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eiji_tさんの記事が10件見つかりました

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[45584] 2005年 10月 11日(火)22:54:30eiji_t さん
小泊村
[45455]いっちゃん さんの「木綿のハンカチーフ」に始まる70年代の歌のレスの数々。
で振り返ってみると70年代自分は青春していたということ(当時は「青春なんて」とおもってましたが)。

その中で思い出したのは、三上寛の「夢は夜ひらく」※
"生れ故郷の小泊"は"現金書留きたといい走る妹"(出稼ぎで老人と子どもばかりの寒村)を"行くというのならこの包丁で母さんを刺してから行け"と言う親を振り切って都会へ出ても、やることは"四畳半のアパートで""飛び散ったカルピスふくことよ""ひらく夢などあるじゃなし"という都会の現実……という歌。

小泊村(現・北津軽郡中泊町小泊地区)はこの歌といつか見たモノクロ写真の荒んだ漁村の風景で、私のイメージは固定してしまっています。実際の小泊村はどうなんでしょうか?

※「夢は夜ひらく」は歌詞の異なる曲が32種。有名なのは園まり、藤圭子など。
[45533] 2005年 10月 9日(日)09:57:02eiji_t さん
故郷と東京の歌レス
[45500]稲生 さん
歌声広場というHPに出会ったのですが、40代以降の中年に、心地よい曲が満載です。
参考までに「歌声広場」より多数の曲を集めているサイトです。
ふくちゃんの音楽室

[45529]Issie さん
マイペースの「東京」
「最終“電車”」なんですね。
「電車」だと,“上野駅”ではなくて“東京駅”のイメージかな。
重要なキーワード「電車」見落としていました。有難うございます。
自分で検索してみたら1974年の曲ですね。これもヒントになりますかね。

「なごり雪」
東京での“なごり雪”だから,「故郷」に雪が降らないとは限らないとも思います。
はい、私もそのつもりで、
雪の降らない南国以外
と書いたのですが、書き方が悪くて誤解をさせたようですね。すみません。
郷里での結婚が決まって、郷里に戻る女性を見送る曲(だから「今春が来て君はきれいになった」)深読みしすぎですかね?

参考:早稲田大学の社会学の先生の講義記録
「東京ソング」
音楽メディアにおける「東京の物語」すなわち「東京」をめぐる戦後の流行歌に着目し、そこで歌われている「東京」イメージの変容について
[45532] 2005年 10月 9日(日)08:33:30eiji_t さん
「夜のピクニック」レス
[45514]右左府 さん
この行事の始まりは、私の学校の場合戦前・戦中のどちらかだったはずです。「十里強歩」という名前も当時は軍事色漂うものでした。
それでは水戸一高より歴史は古いんですね。水戸一高も前身は戦中の「鍛錬行軍」だった様ですが、戦後「歩く会」が始まったのは1949年ですから。
『夜のピクニック』は読んでいないのでお奨めする訳ではないのですが、読む本には「時期」があると思います。自分も十代の頃読みそびれて、いまだに読んでいない『ライ麦畑でつかまえて』(村上春樹の新訳では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)があります。もし今読んでも十代の頃と読後感が全く違うと思います。
読み出したら一気だと思いますよ。

[45523]稲生 さん
水戸一高の「夜のピクニック」は、今頃仮眠をとりはじめる頃でしょうね。水戸一高OBの雑魚さんが拙HP掲示板でも、教えてくれました。
「歩く会」雨で大変でしょうね。それも「想い出」になるでかな。
「雑魚さん」とは、私が落書き帳に登場する前に常連だった方ですか?お元気ですか?
稲生さんのHP覗いてみます。
[45502] 2005年 10月 8日(土)10:04:08【2】eiji_t さん
遅ればせながら、故郷と東京
故郷と東京を歌ったもの、過去ログ検索から
[6265] Issie さん
“西から上京してきた歌”太田裕美の「木綿のハンカチーフ」と海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」「故郷いまだ忘れがたく」あたりかな。少し性格が違うけど,村田英雄の「王将」もそうかしら。
[23171]白桃 さん
昭和30年頃から始まる東京への人口一極集中化を歌ったものに、「僕は泣いちっち」、「リンゴ村から」、「南国土佐を後にして」などなど。これは「大阪で生まれた女」?を経由して1975年頃の「木綿のハンカチーフ」あたりまで続きますね。
「木綿のハンカチーフ」は、過去にも登場していますね。

私の思い付いたものでは
マイペースの「東京」
"君の住む""花の都""もう何度も行きましたね"とありますから遠距離恋愛物?
これは昭和何年?交通の便が良くなった?歌詞からは故郷の東西不明。
東京を離れて故郷へ戻る歌は「なごり雪」
"東京で見る雪はこれで最後ね"ですから雪の降らない南国以外やはり故郷の東西不明。

やはり東京は特別なんでしょうか。かく言う私も東京に十年間住んだことがあり、故郷以外では最長です。

※2ヶ所訂正
[45464] 2005年 10月 7日(金)10:24:01eiji_t さん
『夜のピクニック』と学校伝説
茨城県立水戸第一高等学校(水戸一校)には伝統行事「歩く会」があります。毎年10月に実施され、夜通し歩きます。今年で57回目です。今年は8,9日に大子町~同校まで65km歩くそうです。

朝日新聞の茨城版で知りましが「歩く会」がモデルになった小説『夜のピクニック』が同校出身の作家によって書かれベストセラーになり、映画化も決定したそうです。
同校出身でない私は「歩く会」は知っていましたが、小説も作者も初耳でした。

同校ではその代わり修学旅行がありません。「歩く会」が始まった由来はその修学旅行の不祥事が絡んでいるそうですが、定説がなく伝説と化しています。その幾つかを…

私が高校の修学旅行前に先生から聞いたのは、団体列車が駅に着いた時、ホームの売店で買い物した同校の生徒達が突然の発車ベルで金を払わずに列車に乗り込み結果的に集団万引きになり大問題に発展した、というものです(先生の言いたかったのは、お前らも不祥事を起こすなよ)。
googleで検索してみると、
・泊まった旅館で生徒が寝煙草をして、旅館が火事になったというもの。
・やはり旅館で生徒達が大暴れして襖や畳などを目茶目茶にし。旅館組合がボイコットして以後修学旅行を実施しないというもの。
我母校でも大暴れして永久に泊まれない旅館があるそうで、上記の話が本当なら水戸一校ではそれが数年続いたのかな?
・修学旅行の不祥事は明治43年で「歩く会」は戦中の鍛錬行軍が前身だというもの。

明らかに誤りと判る伝説も見付けました。
・京都広隆寺の弥勒菩薩(国宝)に抱きついた生徒が指を折ってしまったというもの。
(この事件は昭和35年、大学生(京大生)が起こしたもので、「歩く会」は昭和24年から)
・土浦一高が学校も先に出来「歩く会」も水戸一校が真似したというもの。
(土浦一高の前身は水戸中学(水戸一校)の分校として県下で2番目。「歩く会」も水戸一校より20年ほど遅い)。
土浦一高も修学旅行がなく、上記に似た伝説もありまた。京都の金閣寺に落書きしたというもの。

皆さんの地元の高校でも「歩く会」に似た行事があるでしょうか?
私がテレビで見たのでは、東北(?)の高校で新入生歓迎の徒歩旅行があり、慣れない新入生を上級生が世話をし、親睦を深めるというものでした。

また、修学旅行にまつわる伝説も、あったらお知らせ下さい。
[45450] 2005年 10月 6日(木)21:51:30eiji_t さん
「小国民」「少国民」余波
[45445]hmt さん
私の安易な誤りに丁寧なホロー有難うございます。
大変勉強になりました。「少国民」は1940年代前半の言葉と思い込んでいました。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は、中学生の時に読んで世界に目を開かれた想い出があります。現在でも出版されていて、超ロングセラーになっていますね。
またIssie さんに「少国民」とイタリアの繋がり、お聞きしたいですね。

追記
「産めよ殖やせよ」は1939年厚生省(当時)の『結婚十訓』の中の言葉で「国の為」が後に続きましす。当時の流行語になったそうでうす。
「産児制限」は意外にも1910年代初めに"birth control"の訳語として作られ、戦前は弾圧の対象だったそうです。

私の不用意な発言が波紋を呼んで、般若堂そんぴん さんと、ぐりゅんさんの論争に発展しそうな雰囲気です。
ここはそういう場ではないと思うので、人口問題でどうしても発言したい方は私も責任を感じますので私宛に個人メールを下さい(あて先はメンバー紹介でお調べ下さい)。
お騒がせした事をお詫びします。
[45437] 2005年 10月 6日(木)06:28:15eiji_t さん
Re:Re:人口問題に関して
[45434]ぐりゅん さん
地理ネタと外れるので、触れたくなかったのですが。
すみません。国勢調査について書いて、関連してしで人口問題に触れて、「戦後最大の政府の政策の失敗」などと書いてしまったのが始まりだと思います。

戦前・戦中の日本のことを「軍事国家」と称しているのだとすれば、
もう一度歴史や社会の勉強をしなおすことをお勧めします。
こちらもすみません。適切な言葉を想いつかなくて、自分でも「違うかな」と思いつつ、書込みして島しました。

言い訳に終始しましたが、今後とも適切なご指摘お願いします。
[45421] 2005年 10月 5日(水)18:25:16eiji_t さん
人口問題に関して
[45412]般若堂そんぴん さん
素早いレスありがとうございます。日頃からこの問題を考えている事が想像されます。
般若堂そんぴんさん は、日本の人口は減ったほうが良いとお考えのようですね。
実は私も基本的にはそう考えています。

問題は1947-1960年の急激な出生率低下です。私の[45409] は説明不足だったので、般若堂そんぴんさん に誤解を与えたようです。
戦後すぐの人口抑制政策は当然だったと思います。前に書いた理由の他に、教育の問題がありました。団塊の世代の話を聞くと、「すし詰め教室」「廊下まで児童生徒が溢れる」「代用教室」「午前と午後との二部授業」などで教室不足を補ったそうです。

急激な出生率低下が続くと、人口構成比に世代間のアンバランスが生ずるのです。
これが後に高齢化社会を齎すのです。
私が「戦後最大の政府の政策の失敗だったのでは」と書いたのは、政府が1947-1960年のどこかで政策の転換を図り、急激な出生率の低下を防ぐ手立てを打たなかった事にあります。後から人口の構成比を変えることは出来ないのです。
人口が減るにせよ増えるにせよ、急激な変化は後世に悪い影響を長く及ぼします。
過去の急激な出生率低下が生んだ高齢化社会を私たちはじたばたせず受け入れるしかないでしょう。

「戦後最大の政府の政策の失敗」と言うよりは,昭和前期の「生めよ殖やせよ」こそは「最大の失政」と思えるのです.
戦前の政策は軍事国家なら当然の政策だと思います。子どもを「小国民」と呼び、兵士の予備軍と考えていたからです。問題は軍事国家に突き進んだ事にあると思います。

労働力の不足を危惧する意見もありますが,「少子化対策」のかけ声につられてみたら,あらゆる産業分野でスリム化が要求され,職にあぶれる若者が増加,などという事態の方が深刻に思えます.
現在の政府の政策に国民は応えないと思います。政府が将来の展望を示し得ていない現状では、小手先の「少子化対策」(例えば児童手当を増やす)では、未来に子どもを託せないからです。これからも少子化は続くと思います。
[45417] 2005年 10月 5日(水)04:13:48eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(3)
[45357] [45394] の続きです。

3)昭和の大合併
昭和30年2月、1市6町村で合併し、新市名日立市。
この時の合併の重要な相手が多賀町でした。新市名で揉めたのも多賀町との間でした。

・まず多賀町の沿革から
昭和14年4月、河原子町,国分村,鮎川村が合併して多賀町が誕生します。この3町村の産業は農業を主体としていました。
この合併には軍需が絡んでいるのです。
それまで比較的軍需に消極的だった日立製作所も昭和十年代はいよいよ軍需産業に傾斜していきす。
日立製作所は新工場用地をこの地に求めます。それに平行して合併も進められます。
新工場と合併がいかに密接だったかは、合併期日と多賀工場創業が同日だったのに窺えます。
[37842] hmt さん
「大東亜戦体制合併」
私の造語では「軍需合併」、大東亜戦体制合併の一種です。
合併と新工場の密接さを窺わせるのは町の新名称にも表れます。地元では最初国分村の旧村名で、駅名にもなっている「下孫」を選んだが、日立製作所の専務が提言した新工場の名でもある「多賀」に決まります。
[2374]深海魚[雑魚] さん
常陸多賀周辺の沿革はなんだろう。郡名を名乗る以上、広域の中心地だったと思えるのだけれど。
ところが、事実は逆なのです。将来多賀郡の中心として発展することを祈ってつけられたそうです。
昭和14年10月「下孫駅」、「常陸多賀駅」に改称。
昭和16年1月「坂上村」編入。これにも日立製作所の施設(社宅)が絡みます。

・日立市と多賀町の合併
昭和28年の町村合併促進法に積極的だったのは日立市でした。市内に工場,住宅,学校などを増設する土地が不足しており、それを周辺の町村に求める構想があったからです。周辺の町村ではそれぞれの事情で温度差があったが、多賀町は消極的ででした。財政,都市設備も日立市に頼らなければということもなく、土地不足も特になかった。
そんななか、日立市,多賀町の首長は県知事に呼ばれ、「県北の鉱工業地帯の中心として発展する事が期待される。そのためには両者が合併する事が望ましい」と要請されました。
紆余曲折があって合併の合意にこぎつけましたが、新名称で揉めました。多賀町は「多賀」の名を残す事、あるいは「日立」の名前をはずすことを求めました。「常陸市」という名も挙がりました。
しかし結局「日立」の知名度が勝ちました。

他の5町村もそれぞれの問題を抱え、日立市との合併に関し経緯がありましたが略します。
昭和31年豊浦町編入。1年遅れたことに豊浦町の苦悩を感じます。
平成16年十王町編入。十王町は高萩市か日立市かで悩んだが日立市を選びます。

こうして3回に亘り日立市の合併の経緯を見てきますと、最初の日立村の誕生を除き日立製作所の存在がいかに大きかったか分かります。
[45409] 2005年 10月 4日(火)20:54:35eiji_t さん
今度の国勢調査は歴史に残ることなるかもしれない
[31511]白桃 さん
次の国勢調査(2005年)とその次の国勢調査(2010年)のいずれが多いか、いいかえれば、どちらが国勢調査史上最高人口となるか、は大いに気になるところであります。ピークになる年は中位推計と変わらない、ということであれば、ピークは2006年あたりでしょうか。そうなると、やはり、2005年国勢調査が最高人口となることが予測され、市町村合併の結果ともあいまって、本当に待ち遠しい国勢調査となりますね。
最近の報道ですと、どうも今回の国勢調査が人口のピークになるのは確実らしいです。
ということは日本の歴史始まって以来の事を、私たちは経験するんですね。
以前にも飢饉や戦争で一時的に人口減少することはあっても、自然減少は初めての現象でしょう。以後自然増加に転ずる可能性は非常に少ないと思います。

縄文中期26万人
弥生59万人
奈良451万人
江戸中期3,127万人
明治33(1900)4,654万人
大正09(1920)5,596万人
昭和45(1970)10,466万人
平成15(2004)12,768万人
平成17(2005)   ?
※大正,昭和は国勢調査、2004年は推計人口
(鬼塚宏・上智大教授)

「本当の「少子化」は昭和20年代」(落合恵美子・日文研助教授)
これを聞いた時は、目から鱗でした。
1947年の出生率4.54をピークに1960年には2.00と急激に下がります。以後出生率は暫くの安定期を経て、徐々に下がって現在に至ります。
この1947-1960の急激な人口低下が世代間の人口比を大きく変え、将来の急速な高齢化を約束する事になったのです。
当時の政府は人口抑制政策をとっていたのです。「将来の事より、目の前の物資不足や住宅不足」だったのでしょうが、これが戦後最大の政府の政策の失敗だったのではないでしょうか?

戦前「産めよ殖やせよ」
戦後「産児制限」
現在「少子化対策」

国策に振り回される国民の姿が目に浮かびます。


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