都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
okiさんの記事が20件見つかりました

… スポンサーリンク …



[77106] 2010年 12月 26日(日)03:31:44oki さん
利根川東遷以前の下総国図
[77091] hmt さん 利根川と国境・県境との関係(10)

利根川と国境・県境との関係シリーズについては、興味をもって読んでおりますので、今後も継続していただくよう、お願いいたします。
それに関連して、上記書き込みでhmt さんが引用された土木学会のサイトに、非常に面白い絵図が掲載されており、利根川東遷以前の利根川流域の状況が推測できるので、それについてちょっとご紹介しておきます。

紹介したい絵図は、上記サイトの右下に「江戸初期 下総之国図」(船橋市西図書館蔵)となっているものですが、サイト掲載のままでは解像度が低すぎて何を示しているかよく分かりません。
そこで最初に、この絵図が何を示しているか、簡単に説明しておきます。絵図は上が北、右が東で、現在の地図と同じです。絵図のもっとも左上(北西側)にある□印が古河城で、その西を流れるのは渡良瀬川(思川)です。渡良瀬川(および権現堂川)沿いに古河城の下(南)に位置する□印が栗橋城、そのすぐ東(右)にあるのが関宿城です。ただし、この栗橋城があったのは、権現堂川西岸に位置する現在の栗橋ではなく、東岸の元栗橋(現五霞町)です。関宿城のはるか下にある□印は葛飾区青砥にあった葛西城、その斜め右(東北東)に位置するのが松戸の大谷口にあった小金城です。
栗橋城、葛西城、小金城などは、秀吉の小田原攻めの際に落城し、そのまま廃城になったはずですから、この絵図は江戸時代初期というより、後北条氏時代の下総を描いたものではないかと思います。

この絵図で、利根川は次のように流れています。まず、北西方向から流れてきて二派に分かれます。東流する細い流れはおそらく合の川で、渡良瀬川と合流しています。南東流は浅間川筋と見られ、さらに二分されていますが、東派した川は権現堂川と合流、関宿方面へ続いています。南東方向への流れが利根川の本流で、猿ヶ股(現在の葛飾区水元)で二分し、葛西城の東を通って江戸湾に注ぐ西側の流れが江戸時代の中川です。その一部(古隅田川)はさらに西派して隅田川に流入しています。猿ヶ股から東へ行く派川は当時の太日川で、現在の江戸川下流部をなす河川だと考えられます。絵図からは、(古)隅田川以東が下総国に属していることがはっきりと分かります。

この絵図には、東遷以前の利根川水系について、注目すべき点がいくつか示されています。その中で最大のものが、利根川水系と常陸川水系の連絡を明示していることです。少し分かりにくいですが、栗橋城の南を通る権現堂川は、関宿城の西側から北側を迂回し、東側の常陸川につながっています。これは近世の逆川の川筋そのもので、この絵図が正しいとすれば、後北条氏の時代に、逆川に当たる水路が既に存在したことになります。
栗橋城主北条氏照の書状により、天正4年(1576)の段階で葛西~栗橋間および佐倉~関宿間の舟運があったことが判明しているので、栗橋~関宿間が上記の水路を通じて連絡していたとすれば、江戸湾と佐倉間(さらには銚子まで)の舟運も可能だったと考えられます。

もう一つの注目点は、庄内古川に相当する河川が存在しないことです。庄内古川(この時点では庄内川ですが)は、関宿城の西側で権現堂川から分派、当時の利根川本流と並行する形で南流し、猿ヶ股から東派した太日川と合流しているはずです。しかしこの絵図では、太日川に流れ込んでいる川はありますが、権現堂川には達していません。逆に権現堂川から南流する川は、途中で利根川本流に合流してしまっています。
この南流河川は、hmt さんが
権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます
と書かれていた川だと思います。この絵図が正しいとすると、この時点では庄内川がなく、渡良瀬川の水も利根川本流に合流していたことになります。
迅速側図を見ると、上記の南流河川の東側に、南へ向かう広い河道跡が認められ、それは庄内古川の川筋につながっています。ひょっとすると、この絵図の時点では閉塞していた河道を改めて開き、利根川本流に集中する水流を太日川方面に流そうとしたものの、うまくいかず、改めて江戸川を開削したのかもしれません。

また、利根川水系と常陸川水系との水運が既に開かれていたとすれば、新川通や赤堀川を開削した主目的は、特に洪水時に、利根川および渡良瀬川の水を常陸川に流すことにあったと思われます。それにしては赤堀川の川幅が狭すぎ、放水路の役割を果たさなかったのではないか、とも思われるのですが、この点は今後考えてみることにします。

何にしろ、赤堀川も新川通もない時代の珍しい地図ですので、参考のために、ご覧になってください。

※ 後で捜したところ、こちらに、もう少し詳しい地図が掲載されていました。城名などの注記もあるので、より見やすいと思います。また、上記した北条氏照書状の翻文も記載されているので、そちらもご覧ください。


[77101] hmt さん  利根川と国境・県境との関係(11)中川
現在の住居は江戸川のすぐそばで、新中川辺りにもよく行きます。なので、「中川」に関する記述も、とても興味深く読みました。今後の連載は、上武国境の方に遡るのでしょうが、江戸川についても触れていただければと思います。
ご参考のために、野田市立興風会図書館にある「江戸川縁領々地図」と題された地図をリンクしておきます。幕末期(1845年以後)のものですが、江戸川沿岸地域の地図として非常に精密で、流頭部の棒出しも明瞭に描写されています。
[77088] 2010年 12月 23日(木)11:33:31【1】oki さん
置賜郡の町
[77083] 千本桜 さん
ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。

[77086] YT さん
『天保郷帳』では『旧高旧領取調帳』の「小国村」と「小阪村」を併せて「小国小阪町村」と称しているようです。もしかしたら「小阪村」は本当は「小阪町」で、『旧高旧領取調帳』では「関町」と「小阪町」の二つを町と判定していたのかも知れません。

旧高旧領取調帳における「町」は、「関町」だけであり、置賜郡292村「2町」という記載は誤りだと思います。
関町は関村の一部に当たる地域で、現在の米沢市関町です。関村の北端を会津街道(県道234号線)が通っており、街道沿いに成立した宿場が関町です。ただし、米沢藩から公式に認められた町ではなかったようで、天保郷帳には関村しか記載されていません。地方行政区画便覧にも関村しか載っておらず、関町を独立した存在として扱っているのは旧高旧領取調帳だけのようです。
一方、旧高旧領取調帳の「小国村」は天保郷帳の「小国町内」、「小阪村」が「小国小阪町村」で、これらは西置賜郡小国町の中心市街地に当たります。
郷帳の「小国町内」は、本来「小国町村」と表示すべき場所で、「小阪町村」と並び、米沢藩領小国郷の中心地です。小国町村、小坂町村が一体となって小都市を形成していたようで、小国町が商業地、小坂町は士族の住む陣屋町で、両者を一括して「小国町」と呼ぶこともあったようです。「○○町村」となっているのは、米沢藩が公式には町と認めていなかったからで、実態としては町であり、地域の人たちも「まち」と呼称していたと考えられます(このような例は全国至る所にあります)。
ただし、そこが実態として町か村かを判断するのは難しいので、旧高旧領取調帳では、単純に「○○町」となっている場所だけを「町」と見なしているはずです。その意味で、旧高旧領取調帳における置賜郡の町は「関町」だけであり、置賜郡292村「2町」という記載は誤記だと見なすべきです。もちろん実態としては、「関町」より「小国村」・「小阪村」の方がより都市的な場であったことは間違いありません。

「天保郷帳」にしろ「旧高旧領取調帳」にしろ、名称や石高が実態とずれている場合は少なくありません。特に天保郷帳は諸藩が幕府に提出した資料がもとになっており、外様大藩の場合は幕府向けと藩内用との二重帳簿を作成している事例がよくあります。したがって、郷帳等の記載に疑問が生じた場合には、その村の位置を特定し、現在の姿を確認するとともに、各種の資料から歴史上の実態を解明する必要があります(7万を超える郷帳記載のすべての村にそんなことをしていては、とても身が持たないのは事実ですが)。

【最後の記述を若干訂正。】
[77020] 2010年 12月 12日(日)11:52:07oki さん
「長すぎる」地名
[77004] hmt さん
エデンの園以来嫌われ者の「蛇」が使われた地名は、行政が使う公式の町名からは消されてしまいました。

確かに、東京からは「蛇」のつく地名は消えてしまいましたが、全国を見渡すとまだたくさんあります。地名コレクションにあるかなと思ったのですが、蛇はまだないようなので、調べた地名を以下に記しておきます。

所属自治体地名読み
下北郡風間浦村蛇浦へびうら
三戸郡三戸町蛇沼じゃぬま
九戸郡軽米町蛇口へびぐち
石巻市蛇田へびた
横手市蛇の崎町じゃのさきまち
由利本荘市下蛇田しもへびた
由利本荘市上蛇田かみへびた
東置賜郡高畠町蛇口じゃぐち
田村郡三春町蛇石へびいし
田村郡三春町蛇沢へびさわ
常総市上蛇町じょうじゃまち
猿島郡境町蛇池じゃいけ
富岡市南蛇井なんじゃい
佐倉市大蛇町おおじゃまち
旭市蛇園へびその
岩船郡関川村蛇喰じゃばみ
魚津市蛇田へびた
下新川郡入善町蛇沢へびさわ
南砺市蛇喰じゃばみ
下伊那郡天龍村大蛇だいじゃ
海津市蛇池じゃいけ
養老郡養老町蛇持じゃもち
下呂市蛇之尾へびのお
賀茂郡南伊豆町蛇石じゃいし
東近江市蛇溝町へびみぞちょう
福知山市蛇ヶ端へびがはな
御所市蛇穴さらぎ
八代市蛇篭町じゃかごまち
菊池市班蛇口はんじゃく

示したのは全部で29ヶ所。小字レベルまで含めると100ヶ所以上になるのですが、表示が長たらしくなるので、大字レベルの地名に絞ってあります。分布としては、東北、関東、中部に多いようで、中国、四国にはまったくありません(小字レベルの地名はあります)。
地名コレクションでは、「狸・狢」が119件、「狼」89件で、それらと同じような数です。ただし、100ヶ所というのは居住地名だけで、自然地名も100以上あるので、合計すると「狸・狢」は確実に上回り、「猫」に匹敵するだろうと思います。

hmt さんが引用されたサイトでは、蛇窪を改称すべき理由として
「由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情ヨリスルモ亦此ノ都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス」
とありますが、これだけ蛇を名乗る地名があるのですから、「蛇ヲ嫌忌スル国民性」とは必ずしも言えないだろうと思います。また、「恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク」という表現は、戦前の1932年(昭和7)だから許されたので、いまこのような文章を公表すれば、世論から袋だたきにあうでしょう。このサイトでは、「結果的に合理的だったことや長年使用される間に愛着が出てきたということになるだろう」と、「蛇窪」から現在の「豊町」、「二葉]への改称を肯定していますが、「蛇」地名の残存状況を考えれば、「蛇窪」を残しても特に問題なかったのではないかと思えます。

上記地名での「蛇」の読みは多くが「へび」または「じゃ」ですが、御所市蛇穴(さらぎ)は難読です。この地名については、こちらのサイトで柳田国男を引用しながら起源を説明してあります(確か、谷川健一氏も同じようなことを書いていたと思います)。

[77015] hmt さん
上記のように書いてから更に調べたら、蛇窪付近の地形地図 がありました。(中略)
oki さんが指摘された「谷戸」は、こちらだったことがわかりました。

私が指摘したかった谷戸はそこですが、かなり浅い谷で、分かりにくいのは事実。現在の地形図では痕跡すら見分けられません。一方、「今昔マップ」には50mのDEMから作成した彩色段彩図が付属しているので、明治42年の2万分の1地形図を見ると、立会川の谷から北側に向けて谷戸が伸びているのを確認できます。
[77010] 2010年 12月 11日(土)03:17:09oki さん
よしなしごと
今日(もはや昨日ですが)、奈良県まで出張に行ったのですが、途中、新幹線で多摩川を渡っているときに、「考えたら大きな川をたくさん越えるな」と思い、渡った大河を順に書き連ねると次のようになりました。
荒川、隅田川(渡ったのではなく、くぐったのですが)、多摩川、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、浜名湖(番外)、矢作川、木曽川、長良川、揖斐川、瀬田川、桂川、淀川、大和川、木津川。そのほか、中小河川、水路等は数知れず。
ま、だからどうだと言うことは別になく、川がたくさんあって、そのそばに街ができているのを再確認しただけですが。

川に注意しながら窓外を眺めていると、琵琶湖の東側で次のような看板を目にしました。
「愛荘町 ここはどこの県?」
いったい何のことかいな、と思っったのですが、しばらくして「愛知中学校」、「愛知高校」の大きな看板と、それぞれに添えられた「えち」という読仮名を見て納得しました。看板の「愛荘町」はもともと「愛知川町」だったのでしょう。確かに、滋賀県民(とここの常連)以外で、愛知高校を「えちこうこう」と読んでくれる人はほとんどいないでしょうからね(古いグーグルマップを見ていると、「愛知川図書館」に「Aichigawa Library」という英語の読みが当てられていました)。

渡った川を見れば分かるように、新幹線で新大阪まで行き、大和路快速で奈良県に入ったのですが、大阪(梅田の方がしっくりくるが)から乗ったので環状線の海側を半周して天王寺から関西本線を経由しています。途中、西九条の駅に停車したとき、反対側の車線に極彩色の電車が停まっていて、「なんじゃこれは」と思っていると、桜島線(いまは「ゆめ咲線」と呼ぶようです)を走るUSJ行きの電車でした。ディズニーリゾート線の、いかにも「リゾートムード盛り上げ」という列車はあまり好きではないのですが、USJ電車の派手というよりケバさには「ついていけんな」という感覚を持ちました。
で、西九条を出てしばらく進むと、大阪市立の「咲くやこの花中学・高校」という看板が。発想は分かるのですが、東京都が「いざ言問わん高校」をつくるかというと、大江戸線を命名した「あの」都知事でもそこまではやらないでしょう。
私はもともと、文化的には関西の影響下で育った人間で、いわゆる大阪的な発想や言動にはあまり違和感を感じないのですが、上の2件には「ついていけんな」という感想です。東京生活が長くなって、知らず知らずのうちに感性が染められているのかしらん。

しばらく前に、朝日放送の人気番組である「探偵ナイトスクープ」を東京MXで見ていたときに、奈良県に住んでいて堺市に通っている人が、電車を使うより大和川を舟で下るほうが早いのではないかと考え、実行してみたというネタがありました。確かゴムボートを使って川下りに挑んだと思いますが、川の水深が浅すぎて至るところで座礁し、容易に前進できず、結局職場に着いたのは夕方だった、とうオチだった思います。今日、阪奈県境の地峡部で大和川の流れを観察していたところでは、確かに水深は非常に浅く、とても舟で下れそうにないということを改めて確認しました。

ということで、東京から奈良県王寺に着くまで、まったく退屈することなく過ごすことができました。こういうとき、地理好きというのは得ですね(単なる暇人という声もあろうが)。


川の話のついでに。
[77004] hmt さん
おそらく目黒川水系の蛇行する窪地に由来する「蛇窪」の地名は
蛇窪が位置していたのは、目黒川ではなく立会川の谷だと思います。立会川は、かつての碑文谷村当たりに源流があり、上下蛇窪村の南を東流、現在の大井町駅のあたりで流路を南に転じて現在のように立会川駅の東側で海に注いでいたようです。
また、「窪」の地名は平地にできた窪地ではなく、両側の尾根から見て低くなっているところ、つまり谷地を意味するのではないかと思います。明治42年側図の2万分の一地形図を見ると、上蛇窪と下蛇窪の間には、立会川から北に伸びる谷地があり、その最奥部に当たる現在の戸越公園駅の近辺には、「谷戸」という小字があります。おそらく、蛇「窪」とはこの谷戸地形を表す地名だろうと思います。

ところで、この種の調べ物をするのに格好のツールに「今昔マップ」があります。その名の通り、首都圏、中京圏、関西圏の3地域について、明治(または大正)時代から現在までの地形図を閲覧できるようにした優れものです。簡易GIS「MANDARA」を開発した埼玉大学の谷謙二氏の作品で、こちらからDLできます。地図イメージの多くはネット上からDLするようになっているので、データを揃えるまでに少し時間がかかりますが、すべて完備すると非常に使いでがあります。
もしご存じでなければ、試してみてください。
[76927] 2010年 11月 29日(月)10:45:51【1】oki さん
渡良瀬川旧河道に関する若干の考察
皆様楽しいオフ会を過ごされたようで、うらやましい限りです。当方はオフ会当日も、いつもの如く仕事および家事に追いまくられていたのですが。
さて、話題になっている3県境について、思いついたことがあるので書き込んでおきます。
旧下宮村、海老瀬村、小野袋村の境界について、現在の県境が本当に渡良瀬川旧河道の中央部だったのかという疑問が呈されているようで、以下の[76876] hmt さん の意見に集約されていると思います。

そこで改めて立て札の写真を見ると、合流点の右上にある「基点」標石を境に、右端部(東側)と水路側とは植生が異なっています。現地の観察でも、昔の渡良瀬川の跡とおぼしき東側は荒地状態で、現在の水路周辺の土手を挟んで西の群馬県側は田んぼ。
どうやら地表の姿が変わっているこの線が、栃木県との境である渡良瀬川旧河道の右岸で、「群馬県」の建てた標石は、その延長上にあるようです。
(中略)
渡良瀬川の真ん中が県境だったのならば、右岸に設置された「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないかと考えています。

hmt さんは、このあたりの荒地を旧河道と考え、現在の県境が旧河道の西端ないし南端に引かれている点に疑問を持たれているのだと思います。

そこで、旧帝国陸軍が撮影した1941年時点の空中写真をご覧ください。白黒で見にくい写真ですが、注目していただきたいのは旧河道と土手沿いの道路との間、旧下宮村の飛地にある1件の農家です。この農家の敷地はかなり広く、その東西方向の幅が、すぐ西側を通る渡良瀬川旧河道とほぼ同じであることが分かります。
次に、MasAkaさんが紹介された1974年の空中写真。ここでも、件の農家の存在ははっきりと分かります。そして、渡良瀬川旧河道の幅が農家の敷地幅とほぼ同じであるのも同様です。しかし、この写真では、旧河道の中央部に線が引かれ(おそらく用水路でしょう)、2つの地域に分けられつつあるように見受けられます。また、旧河道の存在は、農家の西側(下宮村と海老瀬村との境界)では明確ですが、南側(下宮村と小野袋村との境界)でははっきり分からなくなっています。下宮村側の旧河道ははっきり見分けられますが、小野袋側は不明瞭です。

以上を踏まえた上で、改めて現在の空中写真を眺めてください。例の農家は以前と同じように存在します。しかし渡良瀬川旧河道とされる荒地の幅が、農家の敷地幅の半分程度しかないようです。すると、hmt さんが旧河道と考えられた荒地は、実は旧河道の栃木県側の部分ではないかと思われます。
海老瀬村側では、土地改良工事でも行われたようで、境界のすぐ西側に南北方向の直線道路が伸び、1941年や74年の空中写真に見られた河道跡の痕跡もありません。小野袋側の方は、以前から河道跡は不明瞭です。ということで、現在はっきりと認められる河道跡は栃木県側だけになってしまっていると考えられます。したがって、河道跡の西端ないし南端に引かれた現在の県境線は、まさに渡良瀬川旧河道の中心線ではないか、と思われます。

現地調査にも行っていない人間が、空中写真だけをもとに外野から口を出すのははなはだ心苦しいのですが、このような考え方もあるということで、ご検討の参考資料にしてください。

※「宮中」写真を「空中」写真に訂正(「宮中」写真だと、やんごとない方々のパパラッチ写真のようで)
[76809] 2010年 11月 18日(木)18:12:09oki さん
町村制施行時の千葉県県令
むっくん さん宛ての業務連絡です。

居住地域周辺についての調べ物をしていて、千葉県(正確には千葉県立図書館)が明治8年~32年の県報をウェブ上に公開しているのを見つけました。
その中に、町村制施行時の県令がありました。明治22年3月分の県報のうち、35ページが該当部分です。
町村制の根拠が明治22年3月27日付県令19号、町村の廃置分合が同20号になると思います。具体的な配置分合の状況は38ページ以下に記載されています。

[75042] の「市制町村制施行時の府令県令(ver.4)」では、千葉県分は未発見になっていたので、とりあえずご報告しておきます。
[76729] 2010年 11月 10日(水)01:40:49【1】oki さん
あなうなぎ
[76725] hmtさん
[76724] おがちゃん さん
[76721] Issie さん

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

「妹(いも)」の原義は、男性の側から年齢の上下に関係なく姉妹を呼ぶ語で、英語のsisterと同じです。転じて、結婚相手や恋人を意味するようになっています。「いもうと」はhmtさんのご指摘通り「いもひと」が変化したもので、もともとは姉妹を意味していたものが、年下の妹だけに限定されていったようです。
「妹」の対義語が「兄(せ)」で、こちらも女性が兄弟を呼ぶ際に用いるのが原義で、夫や恋人に転じたと考えられます。「夫」、「背」の字も用います。
したがって、「妹兄(いもせ)」は兄妹、姉弟、あるいは兄弟姉妹の意に用いていたようですが、「妹背(いもせ)」となると、Issie さんの仰るとおり、もっぱら夫婦もしくはそれに準じる男女を意味します。

これだけなら良いのですが、歴史上のどこかで妹背の音に逆転が起こったようで、妹を「せ」と呼ぶ場合が生じています。備中国で発生した現象らしく、「妹尾」を「せのお」と読み(岡山市南区)また「妹(せ)」(倉敷市)もあります。倉敷市の「妹」は和名抄の「呉妹(くれせ)郷」の遺称地とされており(備中呉妹駅があります)、かなり早い段階で「いも」→「せ」の逆転が起こったようです(「背」を「いも」と読む例はないようですが)。これ以外に「妹」を「せ」と読む地名としては、北秋田市妹尾館(せおだて)があります。なぜ、備中から遠く離れた秋田の地に「妹(せ)」の音があるのかは不明です。
(「兄弟姉妹」コレクションで、「倉敷市妹山(いもうとやま)」とされているのは、「せやま」だろうと思います。)

さらに、これが日本語の摩訶不思議なところですが、「妹」は本来「いも」ですから、「妹尾」を「せのお」と読まない地名も当然存在します。私が確認しているのは、次の2つ。
和歌山県日高郡日高川町上初湯川妹尾(いもお)
鹿児島県薩摩川内市高城町妹尾(いものお)
よろしければ、地名コレクションに追加してください(読みは「地図閲覧サービス」のものなので、正しいという保証はありませんが)。

以下は四方赤良の狂歌
あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがすとは

鰻→山の芋→妹→背→裂く→焦がすと繋ぐ、達意洒脱の芸です。

※書き込もうとしたら、Issie さんの[76727]が先にあったのですが、ま、いいかと。
[76694] 2010年 11月 7日(日)11:09:39oki さん
寒田 西寒田 西寒多
[76624] オーナー グリグリさん

臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田
読みが「ささむた」と面白いですね。これはもちろん採用なんですが、大分市寒田(そうだ)とは関連があるのでしょうか? 少し離れていて読みが違いますが偶然では片付けられない何かがありそうです。

面白そうなので調べてみたら、意外な事実を発見しました。
まず先に、臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町の西寒田について。
この地名は、1975年(明治8)に5つの近世村が合併してできた村名に由来しています。その5村とは、豊後国大野郡の寒田(そうだ)村、細口村、松原村、御霊園村、鍋田村の5つ。西寒田の村名は、寒田村にある西寒田(ささむた)神社に由来しています(西寒多神社とも表記する)。
市区町村変遷情報によれば、西寒田村は明治大合併で、鳥岳村、千塚村など大野郡の6村と一緒に戸上村を構成しました。戸上村は1955年(昭和30)に犬飼町、長谷村と新設合併して新たな犬飼町となりますが、1957年(昭和32)、一部が大野郡野津町に境界変更されます。地形図を見ると、野津町に編入されたのは元の御霊園村、鍋田村の部分のようです。
寒田、細口、松原は犬飼町に残り、結果として臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田の分断地名が生じました。これ自体はよくあることです。なお、地形図から判断すると、松原は松田という集落名になっているようです。また、寒田は地図上で松田の北北東にある神社記号(これが西寒田神社です)の周りにあったはずですが、地図上に集落名が記載されておらず、無住地になっているのかもしれません。

次に、グリグリさんが指摘された大分市寒田ですが、なんと、こちらにも西寒多神社があります(読みは「ささむた」で同じです)。おっしゃる通り、この二つは偶然では片付けられません。二つの地点を結びつける説があります。
豊後大野市の西寒田神社の社伝によると、ここは延喜式内社の大野郡西寒多神社であり、応永10年(1403)もしくは応永15年(1408)に豊後国守護大友親世が大分郡植田(わさだ)に分祀し、その地を寒田と名付けた(これが大分市寒田)、というものです。
この説が成り立てば、大分市の寒田は豊後大野市から移った地名と言えるのですが、実際には延喜式内社である西寒多神社は大野郡ではなく大分郡にあったというのが通説で、そうであれば、大分市寒田の西寒多神社の方が先にあったのかもしれません。こちらの社伝では、応神天皇9年(278)に西寒多山(神社の南にあり、現在は本宮山)上に創祀され、応永15年に大友親世が現在地に遷座した、ということになっています。
どちらの説が正しいかは分かりませんが、「応永15年に大友親世が現在地に遷座」という点では一致しています。また、神社そのものが古い歴史を持つことも確かで、「日本三代実録」には貞観11年(869)に、豊後国の西寒多神を従五位下に叙したという記事があります。
いずれにせよ、寒田というあまり見られない地名と、ほかには存在しない西寒多(田)神社とがセットで存在するわけで、豊後大野市の寒田(西寒田)と大分市の寒田が無関係なはずはない、と考えられます。

なお、西寒田神社を紹介したサイトで、所在地が臼杵市野津町西寒田神尾392となっていますが、おそらくこれは間違いで、西寒田神社は豊後大野市側にあるはずです。
[76678] 2010年 11月 6日(土)15:24:41oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾の二
[76674]の那珂市が既出のため、再答します。

問三:姫路市

[76677] maki さん
問三の那珂市は[76671]で今川焼さんが解答されています。

わざわざご指摘いただき、まことに有難うございます。
[76674] 2010年 11月 6日(土)10:24:58oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾
問三:那珂市

これも、準備はしてあるのに気付かなかった口
[76668] 2010年 11月 5日(金)22:23:51oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の玖
問九:西東京市

リストは準備しておいたのに
[76667] 2010年 11月 5日(金)21:19:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の捌
問六:阿波市

個人的には、これしかない、という回答です
[76662] 2010年 11月 5日(金)18:07:54oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の漆
連投失礼します

問五:日立市

江戸川区民としては、せめて第一ヒントで答えたかったところ
[76661] 2010年 11月 5日(金)17:19:25oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の陸
分かった問題から答えていこう

問一:別府市
[76637] 2010年 11月 3日(水)22:17:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の伍
とりあえず、最初に見つけた市で

問八:釜石市

案の定、問十を間違えたので完答権をなくしてしまった。
ま、その前にほかの問題も正答できるかどうか危ないわけだが。
[76610] 2010年 11月 3日(水)00:49:28oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆

問十:夕張市

これが最後の一つだと思うのですが、いまいち不安も


[76605] Issie さん
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。三木氏は1907年(明治40)の生まれなので、この発音を保持したのは明治生まれの世代までではないでしょうか。
一方、三木さんは「しぇんしぇい(先生)」という言い方もよくしていました。こちらはまだ生きていて、私でも使うことがありますね。「今回の十番勝負はじぇんじぇん分かりません」などと。
[76601] 2010年 11月 2日(火)22:30:51oki さん
自治体越地名 ブービー賞
香川県で2件発見しました。

観音寺市本大町/三豊市豊中町本山乙・本山甲
観音寺市本大(もとだい)町と三豊市豊中町本山乙は江戸時代の本大村(もとのおおむら)、本山甲は寺家村です。この地域は、中世には周辺を含めて本山庄に属しており、本大村は江戸時代初期に本山大村(もとやまおおむら)と呼ばれていました。
本大村は財田川の両岸に広がる村で、明治合併時に、川の右岸(東側)が寺家村と合併して本山村になり、左岸地域は吉岡村などとともに一谷村を構成しました。本山甲・乙は、本山村の2つの大字を甲・乙と名付けたのだと思います。本大町と本山乙はもともと本大村で「本」の字を共有するので、分断地名と考えていいと思います。本山甲まで含めるかどうかは、判断をお任せします。

丸亀市飯野町東分/綾歌郡宇多津町大字東分
江戸時代は鵜足郡東分村です。明治合併時に西分村、東二村とともに飯野村を構成しましたが、1955年(昭和30)に飯野村が丸亀市に編入された際、大字東分の一部が宇多津町に編入されました。さらに1959年に、宇多津町東分の一部が丸亀市に編入されています。

これで空白県は鳥取だけに。
[76579] 2010年 11月 1日(月)01:50:04oki さん
自治体越え地名の検討をお願いします
十番勝負がまったく解けないので(1週間以上かかって解答がたったの2問。やはり才能の問題でしょう)、別の話題を。

[76567] オーナー グリグリ さん
[75921]で更新して以来、滞っていた自治体越えの地名を更新しました。

更新したすぐのところを申し訳ないのですが、以下の自治体越え地名について、ご検討をお願いします。

まずは現状で登録のない徳島県から2件。
徳島市国府町桜間/名西郡石井町高川原桜間
板野郡上板町第十新田/名西郡石井町藍畑第十

石井町の桜間、第十とも小字の扱いですが、高川原、藍畑という明治合併村が大字を構成しているためで、両方とも江戸時代には独立した村でした。
桜間は古代からある地名で、本来は阿波国名方郡桜間郷でしたが、寛平八年(896)、名方郡が名東・名西の2郡に分割されたとき、郡境に位置していた桜間郷も両郡に分かれました。以来幾星霜、江戸時代は名東郡桜間村と名西郡桜間村、明治以降の町村合併でも、片方は名東郡国府町から徳島市、他方は名西郡高川原村から石井町と、常に自治体を異にし、1100年にわたって分裂状態が続いているという「自治体越え地名の権化」ともいうべき地名です。
第十新田はもともと第十村と一体でしたが、洪水で吉野川の河道が現在の流れに変わったときに本村から切り離されました(地図を縮小すると、吉野川の北岸に第十新田の本体があります)。ただ、第十新田のごく一部が南岸に取り残され、本村の第十と隣接しています。

次に、「大物?」の(都)県境を2件。
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)
埼玉県吉川市大字三輪野江/千葉県流山市三輪野山

堀江町は江戸川に沿ってわずかな面積が残るだけなので、地図を拡大しないと分からないかもしれません。本来は、西側に広がる南葛西1~7丁目の全域が堀江町だったのですが、住居表示によって変えられています。
この地域が堀江を名乗っていたのは、浦安市堀江の飛地であったから。江戸時代、下総国葛飾郡堀江村は江戸川左岸の河口に位置する村で、目の前にできた中州を自村に組み込み、堀江新田を開発していました。堀江新田は、明治大合併で堀江村が当代島・猫実村と一緒に浦安村を形成してからも大字堀江の一部でしたが、1895年(明治28)の「東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法」で江戸川両岸の飛地が整理されたとき、南葛飾郡葛西村に編入されています。また、現在の堀江町の対岸は浦安市富士見(1~5丁目)ですが、これは住居表示後の地名で、元は大字堀江の一部です。したがって、住居表示前は江戸川を挟んで堀江が向かい合っていたはずです。

江戸川両岸の「自治体越え地名」は、上記の堀江を除くと江戸川の河道開削に伴うものが多いのですが、吉川市の大字三輪野江と流山市三輪野山は別の起源を持っています。吉川の三輪野江は、江戸時代初期の開発時に、対岸三輪野山に鎮座する三輪明神を移し祀ったために三輪野江の村名を名付けたことが、新編武蔵風土記稿に書かれています。神社を機縁として、共通の名前が江戸川両岸に存在するわけです。
もっとも、三輪野山の三輪明神は現在「茂侶神社」と改名しているので、地図を見ただけでは気づかないかもしれません。
[76574] 2010年 10月 31日(日)23:57:38oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の参
誤答したくないので手堅く

問四:国分寺市

前回の回答から中5日。何をやっておるのやら
[76429] 2010年 10月 23日(土)21:34:40oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の弐
想定解数もチェックしたので、間違いないと思います。
四国が売り切れているので。

問七:淡路市

今回の目標は、できるだけ多く正答すること。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示