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YSKさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[67183]2008年11月3日
YSK
[67173]2008年11月2日
YSK
[67107]2008年10月23日
YSK
[67023]2008年10月14日
YSK
[66882]2008年9月28日
YSK
[66662]2008年9月8日
YSK
[66651]2008年9月7日
YSK
[66587]2008年9月3日
YSK
[66268]2008年8月19日
YSK
[65931]2008年8月5日
YSK

[67183] 2008年 11月 3日(月)00:27:41YSK さん
東京フィールドワーク、仙台
こんばんは、秋らしい穏やかな晴天に恵まれた当地です。本日、今年に入って意識的に取り組んでいる東京フィールドワークに出かけてまいりました。暑くもなく、寒くもなく、歩くにはちょうどよい陽気で、たいへんさわやかな町歩きをすることができました。

[67174]ペーロケさん
仙台レスありがとうございます。仙台については私のページにある「クローズアップ仙台」が参考になるかと思いますので、ご覧になってくださいますと幸いです。

むしろ、時代とともに変化する様子が面白いですね。戦前は青葉通りや広瀬通りなんて存在せず、戦後になって広い都市計画道路が整備されたというのがよく分かります。
私が指摘したいのは、こういった広幅員の道路が整備されても、城下町時代から形成されてきた街路網の形を大きく崩すものではなかった、ということです。仙台高裁前先から北目町にかけて市街地を斜めに横切る「五ツ橋通」や、青葉通の西側付近が碁盤目状の市街地の形をイレギュラーに貫く道路としてやや目立っていまして、多くの街路が既存の道路を拡幅したり、また碁盤目状の形を崩すことなく整備されています。広瀬通も西半分は「立町」を、そして東半分の一部は「元寺小路」を拡幅・整理したもののようです。

現在の地図では二十人町が広瀬通りにつながっているように見えますが、実は大町に繋がっており、広瀬通りは鉄砲町に繋がっていたとは。「X橋」というモノにすっかり騙されました。
「X橋(正式名称は「宮城野橋」)はJR線を跨ぐ橋ですね。ちなみに[67107]に書きましたとおり「大町」は東二番丁までで、この付近の通り名は「名掛丁」となります。そして広瀬通も戦前までの言い方で言うと「元寺小路」となります。X橋は東行きと西行きで一方通行路となっている2つの道路が橋上で1つに束ねられ、橋を降りるとまた2つに分かれるという構造の橋でした(下図)。その形から通称の「X橋」が広く知られており、正式名称の「宮城野橋」はあまり知られていないようです。

元寺小路(広瀬通)元寺小路・鉄砲町
名掛丁名掛丁・二十人町

X橋のうち、西南の名掛丁に下りる部分は再開発ビル「アエル」の建設に伴い廃止され、現在ではすべて元寺小路(広瀬通)へ下りるようになっています。

仙台駅東第二地区では既存の建物を必要以上に壊さず、時間をかけて少しづつ整備していっている
そんなことは無いですよ。二十人町や鉄砲町では建物の撤去が進み、拡幅や区画整理の済んだエリアではマンションなどが建った部分と更地の部分とがモザイク状に展開している光景を目にすることができます。JR仙石線の地下化が完成したあたりからこのエリアでも区画整理のピッチが徐々に上がっているようで、戦災を免れ、昔ながらの住宅地と近隣商業地域が広がっていたかつての鉄砲町と二十人町の風景はもうほとんど無くなっているといっても良い状況となっています。このエリアは2003年から定期的にフィールドワークして取材しておりますので、「クローズアップ仙台」内該当記事をご確認くださいね。

エスカレーター関係は稿を改めたいと思います。
[67173] 2008年 11月 2日(日)01:02:59YSK さん
仙台エスカレーター事情
こんばんは、最近は朝晩かなり涼しくなってきた当地です。今週金曜日は立冬で、暦の上では冬になります。初夏あたりから夜間のウォーキングを続けており、最近はオリオン座が東の空にしっかりと見えるようになっております。

[67145]ペーロケさん
仙台の街路網についてのレスありがとうございます。仙台の地図を時系列で見ると、仙台の町がいかにシステマティックに形成され、城下町時代に完成したそのベースが現在においてもはっきりと残されているかが理解できると思います。実際に現地をフィールドワークしますともっとよくそのことが実感されると思います。

仙台におけるエスカレータ事情のお話を興味深く拝見いたしております。年に2、3回は仙台を訪れて町の変化を見つめ続けてきた私の視点からは、仙台でエスカレーターの右に寄るか左に寄るかは特に決まっていない、あるいはエスカレーター上で秩序だってどちらかに寄って乗るという行為自体習慣化していない、と言ってもいい状態なのではないかと推測します。

仙台へは自家用車で、東北道をひたすら走って行くことが多い私ですが、最近ひょんなことから某地下鉄駅周辺で格安のパーキングを発見したことから、今ではその駐車場に車を止めて、地下鉄で市街地へ向かうことにしております。そのため地下鉄の仙台駅やJR仙台駅を利用する機会も多く、そこでの印象から、上記の推測を持つに至ったわけです。

大都市仙台とはいえ、都心の人口は相対的にさほど多くなく、多くの市民は郊外や都心近隣地域に居住し、日常の足の主役は自家用車であるという事情は他の非大都市圏域と変わりありません。日常的にエスカレーターを利用する層はあまり多くないと考えられます。結果として、エスカレーターを利用することはあっても、みんなで一定のサイドに寄って乗るという習慣が根付くまでには至っていない。いろいろな調査?で一定の傾向が認められないのも、そうした事情によるものと推測します。
[67107] 2008年 10月 23日(木)23:55:15【1】YSK さん
商店街の範囲に息づく旧町名
本日あたりから雨が降り始めた当地ですが、ここのところ穏やかな陽気が続いていたことから、週末ごとにフィールドワーク活動を行うようになりました。最近は東京に凝っておりまして、ちまちまと出かけておりました。また、今年は5年ぶりに原点に返って、あのエリアを重点的に再訪したいと考えています。

[67068]ペーロケさん
仙台へのレスありがとうございます。今年は既に3回も仙台に出かけておりまして、ここ数年の町の急激な変化をつぶさに見つめています。超高層ビルが増えてきたこと、有名海外ブランドのショップが出店するようになったこと・・・。数年前の仙台では考えられないような変化が起こっています。

土地勘がない故に、具体的な地名を言われてもピンと来なかったのですが、地図を片手に

そうですね、私が[67023]でご紹介した旧町名はほとんど住所地名として現存していませんから、なおさら分かりにくかったかもしれません。しかしながら、見かけ上は目立たなくなった旧町名も、意外な部分で今も息づいております。それが商店街の区分です。

芭蕉の辻(国分町通<南北の通り>と中央通<東西の通り>の交点)から東へ、一番町通り(かつての東一番丁)との交点から東二番丁までが「マーブルロードおおまち」商店街で、旧町名の「大町五丁目」にあたるようです(仙台城から近い順に大町頭、大町一丁目、・・・、大町五丁目までありました)。さらに東へ、東五番丁(現在の愛宕上杉通)の手前までが「クリスロード商店街」で、これは旧新伝馬町の範囲に符合します。そして、ここから東が「ハピナ名掛丁」商店街で、これは旧町名「名掛丁」が商店街の名前に生きていますね。名掛丁はこの地点で鉄路で分断されておりまして、線路の東側には西口では旧町名となった「名掛丁」が現役の町名として残っています。

このように、商店街の範囲に仙台城下町時代の町名の範域が残っているわけです。

ちなみに、リンクしたヤフー地図では「ぶらんどーむ一番町」商店街は青葉通まで達しているように記入されていますが(こちら)、これは現地に行けば分かりますが誤りでして、ぶらんどーむは中央通(かつての「大町」)との交点(藤崎デパート北西隅)までとなります。ここから南が「サンモール一番町」商店街で、青葉通を越えて南町通まで続いております。現在の幹線道路である青葉通ではなく、仙台城下町の伝統的な目抜き通りであった大町(中央通)が商店街の境界となっていることも、大町が仙台においてどのような位置づけにあったとおりであったかを物語っているように感じられて、たいへん興味深いです。

[67034]Issieさん
メッセージありがとうございます。今月上旬に仙台に行った際、お話の展示会の開催を知らせる旗を名掛丁で見かけました。開催前で残念ながら見ることはできませんでした。地図中心、興味深そうですね。手に入れてみようかなと思います。

[67051]千本桜さん
メッセージありがとうございます。名掛丁のミスのご指摘、ありがとうございます。手近にさまざまな資料があるのに確認を怠ってしまいました・・・。以前[66651]でお話しした仙台駅の東西自由通路は、まさに名掛丁のルートに当たりますね。これまでは暗く夜中通るのが恐い地下通路しかなかった部分に、明るい自由通路が完成しました。
[67023] 2008年 10月 14日(火)23:59:07YSK さん
仙台駅
現在の仙台市街地における繁華街の核はJR仙台駅西口を中心としたエリアと、一番町通と中央通とによって構成されるアーケード街を中心としたエリア(中心は広瀬通一番町付近)とです。双方は約1キロメートルほど離れておりますが、アーケード街で有機的に繋がっているため、人々の動線が確保され、ほぼ一体的な市街地を構成しています。

[67019]Issieさん
お話を拝見いたしましたが、仙台経験が相対的に長い私の意見は少し違います。

まず、明らかな誤りは、「芭蕉の辻」は大町と東一番丁の交点ではなく、大町と奥州街道筋(現在の国分町通)の交点です。ちなみに、「一番丁通」「大町通」という表現も厳密に言えば誤りで、それぞれ「東一番丁」「大町」とするのが正しいです。仙台的な語感では、「○○通」というのは「○○」へ通じる道及びその道沿いの町という意味です。芭蕉の辻以南の奥州街道筋は「南町」と呼ばれていましたが、その南町へ通じる東西の通りが「南町通」と呼ばれました。この通りは市電通りとなったため戦前から拡幅されまして、現在でも仙台市街地における重要な通りとなっています。一見市街地の南側を貫通する通りだからその名があると錯覚しますが、本来は当時一大繁華街であった南町へと通じる通りであるという意味でして、市電開通前は本当に細い路地であったようです。

仙台城下町建設にあたって、ベースラインとなったものが、南北の奥州街道筋と東西の大町で、大町は仙台城大手門から広瀬川の大橋を経て、まっすぐ城下を東西に貫通する目抜き通りでした。その交点が「芭蕉の辻」と呼ばれ、高札場ともなった、仙台城下町の一大結節点でした。現在では相対的に市街地の中心部から外れ、多く集積してきた卸売業等の店舗も郊外の卸町等に移転し、やや寂れた印象のエリアとなっていますが、日銀仙台支店をはじめとした金融機関は現在でも集積していまして、町の中心たる面影もまた残すエリアです。

大町は東に向かって新伝馬町(しんてんまち)、名掛丁(ながけちょう)を経て二十人町、原町へと至り、陸前浜街道筋へと連接しました。城下町時代から近代にかけても多くの商店が集まる中心市街地として繁栄していました。この大町~新伝馬町~名掛丁のうち、一番町通以東が現在「中央通」と呼ばれるアーケード街となっています。

一方で、現在の仙台駅のあるエリアは、北東に祀られる東照宮から南へ、宮町、東六番丁、清水小路を経て、藩政期は大寺であった大年寺へと一直線に繋がる堂々たる門前町通が形成されていまして、この周辺を中心市街地内に組み込む都市軸として機能していました。宮町は現在でも東照宮に向かって直線的な道路としてあり、清水小路は、東五番丁と一体となり、現在の「愛宕上杉通」となっています。東六番丁はといいますと、実はこの通りこそ、現在の仙台駅のある場所にあたります。仙台駅舎及び鉄路は東六番丁筋をまるまるつぶす形で完成しております。結果として上述の門前町を連接する南北の通りは遮断され、また当時繁華街であった名掛丁も東西に分断され、仙台市街地の都市構造は大きな影響を受けることとなります。特に名掛丁東部以東の陸前浜街道筋はさびれていくこととなります。

以上のような認識から、仙台駅のある場所は必ずしも「町外れ」ではなく、当時栄えていた町場の一部をまさしく“縦断”し、当時の人々の感覚では中心市街地の一部を横切ったように映ったことと思います。まあ、中心市街地の本当に中心という意味ではやや東にずれた位置ではありますが・・・。せめて宮町~東六番丁~清水小路の幹線を壊すことなく、その東に隣接して駅ができればまた違っていたのでしょうが、既存の住宅地域をなるべく壊さないように鉄路を通すため、当時直線的に繋がっていて土地を確保しやすかった東六番丁が駅舎の適地とされたのでしょう。

なお、

当初は長町方面からほぼ直線に現在の 宮城野貨物駅 付近を通過してそこに駅を設置する計画であったものを,住民の運動によって市街地に“できるだけ近いところ”まで線路を引き込んで,現在の位置に駅が設置されることとなった,という話が伝えられています。

というご説明は、仙台関連の多くの書籍で散見される内容ですね。

なお、仙台駅東口は「東○番丁」などの町場が割り出された足軽などの居住地及び市街地から移転された寺院が集積する寺町(新寺地区や連坊地区)でして、戦災が少なかったことから高度経済成長期も低層の住宅地域や寺院、近隣商業エリアが交錯するエリアでしたが、1970年代半ば頃から順次土地区画整理事業が進められ、「宮城野通」を中心とした現代的な都市地域へと生まれ変わりました。現在は、旧仙石線の鉄路が通ったエリアより北、二十人町から鉄砲町にかけてのエリアで土地区画整理事業が進行中で、完成の暁には、西口の広瀬通と繋がった一大幹線道路がエリアを貫通する予定となっています。
[66882] 2008年 9月 28日(日)14:37:49YSK さん
「中山」の北に「南中山」
[66878]hmtさん
仙台市には、「中山」の北に「南中山」があります(さらに、南中山の北には北中山があります)(地図)。これは、もともと仙台市と旧泉市と異なった自治体の中で別個に住居表示がされたものが、合併により同一市内になってしまったものです。

仙台市内・旧泉市内を問わず、広くこの一帯が「中山」と呼ばれていたため、自治体が異なっていた時代に双方で「中山」を用いた街区が誕生、後の合併に伴いそれらの中山地区がすべて仙台市内に存することになったことに伴う現象です。
[66662] 2008年 9月 8日(月)07:59:30YSK さん
!!
[66654]牛山牛太郎さん
早速の訂正ありがとうございました。ほんとうにおおぼけですね、エスパルと私自身は書いたつもりでした・・・。ちなみに、フォーラスとは、仙台市中心部、広瀬通一番町にあるデパート?ファッションビル?のことです。

一日の限られた時間の中で市街地を歩き回っているので、なかなか見たい部分全部をフォローできないのが悲しいところですね。仙台も最近は変化の加速度がけっこうなものなので、早めに次回の訪問を企画できればと思っております。
[66651] 2008年 9月 7日(日)22:43:14YSK さん
白露・仙台
本日は日帰りで仙台フィールドワークを実施してまいりました。6月の尾瀬散策[65511]以来の本格的なフィールドワークとなりました。あすと長町、仙台駅東口等のフォローアップのほか、いくつか新規の地域もめぐっております。

仙台のトピックとしては、(1)西口に「パルコ」「フォーラスII」がオープン、(2)川内追廻住宅の移転先となった旧仙台政府倉庫、遺産として残す声も少なくない中解体、(3)、仙台駅名掛丁東西自由通路開通、(4)東口区画整理・地下鉄工事順調に進行中、といったところでしょうか。

不順な天候の続く今日この頃ですが、本日の仙台も時折雨の降る蒸し暑い陽気でした。そんな中、萩が見頃を迎えつつある仙台市野草園(太白区茂ヶ崎)にも足を伸ばしてみました。白露の今日、園内の緑はたいへんたおやかでした。

#仙台市内に最近足をお運びになった方がいらっしゃるようですが、「神宮」が[66644]EMMさんのおっしゃる「SO大神宮」であるとするならば、すぐ横でシートに囲まれた工事現場の一角があったはずです。これは地下鉄新駅設置に伴う工事です。

個人的な事情から長期に宿泊を伴うフィールドワークは当面は企画できそうになく、今回のような日帰り中心の活動となる見込みです。
[66587] 2008年 9月 3日(水)07:49:03YSK さん
前橋市、大津市、尼崎市
前橋市、大津市、尼崎市の市長が2日に総務大臣に2009年4月1日付けでの中核市移行を求める申出書を提出したようです。今秋にも閣議決定がなされる見通しです。

ニュースソース(京都新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080902-00000028-kyt-l25
[66268] 2008年 8月 19日(火)23:25:22YSK さん
地域のまとまりとしての郡
[66220]揖斐の山さん
勢多郡、消滅へ
これで、来年5月5日、富士見村も前橋市に編入となり、勢多郡が消滅しますね。群馬県内でも有数の面積を持っていた勢多郡がなくなってしまうというのも、どこか感慨深いものがあります。

ところで、この勢多郡ですが、今般の大合併により4つの市へ分かれて移行しました。赤城村と北橘村は渋川市へ、富士見村(予定)、大胡町、宮城村、粕川村は前橋市へ、新里村、黒保根村は桐生市へ、そして東村は新設のみどり市へ、それぞれ移行していきました(いくこととなります)。桐生市とみどり市の部分はやや変則的な結果となりましたが、勢多郡はもともと渋川広域圏、前橋広域圏、桐生広域圏の3つに分かれていまして、そのとおりの枠組みでほぼ合併が進んだということになりますね。

広域的にそれなりの一体性を持ち、平成の大合併でも郡域を基礎として合併が進んだ地域が多いなど、郡は地域的なまとまりの単位として実質的な結合関係を維持するケースが少なくない中で、勢多郡は例外的に郡全体としての一体感のない郡でありました。

上毛三山のひとつである赤城山をとりまくような郡域設定がなされていることから、赤城山の上州における象徴性の表れなのかな(赤城山北麓、現在の沼田市利根町や昭和村などは、かつて「北勢多郡」として、勢多エリアの一角だったこともあります)とも考えるのでした。
[65931] 2008年 8月 5日(火)01:24:18YSK さん
旧藪塚本町
6月中旬の尾瀬フィールドワーク以降、諸事情によりフィールドワーク活動と自ホームページの更新作業等のすべてを休止しております。7日には立秋を迎えることから、そろそろホームページのタイトルロゴの更新あたりから活動を再開したいなとは思っております。そうです、もう残暑の季節も目の前です。

「塚」における「丶」のある・ないについての話題がまとまっておりますが、新・太田市となった旧藪塚本町の「塚」は「丶」のある「ひげ塚」を採用していました。太田市のホームページ内でも本来は「ひげ塚」だが、ホームページ上では便宜的に「丶」のない「塚」を使用している旨説明されています。


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