[54321] ニジェガロージェッツ さん、“明治初期の神戸”
[54322] hmt さん、“兵庫・神戸(2)兵庫開港、そして開港場の地名「神戸」について"
[54339] hmt さん、“兵庫・神戸(3)開港場は、約束した兵庫でなくて神戸でも「ええじゃないか」"
興味深い内容や、ご示唆を大変面白く読まさせて頂きました。
私自身、「神戸って?」という、素朴な疑問から調べていまして、ちょうど桜トンネルさんが、
[54163] 桜トンネル さん
三重県には飯南郡神戸村、名賀郡神戸村、安濃郡神戸村(神戸村が消滅したときは安濃郡、今は安芸郡)、河芸郡神戸町(神戸町が消滅したときは河芸郡、今は安芸郡)の4つの神戸村または町があったのですが、なぜこんなにあるのでしょうか。群馬県でも5つの東村がありましたが・・・。
神戸という地名の発生、由来に関するようなことに疑問を持たれていたような内容に、私も
興味を持って、全国の神戸の地名と由来を調べたことがありました。また、この神戸という
地名が、私の今住んでいる市町村名になった経過にも興味を持って、続けて調べたことが
ありました。いろいろ調べると面白い話も多く、かなりブレを楽しみながら、現在進行形です。
一村名でしかなかった神戸が、港町、県庁所在地の市名になった原因として次の3つでは
ないかなあ~と、今現在は考えています。
[54182]ezekiel、
“神戸”という地名が、県庁所在地・政令指定都市の名前になったのは、
(1) 五畿内の港町の兵庫(大輪田泊)に隣接した位置
(2) 勝海舟が神戸海軍操練所を設置
(3) 幕末に兵庫開港し、神戸村に外国人居留地
神戸の地名の発端は神社であり、それを支える神戸であって、村名としてのルーツは
きわめて農耕型のような気がします。その村名の神戸が、大都市の名前になった経過には、
港や海運がらみのことが多く、海事型であるような気がしています。
*
神戸という一村名が、後の大都市の名前になったルーツ中のルーツは、兵庫という近隣の
港町の存在ではないかと思っています。上に挙げた(2),(3)は、兵庫という港町に隣接した
位置の故のものであって、今の神戸の街のルーツは兵庫なんだろうなあ~と感じています。
ただ、兵庫の近隣の地名の中で、「何故神戸?」を考える時に、その理由を幕末の十数年に
集約出来るのではないかなあ~と思うようになりました。そのトリガーとなったのは
ニジェガロージェッツ さんの神戸駅の開業にスポットをあてた書き込みでした。
[54253]ニジェガロージェッツ さん、
今でこそ神戸駅周辺を「神戸」ではなく「兵庫」の一部だと思っている人は少ないと思いますが、神戸駅のある現在の「中央区相生町」は神戸市誕生当初より1931(昭和6)年の区政施行までは「兵庫」を冠し「兵庫相生町」でした。(区設置以前の神戸市の冠称については拙稿[51105]に記述)
実は、この書き込みが気になって、改めて兵庫vs神戸という図式をじっくり考え直した
のですが、その中で次の2点が浮かび上がってきました。
(1) 「兵庫というまち」の範囲の変遷
(2) 「神戸」という地名の指し示す地域の変遷
兵庫の町は繁栄と共に膨張したようで、元禄年間頃には、すでに湊川の左岸にまで及んで
いたようです。そして幕末には、湊川の左岸の西国街道沿いに相生町という兵庫の町が存在
していたようです。詳しいことが未だわからずにいるのですが、とにかく、明治7年開業の
初代神戸駅の位置というのは、当時の兵庫(相生町)と神戸(旧・走水村)の境界地帯で
あったようです。
ただ、この時の神戸は神戸村のことではなくて、走水村、二ッ茶屋村、神戸村の3村の
連合体としての神戸町です。神戸という地名が、幕末には兵庫の東隣、湊川から生田川までの
地域を指し示すようになっていたように思います。しかし生田という古い地名も存在して
おり、兵庫vs神戸と共に、生田vs神戸という構図にも興味を持った次第です。
神戸という地名が脚光を浴びた(?)時期が、明治に入っての数年間であったと思って
いたのですが、実は、もうちょっと手前の明治に入る前の数年間ではなかったのかなあ~と、
ここ数日で、考えが変わってきています。
前置きがひじょうに長くなりましたが・・・
*
10C頃には、西から八部郷、宇治郷、神戸郷、生田郷という地名が存在したようで、
まだ兵庫という地名はなかったようです。古代から中世の時代には、生田という地名が
この辺り一体を指し示す名前であったようで、神戸という地名は、その中の一集落の
名前に過ぎなかったのではないかなあ~と思っています。(私自身、古文書を直接
読めないので、入手にした2次資料の範囲だけですが・・・)当時の神戸郷と生田郷の
位置や範囲の詳細はわからないのですが、神戸という地名が、ムラの名前を指し示す
(御幣があるかもしれませんが)行政的な地名であった時代が、江戸末期まで続いて
いたように思います。
兵庫のまちに関しては、12C以降、興亡を繰り返していたようで、港町として、
そして宿場町として整備されるのは16C以降、特に江戸期に入ってからのようです。
元禄年間には、湊川右岸の南西一帯に町が広がっていたようです。ただ、この時期には
湊川の河口左岸に兵庫のまちが膨張して、西出町や東出町の基になる町並みが出来つつ
あったようです。その後に東川崎町も出来て湊川左岸に兵庫の町がはみ出していた
ようです。前述したように幕末頃には、西国街道沿いの湊川左岸に相生町が存在して
いたようです。
この辺りのイメージが、どうも今の市町村制で捉えてしまいがちなのですが、神戸の
地名のルーツを探る中で、江戸期の“まち”って一体何なんだろうかなあ~という疑問を
持ったのですが、未だわからないままです。江戸の町が典型的だと思うのですが、近隣の
村が江戸の町に飲み込まれて消滅したケースもあると思うのですが、これは今風の
町村合併とは違うでしょうし、実質的に町が村を侵食していったのかなあ~と
イメージしています。
湊川左岸に関しても、兵庫の町が発展、膨張して、西出町や東出町、東川崎町、相生町が
湊川左岸の走水村を徐々に侵食していったのかなあ~と。(江戸期のまちと村に関しては、
じっくり調べたいと思います。)
*
[54322] hmt さん、
「神戸」という地名が、世界的なブランドになったのは何故か?という問題を解くキーの一つとして、上記のように居留地になった場所に存在した「神戸海軍操練所」の存在にもご注目ください。
神戸海軍操練所が何故神戸村に出来たのかは、二ッ茶屋村出身の網屋吉兵衛の蓼場
建設が大きいようですね。そして、蓼場の建設をバックアップしたのが神戸村であり、
当時の神戸村の庄屋の生島四郎の存在がキーポイントになるのかもしれません。そして
走水村、二ッ茶屋村、神戸村の3村をリードして神戸町の誕生に導いたのも、“神戸”という
一村名を、兵庫のまちと互角の位置関係にまでアップさせた功績があるように思います。
資料を見ていると、村の規模としては神戸村が、二ッ茶屋村や走水村よりも大きかった
ようですが、でも財政力としては二ッ茶屋村が上回っていたのではないかと思っています。
神戸村が農村型であったのに対して、二ッ茶屋村には大きな廻船が多数あったようです。
ただ走水村は、兵庫のまちが湊川河口左岸の海岸部まで膨張したためか、村としての規模は
二ッ茶屋村、神戸村に比べると、小さいように感じます。
もし、網屋吉兵衛の蓼場が、出身地の二ッ茶屋村に出来ていれば、そして、神戸村の庄屋
生島四郎の存在がなければ、神戸ではなく二ッ茶屋の地名がクローズアップされ、明治元年
に二ッ茶屋町が生まれて、区名になってそして市名になっていたかもしれません。
[54321]ニジェガロージェッツ さん、
兵庫開港に際し兵庫津ではなく、実際には北へ離れた神戸村の浜辺を開港場として以来、兵庫港と神戸港が並存していました。
これに関しては、
[54339]で hmt さんも触れられておられますが、神奈川と横浜との
アナロジーで捉えて、神戸の場合と横浜の場合との相似と差異とを比較すると面白いだろう
なあ~と思います。形式原理では兵庫港なのですが、実質的に明治の初期には既に神戸港
であったように思います。ただhmtさんも触れられておられるように、勅許を得て開港した
港は、日本側での公式的な扱いは、しばらくは兵庫港であったはずではないかなあ~と
思います。
[54321]ニジェガロージェッツ さん
まず元来「生田」の地名は生田川を東界とする摂津国八部郡に属していましたが、川の流路の変化もあったのでしょう、いつしか村落は摂津国菟原郡に、生田神社は八部郡と分かれてしまいました。
[54322] hmt さん、
たしかに、この近くには「神戸」の名の由来でもある生田神社が存在しますが、そこの近世の村名は内陸の「生田宮村」(海岸の神戸村と共に八部郡)であり、「生田村」は生田川の東岸・菟原郡でした。従って、新しい開港場の名前とし、港に直結する村名「神戸」の方がより適切だったのではないかと考えます。
生田という地名に関しては、もう少し調べたいと思います。天領になった以前の尼崎藩の時代
に遡ることになるかもしれませんが・・・