十番勝負がまったく解けないので(1週間以上かかって解答がたったの2問。やはり才能の問題でしょう)、別の話題を。
[76567] オーナー グリグリ さん
[75921]で更新して以来、滞っていた自治体越えの地名を更新しました。
更新したすぐのところを申し訳ないのですが、以下の自治体越え地名について、ご検討をお願いします。
まずは現状で登録のない徳島県から2件。
徳島市国府町桜間/名西郡石井町高川原桜間
板野郡上板町第十新田/名西郡石井町藍畑第十
石井町の桜間、第十とも小字の扱いですが、高川原、藍畑という明治合併村が大字を構成しているためで、両方とも江戸時代には独立した村でした。
桜間は古代からある地名で、本来は阿波国名方郡桜間郷でしたが、寛平八年(896)、名方郡が名東・名西の2郡に分割されたとき、郡境に位置していた桜間郷も両郡に分かれました。以来幾星霜、江戸時代は名東郡桜間村と名西郡桜間村、明治以降の町村合併でも、片方は名東郡国府町から徳島市、他方は名西郡高川原村から石井町と、常に自治体を異にし、1100年にわたって分裂状態が続いているという「自治体越え地名の権化」ともいうべき地名です。
第十新田はもともと第十村と一体でしたが、洪水で吉野川の河道が現在の流れに変わったときに本村から切り離されました(地図を縮小すると、吉野川の北岸に第十新田の本体があります)。ただ、第十新田のごく一部が南岸に取り残され、本村の第十と隣接しています。
次に、「大物?」の(都)県境を2件。
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)
埼玉県吉川市大字三輪野江/千葉県流山市三輪野山
堀江町は江戸川に沿ってわずかな面積が残るだけなので、地図を拡大しないと分からないかもしれません。本来は、西側に広がる南葛西1~7丁目の全域が堀江町だったのですが、住居表示によって変えられています。
この地域が堀江を名乗っていたのは、浦安市堀江の飛地であったから。江戸時代、下総国葛飾郡堀江村は江戸川左岸の河口に位置する村で、目の前にできた中州を自村に組み込み、堀江新田を開発していました。堀江新田は、明治大合併で堀江村が当代島・猫実村と一緒に浦安村を形成してからも大字堀江の一部でしたが、1895年(明治28)の「
東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法」で江戸川両岸の飛地が整理されたとき、南葛飾郡葛西村に編入されています。また、現在の堀江町の対岸は浦安市富士見(1~5丁目)ですが、これは住居表示後の地名で、元は大字堀江の一部です。したがって、住居表示前は江戸川を挟んで堀江が向かい合っていたはずです。
江戸川両岸の「自治体越え地名」は、上記の堀江を除くと江戸川の河道開削に伴うものが多いのですが、吉川市の大字三輪野江と流山市三輪野山は別の起源を持っています。吉川の三輪野江は、江戸時代初期の開発時に、対岸三輪野山に鎮座する三輪明神を移し祀ったために三輪野江の村名を名付けたことが、
新編武蔵風土記稿に書かれています。神社を機縁として、共通の名前が江戸川両岸に存在するわけです。
もっとも、三輪野山の三輪明神は現在「茂侶神社」と改名しているので、地図を見ただけでは気づかないかもしれません。