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米国統治下の沖縄

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記事数=45件/更新日:2019年4月28日

“南の島”と言えば、日本における代表格は南西諸島の島々、特に沖縄です。
「万国津梁」 つまり、国々の間の架け橋という意味の言葉は、沖縄海洋博の時に世に知られましたが、この地理的環境は、日本本土(ヤマト)と異なる独特の文化圏を育みました。

しかし、日本・朝鮮・中国・東南アジア諸国などの間の「かなめ」の位置にあることは、この島が国際関係の中で 大国の思惑に翻弄される材料にもなりました。
歴史は、薩摩による属国化(1609年侵攻)>琉球処分を経て沖縄県(1879)へと進む日本領土化>1945年米軍が攻めてきた沖縄戦>それに続く米国統治の時代と、受難の跡を記録しています。
そして、1972年の本土復帰後の現在も、米軍基地問題は、沖縄県に 重く のしかかっています。

この特集では、1945〜1972年の約27年間に及ぶ米国統治下の沖縄を対象にしました。
特集:琉球の歴史 と併せてご覧ください。

先日(2012/5/25)迎えた沖縄日本復帰40年を機会に、現在の沖縄県の原点になった「米国統治下の沖縄」についての記事集をまとめてみました。
一口に言えば「約27年間に及ぶ米国統治下」ですが、戦時混乱期を含む最初の約7年は、沖縄の将来像が見えない状態でした。
日本に武力征服された琉球は、いずれ朝鮮と同様の民族国家として解放・独立の道をとらせる。このように考える米国人もいました。
「OCCUPIED JAPAN」は、発言権なし。

当時の琉球列島軍政本部軍政府布令に基づく「1950年国勢調査」が [40016]に紹介されています。
それによると「全琉球」【奄美群島を含む】の人口914,947人のうち、外国に籍を有する者は 8083人。その註に曰く
本表に於ける外国人は 日本人,比島人,支那人,朝鮮人,アメリカ合衆国人,南米人,其の他よりなる。

実は、この国勢調査結果が掲載されているのは、調査の翌々年 1952年に発足した琉球政府の 公報第27号 22ページ(2/5コマ)でした。
この約2年間には、沖縄に対する日本の「潜在主権」が米国に認められ、サンフランシスコ平和条約の締結>発効(1952/4/28)によって日本が独立を果たすという外交上の激変が起っています。

1945年の沖縄地上戦から、1972年の沖縄復帰に至る27年間の主な出来事と、この間における米国による沖縄統治の機構、沖縄住民の自治組織の概略は、年表[80904]にまとめておきました。

初期の収録記事には、米軍統治初期に生れた「石川市」など 16市や「みなと村」のような特殊な自治体?に関する記事もあり、一部は既にアーカイブズに収録されています。

沖縄の特殊な状況はその経済的基盤を日本本土と異なるものにしています。2006年7月の記事は、このあたりへの理解を深めるのに役立つものと思います。

変遷情報との関連で言えば、沖縄復帰特別措置法第七条を根拠として地方自治法の市町村に引き継がれた[80851] 米軍統治時代の変遷記録は、むっくん さんの調査 [69564] [69565]により、既に変遷情報に反映されていると思います。
「みなと村」は、収容所の「市」と違って、1950年という時期まで存続したようです。それにもかかわらず、琉球政府公報に記録がないのは、確かに普通の村とは違うようで、変遷情報での認知には至らずということのようです。

結局は実現しなかったので変遷情報に収録されていないのですが、琉球政府時代の1961〜1963年に、合併告示>延期>撤回という珍しい事例がありました。古い事例であるために、成立しなかった合併情報の対象外ですが、[71753]でるでる さん が、地方紙記事と過去記事5件とをまとめて、この前例のない事例を紹介してくれていたので、収録記事に追加しました。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91]2000年12月30日
Issie
[262]2001年5月25日
Issie
[746]2002年1月28日
Issie
[1188]2002年4月4日
琉球の風
[1189]2002年4月4日
miki
[1198]2002年4月5日
琉球の風
[1219]2002年4月8日
琉球の風
[1220]2002年4月8日
あっちゃん
[1222]2002年4月8日
miki
[1223]2002年4月8日
Issie
[1224]2002年4月8日
Issie
[3983]2002年10月18日
夜鳴き寿司屋
[16324]2003年6月4日
琉球の風
[17807]2003年7月5日
Issie
[18112]2003年7月10日
琉球の風
[27598]2004年4月22日
Issie
[31412]2004年8月5日
Issie
[39935]2005年4月17日
白桃
[39936]2005年4月17日
ふぁいん
[39953]2005年4月17日
うるう
[39962]2005年4月17日
紅葉橋律乃介
[39965]2005年4月17日
Issie
[40016]2005年4月18日
Issie
[40075]2005年4月19日
Issie
[52062]2006年7月8日
むっくん
[52095]2006年7月9日
Issie
[52125]2006年7月10日
むっくん
[56190]2007年1月12日
hmt
[56304]2007年1月19日
hmt
[56322]2007年1月20日
hmt
[56334]2007年1月21日
hmt
[69111]2009年4月3日
hmt
[69118]2009年4月4日
Issie
[69126]2009年4月5日
グリグリ
[69553]2009年4月24日
Issie
[69564]2009年4月25日
むっくん
[69565]2009年4月25日
むっくん
[69574]2009年4月25日
Issie
[71753]2009年8月22日
でるでる
[80851]2012年5月15日
hmt
[80904]2012年5月28日
hmt
[80907]2012年5月29日
hmt
[84957]2014年1月21日
hmt
[91263]2016年8月21日
グリグリ
[91282]2016年8月27日
hmt

[91] 2000年 12月 30日(土)01:39:33Issie さん
敗戦直後の沖縄の「市」
>グリグリさん,こんばんは。

敗戦そして占領直後の1945年中に正式な(あるいは“正常な”)地方自治体としての「市」だったのは那覇市と首里市,9月に「市」に昇格した石川市だけと考えています。
確認はしていないのですが,「漢那市」以下のものは地方自治体ではなくて(少なくとも正常な自治体ではなく),地上戦で住まいを追われ,米軍の占領下に置かれた(本土のように生易しいものではなく)住民を収容したキャンプに設置された自治組織の名前なのではないでしょうか。
要するに「難民キャンプ」という不正常な状態のものですから,米軍が必要と見なして占拠してしまった部分を除いた土地が住民に「返還」されれば,もとの正常な地方自治体に戻ることになるのだと思います。
ところで,占領下の沖縄は当然「日本国憲法」も「地方自治法」その他の本土の法律は適用されていないのですよね。基本的には本土の法律に準じたものが制定されたようですが,いろいろな点で本土と違っていることも多かったようです。具体的にどのような制度であったのか,そのあたりも確認してみたいなと思っています。
[262] 2001年 5月 25日(金)23:19:29Issie さん
村から市
「村」から「市」へ直接昇格した自治体は以下の8市です。

長野県 岡谷市  < 1936. 4. 1 諏訪郡 平野村
兵庫県 芦屋市  < 1940.11.10 武庫郡 精道村
山口県 宇部市  < 1921.11. 1 厚狭郡 宇部村
長崎県 佐世保市 < 1902. 4. 1 東彼杵郡 佐世保村

沖縄県 コザ市  < 1956. 7. 1 中頭郡 コザ村
沖縄県 宜野湾市 < 1962. 7. 1 中頭郡 宜野湾村
沖縄県 具志川市 < 1968. 7. 1 中頭郡 具志川村
沖縄県 浦添市  < 1970. 7. 1 中頭郡 浦添村

本土の4市は,すべて明治憲法下の「市制」という法律によるものです。
また,沖縄の4市はいずれも米軍統治下での昇格であり,「本土に準じる」とは言うものの,やはり本土とは別制度で「市」になった,と考えたほうがいいでしょう。
つまり,上のいずれもが現行の「日本国憲法/地方自治法」とは違う制度で「市」に昇格した,と考えておいたほうがいいかもしれません。

なお,愛知県の「挙母市」は1953年3月1日に「西加茂郡挙母町」から昇格,1959年1月1日に「豊田市」へ改称されました。したがって,「町」の段階を経ています。
[746] 2002年 1月 28日(月)18:50:34Issie さん
Re:沖縄の郡
書かなくても困らないからじゃないかな。
北海道も普通,郡なんて使わないでしょ。こちらは支庁で十分。

米軍統治下でも市郡町村レベルの区画には変更はありませんでした。
本土で地方自治法が施行されると,沖縄でもそれに準じた条例が制定・施行されています。で,真和志市はじめ浦添市までの各市が米軍統治下で誕生したのです。
ただし「琉球政府」が発足するまでの過程では「沖縄」「奄美」「宮古」「八重山」の各“群島政府”がつくられたりしています。奄美=大島郡,宮古=宮古郡,八重山=八重山郡ですね。

沖縄に“本土並み”の地方制度(府県制・市制・郡制・町村制)が施行されたのは明治も終わりになる頃です(「沖縄県」自体は1879年の琉球処分で設置されていますが)。「郡」という区画が沖縄に実施されるのもこのときが初めてで,沖縄諸島が「国頭郡」「中頭郡」「島尻郡」の3郡に分けられ,宮古諸島と八重山諸島がそれぞれ1郡とされました。
だから律令時代以来ずっと「郡」を使用している本土に対して沖縄にはなじみが薄かったかもしれません。
ただ,沖縄地域をこの5区域+1地域(奄美)に区分する分け方は琉球王国以来,本島を「国頭」「中頭」「島尻」の3地域に分けるのは15世紀に統一されるよりも以前,14世紀に島内の3つの勢力がそれぞれ別個に中国(明)に国王の地位の承認を求めたときのそれぞれの勢力の縄張りに由来します。
だから「郡」という呼称とは関係なく,「国頭」「中頭」「島尻」という地域呼称そのものは大変に歴史のあるものです。
[1188] 2002年 4月 4日(木)13:35:50琉球の風[てつ] さん
二年ごしの
過去(2000年)の質問の中に、沖縄県で消滅した幾つかの市に関する質問が
ありました。私の知っている限りの事をお答えします(遅いけど)。
1945年、沖縄戦に伴う難民収容所が宜野座村に設置され、同村人口は
10数万人に膨れ上がりました。そこで宜野座村を六分割し、漢那(かんな), 福山(ふくやま),惣慶(そけい),宜野座,古知屋(こちや),高松の六市が誕生
しました。具志川村(現・具志川市)は同様に収容所設置で1945年5月に
高江州(たかえす)市になり9月に前原(まえはら)市に改称。知念村も
同様な理由で市に昇格、琉球政府も設置され首都として機能したが、
高台に建設された庁舎が台風で倒壊、政府は那覇に移転された。
尚、これらの市は全て収容所解散後は一年ほどで村に戻されました。
唯一、石川市だけは収容所設置により、沖縄市(旧美里村)から分離、
市制施行し収容所解散後も強固に姿勢維持を続けた。各地の炭鉱街が
人口の少ない市のランキングに軒を連ねるまでは、石川市がワースト1でした。そのときの人口は1万6000人でした。
[1189] 2002年 4月 4日(木)17:03:58miki さん
>1188
てつさんへ。
すみません。
具志川村→高江洲市→前原市への改称についてですが、日が分かれば日まで表記して下さいませんでしょうか?
お願いします。...多分無理だと思いますが。
[1198] 2002年 4月 5日(金)12:04:37琉球の風[てつ] さん
mikiさんへ
具志川村→高江州市→前原市の日付の件では月までしかわかりません
でした。その代わりですが前回は書かなかった別情報を紹介します。
国頭郡東村は1923年4月1日に旧久志村から分離したものです。理由は
現・東村は隔絶地なため、久志側からの移動も船を要し不便だった
からとのこと。伊平屋村も伊是名村からやはり隔絶を理由に1939年
7月1日に分離。また1908年、八重山村が村政施行したが、1913年に石垣,
大浜,竹富,与那国の各村に分割。読谷村は1946年に読谷山(ゆんたんざん)村からの改称です。糸満市は糸満町,兼城(かねぐすく)村,高嶺村,
三和(みわ)村が合併し後に市制を敷いたものですが、三和村は1946年に
真壁村,摩文仁(まぶに)村,喜屋武(きゃん)村が合併して誕生しました。
また、その糸満町も1908年に兼城村から分離したものです。
話が古くなりすぎましたね。細かい日付は解り次第紹介します。
[1219] 2002年 4月 8日(月)11:49:36琉球の風[てつ] さん
みなと村
また古い話になります。
那覇市は那覇市,首里市,真和志市,小禄村が合併して誕生した、というのは
ご存知だと思いますが、「みなと村」という自治体が存在したことは
あまりいないのではないでしょうか。事実、私自身去年まで知りません
でした。「みなと村」は1947年5月に那覇港を取り囲むような村域で
設置された自治体で、1950年8月に那覇市に編入されるまで3年だけ存続した
村です。村長は国場幸太郎、当然議会や学校もあり、みなと村村議会は
1950年4月に那覇市との合併を全会一致で可決したとのこと。
琉球新報HP
http://www.ryukyshimpo.co.jp/
のキーワード検索で「みなと村」と入力すると地図入りで詳しい話が
掲載されています。
[1220] 2002年 4月 8日(月)13:54:44あっちゃん[実は小学生] さん
琉球新報のホームページアドレスについて
[1219]でてつさんが紹介していた琉球新報のホームページアドレスが
違っています。 下記のアドレスからは行けます。
琉球新報  http://www.ryukyushimpo.co.jp/
それから、琉球新報でみなと村を検索すると出てくるページは
http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_05/000513g.html
            ↑ここです。
[1222] 2002年 4月 8日(月)17:52:40miki さん
新聞の記事って...。
気になる事を1つ。
新聞の記事って過去(2ヶ月以降)の話題になると日を表記しなくなるみたいですね。
困りましたね。
ところでISSIEさん、「みなと村」の事ですが村制などの施行日までは表記されていなかったんですか?
[1223] 2002年 4月 8日(月)20:23:26Issie さん
Re:新聞の記事って...。
> ところでISSIEさん

私じゃないんですけど…

紹介のHPには日付はないみたいですねぇ。何しろ公式の記録がないということだから,まだはっきりわからないのかも。
ま,新聞記事としてはだいたいの時期がわかれば十分でしょう。相手は専門家でも「おたく」でもないのだから,普通の読者には却って煩わしい情報かもしれません。
…これが地方自治の歴史を扱う専門家を対象としていたら,正確な日付は是非とも必要ですが。

この「みなと村」もそうですが,難民収容所に設置された「市」について,住民が本来の居住地から締め出されて“収容”されている“異常な状態”での組織と私は考えますので,私のHPに反映させることはせず,“過去にあった市”として数えることもしません。
そのまま「正常化」してしまった石川市は例外ですけどね。
[1224] 2002年 4月 8日(月)20:31:33Issie さん
Re~2:新聞の記事って...。
あっ,でも「みなと村」は時期的に“正常な自治体”と考えてもいいかな。

いずれにせよ,米軍統治下,本土の「市制・町村制」「地方自治法」のいずれも適用対象外ですからね。そもそも根拠法令(この時期の沖縄にそんなものがあるのか?少なくとも,体系的なものが?)が違うから,本土と同列には扱えないのです。
[3983] 2002年 10月 18日(金)19:22:34夜鳴き寿司屋 さん
米軍施政下の沖縄通貨
[3976]
>恥ずかしながら、沖縄に行った事が無いので、様々な報道内容についての理解が乏しいのですが、
>最近読んだ 「ゴルゴ 13」 のエピソードによれば、米施政下での通貨は 「円」 を使用するも、当時
>1$ = 360円の固定相場にあって、沖縄ではかなり円高基調の為替相場だったらしく、現地経済が
>通貨の面でも米国の経済圏に抱合された事情が窺えますね。

 アメリカ施政下の沖縄で使用されていた円ですが、日本全国で流通する、いわゆる「日本銀行券」でなく「B円」と呼ばれるアメリカ軍発行の紙幣でした。
 名前の由来ですが紙幣(軍票というのが正しい言い方ですが)に大きく「B」の文字が書かれており、他に日本本土で使用する事を想定した「A円」もありました。
 ただ、本土が「1ドル360円」の固定レートに移行したのに対して、徐々に「B円」は本土の円に比べ価値が上昇し、アメリカ軍がB円廃止に伴うドル通貨への交換(1958年)レートは、1ドル120B円でした。そのため当時の沖縄の円は本土の3倍の価値がありました。
 また沖縄は本土復帰の1972年5月15日の前日までアメリカ・ドル通貨を使用していたので、経済的にアメリカの影響下に完全に入っており、沖縄と日本の航空路も「国際線」扱いで本土の日本人も沖縄を訪問する際はパスポートが必要だったそうです。余談ですが郵便も「琉球政府郵政庁」によるドル建ての郵便切手を使用していており、これが「沖縄切手」といわれるものです。
[16324] 2003年 6月 4日(水)17:04:01琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
地方事情
[16311]はやいち@大内裏さん
[16308]雑魚さん
[16307]でるでるさん
今更ながら、この掲示板はいろんな地域の人がいろんな(地理という分野で)意見を出し合える所ですね。新市町村名案を考えるにしても、地元事情や歴史、寺院や名勝、合併構成市町村の知名度の優劣など、参考にすべきいろんな情報が得られるので、改めて感謝しています。私の書き込み[16299]に対する、[16310]両毛人さんの答え、
でも、「群馬」を使うのは最後の最後、どうしてもいい案が無かったときにしてほしいですね・・・・。
は、少し意外でした。これは、太田市近辺の人が「群馬」という地名があまり好きではない、という事なのでしょうか?似たようなケースが沖縄にもあるのですが、(以前も書いたかな・・・?)沖縄の人(特に年配の方)は一般的に「琉球」という言葉をあまり好ましく思わない傾向があります。「琉球」とは、かつては中国から朝貢の際にそう名乗るよう与えられた、外交上の通称名であったため、どうも地元には馴染まなかった為だとか、米軍統治下にあった民政府・「琉球政府」を連想し、米軍に支配されていた時代を彷彿とさせるためだとか、いろいろ言われていますが、いずれにしろ歴史的な背景がからんでいるようです。中国側が沖縄を「琉球」と呼んでいた時代、地元では「阿知奈和(あちなわ)」だとか「阿知奈波(あちなば)」だとか、後に「沖縄」の語源となる言葉で呼んでいたそうです。よく耳にする「ウチナーンチュ」とは「沖縄人」の方言読みで、決して「琉球人」という使い方はしません。この事からも、「琉球」よりは「沖縄」のほうが地元人の心を捉えている、という事でしょうか。ただ、「琉球銀行」・「琉球バス」・「琉球ジャスコ」など、企業名には頻繁に用いられててきているため、若年層を中心にしてその抵抗は無くなりつつあるという事です。私がいま注目しているのは、宮古地区の合併で、恒例の旧国名をつけた「琉球宮古市」が誕生するか否か、という事です。案がでたとしても採用されることは、多分無いでしょう・・・・。
[17807] 2003年 7月 5日(土)01:21:27Issie さん
OHK
[17800] 両毛人 さん
やはり、「沖縄放送局」は那覇市にないので、「那覇放送局」を名乗らないのでしょうかね?

というよりも,1972年の「本土復帰」で日本放送協会(NHK)の一員になるまで,米軍統治下では「沖縄放送協会(OHK)」という呼称で運営されていた放送局を継承したからではないでしょうか。
那覇市内に位置しないのも,戦後しばらくの間,旧市内全域が米軍に接収されていたせいではないかと,勝手に推量しているのですが。

参考までに,気象台も沖縄だけは「地方」も「管区」もつかない「沖縄気象台」ですね。
[18112] 2003年 7月 10日(木)20:33:50琉球の風 さん
跡的沖縄観光案内
[18101]uttさん
地元の人しか知らないような、沖縄のマニアックなスポットをご存知でしたら、ぜひ(笑)
参考になるかどうか、自信はございませんが・・・・。「マニアック」にだけこだわってみた結果です。

【中城高原ホテル跡】
中城城跡内にある廃ホテル。と言っても、営業したことは無く、志半ばで放棄された。中には、神社(拝所?)や、動物園のような檻、プールなども荒れ果てたまま放置されている。以前、某テレビ番組で「プールで溺れた子供の幽霊が出現する沖縄のSホテル」という形で紹介され、地元でも心霊スポットとして、度々取りざたされるが、営業したことはないため溺れた子供などいるはずもない。ただ、世界遺産に登録されている史跡の中に突如あらわれる、ホテルは不気味である事は間違いない。建物内部も簡単に入れるので、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか?

【沖縄ヒルトン跡】
北中城村の高台にある、世界的なホテルチェーン、ヒルトンの沖縄版。シェラトングループが保有していた事もあるが、海から離れている事から客足は芳しくなく、いずれの場合もつぶれてしまった。近年、より高層の建物に新築し再営業する計画が持ち上がったが、普天間基地の着陸進入経路との兼ね合いから計画は頓挫。しかし手入れは行きとどいており、とても廃ホテルとは思えない。地主がホテルの一室を使用して居住している、という話もあるため、外観を眺めて楽しむ程度に留めたい。国道330号線を、沖縄市向けに北上、瑞慶覧(ずけらん)交差点を過ぎ、オーバークロスする沖縄自動車道の真下から分かれる道に右折、その上り坂を上っていくと頂上付近にある。

【旧真喜屋(まきや)小学校津波被災地跡】
名護市羽地地区・真喜屋にある小学校跡。チリ地震津波の際に校舎がまるごと流されて、グラウンドが運動広場になって残っており、津波被災地跡であった碑が立っている。国道58号線を国頭向けに北上、屋我地島へ行く形で県道110号線を左折すると、奥武橋の手前右側に当たる。ちなみに津波の時間帯は授業は行われてなく、生徒に直接被害は無かったが、真喜屋集落から死者二名を出した。

【米軍桃原(とうばる)飛行場跡】
本部町にある米軍飛行場跡。返還が復帰前であった為、基地跡地整備資金が下りず、荒れ果てた滑走路が未だに放置されている。国道505号線から上本部小学校に向い、その小学校前の道路を斜めに横切る道が滑走路跡でとなっている。

尚、沖縄を色々な視点から紹介している私おすすめのサイト、『沖縄発・役に立たない写真集』
http://gpzagogo.s8.xrea.com/
で面白い事が色々わかります。それにしても「跡」ばかりですみませんでした。
[27598] 2004年 4月 22日(木)20:53:30【1】Issie さん
伊平屋・伊是名の帰属
さて,「例のページ:沖縄県編」を作成していて少しく問題になったのが,本島本部半島の北にある伊平屋・伊是名両村の帰属でした。

1970年4月の行政管理庁告示で「本土」の地方公共団体について「統計に用いる都道府県等の区域を示す標準コード」が導入されましたが(同じものは1968年以来,自治省が採用していた),当時まだ米軍統治下にあった 沖縄 にも同じシステムでコード番号が割り振られ政府統計に用いられるようになりました。
このとき,伊平屋村と伊是名村とはともに「国頭郡」所属として,前者には「316」,後者には「317」の番号が振られていました。
ところが,1972年5月15日の「本土復帰」を経て,同年6月7日に「島尻郡」に“所属変更”となり,それぞれ「359」「360」と番号が振りなおされています。

現在,両村はもちろん「島尻郡」所属です。

もともと伊平屋・伊是名両島は王国時代には「島尻方」所属とされていました。それが琉球処分後,沖縄県にも徐々に「本土並み」の制度が導入される過程で,郡制の施行によって,そのまま「島尻郡」所属となりました。沖縄県及島嶼町村制の施行により両島あわせて「伊平屋村」となり,のち「伊是名村」が分立しています。
そして,1945年の沖縄戦によって沖縄県が「消滅」するまで,やはり両村は「島尻郡」に所属していました。
だから,どこかで両村が「島尻郡」から「国頭郡」に所属変更された,という記録がありそうなものなのですが,それが見つからないようなのです。

沖縄県公文書館の公式HP( http://www.archives.pref.okinawa.jp/)では,米軍統治下,琉球政府の「公報」が pdf ファイルで公開されているのですが,これを閲覧すると以下のことがわかります。

1.琉球政府では「郡」という区画は用いない。本島周辺は「北部地区」「中部地区」「南部地区」に区分され,それぞれが「国頭(郡)」「中頭(郡)」「島尻(郡)」に相当する。
2.伊平屋・伊是名両村は「北部地区」に含まれる。
3.佐藤首相訪米での「両三年以内の返還」合意成立後の1971年公報では「昭和45年国勢調査」の“沖縄”分の統計値が掲載されている。ここでは両村が「国頭郡」所属とされ,コード番号「316」「317」が振られている。

戦後,米軍占領下で新しい統治体制が整備されていく過程で,両村は「北部地区」の管轄下に組み込まれたようです。位置関係からすれば,自然な話ではありますね。
サンフランシスコ体制の下,アメリカ合衆国は沖縄に対する日本の「潜在的主権」を認めつつ,現実には「日本本土」から切り離すベクトルが働いていたようで,たとえば琉球政府では「本土」では当然の元号が(公的には)一切使用されていません。
沖縄戦終結直後・占領開始当初の「異常」な状況から,住民が原住地への帰還が認められ,市町村については戦前のものが「復活」するわけですが,その上位レベルの区画については紆余曲折があって,結局「郡」は使われていないようですね。

けれども1969年に「両三年以内の返還」が合意されて,急速に「本土並み」の制度が沖縄に整備されます。
元号を使用した「昭和45年国勢調査」の実施とその中での地方公共団体コードの使用もその流れの中でのことなのでしょう。
そして「郡」という区画についても。

で,「北部地区」管内の伊平屋・伊是名両村も,そのまま「国頭郡」所属となっている。

「郡」という区画の使用されていなかった時期のこととて,「島尻郡→国頭郡」という所属変更手続きは行われなかったのではないか,と考えています。

なお「本土復帰」後,先述の通り,地方公共団体コード上の扱いとして,両村は「国頭郡→島尻郡」という所属変更が行われたことになっています。
ところが,自治省告示では該当するものを見つけることができませんでした。
琉球政府の告示にも該当するものはないようです。

そうすると,多くの資料でそうであるように,両村は「ずっと島尻郡」ということになるのかもしれません。
[31412] 2004年 8月 5日(木)02:08:32Issie さん
ウンタマギルー
[31390] 昆布in さん
運玉森

運玉森(うんたまむい)と言えば,「ウンタマギルー」という映画がありましたね。
検索してみたら,高嶺剛監督の1989年作品。主演が小林薫さん。

何がすごいって,この映画,全編がウチナーグチ・オンリーなのですね。
いや,占領統治を行っている米軍関係者はもちろん英語をしゃべっていますが。
途中,ウチナーグチ訳の「インターナショナル」も聴けてしまう…。

ウチナーグチに親しんでいなければ,字幕がないと全く言葉がわかりません。

そうそう,
沖縄の本土復帰が決まったことを知らせる「親方(うぇーかた)」の話す,映画全編最後のセリフ…
 「これからは沖縄は日本(にっぽん)だ!」

これだけが完全なヤマトグチで,聞き取ることができました。
[39935] 2005年 4月 17日(日)12:50:04白桃 さん
祝:ふぁいんさんの自分色登録
[39933]ふぁいんさん
白桃さんって、戦後・沖縄返還までの沖縄県各市町村人口統計ってどうされていますか??
沖縄県がHPで発表している市町村別の国勢調査人口を齟齬が生じないように慎重に入力しております。ただし、1947年はありません。ただ、占領時下に沖縄でも国勢調査は行われていたのですかね?記録があるから、間違いではないと思いますが・・・

#遅ればせながら、ご自分色登録おめでとうございます。
[39936] 2005年 4月 17日(日)14:36:41【2】ふぁいん さん
昭和25(1950)年沖縄県人口の謎&明治12(1879)年主要都市人口について
[39935] 白桃 さん

沖縄県がHPで発表している市町村別の国勢調査人口を齟齬が生じないように慎重に入力しております。
ただし、1947年はありません。
ただ、占領時下に沖縄でも国勢調査は行われていたのですかね?
記録があるから、間違いではないと思いますが・・・

やはりそうですか。私も沖縄県のHPを参考にしてデータを作成しています。
しかし、沖縄県発表の昭和25(1950)年のデータがどうもしっくりいかないのです。
各年代・国勢調査報告第1巻の付表2 都道府県の市区町村の推移によれば、

昭和25年の沖縄県
市区町村数:86
市数:6
町数:12
村数:68
県人口:914,907人
となっています。

沖縄県発表の場合は、66市町村・698,827人です。

残りの20市町村・216,080人はどこに行ってしまったのかなぁと・・・・
そのため全国の合計人口も合わないし。
戦後の一時期のみ、他にも沖縄県を名乗っていた地域があったのだろうか。
とても不思議に感じております。

白桃さんは、このことにお気づきだったでしょうか?


[39897] 両毛人 さん
これは私からもリクエストいたします!
[39896] ken さん
またそれは、金沢が4位だった時のデータについても、可能でしょうか?

残念ながらありません。おおよその人口位しかわかりません。
金沢の人口を「約」12万人としたのもそのためです。
少なくとも明治4(1871)年の調査までは、金沢には約12万人いたそうです。
その他、富山が当時全国9位。

注:[39658] では、明治維新以後、国内の都市で人口ベスト10入りしたことのある都市として、
22都市あげておりますが、富山が抜けておりました・・・

この年代についても、可能な限り調査したのですが、詳細なデータらしきデータが全くなかったのです。
私が明治中期・明治初期・江戸後期の詳しい都市人口を知りたいのは、このためなんです。。。

明治12(1879)年の主要都市の人口のデータなら持っていますので記載します。
(私が現在所有する最古の人口データとなります)

東京 761,335
大阪 291,565
京都 232,683
名古屋111,783
金沢 107,876
広島 76,589
和歌山62,080
仙台 55,035
横浜 46,187
福岡 45,480
熊本 45,032
神戸 44,368
新潟 36,591
岡山 33,028
長崎 32,815
赤間関26,502
函館 22,088
伏見 22,011
札幌 8,782

その他、
富山 約55,000~60,000
堺 約40,000
福井 約40,000
松江 約35,000
鳥取 約32,000
位となります。
上記5都市は様々な資料を参考・調査した結果の推測人口です


[39882] 愛比売命 さん
一番くびれている立科町なんて,ほとんど道路一本でつながっているような状況。

へぇ~~~~これはすごい。ホントに見事なまでに道路一本でかろうじてつながっていますね
最も細いところで、東西約100mといったところでしょうか・・・・
どのようにして、このような町域になったのか経緯が気になりますね・・・
ということで、少し調べてみました。

長野県北佐久郡立科町(全国市町村名変遷総覧・日本加除出版より)
S30.4.1 北佐久郡芦田村・横島村・三都和村の3村が合併し、北佐久郡立科村となる
S33.10.1 町制施行
S35.4.15 北佐久郡望月町(大字茂田井の一部)を編入


芦田という地名が立科町北側にある(町役場も立科町芦田ですし・・・)ので、そこらへんが旧芦田村かな?と思ったら、
なんと南側の白樺湖付近も「芦田」八ヶ野という地名が・・・・
横島、三都和という地名も既に現存しておらず、ここでギブアップ。

旧3村はどんな形をしていたのでしょうかね・・・
おそらく、北側が旧芦田村域で間違いないと思うが。
[39953] 2005年 4月 17日(日)20:01:59うるう[229] さん
沖縄
[39936]ふぁいんさん
残りの20市町村・216,080人はどこに行ってしまったのかなぁと・・・・
戦後の一時期のみ、他にも沖縄県を名乗っていた地域があったのだろうか。
[39946]白桃さん
人口について考えられるのは、沖縄県発表のものには在留米軍人口が加算されていなかったのでは?自治体数については、本落書き帳アーカイブスにある「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」に関係あるのでは?、と、根拠の無い理由を探しております。

奄美諸島が関係してくるのではないでしょうか?1950年の国勢調査の鹿児島県のところを見ると大島郡には十島村しかありません。1953年の本土復帰までは鹿児島県下の市町村としてカウントされていないのではないかと思います。
ただ、これらの地域が沖縄県であったかというとそれは違うような気がしますが・・・。
[39962] 2005年 4月 17日(日)21:27:02紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
びみょう
[39936] 2005年 4月17日(日)14:36:41【2】 ふぁいんさん
残りの20市町村・216,080人はどこに行ってしまったのかなぁ
[39946]16:56:14 白桃さん
沖縄県発表のものには在留米軍人口が加算されていなかったのでは?自治体数については、本落書き帳アーカイブスにある「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」に関係あるのでは?
[39953] 20:01:59 229さん
奄美諸島が関係してくるのではないでしょうか?
[39958] 20:35:04 229さん
これら20市町村の人口も20万人


 うちの人口表、昭和25年の注釈には
昭和25年:沖縄県は12月1日現在人口。奄美諸島人口(216,110人)を含む。
 とあります。20人ほど違うようですが。
 また、昭和25(1950)~45(1970)年までは琉球独自で“国勢調査”を行なっていたようです。1950年のみ12月1日現在、それ以外は本土と同じく10月1日現在でした。

 北海道の国勢調査人口の参考資料 全国計
[39965] 2005年 4月 17日(日)23:08:03【1】Issie さん
琉球政府の国勢調査
[39962] 紅葉橋瑤知朗 さん
昭和25(1950)~45(1970)年までは琉球独自で“国勢調査”を行なっていたようです。

参考までに,
琉球政府の行った国勢調査の集計値を掲載した琉球政府公報が,沖縄県公文書館のHP で閲覧することができます。

トップページ目次の「電子閲覧室」の項目から「琉球政府公報」のページに入って
「国勢調査」で検索をかけると,いくつかの記事がヒットします。
そのうち,

1952年告示 から
 1952年琉球政府告示第37号 「1950年国勢調査確定人口」1952年10月13日掲載)
1956年統計部告示 から
 1956年統計部告示第3号 「臨時国勢調査結果(確定人口)の市町村別人口及び世帯数(1955年12月1日現在)」(1956年7月20日掲載)
 1961年琉球政府告示第135号 「1960年国勢調査確定人口について」(1961年7月7日掲載)
1965年告示 から
 1965年琉球政府告示第369号 「1965年臨時国勢調査概人口について」(1965年11月30日掲載)
1971年告示から
 1971年琉球政府告示第143号 「昭和45年国勢調査の確定人口について」(1971年4月26日掲載)

が,それぞれ国勢調査の数値に関わる告示です。
pdfファイルなので閲覧するにはそのためのビューワーが必要です。ファイルサイズが大きいので,ナローバンドでは少し辛いかもしれません(うちが,そうなのだが)。

米軍統治下の沖縄では元号(昭和)は公文書から排除され,西暦で表記されました。
最後の1970年実施のものが「昭和45年」を冠しているのは,すでに「本土復帰」が決まり,国政参加選挙 = (日本の)国会議員選挙が行われるなど,本土“編入”作業が進んでいる中で行われたことを表わしていそうです。
実際,この国勢調査では「本土」と同じシステムによる「地方公共団体コード」が使用されています。上2桁は,もちろん 47 。

また,米軍統治下では「郡」という区画は使用されていなかったようで,「北部地区」(国頭)・「中部地区」(中頭)・「南部地区」(島尻) などと区分されています。
また1952年の告示では「市部」「郡部」に替えて「都市地区」「農村地区」という表現が用いられています。

「日本側資料」には 島尻郡 のまま,所属郡の変更が行われなかったはずの 伊平屋・伊是名両村は,1950年には「南部地区」に属しているものの,1955年以降は「北部地区」に含まれています。
これが復帰当初,両村が 国頭郡 の所属としてコード番号が与えられ,後に 島尻郡 の番号に変更されている背景であるように思います。

ただし,当然ながら「沖縄県」ではありません。1970年10月1日当時,「沖縄県」は存在しませんでしたから。
1972年5月15日の「本土復帰」によって初めて「沖縄県」が“復活”することになります。

ともかく,1965年実施分までは沖縄が日本に「返還」される確証はなく,むしろ一時期アメリカ合衆国は日本から切り離すことを目論んでいた節があるわけで,その点,末尾5の年の国勢調査の扱いが「本土」と微妙に違う辺りにも見えてきそうです。
[40016] 2005年 4月 18日(月)22:25:54【1】Issie さん
続・琉球政府の国勢調査
[39962] 紅葉橋瑤知朗 さん
1950年のみ12月1日現在、それ以外は本土と同じく10月1日現在でした。

琉球政府公報に掲載された各告示によれば,琉球政府の行った「国勢調査」は次の5回です。
・1950年12月1日実施「1950年国勢調査」
・1955年12月1日実施「臨時国勢調査」
・1960年12月1日実施「1960年国勢調査」
・1965年10月1日実施「1965年臨時国勢調査」
・1970年10月1日実施「昭和45年国勢調査」

1955年以降は,琉球政府の立法機関である「立法院」(ただし,より上位の立法権を米民政府が持つ)で立法された「統計法」(1954年立法第43号)を根拠に行われましたが,琉球政府の発足(1952年4月1日)以前に行われた1950年の調査は1950年10月18日付の 琉球列島軍政本部軍政府布令第25号 を根拠に行われています。

1920年以来“日本本土”で行われていた「国勢調査」という呼称を引き継いだものの,前3回が12月1日現在で実施されているように,「本土」とは“独立”に行われていたものなのでしょうね。
「日本」の国勢調査に引かれるデータは,「参考値」というところでしょうか。

[40005] hmt さん
何故か該当文書はpdfで白紙が現れて確認できず。

私のところではどういうわけか,1ページ目が白紙で出てくることがしばしばあるのですが,2ページ以降は大丈夫です。

で,1952年10月13日に告示された「1950年国勢調査」の確定値によれば,
現住人口(含外国人:左3列)および「琉球に本籍を有する者」(右3列)は

--
全琉球914,947429,432485,505906,854423,715481,679
沖縄群島580,233271,450308.773576,389269,392306,997
奄美群島216,110100,524115,586213,62499,210114,252
宮古群島74,61835,65238,96674,32135,49738,824
八重山群島43,98621,80622,18042,68221,07621,606

という数字だそうです。
※註によると
--------------------------------------------------------------------------------------
本表に於ける外国人は
日本人,比島人,支那人,朝鮮人,アメリカ合衆国人,南米人,其の他よりなる。各群島市町村別における外国人もこれに準ず。
--------------------------------------------------------------------------------------
とのこと。

掲載されている市町村は以下のとおり
◎沖縄群島
▲北部地区:
01 国頭村,02 大宜味村,03 東村,04 羽地村,05 屋我地村,06 今帰仁村,07 上本部村,
08 本部町,09 屋部村,10 名護町,11 恩納村,12 久志村,13 宜野座村,14 金武村,
15 伊江
▲中部地区
16 石川市,17 美里村,18 与那城村,19 勝連村,20 具志川村,21 越来村,22 読谷村,
23 嘉手納村,24 北谷村,25 北中城村,26 中城村,27 宜野湾村,28 西原村,29 浦添村
▲南部地区
△都市地区
30 首里市,31 那覇市,32 真和志村
△農村地区
33 小禄村,34 豊見城村,35 糸満町,36 兼城村,37 三和村,38 高嶺村,39 東風平村,
40 具志頭村,41 玉城村,42 知念村,43 佐敷村,44 与那原村,45 大里村,46 南風原村,
47 仲里村,48 具志川村,49 渡嘉敷村,50 座間味村,51 伊平屋村,52 伊是名村,
53 粟国村,54 渡名喜村,55 南大東村,56 北大東村

○奄美群島
60 名瀬市,61 三方村,62 大和村,63 宇検村,64 西方村,65 実久村,66 鎮西村,
67 古仁屋町,68 住用村,69 龍郷村,70 笠利村,71 喜界町,72 早町村,73 亀津町
74 東天城村,75 天城村,76 伊仙村,77 和泊町,78 知名町,79 与論村

○宮古群島
80 平良市,81 城辺町,82 下地町,83 上野村,84 伊良部村,85 多良間村

○八重山群島
90 石垣市,91 大浜町,92 竹富町,93 与那国町

そこで,奄美群島所属20市町村の確定人口は次の通りですが,文字がつぶれていて判読しづらいところがあります。
上と同様,左が「(外国人を含む)現住人口」,右が「琉球に本籍を有する者」。

60名瀬市28,97028,037
61三方村9,7549,713
62大和村6,3746,345
63宇検村7,6157,579
64西方村4,2264,174
65実久村5,3235,290
66鎮西村7,4507,415
67古仁屋町11,98711,796
68住用村4,4904,421
69龍郷村9,7049,659
70笠利村13,08312,026
71喜界町10,99910,958
72早町村7,3537,309
73亀津町12,43512,216
74東天城村10.14010,024
75天城村13,04312,896
76伊仙村17,71617,546
77和泊町13,25913,072
78知名町15,04914,890
79与論村8,1418,099

とりあえず,こんな数字で如何ですか。

あ,ついでに…
1965年確定人口の表には「全琉」という表現があります。
[40075] 2005年 4月 19日(火)18:49:32Issie さん
日本は「外国」
[40062] 紅葉橋瑤知朗 さん
△都市地区
30 首里市,31 那覇市,32 真和志村
 これも、今の分け方に慣れてしまった者としては目からうろこが落ちますね。さすがです。

「那覇都市圏」という捉え方でしょうかねえ。
現在ではこの3市村に小禄村を加えた範囲が「那覇市」です。
小禄も今ではほぼ完全に都市化していますね。

それよりも私が思わずうなってしまったのが,

--------------------------------------------------------------------------------------
本表に於ける外国人は
日本人,比島人,支那人,朝鮮人,アメリカ合衆国人,南米人,其の他よりなる。
--------------------------------------------------------------------------------------

という 註 でした。
日本人は「外国人」なのですね。

たとえば,奄美群島の20市町村の数値にあるように,すべての市町村にわたって「外国人」が計上されています。
沖縄本島の市町村では,米軍関係者などとして「アメリカ合衆国人」や「比島(フィリピン)人」などの人々が含まれるのでしょうが,他の市町村の場合,そこに含まれる「外国人」の多くはまず第一に「日本人」,つまり「奄美を除く鹿児島県以北に本籍を有する者」なのでしょう。

ところで,この当時の琉球政府公報は,ほぼ“現代仮名づかい+旧字体”で表記されています。
[52062] 2006年 7月 8日(土)02:44:30【3】むっくん さん
過疎・過密
boo さん、瑠璃 さん、こんばんは。
[52030]熊虎 さんと同世代の私も、過疎・過密については教科書には出ていましたが、授業ではさらっと教わっただけでした。
さて、個人的には義務教育中の学生さんにとって「過疎」「過密」というのは深く調べるのには難しいテーマであると思います。
そこで、困っておられる御二方へ私から考える視点?を少々。

[52009]boo さん
沖縄県の過疎化改善策
沖縄県の場合、他の都道府県と異なり経済がかなりの部分を米軍基地関係に依存しているために完全には経済自体が自立していません。そこで過疎化改善策と沖縄県全体の地域振興策を完全に区別するのは難しいと考えられます。
そのため沖縄県の純粋な意味での“過疎化改善策”を調べるのはかなり難しいと個人的には思います。もし出来るのであれば、他の都道府県においての過疎化改善策を調べたほうが良いと思います。

参考:沖縄県のホームページ内の平成18年度重点施策

[52010]瑠璃 さん
[52044]瑠璃 さん
過密地域(大阪)の過密の改善策
『どうすれば過密の状態を解消できるか』
極論を言えば、日本は人口減少時代に突入しているので、何もしなくても自然と過密の状態は解消されますね。でも、おそらくこれが課題の解答ではないでしょうが・・・。


思考の方向性ですが『どうすれば過密の状態を解消できるか』を議論する前に、最近の都心のマンション建設によるあんぱん化現象(ドーナツ化現象の逆で都心の地価の下落に伴い都心に人が移り住む現象)を食い止める方策を考えないといけないのではないでしょうか。

参考:日本政策銀行 Kansai Topics 都心回帰の光と影(PDF)

次に、(もし課題の解消策を最初から自力で考えるとするならば)私ならば過去・現在・将来の人口推移・年齢構成・世帯構成を考えることで、改善策をひねり出すんでしょうね。(現在及び将来の大阪市市民の主要な層が若者なのか中年なのか老人なのかによって過密の状態を解消する方法が変わってきますからね。)

参考:大阪市立大学インターネット講座2006「居住環境最前線PART2 -10の課題-」第2回
[52095] 2006年 7月 9日(日)00:27:36【1】Issie さん
あんぱん
[52088] みかちゅう さん
あんぱん化現象ってきちんとした用語だったの?

[52090] むっくん さん
実は“あんぱん化現象”という言葉は一昨日の夕方のニュースで知りました。

google で検索してみたら,少しだけヒットしました。
とは言え,「用語として定着した」と見るには時期尚早のような気がします。今の段階では「ちょっと面白そうな新語(候補)」というところかな。
ただ,面白い表現であることは確かですから,みんながいろいろなところで使うようになれば用語として定着することとなるでしょう。きっと「ドーナツ化現象」だってそうだったのだろうから。

[52062] むっくん さん
沖縄県の場合、他の都道府県と異なり経済がかなりの部分を米軍基地関係に依存しているために完全には経済自体が自立していません。

ふと思ったのですが,沖縄は「本土」で吹き荒れて“その後の姿”を大きく変えることになった2つの出来事を経験していないのですよね。
1つは,「昭和の大合併」。1つは,「高度経済成長」。
「昭和の大合併」の嵐が吹き荒れた1954年,沖縄は米軍統治下にありました。ようやく本土に「復帰」した1972年,高度経済成長は終焉を迎えようとしていました。
高度経済成長による重化学工業化が日本の社会と環境に与えた「負」の側面は非常に大きなものがあったけれど,基地機能の維持には関心を持っていた米軍は沖縄の産業育成には無関心であった(妨害さえした)から,製造業の発展という点で沖縄は本土から大きく遅れをとった。そして,「復帰」後の経済投資も第2次産業よりも第3次産業に重点が置かれてしまう。
「本土」では(地方・地域による格差があるけれども)“プラス・マイナス”両面にわたって重化学工業化の結果を味わってから石油ショック後の「脱工業化」に向かっていったのに対して,沖縄はその“果実”を味わうことなく,ポスト高度経済成長下の日本に「復帰」した…。
沖縄県の経済・社会を考えるときに,気にしておいた方がいいことではないかと思います。

[52044]瑠璃 さん
過密地域(大阪)の過密の改善策
『どうすれば過密の状態を解消できるか』

まだ来てるかな?
私,職業柄(←ここを見てね),こういう質問にはとても意地悪なんですけどね,

まず,「過密」とはどのような状態を指すのでしょう?
そして,現状として大阪は「過密」状態にあるのでしょうか? …というのは,大阪に限らず,東京でも都心部では別の面で「過疎」が問題となってもいました。同時に,同じ場所で「過疎」と「過密」の両方の問題が表れている,というやや複雑な状態にあるのです。
では,「大阪の過密」で,問題となっているのは何でしょう?
『どうすれば…』に答えるヒントは,そのあたりから見えてくるような気がします。

…でもね,答えは簡単に見つからないかもしれません。すぐに見つかっては「調べ学習」の意味がない,と私の立場では思っています。
[52125] 2006年 7月 10日(月)07:13:48むっくん さん
レスレス
[52095]Issie さん
基地機能の維持には関心を持っていた米軍は沖縄の産業育成には無関心であった(妨害さえした)から,製造業の発展という点で沖縄は本土から大きく遅れをとった。
フォローありがとうございます。
沖縄のみB円を維持したことも実質的妨害になりますよね。

[52100]hiroroじゃけぇ さん
アンパン化現象ですかぁ?カレーパンじゃダメだったのかな?
テレビの解説から推測しますと、アンパンだと二つに等分したときに真ん中に固まった「あん」という核の部分が出来ますが、カレーパンだと「カレー」は流動性があるため核の部分が出来ないので採用されなかったのではないかと思います。
まさかして、ネタにまじレスしてしまったのか?^^;

[52109]かすみ さん
お稲荷さんは稲荷寿司に対してがほとんどかも?^^;
当地に住み始めたとき、お稲荷さんが「伏見稲荷大社」を指すことが一番多いことを知ってびっくりしました。以前は、お稲荷さんとは「稲荷寿司」もしくは「近所の神社」だと思っていたのでね\(#⌒0⌒#)/
[56190] 2007年 1月 12日(金)18:15:48【1】hmt さん
日本から政治的行政的に分離された「外周領域」
[56162]で、第二次大戦の末期に、硫黄島を含む小笠原諸島から、民間人の強制疎開が行なわれたことを記しました。
実は、小笠原からの住民引揚は、これが始めてのことではなかったのでした。

既に[26683]で書いたことなのですが、幕末の1861年(文久元年)に老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させ、翌年には八丈島からの移民を送り込み開拓を始めました。
ところがその1862年に起きた生麦事件[54415]の賠償金をめぐり、英国との間に確執があり、真っ先に攻撃される虞のある小笠原は、早々に開拓を放棄して本土に引き揚げてしまったのです。
この時には、旗本の奥方の疎開騒ぎ[33902]があったくらいで、江戸が襲われることも心配されました。
小笠原は、明治8年になってようやく再回収され、翌1876年には日本の小笠原領有が国際的に認められました。

19世紀の話はこのくらいにして、本題である第二次大戦の敗戦によって失なわれた「日本の外周領域」のことに入ります。

小笠原諸島では、1944年に軍属以外の6886人が本土に引き揚げ[56162]
優勢な米軍は、1945年2月に硫黄島に上陸。栗林部隊2万人が必死に抵抗するも3月には玉砕。
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。国土地理院の「いおうじま」や米軍の「Iwo Jima」と違うのは、厚木(あつき)[22152]や物干場(ぶっかんじょう)[38388]のような軍隊方言のせいでしょうか?
父島・母島の生存者は、8月の日本敗戦によって本土に送還されました。

沖縄での地上戦は、3月26日の慶良間諸島(4月1日 沖縄本島)上陸に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終了しました。
「鉄の雨」が降り注いだ3ヶ月間に、多数の民間人を含む20万人の犠牲者を出し、日本の行政機能は事実上壊滅ました。

敗戦後、戦場になった沖縄と小笠原を含めたいくつかの島々の行政が、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書(指令のMemorandum)によって日本から切り離されます。

「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件 Govermental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan」というタイトルで、SCAPIN-677 と呼ばれています。SCAP=連合国軍最高司令官(日本の新聞では「マ元帥」と表記)の Instruction Noteという意味です。

この覚書の第3条の中で、「日本の地域から除かれる地域」として列挙された3項目の中に
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島
があり、“北緯30度以南の琉球列島”の中には、沖縄、奄美群島、トカラ列島の「下七島」が含まれます。

(b)項において、伊豆諸島も日本の地域から除かれています。これに関連して、2004年1月29 日(SCAPIN-677発令58周年)に、[24269]「伊豆諸島が日本でなかった53日」という記事を書きました。この記事に対する Issieさんのレス[24274]にあるように、 SCAPIN-841 による修正によって、伊豆諸島が日本に戻りました。

(b)項には、南方諸島[53392]の名も見えます。(対日講和条約第3条や小笠原返還協定 第1条第2項では、小笠原を含む広い意味で使われています。)
沖縄県に所属するものの、「大東島群」(沖ノ鳥島やパラオ列島に連なる)は、別に挙げられています。
幻の「中ノ鳥島」([26266]の末尾)が、顔を出しているところはご愛嬌。

(a)鬱陵島、竹島、済州島や(c)千島列島、歯舞島群、色丹島が日本に含まれていないことは、領土問題についての韓国やロシアの主張の一つの根拠になっているのでしょうが、もともと SCAPIN-677 は、第6条に明記されているように、最終的な帰属を定めるものではない暫定的な性格のものだから、領土問題にこれを持ち出すのは筋違いということになります。
ついでに言えば、 SCAPIN-677 によれば、鬱陵島・済州島は、第4条の朝鮮とは区別された存在ですね。

原文を読もうと思ったら 画像 がありましたが、読みにくい。
外務省HPの中の 日露領土関係文書IIIの12番目は、全文ではありませんが、よく読めます。

1946年(昭和21年)1月29日に発令された SCAPIN-677 は、2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表され、奄美復帰年表 では、「二・二宣言」と呼ばれています。
昭和21年2月3日毎日新聞(大阪)には、「日本領域マ司令部指定」という記事がありますが、読んでみると、“日本領域として特に指定された島嶼に 千島諸島 および北緯30度以北の琉球諸島を含んでいるが…”とあります。
これは明らかな誤報です。電話送稿で「対馬」と「千島」を取り違えたのでしょう。
[56304] 2007年 1月 19日(金)14:33:48hmt さん
米国統治時代の「琉球」(1)パスポートの必要な地域
1946年に日本から分離された「外周領域」とその日本復帰に関しては、ずっと以前の伊豆諸島(1946年復帰)に始まり、トカラ(1952年復帰)、小笠原(1968年復帰)と記してきました。関係記事
いよいよ、桁違いに多くの人が住んでいた「琉球」(1953年奄美復帰、1972年沖縄復帰)に足を踏み入れます。

その前に一言。
1952年2月10日の復帰により、トカラの「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」が「三島村」に改称したので、「2つの十島村」は同時には存在しなかったと書きましたが[56242]、この記載には重要な前提があります。

つまり、「日本の法令の下において」という条件です。

村内に国境(!)が引かれてしまい、1946年2月2日に分断されてから約6年間、「鹿児島県十島村」の南には、“もう一つの十島村”が存在しました。こちらは、米国による「琉球」軍政の下ですから、「琉球の十島村」なのでしょう。
当然ながら、鹿児島県も「琉球」も両方とも「じっとうそん」。

何が言いたかったのかというと、
米国が施政権を持っていた時代の「琉球」は、現在の沖縄県に属する地域だけではなく、鹿児島県の一部である奄美とトカラを含んでいた時代があるということ、
そして、この地域の「市町村変遷」を探ることは、「日本の法令下」という枠から出ることになるということ、
この2件を改めて認識しておきたかったのです。

では「出国」しましょう。パスポートをお忘れなく。

「琉球」の統治組織は、時代により修正があっただけでなく、地域的な相違もあり、複雑ですが、沖縄県公文書館の中に、わかりやすい一覧図があったので、最初にこれをリンクしておきます。 http://www.archives.pref.okinawa.jp/press/ryukyu/05.htm

この一覧図によると、Occupied Japanに君臨したマッカーサー司令部(GHQ)に相当するものとして、米国軍政府、米国民政府から最終的には高等弁務官制になった米国の統治機構がありました。
米国(本土では連合国軍)の統制下に置かれた現地政府機構は、本土では「日本政府」だけだったのですが、「琉球」では「全琉球政府機構」と「群島別政府機構」[746]とがある連邦制のような形だったのですね。1952年、対日講和条約発効の直前に単一の「琉球政府」になりました。
…で、「琉球の十島村」はというと、「奄美群島」に属していました。

ここで「市区町村変遷情報」を開いてみると、沖縄復帰前の「琉球」で行なわれた市町村変遷も記録されています。
具体的には、沖縄県 の中に、1945.09.26の石川市から1971.12.01の糸満市まで33件、鹿児島県には名瀬市(1946/7/1、町制と誤記)と知名町(1946/9/1)が入力されています。

ここで疑問が出てきます。
「沖縄県」は、1945年6月の米軍占領から1972年5月の復帰までの間、存在したのか?
占領下、日本の法令によらずに実施された市町村の変更は、現在いかなる効力をもつのか?

占領当初の米国は、日本に征服された琉球は、信託統治後に独立させるという目論みを抱いていたようですが、日本側が、敗戦を機に沖縄県を廃止して、自ら手放したわけはありません。国際的な力関係によって、日本の施政権が及ばない状態になっただけです。
実際問題として、敗戦直後の日本には、沖縄の地位について主張する力がなかったと思いますが、「建前上」だけにせよ、沖縄県は残っていたということになります。

沖縄についての「日本の潜在主権」を米国側に認めさせることに成功したのは吉田茂です。
それは 1951年、講和条約の準備段階におけるダレス特使との会談によるものでした。参考

法令を調べてみると、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 に、先の疑問に対する答えがありました。
第三条 従前の沖縄県は、当然に、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)に定める県として存続するものとする。
第七条 沖縄の市町村は、地方自治法の規定による市町村となるものとする。

奄美についても、同様に 奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律
第八条 奄美群島内の従前の市町村は、地方自治法(昭和22年法律第67号)の規定による市町村となるものとし、…

「沖縄県」については「当然に…存続」という表現で連続性があるが、「市町村」については「地方自治法の規定による市町村となる」という表現で、復帰の日を境に市町村の性格が変わったことを示しているように思われます。
[56322] 2007年 1月 20日(土)17:45:28【2】hmt さん
米国統治時代の「琉球」(2)居残った「石川市」
市町村変更情報沖縄県 の1945年以降で最初に登場するのは、1945年9月26日に中頭郡美里村から分立した「石川市」(現・うるま市)です。
戦後の混乱期に成立したこの「市」の性格については、アーカイブズ 「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」 の中で話題になっています。

1945年4月1日に沖縄島に上陸した米軍に対する日本軍の組織的抵抗は、6月22日に終結。
沖縄の地上戦は、巻き込まれた民間人に約10万人の死者、そして多数の難民を出しました。
宜野座村その他にできた難民収容所の人口は一時的に膨れ上がりました[1188]

1945年8月20日、各地の収容所の代表が美里村にできた石川収容所に召集され、「沖縄諮詢会Okinawa Advisory Council」という名の戦後最初の行政機構が作られました。名前の示すように米軍政府への諮問機関でしたが、翌1946年4月に沖縄知事と「沖縄民政府Okinawa Civil Government」の制度ができた時に、そちらに移行しました。

1945年9月に公布された「地方行政緊急措置要綱」で、沖縄島12と周辺4島で計16の収容所に「市」ができました[4680]
【追記】
最初[1260]の沖縄島16市と書いたのですが、統合改称後の12市に周辺の島を加えた16市[4680] (般若堂そんぴんさん、出典[4985])が正しいようなので、修正しました。

琉球政府公報画像データベースで閲覧できるものは「沖縄民政府公報1946年1号(1946/6/1)以降であり、1945年の緊急措置の内容を調べることはできませんでしたが、「市町村」ではなくて「市区班」機構だったようです(平凡社:沖縄県の地名44、53頁)。

「石川市」は、このような緊急措置によって生まれた「市」ですから、明らかに普通の意味の「市制」ではありません。

1945年10月になると、収容所から各居住地区への移動が始まり、また12月には「沖縄行政機構改革要綱」が公布されて、順次 戦前の市制・町村制が復活しました。これによって石川市と同じ頃生まれたその他の15の「市」は、すべて1946年までには消滅していますが[1260]、沖縄諮詢会所在地の「石川市」だけは最後まで残りました。

1946年10月には石川収容所も解散し、「沖縄民政府」も島尻の知念村(現・南城市)に移転したため「石川市」の人口は激減しましたが、なぜか廃止を免れ、(おそらく何らかの沖縄法令による「市」の地位を得て、)26年後に沖縄復帰の日を迎えました。
こうして本土の市の基準を満たさない「石川市」は、沖縄復帰特別措置法[56304]によって「地方自治法の規定による市」になってしまったわけです。

[1272] オーナー グリグリさんの
ちょっと強引な残り方なんですね。
という発言の通りですが、遡ればごく短期間にせよ「沖縄の首都?」であった歴史が影響しているようですね。

「石川市」の次に記されている1946年4月1日の宜野座村分立は、「沖縄行政機構改革要綱」によるものでしょうが、宜野座村HP を見ると、1948年2月村長公選、同年7月21日米軍政府指令第26号「市町村制」で、自治体として法人格を得たとのことです。
[1260] 紅葉橋律乃介さん
48年、米軍政府の「町村制」。
53年、琉球政府の「町村制」。

本土では1947年に地方自治法が施行されましたが、沖縄の町村も、1948年には「自治体」になったということでしょうか。
1953年になると、日本の「潜在主権」が認められたサンフランシスコ体制の時代になるので、本土の「地方自治法」との整合性を考慮した「町村制」に改められたのだと思います。

更に後のことになりますが、日本復帰前の沖縄でも、日本の市町村コードが使われた[27598]くらいですから、石川市のような例外的な存在はあるにしても、「沖縄法令による市町村」も、「地方自治法の規定による市町村」とほぼ同一視してよい存在になっていたのでしょう。

名瀬市の市制施行(1946年7月1日)は、臨時北部南西諸島政庁ができる前です。知名町も同じ。
軍政時代に、いかなるルールに基づいたものか疑問がありますが、沖縄と違って奄美では存続していた旧行政組織が、戦前の日本の法律「市制」を適用したのかもしれません。

「沖縄民政府公報1946年6月1号」pdf の冒頭に掲げられたニミッツ元帥布告には、
四 本官の職権行使上其必要を生ぜざる限り居住民の風習並に財産権を尊重し、現行法規の施行を持続す
とありますから、従来の「市制」を適用してもよいのかな?
[56334] 2007年 1月 21日(日)16:17:26hmt さん
米国統治時代の「琉球」(3)「みなと村」と「ウフアガリジマ」
米軍統治の初年、沖縄諮詢会や「石川市」など16市が誕生した1945年は民政府発足前であり、従って公報[56322]によって行政記録を調べることはできません。そこで、当時を回想した 沖縄タイムスの記事 を参照します。

偶然にも本土で「玉音放送」のあった1945年8月15日に第1回の「石川会議」。
5日後の第2回会議で15人の委員を選出して「沖縄諮詢会」が発足。
米軍はこの沖縄諮詢会に「地方行政緊急措置要綱」を作成させ、これに基づき知念、前原、胡差、石川、漢那、宜野座、古知屋、大浦崎、瀬嵩、田井等、辺土名、平安座、粟国、伊平屋、慶良間、久米島の十六地区を市に指定
とあります。

同じ記事は、那覇港湾作業隊の労務管理のために、沖縄民政府知事によって設置された特別な行政自治体・「みなと村」についても言及しています。

1947年5月1日、那覇市と真和志村の各一部が「みなと村」として分立してから、3年3月後に那覇市に編入されるまで存続。
那覇市HP に、“1950年(昭和25年)8月1日みなと村を編入”と記録されているくらいですから、市町村変遷情報の対象でしょうか?

1948年の長野県諏訪郡「ちの町」(→茅野町→茅野市)よりも先で、 ひらがな自治体名 の先駆?[39] 
一応、雑学の材料に使える可能性があるので、グリグリさんに提供しておきます。


沖縄本島から東360kmに目を向けて、南大東村・北大東村の村制施行(1946.06.12)に触れます。
占領時代の「琉球」における市町村変遷の中で、異色の存在です。

沖縄の人々にとって、東方は未知の大海が広がる異なる世界「ウフアガリ(大東)」で、沖縄の文化はこの島には及んでいませんでした。

西洋に知られたのは16世紀スペイン人。19世紀になるとロシア船がボロジノ諸島と命名、アメリカのペリーも確認、イギリスも海図に記録。明治18年(1885)になると日本が南北の大東島に「沖縄県所轄」の国標を建て、諸外国にも領有を宣言しました(1892)。沖大東島も1900年に編入。

東方洋上にあるこの島に人が定住したのは1900年。上陸を拒み続けてきた険しい岸壁を克服した開拓者は、沖縄でなく八丈島の人々でした。
八丈島出身の玉置半右衛門(鳥島でアホウドリの羽毛採集)が南大東島に移民を送り込み、サトウキビ栽培を始めたのです。
玉置商会は、1903年には北大東島にも移民を入れ、沖縄からの出稼ぎ労働者も入って、リン鉱石採掘事業も試みました。

やがて南北大東島の経営権は本土の企業(東洋製糖→大日本製糖)に移りますが、全島が社有地で、交通・郵便・学校・病院などすべてを会社が経営。島内だけで通用する金券の発行や出入島管理まで会社だったとか。地方自治とは無縁の存在でした。

1945年の敗戦による沖縄の米国統治は、本土企業に支配されていた離島の立場を一変させ、この島も「普通の島」になりました。
1946年には沖縄民政府告示第4号の1により「南大東村」と「北大東村」が誕生。
やがて、製糖業にも沖縄資本が進出。沖縄化が進行してゆきます。

1964年、「土地所有権は農民にある」との高等弁務官最終決定が出て、これを受けた民政府布告により農民は自分の土地を耕作できるようになりました。
余談ですが、この時の高等弁務官Paul Wyatt Caraway中将は、沖縄返還に反対で、キャラウェイ旋風と呼ばれた強権発動政策は、内外に波紋を広げました。

南大東島というと、ラジオの気象通報[28888]でお馴染みの地名でしたね。
「鉄」の方では、宮脇俊三さんの本にもある砂糖黍鉄道の廃線跡ですか。

北大東村には「ラサ」という地名があります。南大東島より更に南方にある沖大東島(ラサ島)ですが、リン鉱石の島ということで共通する北大東村の飛び地になっているのでしょう。<[34494]

ラサ島は、1807年にフランス軍艦が「平坦な」という意味で命名したという「外国語由来地名」。
1911年、恒藤規隆がラサ島燐鉱合資会社を設立し、現在でも全島がラサ工業の私有地。1956年に米軍の射爆場。立入禁止の無人島です。
あ、ラサ島は[21501] 夜鳴き寿司屋さんで既出でした。
[69111] 2009年 4月 3日(金)16:29:29hmt さん
伊平屋・伊是名は、久米島から硫黄鳥島まで連なる「もう一つの列島」に属する?
[69095] YT さん
沖縄県の伊平屋村と伊是名村は、戦前は島尻郡所属で、琉球政府管轄の時期に北部地区(国頭郡)所属になり(中略)1972年6月7日以降再び島尻郡所属になっていますが、このような郡の組み換えは市町村変遷情報の調査の対象外でしょうか?

問いかけられたオーナーグリグリさんでも、市区町村変遷情報担当でもないのに横レスで失礼。
落書き帳のごく初期に、Issieさんが投げかけた疑問[722]
伊是名・伊平屋の場合にはどういう事情があるのやら。
から2年後に、同じくIssieさんの記事[27598]がありました。

---------抜粋して引用---------
もともと伊平屋・伊是名両島は王国時代には「島尻方」所属とされていました。それが琉球処分後,沖縄県にも徐々に「本土並み」の制度が導入される過程で,郡制の施行によって,そのまま「島尻郡」所属となりました。
戦後,米軍占領下で新しい統治体制が整備されていく過程で,両村は「北部地区」の管轄下に組み込まれたようです。位置関係からすれば,自然な話ではありますね。
市町村については戦前のものが「復活」するわけですが,(中略)結局「郡」は使われていないようですね。
「郡」という区画の使用されていなかった時期のこととて,「島尻郡→国頭郡」という所属変更手続きは行われなかったのではないか,と考えています。
「本土復帰」後,【地方公共団体コード上の扱いでは「国頭郡→島尻郡」という所属変更が行われたことになっているが】,自治省告示では該当するものを見つけることができませんでした。
---------引用終---------

この経過からすれば、【コードではなく】伊平屋村・伊是名村そのものの所属郡変更に関する日本の手続きは行なわれておらず、市区町村変遷情報の対象外ということのようです。
Issieさん[27598]も、次のように記しています。
そうすると,多くの資料でそうであるように,両村は「ずっと島尻郡」ということになるのかもしれません。

手続き的なことはさておき、私が関心を持ったのはその実体、つまり琉球王国時代から「島尻方」所属とされていた理由です。

既に[69110]むっくんさん が参考資料としてリンクした 硫黄鳥島全島移住のときの島尻郡長 齋藤用之助 の中に、次のような記載がありました。

【硫黄鳥島は】琉球王国時代は久米島を中心とした久米方に属しており、現在の感覚とは異なり、久米島が、沖縄本島より西に点在する島々の中心であったことがわかる。
本島西岸に浮かぶ伊平屋島や伊是名島も久米方に属しており、現在も久米島が属する島尻郡に属する。

なるほど、久米島を本島として、渡名喜島・粟国島・伊是名島・伊平屋島・硫黄鳥島と連なる「もう一つの列島」が存在して、沖縄・奄美と連なる列島の北西に並行しているようです。
慶良間諸島もこちらに入るのかもしれませんが、本部半島先端の伊江島だけは沖縄本島の付属島です。
久米島を親分とする列島に属する島々は、緯度から言えば徳之島くらいの硫黄鳥島まで、すべて同じ島尻郡ということで納得。
[28741]の末尾に疑問符付きで記した久米島との関係も、リンク文書により了解。

なお、硫黄鳥島の面積 2.60 km2 は、昭和44年にやっと国土面積に算入されました[67240]
[69118] 2009年 4月 4日(土)09:53:10【2】Issie さん
北部地区≠国頭郡
[69117] YT さん
1950年から1965年までの琉球政府国勢調査ではそもそも郡が記載されておらず

そもそも琉球政府には(公式の)行政区画としての「郡」という制度は行われていなかったのだと思います。
米軍統治下で,日本国憲法も地方自治法も適用されない(もちろん,大日本帝国憲法も市制・町村制も,そして府県制,郡制も)1945~1972年の沖縄は,要するに一言で言えば「事実として日本ではない」。日本本土と同じ制度を施行する必要はなく,アメリカ合衆国の地方制度を適用したって理屈の上では構わない(もっとも,彼の国の地方制度は州によってまちまちですが)。ただ,実際の問題として基礎自治体については従来の市町村の区画と組織を準用するのが現実的だから,それが適用された。でも,たとえば 石川市 の出現の経緯などには,地上戦が行われ,避難民の収容所から出発した戦後のこの島の(悲しいことではあるけれども)「異常さ」が見えてきますね。
一方で,それらの基礎自治体(市町村)をまとめるに当たっては,別に従来の「郡」という単位でまとめなければならないものではない。そこで琉球政府は「郡」ではなく「地区」という単位で市町村をまとめた。その区画としては従来の「郡」の区画を準用したけれども,それは決して「郡」ではない,…と理解すべきものと考えています。

「本土復帰」が確実となり,その準備が進行しているさなかに行われた1970年国勢調査における「沖縄」の扱いは,本土側の理屈による理解の下,琉球政府で行われている「地区」という区分を“本土式”の「郡」に“読み替え”てコードを振ったものと考えます。そして,“日本の施政権下への復帰”早々,問題の2村は「本来所属して“いる”郡」の位置に戻されてコードを振り直した,ということではないか。
日本の立場としては,伊是名・伊平屋両村が 国頭郡 に所属替えとなったことはない。だから,コード振り直しに際しても“所属郡の変更”にかかわる「正式な手続き」そのものが必要ないわけで,その事実も存在しなく,したがって「市町村変遷情報」の対象となることもない,…とまぁ,そういうことだろうと思います。

見た目は同じ見える「市町村」についても,「事実として日本ではない沖縄」(だから「沖縄県」ではない)の27年間は,「日本国内の沖縄県」との間に大きく,また本質的な“断絶”がある,ととらえた方がいいだろうと,私は考えています(各市町村の首長以下,現実の行政機構そのものは連続しているのですが)。
[69126] 2009年 4月 5日(日)11:27:23【1】オーナー グリグリ
Re:鹿児島県熊毛郡中種子町、沖縄県の伊平屋村と伊是名村、島尻郡鳥島
[69095] 2009 年 4 月 2 日 (木) 02:24:28 YT さん
[69051] オーナーグリグリさん
市町村別人口をまとめる際に、市町村変遷情報を参考にさせて頂いています。鹿児島県と沖縄県の市町村別人口をまとめている過程でいくつか気づいた点をまとめます。
ご指摘とお問い合わせをありがとうございます。

1.熊毛郡中種子町は1940年10月1日の国勢調査では「中種子村」と記載されていました。特に町制施行について然るべきソースを調べておりませんが、町制施行は1940年11月10日の間違いではないでしょうか?
現在、町制施行が1940年1月10日となっているのは単純なミスのようです。全国市町村名変遷総覧でも確認しましたが、ご指摘のとおり1940年11月10日が正しいようです。

2.沖縄県の伊平屋村と伊是名村は、戦前は島尻郡所属で、琉球政府管轄の時期に北部地区(国頭郡)所属になり、1970年の国勢調査でも国頭郡で集計されています。1972年6月7日以降再び島尻郡所属になっていますが、このような郡の組み換えは市町村変遷情報の調査の対象外でしょうか?
すでに、[69111]でhmtさんにお答えいただいているとおりです。hmtさん、ありがとうございました。なお、沖縄県の米軍統治下の変遷についても記録として残すことも十分検討の余地はあると思います。課題とさせてください。

3.戦前の国勢調査や日本帝国人口静態統計では、島尻郡鳥島という区分が存在します。鳥島という地名はいくつかありますが、おそらく硫黄鳥島のことでしょう。硫黄を産する火山島で、硫黄鉱の噴出をきっかけに1904年に久米島へ全島民が移住して人口がゼロとなりますが、その後再び硫黄鉱関連で定住者が集まり、戦後まで硫黄の採取が続けられたもののの、1959年の噴火で再び硫黄鉱が閉鎖して無人となっております。市町村変遷情報では鳥島の項目がありません。
鳥島の記述は、市区町村変遷履歴情報 市制町村制施行時の情報(沖縄県)に記載されています。「明治29年(1896年) 4月1日 沖縄県 沖縄県区制施行 2区設置/沖縄県ノ郡編制ニ関スル件施行 5郡設置」に鳥島を含む島尻郡の設置が、「明治41年(1908年) 4月1日 沖縄県 沖縄県及島嶼町村制 1町48村設置」に島尻郡具志川村の設置が記載されており、具志川村を構成する「市制町村制施行前の町村名等」の項目に硫黄鳥島が記載されています。

以上ですが、市区町村変遷情報の履歴情報(概ね1990年代以前)につきましては、88さんに登録と編集作業を行っていただいておりますので、中種子町の修正の件も含め上記の回答につきましては、88さんの確認とフォローを待ちたいと思います。88さん、いかがでしょうか。
[69553] 2009年 4月 24日(金)21:04:47【3】Issie さん
沖縄県公文書館
[69542] 88 さん
琉球政府の公的文書を探すことが早道なのかもしれません。

既にご承知のことかもしれませんが,沖縄県は公文書の公開に積極的で,沖縄県公文書館の公式サイト で「沖縄民政府」や「群島政府」などの時期からの公報の画像データを公開し,検索ができるようになっています。具体的には以下の組織の各公報(当該ページ より引用)。

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(1)琉球政府 (公布日:1952年4月18日~1972年5月13日)
(2)琉球臨時中央政府 (公布日:1951年7月31日~1952年3月31日)
(3)沖縄群島政府 (公布日:1950年11月4日~1952年5月6日)
(4)八重山群島政府  (公布日:1951年5月5日~1951年8月20日)
(5)奄美群島政府  (公布日:1950年12月15日~1952年1月5日)
(6)臨時北部南西諸島政庁  (公布日:1947年4月5日~1950年11月10日)
(7)沖縄民政府  (公布日:1946年6月1日~1950年10月27日)
-------------------------------------------------------------------

わが家の通信環境には,ちと苦しいものがあるので(表紙ページからして極めて重い),頻繁に見に行くのはためらわれるのですが,じっくり読むと面白いものがあるように思います。

この時期の沖縄県の市町村の変遷が、どのような根拠を持っているのか

ご参考までに,うちのページ(市一覧表市町村コード一覧表)の作成のために手許に控えているデータを並べておきます(さしあたり必要のない異動については控えていないので,悪しからず)。

告示番号告示日施行日
1953年琉球政府告示第112号1953.10. 1真和志市市制←島尻郡真和志町1953.10. 1
1956年琉球政府告示第151号1956. 6.29コザ市市制←中頭郡コザ村1956. 7. 1
1962年琉球政府告示第203号1962. 6.20宜野湾市市制←中頭郡宜野湾村1962. 7. 1
1968年琉球政府告示第213号1968. 6.28具志川市市制←中頭郡具志川村1968. 7. 1
1970年琉球政府告示第169号1970. 6.24浦添市市制←中頭郡浦添村1970. 7. 1
1970年琉球政府告示第231号1970. 7.17名護市合体市制←国頭郡名護町ほか4村1970. 8. 1
1971年琉球政府告示第491号1971.11.24糸満市市制←島尻郡糸満町1971.12. 1

石川市(1945. 9.26 設置),平良市(1947. 3. 7 設置),石垣市(1947. 7.10 設置)の告示については,まだ確認していません。上の引用によれば後2者は“沖縄民政府”の時期に当たるのですね(以前にデータをとった時には,この時期の公報は公開されていなかった)。また,1957年12月17日に施行された 真和志市 の 那覇市 への編入,および1971年11月1日に施行された 国頭郡上本部村 の 本部町 への編入についての告示も確認していません。

なお,「政府」と名乗ってはいても,米軍占領下の“行政(執行)機関”に過ぎない 琉球政府 に「主権」はなく(日本政府の“潜在的”主権も現実には及ばない),公文書の日付は“当然”に西暦。元号(昭和)は用いられません。
[69564] 2009年 4月 25日(土)02:40:14【2】むっくん さん
米軍統治下の沖縄県の廃置分合規定について(その1)
[69542]88さん
琉球政府の公的文書を探すことが早道なのかもしれません。
既に[69553]Issieさんから紹介がありましたように沖縄県公文書館で琉球政府の公的文書は公開されています。

このうち市区町村変遷情報に記載する範囲のもの(廃置分合、境界変更(大))のうち、公開されているものすべてを以前に書きとめておいたものがありますので、その全文を紹介します。

20 1946.06.12 村制 島尻郡南大東村 南大東島
21 1946.06.12 村制 島尻郡北大東村 北大東島
この根拠は1946.6.15発行の沖縄民政府公報第2号(PDF)7コマに記載されている
-------------
沖縄民政府告示第4号の1
琉球列島米国軍政府の命に依り大東島を沖縄民政府行政区域に編入し左村を設置す
1946年6月12日 沖縄知事 志喜屋孝信
南大東村
北大東村(沖大東島を含む)
-------------
です。しかし、公布&施行の規定として、1946.6.1発行の沖縄民政府公報第1号(PDF)2コマでは
-------------
沖縄民政府令第2号
沖縄民政府公布式左の通定む
1946年5月20日
沖縄知事 志喜屋孝信
沖縄民政府公布式
第1条 民政府法令は沖縄民政府公報に搭載するを以て公布式とす
第2条 民政府法令は特に施行の期日を掲ぐものを除くの外公布の日より起算し七日を以て之を施行す 但し離島に在りては民政府公報町村役場に到着したる日より起算す
附則
本令は公布の日より之を施行す
-------------
沖縄民政府令第2号の1
沖縄民政府公文公布方法左の通定む
1946年5月20日 沖縄知事 志喜屋孝信
沖縄民政府公文公布方法
第1条 民政府法令は沖縄民政府公報に搭載して之を公布す
第2条 先示諭告及必要と認める訓令は沖縄民政府公報に之を搭載す
附則
本令は公布の日より之を施行す
-------------
とあります。上記公布式の文言を素直に解釈すると、島尻郡南大東村及び北大東村を設置することとした根拠の沖縄民政府告示第4号の1の裁可日は1946.6.12で、公布日が1946.6.15で、村制の施行日は1946.6.22(離島なのでもう少し後の可能性も大)であるような気がするのですが。。。

32 1949.04.01 分立/町制 島尻郡与那原町 島尻郡 大里村の一部
この根拠は1949.4.21発行の沖縄民政府公報第4号(PDF)1コマに記載されている
-------------
沖縄民政府告示第5号
1949年4月1日大里村を分割し左記区域を以て与那原町を設置する
1949年4月1日 沖縄知事 志喜屋孝信

浜田区、中島区、江口区、新島区、森下区、立花区、与原区、大奥武区、上与那原区、板良敷区、当添区
-------------
です。

33 1949.12.04 分立 中頭郡嘉手納村 中頭郡 北谷村の一部
この根拠は1948.12.15発行の沖縄民政府公報第14号(PDF)2コマに記載されている
-------------
沖縄民政府告示第34号
1948年12月4日北谷村を分割し左記区域(戦前)を以て嘉手納村を設置す
1948年12月4日 沖縄知事 志喜屋孝信

国直区、野里区、野国区、星良区、兼久区、東区、千原区、伊舎堂区、嘉手納区、水釜区
-------------
です。
ということで、正しくは
33 1948.12.04 分立 中頭郡嘉手納村 中頭郡 北谷村の一部
ですね。

34 1953.10.01 市制 真和志市 島尻郡 真和志町
この根拠は1953.10.1発行の琉球政府公報号外第30号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第112号
真和志村を真和志市とする処分
市町村自治法第5条第3項の規定により、1953年10月1日から、真和志村の区域をもつて真和志市とする。
1953年10月1日 行政主席 比嘉秀平
-------------
です。
ということで、正しくは
34 1953.10.01 市制 真和志市 島尻郡 真和志村
ですね。

35 1954.09.01 編入 那覇市 那覇市, 首里市, 島尻郡 小禄村
この根拠は1953.8.30発行の琉球政府公報号外第36号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第140号
首里市、小禄村を廃し、その区域を那覇市に編入する処分
市町村自治法第3条第1項の規定により、1954年9月1日から、首里市、小禄村を廃し、その区域を那覇市に編入する。
1954年8月30日 行政主席 比嘉秀平
-------------
です。

36 1956.06.13 改称 中頭郡コザ村 中頭郡 越来村
この経緯につきましては、1956.6.12発行の琉球政府公報号外第30号(PDF)1コマで記載されているように
-------------
琉球政府告示第140号
1956年5月11日付、越総発第162号で申請のあつた越来村の名称変更については、市町村自治法第4条に基いて左のとおり許可する。
1956年6月12日 行政主席 比嘉秀平
越来村の名称をコザ村に変更
-------------
とまず許可が出されます。その後、沖縄市が作成した沖縄市までの主な記録(PDF)2コマによれば、
世論調査の結果、大多数がコザを村名にすることの要望があり、議会は1956年6月13日、条例第24号で越来村の名称をコザ村に変更することを議決した。
と条例で改称がなされたようです。

37 1956.07.01 市制 コザ市 中頭郡 コザ村
この根拠は1956.6.29発行の琉球政府公報号外第32号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第151号
コザ村をコザ市とする処分
市町村自治法第5条第3項の規定により、1956年7月1日から、コザ村の区域をもつてコザ市とする。
1956年6月29日 行政主席 比嘉秀平
-------------
です。

38 1957.12.07 編入 那覇市 那覇市, 真和志市
この根拠は1957.12.17発行の琉球政府公報号外第54号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第242号
市の廃置分合
市町村自治法第3条第1項の規定により、真和志市を廃し、その区域をもつて那覇市に編入する。
1957年12月17日 行政主席 当間重剛
-------------
です。ということで正しくは
38 1957.12.17 編入 那覇市 那覇市, 真和志市
ではないでしょうか。

39 1961.10.01 新設 島尻郡糸満町 島尻郡 糸満町, 兼城村, 高嶺村, 三和村
この根拠は1961.7.11発行の琉球政府公報第55号(PDF)3コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第136号
町村の廃置分合
市町村自治法(1953年立法第1号)第3条第1項の規定により、糸満町、兼城村、高嶺村及び三和村を廃し、その区域をもつて糸満町を置くことを決定した。
右の廃置分合は1961年10月1日からその効力を生ずるものとする。
1961年7月11日 行政主席 大田政作
-------------
です。

40 1962.07.01 市制 宜野湾市 中頭郡 宜野湾村
この根拠は1962.6.20発行の琉球政府公報号外第40号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第203号
宜野湾村を宜野湾市とする処分について
市町村自治法第5条第3項の規定により、宜野湾村を宜野湾市とする。
右の処分は1962年7月1日から、その効力を生ずるものとする。
1962年6月20日 行政主席 大田政作
-------------
です。


次稿へ続く。

【2】:真和志村の修正の件を追記
[69565] 2009年 4月 25日(土)02:40:28【1】むっくん さん
米軍統治下の沖縄県の廃置分合規定について(その2)
[69564]の続きです。

41 1964.06.01 編入 石垣市 石垣市, 八重山郡 大浜町
この根拠は1964.4.28発行の琉球政府公報号外第12号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第78号
大浜町区域の石垣市への編入について
市町村自治法(1953年立法第1号)第3条第1項の規定により、大浜町を廃し、その区域を石垣市に編入することを決定した。
右の廃置分合は1964年6月1日からその効力を生ずるものとする。
1964年4月28日 行政主席 大田政作
-------------
です。

42 1968.07.01 市制 具志川市 中頭郡 具志川村
この根拠は1968.6.28発行の琉球政府公報第52号(PDF)6コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第213号
具志川村を具志川市とする処分について
市町村自治法第5条第3項の規定により、具志川村を具志川市とする。
右の処分は1968年7月1日からその効力を生ずるものとする。
1968年6月28日 行政主席 松岡政保
-------------
です。

43 1970.07.01 市制 浦添市 中頭郡 浦添村
この根拠は1970.6.24発行の琉球政府公報第49号(PDF)2コマに記載されている
-------------
琉球政府告示169号
浦添村を浦添川市とする処分について
市町村自治法第5条第3項の規定により、浦添村を浦添市とする。
右の処分は1970年7月1日からその効力を生ずるものとする。
1970年6月24日 行政主席 屋良朝苗
-------------
です。

44 1970.08.01 新設/市制 名護市 国頭郡 名護町, 久志村, 羽地村, 屋我地村, 屋部村
この根拠は1970.7.17発行の琉球政府公報第56号(PDF)8コマに記載されている
-------------
琉球政府告示231号
市町村自治法(1953年立法第1号)第3条第1項の規定により、名護町、羽地村、久志村、屋部村、屋我地村を廃し、その区域をもって名護市を置くことを決定した。
この廃置分合は、1970年8月1日からその効力を生ずるものとする。
1970年7月17日 行政主席 屋良朝苗
-------------
です。

45 1971.11.01 編入 国頭郡本部町 国頭郡 本部町, 上本部村
この根拠は1971.10.29発行の琉球政府公報号外第143号(PDF)1コマに記載されている
-------------
琉球政府告示459号
市町村自治法(1953年立法第1号)第3条第1項の規定により、上本部村を廃し、その区域を本部町に編入する。
なお、この効力は、1971年11月1日から生ずるものとする。
1971年10月29日 行政主席 屋良朝苗
-------------
です。

46 1971.12.01 市制 糸満市 島尻郡 糸満町
この根拠は1971.11.24発行の琉球政府公報第93号(PDF)1-2コマに記載されている
-------------
琉球政府告示第491号
糸満町を糸満市とする処分について
市町村自治法第5条第3項の規定により、糸満町を糸満市とする。
この処分は、1971年12月1日からその効力を生ずるものとする。
1971年11月24日 行政主席 屋良朝苗
-------------
です。


その他1
27 1947.09.01 町制 八重山郡大浜町 八重山郡 大浜村
石垣市市長の大浜長照氏の発言では
大正3年、八重山村の分村により旧大浜間切と旧宮良間切の内、石垣島の東域部を占める字を範域とする「大浜村」が誕生し、戦後の昭和22年9月20日には「大浜町」へと昇格しています。
とあります。
沖縄県作成の八重山要覧平成19年度版>第10章その他の関係資料>2八重山歴史略年表(PDF)3コマでも
1947 昭和22 大浜村が町に昇格(9月20日)
とあります。町制がなされたのは本当に1947.09.01なのでしょうか。


その他2(当時の法制度)
14 1945.09.26 分立/市制 石川市 中頭郡 美里村の一部
うるま市作成のうるま市の概況(PDF)では、
明治41年の沖縄県島嶼町村制の施行に伴い誕生した美里村の一行政区として、昭和初期までその状態が続きました。そして終戦直後、地方行政措置要綱に基づき美里村から分離し、石川市が誕生しました。
と説明されています。どうやら地方行政措置要綱なるものがあったようです。

その後、市町村組織法(1948.7.21付け、軍政府指令第26号)が出来たようです。
#この前の法制度はよく分かりません。
#1953.1.19発行の琉球政府公報号外第1号(PDF)8コマに記載されている琉球列島米国民政府布令第94号(1953年1月8日)で市町村組織法は1953.1.8に廃止されました。ただ、その後の1953.1.22発行の琉球政府公報号外第2号(PDF)8コマに記載されている琉球列島米国民政府布令第94号改正第1号(1953年1月8日)で1953.1.12廃止に訂正されますが。。。

その後、1953.1.12発行の琉球政府公報第2号に掲載されている市町村自治法(1953年立法第1号)(前半(PDF)後半(PDF))が市町村の廃置分合の規定になります。日本へ返還されるまでは、この市町村自治法(1953年立法第1号)が市町村の廃置分合規定であり続けたようです。


その他3(平良市と下地町の合併話)
1961.7.14発行の琉球政府公報第56号(PDF)6コマ琉球政府告示第139号で平良市と下地町の合併が1961.10.30になされることになっていました。
しかし1962.2.28発行の琉球政府公報号外第5号(PDF)1コマ琉球政府告示第40号で平良市と下地町の合併期日を1963.2.1へ変更となります。
この合併話の後の処理が如何になされたのかが、根拠が見つからずよく分かりませんが、沖縄の日本返還時には平良市も下地町も両方ありましたので、結局この合併はなされなかったことととりあえず結論付けておきます。
[69574] 2009年 4月 25日(土)09:40:12【2】Issie さん
Re:米軍統治下の沖縄県の廃置分合規定について
[69553] mi(わ)
1953年琉球政府告示第112号 1953.10. 1 真和志市 市制 ←島尻郡真和志町 1953.10. 1

真和志「村」でしたね。うちんところ,“体系的”に訂正せねば。

[69565] むっくん さん
#この前の法制度はよく分かりません。

1945年9月2日の「無条件降伏」で正式に始まった“連合国軍”による占領下でも,憲法(大日本帝国憲法)と政府は存続して法制度上の“連続性”が保たれた「本土」とは違って,地上戦の場となった本島中南部において,恐らくは「沖縄県」などの通常の行政機構が“消滅”し,米軍の直接占領下に置かれた沖縄では,まずは“ゼロ”から行政機構を構築しなければならなかったわけで,この段階ではまだ恒常的かつ体系的な法制度を行う余裕もなかったのではないかと思います。
特に米軍の設置した“難民収容所”を直接の起源とする 石川市 の場合は,そもそもその発足の経緯が「異常」なものであって,同じく「地方行政緊急措置要綱」によって収容所内に設置された「漢那市」などと同様,その後の状況によっては“解消”されていたものなのかもしれません。占領最初期の混乱状況がある程度落ち着いて「正常」な行政機構が構築される以前の話。
なお,「地方行政緊急措置要綱」については,こちら に解説があります。一応,信頼の置けそうな書きぶりではないかと…。

ところで,「8月15日」というのは,政府がポツダム宣言受諾による戦争終結を決定したことを国民に対して公表しただけ。交戦国に対する同宣言の受諾の申し入れ(「国体護持」の条件つきで)は8月10日,受諾決定に基づく詔勅の発布などの手続きは前日の8月14日,軍の指揮系統による停戦命令は翌日の8月16日に行われています。で,正式に「戦争が終わった」のは,日本政府と軍の代表者が降伏文書に調印した9月2日なのですね。

[69118] の繰り返しになりますが,私は 1945年6月(頃)から1972年5月14日までの沖縄地域(「沖縄県」ではない)について「本土」の法制度の枠組みの中で理解するのは適当ではないと考えています。見た目は(たまたま)同じでも,本質的には別のもの,と理解すべきかと思います。
“その後”の視点から見れば,沖縄が本土に「復帰」し,市町村などの行政組織が「日本国憲法・地方自治法体制」に“編入”されたことが「当然」のように思えるけれども,1969年の日米首脳会談で「沖縄返還」が合意されるまでは,沖縄が本土に復帰する具体的な道筋はなかったわけですから。もしかしたら,沖縄は今の 北マリアナ諸島 のような存在になっていたかもしれません(国連の「信託統治領」であったマリアナ諸島と,日本の「潜在的主権」が認められはした沖縄を同列には扱えませんが)。
[71753] 2009年 8月 22日(土)05:19:31でるでる さん
平良市と下地町の合併撤回
[69565]むっくん さん
[69568]MI さん
[71746][71748] 88 さん
[71747]右左府 さん
平良市と下地町の合併撤回

宮古毎日新聞に、平良市下地町の合併撤回に関係すると思われる記事がありました。
この記事と、皆さんからの情報を参考に、時系列にまとめてみます。

1961年(S36)6月8日平良市議会が下地町との合併を決議
7月14日琉球政府告示第139号(PDF)(1961年10月30日に合併)
9月9日市町村合併に伴い下地町長(盛島明得氏)が解職(リコール?)。下地町議会解散請求に基づき臨時議会を招集、下地町長の退職について同意し、議員の総辞職を決定
9~10月頃下地町長に下里芳蔵氏が無投票で当選。議員の総辞職に伴い、新議員無投票当選
10月30日当初の合併予定→延期
1962年(S37)1月平良市、下地町の合併問題で、下地町の世論調査の結果、反対多数。下地町議会は合併取り消しを決議
2月28日琉球政府告示第40号(PDF)(1963年2月1日合併に変更)
1963年(S38)1月30日琉球政府告示第21号(PDF)(合併の撤回)
2月1日合併予定日→中止
2005年(H17)10月1日平良市、宮古郡城辺町、下地町、上野村、伊良部町が合併し、宮古島市誕生。

大まかな経緯ではありますが、平良市と下地町との合併を巡っては、町長や議会のリコールや世論調査で合併反対多数など、やはり様々な事情があった模様です。

その後、平良市、下地町を含めた宮古地区の平成の合併協議の際にも、構成自治体の離脱や復帰、住民投票、解職請求(リコール)など、様々な動きがありました。
[80851] 2012年 5月 15日(火)20:29:29hmt さん
沖縄が日本に戻って 40周年
1972年5月15日、沖縄は 日本に復帰しました。
日米間の外交用語としては「沖縄返還」という言葉が使われていましたが(沖縄返還協定)、国内法では「沖縄復帰」(沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律)と呼んでいます。

日本に復帰したことは確かですが、本当に沖縄の人の手に戻ったのか?
今日の天声人語には、米軍普天間飛行場の県内移設に反対する集会で歌われていた言葉が紹介されていました。
沖縄を返せ 沖縄に返せ

40年以上前の祖国復帰運動の際には、“沖縄を返せ 沖縄を(日本に)返せ”と繰り返されていたこの歌。
復帰後も市街地に隣接して残った 普天間基地反対集会では、“沖縄を 沖縄に 返せ”に変っており、本土との連帯感は失わたことを感じたとのこと。13年前の取材経験。

沖縄県の記念日としては、6月23日の「慰霊の日」[79651]の方が重視されていると思われますが、5月15日の「本土復帰記念日」[79643]もあり、復帰 40周年記念事業も実施されているようです。

前置きはこのくらいにして、都道府県市区町村における「沖縄」。
先ずは 市区町村変遷情報 沖縄県 を確認しましたが、1972 (S47).5.15には何も記録されていません。

沖縄復帰特別措置法には、次のように規定されていました。
第三条  従前の沖縄県は、当然に地方自治法に定める県として存続するものとする。
第七条  沖縄の市町村は、地方自治法 の規定による市町村となるものとする。

明治32年法律第64号「府県制」で定められた「従前の沖縄県」は、昭和20年6月の沖縄戦以来機能を失っていたが 【潜在的には存在していたと考えることができ】、日本復帰後は、地方自治法に定める「沖縄県」として「当然に」存続する。
本土の道府県が、昭和22年5月3日から「当然に」地方自治法に定める道府県として存続しているのと同じこと。

市町村の方は、昭和20年6月の機能喪失から日本復帰までの間にも「変遷」があるので、沖縄県と違って、この期間を「カラ期間」にするわけにはゆきません。
第七条では、【第二条で定義された地域である】沖縄の【米軍統治下での変遷を経た】市町村は、地方自治法 の規定による市町村と 「なるものとする」 としています。

このようにして、嘉手納基地近くに成立していた コザ市 は、日本復帰により地方自治法 の規定による市になりました。現在沖縄市を名乗るこの市は、カタカナ市名でも落書き帳の話題になりました。
コザ市という名の由来については、越來村(ごえくそん)の胡屋(ごや)の誤読ではないかなどと言われているようですが、コザ村からの市制自体は既に琉球政府時代になっている 1956年であり、手続的には問題ないと思われます。

市になった手続自体がもっと怪しいのは、石川市 でした。石川県と無関係の沖縄に「石川市」はさておき、「市」になった拠り所は、戦争終結から間もない 1945年9月に米軍から出された「地方行政緊急措置要綱」とされています[4680]。出典[4985]
この時に各地の収容所にできた「市」は、沖縄本島12市と粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市であると伝えられます。
これは「市町村」制度の中における「市」ではなく、「市区班」という機構の中での「市」であり、明らかに普通の意味での「市制」ではありません[56322]

1945年中には収容所から各居住地区への移動が始まり、新たに公布された「沖縄行政機構改革要綱」により、順次 戦前の市制・町村制が復活しました。これによって石川市と同じ頃生まれたその他の15の「市」は、すべて1946年までには消滅していますが[1260]、首都?【沖縄諮詢会所在地】の「石川市」だけが最後まで残りました。
石川収容所解散、沖縄民政府の移転により、人口は激減したのに 強引に居残った石川市[1272]は、日本復帰で「地方自治法の規定による市」の地位を獲得。2005年の合併による うるま市誕生まで存続。

石川市はおそらく例外的な事例で、一般的には次の程度のことが言えるのではないでしょうか。[1260][56322]参照
戦争で徹底的に破壊された沖縄の地方行政制度は、米軍統治下で徐々に整備が進められ、1948年には米軍政府指令第26号「市町村制」で、自治体が復活した。
更に1953年には琉球政府の「町村制」実施で、更に日本の制度に近いものになったと思われます。
そして、1972年の日本復帰で地方自治法体制に。
[80904] 2012年 5月 28日(月)18:17:22【2】hmt さん
米国統治下の沖縄・年表
[80851]で「沖縄が日本に戻って 40周年」という記事を書きました。
この機会に、hmtマガジンに現在の沖縄県の原点になった「米国統治下の沖縄」についての記事集をまとめることにしましたが、約27年間に及ぶ米国統治時代の主な出来事と統治機構とを一覧できる表があると便利だと考え、この記事で補足します。

日付出来事米国統治[56304]沖縄の自治組織
1945/3/26沖縄地上戦【注1】
1945/4/1米国海軍政府
1945/6/23地上戦終結【注2】
1945/8/15沖縄諮詢会[56322]
1946/2/2SCAPIN-677【注3】
1946/3/22伊豆諸島復帰[24269]
1946/4/24沖縄民政府[56322]
1946/7/1米国陸軍政府
1950/6/25朝鮮戦争勃発
1950/11/4沖縄群島政府[69553]
1950/12/15米国民政府[40016]
1951/2/1吉田ダレス会談【注4】
1952/2/10トカラ復帰[56242]
1952/4/1琉球政府[69553]
1952/4/28平和条約発効【注5】
1953/7/27朝鮮戦争休戦
1953/12/25奄美復帰
1957/6/5高等弁務官[40016]
1958/9/16-20通貨交換[80907]
1965/2/7ベトナム戦争北爆開始
1968/6/26小笠原復帰
1972/5/15沖縄復帰沖縄県と市町村[80851]

【注1】1945/3/26 米軍が慶良間諸島に上陸、4/1 沖縄本島に上陸
【注2】日本の行政組織は機能を停止。現在、毎年6/23を「慰霊の日」として、沖縄県及び県内市町村は休日[79651]
【注3】琉球等日本の外周領域を政治的に分離[56190](SCAP指令1/28,CIE発表2/2)
【注4】沖縄における日本の潜在主権の存在を主張し、認められた[56304]
【注5】日本独立。潜在主権下にある奄美・沖縄(北緯29度以南の南西諸島)や小笠原は、当面米国の信託統治を認めた。
[80907] 2012年 5月 29日(火)18:29:49hmt さん
琉球政府時代の1958年 通貨がB円からドルに交換
本土復帰前の沖縄は、日本からの旅行者にとって、パスポートの必要な「外国」でした [56304]

沖縄の人達にとっても、それは同様。
1958年夏、甲子園の高校野球に初めての沖縄代表が出場できましたが、もちろんパスポートを携え、丸一日かけた船旅でした。

初戦で敗れた彼らは「甲子園の土」を持って戻ってきたが、それは「外国の土」であり、植物検疫を通らず廃棄せざるを得なかったことは、日本でも大きく報道されました[4002]朝日新聞記事は後日のもの

この事件の翌月になりますが、1958年9月20日24時に、それまで沖縄で使われていた通貨の「B円」が廃止され
米国弗をもって琉球列島における唯一の通貨とする
ことが定められました 高等弁務官布令 1958年14号 。交換比率は1弗対120B円(布令15号)。ドル交換所の写真

「B円」については [3983] 夜鳴き寿司屋 さんの記事があります。戦闘終結後の混乱期に通用した各種の通貨の中で、米軍の発行したB軍票が琉球列島唯一の法貨となったのは1948年8月でした。沖縄民政府公報

米国統治時代の沖縄のこと表す「アメリカ世(ゆー)」という言葉があるそうですが(琉球新報2003/3/1 沖縄コンパクト事典)、日常生活に最も密着したアメリカ文化といえば、ドルと右側通行だったのでしょうか。
[84957] 2014年 1月 21日(火)22:40:17【1】hmt さん
琉球南部地区真和志村
[84953] 白桃 さん
特に1950年に3万人以上を記録した具志川、真和志の1947年時の人口がどれぐらいであったか知りたいものである。

マピオン によって 真和志村があった地の現状を見ると、村の南限は モノレールが通っている安里あたりで、市役所の新都心銘苅庁舎を経て、現在の那覇市北限までを占めていたようです。
つまり 那覇市街地と首里との間から那覇港北部にかけて存在した村で、戦後の都市化も早い時期から始まっていたと思われます。

当然、那覇の市街地拡張という観点から、真和志村の編入合併も検討されたことと思いますが、現実には 1953年に 独立の「真和志市」が成立しました。

そして その翌年には 真和志市を除け者にして、東側の首里市と南側の小禄村とが、那覇市との「ドーナツ合併」を実現。
相撲の「まわし」にかけて、「まわし抜きの技」と呼ばれたそうです。[1220]でリンクされた琉球新報2000/5/13の記事参照。

那覇市が、真和志市の編入合併を実現できたのは、それよりも3年以上後の 1957年12月でした。

hmtマガジンの 特集 米国統治下の沖縄 には、「みなと村」を紹介した記事が収録されています。
補足すると、那覇市勢要覧2012 掲載の那覇市のあゆみ(p.13)には、1947年の項目に「奥武山を中心とする…一帯に那覇とは別の行政区 みなと村を設置」、1950年に「みなと村、那覇市に合併」とあります。

「みなと村」が変遷情報に記録されていないのは、琉球政府公報に記録がないためかもしれません。
しかし、那覇市が市勢要覧等で公認していることも考慮し、掲載をご検討願います[56334]。>グリグリさん

[1219] 琉球の風 さん によると、「みなと村」は 那覇港を取り囲むような村域で設置された自治体でしたが、前記琉球新報記事によると、1950年7月の真和志村臨時議会では
「みなと村は真和志の土地を利用した特殊区域である。(中略)…、これは真和志村を首都計画からオミットして、みなと村だけを取らんとする陰謀と考えられる。
という発言がなされた由。感情的な問題があったようです。

合併問題から、白桃さんの気になった 1947年の真和志村人口に戻ります。
仮に 1947年10月又は12月に国勢調査[40016]が実施されたとしても、みなと村の地域は含まれないことになりそうです。
しかし、みなと村分立(1947年5月)前の真和志村は、人口3万人以上の村であった可能性が大きいように思います。

【追記】
タイトルを“沖縄県島尻郡真和志村”から変更しました。その理由を説明しておきます。

1945年の敗戦から 1972年の沖縄返還【注】までの間の沖縄。
【注】
[80851]で書いたことですが、沖縄返還は日米間の外交用語で、国内法では「沖縄復帰」を使っています。
1972年5月15日という日付は、とても重要なエポックであると考えるのですが、市区町村変遷情報には記載されていません。
グリグリさんのお考えを聞かせていただければ幸いです。

約27年間、「沖縄県」は 建前上は 存在していましたが、そこは日本統治権が及ばない米軍統治下で、「琉球」と呼ばれ、沖縄県の名は 実際には使われていませんでした。
そして、戦前から存在した 「真和志村」 は 戦後も使われたものの、[27598]Issie さんの記事にあるように、「島尻郡」は使われなかったのですね。
琉球政府では「郡」という区画は用いない。本島周辺は「北部地区」「中部地区」「南部地区」に区分され,それぞれが「国頭(郡)」「中頭(郡)」「島尻(郡)」に相当する。

真和志市発足時の変遷情報 では、【これも建前上だけ存在していたと思われる】島尻郡を使っています。
今回のタイトルも、あえて修正する必要がないかと思いましたが、「南部地区」という地域区分を改めて認識した機会をとらえ、変更しておきました。
[91263] 2016年 8月 21日(日)19:31:09【3】オーナー グリグリ
NHKスペシャル「沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた~」
昨夜のNHK総合テレビで放送された、NHKスペシャル「沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた~」は、これまで知られていなかった事実を含め、現在まで続く日本政府の沖縄への不当な扱いに直接言及しており、NHKとしても一歩踏み込んだ内容になっていて、とても興味深くまた深く考えさせられる内容でした。NHKの政治的姿勢に最近少し変化が出てきたと感じるのは私だけでしょうか。

落書き帳アーカイブズ「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」にまとめられている終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。これらの人々は基地建設の労働者として連れて来られたものであり、日本本土の民主化を急ぐと同時に沖縄の基地化を急ぐための一石二鳥の施策だったとしています。

何が一石二鳥かというと、日本の民主化には日本人の負担になっている10万人の沖縄人は邪魔であり、一方、沖縄の基地化推進に必要な労働力が不足している状況において、沖縄人を本土から沖縄に戻すことが最前の施策と米軍(マッカーサー)は判断したのです。日本政府は米軍の施策に了解を与えており、その背景には、沖縄は犠牲にするしかない、つまり、沖縄人は日本人ではないとの考えがあります。実際、マッカーサーの記録には明確に「沖縄人は日本人ではない」との記載があるとのことです。非常に衝撃的な内容でした。他にもいろいろ驚くような事実紹介があり(米国の陸軍と海軍の対立など)、再放送予定は今のところありませんが、この番組は多くの方に視聴して欲しい内容でした。NHKオンデマンドでは視聴できます。

【追記】この番組に対する批評も出ています。
Nスぺ『沖縄 空白の1年』が届いた部分と届かなかった部分(Yahoo!ニュース)
[91282] 2016年 8月 27日(土)18:43:27【1】hmt さん
米軍統治下の沖縄
[91263] グリグリさん
先週放送された NHKスペシャルを紹介していただきました。
米国統治下の沖縄に関係するこの件については、私もフォローしたいと思っているのですが、未知のことが多く、まとまった意見を記すことができません。

散発的な書き込みになってしまいますが、とりあえずのメモを記録に残しておきます。

終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。

「収容所」という表現は、琉球の風さんの[1188]を始めとして この落書き帳でも度々使われてきました。
地上戦により日本の行政機構は壊滅しており、居所を失った住民の収容施設は米軍の軍政下。
不完全ながら日本側が関与するようになったのは、戦火が収まり沖縄諮詢会が発足した後の地方行政緊急措置要綱。この要綱で「市」と呼ぶことになった住民収容所の自治組織は 1945年9月に発足。沖縄本島12市の他に 粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市があり 合計16市[1260][4680]

また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。

これは誤解部分があり、沖縄本島で難民となった人たちの収容所【16市】と別に、本土の「沖縄人10万人」を沖縄に強制移動させた際にできた収容所があったことを指しているように思われます。
1946年には日本から琉球への入域者が 10万人以上あったという統計があります。出典

これが日本から強制移動させられた沖縄人労働力ではないかと思い 少し調べてみたのですが、その実体解明に役立つ手がかりは得られませんでした。
ちょっと気になる存在が 後に「みなと村」[1219]になった地域です。これは那覇港の荷役労働関係かと思いますが、軍事基地関係作業で必要とされた労働力を集めた収容所地域が、他にもあったのではないかなどと想像してしまいます。

この番組に対する批評も出ています。

鈴木祐司さんの記事の中に、次の記載がありました。
“空白の1年”の1年後には決定的な出来事もあった。通称「沖縄メッセージ」と呼ばれる昭和天皇からマッカーサーに宛て送られた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」である。

既に象徴の地位にあった天皇が このような意見を示したと伝える話を知り、驚きました。沖縄県公文書館, Sebald文書 , あの日の沖縄_1947/9/22

「メッセージ」に関連する矢吹晋さんの論評 ちきゅう座

テレビで報道された基地問題につながる沖縄の戦後問題。
ちょっと調べてみただけで、まだまだ知らないことが多いことを実感しました。

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