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okiさんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[77106]2010年12月26日
oki

[77106] 2010年 12月 26日(日)03:31:44oki さん
利根川東遷以前の下総国図
[77091] hmt さん 利根川と国境・県境との関係(10)

利根川と国境・県境との関係シリーズについては、興味をもって読んでおりますので、今後も継続していただくよう、お願いいたします。
それに関連して、上記書き込みでhmt さんが引用された土木学会のサイトに、非常に面白い絵図が掲載されており、利根川東遷以前の利根川流域の状況が推測できるので、それについてちょっとご紹介しておきます。

紹介したい絵図は、上記サイトの右下に「江戸初期 下総之国図」(船橋市西図書館蔵)となっているものですが、サイト掲載のままでは解像度が低すぎて何を示しているかよく分かりません。
そこで最初に、この絵図が何を示しているか、簡単に説明しておきます。絵図は上が北、右が東で、現在の地図と同じです。絵図のもっとも左上(北西側)にある□印が古河城で、その西を流れるのは渡良瀬川(思川)です。渡良瀬川(および権現堂川)沿いに古河城の下(南)に位置する□印が栗橋城、そのすぐ東(右)にあるのが関宿城です。ただし、この栗橋城があったのは、権現堂川西岸に位置する現在の栗橋ではなく、東岸の元栗橋(現五霞町)です。関宿城のはるか下にある□印は葛飾区青砥にあった葛西城、その斜め右(東北東)に位置するのが松戸の大谷口にあった小金城です。
栗橋城、葛西城、小金城などは、秀吉の小田原攻めの際に落城し、そのまま廃城になったはずですから、この絵図は江戸時代初期というより、後北条氏時代の下総を描いたものではないかと思います。

この絵図で、利根川は次のように流れています。まず、北西方向から流れてきて二派に分かれます。東流する細い流れはおそらく合の川で、渡良瀬川と合流しています。南東流は浅間川筋と見られ、さらに二分されていますが、東派した川は権現堂川と合流、関宿方面へ続いています。南東方向への流れが利根川の本流で、猿ヶ股(現在の葛飾区水元)で二分し、葛西城の東を通って江戸湾に注ぐ西側の流れが江戸時代の中川です。その一部(古隅田川)はさらに西派して隅田川に流入しています。猿ヶ股から東へ行く派川は当時の太日川で、現在の江戸川下流部をなす河川だと考えられます。絵図からは、(古)隅田川以東が下総国に属していることがはっきりと分かります。

この絵図には、東遷以前の利根川水系について、注目すべき点がいくつか示されています。その中で最大のものが、利根川水系と常陸川水系の連絡を明示していることです。少し分かりにくいですが、栗橋城の南を通る権現堂川は、関宿城の西側から北側を迂回し、東側の常陸川につながっています。これは近世の逆川の川筋そのもので、この絵図が正しいとすれば、後北条氏の時代に、逆川に当たる水路が既に存在したことになります。
栗橋城主北条氏照の書状により、天正4年(1576)の段階で葛西~栗橋間および佐倉~関宿間の舟運があったことが判明しているので、栗橋~関宿間が上記の水路を通じて連絡していたとすれば、江戸湾と佐倉間(さらには銚子まで)の舟運も可能だったと考えられます。

もう一つの注目点は、庄内古川に相当する河川が存在しないことです。庄内古川(この時点では庄内川ですが)は、関宿城の西側で権現堂川から分派、当時の利根川本流と並行する形で南流し、猿ヶ股から東派した太日川と合流しているはずです。しかしこの絵図では、太日川に流れ込んでいる川はありますが、権現堂川には達していません。逆に権現堂川から南流する川は、途中で利根川本流に合流してしまっています。
この南流河川は、hmt さんが
権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます
と書かれていた川だと思います。この絵図が正しいとすると、この時点では庄内川がなく、渡良瀬川の水も利根川本流に合流していたことになります。
迅速側図を見ると、上記の南流河川の東側に、南へ向かう広い河道跡が認められ、それは庄内古川の川筋につながっています。ひょっとすると、この絵図の時点では閉塞していた河道を改めて開き、利根川本流に集中する水流を太日川方面に流そうとしたものの、うまくいかず、改めて江戸川を開削したのかもしれません。

また、利根川水系と常陸川水系との水運が既に開かれていたとすれば、新川通や赤堀川を開削した主目的は、特に洪水時に、利根川および渡良瀬川の水を常陸川に流すことにあったと思われます。それにしては赤堀川の川幅が狭すぎ、放水路の役割を果たさなかったのではないか、とも思われるのですが、この点は今後考えてみることにします。

何にしろ、赤堀川も新川通もない時代の珍しい地図ですので、参考のために、ご覧になってください。

※ 後で捜したところ、こちらに、もう少し詳しい地図が掲載されていました。城名などの注記もあるので、より見やすいと思います。また、上記した北条氏照書状の翻文も記載されているので、そちらもご覧ください。


[77101] hmt さん  利根川と国境・県境との関係(11)中川
現在の住居は江戸川のすぐそばで、新中川辺りにもよく行きます。なので、「中川」に関する記述も、とても興味深く読みました。今後の連載は、上武国境の方に遡るのでしょうが、江戸川についても触れていただければと思います。
ご参考のために、野田市立興風会図書館にある「江戸川縁領々地図」と題された地図をリンクしておきます。幕末期(1845年以後)のものですが、江戸川沿岸地域の地図として非常に精密で、流頭部の棒出しも明瞭に描写されています。


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