
妻 : 「箱根かぁ・・・でも、箱根は山に登るって感じじゃないよね」

あっ,これはわかる気がする。
つまるところ,箱根は「登る山」ではなくて「越える山」なのですよ。
“登山電車”なるものが走っているし,地元では“登山バス”と呼ばれているものもあるけれど,登るのは乗り物。たいてい,自分の足で登るわけではない。
だから,「山に登る」という感覚が希薄なのでは?

今も丹沢山系を眺めていますが、前衛にある大山はハッキリわかりますが、東西にのびる稜線のどこが丹沢山のピークなのかは全くわかりません

これは別の角度から眺めても同じです。
当地,相模原からは富士山が見えませんから,どこより目立つ山は大山です。
“単独峰”としての「丹沢山」はボーッとした塊である“丹沢山塊”の中の“有象無象”の峰の1つに過ぎない。「百名山」なんて,山に登らない一般ピープルには関係ない話ですから。
その存在感の大きさゆえ,信仰の対象となって,南関東各地から“何本もの大山街道”が走り(一番有名なのが“246”),「大山詣で」なんて落語の題材にもなる。
これは“県内最高峰”の蛭ヶ岳にもない存在感です。

全国的な知名度なら箱根山の方が勝るかもしれません。けれども,箱根はやっぱり「県西」の山。“神奈川県”として見ると,西に偏りすぎなのは否めません。これが「足柄県の山」というなら,間違いないのですが(いや,「足柄県」なら「足柄山」という声も聞こえそうです。この場合,「足柄山」とは単独の峰を指すのではなく“足柄峠”を中心とする山塊の総称ととらえるべきでしょう)。
もっとも,大山および丹沢山塊も,元は 神奈川県 ではなく 足柄県 に属していました。

そんなわけで,私は 大山 に一票を投じます。
で,単独峰としての丹沢山には古代ギリシアの「オストラキスモス(陶片追放)」よろしく“排除票”を投じたい。

※そうそう,言い忘れていました。
単独峰としての 丹沢山 は,千葉県の鹿野山,そして東京・麻布の 日本経緯度原点 と並ぶ“超一等三角点”の1つ([78608])で,「地理」の立場からはとっても重要な山です。
でも,その世界でも存在感は鹿野山に数段劣る,という気がします。
[78723] 2011年 7月 7日(木)16:55:23ぺとぺと さん
神奈川県を代表する山&三重県を代表する川
今日は勤務先の輪番休業日。明日からの「七夕まつり」を控えた平塚市の自宅で、笹飾りが風になびく音をBGMに丹沢山系を眺めながら書き込みしております。

さて、神奈川県を代表する山の話題に関して、今朝のぺとぺと家の会話から。
私 : 「ちょっとアンケート。神奈川県を代表する山をひとつ選べって言われたら、どこを選ぶ?」
妻 : 「大山」(即答)
私 : 「俺は知名度から言って、箱根だと思うけどなぁ」
妻 : 「箱根かぁ・・・でも、箱根は山に登るって感じじゃないよね」
私 : (“箱根の山は天下の険”って知らんのかいと心の中で叫びつつ)「確かに。でも、あるメーカーのアンケートでは丹沢山が選ばれたみたいだよ」
妻 : 「丹沢山?・・・」(きょとん)
私 : 「やっぱり丹沢って、単独の山じゃなくてその辺一帯を指すってイメージかな?」
妻 : 「うん。だって大山も丹沢だよね」

箱根に対する評価はともかくとして、「丹沢」という言葉に対する感覚は私も妻と一致しています。(ちなみに、妻は大磯町に20年以上、私は川崎市、大井町、二宮町、平塚市を通算して11年居住しております。)そのため、[78626]で伊豆之国さんが紹介された “さる時計メーカーのアンケート調査”の結果である「神奈川 丹沢山」を見てなんとなく違和感を覚えたのでした。
確かに丹沢山はれっきとした一山岳の固有名詞であり、日本百名山にも選ばれているようですが、日常生活において丹沢山が単独で語られることはほとんどありません。私は本格的な登山はやらないので登山家の視点はわかりませんが、すぐそばにある県最高峰の蛭ヶ岳を差し置いて代表選手になるほどの存在感はないのではないかと。かといって知名度という面では蛭ヶ岳もいまひとつな感じ。今も丹沢山系を眺めていますが、前衛にある大山はハッキリわかりますが、東西にのびる稜線のどこが丹沢山のピークなのかは全くわかりません。やはり、感覚的には「丹沢」は単独の山岳名というよりも、丹沢山地一帯の名称としての使われ方がしっくりきます。したがって、あくまでも推測ですが、件のアンケートの結果には「丹沢山単独ではなく、丹沢山地一帯をイメージして投票されたもの」も含まれているような気がします。
すでにfutsunoおじさんが千本桜さんの質問 [78712] に対して[78715]で、
特定のピークを指すものではないが、ある範囲の山域の名称(及び地域名)と考えています。(中略)純粋な山岳を選択したい場合、判断は難しくなりますが「都道府県を代表する山」ではどう考えるべきでしょうか。
と問題提起されているように、特定の山岳名にこだわるのか、山域一帯を指すのかによって選出の仕方も変わってくるのでしょう。私は、前者であればfutsunoおじさん選のとおり大山、後者であれば国内外で著名な箱根を推したいところです。 [78604]N-H さんの
箱根対丹沢、私はどちらかというと箱根をあげたい気分ですが、「箱根山」というのはよく聞く呼称ですが、ちょっとアバウトなんですよね。でも、箱根山。
と同じ感覚です。
大山は下社までケーブルカーが通じていることもあり、身近な登山対象として地元には親しまれています。ケーブルを使わずに、秦野市の弘法山あたりから登っていくとそれなりに手ごわい山なのですが、山頂からの関東平野の眺めは最高です。「丹沢大山国定公園」とわざわざ大山を外出しにしているところや「大山街道」といった名称を見ても、老若男女問わずそれなりの知名度はあるという認識です。

[78710] futsunoおじさん
三重県にルーツを持つ者として、三重県を代表する川が未選というのはいかにも寂しいです。
最有力候補は県内最大の流域面積をもつ宮川なのでしょうが、知名度だと内宮の横を流れる五十鈴川なんてのもありかと。
[78722] 2011年 7月 7日(木)13:00:03佐賀県 さん
お詫び
[78679]オーナー グリグリ さん
回答が遅くなりましたこと、きちんとした確認をしないまま[78664]を書き込んでしまったことをお詫びします。

これまでのWeb版公式ホームページには、
Facebookページ「武雄市役所」を開設しました
と書いてあるだけなので、完全移行するようには見えませんが、これから本当にそうなるのでしょうか。
どうやら7月いっぱいかけて移行するというようなことだったと思うのですが、武雄市側の公式の表明を見つけ出すことができないでおります。
不確実な情報を書き込んでしまって、申し訳ありませんでした。
なお、
フェイスブック版を見ました。何をどう伝えようとしているのか全然分りません。
については同感です。

"さ がん太郎"アカウントのツイートや最初のツイートなどを確認したり、アカウント名で検索を掛けたりしてみましたが、おっしゃるような公式の証拠や証跡は見つかりませんでした。どのような根拠で公式と判断されたのでしょうか。プロフィールなどで公式であることの何らかの宣言や説明が欲しいところです。
これも不確実な情報で先走ってしまいました。
お詫び申し上げます。
公式の根拠となるものが明示できるようになりましたら、お知らせいたします。

先走ってしまったことがかえってご迷惑をおかけしました。
今後、焦らず、落ち着いて書き込んでいきたいと思います。
[78721] 2011年 7月 6日(水)20:23:47山野[山野] さん
補足(記事が見つかりました。)
[78718]の補足記事
現在の所、関連記事が見当たらないので勘弁
NHK名古屋放送局より。本日、長久手町が市への移行を申請書を知事に申請しました。
[78720] 2011年 7月 6日(水)18:06:21hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (5)文禄2年 小笠原貞頼発見?
世界自然遺産になる小笠原の島々につき、先週は 1675年の島谷(しまや)探検隊まで歴史を遡り、父島・母島等個々の島の名に及びました[78669]。今回はこれに続いて、これらの島々を総称する「小笠原島」という名について記します。

島谷市左衛門をして延宝3年(1675)の探検を行なわせ、伊豆代官管轄地とした後も、幕府はこれらの島々の開拓は行なわず、「無人島(むにんじま)」の名で処理していたようです。
しかし、普通名詞かと疑われる「無人島」という名は、正式の「地名」としては、いかにも奇妙です。

「正式名を付けない」ことは、「当面は 幕府領としての開拓を行わない」という、内向きの意思表示だったのかもしれません。

ところが 110年後、“天明5年(1785)秋 東都 須原屋市兵衛梓 仙台 林子平図”の『無人島大小八十余山之図』には、“本名小笠原嶋ト云”と記されています[78665]

更に 76年後の「小笠原回収」[26683]に際して、「伊豆国附島々備向取調且小笠原島開拓」と公称しています。
これは、列強諸国に対して「国内問題」であることを主張したい幕府の都合でしょうが、今度は“伊豆国附島”や“小笠原島”という言葉を使い、186年前の 内向きの処理を一変させました。

外国公使たちへの通告文
書簡を以て申し入れ候。我が南海属島 小笠原島 渡航中絶の所、今般外国奉行水野筑後守、目付服部帰一等差遣わし、追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。拝具謹言

民間の出版物である林子平の地図はさておき、幕府の公式の呼び方が17世紀の「無人島」から、19世紀の「小笠原島」へと変化したのは、この間に何が起きた為か?

もちろん、これらの島々には、「原」コレクションに収録できるような地形「小笠原」が存在するわけではありません。
「小笠原島」という名が付いた発端は、享保12年(1727)にありました。さかのぼり年表[78665]参照

この年、宮内貞任と名乗る浪人が江戸に現れ、自分の先祖に 信濃深志城主 小笠原長時の曽孫である小笠原貞頼という人物がおり、文禄2年(1593)に南海の島を発見して「小笠原島」と命名していると主張しました。
発見の根拠とされたのが、『巽無人島記』 という本です。

残されている抄録を見ても あまり要領を得ないのですが、家康配下だった小笠原貞頼は、文禄の役の後に“南海へ出帆、伊豆八丈の南 三つの島国を見立巡見、地広く人家なし”(5コマ)という記述があります。

宮内貞任 は、“小笠原島は(祖先の)所賜の領地にて、以て永く島名と為すべしとの台命ありしより 小笠原島の名ある事は 天下衆庶の所也”と主張し、このような 祖先の偉業を継ぐために 島に渡る許可を幕府に申請しました。
その結果 一度は許されて、甥が出航したものの消息不明。
そのうちに家系疑惑(20コマ)が出て、小笠原の本家から出自を否定され、偽りの由緒書と系図を根拠とした貞任は、大岡越前守忠相により重追放処分を受けるに至りました(36コマ)。

このように、16世紀末に小笠原貞頼がこの島を発見したという説が極めて「怪しい話」であることは、この説が現れた 18世紀前半から既に明らかにされていました。
しかし、スキャンダルが大きなニュースになったことは、かえって「小笠原島」の名を世の中に知らせることになりました。

これだけならば、「小笠原」が現代社会の正式名になることはなかったかもしれません。
しかし、実はもう一つの事情があり、そのために この伝説は意図的に利用されたのではないかと思われます。
[78719] 2011年 7月 6日(水)17:35:29hmt さん
適切な地名がなかった>了解
[78713] グリグリ さん
適切な地名がなかったのが実態です。
父方の実家は決して加賀とは呼びません。

自分のことを省みても、言いたい内容を表す適切な地名がなく、現在の行政地名で代用してしまうことがあります。
[78698]で使われた「加賀」が、加賀市発足よりも前のことに関するものであっても、「現在は加賀市域になっている ある場所」を意味しているであろうことは、私にも文脈から推察することができました。
“金沢って「加賀」ではなかったのか?”などと一応はすねてみましたが、基本的には了解です。

ただし、私自身は非常に気持ち悪いと思いながら使っています。

「南加賀」も「加南地方」も、あまり熟した地名ではないようなので、今回のケースについて言えば、[78706] EMM さん の発言にあるように、「加賀市」と書いたらよかったのではないでしょうか?
加賀市発足よりも前のことなのに「加賀市」と書くのも“気持ち悪い”かもしれません。
しかし、それこそ、文脈から「現在の加賀市域」とわかると思います。

いただいたレスに対する、私の感想 その1
“現時点でもまったく揺るぎない”[59238]での説明
加賀は加賀市を特定する場合にはまず使いません。
に則して、加賀市の「市」という字を 安易に省略してほしくなかった。

感想 その2
ただ、今回のような場合を想定すると、加賀を加賀市の意味で使う用法も少しずつ広がりつつあるのかなとも思いました。

これが事実とすると、言葉だけの「僭称地名」にとどまらず、現実に地名の混乱を招く傷口になります。
加賀市だけでなく、国名を名乗る他の市についても 起りそうな問題と思われます。
[78718] 2011年 7月 6日(水)17:31:00山野[山野] さん
協議延期を要望へ(岩舟町長)
岩舟町(というか町長)は4回目となる住民投票の実施を検討している模様。
内容は「合併先」を問うもので3択です。
(1)栃木市と行うのか。
(2)佐野市と行うのか。
(3)単独町制を継続するのか。
参照下野新聞

メーテレ(名古屋放送)の16時頃のニュースにて。(現在の所、関連記事が見当たらないので勘弁。)
本日、長久手町が来年1月4日に「長久手市」になる為の申請書が知事に提出されたと報道されていました。
[78717] 2011年 7月 6日(水)15:09:54有明つばめ さん
福岡県の場合(都道府県を代表する山)
かなりお久しぶりの投稿になってしまいました。

[78710] futsunoおじ さん

福岡県 英彦山 1200m

福岡県の場合、一つの山に絞るというのはなかなか難しい気がします。
ただ、どれか一つに絞るというのであれば、標高こそ英彦山には及びませんが、「都道府県を代表する山」というのであれば脊振山(1055m)の方が相応しい気がします。

というのも、英彦山は福岡市からも北九州市からも直接見ることができませんし、筑後地方からみた場合、平地からも直接見える雲仙岳・天山や、近所の山に上ればその外輪山が見える阿蘇山に比べてあまりに遠い存在だったりするので。
といって、県内最高峰の釈迦ヶ岳はあまりにマイナー過ぎるので、少なくとも福岡市にとっては身近な脊振山の方が相応しいのではないか、と。

これが「各都道府県から2つ」だったら脊振山と英彦山で問題はないと思うのですが。
[78716] 2011年 7月 6日(水)01:51:34笠津前浜 さん
長崎県の場合(都道府県を代表する山と川)
[78710] futsunoおじ さん

長崎県 雲仙岳 1483m

大きな川ではないのですが、県下唯一の一級河川ということで本明川を推薦します。
延長、河川流域面積、支川数どれも県内一位です。【長崎県河川課のページより】

流域面積に関しては、諫早湾干拓の調整池が数字を押し上げていますね。

山口県 (羅漢山 1109m)

徳佐にある十種ヶ峰が長門富士と呼ばれており美しいと評判です。徳佐といえばリンゴ狩り。ふじも栽培されてるようです。
[78715] 2011年 7月 6日(水)01:38:36futsunoおじ さん
「都道府県を代表する山と川」へのご意見について(その7)
[78712] 千本桜 さん

ただし、蔵王山の最高峰である熊野岳 (1841m)は山形県に属していますから、山頂が他県に属する山に該当します。

難しいところですが頂上部には一部に県境未定箇所があり、判断によっては宮城県域が熊野岳に達する可能性もなくはないと思われます。それなら“(県境未定地域)”と付するべきであったと思います。

宮城県を代表する川については、北上川と阿武隈川、鳴瀬川と名取川 という2つのグループに分けられると思います。これを消去法で削っていくと県内流域が広く川としも大きな北上川と、大きな流域人口があり仙台市域を流れる名取川の比較になるように思いますが、ただどちらが選ばれても所詮1/4の川という気がしてしまいます。でもどうしても選ぶとなると北上川でしょうか。


「高野山」と言う名の山はあるのでしょうか?。

Wikipediaでは(一応信用すると)
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称
とのことで特定のピークを指すものではないが、ある範囲の山域の名称(及び地域名)と考えています。この点では奈良県の吉野山と同じ解釈をして良いかと考えます。(吉野山の場合は20万図に山名記載がありますが、ウオッ地図(2.5万)では個別山名の青根ヶ峰の記載になっています。)「山」には宗教的修行の場等の意味もありますので純粋な山岳を選択したい場合、判断は難しくなりますが「都道府県を代表する山」ではどう考えるべきでしょうか。
[78714] 2011年 7月 5日(火)23:50:17オーナー グリグリ
表現方法の問題
[78711] むっくんさん、相当悩まれて推敲に推敲を重ね書き込まれたのだと推察します。しっかりとした論拠とフォローをありがとうございます。心から深く御礼申し上げます。

今回の[78674]実那川蒼さんの書き込みに対する私の受け止め方は、表面的には管理人としての立場を責められているように感じますが、むしろ、十番勝負への強い期待の現れだと感じています。要は、その方の表現方法の問題であって、決してその方の本質や、まして人格までを疑うようなことはありません。

何回も書いていることですが、リアルのコミュニケーションにおいては、表情やその場の雰囲気など、言葉を補う要素が沢山あるので、大人同士であればほとんど問題ないことも、ネットの世界では言葉だけのやり取りになってしまうので、余分な問題を引き起こしてしまいます。だからこそ、ガイドラインにも書いている通り、相手に配慮した書き込みと、相手の書き込みを懐深く受け止める余裕が必要と言っています。
[78713] 2011年 7月 5日(火)23:48:37オーナー グリグリ
加南地方
[78704] hmtさん
特に[78698]は、加賀市発足よりも前のことではないかと思われるのに、“加賀を離れ”となっています。
混乱させて申し訳ありません。hmtさんが引用されている[59238]での私の説明については、現時点でもまったく揺るぎないものです。[78698]で使った「加賀」はすべて「加賀市」の意味で使っています。文脈から明らかに分るだろうと言うことで加賀という表記を使いました。ただし、私自身は非常に気持ち悪いと思いながら使っています。

本当は、父方の実家のある加賀市の集落名を出せばよいのですが(大聖寺でも動橋でもない)、ちょっとプライベートに近づき過ぎると言うこともあり、適切な地名がなかったのが実態です。母方の実家の場合は集落名まで出さなくても小松という地名で拘りなく表せます。小松とのバランスで加賀を使った次第。子供の頃も、両親の実家を集落名で呼んでいましたが、母方の実家の場合は小松と呼ぶことも前後の状況によっては普通にありました。しかし、父方の実家は決して加賀とは呼びません。ただ、今回のような場合を想定すると、加賀を加賀市の意味で使う用法も少しずつ広がりつつあるのかなとも思いました。

[78706] EMMさん
小松市や加賀市をまとめて言うのであれば「南加賀」となります。
南加賀という用法は私にとっては目新しいです。むしろ、北陸鉄道の路線名にも使われていた加南地方の方が、一般的ではありませんが多少馴染みがあります。
[78712] 2011年 7月 5日(火)22:18:37千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川 (改訂版)
[78710] futsunoおじ さん

宮城県を代表する山が蔵王山。これには同感です。ただし、蔵王山の最高峰である熊野岳 (1841m)は山形県に属していますから、山頂が他県に属する山に該当します。

宮城県を代表する川については、北上川、鳴瀬川、名取川、阿武隈川で迷っておられるご様子ですが、鳴瀬川、名取川に代表性を持たせるのは苦しい。やはり、北上川/阿武隈川と連記するか、または一つに絞って北上川とするのが良いと思います。もし、宮城県の輪郭だけが描かれた白地図があったとして、そこに一つだけ都市名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「仙台」を書きます。一つだけ山名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「蔵王山」、一つだけ川名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「北上川」、一つだけ観光地名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「松島」、一つだけ桜名所を入れて宮城県たらしめよと言われたら「一目千本桜」を書き入れます。私の場合。
 
ところで、[78710]
和歌山県 ☆高野山 985m
を見て思うのですが、「高野山」と言う名の山はあるのでしょうか?。私は高野山に行ったことがなく、日常的に高野山を意識することも全くありません。早い話が、高野山に対して知識がありません。ですから、「高野山」と聞いて思い浮かぶのは、集落、居住地、町並み、金剛峯寺などの建造物といった類いのものであり、山が連想できないのです。標高985mは弁天岳を指しているのでしょうが、地元の人は弁天岳を「高野山」と呼んでいるのでしょうか?。ちなみに、国土地理院の2.5万分の1地形図には、集落名「高野山」はありますが、山名「高野山」は記載されていません。したがって、5万分の1地形図や20万分の1地勢図にも記載されていません。
[78711] 2011年 7月 5日(火)18:32:40むっくん さん
確認
[78674]実那川蒼さん
2点ほどあなた御自身の過去の発言との整合性について確認したいことがあります。

1点目。
[31242]地名好きさんの発言に対してあなたは[31398]にて
要約すると「私はもうこの掲示板には書き込みません」ということですよね。そのような書き込みは、その掲示板の管理人(ここではグリグリさん)にとって浴びせかける、最もひどい言葉であり、管理人にとっては、最もつらく、投稿者に最も発言してもらいたくない言葉だと私は考えています。たとえ、100%発言通りの行動がなされるつもりなのだとしても。ですから、管理人のことを思うのならば、このようなことは決して発言してもらいたくないのです。
(中略)
最後にもう一度書きます。
もし、この記事を読んでいるあなたが様々な理由で不満があってこの掲示板を去る場合、決して「私はもうこの掲示板には書き込みません」とは書かないでください。去る場合は無言のまま静かに去ることを徹底してください。
と書かれておられます。
この言葉に従うのなら、あなたは
今夏に行われることが予定されている第三十二回・全国の市十番勝負ですが、誠に失礼ながら、私は当分の間、十番勝負への参加を見送ることを表明いたします。
などと書き込まずに、当分の間、無言のまま静かに十番勝負への参加を見送ればよかったのではないでしょうか。落書き帳のメンバーには、十番勝負に必ず参加しなければならない義務はないのですから。
いかなる苦境にあっても万難を排して十番勝負に参加する方もおられれば、多忙のために涙を呑んで参加できない方もおられますし、私のように難易度が高すぎるために参加できない時がある人間もいます。あなたも[42311]にて
私は十番勝負への参加は参加者の自由意志に任されていると考えたい
と書かれておられますので、この点はご承知のはず。

2点目。
私に対して
読んでいて退屈な記事
と書かれておられます。人の興味はそれぞれなのであなたが私の書込みを読んで退屈であると思われることには特段何の問題もありません。
しかしながらここでわざわざ“退屈な”などという悪意のある言葉を使う必要があるのでしょうか。そもそも私の書込みを引き合いに出して貶めなければならない必要性があるのでしょうか。
何らかの必要性があるのならば仕方がないのかもしれませんが、特段その必要性が見つかりません。単に別の言葉を用いて自分の考えを主張すれば良いだけです。
代替手段があるのにもかかわらず、あえて“退屈な”という悪意のある言葉を他者に用いることは、落書き帳ガイドライン
(5) 誹謗中傷は絶対厳禁、相手を尊重する
に違反する行為です。ガイドライン遵守をグリグリさんは呼び掛けられておられ、あなたも[34761]にて
やはり、掲示板においては管理者の意思を最大限に尊重すべきであると考えます。
と書かれておられます。それではなぜあなたはグリグリさんの意思を最大限に尊重しようとされないのでしょうか。なぜ故意にグリグリさんの意思を踏みにじられるのでしょうか。

以上、2点の返答をよろしくお願いします。
[78710] 2011年 7月 5日(火)01:11:06futsunoおじ さん
都道府県を代表する山と川 (改訂版)
[78597]の改訂版です。これまでの提言をもとに入れ替え等を行いました。
“☆”は前回から入れ替え、“*”は山頂が他県に属する山です。全体を括弧としたものは再検討が必要と思われるものです。
ご意見をお寄せください。

都道府県の山都道府県の川
北海道大雪山 2291m石狩川
青森県岩木山 1625m岩木川
岩手県岩手山 2038m北上川
宮城県蔵王山 1841m
秋田県*鳥海山 2236m雄物川 /米代川
山形県☆月山 1984m最上川
福島県磐梯山 1816m阿武隈川
茨城県筑波山 877m霞ヶ浦
栃木県男体山 2486m鬼怒川
群馬県赤城山 1828m利根川
埼玉県武甲山 1304m荒川
千葉県(鹿野山 379m)利根川
東京都☆高尾山 599m荒川/多摩川
神奈川県大山 1252m相模川
新潟県妙高山 2454m信濃川
富山県立山 3015m黒部川
石川県白山 2702m手取川
福井県荒島岳 1523m九頭竜川
山梨県富士山 3776m富士川
長野県☆浅間山 2568m千曲川
岐阜県☆伊吹山 1377m(県境未定地域)木曽川
静岡県富士山 3776m大井川 /天竜川
愛知県茶臼山 1415m木曽川
三重県御在所山 1212m
滋賀県伊吹山 1377m琵琶湖
京都府比叡山 848m桂川
大阪府*金剛山 1125m淀川
兵庫県六甲山 931m加古川
奈良県☆吉野山 858m大和川
和歌山県☆高野山 985m紀の川
鳥取県大山 1729m千代川
島根県三瓶山 1126m斐伊川 /江の川
岡山県蒜山 1202m吉井川/旭川/高梁川
広島県比婆山 1264m太田川
山口県(羅漢山 1109m)☆錦川
徳島県剣山 1955m吉野川
香川県(飯野山 422m)
愛媛県石鎚山 1982m肱川 
高知県三嶺 1893m渡川(四万十川)
福岡県英彦山 1200m筑後川
佐賀県天山 1046m筑後川
長崎県雲仙岳 1483m
熊本県阿蘇山 1592m球磨川
大分県九重山 1791m大野川
宮崎県霧島山〔高千穂峰〕1574m大淀川
鹿児島県桜島 1117m川内川
沖縄県(与那覇岳 503m)
[78709] 2011年 7月 4日(月)20:47:51白桃 さん
本来は「♪金沢の女」とすべき
♪君と出会った香林坊の~で始まる歌謡曲「加賀の女」は金沢の街のことしか触れていないので「金沢の女」とすべきでしょう。「函館の女」「尾道の女」のように。
「加賀百万石」から「金沢」と「加賀」は一体化しているのでしょうか?
これと矛盾するようですが・・・

[78708]hmt さん
東京になぞらえれば、「23区と三多摩」という感覚で、「金沢と加賀」という対比があるのでしょうか?
確証もない横レスで大変申し訳ないのですが、これはあるのでは。
加賀の国の中でも金沢城下は、その歴史的背景や街の美しさから(変な意味ではなく)特別扱いされても当然では。
香川県の場合、高松は国の出先機関や大手企業の支店があったので、金沢ほどではないにしろ、「讃岐」の国の中では特別扱いされておりました。
[78708] 2011年 7月 4日(月)15:49:53hmt さん
南加賀・能登のあばれ祭り
[78706] EMM さん
もし私が書くとしたら、加賀市のことを指す場合は「加賀市」、小松市や加賀市をまとめて言うのであれば「南加賀」となります。
江沼郡自体消滅してしまった事もあり、これを手取以南の総称とするのはかなり苦しい。
正直なところ、「加賀」の用法は石川県内でもかなり入り乱れているのが実情です。

上記の説明は、よくわかります。
現在「加賀地方」といわれる「河北郡津幡町・かほく市以南」の一部には能登国羽咋郡であった地域が含まれ、正確には「加賀国」とは一致しないとのご指摘も、現実的な取り扱いとして理解できます。

よくわからないのが、
加賀地方の金沢市以外を指す場合

東京になぞらえれば、「23区と三多摩」という感覚で、「金沢と加賀」という対比があるのでしょうか?

[78705] EMM さん
宇出津のあばれ祭りについての考察、ありがとうございます。

今回の記事のきっかけは、“祭りの内容の違いから関連性はあまり高く無い”と言う旨の投稿への反論だったようです。
しかし、私の記事[75432]は、祇園社から荒ぶる疫病神である牛頭天王[70715]を勧請したことも 認めており、祇園祭と「あばれ祭り」との関連性を否定するつもりなど、全くなかったのです。

今回の記事を hmtマガジンに収録するにあたり、祇園祭関連ならば 夏の行事1 になりますが、昨年の記事が 既にキリコ(灯籠)関連で 夏の行事2 に収録されているので、そちらに追加しました。ご了承ください。
[78707] 2011年 7月 4日(月)01:22:44futsunoおじ さん
「都道府県を代表する山と川」へのご意見について(その6)
[78680], [78692] オーナー グリグリ さん
都道府県プロフィールのメニューとして、「都道府県を代表する山(落書き帳選定)」「都道府県を代表する川(落書き帳選定)」を作ってみようかなと思っています。

主観的で構わない。そのために「落書き帳選定」とクレジットする。落書き帳メンバー総意ととられるのは不本意という意見があるなら「futsunoおじさん選定」「グリグリ選定」としてもよい(もちろんご本人の同意を得て)。

ちょっと返答に迷っています。 完成度の低いものを「落書き帳」の外へ、飾り付けて出して良いものかです。「futsunoおじさん選定」となるとさらに問題があります。このような選定をする場合、選定者はある程度現地を自分の目で見るものです。そうでないと微妙な優劣判断は出来ませんし、机上の作文だけではいくら独断であることをことわってみても説得力もありません。「落書き帳選定」ということで全国にいるメンバーの意見を集約して選定するというであれば反対は出来ませんが、その場合一貫性が欠ける気もします。
近日中に[78597]の改訂版を書き込みます。この件はその後でまた考えてみます。



[78666] 播磨坂 さん
「天保山」です。
大阪府に所在するこの山は、日本一低い山として著名であり、また関西圏の小学生には海遊館とセットで遠足などで出向く機会も多いのではないかと思います。

代表する山としては府内のある程度広い範囲から眺められる山であって欲しいところです。この点では天保山はちょっと苦しいところです。


[78671] 中島悟 さん
早岐瀬戸
あれって川ですよね、ねえ。

対岸は針尾島という“島”であって“瀬戸”ということから海であると思いますが、趣旨からすると排除するべきではないと思いますが、大村湾も琵琶湖と同じだと言われると困るし・・。


[78685] 伊豆之国 さん
新潟 妙高山 八海山 朝日岳

新潟県では上/中/下越で 頸城三山,魚沼三山(越後三山),飯豊連峰 が登山者視点からは代表的山域になると思いますので、その中からとすると 妙高山 八海山 飯豊山 になります。飯豊山参拝路はご存じのように福島県域になっていますが連峰全体では山形との県境が主体で新潟県域も多くあり冬から春にかけては白く輝く山々が新潟市からも眺められます。海岸沿いでは上/中/下越の境界位置に米山と弥彦山、佐渡には金北山ですね。
[78706] 2011年 7月 4日(月)01:08:08EMM さん
レス2題
[78704] hmtさん
この記事の内容は、すんなりと受け入れることができたのですが、今回の記事を見て、少し混乱してきました。
金沢の食文化と対比される加賀の食文化。
“金沢って「加賀」ではなかったのか?”というのが、よそ者の偽らざる感想です。
これですが、もし私が書くとしたら、加賀市のことを指す場合は「加賀市」、小松市や加賀市をまとめて言うのであれば「南加賀」となります。
「加賀市」は「大聖寺」とする手も考えられますが、加賀市は大聖寺だけでなく動橋・山代・橋立などいろんなカラーの町が合併してできた市ですので、その内容が明確に大聖寺に関連する話だと言えない場合は「加賀市」を「大聖寺」には置き換えづらいところがあります。
「南加賀」は、かつては手取川から南はすべて江沼郡だったから江沼でも…と言いたいところなのですが、江沼郡・加賀郡の話は地元でもよほど歴史に詳しい人でないと知らないのが実情です。
江沼郡自体消滅してしまった事もあり、これを手取以南の総称とするのはかなり苦しい。
「小松加賀」と言った表現も目にしますが、県庁の出先機関や地区の広域事務組合などの名称で「南加賀」が使われているので、さしあたり使うとすれば「南加賀」が無難なのかな…と考えておる次第です。
正直なところ、「加賀」の用法は石川県内でもかなり入り乱れているのが実情です。
加賀国の範囲を指す場合、河北郡・かほく市以南を指す場合(現在「加賀地方」という場合に指し示しているのはほぼこの範囲。津幡町やかほく市にはかつて羽咋郡、則ち能登国だったところが含まれる)、加賀市を指す場合、加賀地方の金沢市以外を指す場合、加賀地方の金沢市より南を指す場合、手取川以南を指す場合、金沢市のみを指す場合。
情況や文脈でどれを指してるのか判断しなければならないので非常に悩ましいです。

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[78703] 伊豆之国さん
非常に細かい話で恐縮なのですが…
ネット上ではよく文末に(汗)とか(涙)とか付ける人が良くいる(私もよくやる)のですが、これはその文を書いている時の自分の心境や情況を表しているものです。
また大先輩に叱られてしまいました(怒)‥。
は多分「私に怒られた」と言う事で「(怒)」と付けたかなぁと思ったのですが、普通に読むと伊豆之国さんが怒っているものととられるので用法は注意した方がよいです。
それとも実際に怒っていらっしゃる?
やはりこれらの地域以外の人にとっては、普段馴染みのない食材なのでしょうか。
実は私も数年前に知ったのですが、佐渡島でも伝統的にフグの卵巣の粕漬けが食べられています。
ただし、佐渡で現在フグの卵巣の粕漬けを製造販売しているのは1社だけのようです(参考)。
[78705] 2011年 7月 3日(日)23:51:26【3】EMM さん
牛頭天王様のために暴れて暴れて暴れまくるぜ~!!!
さて、[78672]の続き、ようやくまとまりました。。
昨年、拙稿[75428]で「能登半島の夏の始まりを告げる行事」として宇出津のあばれ祭りを紹介しました。
その際に、
リンクしたサイトの紹介文を読むと、京都の祇園祭と関連のあるお祭りでした。
と言う事を書いたところ、[75432]hmtさんより、祭りの内容の違いから関連性はあまり高く無いのではいかと言う旨の投稿がありました。
一部にについては拙稿[75433]で反論しましたが、実はそこで触れていない部分についても調べていまして、その結果「あばれ祭りは祇園祭の重要な部分をきちんと受け継いでいる」と言えそうだ、と言う事が分かりました。
ところが、調べるのに時間がかかってしまった結果、秋風が吹き始める頃になってしまっており、「夏祭り」の投稿としては時期を外してしまいました。
調べた内容の具体的なところは昨年の筑波山オフ会の際にhmtさんに直接お話しさせて頂いているのですが、せっかくなら文章としてまとめたいという気持ちも持っておりまして、どうせ投稿するならあばれ祭りの時期に合わせて投稿したい…と言う事でこの時期まで待っておりました。
ポイント毎にまとめます。
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1.疫病対策で祇園社から牛頭天王を勧請したことがあばれ祭りの由来とあるが、八坂神社の祭神との関連性は高くないのでは?
wikipediaなどで京都八坂神社の歴史を紐解いてみると、江戸時代には延暦寺の支配下にあり、牛頭天王やその妻・息子達を祭神(本尊?)とする神仏習合色の強い社であったようです。
牛頭天王はその起源は明確ではないようですが、祇園精舎の守護神とされることから牛頭天王を祀る社が祇園社と呼ばれたようです。京都八坂神社は感神院祇園社。
また、牛頭天王は時代とともに素戔嗚尊と同一視されるようになりましたが、明治時代に神仏分離令が発せられると感神院祇園社の祭神は牛頭天王から素戔嗚尊に置き換えられてしまい、さらに仏教用語である「祇園」の名も忌避され八坂神社と改められ、今に至っています。
(なお、先にリンクしたwikipediaを読むと祇園社の名が先にあったととれる記述もある。また、牛頭天王→素戔嗚尊を祀る神社のうち、愛知の津島神社や東京の素戔嗚神社などは祇園社ではなく天王社と称しており、八坂系とは別系統とされる。さらに、関東に数多くある氷川神社の祭神も素戔嗚尊だが牛頭天王信仰とは関係がない。以上参考まで。)
さて、宇出津に祇園社から牛頭天王が勧請されたのは江戸時代です(参考)。
(桜井源五という人物が勧請したとされていますが、前述のHPによると桜井家が引越十村として宇出津に移ってきた1664年から百姓一揆の責を問われ珠洲郡松波へと移った1756年までの間に3人の桜井源五がおり、実際に勧請したのがどの桜井源五なのかは分かっていないとの事。ただ、いずれにしても江戸時代なのは間違いない)
であればその頃の京都の感神院祇園社の主祭神は牛頭天王であり、「祇園社に関係ある何かにあやかった」とか言うレベルではなく直系の分社であると言う事です。
そして、勧請の際に祇園祭にあやかった祭礼が行われるようになり、それが後のあばれ祭りと言う事になります。
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2.祭りが行われる日が7日ではない
これは[75433]で触れていますが、あばれ祭りの開催日は元々7月7~8日だったものが7月第1金・土曜日に変更されています。
あばれ祭りの場合、「地域の住民がこぞって参加する」「遠方に在住している宇出津出身者が帰省してきて祭りに参加する」「能登の夏祭りの先駆け、天下の奇祭と言う事で観光客も多数訪れる」と開催日をずらす方に働く要因が全てそろっています。

また、これは特にあばれ祭りに関して言われていることではないのですが、能登ではこんな都市伝説が広く語られています。
「ある集落に夏祭りの時期になると毎年何日も会社を休む男がいた。ある年、例年のように祭りの時期に合わせて休みを申請したところ、『以後出社に及ばず』と申し渡されてしまった(つまり、クビになった)」
この「ある集落」がはっきりしていないところが都市伝説っぽい。
これは元々は「それだけ能登の男衆は祭りに熱中する」というような意味合いで語られていたらしいのですが、近年は「景気の低迷の影響で休みが取りづらくなった」「他地区から能登に流入した企業の中に、地域の祭礼にあまり理解を示さないところがあるらしい」等々でこれが洒落にならなくなってきてる…と言う感じに話が変わってきています。
こういう話が出てくるぐらい、平日開催では人手が集まらなくなってしまった地区があるようです。

なお、輪島大祭のように今でも昔ながらの開催日で執り行われている能登の夏祭りもあります。
(輪島大祭は輪島の町場にある4つの神社の大祭が連続して行われるものですが、そのうち海士町の祭りである奥津比め神社(「め」はしらやまさんの「め」の字と同じで、JIS第2水準まででは表示不能)の期間は舳倉島がほぼ空になってしまい、航路も休止になります。もし夏場に舳倉島に行きたいと考えている方がいた場合は要注意)
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3.キリコ(奉灯)の出るあばれ祭りは、東北の巨大祭り灯籠と同じく七夕祭りの灯籠流しが変形した祭りなのではないか。
京都の祇園祭のメインイベントと言えるのは宵山です。
しかし、祇園祭のwikipediaの宵山の項を見ると、
祇園祭のハイライト。元々は付け祭りだったが、こちらの方がはるかに大規模になった。
とあります。じゃあ祭礼の一番重要なところはどこか?と言う事でさらに読み進めて行くと、
神幸祭・還幸祭(神輿渡御) [編集]こちらが本来の神社の中心行事。神幸祭は山鉾巡行で浄められた四条寺町にある御旅所へ、八坂神社から中御座神輿(なかござみこし)・東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)の大神輿3基に召した神々が各氏子町を通って渡る神事。この夜から7日間滞在する。974年(天延2年)に御旅所(現在と所在地は異なる)を朝廷より賜り、行われるようになった。また子供神輿である東若御座神輿も参加する。
とあります。さらに、
神幸祭は朝の雅やかな山鉾巡行とは打って変わって、夕刻より行われる神輿渡御は勇壮豪快で荒々しいのが特徴である。3基の大神輿を総勢1000人以上もの勇猛な男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う様は圧巻である。いわゆる暴れ神輿というものである。
と書かれている。神幸祭だけでなく、還幸祭でもやはり御輿が暴れ回るとのこと。
なぜ御輿が暴れるのか?なのですが、牛頭天王は元々「疫病を引き起こす祟り神」とされており、その牛頭天王を分霊した御輿を暴れ回らせて満足させることにより疫病を引き起こさせないようにした…と言うのが暴れ御輿の由来のようです。
そして、その「牛頭天王を分霊した御輿」の通り道を清めるために奉納されたのが山鉾。

一方、あばれ祭りの方はと言うと、「能登のキリコ祭りの先駆け」と言った風に紹介されることもあるのでどうしてもキリコに目が行きがちです。
しかしながら、こちらもキリコは宇出津の町衆が奉納するもので、実際に祭りの中心となるのはあばれ御輿。
あばれ祭りはきちんと祇園祭の本来の形(「牛頭天王(→素戔嗚尊)を分霊し暴れまくるあばれ御輿」+「あばれ御輿の通り道を清めるための付け祭り」)を踏襲している、と言えます。
-----
おまけ.じゃあなぜ祭りの名前が「祇園祭」じゃないのか?
実は、本稿をどうしても落書き帳に投稿したかった一番のポイント。
宇出津のあばれ祭りが祇園祭を踏襲した祭りだとすれば、なぜ祭礼の名前が「祇園祭」ではないのだろう?
これはhmtさんからの指摘には触れられておらず、いろいろ調べているうちに自分が疑問に思ったことです。
そしてこの疑問の解決法、すぐに思いつきました。
「祇園祭の神事としての一番重要な部分があばれ御輿であることからすると、あばれ祭りが「あばれ祭り」となったのはそのあばれ方に起因しているのではないか?それならば、見比べてみれば良いのではないか?」
今は便利な世の中で、インターネットを探すといろんな祭りのビデオを見ることが可能です。
YouTubeで「祇園祭の神幸祭」と「あばれ祭り」のあばれ御輿の「あばれ方」を見比べてみましょう。

まずは祇園祭の神幸祭のビデオ。(その他、「祇園祭 神幸祭」での検索結果はこちら
確かに山鉾巡行とは趣を異にしますね。勇壮です。

では、あばれ祭りはというと…2の12の22の3(その他、「あばれ祭り」での検索結果はこちら
祇園祭の神幸祭と比べるとあばれ方が尋常じゃない。
御輿を道や壁に叩きつけ、海や川に放り込み、とどめに火の中に放り込んで破壊の限りを尽くす。
このように「御輿がとんでもない暴れ方をする」事から祇園祭ではなくあばれ祭りと呼ばれるようになったものと推測しています。
この暴れ方の凄さは宇出津が漁師町であることの影響もありそうですが、2つの御輿が奉納されることからお互いが暴れ方を競っているうちに「御輿を破壊しまくる祭り」になっちゃったのかなぁ、とも推測します。
実は「あばれ祭りが今の形に固まるまでの経緯」を記した資料や古文書はあまり残っていないようで、ある程度推測を挟まざるを得ないところはありますが、「あばれ御輿が暴れまくる祭りだからあばれ祭り」なのは間違いないでしょう。

あ、もし「来年以降にあばれ祭りを見に行ってみよう」と思っていらっしゃる方がもしいたら気をつけてほしいのですが、特にクライマックスの「カンノジ参り」ではあばれ御輿に近づいてはいけません。
まず間違いなくケガします。
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#以下余談。
いろいろ調べているうちに、あばれ祭りよりもさらにトンでもねぇあばれ御輿があるのを見つけました。
あばれ祭りでは御輿の土台は再利用するので、破壊すると言ってもある程度御輿の形は残った状態で神社に戻ってきます。
ところが、長野県上伊那郡宮田村にある津島神社のみやだ祇園祭のあばれ御輿は神社の階段から何度も投げ落とされて完全に破壊されてしまいます。(ビデオ
これは想像を絶するとしか言いようがない。
それから、ちょっと変わった「御輿」が暴れまくるところもありました。
群馬県前橋市の「大胡祇園まつり」では獅子頭が、京都祇園祭の山鉾の一つである南観音山を抱える百足屋町では宵山の夜に観音様がそれぞれ男衆に担がれて暴れまくってます。
(南観音山のあばれ観音についてはこちらもご参照ください)

※ビデオのリンクを増やし、それに合わせて本文も修正
[78704] 2011年 7月 3日(日)23:38:20hmt さん
「加賀」とはどこを指す地名か?
始めにお断りしておきますが、よそ者の感想です。

[78686] グリグリ さん
やっぱり私のルーツは金沢にはなく、加賀にあるようです。父親が加賀市、母親が小松市出身で親戚も加賀と小松。親戚のお呼ばれなどもすべて加賀仕込み。
[78691] グリグリ さん
金沢の風習にはほとんど馴染んでいない(中略)一方で、加賀地方の食文化である柿の葉寿司には小さい頃から馴染んでいて
[78698] グリグリ さん 金沢文化と加賀・小松文化
もともと父は男四人兄弟の末っ子で、仕事の関係で加賀を離れ金沢に居を構え

一連のお話により、比較的近い地域でも食文化に大きな違いがあることを知り、興味を覚えました。
それと共に、意表を突かれたのが、「加賀」という地名の用法です。

4年前になりますが、次の記事がありました。
[59238] グリグリ さん
「加賀」「能登」「若狭」については地域を特定するために、日常的に現代も使われ続けているように思います。とくに石川県の場合、地元の会話においても加賀、能登は頻繁に使われます。
加賀は加賀市を特定する場合にはまず使いません。加賀市を特定する場合は加賀市ですが、日常的にはあまり使わないと思います(大聖寺、動橋など主要地域名を使う)。

この記事の内容は、すんなりと受け入れることができたのですが、今回の記事を見て、少し混乱してきました。
金沢の食文化と対比される加賀の食文化。
“金沢って「加賀」ではなかったのか?”というのが、よそ者の偽らざる感想です。

[78686]の時は、加賀市・小松市の後で「加賀と小松」が出てきたので、例外的に省略して「加賀市」を「加賀」と表記したと思ったのですが、その後の記事にも繰り返し使われているので、もっと根が深いことを感じました。
特に[78698]は、加賀市発足よりも前のことではないかと思われるのに、“加賀を離れ”となっています。

歴史を振り返ると、越前国にあった「加賀郡」が、平安時代初期の 823年(弘仁14年)に、江沼郡と共に分立して「加賀国」になったのですね。加賀国成立直後に、加賀郡の浅野川以南には石川郡が分置され、北部だけになった加賀郡は、「かほくぐん」と通称されましたが、やがて河北郡という文字で正式名となっているので、文字上からは「加賀の北」という連想は生まれにくくなっています。

一方、加賀市はというと、1958年の市名誕生時、2005年の新設合併時いずれの領域も旧江沼郡域で、加賀国内ではあるが、加賀郡域であった歴史はありません。
昭和合併時にあえて「加賀市」という名を選んだ理由は知りませんが、その後 1970年にできた「加賀温泉駅」[73239]も含めて、この地域を指す「加賀」の用法が広がってきているのかもしれません。

石川県の地域区分 の 1/3では、県内を4地域に区分し、その中に「加賀南部」がありました。
やはり、単に「加賀」と言えば、石川中央地域を含む「加賀国」全体を意味していると受け止められるのですが。
[78703] 2011年 7月 3日(日)23:27:48伊豆之国 さん
石川県は実は有数のフグ王国
[78702]EMMさん
質問が余りにガバッとしすぎていて教えようがありません。
もう少し具体的に何をどう教えろと例示して頂きますようお願い申し上げます
また大先輩に叱られてしまいました(怒)‥。

お題の「フグの糠・粕漬け」の件ですが、[78700]で引用したHPのリンクに、その「フグの糠・粕漬け」を初め「石川県の発酵文化」について実に詳しく述べられているサイト(こちら)がありましたので、今からじっくりと拝見させていただくことにします。
このサイトによると
「ふぐの卵巣」を糠漬けにし、今も製造しているのは、石川県白山市美川地区と金沢市大野・金石地区。そして、輪島市だけです
ということなので、やはりこれらの地域以外の人にとっては、普段馴染みのない食材なのでしょうか。
‥「フグ(フク)」というと、やはり「下関」「博多」を連想してしまうのですが、実は石川県も有数のフグの水揚げを誇っていること、そして古くからフグ食文化があること、初めて知りました‥。

[78701]星野彼方さん
「なぜ猛毒が抜けるのか」ということ、こちらに推測が書かれているのですが、
なぜ毒が抜けるのか、謎は残ったままです
長い年月、事故が起こらなかった伝統の製法を愚直なほどに守り続けることで、私たちは世界に類を見ない奇跡の食品の深い味わいを堪能することができるのです
とのことなので、結局は「秘伝」ということより先には踏み込めないような気がします‥。
[78702] 2011年 7月 3日(日)21:25:37【1】EMM さん
もうチョイくわしく
[78700] 伊豆之国さん
白山市の旧美川町に伝わる「フグの子(卵巣)の糠漬け・粕漬け」。
これについて何か詳しく知るところがあったら、教えていただくようお願いいたします。
質問が余りにガバッとしすぎていて教えようがありません。
もう少し具体的に何をどう教えろと例示して頂きますようお願い申し上げます。

一つ申し述べておくとすれば、社団法人石川県ふぐ加工協会の会員の店で、検査済みのラベルが貼られた商品を買ってください、と言う事です。


※以下追加。
本稿を書いている間に[78701]星野彼方さんの投稿がありました。
無毒化の原理はいくつかの想像がなされていますが、具体的なところは全く解明されていません。
その理由の一つとして、業界関係の方から「例え試験研究機関でもふぐの有毒部分の取り扱いはふぐの調理免許を有する店と同じ管理をしなければいけないので、実験材料として手が出せないから」と言う話を聞いたことがあります。
まぁ、天下第一級の猛毒ですから。
[78701] 2011年 7月 3日(日)21:24:14星野彼方 さん
地域で一番大きい祭りに毎年帰省して参加している中年より
[78700] 伊豆之国 さん

白山市出身で第二回の金沢オフ会にふぐの子の糠漬けを買っていった星野彼方です。詳しいことをお知らせしたいのですが、正直なところ私もオフ会で初めて食べたクチでして、まぁ、そんなに詳しいわけではありません。ニシンやふぐの身の糠漬けはちょくちょく食卓に上がっていましたが、ふぐの子の方は地元でも普段から食べているものではありません。オフ会に参加した方はわかると思いますが、とにかくしょっぱいです。

ところで、私は学生時代応用化学専攻だったのですが、そちらでの知識を。このふぐの子のことをある教授が知っていまして、私が石川県出身だと知ると語りだしたのです。化学、とりわけ生物系化学の分野ではこの話は有名で、無毒化のプロセス解明に多くの科学者が乗り出したのですが、美川以外の場所では無毒化の再現ができなかったそうです。糠や粕を美川から取り寄せてやってみてもだめで、結局どういう仕組みで無毒化されるかわからなかったということなのです。確かにいまだになぜ毒が抜けるのか不明なままです。
(注)この化学の部分は多少都市伝説的な部分が含まれていると思われます。真実として
語ることはやめましょう。

蛇足ですが、わたしはその教授の研究室には入りませんでした。
[78700] 2011年 7月 3日(日)20:40:55伊豆之国 さん
蛇遣い座の中年親父より
>オーナー グリグリさん
>EMMさん
>星野彼方さん
「金沢・加賀の郷土文化」の話題で賑わっていますが、先ほどまで見ていたTV番組で放映していた「加賀の郷土食」の話題を。

白山市の旧美川町に伝わる「フグの子(卵巣)の糠漬け・粕漬け」。
これについて何か詳しく知るところがあったら、教えていただくようお願いいたします。

返答が遅れましたが、[78482]のクイズの想定解[78643]について
[78646]オーナー グリグリさん
東京23区の住所表記は「東京都◯◯区△△…」となることから、「東京市」も該当するべきではないかという変化球でした
これについては、第26回十番勝負の問九、第20回の問五・六と基本的に同様、「○○区以下の町名」を対象として考えていたので、よって「東京市」は採点対象外、ということにしました。


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