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Issieさんの記事が20件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81105]2012年7月14日
Issie
[81097]2012年7月14日
Issie
[81051]2012年7月8日
Issie
[81044]2012年7月7日
Issie
[81012]2012年6月30日
Issie
[80984]2012年6月20日
Issie
[80981]2012年6月19日
Issie
[80925]2012年6月2日
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[80914]2012年5月30日
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[80878]2012年5月20日
Issie
[80559]2012年4月28日
Issie
[80555]2012年4月23日
Issie
[80545]2012年4月21日
Issie
[80538]2012年4月19日
Issie
[80533]2012年4月17日
Issie
[80518]2012年4月10日
Issie
[80476]2012年3月31日
Issie
[80475]2012年3月31日
Issie
[80472]2012年3月31日
Issie
[80471]2012年3月31日
Issie

[81105] 2012年 7月 14日(土)22:32:01【2】Issie さん
にっぽん列島横断ローカルバス乗り継ぎの旅
実は1996年に公開を開始した 私のサイト の当初のメインコンテンツは相模原・津久井地区の主要駅・バス停留場の列車とバスの時刻表を提示する,というものでした。掲載したのは以下の通り(行政区画は当時のもの):

 相模原市:橋本駅,淵野辺駅,上溝
 津久井町:三ヶ木,東野,関,鳥屋
 相模湖町:相模湖駅
 藤野町:藤野駅
 清川村:宮ヶ瀬
 愛川町:半原
 上野原町:上野原駅,本町三丁目,四方津駅
 道志村:月夜野

情報収集の手段は,鉄道の時刻に関しては東京圏の全列車を掲載する時刻表が市販されていましたからそれによりましたが(最近,書店への配本数が減っているのではないかという印象を受けます),バスについてはもっぱら人力による現地取材によりました。すでにデジタルカメラは所持していましたが,それで時刻表を撮影するという発想は持たず,ひたすらバス停の時刻表を筆写していました(その後,上溝や三ヶ木のようなターミナルでは営業所窓口で印刷された時刻表を入手するようになりましたが)。
このコンテンツは2002年頃に更新を停止して,その後正式に廃止しました。
一番大きな理由は,2001年頃から神奈中グループが自身のサイトでバス時刻表の開始したことです。逆に言えば,その頃まではバス事業者によるバス時刻情報そのもののネット公開さえなされていなかったのですね。
やがて私の職場が相模原から横浜に移ってしまい,リアルタイムで情報の更新ができなくなってしまったので,この分野からは完全に手を引きました。
だからこの手の情報を個人で提供し,それを随時更新していくことの困難さは十分に理解しています。
そしてその困難さは本質的に,行政をはじめとする公的組織でも,当の事業者自体でもそれほど変わらないのではないかと,思ってもいます。

[81087] グリグリ さん
NHK総合で土曜日の夕方「路線バスの旅」という番組がありますが

[81099] みかちゅう さん
路線バスを乗り継ぐのをメインとした番組として古いのは、TBSの「そこが知りたい」でしょうか。

最近では“12チャンネル”(テレビ東京。地デジ化後は“7チャンネル”ですが…)が数ヵ月おきに「土曜スペシャル」枠で表題の番組を制作していますね。最近では4月28日放送の これ。どこまで事前リサーチしているのか,「失敗」することもしばしばあって(最近では前々回,2011年12月3日放送の この回),少なくとも“予定調和”の番組作りはしていないようです。
このシリーズの初回放送は2007年10月20日の この回,横浜駅西口から 神奈川→山梨→長野→岐阜→富山 と5県をわたって太平洋岸の横浜から日本海岸の氷見をめざすというものでした。
初日は 横浜駅西口→鶴間駅→町田駅→橋本駅→三ヶ木→月夜野→道志 という,ほぼ前述のわがサイトのホームグラウンドを通過したのですが,5年前に可能であったバス乗継はいくつかの区間で現在では不可能になっています。

[81099] みかちゅう さん
私が房総半島の乗り継ぎをやった際も、市川→千葉はきちんとたどれていません。

たとえば国道14号ルートでは(旧道も含めて),すでに私が小学生であった40年前の時点で市川・船橋市境(正確には 鬼越-西船橋間),船橋・習志野市境が切れていて,習志野市東端の幕張IC以東には全くバス路線がありませんでした(ただし,幕張駅入口バス停から海浜ニュータウン稲毛地区を結ぶ路線が暫定的に国道上を運行していましたが,当該区間はノンストップ。国鉄稲毛駅と当該埋立地を直結する道路が開通して役割を終えたので廃止されました)。私が高校生であった30年ほど前には内陸の東金街道を通過して津田沼駅と千葉駅を結ぶ路線が残っていましたが,モノレールが開通したころに分断されてなくなったようですね。
12チャンネルの番組も,特に県境や峠を越えるバスがなくて何時間も歩く苦労をしています。この手の旅は年々ハードルが高くなっているようです。
何より,鉄道よりもずっと簡単に路線の改廃ができるバス交通は,情報の変化を細かく捕捉するのは容易なことではないでしょうね。面白いネタではありますが,「足がはやい」のが何にも増した課題だろうと思います。
[81097] 2012年 7月 14日(土)10:20:11【1】Issie さん
武士の都は土の下
[81095] 白桃 さん
”かがわ”より「な」のある”かながわ”の一部である相模国で、「鎌倉」の名が見当たらないのも不思議ですが、当時は総称としてではなく、区画された街の名称を用いられることが一般的だったのでしょう。

一言でいえば,当時の鎌倉に「町」と呼べる集落など存在しなかったからです。総称されるほどの町でもなかった。
「明治13年共武政表」で鎌倉郡の項目をみると,格段に戸数が多いのは東海道沿いの 戸塚駅 (郡役所所在地)と 腰越村 でそれぞれ400戸あまり。
せまい意味での「鎌倉」にあるのは,表の中では 長谷村・坂ノ下村・雪ノ下村・大町村 がそれに当たります。山ノ内村 は,切通しを越えた現在の北鎌倉付近。いずれも100戸台で,4村を合わせても千戸には満たないですね。
文部省唱歌に「鎌倉」という歌があります。1910(明治43)年の作品ですが,その最初の2節めと3節めは以下の通り。

 極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おはします
 由比の浜辺を右に見て/雪ノ下村過ぎ行けば/八幡宮の御社

すでに行政上は町村制施行により 西鎌倉村(長谷村・坂ノ下村ほか)・東鎌倉村(雪ノ下村・大町村ほか) を統合して1894(明治27)年に「鎌倉町」となっているのですが,それ以前の状況を知ってこの歌を聞くと,まだ「村」が散在しているような印象を受けます。

鎌倉時代,もちろん鎌倉は「武士の都」で,相模だけでなく関東を代表する“都市”でした。幕府が京都に移った室町時代も,その前半は鎌倉には「鎌倉府」が置かれて引き続き“東の中心都市”としての役割を持ちました。ところがその鎌倉府の主である 鎌倉公方 と 関東管領 との対立,さらに公方の足利氏,関東管領の上杉氏それぞれの分裂と抗争によって関東は一足早く“戦国時代”に入り,戦乱の中で都市・鎌倉は衰退してしまいました。
やがて関東を統一した後北条氏が拠点を置いた 小田原 が相模,そして関東全体の中心都市となります。そしてその後北条氏が滅ぼされると徳川家康が入封した 江戸 が関東の,そして頼朝以来の「武士の都」の地位を獲得するわけです。
江戸に近い相模東部は幕府によって徹底的に支配が細分されたので,相模国全体を代表するような都市は発達せず,西部・小田原藩の城下町の小田原が首位に立つのみでした。幕府は江戸湾入口の 浦賀 に奉行所を置いて,防衛と物流管理の拠点としました。ペリー来航の地を「浦賀沖」と表現するのはこのことによります。
 ※ちなみに,徳川家康は浦賀を長崎に代わる海外貿易の拠点としようとした,という話があります。しかし,これは日本側,そしてスペイン・ポルトガル双方の事情で実現しませんでした。

[81089] hmt さん
讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。

…に浦賀が入っているのも,このことによるのでしょうね。

こうして衰退してしまった鎌倉には江戸時代,鎌倉時代以来の寺院は引き続き散在しても,“都市・鎌倉”は存在しませんでした。松尾芭蕉は平泉を「つはものどもが夢のあと」と詠みましたが,鎌倉も全く同じ状況だったのでしょう。江戸時代後期になり,物見遊山の旅が庶民に広く浸透するようになると,大山詣でや江の島詣でを組み合わせた周遊ルートに鎌倉の古寺も組み込まれ,多くの参詣客を集めるようになります。長谷観音や大仏の前の長谷村や,鶴岡八幡宮前の雪ノ下村は,そのような門前町としての機能を持つ集落ですね。
それでも前述のとおり,1889(明治22)年の町村制施行の段階でも,鎌倉は 西鎌倉村 と 東鎌倉村 のそれぞれにまとめられただけ。「全鎌倉」として統合されるのはそれから5年後のことです。
今,私たちが目にしている“都市・鎌倉”は,明治後半になって保養地として注目されたことと,軍港・横須賀の後背地として海軍の高級将官の邸宅地とされたこと,そして1889(明治22)年に横須賀線が開通して東京および横須賀と直結したこと,…によって成立・発展してできあがった“新しい都市・鎌倉”です。鎌倉町の市制施行は1939(昭和14)年。横浜,横賀,川崎,平塚に続く県内では5番目のことですが,ずいぶんと遅い印象を受けませんか。

つまり,今ある「鎌倉市」と「頼朝の鎌倉」は都市としては連続していません。その点,応仁の乱以降の戦乱で都市構造が根本的に変わっても“千年の都”であり続けた 平安京(京都) や,平城京全体は衰退して消滅しても「南都」興福寺の門前町として生き続けた 奈良 と違うところです。
「明治13年共武政表」に鎌倉が見えないのは,こうした“2つの鎌倉”の間のすき間,ここに“都市”も“町”も存在していなかった時期にちょうどあてはまるものであることによるのだろうと思います。
[81051] 2012年 7月 8日(日)19:04:09【2】Issie さん
バスターミナル
いつの間にかもう30年近く前になりますが,学生時代に当時まだ軍事政権下にあった韓国に行ったことがありました。何しろ初めての海外旅行ですから,いろいろ印象に残ったことが多かったのですが,韓国ではずいぶんと高速バス交通網が発達しているんだな,というのもその1つでした。
某団体関係の日韓学生交流行事なので集団行動でプサン→チョナン→ソウル→キョンジュ→テグ→プサンという移動のほとんどを高速バスで行いました。「鉄」としては最後のテグ→プサン間の移動だけが鉄道だったのがとても残念だったのですが(就活の関係で途中で帰った先輩はソウルからプサンへ「セマウル」に乗れると喜んでいました),バスターミナルや高速バス網の充実ぶりに驚いたものです。30年前の,特に東京周辺と比較して。
たとえば,高速バスのターミナルは基本,高速道路のIC近くにありました。だからたとえば,キョンジュでは郊外にある歴史遺跡をまわったのですが,結局キョンジュの中心市街は見ずじまいでした。

[81049] グリグリ さん
駅に直結する大規模なバスターミナルってどこかな。

形としては 高山駅 なんかが当たりそうですが,地方都市相応の大きさですね。あるいは,伊予鉄の 松山市駅。
一般に大規模なバスターミナルが整備されているのは地方中核都市が多く,それが駅のそばにあるのはあまり多くないように思います。恐らくは,
・面的な広がりを持った地域圏内の交通の大部分を民営の長距離路線バスが担ってきたこと
・もともと鉄道は建設当時の既存市街地を避けて敷設されるものであり,必然的に鉄道(特に国鉄・JR)の駅は(その当時の)町外れに設置されること
・既存の道路を利用するバスは市街中心部に乗り入れることが容易であり(これが鉄道に対する優位性でもある),都心部にターミナルを求めたこと
・バス事業者間に,しばしば行政も関わってターミナルが整備される際に,町外れの鉄道駅ではなく都心部に立地を求めることが多かったこと
…などが理由にあるのではないかと思っています。
広島のバスセンターなどが,その典型的な例ではないか,と。
高速バスは結局,既存のバスターミナルに乗り入れてくることが多いですね。長野のように,バスターミナルがバスターミナルとして利用されず,ただの一般停留所に過ぎない例もありますが(長野バスターミナルは,“バスターミナルの失敗例”ではないかと思っています)。

東京の場合,まずは都市の規模が巨大すぎて都心をターミナルとした“長距離郊外路線”が発達する条件がなかったこと(むしろ,戦後10年ほどの間に発達した都心発着の長距離路線が,その後の渋滞の深刻化で衰退してしまった)から,1ヵ所に集中したバスターミナルが整備される条件がなく,各方面に高速道路が整備されて高速バスが運行されるようになっても,それぞれの事業者が個別にターミナルを設けて現在のように分散した状態のまま,ということになっているのでしょう。その中では,東京駅八重洲口と新宿駅西口(ヨドバシカメラ前)が比較的に路線の集中するターミナルになっているわけですね。

京成系、関鉄系、JR系が中心ですが、都市交通の重要な一翼を担いつつあるんじゃないかなぁと、期待を込めて考えています。

高速バスそのものは東京圏内では東名や中央道方面の路線の開設が早かったわけですが,どれも“都市間交通”の性格が強く,国鉄(JR)の補完的な立場をなかなか脱しきれなかったのに対して,通勤輸送も含めた“都市内交通”としては東関道や常磐道沿いの北東方面が立ち上がりが早かったですね。まずは足元の高速道路(東関道と常磐道)が整備されたことと,それに加えて“首都機能の一部”を分散させた 筑波研究学園都市 と 鹿島臨海工業地域 の存在が大きいのではないかと思います。必然的に東京都心部との頻繁な往復を生み出すという点で。そしてもう1つは,これに対抗する鉄道交通があまりに弱すぎたこと(だから,TXの開通が大きな脅威だったわけですが)。
筑波や鹿島と結ぶ“幹”が太くなれば,そこから“枝”を広げるハードルは比較的に低くなる,という事情もあるのかな,と思います。
ひるがえって,たとえば南西方面にあたる神奈川県内の場合,東急や相鉄,神奈中がその担い手になるのでしょうが,まだ様子見でしょうかね。田園都市線や小田急の混雑具合を見れば十分に需要はあると思うのですが,問題は「東名+首都高3号線」のみというルートの“細さ”かもしれません。
それは,はるか西の山梨県内にまで及ぶ「中央道+首都高4号線」もたぶん同じ。

東京駅に首都高と直結するバスターミナルを作るなんて考えないですかねぇ。

とりあえずは今,新宿駅南口の甲州街道の反対側で整備中の新南口がそれに近いですかね。ここでも首都高には直結できませんが。
[81044] 2012年 7月 7日(土)21:22:56【1】Issie さん
Re:船橋橋
[81034] 白桃 さん
見ていない方は全くわからない一番勝負

見てないので全くわかりません。
でもきっと人名なのだろうな,というのは何となく。
「神戸」は普通,人名では特に「かんべ」と読んで,「こうべ」と読むのは極めてイレギュラーですから(でも,実際に「こうべさん」と読む人に会ったこともありますよ)。
何も知識がないと,小野田さん…って,やっぱり「少尉」が後ろに続いちゃいます。

[81041] 白桃 さん
船橋橋

たぶん地デジになって地域外にはますます視にくくなったローカルUHF局ですが,tvk(テレビ神奈川)で人気があるらしい「saku saku」という番組があります。
たまたま「ようつべ」をさまよっていて遭遇したのですが,この番組に「みんなでうた」というコーナーがあって(時期によってタイトルが少しずつ変わる),その人気シリーズにそれぞれの土地を歌った「○○のうた」というのがあります。当然,神奈川ローカルの番組ですから,まずは(津久井郡編入以前の)県内全市町村+横浜・川崎両市の全区(相模原市は区制実施前)のうたがそろっているわけですが,さらに県外の歌もいくつか作られています。その一つが「船橋のうた」で,そこにしっかり歌われています。なぜに「船橋橋」という橋があるのか,という主旨で。
いや,“船橋の歌”といえば,関東ローカルですがビンちゃん(楠トシエさん)の歌う船橋ヘルスセンターの歌(長生きチョンパ)以上のものはないんですけどね。

[81037] グリグリ さん
通勤高速バス

ああ,京葉道路経由ではないんだ。
花輪とか,首都高7号線で渋滞していそうだから当然ですが,
何分,私は東関道は宮野木から,という感覚でいるもので…。
[81012] 2012年 6月 30日(土)11:18:42Issie さん
Re:スカイツリー関心度
ずっと以前に話題になった「国一/一国」ネタでも触れましたが,私の職場は「二国」(第二京浜=国道1号)を見下ろす位置にあります。
そこでも触れられたかどうか,その「二国」に架かる橋に「響橋」(横浜市鶴見区東寺尾)という橋があります。第二京浜国道が整備されたのと同じ頃に“1940年の東京オリンピック”の準備が進められていて,マラソンコースに予定されていたのが第二京浜でした(ご存知の通り,1964年のオリンピックでは甲州街道がコースとなったわけですが)。その折り返し地点に予定されていたのが鶴見区の東寺尾付近で,響橋はそのランドマークとして優美なアーチ橋とされた,といわれています。
前置きが長くなりましたが,毎日の通勤で利用するバスで渡るその響橋からスカイツリーが見えるそうなのです。いや,そもそもウチの職場からも見えるらしいのですが,まだ確認はしていません。
以前に武蔵小杉にあるNECの超高層オフィス(玉川ルネッサンスタワー)を見学したときにその屋上に上げていただいたことがるのですが,そこからは建設中のスカイツリーがよく見えました。
地上156mというのは文字通り,スカイツリーの足元にも及ばない高さですが,それでもこの高さからの眺望はとても印象的でした。地上における地理感覚がすべてリセットされてしまうという点で。高い所から見下ろすと,地上での距離感が全く利かなくなるのですね。地上の感覚で頭の中に描いている地図とズレが生じて混乱する。…そんな感覚を覚えました。
スカイツリーの高さであれば,その混乱はもっと大きなものになるでしょうか。

で,実は昨日,午後の仕事をサボって(ちゃんと有休とりましたよ),ふと思い立って足元のソラマチまでは行ってきました。京急に乗れば押上まで乗り換えなしで行けますからね。実際は京急内で乗り換えましたが。時間の関係もあってタワーに昇るまではしなかったのですが。
それにしてもソラマチ,人が一杯です。平日の午後なのにね。公務員には期末手当支給日の金曜日ですが,まだお仕事中だろうし。

そのスカイツリーのロケーションですが,東京の西側から見るとやはり,

・感覚的に遠い

というのが正直なところです。“こちら側”からだと「やまて線の向こう側」は遠いのですね。まして“隅田川の向こう”なら,なおさら。
 …※ずっと以前に開かれた「御徒町の会合」も,まあ,そういうことです。
習志野や市川に住んでいた頃はこの辺りは普通に行動するエリアだったし,特に市川からなら少しその気になれば自転車で楽に行ける所ですから何も思わないのですが,その頃は逆に新宿や渋谷が遠く感じました(池袋には行ったこともありません)。今はちょうど,その裏返しなわけで。
最近は“秋葉原より東”に行くことがほとんどありません(厳密な経緯度ではなくて,メンタルマップ上の東,ね)。

同じようにそういう感覚を持っている人も少なからずいるんじゃないだろうか,と思っています。
[80984] 2012年 6月 20日(水)22:37:32Issie さん
市川市
[80982] 白桃 さん
本八幡あたりの人も、TDRに遊びに行くの、面倒ではないですか?

私は2度ほど市川市民だったことがあって,通っていた高校も本八幡にあったのですが(今は移転しちゃいました),思い出せば 浦安“町” から通ってくる同級生,確かに面倒くさそうでした。東西線で西船橋へ出て,そこから本八幡へ…。ちょっと面倒ですね。
その頃は京葉線はないし,「ねずみの国」などというものは影も形もありませんでした。

職安のある本八幡と年金事務所のある市川、どちらが市の顔???。

電話局と郵便局は両方の中間にあったりしてね,市川と(本)八幡の関係はかなり微妙です。

まずもって、「しもうさなかやま」駅って、てっきり市川市かと思いきや、船橋市なんです。

これは少し前に「分割地名・中山編」で話題になっていましたね。

ちなみに浦安の“旧市街”からなら,本八幡駅南口までバスが走っています。
(旧)江戸川に沿った昔むかしの行徳の街道筋を通る伝統ある路線で,時間はかかるけどそれなりに車窓が楽しいバス旅行愛好者にはお奨めの路線です。
終点の本八幡駅(実は駅から離れています)から市役所まで結構遠いですけどね。
[80981] 2012年 6月 19日(火)23:43:34Issie さん
房総半島横断ならず
[80977] JOUTOU さん
白岡町や大網(白里)町が県庁所在地と隣接していたとは・・・!?。

[80980] N-H さん
ちなみにそのころから大網白里町は千葉市と隣接してましたね。

そうですね。
「違和感」とまでは言いませんが,私はむしろ JOUTOU さんの“違和感”に「おやっ?」と思いました。
私が小学校4年で千葉県の地理を教わった時,すでに千葉市と大網白里町は隣接していましたから。その数年前に間にはさまっていた土気町が千葉市に編入されたせいですね。
ちなみに,この時点では君津市も富津市も成立済み。東京湾の南東岸に沿って千葉市,市原市,君津市,富津市と,(当時としては)サイズの大きい市が並んでいて,県内の市町村区画図がややつまらなくなっていました。もう少し上のお兄さん・お姉さんたちは君津郡にたくさんの町村のある地図で教わったんでしょうけどね。

で,その頃から期待していたのが,千葉市が残り大網白里町と一緒になれば房総半島のくびれたところで半島横断が完成する,つまり兵庫県のミニチュア版ができあがるのにな,ということでした。
でもすでに合併を繰り返して(その当時としては)十分に膨れ上がった千葉市はそれ以上の合併を行わず,そのまま政令指定都市になってしまいました。その後,四街道市との合併話も出たけれど,それもポシャってしまったのは,ここの皆さんにはおなじみの話ですね。
そしてとうとう大網白里町は単独で市になる道を選んだわけで,「半島横断の夢」はひとまず潰えたことになります。
もっとも将来にわたって大網白里“市”が千葉市と合併しないと決まっているわけではないのですが。
[80925] 2012年 6月 2日(土)12:21:28Issie さん
コザ in 紀州
そういえば,沖縄に続き,紀州の「コザ」も自治体名としては消滅していたのでしたね。

[80922] 白桃 さん
古座DIDの怪

DIDのことはよくわからないので,スルー。

余談ですが、古座中学校は隣の古座川町にあり、この辺りなかなかややこしいです

古座中学校 は,1951年の開校当初は当時の(旧)古座町と高池町による“組合立”の中学校として設置されたようですね。1956年にそれぞれの町が合併した結果,(新)古座町と古座川町の組合に引き継がれました。なので,両町の境界付近の古座川町(旧高池町)側に「古座」中学校があるのでしょうね。
2005年に古座町が串本町と合併して,この中学校にかかわる“組合”は解散して古座川町単独の中学校になりましたが,学区はそのまま串本町(旧古座町)の古座地区に及んでいて,ここの子どもたちは従来通り町境を越えて“隣りの町”の中学校に通っているようです。
旧西向町は,1947年に単独で(?)「町立西向中学校」を設置しており,これはそのまま 古座町立 → 串本町立 と移行しているようです。
なお,新制中学校の開設は 西向中学校 がそうであるように1947年ですから,「古座中学校」の場合も1951年の“組合立”による設置以前に,(旧)古座町単独の時期があったと思われます。恐らくは,「古座国民学校(→小学校)」の「高等科」がそのまま新制中学校に移行する形で。

地図の通り古座川を挟んで西側が西向、東側が古座ですが、古座駅や旧古座町役場(現:串本町役場古座分庁舎)は旧)古座ではなく、西向にあったのですね。

紀勢“中”線の古座駅が開設されたのは,当該区間が開通した1936年。この路線の規格(乗ってみると感じることですが,紀勢“本線”を称していてもこの路線の規格はとても低いです)と,それに見合った当時の建設技術では古座川を河口に近い所で渡って古座集落を経由するよりは,今現在のルートを採る方が合理的であるように思われます。なので,駅は“川向う”の(旧)古座町や高池町も照準に入れた西向町の現在地に設置されたのでしょう。

参考までに1920年と1940年の西向町,(旧)古座町,高池町の国勢調査データを比較すると,

1920年1940年
世帯数人口世帯数人口
西向町6713,3857623,682
(旧)古座町7133,2437733,368
高池町5062,3214902,216

少し河口からさかのぼる 高池 がほかの2町からやや引き離されていますが,1920年の段階で既に「町」となっていた(1900年に町制施行)ことを考えると,「双子」というより「三つ子」と考えてもいいかもしれません。
1951年の“昭和の大合併”で 西向町+(旧)古座町+ほか1村 で(新)古座町,高池町+ほか4村 で古座川町となったわけですが,こうなるまでには,ついこないだの“平成の大合併”がそうであったように,あるいはそれ以上の紆余曲折があったと思われます。「古座」という地名をめぐる綱引きも。

恐らくは,「古座」という地名は本来,古座川流域の広い範囲を示す地名であって,その川の河口に“ピンポイントな地名”としての「古座集落」ができたのではないか。あるいは,その逆に河口に立地した古座集落からさかのぼって川全体が「古座川」と呼ばれるようになった,という2方向のシナリオが考えられますが,いずれにしても「古座」の地名が「古座集落」あるいは「(旧)古座町」の独占物でなかったことは確かであろうと思われます。
その表れが,「西向町」に設置された「古座駅」ということであろう,と。
または,(旧)古座町を取り込むことができなかった 高池町ほか4村 が「古座川町」という名前を選んだということにも表れていそうです。
でもモータリゼーション以前の時代,鉄道駅の存在は大きいですね。合併前の旧3町村のうちで一番西の西向に役場が置かれたのも駅のもたらす町勢の差が反映しているようにも思うのですが,実際はどうなのか。
[80914] 2012年 5月 30日(水)21:26:39Issie さん
西関東
[80911] いさ さん
西関東というのも何か聞き慣れない言葉です。

確かに日常会話ではあまり聞かれない呼称ですが,古代史などではよく「西関東」という地域呼称が行われているようです。
東山道(の元になった街道)が碓氷山を下りて関東平野に出てきた辺りの「(上・下)毛野」から「埼玉」にまたがる地域,境界である利根川を中心に現在の群馬・埼玉・栃木3県にまたがる辺りは古墳が多く集中し,関東平野の中でも早くから開発が進んだ地域の1つと考えられていて,この地域を指す呼称として「西関東」というものが行われています。

もう1つ,方言研究の分野でも「西関東方言」という用語があって,この場合はもう少し広くて,関東地方のうち栃木・茨城両県からさらに福島県へと続く地域の“アクセントの無い”方言と東京都心および近郊の「共通語」(標準語)に非常に近い方言とを除いて指すもので,したがって基本的にはアクセントがある千葉県の大部分の(地元民の)方言もこちらに分類されるようです。

今回は山梨と神奈川で西関東ですが

これに千葉県を加えると,衆議院の比例代表選挙ブロックの「南関東」になりますね。
このブロックから千葉県を除けば正しくは「南西関東」ないし「西南関東」となるのでしょうが,ここは大雑把に「西関東」。

結局のところ,たとえば「東関東」や「北関東」のように地域ブロックとして一応の共通認識らしきものがある(埼玉県が北関東に含まれるか否かという〔問題ではなく〕話題がありますが)のに対して,「西関東」にはそのような共通認識が無いから却って必要に応じて自由に使えるのでしょうね。
こうして多くの人が色々な場面で使っていくようになれば,やがて「西関東」にもある種の共通認識ができあがることだろうと思います。
[80878] 2012年 5月 20日(日)12:23:31【2】Issie さん
京葉道路
「ジャンクション」への反応ではありません。

[80875] グリグリ さん
MasAkaさんが例示されている京葉道と館山道の接合点も機能的にはジャンクションであるとするなら

こちらに反応します。
そう。最近,「京葉道」という表現をよく聞くようになりました。
けれども,あの道の名前は「京葉道路」だったと理解しています。「高速自動車国道」ではない“有料の自動車専用道路”。そういう位置づけでの「○○道路」という呼称である,と。
この辺りを通過する「高速自動車国道」は,私が住んでいた頃にはまだ“宮野木ジャンクション”から先しかなかった 東関東自動車道(東関道) ですね。
本質的には“国道14号のバイパス”に過ぎない京葉道路は,私には記憶がないのですが,現在は有料自動車専用道路となっている区間でも船橋以西の地平部分では一般道路との交差も(江戸川区の一般道路区間同様に)あったかのように当時の地図には描かれています。それも含めて,特に幕張以西では明らかに規格の低い道路ですが,それでもこれに接続する「東関道」や「館山道」など本物の高速自動車国道からの“類推”で「京葉道」という呼称が行われるようになってきたのでしょうかね。
習志野市内の埋立地の公団住宅の3階に住んでいた子どもの頃,家の窓から毎日“京葉道路”とその向こうの海を眺めていた自分としては,「京葉道」という呼称には何となく居心地の悪さを感じます。

ところで,

#junctionの語源にはjointが関係しているのかな?

御明察。どちらもラテン語の iungo に由来する単語です。
名詞の joint は 動詞の join の分詞と関係があり,英語の動詞 join は,ラテン語の動詞 iungo(←これは1人称単数形) が古フランス語を介してノルマン・コンクェスト以降,イングランド語(つまり英語)に入ったものです。junction は,iungo のラテン語段階での分詞 iunctum に由来します。
ちなみに,英語の文法用語 conjunction は「接続詞」という意味ですね。

※…あっ,忘れていました。
ラテン語・英語辞典によると iungo に対応する英語は join です。
[80559] 2012年 4月 28日(土)10:12:40Issie さん
お大師様の御利益
[80558] 白桃 さん
武蔵○○が4連続する川崎市の人口は、一時の勢いが無くなったとはいえ順調に増加しております。

数字は見ていないのですが,職業柄,1月・2月の「イベント」(来年から制度が変わって2月だけ)と3月末の新年度開始準備で“あるデータ”を入力するたびに,特に川崎区の大師線沿線の工業地区への人口流入を実感しています。京浜工業地帯衰退の裏返しの現象ですね。
うちの“営業所”の商圏は主に鶴見・神奈川・港北・川崎・幸の2市5区なのですが,同じ住所で最後の3ケタ(時には4ケタ)の番号だけが違う“お客様”が増えていて,その中には昔ここに工場があったよねとか,ここって工場地区の真っただ中じゃん,と思うことがよくあります。
一時,川崎市は勢いを失っていた記憶があるのですが,この勢い,いつまで続くものか。
人口減少の御時勢,「順調な増加」はほかの地域の「順調な過疎」の裏返しでもあります。
[80555] 2012年 4月 23日(月)20:00:15Issie さん
ハチの「武蔵」は死んだのさ
[80553] 白桃 さん
そこからもう少し行くと同名の市が愛知県にあり

ここも読み方が違いますね(たぶん)。
[80545] 2012年 4月 21日(土)13:12:24【2】Issie さん
電子地図の図法
[80540] futsunoおじ さん
「ウォッちず」で見ると北の「宗谷岬」は南の「石垣島」より長さで30%大きく表示されており、計算上もこれに近い値になります。

[80544] グリグリ さん
「スケール・ものさし」は、地図を垂直方向にスクロールすると連動して変化していますね。今まで気付いていませんでした。

なるほど,これは私も気づいていませんでした。
参考までに,今では“旧版”になってしまった「2万5千分1地図情報」を見てみたら,こちらも「100m」スケールの長さが違いますね。つまり,これは“紙の2万5千図”をそのままスキャンして電子化したものではないということです。紙の地形図なら緯度によって100mの長さが違うはずがありません(ここが違ったら,紙地図のお約束の大前提が崩れ去ってしまいます)。
少し意外に感じましたが,考えてみれば当然で,今は地図の作成作業はかなり初めの方から電子化されているでしょうから,電子データ化された地理情報を紙地図の投影法に合わせて出力したものを製版・印刷しているのでしょう。

で,つまり,「ウォッちず」(電子国土基本図)の投影法(図法)は,紙の地形図のそれ(ユニバーサル横メルカトル図法)とは違うということです。
ご承知のように,紙の地形図の場合,どの地図も南北方向の緯度幅,東西方向の経度幅はすべて同じです(例外的に,はみ出るものもある)。だから,緯度が高い「宗谷岬」と緯度が低い「石垣島」とでは地図の“正味部分”の面積が違います。欄外の凡例とともに掲載されている“図の寸法”も,よく見れば上辺と下辺では長さが違う。つまり,地形図の図郭は“長方形”ではなくて“台形”。だから狭い範囲ならともかく,広い範囲にわたって地形図を隙間なく“同一平面”上に敷き詰めることはできないはずです(たぶん)。
それを電子画面上ではやっちゃっているのだから,同じ国土地理院の地図でも電子地図の図法は紙の地図のそれとは違うのでしょうね。

地図の上に緯線・経線が引かれていれば,それを頼りにどのような図法が採用されているかがある程度推測できるのですが,残念ながらそれが記載されていません。でも,恐らくはみなさんがおっしゃる通り,正軸の円筒図法(円筒の中心軸と地球の自転軸の方向が同じ)で投影されているのでしょう。たぶん,地図上すべての位置で緯線と経線が直交している。
けれどもそうすると,長方形に切り取った地図画面の上辺と下辺は緯線,左辺と右辺は経線となり,左辺と右辺の間の経度差は上辺でも下辺でも同じとなる。
しかし,実際は紙の地形図がそうであるように,上辺と下辺の長さ(距離)は違います。それが画面上では同じ長さで表示されているのだから,ここに既に「歪み」が現れています。逆に紙の地図の場合は,上辺・下辺の長さは実際と同じかもしれないけれど,そもそも図郭が“台形”であるということが,「歪み」そのものです。実際の地球上では緯線と経線は必ず直交しますから,図郭は“長方形”でなければなりません。でも,それを実現するのは不可能です。
つまりは,曲面上の情報を平面上に写そうとすれば必ずどこかに歪みが生じるわけで,わずか1枚の地形図や何平方ピクセル(?)かの電子画面上でもそれが既に始まっているのです。

とりあえず,北緯20度から45度の中緯度帯に位置する日本の地図であるなら,まだ我慢できる歪みかもしれません。けれども,高緯度地帯ではどうなんでしょうね。
最初の索引図として世界全体の小縮尺図を使うのならメルカトル図法のような円筒図法でも,とりあえずは構わない。
けれども,大縮尺で各地域の詳細な地図を描くのに,あるいはそれ以上に中程度の縮尺である程度広い範囲の情報を,あくまでも赤道上“だけ”が「正しい」正軸の接円筒図法を高緯度地方に適用し続けるのは,やはり不適切です。Google マップで北極“点”や南極“点”は記載できるのでしょうか。

[80540] futsunoおじ さん
ソフトウエア上で表示する緯度に連動した縮尺補正機能があってもいいと思います。

だから本当は,縮尺の補正だけでなく,緯度帯や縮尺に応じて「適切な」投影法が選ばれる(あるいは“選べる”)システムがあってもいいかなと思います。実際のところ,コンピュータの中では緯度・経度の座標データを一定の計算に従って変換されたディスプレイ画面上の座標にプロットするという作業をしているのでしょうから。

…既に,そういうシステムになっているのかもしれませんが。
[80538] 2012年 4月 19日(木)00:17:12【4】Issie さん
ややこしい図法の話
[80536] グリグリ さん
スケール表示がない理由としては、ネット地図は正距図法ではないからなんですかね。

「縮小された“ものさし”そのもの」という意味での“スケール”は,電子国土基本図でも,たとえば Googleマップ でも画面上に表示はされていますね。けれども,「縮小率」という意味での“スケール”は表示されていません。
これは,使う側の環境によってディスプレー画面やプリンタの解像度が違えば“同じ範囲”を表示したり印刷したりしてもその大きさが違うわけで,「結果物の縮小率=縮尺」を指定することができないせいではないか,と考えているのですが,…違うかな?

以下,たぶん地図投影法に関しては専門の方もいるのではないかと思うし,たとえば「正角割円錐図法」なんて言葉が出てくると私も正直ついていけないのですが,とりあえず高校の「地理」の時間で扱うような範囲内で…。

まず,メルカトル図法は「正距図法」ではありません。
たとえば,メルカトル図法で描かれた長方形の古典的な世界地図を考えましょう。
この地図にも普通,“ものさし”“縮小率”双方の意味での「縮尺」が両方とも記載されています。けれども通常,そのものさしと縮小率の数字が表しているのは“赤道上”のそれです。つまり,長さ4万キロの赤道をどれだけ縮小しているかを表しています。
しかし,地球上にひかれている緯線のうちで長さが4万キロもあるのは赤道=緯度0度線だけです。たとえば,北緯60度線の長さは2万キロしかありません(cos60度 は 0.5 ですね)。けれども地図上の緯線の長さは赤道と同じです。ということは,実際の緯線の長さの2倍に引き伸ばされているわけで,距離が「正しく」表されていません。通常,普通のメルカトル図法の地図で距離が正しく表されているのは赤道上の任意の2地点間だけで,ほかの2地点間の距離を正しく表すことができず,したがって,メルカトル図法は「正距図法」ではないのです。
ではメルカトル図法で何が「正しい」かというと,「角度が正しい“正角図法”」に分類されます。この「角度が正しい」というのをすぐに頭に入るように説明するのはとても難しいので省略して結果だけ言えば,「地球上に同じ大きさの小さな円がたくさんあると仮定した場合、正角図法で投影された地図上でも全ての円がほぼ真円で表される」という地図です。つまり,狭い範囲であれば「形が正しく」描かれる,という性質を持っています。
ところが,普通のメルカトル図法では「赤道上の距離が正しく表される」ように描かれていますから,たとえば日本のように赤道から緯度にして30度も40度も離れている場所では距離や面積の歪(ひず)みが大きくなって正しく表示することができません(上の説明で言えば,“真円”が赤道付近よりも大きくなっている)。
そこで発想を変えて,地球を“横”にして赤道ではなく“特定の経線”上の距離が正しく表されるように描くようにした地図の作り方を「横メルカトル図法」と言います。基準の経線から離れて歪みが大きくなりそうになったら,別の経線を基準にすればいい。そうすれば,全体として歪みの小さい地図を広い範囲にわたって作ることができます。
繰り返しますが,メルカトル図法も横メルカトル図法も「正距図法」ではありませんから,距離も,したがって面積も正しく表すことができません(つまり,「正積図法」でもない)。でも,5万分の1,あるいは20万分の1くらいの縮尺で実際に刊行されている大きさの紙に収められる範囲内なら気になるほどの誤差は生じないので,「形が正しく」表示される(横)メルカトル図法がこの縮尺の地図には採用されています。

ところで,縮尺2万5千分の1でも5万分の1でも「地形図」の四辺のラインは緯線および経線です。作図の便宜上,この線は直線で引かれているようです。この5万分の1地形図を16枚貼り合せて4分の1に縮めたものが「20万分の1地勢図」ですが,この地図では元になった16枚の地形図の境目に黒い細実線が引かれています。そこで地図上の“東西方向”に引かれている線にものさしを当ててみてください。実はこの線が“直線”ではなく,少し湾曲した大きい半径の円周に近い線であることが分かります。
この大きさ(縮尺)になると,(横)メルカトル図法での歪みがそろそろ気になりだすのですね。つまり,メルカトル図法では無理が生じ始める。ついでに言えば,国土地理院が刊行している50万分の1“以下”の縮尺の地図は,使用している紙のサイズ自体がずっと大きいから,なおさら歪みの大きさが気になる。そこで,これらの縮尺の“小さい”地図はメルカトル図法よりも歪みが小さく広い範囲を表すことができる「正角円錐図法」の1つである「正角割円錐図法」が採用されています。
「円錐図法」というのは,“丸い地球”上の情報を紙に写し取るに当たって,その紙を円錐状に丸めてそれを地球にかぶせ,たとえば地球の中心に光源を置いてそれで紙に映った影をなぞって写し取った,と仮定して地図を描く方法です。
ちなみに,メルカトル図法は「円筒図法」。紙を筒状に丸めてそれで地球に巻き,紙に映る影をなぞって地図を描いています。古典的なメルカトル図法の世界地図は,この紙を赤道で地球に接するようにして巻いたもので,だから赤道上の距離(だけ)が正しい。横メルカトル図法は,それが赤道ではなくて“特定の経線”で,というわけです。
円筒図法であるメルカトル図法では,紙が地球表面に接している赤道または特定経線から離れるにしたがってその“紙面”が地球表面から急速に離れていきますから,歪みがだんだん大きくなります。
一方,地球(半面)にすっぽりとかぶさる“円錐”なら,円筒よりは広い範囲で地球表面に密着させることができます。つまり,それだけ歪みが小さい。北極または南極を上にして円錐をかぶせた場合,特に中緯度で円錐面が地球表面に近接するので,中緯度地方について歪みを小さく写し取ることができる。だから日本のような中緯度地域を広く描く場合に,この「円錐図法」が好んで用いられます(たとえば,新聞やテレビの天気図でも使われています)。そのうち,「角度が正しく」表されるように調整したものが「正角円錐図法」です。
この時,円錐を地球表面に密着させて特定の緯線(または地球を周回する線)で接するようにしたものを「接円錐図法」,円錐を地球表面に食い込ませて2本の線で地球表面と交わるようにしたものを「割円錐図法」と呼びます。円錐面と地球表面が近接する範囲が広い「割円錐図法」の方が歪みの小さくなる範囲が広いので,こちらを国土地理院が採用しているのでしょうね。円錐図法について詳しくは こちら をどうぞ。地図投影法一般については こちら地図投影法 のページで詳しく説明されています。

ところでこれは“紙の地図”の話。
ディスプレイ上の電子地図はまた少し違った投影のしかたをしているような気もするのですが,どうなんでしょうね。
[80533] 2012年 4月 17日(火)21:56:48Issie さん
Re:使いづらいよデジタル地図
[80531] グリグリ さん
昨日の東京新聞朝刊のこちら情報部の特集記事のタイトルです。国土地理院の電子国土の国土基本図が使いづらい点を取材したものです。

この東京新聞の記事は“周回遅れ”でしょうかね。
3月28日の朝日新聞(東京本社版夕刊)には,この「使いづらい」という声を受けて問題の送電線や記念碑などの掲載を“復活”させることにした,という記事が載っていました。こちらのブログ では当該記事とそれに関するイギリスやドイツの例について述べてられています。
批判の声の中には「戦時改描」なんて物騒な言葉も出てきているようです。
現に見えているものを載せるのは当然だというのは至極もっともで私も同意見なのですが,東電が協力しない理由が「テロ対策」というのが御時勢ではあるのでしょうね。前シリーズから「ブラタモリ」もモザイク画面が増えました。現地を知っている人にはバレバレのような気もしないでもありませんが。
この話,「軍事情報としての地図」という地図の本質の1つにかかわる話題なのかもしれません。

私はほとんど利用しないのでよくわからないのですが

私もほとんど利用していません。「電子国土」に限らず,googleマップのような民間のものも含めて。
理由はやはり,「使いづらい」からです。
紙の地図とは違って“シームレス”であるというのは,何より電子地図の優れたところです。
けれども如何せん,ディスプレイ画面は狭い。紙地図は多くの場合,折りたたむか丸めなければ持ち歩けない大きさで,にもかかわらず“紙の大きさ”という描写範囲の限界があるのですが,その範囲内において“一覧性”という点で狭いディスプレイ画面に勝ります。
縮尺を小さくすれば狭い画面でも広い範囲が描写できるわけですが,その分,情報が減ってしまいます。
そして,この縮尺が自由に変更できるという点。これも紙地図にはない電子地図の極めて優れた特長ですが,使う場面によってはむしろ致命的な欠陥になる。
つまり,たとえば「4cmで1km」という“縮尺の概念”が通用しないわけで,地図の上で距離や面積を把握することが非常に困難です。
実際の使用場面において,私は「地図は消耗品」と割り切って使用しています。必要のある都度,同じ地図を購入してたくさんの線を描き込み,色を塗りたくり,ハサミで切り刻む。
このような使い方も電子地図では難しそうです。いや,そういう使い方のできるソフトがないわけではないのかもしれませんが,私には紙地図の方が使いやすい。

というわけで,何か「電子国土」じゃなくて電子地図そのものに対する愚痴になってしまいました。
当たり前のことですが,紙地図にも電子地図にもそれぞれ優れた点とそうでない点があって,それが向いている場面と不向きな場面とがあるわけで,要は必要に応じて使い分ければ良い話です。特にほかの電子情報と関連付けて利用する,つまりGISの基盤として電子地図は不可欠なものです。が,とりあえず私の使い方では紙地図の方が使いやすいことが多い…という,それだけのことです。
[80518] 2012年 4月 10日(火)20:15:25【3】Issie さん
市会/市議会
[80515] グリグリ さん
五大都市では今でも市会と呼んでいるんですね。

以前,県議会の事務局に勤めていたことがあるのですが,そこは当然に他都道府県議会や市町村議会事務局とのお付き合いがあって,その際に「五大市」の議会は「市会」と呼ぶ習慣だよ,と教わりました。
政令指定都市が20もある今,こんな所にまだ生きているんですね,「五大市」という言葉。

落書き帳でも過去の議論になっているかと思いきや

[80429][80430] で少し触れようかと思いましたが煩雑になるのでやめました。でも,あの文章の中では意識して使い分けています。「市会/市議会」ではなく,「町会/町議会」という言葉ですが。

ごく単純に言えば,現行憲法・地方自治法下の呼称が「市議会」,明治憲法・(法律としての)市制下の呼称が「市会」ということになります。
これはそのまま,「町議会/町会」,「村議会/村会」,「府議会/府会」,「県議会/県会」にも当てはまります。ただし,「府会」「県会」はさらに古く,1878(明治11)年の“地方三新法”の1つ,「府県会規則」,「町会」「村会」は1880(明治13)年の「区町村会法」以来の呼称です。「市会」は,「市」という地方区分自体が1888(明治21)年の「市制」で“初めて”現れるわけですから,それ以降(施行はもちろん,1889(明治22)年)のものです。
ちなみに北海道の場合は1901(明治34)年の「北海道会法」により,やはり「道会」という呼称でした。

だから,少なくとも“制度上の呼称”は1947年5月3日の現行憲法と地方自治法の施行時に「市会」等から,「市議会」等に変わっているのですね。これについては,上の「北海道会法」について検索してヒットした 北海道議会のページ で触れられています。
ところがなぜか,「五大市」だけが「市会」という呼称に固執したわけです。道府県を含め,ほかは素直に切り替えているのに。どんな理由なのかわかりませんが,これはやはり当時“区のある市”がこの5つだけだったということと関係があるのでしょうか。

ところで,これよりも一足早く「×議会」という呼称を採用したところがありました。
「東京都議会」。
1943(昭和18)年の法律「東京都制」で,議会の呼称は「都議会」と規定されています。だから,ここだけは最初から「都議会」なのですね。
ほかと同じフォーマットにすると「都会」になってしまう,…からでしょうかねえ。

さらに早いのが,実は国レベルの議会。
明治初め以来の議会開設をめぐる一連の動きの中で,民権派からも,時には政府側からも広く用いられていた「国会」という言葉に対して,1889(明治22)年の明治憲法が採用したのが「帝国議会」という呼称。それが,1946(昭和21)年の現行憲法では「国会」という呼称になりました。ま,「帝国」じゃまずいもんね。
結果として,市会→市議会 という地方議会に対してこちらは 帝国議会→国会 という逆の形の呼称変更になったわけで,面白いものがあります。

横浜市に住んでいたこともあるのですが、これまで意識したことがなかったです

いずれにしても市民にとっては関係のない,どうでもいいことですから。
ここの初期の頃に話題になったように,一般呼称としては「市役所」と呼ばれている建物やその中にある行政機関を横浜市は勝手に「市庁」と呼んでいるようなものかしら。
神奈川県議会と横浜市議会,…もとい,横浜市会,県と市の関係がそうであるように,こちらの関係もどうも微妙なようで…。

※後からよく読んでみたら,論点が少しずれているようですね。でも,まあいいや。
[80476] 2012年 3月 31日(土)21:33:34【1】Issie さん
南三原
[80475] の続きです。
実は [80441] で hmt さんが紹介されたリンクで一番うれしかったのは,各年の国勢調査報告にアクセスすることができるのがわかったことでした。
結構前に紹介したことですが,野毛山の横浜市立中央図書館には敗戦前の国勢調査報告の復刻版が配架されていて,それで1920(大正9)年の“第1回”と1940(昭和15)年の報告書の人口表部分は丸ごとコピーして持っているのですが(著作権法的には微妙ですが,図書館の方では容認しているみたいです),残念なことにこれには各市町村の読みが記載されていません。
ローマ字という形ではあるけれど,それが記載されるようになるのが1950(昭和25)年の報告書なのです。しかも「昭和の大合併」の直前回ということで,(私は人口のデータには関心がありませんが)非情に興味深い。けれども,これを読みに国会図書館に行くというのもなかなか機会を得ることができず(1960(昭和35)年の回はそうして,その結果がうちのHPに反映しているわけですが),だからこうした旧データが電子情報化されてweb上で公開されることを切望していました。
ああ,いつの間にか,やっと実現していたのですね。そのままではたとえば表計算ソフトの表に取り込むことのできない pdf(というか,画像)ファイル ではあっても。

そこでさっそく,1950年の千葉県の表を見てみました。
当時の表では現行の地方自治体コードの配列とは違って,千葉県の郡部は“県南”(←千葉県ではあまり聞いたことがない)の 安房郡 から並んでいます。
その中でふと目についたのが,現在では 鴨川市 の一部になっている「南三原村」。
そこに記載されているローマ字表記をみると Minamimibara-mura ,つまり「みなみみばらむら」と濁音で読むように記載されています。
この「南三原」という地名には,これをそのまま読んだ「みなみみはら」と国鉄の駅名に採用されている「みなみはら」の両方の読みがあって,その間に揺れがあることは知られているのですが(件の『市町村名変遷辞典』では「みなみみはら」を採用しています),そこに濁音の「みなみみばら」という読みもあるのか? ちなみに,隣接する「北三原村」のローマ字表記は Kitamihara-mura となっています。
国勢調査報告のローマ字表記による読みがしばしば地元自治体が公式に定めているものと違っている,あるいは国勢調査報告自体で年によってその表記に変動があるというのは,うちのページ を作っていく過程で十分確認されていることなので別に驚くことでも何でもないのですが,
まあ,やはり「そういうこと」はあるのですね。
[80475] 2012年 3月 31日(土)21:08:51Issie さん
三宝
[80473] グリグリ さん
いかがでしょうか、Issieさん。おそらく濁音の方がより正しいように思うのですが。

あそこのページは基本的に 地名情報資料室・編『市町村名変遷辞典 三訂版』1999年,東京堂出版 に依っているのですが,今改めて見ると当該の項目の読みは濁音で「さんぼう」ですねえ。半濁音は私の思い込みで間違いであったということですね。

ところで,その次の項目は新潟県岩船郡の 旧山北村→山北町 なのですが,こちらの読みも濁音で「さんぼく」となっています。旧町の公式の読み方では半濁音の「さんぽく」だったはずですが。参考までに [80441] で hmt さんが紹介されたリンクをたどって各年の国勢調査報告を見ると,1955(昭和30)年の初登場以来,ここでは一貫して Sampoku と表記されています。
まあ,「そういうこと」なのでしょう。
[80472] 2012年 3月 31日(土)18:45:40Issie さん
区の順番
[80468] グリグリ さん
まだちょっと早いのですが、熊本市の中核市から政令指定都市への移行、豊中市の特例市から中核市への移行、および、松江市の特例市指定に関連して、市区町村のデータ、公式HP、ランキング、雑学などを更新しました。

細かいことですが,熊本市の区の公式の配列は

中央区(101),東区(102),西区(103),南区(104),北区(105)

という順番であるようです(カッコ内は明日から適用される地方自治体コード)。[80460] で紹介されている熊本市のガイドブックでも最初のページにその順番で記載されています。

この配列,実は結構面白いですね。
たとえば旧東京市の35区,そして現在の東京23区は,“中心”の千代田区から時計回りに並んでいます。横浜市の場合は,最初に区制を実施した1927年当時の5つの区を北から順番に 鶴見→神奈川→中→保土ヶ谷→磯子 と並べた配列が出発点になっています。
たいていの政令指定都市は,このどちらかのパターンで区を並べていますね。3つしか区がない相模原市は北の緑区から始める横浜パターンです。
ところが熊本市は,地図上における区どうしの隣接関係は無視して「中央区」を最初に置き,次は日常の口頭に上る「東西南北(とうざいなんぼく)」の順で並べているのですね。これが麻雀の「東南西北」ならまだお互いに隣りどうしになったのですが。
何か珍しいな,と思ったら,
…浜松市と堺市に先行例がありました。
[80471] 2012年 3月 31日(土)18:17:30Issie さん
梅田雲浜
[80461] 白桃 さん
(福井県)雲浜(うんぴん)村・・・・・現:小浜市

[80464] グリグリ さん
雲浜は海岸由来でよいのかどうか(想定)

“幕末おたく”だとすぐに 梅田雲浜 を連想するでしょうね。
小浜藩出身の儒学者で安政条約反対と攘夷を訴え,安政の大獄で獄死。
町村制施行のための明治の大合併で新しい村が編成された時にこの 梅田雲浜 を記念して「雲浜村」としたのか,と一瞬思ったのですが,梅田雲浜の方が出身地の小浜海岸の別称を自分の号にしたようですね。
つまり,小浜海岸の別称が「雲浜」らしい。
何でこういう別称がついたかについては,それなりの謂れがあるのでしょう。

[80466] グリグリ さん
県北共同試験場

意外なところに使用例がありましたね。
私も石川県は県北部についてもっぱら「能登」を使うだろうと思っていました。


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