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okiさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[76668]2010年11月5日
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[76667]2010年11月5日
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[76662]2010年11月5日
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[76661]2010年11月5日
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[76637]2010年11月3日
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[76610]2010年11月3日
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[76601]2010年11月2日
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[76579]2010年11月1日
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[76574]2010年10月31日
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[76429]2010年10月23日
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[76422]2010年10月23日
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[74769]2010年4月8日
oki
[74636]2010年4月3日
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[74632]2010年4月3日
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[74627]2010年4月3日
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[74624]2010年4月3日
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[74550]2010年4月3日
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[74509]2010年4月1日
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[74482]2010年3月28日
oki
[74430]2010年3月24日
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[74368]2010年3月17日
oki
[74321]2010年3月11日
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[74277]2010年3月7日
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[74209]2010年2月23日
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[74206]2010年2月23日
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[74175]2010年2月18日
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[74154]2010年2月13日
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[74139]2010年2月11日
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[74023]2010年1月23日
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[73936]2010年1月15日
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[76668] 2010年 11月 5日(金)22:23:51oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の玖
問九:西東京市

リストは準備しておいたのに
[76667] 2010年 11月 5日(金)21:19:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の捌
問六:阿波市

個人的には、これしかない、という回答です
[76662] 2010年 11月 5日(金)18:07:54oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の漆
連投失礼します

問五:日立市

江戸川区民としては、せめて第一ヒントで答えたかったところ
[76661] 2010年 11月 5日(金)17:19:25oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の陸
分かった問題から答えていこう

問一:別府市
[76637] 2010年 11月 3日(水)22:17:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の伍
とりあえず、最初に見つけた市で

問八:釜石市

案の定、問十を間違えたので完答権をなくしてしまった。
ま、その前にほかの問題も正答できるかどうか危ないわけだが。
[76610] 2010年 11月 3日(水)00:49:28oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆

問十:夕張市

これが最後の一つだと思うのですが、いまいち不安も


[76605] Issie さん
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。三木氏は1907年(明治40)の生まれなので、この発音を保持したのは明治生まれの世代までではないでしょうか。
一方、三木さんは「しぇんしぇい(先生)」という言い方もよくしていました。こちらはまだ生きていて、私でも使うことがありますね。「今回の十番勝負はじぇんじぇん分かりません」などと。
[76601] 2010年 11月 2日(火)22:30:51oki さん
自治体越地名 ブービー賞
香川県で2件発見しました。

観音寺市本大町/三豊市豊中町本山乙・本山甲
観音寺市本大(もとだい)町と三豊市豊中町本山乙は江戸時代の本大村(もとのおおむら)、本山甲は寺家村です。この地域は、中世には周辺を含めて本山庄に属しており、本大村は江戸時代初期に本山大村(もとやまおおむら)と呼ばれていました。
本大村は財田川の両岸に広がる村で、明治合併時に、川の右岸(東側)が寺家村と合併して本山村になり、左岸地域は吉岡村などとともに一谷村を構成しました。本山甲・乙は、本山村の2つの大字を甲・乙と名付けたのだと思います。本大町と本山乙はもともと本大村で「本」の字を共有するので、分断地名と考えていいと思います。本山甲まで含めるかどうかは、判断をお任せします。

丸亀市飯野町東分/綾歌郡宇多津町大字東分
江戸時代は鵜足郡東分村です。明治合併時に西分村、東二村とともに飯野村を構成しましたが、1955年(昭和30)に飯野村が丸亀市に編入された際、大字東分の一部が宇多津町に編入されました。さらに1959年に、宇多津町東分の一部が丸亀市に編入されています。

これで空白県は鳥取だけに。
[76579] 2010年 11月 1日(月)01:50:04oki さん
自治体越え地名の検討をお願いします
十番勝負がまったく解けないので(1週間以上かかって解答がたったの2問。やはり才能の問題でしょう)、別の話題を。

[76567] オーナー グリグリ さん
[75921]で更新して以来、滞っていた自治体越えの地名を更新しました。

更新したすぐのところを申し訳ないのですが、以下の自治体越え地名について、ご検討をお願いします。

まずは現状で登録のない徳島県から2件。
徳島市国府町桜間/名西郡石井町高川原桜間
板野郡上板町第十新田/名西郡石井町藍畑第十

石井町の桜間、第十とも小字の扱いですが、高川原、藍畑という明治合併村が大字を構成しているためで、両方とも江戸時代には独立した村でした。
桜間は古代からある地名で、本来は阿波国名方郡桜間郷でしたが、寛平八年(896)、名方郡が名東・名西の2郡に分割されたとき、郡境に位置していた桜間郷も両郡に分かれました。以来幾星霜、江戸時代は名東郡桜間村と名西郡桜間村、明治以降の町村合併でも、片方は名東郡国府町から徳島市、他方は名西郡高川原村から石井町と、常に自治体を異にし、1100年にわたって分裂状態が続いているという「自治体越え地名の権化」ともいうべき地名です。
第十新田はもともと第十村と一体でしたが、洪水で吉野川の河道が現在の流れに変わったときに本村から切り離されました(地図を縮小すると、吉野川の北岸に第十新田の本体があります)。ただ、第十新田のごく一部が南岸に取り残され、本村の第十と隣接しています。

次に、「大物?」の(都)県境を2件。
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)
埼玉県吉川市大字三輪野江/千葉県流山市三輪野山

堀江町は江戸川に沿ってわずかな面積が残るだけなので、地図を拡大しないと分からないかもしれません。本来は、西側に広がる南葛西1~7丁目の全域が堀江町だったのですが、住居表示によって変えられています。
この地域が堀江を名乗っていたのは、浦安市堀江の飛地であったから。江戸時代、下総国葛飾郡堀江村は江戸川左岸の河口に位置する村で、目の前にできた中州を自村に組み込み、堀江新田を開発していました。堀江新田は、明治大合併で堀江村が当代島・猫実村と一緒に浦安村を形成してからも大字堀江の一部でしたが、1895年(明治28)の「東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法」で江戸川両岸の飛地が整理されたとき、南葛飾郡葛西村に編入されています。また、現在の堀江町の対岸は浦安市富士見(1~5丁目)ですが、これは住居表示後の地名で、元は大字堀江の一部です。したがって、住居表示前は江戸川を挟んで堀江が向かい合っていたはずです。

江戸川両岸の「自治体越え地名」は、上記の堀江を除くと江戸川の河道開削に伴うものが多いのですが、吉川市の大字三輪野江と流山市三輪野山は別の起源を持っています。吉川の三輪野江は、江戸時代初期の開発時に、対岸三輪野山に鎮座する三輪明神を移し祀ったために三輪野江の村名を名付けたことが、新編武蔵風土記稿に書かれています。神社を機縁として、共通の名前が江戸川両岸に存在するわけです。
もっとも、三輪野山の三輪明神は現在「茂侶神社」と改名しているので、地図を見ただけでは気づかないかもしれません。
[76574] 2010年 10月 31日(日)23:57:38oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の参
誤答したくないので手堅く

問四:国分寺市

前回の回答から中5日。何をやっておるのやら
[76429] 2010年 10月 23日(土)21:34:40oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の弐
想定解数もチェックしたので、間違いないと思います。
四国が売り切れているので。

問七:淡路市

今回の目標は、できるだけ多く正答すること。
[76422] 2010年 10月 23日(土)19:35:14oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の壱
ご無沙汰しております。

問四:大垣市

小千谷市が?だったのですが、とりあえず自分を納得させました。
[74769] 2010年 4月 8日(木)01:50:43oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の伍
問二:小松市

今日は久しぶりに都心に行き、その車中で分りました。
2問ほど失敗したので、想定解を数えてから解答することにします。左にないと駄目、と理解したのですが・・・
これで、完答の権利は確保したはずですが、残り7問なんですよね。先は遠い

久しぶりに良い機嫌で電車に乗ったので、乗り過ごして本八幡まで行ってしまいました。タクシーで篠崎駅まで戻ったのですが、運転手さんに「もとはち」って言いますかと確認したら、「聞いたことがない」とのことでした。江戸川と荒川の間でのみ通用する略語ではないかという気もします。
[74636] 2010年 4月 3日(土)14:41:38oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の肆
問三:茂原市

想定解数が若干合わないのですが。
これも安全を見込んで。
[74632] 2010年 4月 3日(土)14:14:20oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の参
問九:四国中央市

お題には合う。非該当市も説明がつく。
ただ、想定解のリストアップが大変なので、安全そうなところで見切り発車。
[74627] 2010年 4月 3日(土)13:22:05oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の貳
問六:小松島市

想定解ピッタリ。
[74624] 2010年 4月 3日(土)12:59:40oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の壱
問七:鳴門市

今回も参戦します。目標は完答。
[74550] 2010年 4月 3日(土)03:04:58oki さん
リニューアルで困ったが2件
Yahoo!地図の件:

[74528] 2010 年 4 月 1 日 (木) 23:49:21 EMM さん
かなり困るのは、「大字の境界の表示がすべて無くなってしまったこと」。
町名系のコレクションに関してはかなり深刻な情況です。

[74535] 2010 年 4 月 2 日 (金) 00:50:33【2】 k-ace さん
地名コレクション担当者である私としては、今回の変更は、エイプリルフールのネタと思いたいのですが、ここまで壮大なエイプリルフールのネタはまずないでしょうから、正直残念です。嗚呼、嘘だと思いたい、けど事実。

[74543] 2010 年 4 月 2 日 (金) 19:46:17 油天神山 さん
Yahoo!地図のリニューアル、参りましたねえ。私も町名系コレクションを多数抱えてるもので、今回の件は切実です。

私は別にコレクションを抱えているわけではありませんが、今回のYahoo!地図のリニューアルには参りました。近世村は概ね現在の大字に継承されているので、Yahoo!地図を参考にするとかつての近世村の範囲が分ったのですが、それが不可能になるからです。

とりあえず、マピオンのアンケートで、「マピオンを利用しているのは町丁目・大字範囲の塗り分けてを行なっているからなので、今後も続けてほしい」旨の回答をしておきました。お時間のある方はご協力下さい。
Yahooにも、もとの形式の地図に戻すよう、メールで要請をしましょうか?


近代デジタルライブラリの件:
[74545] 2010 年 4 月 2 日 (金) 21:54:43 88 さん
確かに今まで拡大縮小は不便でしたから、大きな改善ですね。しかし、URLの変更の件・・・私も手元の資料整理では、今後のため(投稿時のリンク設定の便宜のため)にも、URLもあわせて保存するようにしていたので、これは一大事です。

[74542] 2010 年 4 月 2 日 (金) 18:23:12 むっくん さん
国立国会図書館近代デジタルライブラリも4月1日にリニューアルされて拡大縮小がマウスで出来るようになり、かなり便利になりました。またこれに伴い、書籍のURLリンク先が今までとすべて変わってしまったというのも一大出来事です。

近代デジタルライブラリのURLは私も結構ため込んでいるので、これを変更するのは大変です。
リニューアル前後のURLを検証してみたのですが、リニューアル前のURLを、リニューアル後のそれに機械的に変換するのは不可能なようで、一つ一つ手作業でやるしかないようです。
ま、やるとしても十番勝負の後になるでしょうが。
[74509] 2010年 4月 1日(木)01:00:02oki さん
「下ノ関」に関する資料
[74498] hmt さん
[74499] hmt さん  「下ノ関市」の謎

実際問題として、「下ノ関市」が存在したのはごく短期間だったのでないかと推測します。
だから下関市民は明治35年6月から「下関市」になったと信じている。
この状況では、「ノ」が取れて「下関市」になった日付を明らかにすることは、新発見の有力な資料がない限り困難でしょう。

「下ノ関」の名称が記載された資料をご紹介します。税務署の名称と管轄地域に関する勅令、およびその関連資料計4件で、国立公文書館のデジタルアーカイブで見つけました。
資料名称は次の通り。

1-A:
1902(明治35)年1月16日付「明治三十五年勅令第二号」
同年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更
1-B:
1901(明治34)年12月28日付上記勅令「案」

2-A:
1902(明治35)年6月14日付「明治三十五年勅令第百六十二号」
同年7月1日付で、「下ノ関」税務署が「下関」税務署に名称変更。同時に、下関税務署の管轄区域を赤間関市から「下関」市に改称
2-B:
1902(明治35)年6月4日付上記勅令「案」

まず資料1-Aから、1902(明治35)年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更されていることが分ります。言うまでもありませんが、この時点で存在するのは「下ノ関」市でも「下関」市でもなく、赤間関市です。
次に、2-Aにより、同年7月1日付で、2月に改称されたばかりの「下ノ関」税務署が再度「下関」税務署に改称され、同時に下関税務署の管轄区域が赤間関市から「下関」市に変更されています。
2-Bの3コマには、これが同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。

以上の資料から判断すると、赤間関市が「下ノ関」市を経て「下関」市と改称された可能性は薄いと思います。資料2-A・Bは、いずれも「下ノ関」税務署から「下関」税務署への改称に関するもので、「下ノ関」と「下関」との相違を充分に理解した上で作成されています。したがって、いったん「下ノ関」市に改称された上で「下関」市になったのだとすれば、資料2-Bにその旨が明記されてるはずです。それがない以上、1902(明治35)年6月1日に、直接「下関」市になった、と判断する方が妥当ではないでしょうか。
なお、資料2-Bには「赤間関市を下関市と改むる件」について「明治35年4月許可、同6月1日より施行」とあり、「府県及北海道境域沿革一覧」に記載された「明治35年4月5日」は、この「許可」の日付だろうと推測されます。

ただ、以上が正しいとしても、まだ疑問は残ります。資料2-Aで「長府」税務署から「下ノ関」税務署に改称されたのはなぜか、また、「府県及北海道境域沿革一覧」や内閣統計局による「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市という市名が使用されている理由は何か、が分らないからです。
で、以下は推測です。
まず、「長府」税務署から「下ノ関」税務署への改称は、税務署が当時の長府村から赤間関市に移転したためだと考えられます。「赤間関」税務署にしなかったのは、その時点(遅くとも1-Bの発行時点である1901年年末段階)で、「下ノ関」市への改称が規定方針であったからでしょう。しかし、実際には「下ノ関」市ではなく「下関」市になった。そのため、改めて「下関」税務署に名称変更する必要が生じたのだと思います。
また、「府県及北海道境域沿革一覧」や「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市が使われているのは、もともと「下ノ関」市に改称されるはずであったのが「下関」市になってしまったため、政府部内に混乱が生じ、一部資料に「下ノ関」市の表現が残ったためではないかと考えます。
以上、あくまで推測ですが、ご参考になれば。

上記を投稿しようとしたところで、、
[74506] 2010 年 4 月 1 日 (木) 00:24:53 Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
を目にしましたが、そのまま書き込みます。
大蔵省(税務署関係)は「下ノ関」と「下関」の相違に厳格に対応したのに対し、他のお役所は「ノ」の有無にこだわらなかったのかもしれません。
[74482] 2010年 3月 28日(日)12:42:07oki さん
西の「ホンマチ」、東の「ホンチョウ」
[74475] Issie さん
[74472] 白桃 さん

「本町」に関しては、以前に郵便番号簿をもとに全国の地名を整理したデータがあるので以下にお示しします。

都道府県地名数(件)ホンマチ(%)ホンチョウ(%)モトマチ(%)
北海道12287814
青森県8137513
岩手県508020
宮城県1405743
秋田県8136325
山形県1414797
福島県215095
茨城県1301000
栃木県176940
群馬県1331628
埼玉県287867
千葉県130928
東京都3116840
神奈川県2401000
新潟県4611854
富山県3610000
石川県2110000
福井県159370
山梨県301000
長野県580200
岐阜県2510000
静岡県3318820
愛知県829820
三重県1610000
滋賀県989110
京都府269280
大阪府7310000
兵庫県539460
奈良県1610000
和歌山県510000
鳥取県310000
島根県710000
岡山県2210000
広島県3310000
山口県339730
徳島県1217830
香川県1080200
愛媛県989110
高知県1310000
福岡県299703
佐賀県810000
長崎県199550
熊本県239640
大分県1610000
宮崎県710000
鹿児島県188966
合計105762335

ファイルの日付が2006年なので、それ以前のデータです。資料が郵便番号簿ですから、本町1~5丁目などは1つの地名としてカウントされています。「本町」のほか、「上本町」、「平等本町」などの合成地名を含めています。逆に、「山本町」、「松本町」など、「○本+町」と解される地名は除外しました。沖縄には対象地名が存在しないので割愛しています。

以上の前提で、全国の「本町」地名は1057ヶ所、うちホンマチ62%、ホンチョウ33%、モトマチ5%という結果です。

フォッサマグナを境にして、西側ではホンマチ優位、東側はホンチョウ優位で、福島県を中心として東北にモトマチが比較的多い、という分布が明確に表われています。
その中で徳島だけは、ホンチョウが圧倒的に優位。12件のうち8割ですが、これらはすべて徳島市で、「徳島本町」など10地名のすべてがホンチョウです。何か理由があるのかしら。

なお、上本町の読みは以下の通りです(合併以前の自治体名を含みます)。
カミホンチョウ:
酒田市、瀬戸市、
ウエホンマチ:
蒲郡市、名張市、大阪市天王寺区
カミホンマチ
羽島郡笠松町、船井郡園部町、高槻市、小野市、新宮市、北九州市門司区、北九州市八幡東区、田川市、鹿児島市

近鉄の上本町駅って天王寺区だったのですね。すっかり中央区だと思いこんでましたが。
[74430] 2010年 3月 24日(水)23:14:17【1】oki さん
西の元八 東の本八
[74428] むじながいり さん
[74401] みかちゅう さん

私が「もとはち」から連想するのは、新宿線の起点(終点?)である千葉県の駅。最寄駅の隣駅なので、けっこう出かけています。わが家では日常的に「もとはち」と呼んでいますが、首都圏全体で知名度があるかどうかはいささか疑問。
同じく新宿線の馬喰横山も「ばくよこ」と略称してますが、こちらも都営線の利用者以外には知られていない可能性が強いですね。

逆に、かなり知られているはずなのに、今までに出ていない駅名は次の通り。
「ばば」-「にしおぎ」-「ジョージ」-「にしこく」

実は、これは何十年か前の通学ルート。改めて口にすると懐かしいものがあります。
[74368] 2010年 3月 17日(水)18:43:01【1】oki さん
RE:浜名湖境界確定?
[74367] 小松原ラガー さん
なぜか神戸新聞にこんな記事が出ていたのですが、本当なのでしょうか。

国土地理院の発表で確認できます。

浜松市北区と西区との境界も湖面上に引かれることになるのですね。
[74321] 2010年 3月 11日(木)00:07:16oki さん
柏崎市上輪の奇妙な遍歴
[74311] 山野 さん
[74315] じゃごたろ さん
[74316] hmt さん

話題になっている、かつて柿崎町の飛地であった柏崎市上輪、蕨野等ですが、調べてみると、とても奇妙な編入経緯を経ていることが分りました。

関係する地域の、近世村(天保国絵図)時点からの変遷を示すと次のようになります。

近世村明治大合併1901(明治34)年1956.12.191957.01.011989.04.01
上輪村米山村米山村柏崎市柿崎町柏崎市
上輪新田村
笠島村
青海川村
鉢崎村(現在の米山町)鉢崎村
(高畔)柿崎町
大平村
大平村のうち蕨野村柿崎町
小萱村柿崎町
大清水村
大清水村のうち竹ヶ花村柿崎町

関係しているのは8村(+枝村など)ですが、明治大合併期には、上輪村~青海川村の4村が合併して米山村、鉢崎村以下の4村が鉢崎村を形成します。
蕨野村、竹ヶ花村(現在は竹鼻)は天保国絵図では枝村になっていますが、明治合併期には大平村、大清水村に含まれていたようです。また、鉢崎村(現在の柏崎市米山町)の中心集落は日本海沿いに位置していますが、高畔の集落はそこからオガチ川を遡った場所にあり、近世の高畔は鉢崎村の小名だったと考えられます。
米山村と鉢崎村は1901(明治34)年に合併し、新たな米山村が誕生します。そして、この米山村全域が、1956年12月19日に柏崎市に編入されます。ここまではよくある話です。

ところが、編入直後の1957年1月1日、大字上輪、小萱の全域と、大清水、鉢崎、大平の各一部が分離し、柿崎町に編入されているのです。われらが「市区町村変遷情報」では、次のように記述され、
1957.01.01 境界変更 中頸城郡 柿崎町 中頸城郡 柿崎町, 柏崎市の一部
詳細な注記が入っています。
88さんの注記では、大清水、鉢崎、大平の各一部は多数の「字」からなっていますが、現在の大字名などから、近世村段階で上記の表のような位置づけにあった地域、と考えて構わないと思います。

この、大字上輪等の柏崎市からの分離、柿崎町への編入は、非常に奇異に感じられます。柿崎町に隣接する小萱、竹鼻はともかく、上輪、蕨野は完全な飛地。高畔も小萱に接してはいますが、接触部分は山間地で、盛んな交流があったとは思えません。
歴史的に見ても、近世において上輪は上輪新田の親村であり、蕨野、高畔も大平、鉢崎の一部でした。明治以降も、米山村や鉢崎村の一部として隣接地域と密接な関係があったと考えられます。それがどうして柿崎と飛地合併したのか、しかも柏崎への編入から2週間もたたない時に、というのはよく理解できないところです。
さすがに、この飛地合併に無理があったのか、小萱、竹鼻を除く上輪、蕨野、高畔の3地域は柏崎市に再編入されていますが、それはじゃごたろ さんが確認してくれたように1989年4月1日で、飛地編入から30年以上後のことになります。
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。
[74277] 2010年 3月 7日(日)04:46:42oki さん
武州入間郡川越領福岡村の石高に関する若干の補足
最初に御礼を。
[74211] hmt さん
ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
遅くなりましたが、ご回答有難うございます。hmt さんが正常に閲覧できている以上、私のPC環境に問題があることははっきりしているのですが、まだ原因を突き止めることができません。そのため、相変わらずJPEG2000の画像が閲覧できないのですが、国立公文書館はJPEG版が高機能化したので、そちらで閲覧するようにしています。

さて本題。

川越領福岡村の土地と年貢 [74245][74271]  hmt さん

貴重な資料のご提供有難うございます。ただ、補足した方が良いと思われる点が2つほどありますので、以下に述べておきます。

まず、福岡村の石高です。
[74271]
冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。
とありますが、慶安時点での福岡村の石高は345.79石ではありません。
これは川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。また、この時点で中福岡村、福岡新田は分村しておらず、すべて福岡村の石高に含まれています。慶安検地とほぼ同時点の「武蔵田園簿」以降における福岡村関連の石高を整理すると次のようになります。

 田園簿元禄郷帳天保郷帳旧高旧領
福岡村742.1683.9836.8525.1
中福岡村上に含む上に含む上に含む311.7
福岡新田上に含む115.3182.4182.4
742.1799.21019.21019.2
指数100108137137

ここに見るように、慶安時点で川越藩領および旗本2家の石高を合計すると742.1石で、元禄郷帳(1699年)時点では福岡新田を合わせて799.2石ですから、この間の増加率は8%ということになります。
天保郷帳(1834年)では、福岡村だけで837石、福岡新田を合わせれば1000石を越えていますが、この場合でも慶安時点からの増加率は4割に達しません(実際には、この石高に達したのは天保時よりかなり前のはずですが)。
なお、天保郷帳時点では中福岡村が分村していたと思われますが、中福岡村が全国資料に現われるのは明治維新後の旧高旧領取調帳を待たねばなりません。

次に、ご紹介いただいた福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表ですが、私自身よく理解できない点があったので、少し考えて次のように再整理してみました。

種別反別(反)石盛(石/反)石高(石)租率(石/反)金納租率(文/反)租額(石)租額(両)
上田44.91.2053.900.500022.4500.42
中田33.91.0033.900.400013.5600.40
下田43.30.8034.640.350015.1600.44
下々田86.50.6051.900.300025.9500.50
田合計208.60.84174.340.370077.1200.44
上畑111.20.8088.960.27511030.5812.230.34
中畑111.30.6066.780.2259025.0410.020.37
下畑153.10.4061.240.1757026.7910.720.44
下々畑486.40.2097.280.1004048.6419.460.50
屋敷36.51.0036.460.27511010.044.010.28
畑合計898.50.39350.730.15763141.0956.440.40
合計1107.00.47525.070.1970218.2100.42
(※四捨五入の関係で数値が合わない場合があります)

基本になるのは反別(耕地面積)で、水田が上田~下々田まで合わせて20町8反6畝、畑が上畑~下々畑+屋敷地で89町8畝5畝で、計110町7反あります([74271]の表では、上畑~下々畑の計と畑合計とが合わないので、差は屋敷地と考えて補足しておきました)。
上田、上畑などの種別を決めるのは石盛、つまり1反当たりの米の生産高で、上田の場合1石2斗、下々田では6斗などとされています。
前にも石高に関して議論がありましたが、石盛とは1反当たりの玄米生産量です。したがって、本来なら水田にしか適用できないのですが、畑にも石盛が割り当てられています。上畑で8斗と下田並みの水準であり、畑地の生産水準が低く見積もられていることが分ります。もっとも、畑では米が生産できないのですから、そこに無理やり米の石盛を付けているのは、村高を算定するためのバーチャルな操作、と考えた方が良いかもしれません。
福岡村全体の石高である村高は、Σ(反別×石盛)で算定されます。米が174石余、畑地の高が351石で、計525石です。繰り返しますが、畑地で米は取れませんから、この村高は一種のフィクションです。

次は年貢高(租額)の算定です。西国であれば、村高に免(年貢率)を掛ければ年貢高が算定できます。例えば、以前に話題にした富来地頭町村の場合、村高が330石、免は九ツ(90%~極端な高率です)ですから、330×0.9=297石が年貢高になります(このような年貢の算定法を厘取法といいます)。
しかし、関東では反取法という異なる算定法が適用されます。具体的には、1反当たりの租率を直接に決めます。上記の表では、上田で0.5石/反、下々田で0.3石等となっています。
年貢高は反別×租率であり、上田なら44.9反×0.5石=22.45石、これを各種別ごとに積算すると、77.12石が米の年貢と言うことになります。

少しややこしいですが、水田の年貢は以上のように算定できます。では畑地の年貢はどのように計算されるか。これを考えるためには、「永」という概念を理解する必要があります。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
[74245] に以上のようにありますが、「永」とは寛永通宝ではありません。後北条氏が所領の生産高を測るのに永楽銭を用いたことを起源とするもので、永楽銭の通用は江戸初期に禁止されましたが、「永」という概念、考え方は、関東を中心とする東日本各地で幕末まで残りました。
「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。実際に「永」という名の貨幣が存在するわけではありません。金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。
上の表では、上畑の金納租率が110文/反となっていますが、この110文は実際には「永110文」です。2.5石=永1貫文(1000文)ですから1石=永400文になります(つまり、hmt さんの指摘されたように、1斗=40文です)。この換算率で永110文を石高に直すと0.275石と計算できます(永110文×(1石÷永400文)=0.275石)。
実は、これは計算が逆で、水田と同様に上畑に対しても1反当たり0.275石という租率を決め、それを「永」に換算したのが110文という金納租率だと考えた方が良いと思います。水田の場合、下々田でも租率が0.3石で、上畑より高いですから、畑地の年貢率が非常に低く設定されていることが分ります。

いずれにせよ、畑地の年貢は米でも麦でもなく貨幣であり、上畑では111.2反×永110文/反=永12,234文と計算できます。つまり永12貫234文=金12.234両です。すべての畑地にこの計算を適用して積算すると、畑地からの年貢は金56.44両となります。

以上から、名目上525石の村高を持つ福岡村からの年貢が、米77石、金56両だとということが分ります。(上記の表では、上畑の租率0.275石/反などを使って畑地からの石高年貢を141石、米と合わせた年貢合計を218石と計算していますが、これは単なる計算値で、実際にこのような年貢を取られたわけではありません)。
[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。
村高から予想されるより、実際に生産される、もしくは領主が収納できる米の量がかなり少なくなりますが、関東のように耕地面積に占める畑地の割合が高い地域では、名目上の石高に比べ、実際に得られる米は少ない、と考えるべきなのでしょう。
[74209] 2010年 2月 23日(火)18:55:32oki さん
国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74207] hmt さん
この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。
それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。

本来はむっくんさんから回答があるのでしょうが、私もこのシステムを使っているので、私自身が採用している方法をご紹介します。

hmt さんがやったように、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索すると、「地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令」について2つの書類が該当します。一つは「公文類聚」所載のもの、もう一つは前天皇の御名御璽が入った政令原本です。
どちらも画像での閲覧が可能になっているので、例えば公文類聚の方を選んで「閲覧」ボタンを押すと、5ページ建ての閲覧画像が立ち上がります。これはJPEG2000の画像ですが、hmt さんが仰るように、URLボタンが有効になっておらず、国会図書館の近代デジタルライブラリーのようにはリンクが張れません。
そこで、右上にある「PDF」というボタンを押すと、PDF画像がDL可能なページに切り替わります。このページには次のような記載があります。

このPDFファイルは4143KBあります。
ブロードバンド環境でも、ダウンロードに数分から数十分かかることがあります
ダウンロードを開始してもよろしいですか?(「はい」または「いいえ」)をクリックしてください。
はい いいえ
ここで、「はい」を左クリックすればPDFファイルがDLできます。
一方、「はい」の上で右クリックすると、いくつかのポップアップメニューが表示され、その中に「ショートカットのコピー」があります。これを左クリックすればURLがクリップボードにコピーされるので、エディタなどにペーストできます。例えば以下のように。
http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S57B0307620000/071200458359.pdf

以上はIEでの手順ですが、ほかのブラウザでも同様だと思いますので、お試し下さい。

国立公文書館デジタルアーカイブ・システムからは、近代デジタルライブラリーに掲載されていない資料が得られるので、時によって非常に有用です。
私は今のところ、明治維新から市制町村制施行時までの廃置分合に関するデータを入手するためにいろいろ作業を行なっています。ある程度まとまれば、こちらで公開する予定なのですが、いつになることやら。
また、このシステムに含まれる資料は、すべてがネット上に公開されているわけではなく、現時点で閲覧不可のものも多数あります。ただ、それらの資料も、竹橋にある国立公文書館に出向けばマイクロフィルムで閲覧可能です。また、ネットに公開される資料は順次拡大されているので、今後も閲覧可能な資料が増えていくものと思われます。


それから、国立公文書館の資料に関して皆さんにご質問があります。
「天保国絵図」は国立公文書館のデジタルギャラリーで公開されているのですが、私の環境では、2~3ヶ月前からJPEG2000版の国絵図が閲覧できなくなりました。閲覧しようとすると、ブラウザがフリーズしてしまいます。IE、サファリなど、ブラウザを問わず同じ現象が生じます。国絵図以外の画像も同様です。異なるPCでも同じ現象が起きます(もちろん、プラグインはインストール済みです)。
一方、JPEG版だと問題なく表示されます。ただ、JPEG2000版の方が何かと便利なので、こちらで見たいと思っているのです。皆さんの環境でも同様の現象が生じているか、教えていただければ有り難いです。
[74206] 2010年 2月 23日(火)03:34:35oki さん
小字について
[74199] 右左府 さん

関東あたりの町名地番整理未実施の住所表示は「大字-地番」のみで、小字は日常生活では用いない……というのが通例だと思います。

確かに、小字を使うことはあまりないと思いますが、まったくないわけではありません。私は、業務または趣味で、住所データのアドレスマッチングを行なうことがたま~にあります。要は、番地レベルの住所データを収集し、既存の地図データをもとにその経緯度を求める作業です。
この作業を行なう際、住所に字(または小字)が付いていると、往々にしてアドレスマッチングに失敗します。というより、東北各県や徳島県といった小字単位での番地起番が一般的な地域以外の都道府県では、ほとんどの場合失敗します。
マッチングに使う地図はグーグルマップ(アース)もしくはヤフーマップなのですが、これらに番地レベルの経緯度情報を提供しているゼンリンやアルプス社のデータベースで、大字単位で起番している地域では字レベルの情報を受け付けない仕様になっているのではないかと思います。

逆に言うと、大字単位で起番している地域で、住所の確定に必要がないにもかかわらず、(小)字単位の地名を記入している事例が少なからず存在する、ということです。
手元に千葉県の宗教法人名簿があるのですが、そこに掲載されている6648件の住所のうち、字地名のあるものが10件あります。比率にして0.15%ですが、その程度は大字起番の住所でも字地名を記載することがある、ということになります。
なぜ、必要もないのに字地名を記載するのかはよく分りません。上の宗教法人名簿でも、字地名を記入している住所について、同じ大字に所在する他の住所を見ると字は記載していません。たぶん、どこかの時点で字のついた住所が採用され、それが修正されることなく使い続けられているのだろうと思います。
ご指摘の「印西市草深字原」に関しては、千葉ニュータウンで商業施設の管理等を行なっている株式会社千葉ニュータウンセンターという会社があり、その印西牧の原地区担当である牧の原モア管理事務所の住所が印西市草深「字原」2029―3になっています。おそらく、テナント入居している店舗の一部が、これをそのまま踏襲して「字原」を付した住所を採用しているのだろうと思います。


宮古島の方は、沖縄の地名変遷について不勉強なので、何も言えません。
ただ、1908年(明治41)の沖縄県及島嶼町村制の時点で、以前の「間切」が「村」、「村」が「字」とされたようですが、実質的には、島嶼町村制以前の沖縄の村はヤマトの近世村と同等の存在と考えて良いと思います。したがって、字(かつての村)の下に小字に当たる地名があっても不思議ではないでしょう。
実際には、宮古島市のサイト内を検索して見つけた小字は、「城辺字比嘉にある野加那泉(ヌガナガー)が小字野加那佐事に所在する」という記事だけなので、小字が正式の住所として存在するとは考えにくいと思いますが。
なお、右左府 さんの行かれた「史跡 マムヤの墓」の所在地が「城辺字保良1221-1(小字平安名)」だったということですが、「平安名」はかつて保良村の東隣にあった「平安名村」のことだろうと思います。歴史地名大系によれば、平安名村は1873年(明治6)の「琉球藩雑記」には存在するものの、1880年(明治13)の「県統計概表」には村名が記されていないということで、この間に廃村になったのでしょう。ただ、正式なものかどうかは分りませんが、地名としては残存し、使われる場合もあるのだと思います。
[74175] 2010年 2月 18日(木)03:19:43oki さん
高松-宇野間の流動人口
[74170] hiroroじゃけぇ さん
四国と本州をつなぐ役割は他のどの連絡航路よりも大きかったと思っています。そして、その航路が廃止というのは、四国の歴史にとっては大きなニュースであると思ったのですが・・・。そうでないとすると、やはり「過去の幻想」なんでしょうね。

宇高航路が、四国と本州をつなぐ路線として他のどの連絡航路より大きな役割を果たしてきたのは紛れもない事実です。しかし、それに寄せる思いが、岡山・香川県民と、他の四国3県とで差があるのも否めないようです。
高知・愛媛県にとって、宇高航路は何よりも本州への連絡ルートでしたから、瀬戸大橋によってその機能が維持されていれば、現行の宇高フェリーが廃止されてもさほど痛痒を感じないようです。徳島に至っては、国鉄の時代から本州への連絡は南海フェリーが主であり、現在は明石海峡大橋がその機能を担っていますから、宇高フェリーの廃止を聞いてもほとんど感慨も抱かないでしょう。
一方、岡山・香川県民にとって、宇高航路は本四連絡ルートであるとともに、両県を相互に(たぶんもっとも安い価格で)結びつける「生活航路」としての機能を持ってきたのだと思います。宇高フェリーの廃止は、この「生活航路」の切断であるため、その直接関係者には見過ごせない事態であり、hiroroじゃけぇさんのように、過去にこの路線を利用されていた人たちにも衝撃として受け止められたのではないかと思います。

そこで、現行の宇高航路が、岡山・香川県間の日常生活でどの程度の役割を果たしているかを探るために、2005年国勢調査の流出入人口をもとに、次のような表を作ってみました。

    就業者通学者
岡山市366215151
倉敷市1147143
玉野市43385
その他281711
 計 551341210
岡山市491309182
倉敷市411215196
玉野市1067432
その他1235667
 計 1131654477
 岡山市857524333
倉敷市525286239
 玉野市14911237
その他1517378
  計 1682995687

宇高フェリーの特性を考えて、対象としたのは高松市と岡山県内各市との流出入人口です。
分りにくい表で恐縮ですが、「高松→宇野」の欄にあるのは、高松市に住んでいて岡山・倉敷・玉野その他の岡山県内に通勤通学する人の数で、計551人です。「宇野→高松」は岡山市等に居住して高松市に通勤通学している人で、計1,131人になります。両者を合計すると1,682人で、これが宇高フェリーを使って通勤通学している可能性がある人の最大限の数です。
最初は、岡山市や、倉敷でも玉野から遠い地域では宇高フェリーを使わないだろうと思っていたのですが、このフェリーの運賃が宇野-高松間で大人片道390円と信じられないほど低額なため(JRだと岡山-高松間1,470円)、会社が定期代を払ってくれる就業者(通勤者)はともかく、687人の通学者はすべて宇高フェリーを利用している可能性があります。玉野市関係の就業者112人も当然利用者でしょうから、合わせて800人程度は、通勤通学で毎日宇高フェリーを利用しているのではないかと思われます(往復で1,600人ですね)。

本来であれば、少なくともこの通勤通学者に対しては代替交通手段の提供が必要なのだと思います。トラックを含めた車両輸送の激減がフェリー廃止の主因ですから、代替交通手段は高速船のような旅客専用船が求められるだろうと思います。しかしこの航路では、1988年の瀬戸大橋開通後も残されたJRの高速艇が、90年に廃止されており、旅客専用船の運航は難しいでしょう。であれば、現在の通学生が卒業するまで、朝夕の通勤通学時のみ、現行のフェリーを自治体の補助金で運航させる、くらいのことしかできないのではないでしょうか(それもかなり難しいことでしょうが)。
なお、hiroroじゃけぇさんの指摘された宇高フェリーの物流機能に関しては、ほぼ考慮の余地はないでしょう。先のように、フェリー廃止の理由がトラックを含めた車両輸送の激減ですし、重機の輸送は現在でも内航海運が担っていると思います(そうでなければ、高松に本社を置く重機メーカーのタダノが、今回の件に沈黙を通すはずはありません)。

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話変わって、横断と縦断のことなのですが、ふと思い立って辞書を引いたところ、「横断」について「横にたち切ること。平行方向に区切ること」などのほかに「ある地域や海域を東西の方向に通ってゆくこと」という説明がありました(日本国語大辞典)。え~そうなの、と思って「縦断」を見ると、「縦または南北の方向に断ち切ること」となっています。
念のために広辞苑を確認したところ、やはり横断に東西、縦断に南北方向に通り抜けるとの意味があると書いてあります。
春秋戦国期の中国ならともかく、現代日本語で、横断=東西、縦断=南北の意味があるとは今の今まで知らなかったのですが、皆さんはいかがですか?
[74154] 2010年 2月 13日(土)23:55:34oki さん
宇高航路、もしくは本四間の海上交通と陸上交通について
[74152] Issie さん
[74151] hiroroじゃけぇ さん
[74148] みかちゅう さん

hiroroじゃけぇ さんには申し訳ないですが、宇高航路の廃止を聞いても、「相当な衝撃」を受けたわけではありません。ただ、一昨年玉野に行ったときに30分間隔で運行していたのを見て、「宇高フェリーは頑張ってるな」と思っていたので、南海の徳島~和歌山航路より先に廃止するのはちょっと意外、というのが実感です。
徳島県民は、明石大橋の開通以前から宇高航路はほとんど利用せず、本州との連絡には南海フェリーを使うのが通例でした(県西部の池田周辺は別ですが)。私自身も、国鉄時代の宇高航路に数回乗船した程度です。
また、マスコミの反応を見ても、地元の四国新聞山陽新聞では相当な話題になっていますが、高知新聞は「高知県への影響 限定的」と冷静ですし、徳島新聞や愛媛新聞に至っては、ネット上には記事すらありません。あくまで、香川~岡山間に限定された話題に留まっているようです。
もっとも、問題の構図から影響が宇高航路だけに限定されるとは考えられず、早晩南海フェリーにも同様の事態が生じるでしょうから、関心は強く持っています。
そこで、まず事実を把握するため、宇高航路の利用動向の推移を整理してみました。

  高松 ~ 宇野      徳島 ~ 阪神    
年度航送台数指数輸送人員指数航送台数指数輸送人員指数
1987年度1872933100.03968221100.0463763100.02399414100.0
1989年度132154070.6211523453.345723598.6227432094.8
1993年度126526067.6189251447.740754587.9224377893.5
1998年度108437257.9159493940.220859345.0114035447.5
1999年度104846656.0149692437.717995338.885691935.7
2000年度104939656.0150704438.018931640.866518327.7
2001年度105814056.5159138540.119173141.366120327.6
2002年度108669258.0162434940.919389141.860056625.0
2003年度102378354.7149005037.519054841.157970624.2
2004年度97782752.2138268734.818597440.155814223.3
2005年度96425951.5132977833.518569440.056723323.6
2006年度95291050.9131222533.118153839.154139522.6
2007年度93984750.2129910032.718105239.052657021.9
2008年度85131345.5119965530.216994536.649729020.7
                  
2008年度第2四半期23956233776350259150445
2009年度第2四半期137975-42.4227719-32.66862536.518117520.4

表の初年度である1987年度は、瀬戸大橋が開通した1988年4月の前年度です。参考のために徳島阪神航路の推移も示しています(阪神航路といっても、本州側の発着地は和歌山で、徳島側発着地は1999年4月に小松島港から徳島港に移っています。ちなみに明石海峡大橋の開通は1998年4月です)。
(※データは四国運輸局のこのページ所載のファイルから抜き出しています。車両の航送台数はトラックと乗用車、バスとの合計値です)

表から明らかなように、宇高航路の利用者は瀬戸大橋の開通に伴って大きく減少しています。ただ、08年度の旅客輸送人員が87年度の30%の水準であるのに対し、車両航送台数は46%に踏み止まっています。両者の差をもたらした主因が、瀬戸大橋の通行料金の高さにあることは言うまでもないでしょう。
徳島阪神航路の場合は航送台数が87年度の37%、旅客輸送に至っては21%という水準ですから、これと比べても宇高航路が健闘していたことは間違いありません。この記事によれば、88年以降も航路収支は黒字だったそうですから立派なものです。その影には相当な企業努力があったと思います。

問題は高速道路の1000円政策が導入された09年度4月以降です。年度を通しての数字はまだ出ていませんから、最新統計である第2四半期(7~9月)の数値で代用します。
09年度第2四半期における宇高航路の車両航送台数は、前年同期に比べ、実に▲42%も激減しています。旅客輸送人員も▲33%の減少です。おそらく、09年度を通じてこのような数値なのでしょう。
87年から08年までの20年をかけて▲55%の減少であったものが、たった1年で▲40%も減少すれば、普通の私企業が対応できないのは無理もありません。今後も高速道路料金を抑える国の方針に変更がないとすれば、傷が大きくならないうちに事業撤退を選択するのは当然と言えます。

では、明かな総選挙目当ての人気取りであった前内閣の高速料金値下げ政策が悪いのか、それとも現政権のそれが原因か。しかし、非常に高額である瀬戸大橋(のみならず本四架橋全体)の通行料金を値下げしてほしいというのは、四国4県こぞっての願望だったはずです。
先の表からも分るように、宇高航路の航送台数が08年までの水準を維持し得ていたのは高速道路の料金が高かったからで、それを値下げすれば自動車が本四架橋に流れ、フェリー会社の経営を圧迫し、最悪の場合航路廃止に至ることは自明だったはずです。もしも、フェリー会社の経営維持のため、他の高速道路の料金を引き下げても本四架橋だけは従来通り維持する、などという政策が採用されれば、四国各県の行政も住民も黙ってはいないでしょう。
結局、あちらを立てればこちらが立たずです。しかし、きわめて冷徹な言い方をすると、行政と住民が本四架橋の建設を選択した時点でフェリー会社の命運は尽きていたのであり、開通後は地域経済や利用者、そして従業員に与える悪影響を最小限に保ちながら、一定の時間をかけて会社の安楽死を図るのが、Issie さんの仰る「総合的な交通政策」というものではなかったかと思います。本州と四国との連絡を陸上交通化するのが本四架橋の本来的役割であり、それが両者間の海上交通を無用のものにするのは当然ですから。
今回の航路廃止が突然に思えるのは、昨年3月からの唐突な高速料金引き下げ政策が引き金になったからですが、四国の行政や住民が高速料金の引き下げを望んでいるのであれば、フェリー航路の廃止はそれに伴う犠牲として甘受するしかないでしょう。あとは、激変緩和措置として、自治体段階の補助金で廃止期日を若干引き延ばすくらいの対応しかないと思います。

個人的なことを言えば、私は港町の生まれであり、自分では自動車を運転しないので、高速道路が伸びるより海上航路が維持された方がよっぽど良いと思っています。本四架橋に関しても、四国と本州の間に3本の橋を架ける必要などまったくなかったと思います(別に瀬戸大橋だけでも私は構いません。南海を利用すれば良いだけのことです)。しかし、現実に3本の橋をつくってしまった以上、これを活用する方策を見つけるしかないでしょうし、それが本四間の海上交通を圧迫するのは必然です。本四架橋は、四国の行政と住民が強く望んだ結果建設されたものです。その果実を享受するなら、マイナス面も併せて引き受けるしかないと思います。
結果として、徳島阪神航路も早晩廃止されるでしょう、残念ではありますが。
[74139] 2010年 2月 11日(木)17:27:59【1】oki さん
市町村の一部区域にかかる廃置分合の表記方法
[73436] [73497] [74035] [74123] 88さん
[73753] [73754] [73755] [73756] むっくん さん

しばらく本業が疾風怒濤でROM状態になっていましたが、上記の点は気になっていました。遅くなりましたが、私の考えを述べておきます。

最初の前提として、88さんが市区町村変遷情報を整理・入力されている基本的な目的は、「確実な資料をもとに、全国の自治体の廃置分合の変遷を明らかにする」ことだと思います。そして、現時点では明治大合併期が起点になっていますが、全国統一の史料が存在する天保郷帳(天保国絵図)の時点までは遡ることが可能である、と考えています。
この場合、常に天保郷帳時点の近世村に立ち戻って考えることが可能な状態にしておく、ことがベストであると思っています(これはかなり難しいことですが)。

以上を前提とした場合、第一に、市制町村制施行時とそれ以降とで分けて考える必要があると思います。第二に、市制町村制施行時に関しては、1.「本体と飛地等に分かれる場合」と、2.「本体が複数部分に分割される場合」を区別することが必要と考えます。

まず市制町村制施行時について。
1.本体と飛地等に分かれる場合:
「飛地等」としたのは、、むっくんさんが引用された徳島県の「差込地」などの例があるためです。飛地とは限らないので、一般化して「微少部分」と表現した方が良いと思っています。
いくつかの府県令を見ましたが、「微少部分」は、「番地単位」、「反別面積」、「字単位」で記載されることが多く、あるいは徳島のように「飛入地、差込地」等の表現をとっているため、本体と混同することはまずないと考えられます。
また、山梨県の場合、「山梨県令達全書」に「飛地ハ各其所在市町村ノ地籍ニ編入ス」とだけあって、飛地の具体的な記載がありません。この場合、飛地情報は不明なわけです。これから考えれば、微少部分の情報は県令等に記載のある場合、とせざるを得ないと考えます。
市区町村変遷情報での表現は次のようになるでしょうか。

香川郡多肥村:香川郡 出作村(本), 上多肥村, 下多肥村
(詳細情報で「出作村のうち字松ノ上、松ノ下、下町を除く」と記述)
香川郡百相村:香川郡 百相村, 出作村(微)
(詳細情報で「出作村(微少部分)は、字松ノ上、松ノ下、下町」と記述)

(本)は本体、(微)は微少部分の略です。(本体)、(微少部分)と記述しても構いませんが、見た目がうるさくなるので簡略な記載とし、どこかに注を付けておけばいいと思います。後でも示しますが、微少部分と「○○村の一部」との混同を避けたいので、(一部)などの記述には賛成できません。

市制町村制施行時により問題となるのは、微少部分ではなく、本体が分割されてそれぞれが「一部」となる場合で、これには主に次の2つの要因があると思います。
1)近世村そのものがいくつかの集落からなっており、町村制施行にあたって近世村の範囲が分割される場合
2)明治維新~町村制施行までに複数の近世村が合併して1つの村になっていたが、町村制施行にあたって元の近世村単位で分割される場合

1)の事例は少なからずあると思います。実際のところ、近世村が1つの集落から成る事例というのは畿内やその周辺を除くとあまり多くなく、複数の集落から成っているのが通例だからです(枝村が分割される場合もこれに含めます)。
事例を挙げます。現在の八戸市にあった浜通村ですが、明治合併時に、浜通村のうち湊、白銀の部分が大久保村と合併して湊村に、鮫、持越沢などが金浜村と一緒になって鮫村を構成しています(県令はこちら)。
現在は八戸市大字湊町、大字鮫町などに当たる場所です。

近世村県令の記載明治合併村現在の住所
浜通村浜通村ノ内湊湊村八戸市大字湊町など
同上浜通村ノ内白銀同上八戸市大字白銀町など
大久保村大久保村同上八戸市大字大久保
浜通村浜通村ノ内鮫鮫村八戸市大字鮫町
同上浜通村ノ内持越沢同上
同上浜通村ノ内二子石同上
同上浜通村ノ内白浜同上鮫町白浜の地名あり
同上浜通村ノ内深久保同上
同上浜通村ノ内種差同上八戸市大字鮫町字種差
同上浜通村ノ内法師浜同上鮫町法師浜の地名あり
同上浜通村ノ内大久喜同上鮫町大久喜の地名あり
金浜村金浜村同上八戸市大字金浜

浜通村は、湊、鮫など複数の集落からなる広大な村でしたが、これらの集落は実際上それぞれが村であり、浜通村はその総称と考えられています。
この場合、変遷情報での表現としては次のような形態をとれば良いと思います。

湊村:浜通村の一部、大久保村
(詳細情報で「浜通村のうち湊、白銀」と記述)
鮫村:浜通村の一部、金浜村
(詳細情報で「浜通村のうち鮫、持越沢、二子石、白浜、深久保、種差、法師浜、大久喜」と記述)

次に2)の事例では、先にも話題になった八幡浜浦があります。県令の記載では、西宇和郡八幡浜浦が「字本浦」、「字栗野浦」、「字向灘浦」に三分され、字本浦は単独で八幡浜町になり、字栗野浦は矢野町などと合併して神山村、字向灘浦は大平村などとともに矢野崎村を構成したことになっています。ところが、天保郷帳では栗野浦、向灘浦は八幡浜浦とは別の独立した村です(国絵図はこちら)。(※向浦ではなく向灘浦です)。
時期は特定できませんが、明治合併期までに八幡浜浦、栗野浦、向灘浦が合併して八幡浜浦を構成し、合併時に分かれたようです。
町村制施行時までに先行して合併が進められた山梨、岡山、宮城などの諸県では、このような事例が少なくないと思います(明治大合併期に下九一色村と上九一色村に分裂した九一色村もそうですね)。
この場合には、基本的に近世村単位で分割がなされるはずで、それぞれを「○○村の一部」とし、詳細欄にそこに含まれる地域(=近世村)を記述すればよいと思います。例えば次のように。

八幡浜町:八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字本浦」と記述)
神山村:矢野町, 八代村, 五反田村, 国木村, 八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字栗野浦」と記述)
矢野崎村:大平村, 高野地村, 八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字向灘浦」と記述)

この場合、どこが八幡浜浦の本体か、にこだわる必要はなく、すべて「○○村の一部」とすればいいと思います。もともと独立した村だったわけですから。

以上の考え方で問題が生じるとすれば、「微少部分」が比較的大きい場合、あるいは微少部分なのか上記1)のような近世村内集落なのか区別できない場合はどうするか、です。端的に言うと、「分らない場合はすべて『○○村の一部』の表現をとる」ということで良いと思います。
詳細な歴史的経緯を調べているのでは、88さんに非常な負担がかかります。88さんが分る範囲で判断し、判断がつかない場合は「○○村の一部」としておいた上で、その旨を落書き帳に明記しておく。その部分は他の人が調べて88さんに報告する、とすれば良いと思います。
もちろん、私も調べて報告するようにします。現在、自発的に市区町村変遷情報をチェックされているむっくん さんも、これまで同様にフォローしてくれるでしょうし、ほかの方からの情報も入ると思いますので、それらをもとに88さんが判断して必要な場合に修正を加える、という仕組みにするのはいかがでしょうか。

以上のようにする場合、本体分割(または分割区分不明)を意味する「○○村の一部」と、「本体 対 微少部分」との混同は避けたいところです。したがって、「本体」の表現は常に「微少部分」との対の形で使用し、[74123]で88さんが提起された「○○村(一部)」の表現は使用しない方が良いと考えます。


次に市制町村制施行時以降の変遷ですが、本質的には上記と同様です。ただ、明治合併期以降は近世村が複数集まって一つの市町村が構成されているのが原則ですから、「微少部分とは近世村の範囲が分割された地域」と定義しておけば良いと思います。
つまり、大合併期以降の市町村が分割される場合、「近世村の範囲以下の部分とそれ以外」になる場合は「○○村(微)と○○村(本)」とし、それ以外(近世村単位で分割される場合)はすべて「○○村の一部」の表現でよいと考えます。例えば、徳島県の次の事例のように。

「○○村(微)と○○村(本)」の例
1954.03.31
新設 那賀郡富岡町:那賀郡 中野島村, 富岡町, 宝田村, 長生村, 大野村(本)
(詳細に「大野村は字妙見を除く」と記述)
編入 那賀郡羽ノ浦町; 那賀郡 羽ノ浦町, 大野村(微)
(詳細に「大野村(微少範囲)は字妙見」と記述)
※字妙見は、大野村を構成する3つの近世村(上・中・下大野村)のうち下大野村の小字で、那賀川以北の部分です

「○○村の一部」の例
1955.01.01
編入 徳島市:徳島市, 名西郡 入田村の一部, 名東郡 新居町
(詳細に「入田村の一部は大字入田」と記述)
編入 名東郡国府町:名東郡 国府町, 名西郡 入田村の一部
(詳細に「入田村の一部は大字矢野」と記述)

また、ここでも「判断がつかない場合は『○○村の一部』」の原則を適用します。つまり、[74035]で88 さんが事例にあげた仲多度郡象郷村は次の通り。

1958.03.31
編入 仲多度郡琴平町:仲多度郡 琴平町, 象郷村の一部
(詳細に次のように記述
「象郷村のうち次の部分を含む:
 大字苗田の全域
 大字上櫛梨の本体(字川西の一部を除く部分)
 大字下櫛梨の一部(字船磐、川原、平石、泉田、上新田の各一部を除く部分)
 大字上櫛梨、下櫛梨の残余は善通寺市へ」
編入 善通寺市:善通寺市, 仲多度郡 象郷村の一部
(詳細に次のように記述
「象郷村のうち次の部分を含む:
 大字上櫛梨の微少部分(字川西の一部)
 大字下櫛梨の一部(字船磐、川原、平石、泉田、上新田の各一部)
 大字上櫛梨、下櫛梨の残余は琴平町へ」

象郷村の場合は分割形態が複雑なので、琴平町に編入された部分を象郷村(本)、善通寺市部分を象郷村(微)とするより、上記のように両方とも象郷村の一部とし、それぞれの範囲を「詳細」に記述する方が良い、と私は考えます。が、皆さん色々な意見があると思いますので、決着がつくまではとりあえず「象郷村の一部」にしておけば良いのでは、という意味を含めています

かなりゴチャゴチャして分りにくい記述になってしまったので、もう一度簡潔に書きます。

明々白々に微少部分と本体に分かれる場合は「○○村(微)と○○村(本)」に。
それ以外はすべて「○○村の一部」
詳しいことは「詳細情報」に記述。

以上、ご参考になればと思います。
[74023] 2010年 1月 23日(土)15:48:47oki さん
第二十六回十番勝負 感想戦
遅くなりましたが、第二十六回十番勝負の感想を。

今回は帰省後からの参加ということもあり、目標は次の3つでした。
1.完答  →  達成
2.(できれば)誤答なし  →  誤答2問
3.(できるだけ多く)ヒント前に解答  →  第一ヒント前解答3問

実際には、完答はできたものの誤答2問、第一ヒント前に解答できたのが3問ということで、自己評価としては目標の半分くらい達成、というところです。

では、解答順に簡単に振り返り。

問八:根室市
■市名に関連する半島がある市(半島コレクション登録が対象)
お題を見ただけで「半島」が浮かびました(私にしては珍しいことです)。解答したのが1月5日の夕方ですからメダルとは無関係ですが、売り切れる前にこれに答えておいたおかげで全問完答できました。

問十:流山市
■市名誕生日が1月1日の市
グリグリ さんの第0ヒント?「開催日、都道府県市区町村内各メニュー、過去記事などは重要なポイントです。」と、糸島市から分りました。

問三:大洲市
■読みに同じ字が連続する市(濁音・促音も許容する)
解答順位が29位で、さすがにこれだけ並べば私でも分ります。しかし、お題の5市だけから閃く方々は凄い、としか言いようがない。

ここで第一ヒント

問七:宇和島市
■都道府県で一番最近市制施行した市(新設合併を含む)
第一ヒント「さいきんのがっぺい」で分りました。

問五:市川市
■市名が苗字ランキング300位以内の市
簡単な漢字の市名が並んでいたので「市名の普通度」を考えたのですが、除外市の松山市がよく分らず。
第一ヒント「珍しくない名」を睨んでいた結果、名字と気が付きました。しかし、グリグリさんがサービス(?)でお題に首相を2人も並べてくれていたのだから、もっと早く思い至るべきでした。

問六:西条市(誤答)→鴻巣市
■1市2町で合併(新設・編入)した市(直近の合併)
問六・八・十に共通する糸島市が一つのポイントなのは分っていましたが、第一ヒント「1足す2は1」まで気が付きませんでした(それも、最初は「1足す1は2」と解凍してました)。
西条市の誤答は四国の市から答えたいな~、という気持ちが強すぎたための錯覚でした。

ここで第二ヒント

問二:藤岡市
■ダム湖百選がある市
第一ヒント、第二ヒントともに解凍できず。第一ヒントの答え「治水と利水に益」を示してもらってやっと分りました。
長年首都圏に住んでいるのだから、東大和市、相模原市で何らかのリアクションが欲しいところ(>自分)。

ここで第三ヒント

問九:松江市
■東京23区の住所地名になっている市(部分一致を含む)
いっちゃんさんの記事は目を通していましたが、まさかそのまま出題されるとは思わず。完全に北上市に騙されました。
第一ヒントの「どこかの住所」を「自市以外の自治体に市名と同じ地名がある」と解釈し、郵便番号簿をもとに調査しましたが、文字および読みが完全一致する地名でも、全国で2400件以上、市名にして340市あったので、さすがに間違いに気づきました(「きたかみ」と読む「北上」は新潟市秋葉区に1ヶ所だけあるようです)。
結局、気が付いたのは第三ヒントの「23区」の後でした。

問四:高松市(誤答)→中津川市
■同時に7市町村以上で合併(新設・編入)した市(直近の合併)
第一ヒント「沢山の市町村」で、こちらの方面であることは分っていたのですが、美濃市の確認に手間取りました。
除外市の高松市を誤答する大ポカは、問題を細かいところまで詰め切れていない証拠と言えます。

問一:今治市
■松竹梅を含む市に隣接する市(島隣接、架橋隣接を含む)
第一ヒントの「三種類ある」から「一富士、二鷹、三茄子」を連想し、第二ヒント「目出たい物」、第三ヒント「隣は目出たい」が出た後も、意識がそちらに引きずられていました(浜松市中区に「茄子町」という地名があったので、しつこくそっちにこだわったのですね)。
気が付いたのは、解答市に徳島市と阿南市があり、両者の間の小松島市が浮かんだからです。

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という具合で、今回の解答順は21位。完答者の中では最後から3番目ですが、意識して最後の解答を狙ったりはしていないので、実質的には最下位でしょう。ま、実力から言って妥当なところ。
第二十四回に次いで二回目の参加ですが、今回も楽しませていただきました。有難うございます。
次回以降は、誤答なし完答が達成できるよう、もう少し精進したいと思っております(ヒント前の完答はちょっと無理だろうなぁ)。
[73936] 2010年 1月 15日(金)22:12:04oki さん
第二十六回十番勝負 解答その九 _訂正
問四:中津川市

除外市を答えるという大ポカ。
これで本当に最後、のはず。


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