[100804]白桃 さん
「戸」の由来だけでなく、「四戸」がどこにあったかについても諸説あるようですが
上記については
「四戸」はどこにあるの?「戸」地名について(落書き帳アーカイブズ)でも議論されたようですが、
「戸」の由来(岩手県)にも詳しい解説がありました。
前置きが少し長くなりましたが、1件小ネタを投稿しておきます。
大坂→大阪のようにかつては別の字を用いた表記が幅を利かせていた地名を2点ほど示します。
【1】金田一(現在の岩手県二戸市)
国郡全図・
天保郷帳(陸奥国郷帳下・89コマ左側)・
官板実測日本地図(畿内 東海 東山 北陸)
ではいずれも「金田市」でした、なお
金田一村 - Wikipediaには以下の記述もあります。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、二戸郡金田市村、野々上村、釜沢村、下斗米村(一部)が合併し、金田一村が成立。
※
地名索引(真ん中下部)は「金田一」とあり、合併前村名は金田一村で支障ないと思われます。
[65241] じゃごたろ さんより
四戸氏は、軍事的に勢力を拡張してきた九戸氏への抑えとして現在の二戸市に移され、それが金田一氏のとなったとも言われています。現在地名として失われた「四戸」ですが、二戸市内に「四戸城跡」があるのもそのためと考えられているわけです。
(明治初期?)四戸(後の金田一)氏と字を揃えた表記が定着していった?
余談ですが、
Issie さんのサイト・郡の変遷(東北地方)にもある通り、
二戸郡は明治4年の1次府県統合では青森県でしたが、明治9年に岩手県の管轄になりました。
【参考】
宮城県下気仙郡青森県下二戸郡岩手県ヘ管轄伺
【2】宇多津(現在の香川県宇多津町)
国郡全図・
天保郷帳(讚岐国郷帳・16コマ左側)・
官板実測日本地図(山陰 山陽 南海 西海)
ではいずれも「宇足津」でした、
宇多津町の歴史より
町名の由来ですが、古代鵜足郡(うたのこおり)の郡津に由来しています。
とある通り、
讃岐国名勝図会(鵜足郡42コマ)右側表記は「鵜足津村」ですが、左側は「宇足津全図」とあります。
※
地名索引(左側中央)は「宇多津」とあるので町村制施行前の村名は宇多津村で支障ないと思われます、
大日本地名辞書 上巻 二版(左下)鵜足郡に古訓は「宇多」とあり、(明治初期?)これに倣う形に回帰した表記が定着していった?
【おまけ・ある程度の年齢以上の方には簡単すぎる年内最後の謎々】
明治新政府は慶応4(明治元)年閏4月の政体書公布からほどなくして府藩県の印鑑を作成するよう命じました、
復古記(左側参照)
その印影を収めた箇所は
こちらで府藩県の印影は
はじめ~
おわりの範囲内にあります。例えば
[100893]白桃 さん
オグリキャップ、デビューの地
の県印については105コマ(左pp.193)右1列目の上から2番目がその印影と思われますが、
四国の讃岐国にあった「丸亀藩」の藩印はどこにあるでしょうか?
(若い方でもサヌカイト さんとか地元の方ならすぐに答えがわかる???)
年明けまで時間も短いので(回答を解説しなくても良いように)大甘ヒントつき、
[100864]hmt さん
立派なヒゲの百円札
より
百円券(日本銀行サイト内)を見ると・・・
※府藩県三治制について詳しくは
Issie さんのサイトを参照のこと(以下引用)
公式名称でないのであれば,同一の藩に「伊達藩/仙台藩」「毛利藩/長州藩/萩藩」などというようにいくつもの呼称があるのも不思議ではないわけです。
上記の通り「正式な藩名」なるものは恐らく無いのですが、「某藩印と刻すべし」と命じたにもかかわらず、
その通りにしない(少数派ひねくれ?)藩に対し新政府は(作り直しは命じず)大目に見ていた模様です・・・