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YTさんの記事が1件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[109402]2023年12月18日
YT

[109402] 2023年 12月 18日(月)20:30:33【8】訂正年月日
【1】2023年 12月 18日(月)20:42:39
【2】2023年 12月 18日(月)21:02:27
【3】2023年 12月 18日(月)23:41:58
【4】2023年 12月 18日(月)23:55:22
【5】2023年 12月 19日(火)00:58:54
【6】2023年 12月 19日(火)13:02:31
【7】2023年 12月 19日(火)14:12:21
【8】2023年 12月 19日(火)17:59:25
YT さん
野島の削除、弁天島の扱いの問題、鹿老渡島・日振島について追加情報
[109398] オーナーグリグリさん

1.日本の有人島一覧の更新
未対応のYTさんからの情報を反映することでとりあえず一区切りとする予定です。今年中にこの件はまとめたいと考えています。なお、編集システムの開発については[109381]YTさんのコメントもありますので一旦保留とします。

すみません。標題の件について問題が認められたので、追加で修正が必要となりました。[109381]の内容については今週中にもう一回整理してみます(もう修正を行っていたら申し訳ありません)。

『新版 日本の島事典』「第III部 島嶼県別統計」は、国土地理院地図のデータをベースに島面積を算出している関係で、岡山県瀬戸内市の長島、広島県呉市の倉橋島、愛媛県宇和島市の日振島、長崎県対馬市の対馬のように、後から人為的な水路が作られた場合には無駄に分割してしまうという欠点はありますが([109381][109396])、その反面、鹿児島県出水市の蕨島([109392])、沖縄県豊見城市の瀬長島([109393])は掲載されておらず、これらの島が埋め立てによって既に本土と接続してしまっていたことを確認するきっかけになる点で役に立ちました。ただ「第III部 島嶼県別統計」には別の問題があり、一応脚注に「自然島」「人工島」の区別がありますが、人工島を自然島扱いにしてしまっているケースが散見します。

例えば国土地理院の日本の島の数(2023年2月28日14時00分発表)によると、自然に形成された陸地ではないと判断した例として横浜市金沢区の八景島が挙げられていますが、こちらは『新版 日本の島事典』「第III部 島嶼県別統計」では自然島として扱われています(もっとも国瀬調査では無人島なので本件での議論の対象外です)。ここで八景島が取り上げられたのは、もしかしたら2022年12月出版の『新版 日本の島事典』の内容を吟味しての結果かも知れません。

そこで[109392]にも書いたように、自然島かどうか微妙な、神奈川県横浜市の野島と広島県広島市南区の宇品島について、過去の地図との比較を行ったところ、野島は自然島として扱うのには問題大ありでした。

神奈川県横浜市野島については[82781][82782]、島根県浜田市の瀬戸ヶ島/瀬戸ケ島については[82815]、広島県広島市南区の宇品島については[86248]に関連する情報が示されています。瀬戸ヶ島はほぼ問題なく自然島。野島は自然に陸繋島となった後、何度も水路を開削されている島。宇品島は一度埋め立てられた後、再度水路を開削された島です。一応野島も宇品島も『新版 日本の島事典』では「自然島」扱いとなっていますが、経歴的には微妙な島です。

【宇品島】まず宇品島ですが、『伊能大図彩色図』には「仁保島村属 宇品島」と書かれ、立派な島です。『天保国絵図』では「宇治名」、昭和7年(1932年)部分修正の陸地測量部の『五万分の一地形図』でも「宇品島」です。宇品島が埋め立てられていたのは明治時代の一時期だけのようなので([86248])、こちらは自然島として扱って問題なさそうです。

【野島】しかしながら問題があったのは野島です。まず『伊能大図彩色図』では、「洲崎村」「野島」と描かれてる場所は完全に半島となっており、島とは言えません。『天保国絵図』では、「「洲崎村内野嶋浦」」とあり、こちらも半島です。今昔マップを見ると明治36年(1903年)測量の五万分の一地形図、昭和19年(1944年)部分修正の五万分の一地形図でも、どちらも野島部分は半島となっており、島とは言えません。どうも上の地図修正が行われた直後の1945年以降、野島運河や野島水路が作られて独立島に復帰したようです。「野島」という名称がある以上、古代には自然島だったようですが、有史時代にトンボロが完成され、伊能図が書かれた頃の江戸時代後期から昭和初期まで長らく陸続きと認識されていたようで、独立島しての歴史はかなり浅いようです。つまり野島は『新版 日本の島事典』「第III部 島嶼県別統計」では「自然島」という扱いになってはいますが、測量技術が導入された19世紀以降は満潮時にも陸繋島化している期間の方が長く、人工島として扱うべきと判断されます。野島を[109381]の修正案のリストから削除すると、本州の人口は2020年102,577,160→102,579,606人、2015年102,977,838→102,980,442人と、結構影響は大きいです。

【弁天島:以下舞阪町史の情報により細かい変遷情報を後から追加、杭嶋→狐嶋に訂正】今もう一つ悩んでいるのは静岡県浜松西区・湖西市の弁天島の扱いです。今切変遷図によると、明応8年(1498年)の大地震の洪水で今切口が出来、その際に舞阪側に「狐嶋」ができたと書かれています。ただしこれは同時代の史料ではないので、実際にどの大地震(明応7年(1498年)か永正7年(1510年)か)の津波で今切口が出来たのかは断定できません。その後宝永4年(1707年)の津波の影響で、新居側に「元荒井跡」、「荒井跡」という島が出来たほか(今切変遷図の変化を見ると、新居側は新しくできた2島(元荒井、荒井)の南側に2島が新たに形成されて4島となった後、南側は再び繋がって18世紀中に再度半島化し、北側の元荒井、荒井は中洲化して現在に至ると推測されます)、「狐嶋」側は「弁天島」となっています。ただし弁天島に弁天が祀られるのは宝永6年(1709年)以降のことなので、この時代は「弁天島」ではなくて「西之野」と呼ばれていたようです。地図をよくみると、弁天島の左側には「波ヨケ杭二十三丁」と書かれています。

話は前後しますが、実は浜松市立図書館の方で1650年前後に作成された正保国絵図に該当するものを閲覧できるのですが、今切船渡の上に三つ島が書かれており、左から「荒地?」「嶋濱?」「嶋濱?」と書かれているようなのですが、漢字が崩し字過ぎて読めません。場所的には宝永4年以前の「弁天島」、つまり「狐嶋」周辺でしょう。

続いて『伊能大図彩色図』では、舞阪側から「弁天ジマ」「二本抗」(現在の新弁天に相当か)と書き込まれた半島が伸びており、島として描かれていません。先に紹介した今切変遷図の宝永4年の津波の影響の図によると、弁天島から北西方向に「波ヨケ杭二十三丁」が打たれていたことを考慮すると、伊能の時代に「二本杭」まで陸地が伸びている原因は、このように防波目的で人工的な杭を打ち込んだため、トンボロが形成されたせいかも知れません。伊能が浜名湖を測量したのは文化2年(1805年)のこととされていますが、その後の文政6年(1823年)に描かれた遠淡海浜名湖之図では、半島に2か所切れ目が入り、弁天島と二本杭が分離しており、再び島化しています。一方『天保国絵図』では弁天島から二本杭まで一つの伸びる島となっています。今昔マップになると、明治23年(1890年)の測量図では弁天島、北弁天島(第二弁天島→1932年以降は日之出島)、西弁天島(→新弁天)、西弁天島の北側の小さい島(カラス島)など4つが独立島として描かれ、既に鉄道と橋が敷かれています。大正6年(1917年)の測量図では、西弁天島(新弁天)の北側の小さい島が2つ(カラス島、東郷島)に増えて5つの独立島となり、昭和13年(1938年)の測量図では北弁天島(第二弁天島)の北側に西野島浦の埋め立て地が作られ、さらに一気に6つの人工島(乙女園、蓬莱園、千鳥園、観月園、湖島、楽園)が作られています(西野島浦の埋め立て地や乙女島はそれぞれ水路で2つに分離していますが、西野島浦と乙女島の水路を無視するとこの段階では12島)。その後北弁天島(第二弁天島)~西野島浦~楽園は完全に埋め立てられて昭和7年(1932年)以降日之出島となります(10島)。昭和32年(1957年)修正版で渚園が作られ始め(11島)、昭和54年(1979年)修正版では新弁天の北側のカラス島、東郷島を含め、新弁天から乙女園までが完全に埋め立てられています(8島)。

このように弁天島の歴史は複雑で、明和または永正の大津波で狐嶋が形成された後、17世紀中頃には3島に分裂していた時代もあり(正保国絵図)、18世紀初頭の宝永の大津波で西之野のみ残って後は消滅(新居側が一時期2島が分裂し、さらに4島となり、南側が再び半島化して2島となっている)。島に弁天が祭られるようになって弁天島と呼ばれるようになり、19世紀初頭の伊能図では再度半島化しており、19世紀中頃には再び根本が切れて長い1つの島(天保国絵図)、ないしは2つの島に分裂(弁天島と西弁天島)、19世紀後半には4つの島に分離しており(陸軍参謀本部の測量図)、さらに5つに分裂し、昭和初期に7つの人工島が北側に建設され、その内3つの島が埋め立てで統合。さらに戦後に渚島が建設となり、やがて4つの島が埋め立てで統合。後から埋め立てられた島は当然人工島ですが、オリジナルの弁天島・新弁天・日之出島全体を一個の自然島とみなし、他の島を付随する人工島とみなすのか、ちょっと扱いに悩みます。SHIMADASなどでは弁天島をはっきり「人工島」として扱っており、自分としても現状では弁天島を削除してしまう方向に考えが傾きつつあります。[109381]にまとめた修正内容については今週中にもう一回整理します。

【鹿老渡島の堀切水路】また話は大分変りますが鹿老渡島について、個人のブログからこのような記述を見つけました。

島の西南部である鹿老渡はもともと地続きですが倉橋島の網元である林家が私費で堀を切りました
江戸時代のことです
この堀切のお陰で船はショートカットできるようになり鹿老渡は発展したようです
白砂青松の風景---
その名も『堀切橋』を渡り鹿老渡へ行ってみました(続く)

上のブログでは「林家」となっていますが、「宮林家」という、材木で栄えた商家があり、大名が泊まることができる本陣を鹿老渡に構えていたようです。しかもこの本陣には伊能忠敬も泊まり、ここで天文観測を行った可能性が高いそうです。伊能忠敬研究の方に中村士「伊能忠敬が瀬戸内海測量で使用した天文測器と『夜中測量之図』の観測地」という興味深い研究論文が載っており、そちらを抜粋で紹介します。

鹿老渡には 一行は 2泊3日滞在したことが分る。鹿嶋の一周測量のために必要たったのだろうが、忠敬の測量では同所に 2泊することは比較的珍しい。
図3の地図に見るように、鹿老渡は呉市の江田島に隣接する倉橋島にあり、最南端に位置する小さな港である。江戸時代には廻船の潮待ち ・風待ちのために栄えた瀬戸内海の良港だった。上述の新出測器は、この鹿老渡の辰之助直範なる人物(士分と思われるが素性未詳)が、忠敬の鹿老渡滞在時に象限儀と子午線儀の構造を調べ、寸法を測定したのだろう。伊能隊は鹿老渡に2泊3日滞在したために、二日目の昼間測量では象限儀・子午線儀は持ち歩かず宿に残していたはずで、辰之助は昼間に詳しく計測させてもらえたと想像する(『伊能忠敬測量日記』を読むと、忠敬は各所で来訪者に気軽に測量器具や天文測器を見学させたり、天文暦学書を質し与えたりしている)。その計測結果を元にして辰之助は、理由は不明だが、25年後の天保2年(1831)になって新出測器を復元製作し、それらがやがて上に述べた大庄屋宮尾家に渡ったと推定されるのである。
(中略)
倉橋島の古い建築に関する調査報告書(21)では、鹿老渡で寛政3年(1791)頃からの建物が残っているのは、野村家と宮林家の2軒だけと書かれている。『倉橋島志』によると、野村家は、貞享頃から文政年間まで断続的だが庄屋と地域の組頭を務めていた(22)。しかし、小川氏と私が鹿老渡を紡れた時(20115月14日)には、街路の東端に位置する野村家の建物は、だいぶ以前に解体されて、古めかしい蔵一棟だけを残した無住の更地になっていた。
そこで、民宿を経営するという街路酉端の角地の宮林家を、間取り調査のために訪問した。宮林家の建物は鹿老渡の中でもひときわ目立ち、古い歴史を感じさせる。中庭を取り巻く堂々たる白壁土蔵造りの平屋建である。正面玄関に接した八畳間だけで6~7部屋ある(21)。『倉橋町史』には、宮林家は本陣に使われたこともあると記されている(19)。宮林、野村の屋敷 ・建物は、19世紀初めから基本構成は変わっていないという(19)。
本節では、応対下さった宮林家の老未亡人の話をまず要約する(23)。民宿はご本人の健康上の理由から、数年前(調査当時)から止めている、宮林家の歴史と、同家が昔から伝統ある旧家だったことは、宮林家先代の賢から度々聞かされていたとのことだった(図6)。驚かされたのは、私たちが伊能忠敬の話を持ち出す前に、宮林家は野村家の分家で、両家はもとは津和野屋金右衛門という名前だったと、未亡人は、はっきり明言されたことである(忠敬の測量については何もご存じなかった)。この名前は、『伊能忠敬測量日記』の中に出てくる、忠敬らが鹿老渡で天測のために止宿した宿の当主の名前そのものだった(2.2節)。従って、忠敬らの天測は、野村家か宮林家かの層厳内で行なわれたことが明白になった。
『倉橋町史』(19)や『倉橋の建築』(21)等によると、江戸時代の両家の先祖は材木商で、これは鹿老渡の造船業と関係があったと記されている。これに対して、未亡人の話では江戸時代の宮林家は鹿老渡のいわゆる綱元で、漁のための網小屋をいくつも持ち、綱子も多数抱えていたため、大勢が泊まれるように間取り数の多い大きな屋敷になったとのことだった。また、瀬戸内海を往来する大名や文人墨客もしばしば宿泊したため、現在も当家には頼山陽や聿庵(いつあん)ら有名人の扇額がいくつも残されている。
『倉橋の建築』(21)に収録された両家の屋敷の図面を比較すると、宮林家の方が屋敷の規模は大きいから、いつの時代からか、分家である宮林家の生業の方がより盛んになったらしい。以上、述べてきた情報だけでは、忠敬らの天測が街路東端の野村家と西端の宮林家とのどちらで行なわれたかを確定することはできない。しかし、筆者には、宮林家の方がより可能性が高いように恩われる。それは、富林家が、江戸時代から大きな宿泊所として利用されてきたこと、天測場所に相応しい中庭が今も残っていること、宮林家の方が西に位置していて、 図5の天測点(「☆」印)により近いこと、などの理由からである。

以上、ブログの情報がある程度正しいとすると、鹿老渡の堀切水路が掘られたのは江戸時代のことで、水路を掘るための資金を出したのは網元である「宮林家」であり、そこはほかならぬ伊能忠敬が宿泊して夜中に天測観測を実施した家である可能性が高いということです。堀切水路が作られらた年代を絞るため、とりあえず、『海と人々のくらし / 倉橋町編』(2000年)には目を通しましたが、こちらには堀切水路に関する情報は掲載されていませんでした。残る文献として倉橋町編『倉橋町史 通史編』(2001年)がありますが、前述のようにこちらは閲覧には余計な手続きが必要です。とりあえず水路が作られた時期が判明している対馬、長島に加え、倉橋島~鹿老渡島も人為的な水路が作られたことがほぼ確定しました。

【日振島の堺浜水路】日振島については戦前は島を南北に分かつ水路も道路も掲載がありません([109396])が、こちらも個人のblogの方にもともと木製の橋が架かっていたという情報を見つけました。

真ん中の写真、この島と島が切れて向こう側が見えている部分には、昔は木製の橋が架かっていました。祖母によると、ある台風が日振島を襲った時、この橋を通っていた日振島小学校の子供たちが橋ごと流されたことがあったそうです。ほとんどの子供たちは助けられましたが、ある一人の女の子だけは見つからず。その後、網に引っ掛かっている所を発見されました。その子の母親は、毎日のようにここに通い、わが子を探していたそうです。
台風の度に流されていた橋は、現在は写真のようにコンクリート製の丈夫なつくりになっています。

宇和島市立日振島小学校の沿革によると、以下が該当しそうです。

昭和18年 津波あり、堺浜にて児童1名死亡

実は『新版 日本の島事典』の方にも以下の記述があったのですが、これによりこの橋が架かっている部分の固有名が「堺浜」、「堺の浜」であることが分かりました。

島中央部堺の浜で、幅10m程度の短水路で南(1.4186km2・13.668km・197.7m/北:2.3190km2・17.886km・158.8m)の2島に区切られるが、実質的に1島である。

後に「愛媛県道290号喜路能登線」を作る過程でコンクリートの橋が作られ、その際に水路がきっちり掘られたと推測されます(1960年代)。時期的に1958年の昭和の大合併(日振島村→宇和海村)よりも後、1974年の宇和島市への合併への前です。『宇和島市誌』(1974年)の方は、残念ながら宇和島市中心部の土木工事がメインで、こちらの水路の情報は載っていません。現状の情報から日振島の状況を推測すると、昭和初期の段階で日振島は満潮時にも堺浜は繋がっていたが、濡れないように歩くために木の橋がかけられていた。南北をつなぐ県道が作られた際に国土地理院地図でもはっきり描かれる水路が作られた、のではないかと推測しました。

それにしても上のブログの写真を見る限り、水路は実に狭いですね。国土地位地図だと水路は一番狭いところで5メートルです。


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