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Issieさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[80559]2012年4月28日
Issie
[80555]2012年4月23日
Issie
[80545]2012年4月21日
Issie
[80538]2012年4月19日
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[80533]2012年4月17日
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[80518]2012年4月10日
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[80476]2012年3月31日
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[80475]2012年3月31日
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[80472]2012年3月31日
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[80471]2012年3月31日
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[80462]2012年3月30日
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[80431]2012年3月25日
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[80430]2012年3月25日
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[80429]2012年3月25日
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[80409]2012年3月17日
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[80351]2012年2月28日
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[80310]2012年2月19日
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[80307]2012年2月19日
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[80303]2012年2月18日
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[80280]2012年2月12日
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[80251]2012年2月4日
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[80247]2012年2月4日
Issie
[80228]2012年1月30日
Issie
[80216]2012年1月28日
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[80202]2012年1月23日
Issie
[80190]2012年1月22日
Issie
[80165]2012年1月20日
Issie
[80113]2012年1月14日
Issie
[80108]2012年1月14日
Issie
[80027]2012年1月9日
Issie

[80559] 2012年 4月 28日(土)10:12:40Issie さん
お大師様の御利益
[80558] 白桃 さん
武蔵○○が4連続する川崎市の人口は、一時の勢いが無くなったとはいえ順調に増加しております。

数字は見ていないのですが,職業柄,1月・2月の「イベント」(来年から制度が変わって2月だけ)と3月末の新年度開始準備で“あるデータ”を入力するたびに,特に川崎区の大師線沿線の工業地区への人口流入を実感しています。京浜工業地帯衰退の裏返しの現象ですね。
うちの“営業所”の商圏は主に鶴見・神奈川・港北・川崎・幸の2市5区なのですが,同じ住所で最後の3ケタ(時には4ケタ)の番号だけが違う“お客様”が増えていて,その中には昔ここに工場があったよねとか,ここって工場地区の真っただ中じゃん,と思うことがよくあります。
一時,川崎市は勢いを失っていた記憶があるのですが,この勢い,いつまで続くものか。
人口減少の御時勢,「順調な増加」はほかの地域の「順調な過疎」の裏返しでもあります。
[80555] 2012年 4月 23日(月)20:00:15Issie さん
ハチの「武蔵」は死んだのさ
[80553] 白桃 さん
そこからもう少し行くと同名の市が愛知県にあり

ここも読み方が違いますね(たぶん)。
[80545] 2012年 4月 21日(土)13:12:24【2】Issie さん
電子地図の図法
[80540] futsunoおじ さん
「ウォッちず」で見ると北の「宗谷岬」は南の「石垣島」より長さで30%大きく表示されており、計算上もこれに近い値になります。

[80544] グリグリ さん
「スケール・ものさし」は、地図を垂直方向にスクロールすると連動して変化していますね。今まで気付いていませんでした。

なるほど,これは私も気づいていませんでした。
参考までに,今では“旧版”になってしまった「2万5千分1地図情報」を見てみたら,こちらも「100m」スケールの長さが違いますね。つまり,これは“紙の2万5千図”をそのままスキャンして電子化したものではないということです。紙の地形図なら緯度によって100mの長さが違うはずがありません(ここが違ったら,紙地図のお約束の大前提が崩れ去ってしまいます)。
少し意外に感じましたが,考えてみれば当然で,今は地図の作成作業はかなり初めの方から電子化されているでしょうから,電子データ化された地理情報を紙地図の投影法に合わせて出力したものを製版・印刷しているのでしょう。

で,つまり,「ウォッちず」(電子国土基本図)の投影法(図法)は,紙の地形図のそれ(ユニバーサル横メルカトル図法)とは違うということです。
ご承知のように,紙の地形図の場合,どの地図も南北方向の緯度幅,東西方向の経度幅はすべて同じです(例外的に,はみ出るものもある)。だから,緯度が高い「宗谷岬」と緯度が低い「石垣島」とでは地図の“正味部分”の面積が違います。欄外の凡例とともに掲載されている“図の寸法”も,よく見れば上辺と下辺では長さが違う。つまり,地形図の図郭は“長方形”ではなくて“台形”。だから狭い範囲ならともかく,広い範囲にわたって地形図を隙間なく“同一平面”上に敷き詰めることはできないはずです(たぶん)。
それを電子画面上ではやっちゃっているのだから,同じ国土地理院の地図でも電子地図の図法は紙の地図のそれとは違うのでしょうね。

地図の上に緯線・経線が引かれていれば,それを頼りにどのような図法が採用されているかがある程度推測できるのですが,残念ながらそれが記載されていません。でも,恐らくはみなさんがおっしゃる通り,正軸の円筒図法(円筒の中心軸と地球の自転軸の方向が同じ)で投影されているのでしょう。たぶん,地図上すべての位置で緯線と経線が直交している。
けれどもそうすると,長方形に切り取った地図画面の上辺と下辺は緯線,左辺と右辺は経線となり,左辺と右辺の間の経度差は上辺でも下辺でも同じとなる。
しかし,実際は紙の地形図がそうであるように,上辺と下辺の長さ(距離)は違います。それが画面上では同じ長さで表示されているのだから,ここに既に「歪み」が現れています。逆に紙の地図の場合は,上辺・下辺の長さは実際と同じかもしれないけれど,そもそも図郭が“台形”であるということが,「歪み」そのものです。実際の地球上では緯線と経線は必ず直交しますから,図郭は“長方形”でなければなりません。でも,それを実現するのは不可能です。
つまりは,曲面上の情報を平面上に写そうとすれば必ずどこかに歪みが生じるわけで,わずか1枚の地形図や何平方ピクセル(?)かの電子画面上でもそれが既に始まっているのです。

とりあえず,北緯20度から45度の中緯度帯に位置する日本の地図であるなら,まだ我慢できる歪みかもしれません。けれども,高緯度地帯ではどうなんでしょうね。
最初の索引図として世界全体の小縮尺図を使うのならメルカトル図法のような円筒図法でも,とりあえずは構わない。
けれども,大縮尺で各地域の詳細な地図を描くのに,あるいはそれ以上に中程度の縮尺である程度広い範囲の情報を,あくまでも赤道上“だけ”が「正しい」正軸の接円筒図法を高緯度地方に適用し続けるのは,やはり不適切です。Google マップで北極“点”や南極“点”は記載できるのでしょうか。

[80540] futsunoおじ さん
ソフトウエア上で表示する緯度に連動した縮尺補正機能があってもいいと思います。

だから本当は,縮尺の補正だけでなく,緯度帯や縮尺に応じて「適切な」投影法が選ばれる(あるいは“選べる”)システムがあってもいいかなと思います。実際のところ,コンピュータの中では緯度・経度の座標データを一定の計算に従って変換されたディスプレイ画面上の座標にプロットするという作業をしているのでしょうから。

…既に,そういうシステムになっているのかもしれませんが。
[80538] 2012年 4月 19日(木)00:17:12【4】Issie さん
ややこしい図法の話
[80536] グリグリ さん
スケール表示がない理由としては、ネット地図は正距図法ではないからなんですかね。

「縮小された“ものさし”そのもの」という意味での“スケール”は,電子国土基本図でも,たとえば Googleマップ でも画面上に表示はされていますね。けれども,「縮小率」という意味での“スケール”は表示されていません。
これは,使う側の環境によってディスプレー画面やプリンタの解像度が違えば“同じ範囲”を表示したり印刷したりしてもその大きさが違うわけで,「結果物の縮小率=縮尺」を指定することができないせいではないか,と考えているのですが,…違うかな?

以下,たぶん地図投影法に関しては専門の方もいるのではないかと思うし,たとえば「正角割円錐図法」なんて言葉が出てくると私も正直ついていけないのですが,とりあえず高校の「地理」の時間で扱うような範囲内で…。

まず,メルカトル図法は「正距図法」ではありません。
たとえば,メルカトル図法で描かれた長方形の古典的な世界地図を考えましょう。
この地図にも普通,“ものさし”“縮小率”双方の意味での「縮尺」が両方とも記載されています。けれども通常,そのものさしと縮小率の数字が表しているのは“赤道上”のそれです。つまり,長さ4万キロの赤道をどれだけ縮小しているかを表しています。
しかし,地球上にひかれている緯線のうちで長さが4万キロもあるのは赤道=緯度0度線だけです。たとえば,北緯60度線の長さは2万キロしかありません(cos60度 は 0.5 ですね)。けれども地図上の緯線の長さは赤道と同じです。ということは,実際の緯線の長さの2倍に引き伸ばされているわけで,距離が「正しく」表されていません。通常,普通のメルカトル図法の地図で距離が正しく表されているのは赤道上の任意の2地点間だけで,ほかの2地点間の距離を正しく表すことができず,したがって,メルカトル図法は「正距図法」ではないのです。
ではメルカトル図法で何が「正しい」かというと,「角度が正しい“正角図法”」に分類されます。この「角度が正しい」というのをすぐに頭に入るように説明するのはとても難しいので省略して結果だけ言えば,「地球上に同じ大きさの小さな円がたくさんあると仮定した場合、正角図法で投影された地図上でも全ての円がほぼ真円で表される」という地図です。つまり,狭い範囲であれば「形が正しく」描かれる,という性質を持っています。
ところが,普通のメルカトル図法では「赤道上の距離が正しく表される」ように描かれていますから,たとえば日本のように赤道から緯度にして30度も40度も離れている場所では距離や面積の歪(ひず)みが大きくなって正しく表示することができません(上の説明で言えば,“真円”が赤道付近よりも大きくなっている)。
そこで発想を変えて,地球を“横”にして赤道ではなく“特定の経線”上の距離が正しく表されるように描くようにした地図の作り方を「横メルカトル図法」と言います。基準の経線から離れて歪みが大きくなりそうになったら,別の経線を基準にすればいい。そうすれば,全体として歪みの小さい地図を広い範囲にわたって作ることができます。
繰り返しますが,メルカトル図法も横メルカトル図法も「正距図法」ではありませんから,距離も,したがって面積も正しく表すことができません(つまり,「正積図法」でもない)。でも,5万分の1,あるいは20万分の1くらいの縮尺で実際に刊行されている大きさの紙に収められる範囲内なら気になるほどの誤差は生じないので,「形が正しく」表示される(横)メルカトル図法がこの縮尺の地図には採用されています。

ところで,縮尺2万5千分の1でも5万分の1でも「地形図」の四辺のラインは緯線および経線です。作図の便宜上,この線は直線で引かれているようです。この5万分の1地形図を16枚貼り合せて4分の1に縮めたものが「20万分の1地勢図」ですが,この地図では元になった16枚の地形図の境目に黒い細実線が引かれています。そこで地図上の“東西方向”に引かれている線にものさしを当ててみてください。実はこの線が“直線”ではなく,少し湾曲した大きい半径の円周に近い線であることが分かります。
この大きさ(縮尺)になると,(横)メルカトル図法での歪みがそろそろ気になりだすのですね。つまり,メルカトル図法では無理が生じ始める。ついでに言えば,国土地理院が刊行している50万分の1“以下”の縮尺の地図は,使用している紙のサイズ自体がずっと大きいから,なおさら歪みの大きさが気になる。そこで,これらの縮尺の“小さい”地図はメルカトル図法よりも歪みが小さく広い範囲を表すことができる「正角円錐図法」の1つである「正角割円錐図法」が採用されています。
「円錐図法」というのは,“丸い地球”上の情報を紙に写し取るに当たって,その紙を円錐状に丸めてそれを地球にかぶせ,たとえば地球の中心に光源を置いてそれで紙に映った影をなぞって写し取った,と仮定して地図を描く方法です。
ちなみに,メルカトル図法は「円筒図法」。紙を筒状に丸めてそれで地球に巻き,紙に映る影をなぞって地図を描いています。古典的なメルカトル図法の世界地図は,この紙を赤道で地球に接するようにして巻いたもので,だから赤道上の距離(だけ)が正しい。横メルカトル図法は,それが赤道ではなくて“特定の経線”で,というわけです。
円筒図法であるメルカトル図法では,紙が地球表面に接している赤道または特定経線から離れるにしたがってその“紙面”が地球表面から急速に離れていきますから,歪みがだんだん大きくなります。
一方,地球(半面)にすっぽりとかぶさる“円錐”なら,円筒よりは広い範囲で地球表面に密着させることができます。つまり,それだけ歪みが小さい。北極または南極を上にして円錐をかぶせた場合,特に中緯度で円錐面が地球表面に近接するので,中緯度地方について歪みを小さく写し取ることができる。だから日本のような中緯度地域を広く描く場合に,この「円錐図法」が好んで用いられます(たとえば,新聞やテレビの天気図でも使われています)。そのうち,「角度が正しく」表されるように調整したものが「正角円錐図法」です。
この時,円錐を地球表面に密着させて特定の緯線(または地球を周回する線)で接するようにしたものを「接円錐図法」,円錐を地球表面に食い込ませて2本の線で地球表面と交わるようにしたものを「割円錐図法」と呼びます。円錐面と地球表面が近接する範囲が広い「割円錐図法」の方が歪みの小さくなる範囲が広いので,こちらを国土地理院が採用しているのでしょうね。円錐図法について詳しくは こちら をどうぞ。地図投影法一般については こちら地図投影法 のページで詳しく説明されています。

ところでこれは“紙の地図”の話。
ディスプレイ上の電子地図はまた少し違った投影のしかたをしているような気もするのですが,どうなんでしょうね。
[80533] 2012年 4月 17日(火)21:56:48Issie さん
Re:使いづらいよデジタル地図
[80531] グリグリ さん
昨日の東京新聞朝刊のこちら情報部の特集記事のタイトルです。国土地理院の電子国土の国土基本図が使いづらい点を取材したものです。

この東京新聞の記事は“周回遅れ”でしょうかね。
3月28日の朝日新聞(東京本社版夕刊)には,この「使いづらい」という声を受けて問題の送電線や記念碑などの掲載を“復活”させることにした,という記事が載っていました。こちらのブログ では当該記事とそれに関するイギリスやドイツの例について述べてられています。
批判の声の中には「戦時改描」なんて物騒な言葉も出てきているようです。
現に見えているものを載せるのは当然だというのは至極もっともで私も同意見なのですが,東電が協力しない理由が「テロ対策」というのが御時勢ではあるのでしょうね。前シリーズから「ブラタモリ」もモザイク画面が増えました。現地を知っている人にはバレバレのような気もしないでもありませんが。
この話,「軍事情報としての地図」という地図の本質の1つにかかわる話題なのかもしれません。

私はほとんど利用しないのでよくわからないのですが

私もほとんど利用していません。「電子国土」に限らず,googleマップのような民間のものも含めて。
理由はやはり,「使いづらい」からです。
紙の地図とは違って“シームレス”であるというのは,何より電子地図の優れたところです。
けれども如何せん,ディスプレイ画面は狭い。紙地図は多くの場合,折りたたむか丸めなければ持ち歩けない大きさで,にもかかわらず“紙の大きさ”という描写範囲の限界があるのですが,その範囲内において“一覧性”という点で狭いディスプレイ画面に勝ります。
縮尺を小さくすれば狭い画面でも広い範囲が描写できるわけですが,その分,情報が減ってしまいます。
そして,この縮尺が自由に変更できるという点。これも紙地図にはない電子地図の極めて優れた特長ですが,使う場面によってはむしろ致命的な欠陥になる。
つまり,たとえば「4cmで1km」という“縮尺の概念”が通用しないわけで,地図の上で距離や面積を把握することが非常に困難です。
実際の使用場面において,私は「地図は消耗品」と割り切って使用しています。必要のある都度,同じ地図を購入してたくさんの線を描き込み,色を塗りたくり,ハサミで切り刻む。
このような使い方も電子地図では難しそうです。いや,そういう使い方のできるソフトがないわけではないのかもしれませんが,私には紙地図の方が使いやすい。

というわけで,何か「電子国土」じゃなくて電子地図そのものに対する愚痴になってしまいました。
当たり前のことですが,紙地図にも電子地図にもそれぞれ優れた点とそうでない点があって,それが向いている場面と不向きな場面とがあるわけで,要は必要に応じて使い分ければ良い話です。特にほかの電子情報と関連付けて利用する,つまりGISの基盤として電子地図は不可欠なものです。が,とりあえず私の使い方では紙地図の方が使いやすいことが多い…という,それだけのことです。
[80518] 2012年 4月 10日(火)20:15:25【3】Issie さん
市会/市議会
[80515] グリグリ さん
五大都市では今でも市会と呼んでいるんですね。

以前,県議会の事務局に勤めていたことがあるのですが,そこは当然に他都道府県議会や市町村議会事務局とのお付き合いがあって,その際に「五大市」の議会は「市会」と呼ぶ習慣だよ,と教わりました。
政令指定都市が20もある今,こんな所にまだ生きているんですね,「五大市」という言葉。

落書き帳でも過去の議論になっているかと思いきや

[80429][80430] で少し触れようかと思いましたが煩雑になるのでやめました。でも,あの文章の中では意識して使い分けています。「市会/市議会」ではなく,「町会/町議会」という言葉ですが。

ごく単純に言えば,現行憲法・地方自治法下の呼称が「市議会」,明治憲法・(法律としての)市制下の呼称が「市会」ということになります。
これはそのまま,「町議会/町会」,「村議会/村会」,「府議会/府会」,「県議会/県会」にも当てはまります。ただし,「府会」「県会」はさらに古く,1878(明治11)年の“地方三新法”の1つ,「府県会規則」,「町会」「村会」は1880(明治13)年の「区町村会法」以来の呼称です。「市会」は,「市」という地方区分自体が1888(明治21)年の「市制」で“初めて”現れるわけですから,それ以降(施行はもちろん,1889(明治22)年)のものです。
ちなみに北海道の場合は1901(明治34)年の「北海道会法」により,やはり「道会」という呼称でした。

だから,少なくとも“制度上の呼称”は1947年5月3日の現行憲法と地方自治法の施行時に「市会」等から,「市議会」等に変わっているのですね。これについては,上の「北海道会法」について検索してヒットした 北海道議会のページ で触れられています。
ところがなぜか,「五大市」だけが「市会」という呼称に固執したわけです。道府県を含め,ほかは素直に切り替えているのに。どんな理由なのかわかりませんが,これはやはり当時“区のある市”がこの5つだけだったということと関係があるのでしょうか。

ところで,これよりも一足早く「×議会」という呼称を採用したところがありました。
「東京都議会」。
1943(昭和18)年の法律「東京都制」で,議会の呼称は「都議会」と規定されています。だから,ここだけは最初から「都議会」なのですね。
ほかと同じフォーマットにすると「都会」になってしまう,…からでしょうかねえ。

さらに早いのが,実は国レベルの議会。
明治初め以来の議会開設をめぐる一連の動きの中で,民権派からも,時には政府側からも広く用いられていた「国会」という言葉に対して,1889(明治22)年の明治憲法が採用したのが「帝国議会」という呼称。それが,1946(昭和21)年の現行憲法では「国会」という呼称になりました。ま,「帝国」じゃまずいもんね。
結果として,市会→市議会 という地方議会に対してこちらは 帝国議会→国会 という逆の形の呼称変更になったわけで,面白いものがあります。

横浜市に住んでいたこともあるのですが、これまで意識したことがなかったです

いずれにしても市民にとっては関係のない,どうでもいいことですから。
ここの初期の頃に話題になったように,一般呼称としては「市役所」と呼ばれている建物やその中にある行政機関を横浜市は勝手に「市庁」と呼んでいるようなものかしら。
神奈川県議会と横浜市議会,…もとい,横浜市会,県と市の関係がそうであるように,こちらの関係もどうも微妙なようで…。

※後からよく読んでみたら,論点が少しずれているようですね。でも,まあいいや。
[80476] 2012年 3月 31日(土)21:33:34【1】Issie さん
南三原
[80475] の続きです。
実は [80441] で hmt さんが紹介されたリンクで一番うれしかったのは,各年の国勢調査報告にアクセスすることができるのがわかったことでした。
結構前に紹介したことですが,野毛山の横浜市立中央図書館には敗戦前の国勢調査報告の復刻版が配架されていて,それで1920(大正9)年の“第1回”と1940(昭和15)年の報告書の人口表部分は丸ごとコピーして持っているのですが(著作権法的には微妙ですが,図書館の方では容認しているみたいです),残念なことにこれには各市町村の読みが記載されていません。
ローマ字という形ではあるけれど,それが記載されるようになるのが1950(昭和25)年の報告書なのです。しかも「昭和の大合併」の直前回ということで,(私は人口のデータには関心がありませんが)非情に興味深い。けれども,これを読みに国会図書館に行くというのもなかなか機会を得ることができず(1960(昭和35)年の回はそうして,その結果がうちのHPに反映しているわけですが),だからこうした旧データが電子情報化されてweb上で公開されることを切望していました。
ああ,いつの間にか,やっと実現していたのですね。そのままではたとえば表計算ソフトの表に取り込むことのできない pdf(というか,画像)ファイル ではあっても。

そこでさっそく,1950年の千葉県の表を見てみました。
当時の表では現行の地方自治体コードの配列とは違って,千葉県の郡部は“県南”(←千葉県ではあまり聞いたことがない)の 安房郡 から並んでいます。
その中でふと目についたのが,現在では 鴨川市 の一部になっている「南三原村」。
そこに記載されているローマ字表記をみると Minamimibara-mura ,つまり「みなみみばらむら」と濁音で読むように記載されています。
この「南三原」という地名には,これをそのまま読んだ「みなみみはら」と国鉄の駅名に採用されている「みなみはら」の両方の読みがあって,その間に揺れがあることは知られているのですが(件の『市町村名変遷辞典』では「みなみみはら」を採用しています),そこに濁音の「みなみみばら」という読みもあるのか? ちなみに,隣接する「北三原村」のローマ字表記は Kitamihara-mura となっています。
国勢調査報告のローマ字表記による読みがしばしば地元自治体が公式に定めているものと違っている,あるいは国勢調査報告自体で年によってその表記に変動があるというのは,うちのページ を作っていく過程で十分確認されていることなので別に驚くことでも何でもないのですが,
まあ,やはり「そういうこと」はあるのですね。
[80475] 2012年 3月 31日(土)21:08:51Issie さん
三宝
[80473] グリグリ さん
いかがでしょうか、Issieさん。おそらく濁音の方がより正しいように思うのですが。

あそこのページは基本的に 地名情報資料室・編『市町村名変遷辞典 三訂版』1999年,東京堂出版 に依っているのですが,今改めて見ると当該の項目の読みは濁音で「さんぼう」ですねえ。半濁音は私の思い込みで間違いであったということですね。

ところで,その次の項目は新潟県岩船郡の 旧山北村→山北町 なのですが,こちらの読みも濁音で「さんぼく」となっています。旧町の公式の読み方では半濁音の「さんぽく」だったはずですが。参考までに [80441] で hmt さんが紹介されたリンクをたどって各年の国勢調査報告を見ると,1955(昭和30)年の初登場以来,ここでは一貫して Sampoku と表記されています。
まあ,「そういうこと」なのでしょう。
[80472] 2012年 3月 31日(土)18:45:40Issie さん
区の順番
[80468] グリグリ さん
まだちょっと早いのですが、熊本市の中核市から政令指定都市への移行、豊中市の特例市から中核市への移行、および、松江市の特例市指定に関連して、市区町村のデータ、公式HP、ランキング、雑学などを更新しました。

細かいことですが,熊本市の区の公式の配列は

中央区(101),東区(102),西区(103),南区(104),北区(105)

という順番であるようです(カッコ内は明日から適用される地方自治体コード)。[80460] で紹介されている熊本市のガイドブックでも最初のページにその順番で記載されています。

この配列,実は結構面白いですね。
たとえば旧東京市の35区,そして現在の東京23区は,“中心”の千代田区から時計回りに並んでいます。横浜市の場合は,最初に区制を実施した1927年当時の5つの区を北から順番に 鶴見→神奈川→中→保土ヶ谷→磯子 と並べた配列が出発点になっています。
たいていの政令指定都市は,このどちらかのパターンで区を並べていますね。3つしか区がない相模原市は北の緑区から始める横浜パターンです。
ところが熊本市は,地図上における区どうしの隣接関係は無視して「中央区」を最初に置き,次は日常の口頭に上る「東西南北(とうざいなんぼく)」の順で並べているのですね。これが麻雀の「東南西北」ならまだお互いに隣りどうしになったのですが。
何か珍しいな,と思ったら,
…浜松市と堺市に先行例がありました。
[80471] 2012年 3月 31日(土)18:17:30Issie さん
梅田雲浜
[80461] 白桃 さん
(福井県)雲浜(うんぴん)村・・・・・現:小浜市

[80464] グリグリ さん
雲浜は海岸由来でよいのかどうか(想定)

“幕末おたく”だとすぐに 梅田雲浜 を連想するでしょうね。
小浜藩出身の儒学者で安政条約反対と攘夷を訴え,安政の大獄で獄死。
町村制施行のための明治の大合併で新しい村が編成された時にこの 梅田雲浜 を記念して「雲浜村」としたのか,と一瞬思ったのですが,梅田雲浜の方が出身地の小浜海岸の別称を自分の号にしたようですね。
つまり,小浜海岸の別称が「雲浜」らしい。
何でこういう別称がついたかについては,それなりの謂れがあるのでしょう。

[80466] グリグリ さん
県北共同試験場

意外なところに使用例がありましたね。
私も石川県は県北部についてもっぱら「能登」を使うだろうと思っていました。
[80462] 2012年 3月 30日(金)21:50:38【1】Issie さん
いっぽんでもニンジン
「半濁音の自治体名」の話題にちょっと便乗します。

私が小学校6年生の冬,爆発的に流行した曲がありました。あの,「およげ!たいやきくん」。
あの頃,お昼の校内放送では毎日のようにこの曲が流れ,家に帰宅すればちょうど「ひらけ!ポンキッキ」の再放送時間(朝の本放送は登校時間に当たるので視ることができない)に当たって,最後のオチで釣り人がたい焼きを食べるアニメーションを毎日のように視ていました。
ところで,この「およげ!たいやきくん」のレコードの裏面にあったのが なぎら健壱 の名曲「いっぽんでもニンジン」でした(ものの本によると両A面という扱いだそうですが)。これも校内放送で毎日のように流れたものです。
この歌,リアルタイムでは「たいやきくん」の裏面という意識しかなかったのですが,実は日本語教育上,とてもよく考えられて意識して作られた歌です。つまり,日本語教育上のポイントの1つとなる“助数詞”の使い方を歌った歌なのですね。そもそも,その頃の「ポンキッキ」には数年前に(他局だけど) ウルトラの母 を演じたペギー葉山の“道徳コーナー”があったように純然たる「教育番組」でした。
そこで数える対象によって助数詞が変わる,というのを教える歌がこの「いっぽんでもニンジン」だったのですね。

そんなことを思い出したのは,週末のこととてお酒を飲みながら視ていたNHKの某番組で「県北」という字を見たからです。
実は「いっぽんでもニンジン」ではスルーしてしまっているのですが(いっぽんでもニンジン,ろくわでも七面鳥,しちひきでも蜂,きゅうはいでもジュース…と,そのまま歌っている),「は行」がからむ助数詞は状況に応じて濁点や半濁点がついたり,「わ行」に移ったりと,外国の日本語学習者には非常に難しかろうと思われる子音交替現象が見られます。特にともに“唇の音”であるPとBの交替はともかく,そこに“喉の音”であるHや半母音のWが絡むというのは,日本語話者には当たり前であっても,外国語話者にはわかりにくいことだろうと思います。
この現象の難しさは「いつでも必ず起こる」ことではなく,時によって起こったり起こらなかったりするすることにあります。

要は,「県北」。
この語は,濁らず清音で「けんほく」と読んだり,濁音で「けんぼく」と読んだり,半濁音で「けんぽく」と読む3つの読み方が実際に行われ,しかも全く不規則に,それぞれの地域での慣習によって読まれている,逆に言えばよそ者には「正しく」読むことの難しい地域呼称です。
つまるところ知りたいのは,各県で「県北」をどのように読んでいるか,ということです。
もちろん,「県北」という地域呼称が45の県のすべてで行われているわけではありません。
まずどれくらいの県で「県北」という地域呼称が行われ,次に「県北」をどのように読んでいるか,という疑問です。

ちなみに,神奈川県では「県北」は濁点なしで「けんほく」と読まれます。
その範囲は使用する主体によって様々ですが,県行政では一般に旧津久井郡,あるいは相模原市の旧市域を加えた範囲(つまり,現・相模原市)を指しています。
よその県ではどうでしょうか。

ついでに京都府・大阪府について,「府北」という表現はあるか。
東京都の場合,島嶼部を除いた“本土部分”が東西に長いために「都北」という表現はあまり聞いたことがありませんが,「都南(となん)」という表現は町田市について行われることがありますね。
[80431] 2012年 3月 25日(日)17:38:53【2】Issie さん
旧座間町の分離について: 「隋書」では
[80430] の続き

以上,相模原市側の「正史」によって座間分離の過程を見てみました。
冒頭で申し述べたとおり,これは1960年代後半に編纂された旧版を引き継ぎ,2004年の市制施行50周年を機会に編纂が進められている新版市史によるものです。わが国の正史になぞらえれば「日本書紀」に対する「続日本紀」とでも言えましょうか。
実際に国家が編纂した正史では,現政権の正統性を強調するために前政権に対する記述に政治的配慮を加えることがよくあります。645年の宮廷クーデタ(乙巳の変,いわゆる大化の改新)および672年の王位継承をめぐる内戦(壬申の乱)という2度の王位簒奪事件を経て成立した政権(天武・持統朝)で編纂が始まった「日本書紀」における蘇我氏に関する記述や,皇統が天武系から天智系に移ったのを受けて即位した桓武天皇の命令で編纂された「続日本紀」における孝謙・称徳女帝と“怪僧”道鏡とのスキャンダラスな関係なんかは幾分割り引いて読む必要がありそうです。
市史程度のものであれば,そこまで読み込む必要はないと思いますが,それでも40年前に編纂された旧版の方で座間分離問題を扱っていたら,その書きぶりは新版のそれとは少し違っていたかもしれません。何より,まだ通史編が刊行されていない座間市側の「正史」でどのように記述されるか,とても楽しみです。

ところで,倭国が派遣した使節が隋の皇帝・高祖文帝の前で演じた不調法を恥じてか,わが国の正史に記載のない600年の遣隋使をしっかり記載している『隋書』に相当する(?),県史ではこの辺りをどう記述しているか,『神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)』(1982年)も見てみました。
当然ながら,市史と県史とでは関心の対象が違い,敗戦後の地方制度改革で最も関心を寄せているのは横浜市も対象となる「特別市」問題ですが,あわせて分離を含めた市町村の「区域変更」をめぐる問題を取り上げています。長くなりますが,ほかの興味深い事例についても触れているので,1節の前半分を以下に引用します。

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 特別市問題は新しく作られる地方制度の枠組との関連で県を二分するか否かの大問題であったが,県内にはそれとは異なる型での区域変更をめぐる争いもこの時期に登場した。その一つは横須賀市内の旧逗子町の分離独立問題で,戦時中の1943(昭和18)年4月に軍の要請で横須賀市に編入された旧逗子町の町民の有志から戦後になって編入の意義は失われたとして従来の如く逗子町として独立しようとする運動が活発になってきたのであった。また,高座郡相模原町でも旧座間町の分離独立問題が動き始めていた。座間では相模原への合併後,住民生活の不便,経済負担の不均衡等を理由に,分離独立の意向を強くもっていたが,相模原町会ではこれを認めると大野・相原等が相次いで独立することをおそれてこれを承認しなかったために問題化し始めていたのである(地方課『昭和22年3月知事事務引継書』)。
 当時の地方制度では,そして制定されることとなる新地方自治法においても,市町村の配置分合は関係市町村会の議決を経て,内務大臣の許可を得たうえで知事が定めることとなっていた。しかし,住民の意思を尊重するという雰囲気が強まってくるなかで,区域の変更に関しても住民の意思を直接に聴する手続が採られる動きも見られたのである。鎌倉郡片瀬町の場合がそうであった。片瀬町と隣接する藤沢市との合併問題は戦前からあったが,敗戦後の財政の窮乏と食料の確保のため合併の気運が強くなり交渉が進められた。一方同市に隣接する鎌倉市も大鎌倉市の構想をもち隣接町村との合併を希望し,片瀬町が藤沢か鎌倉との合併を希望するとの誘いをもちかけた。同町ではこの問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。1947年1月に行われた町民投票では有権者の57パーセントの3463名が投票し,結局藤沢市への合併を希望するものが,現状維持・鎌倉合併派をおさえて多数派を占め,これを基礎として両市町は合併を内務大臣に奏請した結果,同年4月1日から片瀬町は藤沢市に編入されることとなったのであった。このように“首長公選”の時と同様に法制上の裏づけはないが,住民の意向を確かめるための住民投票を経て事実上の決定を行い,それを法制に結びつけて運用するということが,過渡期の地方制度運営の現場でみられるようになっていたのである。ちなみに,逗子町の横須賀市からの分離の投票は1949年3月に行われたが,これは48年の地方自治法一部改正による法的根拠をもった投票であった(『横須賀市政時報』昭和24年2月22日)。(p.575~576)
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というわけで,住民投票の行われなかった旧座間町のその後については実は触れられていません。
ところで,「県史」のこの巻が刊行されたのは1982年。当時の神奈川県は“長洲県政”の下,「革新自治体」の代表として情報公開条例の制定に取り組んでいました(これが山形県の小さい町に先を越されてしまった件,昨日(24日)の朝日新聞・夕刊に取り上げられています)。ここに引用した節の書きぶりにも,そんな県政の雰囲気が漂っているような気がします。

当たり前のことですが,県レベルの視点から見れば座間の分離問題は逗子の分離問題とも連動する案件です。結果的に,両者は違った手続きで分離・再独立を勝ち取りました。
ここで大きな働きをした「地方自治法の一部改正」は,社会・民主・国民協同3党の連立政権である芦田内閣の下で進められましたが,国会で実際に審議を進めたのは衆議院の治安および地方制度委員会委員長であった野党・自由党の 坂東幸太郎 であり,彼が座間の分離問題に積極的に関わったのは前述のとおりです。また,これも最初に登場した元県議の地元選出衆議院議員 岩本信行 も,一連の記述には登場しないけれども大きな働きをしたことでしょう。前述の通り彼は,占領下の戦後第1回衆議院議員選挙で採られた大選挙区制を1947年の新憲法準備総選挙に備えて元の中選挙区制に戻す選挙法改正審議での手腕を 吉田茂 に買われて,昭電疑獄による政権交代で成立した第2次吉田内閣で,解体された内務省から地方行政事務を引き継いだ 地方財政委員会委員長(国務大臣) に抜擢されます。「地方政治のプロ」としての抜擢ですが,それが内務官僚ではなく,長く県会の首領として君臨してきたという意味での「地方政治のプロ」なのですね。
町議会で座間分離案が可決して再独立の実現に大きく進んだとき,町議会からは分離に向けての具体的な手続について,先行して分離(というより解体)が実現した埼玉県の旧志紀町へ代表を派遣して調査してきたりもしています。

座間の分離独立は,こうしたさまざまなつながりの中で実現したのですね。
[80430] 2012年 3月 25日(日)17:37:11【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (2)
[80429] の続き

このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが

[80415]
「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

です。
「市史」では,1947年12月に衆議院で前年8月に請願書を提出した座間分立を求める請願が認められ,翌48年2月にこの請願書を仲介した前出の衆議院議員で当時衆議院治安および地方制度委員会委員長を務めていた坂東幸太郎から上記の地方自治法改正につながる指令がGHQから出るという情報がもたらされたことが転機になったとしています。この地方自治法改正に関する記述は以下の通り。

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 戦時中,軍の要請で合併させられた市町村を,従来の市町村議会の議決ではなく,住民投票により元の状態に戻すという,地方自治法の改正案は,4月15日,衆議院に提出された。審議は同月27日から,治安および地方制度委員会で始まる。委員長の坂東幸太郎は地方自治法の改正案をめぐる状況について,座間側にその都度知らせていた。分立実行委員の山田和夫に宛てた葉書のなかで,坂東は座間側が関心を寄せる改正案の提出時期と中身に関して触れている。
 審議が進むと,5月には,稲垣俊夫・山田和夫の二人が坂東議員を訪問した。かれらは今回の地方自治法の改正に,相模原町の事例も含まれるのかどうか聞いたところ,坂東から「該当する」というお墨付きを直接得ている。地方自治法の改正案は6月19日に衆議院本会議,同月28日に参議院本会議でそれぞれ可決され,7月20日に公布された。(p.324~325)
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この一連の動きの中でキーパーソンであったのが衆議院議員の 坂東幸太郎 や 岩本信行 であったわけです(ともに自由党)。そして,この地方自治法改正に座間分立問題も深く関連していたことがわかります。
これに対して地元の座間・相模原では,

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 国政の動向が座間にとって有利に働いたことで,座間分離問題は再燃した。48年5月には,座間地区選出の六人の町議と座間支所長が相模原町の関係者を訪問し,改正後の地方自治法を適用して分町を強行するよりも,改正前に町議会の議決で円満に独立したいという意向を伝えたという(『神奈川新聞』1948年5月5日付)。座間側は強気の姿勢に変化し,改正案の成立を待たずに解決することを急いだ。
 地方自治法の改正案の成立が確実視されると,相原・大野地区の町議との連携も進む。座間地区六人と大野地区五人の合わせて十一人の町議が,6月2日に共同で,座間の分離問題に関する臨時議会の招集を求めた(議会史 資料編II)。これまで,町議会でたびたび分離実現の機会を逸してきたが,今度は,相原・大野との共同歩調が事前に採られる。6月8日,相模原町議会が開かれると,「座間地区分離独立の件」が提案され,19対11で可決された(議会史 資料編II)。ここで,座間地区は独立する権利を手にする。(p.325)
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ということになりました。
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

こうして町議会は座間の分離を承認しましたが,前年の選挙で分町派の候補を破って当選した町長の小林與次右ヱ門は,「分町問題は町発展のブレーキ」と認識し,町議会の解散権行使をちらつかせながら消極的な態度をとりました。しかし結局,7月7日の町議会全員協議会で(分町派でない5地区を含む)各地区選出の町議一人ずつと正副議長から成る「旧座間町地区分離準備委員会」の設置が決定され,同委員会でまとめられた分離に伴う財産処分案を含む具体的な座間町分離方針が8月6日に町議会に上程,「9月1日から座間町を設置する」ことが全会一致で承認されたのを受けて,8月11日に小林町長が 地方自治法第7条による町分離処分 の申請を県知事に行いました。県議会は8月30日に座間分離案を可決,翌31日に

[80415]
昭和23年神奈川県告示第360号
「座間町設置に関する県告示」

が出されました。そして翌日,1948年9月1日に座間町が再置されたわけです。

一方,座間と共同歩調をとっていた相原・大野の両地区は結局,分離を選択しませんでした。
座間が分離の実現に向けて積極的に動き出した5月半ば,両地区選出の町議は「相模原町分町問題に関する申合」を取り交わしました。その中で,両地区は相模原町に残り市制施行の実現に努力する。それに当たっては,(3段の河岸段丘である相模原台地の“中段”に位置する)上溝にある町役場などの諸施設を“上段”の横浜線沿線に移転することを求めています。それが認められなければ,座間に続いて両地区も分離をめざす,ということです。
この「申合」は座間町の分離が議決された6月8日(「市史」ママ。8月6日か?)の町議会に緊急動議として提案され,可決しました。
実際に町役場が上段の 旧相原村清兵衛新田 の現在地に移転するのは1954年4月29日。これは相模原町発足からちょうど14年めの記念日,そして同年11月20日の市制施行の7ヵ月前のことです。
現在,市役所や警察署,郵便局などが集積する相模原市の中心業務地区(CBD)となっている 中央・富士見地区 は旧上溝・相原・大野3町村の境界が交わる場所に当たります。ここをCBDとすることは「軍都計画」当初からの既定方針であったようですが,現実には相原・大野両地区の分離を思いとどまらせることの交換条件として実現したとも言えそうです。

以上が,「市史」の記述による「協議離婚」([80411] )の経緯です。
現実の「離婚」がそうであるように,たとえ円満に見える協議離婚でも,それが実現する経緯は紆余曲折があるのですね。

(続く)
[80429] 2012年 3月 25日(日)17:34:59【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (1)
[80411] 以下 hmt さん
戦時合併 と その解体 続編

昭和16年の合併には「座間町」も加わりましたが、戦後に分立。
日付から判断すると、おそらく臨時措置による手続き[55656]によらず、相模原町との「協議離婚」が成立したものと思われます。

[80415]
【追記】
逗子町再置が 前記改正法“附則第2條第5項の規定”によることは、昭和25年総理府告示第191号 に明記されていました。
そこで、座間町の場合も 再置告示確認によって、臨時措置によるものか否かの区別がつくであろうことに気づきました。
調査の結果は、通常の手続きによる分立のようでした。昭和23年神奈川県告示第360号 【追記終】

この辺りの経緯について,「正史」である市史ではどのように記載してあるか,確認してみようと思いました。
本来であれば双方の記述にあたるべきなのですが,座間市側では現時点で「通史」の刊行は近世まで,近現代については「資料編」の刊行にとどまっている(その代り非常に詳細で,後の引用の通り相模原市側の記述の多くもこれに依っています)ので,以下は相模原市側の『相模原市史 現代通史編』(2011年,以下「市史」)によります(なお,この刊行年にあるように相模原市側でも1960年代後半から70年代初めに編纂された旧版市史は1945(昭和20)年8月15日で終わり,「相模原市」の時代が丸ごと入る戦後の記述は今回の“新版”に送られていました)。

さて,「市史」ではまず,座間町分離の前提状況として次のように記載しています(なお以下,年月日や数を表している漢数字は原則として算用数字に改めます)。

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 「相模原町旧座間町地区分立嘆願書」によると,町制施行の過程において,座間町は最後まで反対であったが,県と軍の指導により,不本意ながら重圧に屈して賛成したという(『座間市史4 近現代資料編2 240』)。合併前の座間町の人口と面積は,大野村に次ぐ規模であった。1940(昭和15)年時点で田の面積は231町歩,二ケタ止まりのほかの七か町村にくらべて広く,生産価額でみても最上位に位置している(『昭和十五年 神奈川県統計書』)。農業を基軸に,旧七か町村(引用注:ママ)のなかでトップクラスの生産力を誇っていた座間町は,合併に消極的であった。
 合併後,交通網の不便さから,座間は上溝に置かれた町役場まで遠く,半日を要する状況であった。また,税金を多く払っているにもかかわらず,地元の老朽化した校舎や道路は放置される。軍都建設の要請のもと,最初から財政不均衡な八つの町村が合わさって生まれた相模原町で,各地区まんべんなく施設の充実を図ることはできなかった。
 こうした要因を背景に,相模原町では敗戦を契機として,旧町村を単位に合併前の状態を求める分離運動が起こった。「軍都」という共有の目標を失うと,合併の意義そのものが疑われ,ほころびを見せ始めたのである。(p.317)
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敗戦直後の1945年9月に分離を求める地区の有志が当時の町長に申し出を行うことで具体的な分離の動きが始まるのですが,この時に動き出したのは旧座間町だけでなく,旧相原・大野両村も加わっていました。旧相原村は現在の緑区東部の橋本・相原地区および中央区の小山・清新・相模原地区,旧大野村は現中央区の矢部・淵野辺地区および南区の古淵・相模大野・上鶴間・東林間地区で,つまり国道16号線とJR横浜線,および小田急線沿いの,要するに現相模原市で人口と産業の集積の最も高い地域です。以後,この座間・相原・大野の3地区が分離運動の主役となります。
この3地区の中で特に動きが早かったのがやはり座間地区で,住民の幅広い支持を集めて分立のための「実行委員」まで選出して町会議員や地元選出の県議・岩本信行(長く県会議長を務め,1946年の衆議院議員選挙で国政に進出,のち吉田茂に抜擢されて第2次吉田内閣の国務大臣・地方財政委員長),地元選出ではないけれども県内の鵠沼に住んでいた衆議院議員(北海道選出)・坂東幸太郎らへの働きかけを積極的に進め,坂東を仲介に帝国議会(国会)への請願も行っています。これに対して相原・大野両地区では住民の意向がまとまらず,動きが鈍かったようです(ちなみに,岩本は旧大野村の上鶴間の出身です)。
こうした動きを背景に,1946年10月4日の相模原町会全員協議会に座間分離問題が上程されましたが,その場で妥協点を見出すことができず結論は先送りになりました。結局,同年11月30日に開かれた町会で分町を求める意見書が緊急動議が提出され,断続的な休憩の後,意見書は6対11で否決されました。
これに対して,座間地区では12月5日に「座間町民大会」を開き分立を求める決議文を全会一致で採択し,相模原町役場の座間出張所長までをも含めた地域の有力者を新たな分立実行委員に選び,さらに運動を強化して,衆議院議員となった岩本を仲介に県や内務省への陳情を進めました。意見書を否決した町議らへの再考要請も行っています。
こうした動きに対して,町議の多くは個人的な理解は示しましたが実際の分離には消極的であったようです。それは当然で,座間が分離した後,相原と大野がそれに続けば「相模原町」として残るのは現在の相模線沿いの地区だけで,これは事実上の「相模原町の瓦解」です。だから,1947年の新憲法施行準備の町議会議員選挙で定数36のうち20議席を分町派の座間・相原・大野地区選出議員で占め,正副議長ポストを押さえても,なかなか事態は進展しませんでした。なお,町議会議員選挙に先立って行われた町長選挙(初の住民による公選)では分町派が擁立した候補が落選しています。

(続く)
[80409] 2012年 3月 17日(土)12:52:17【1】Issie さん
布団は「しく」のか,「ひく」のか
[80406] 般若堂そんぴん さん
東北で「し」と「す」は区別しないか?

これを検討するには,最低3つの問題を区別しなくてはならないように思います。
1つは,実際にどのように発音しているのか,という「音声学」的な視点。
2つめは,それらの音声を全体の体系の中でどのように捉え,単語の区別に利用しているか,という「音韻学」的な視点。
3つめに,それらの音声または音韻を文字体系の中でどのように表記するか,という「正書法」の問題。

実際にどのように発音しているかという点については,巷間よく言われる「東北では「し」と「す」が区別されない」というステレオタイプとは違って,同じ東北内(のみならず新潟県下越や北関東も含めて)でもかなりの幅やバリエーションがあるように思われます。
本当に「し」と「す」の母音をほぼ同じく発音する地方もあれば,「し」が単語の中のどの位置にあるかによって微妙に母音の発音が変わってくる場合もあるかもしれません。一般的に多く見られるのは「し」の母音を“中舌化”して「ウ」に近づけて発音する(ロシア語の ы や,中国語の si(四) や zi (子)の母音が近いかもしれません)というものですが,共通語(標準語)を含めた“東日本方言”では元々「ウ」を唇の丸めを伴わずに中舌化して発音している(トルコ語で言えば u よりも“上に点のない i ”に近い)ので,「し」の母音も中舌化してしまえば“よその方言話者”には区別がつかなくなってしまうのですね。
でも,「し」と「す」の母音を実際に“違って発音”していれば,「音声」としては別の音です。そしてそれを“聞き分け”,それによって単語の区別がなされるのであれば「音韻」としても別の音です。逆に違って聞こえてもあえて区別はせず,状況の有無にかかわらず自由に入れ替わることができるのであれば,「音声」としては別でも「音韻」としては“同じ音のバリアント(変種)”と理解されます。

それらの音を文字でどのように表記するかというのは,さらに別の問題です。そしてこれは社会的な慣習(さらに公式化された制度)の問題ですから,そこには“特別な学習”が必要です。その学習は必ずしも学校教育による必要はないのですが,それでも現代社会では学校教育により,そこでは「標準化された“国語”」の学習が行われるのが普通です。そして,そこで“学習”するのは「標準語」の“標準化された単語”の対する“標準語による表記”です。
ここでは「方言の発音をどのように文字表記するか」ということは学習,あるいはそれ以前に“関心”の対象外なのですね。それでも,たとえばイタリアのように各地域言語(方言)についてある程度標準的な表記体系が普及していたり,旧ソ連におけるチュルク(トルコ)系諸語のように個別の表記体系と文法を固定化して“各共和国”ごとの公用語にしてしまった例もありますが,中央集権的な近代日本の教育政策や文化状況ではそのような動きは小さいようです。

確かに,19世紀生まれの祖母(故人)はカナ表記においても「し」と「す」の区別があいまいでした.

ずっと以前に話題にした記憶があるのですが,私の母方(“チャーザァ村”の)祖母も,同じく19世紀末の生まれですが,カナ表記上で「ゆ」と「よ」の区別が曖昧で両者の混同がよくありました。
林家こん平がよく言っているように越後方言では語頭の「い」と「え」の区別が曖昧なのですが,それとともに新潟県中越地方から長野県北信地方北部(奥信濃)にかけての信濃川/千曲川中流域では「ゆ」と「よ」の区別も曖昧で,年配の方の中には「雪」を「よき」のように発音している例が今でも見られます(長く東京で暮らして某教育系国立大学の教授をされていた方ですが)。
「国語教育」を十分に身に着けていれば当然にカナを“正しく”表記できるはずです。私の祖母を含めて“正しい”書き分けができていないのは,それが不十分であった結果でしょう。何より,学校で教わるのはあくまでも「標準語の表記」であって,自分たちが実際に口にしている言語(方言)の表記ではありませんから。

方言のステレオタイプの1つに,東京の下町では「し」と「ひ」の区別がない,というのがありますね。
さすがに現在ではそのようなステレオタイプな発音をする人は非常に少なくなっているでしょうが,区別の曖昧さは残っているようで,たとえば布団は「しく」ものか,「ひく」ものか,悩む東京人は少なくないようです。車に「しかれる」のか,「ひかれる」のか。
…で,どっちが“正し”かったんでしたっけ?
そして,東京とは逆のパターンですが,岐阜県の「七宗町」(ひちそう/しちそう)の問題も出てくるのでしょうね。

奥羽方言を表記することができるか

もう20年ほど前に最初の発表をされて以来,忘れた頃に間欠的に話題になっていますが,山浦玄嗣 さんというお医者さんが岩手県気仙方言(ケセン語)の文字化に取り組んでおられます。20年前には独自のローマ字表記体系を発表されましたが,最近は「日本語読者」用にカナ表記のケセン語版聖書抜粋を文庫化されいますね。
東北音のカナ表記では,たとえば宮沢賢治(「風の又三郎」など)や井上ひさし(「吉里吉里人」など)が有名ですが,私にはあまり成功しているようには思えません。伊奈かっぺいの津軽方言詩なんかもいいかもしれませんが,東北諸方言の中でも津軽方言は音の変異(独自の発展・進化)が大きいのでしょうかね。
方言(地域言語)の文字化という点で一歩進んでいるのは,やはり琉球語圏の首里・那覇方言だと思われます。
首里方言には,かつて「おもろさうし」に見られるような本土とは違った独自のカナ表記体系ができあがっていました。ただし,それは「おもろ」のような韻文や王府発行の辞令などの一部文書に使用が限定されていたため(公式の正文は漢文であり,私的領域でも本土の和文があるから),琉球処分によって首里王府が廃止されたのと一緒に廃れ,近代語の表記体系として発展するチャンスを失いました。
代わって,口頭語の首里・那覇方言(ウチナーグチ)を表記するために表音的なカナ表記が独自に発展していますね。ただ,繰り返すように“標準化された文字表記体系”はあくまでも「標準語」のものですから,ウチナーグチの統一された表記体系は確立していません。
それ以上に,伝統的な“本来のウチナーグチ”と,現実に那覇の街角で話されている言葉(ウチナーヤマトグチ)との乖離も小さくないようですね。
[80351] 2012年 2月 28日(火)22:18:50Issie さん
Re:市外局番
[80350] N-H さん
なお、実際に都道府県の境界を越えて同じ市外局番で市内通話でかけられる地域は少数ながら存在します。

たびたび話題になりますが,ウチんところもその例ですね。
細かく見ると都県境・市町村境と一致しない部分がたくさんあるのですが,4ケタ局番の時代から神奈川県相模原市の旧市域と旧城山町・津久井町の区域は東京都町田市と同じ(0427),旧相模湖町・藤野町は八王子市と同じ(0426)。現在はどちらも3ケタ(042)になっているけれども,相模原・町田エリア(042-7)と八王子エリア(042-6)相互は相変わらず市外扱いです。
だから同じ“緑区”でも旧津久井町最西端の青根地区は町田市内と,旧藤野町南西端の牧野(まぎの)地区は八王子市内と“市内通話”扱いになるのに,道志川をはさんで同じ区に属する青根地区と牧野地区の間は“市外通話”扱いになるのですね(厳密には,牧野地区のうち道志川沿いの集落は相模原エリアに属するようです)。
一方,さらに県境を越えた山梨県道志村のうち,最東端の月夜野地区は相模原エリアに属し,つまり県境を2つ越えて町田市内と“市内通話”ができます。つまり,「042-7」は東京・神奈川・山梨の3都県にまたがるのですね。
そして,八王子エリアの旧相模湖町・藤野町は当然ですが,相模原エリア自体も「042」という“神奈川県らしくない”局番が表すように(神奈川県内は横浜市(045)・川崎市(044)以外は「046X」というのが標準です)神奈川支店ではなく東京支店の管内に属するようで。

こうした行政界をはさんだ局番エリアの錯綜はご紹介のページを見ればほかにも多くあるわけで,結局は電話線がどうつながっているか…,そう,そろそろ1年前になるあの計画停電で痛感した電線つながりのエリアの錯綜と通じるものがあるのでしょう。
[80310] 2012年 2月 19日(日)17:01:11Issie さん
新八犬伝
ここではずいぶん初期の頃に話題になったことのある人形劇「新八犬伝」が今日のNHKアーカイブスで放送されていました。
今見ても面白いですね。
放送当時は小学生でしたからただ面白いと思って見ていただけですが,この歳になって見ると実にたくさんのことが盛り込まれていてとても凄い番組であったことがわかります。
何より,“とある事情”で当時見ることができなかった最終回を今,見ることができて感慨無量です。
ただ一つ。関東地域では番組のお終いで緊急地震速報が響き,九ちゃんがまさに「これにて一巻の終わり」と言おうとするその瞬間に地震のニュース画面に変わってしまったことですが…。

さて,番組前半で流された「前半総集編」のエピソードは,だいたい記憶していたのですが,最初に放送された「第1回」の内容は全く覚えていませんでした。
改めて見て,ふと気になる表現が…。
この手の物語の通例として,番組冒頭で物語の舞台の説明が行われるわけですが,最初の舞台である 富山(とみさん) について,「安房国長狭郡(ながさのこおり)富山」と言っていました。
明治後期の郡制施行に際して「安房郡」に統合されるまで,安房国には 平,安房,朝夷,長狭 の4郡がありました。
このうち 平(へい)郡 は旧名「平群(へぐり)郡」で鋸南町保田から館山市北西部にかけての浦賀水道沿い,長狭郡 はほぼ現在の鴨川市から南部の江見地区を除いた区域,朝夷(あさい)郡 は,その江見地区から南房総市白浜にかけての太平洋岸,残りの館山市の大部分+αが 安房郡 です。
で,問題の 富山 は,この区画では完全に 平郡(平群郡) に属するはずで,実際に山の“東側”(内陸側)に「平久里(へぐり)」という地名があります。
にもかかわらず番組冒頭で流れた「長狭郡富山」という表現。本来,「長狭郡」は峠を越えた太平洋斜面の加茂川(鴨川)流域の郡名であって,これは正しくないはずなんですけどね。
これは原作の「南総里見八犬伝」にまでさかのぼる表現なのかどうか。少なくとも曲亭馬琴の時代,富山周辺は間違いなく 平郡 なのですが。
もっとも,このお話(原作),実際のところは時代と人名と地名を借りているだけで,史実的にも地理的にもかなりメチャクチャです。
[80307] 2012年 2月 19日(日)00:05:37Issie さん
都の西北ワセダの隣り
[80305] ペーロケ さん
中区・中央区基準って微妙ですね。そのような現象は各地で見受けられます。

今度「区」ができる熊本市の場合はきれいですね。
札幌市の場合も,東区の位置が微妙ですが,まあ納得できる範囲でしょう。
広島市の東区は,お城基準でしょうかねえ。名古屋市の場合もお城基準に見えます。
新潟市の北区の場合は…,
最“東”端の区であることも事実ではあるけれど,やはり最“北”端の区であることは確かなわけで,中央区の東に直に隣接する区を「東区」とした以上,残っているのは「北区」しかなかったんでしょうね。
ほかの区の名前からも想像されるように「豊栄」は何としても避けたかったろうし,新潟市民が新発田の位置を“頭の中で”どちらの方角と捉えているかによりますが,やがて“北”へ伸びる海岸線を思えば,地図上の厳密な緯度の問題ではなくてメンタルな地理感覚の中では「北」と捉えることができるかもしれません。

ちなみに,以前に話題になったように相模原市では合併前の旧市域内の区分が念頭にあって「中央区」「南区」と相成りました。旧市域内での位置関係だけ考えれば,これは至極順当な呼称です。
もう1つの区は「緑区」となったわけですが,いまだにくすぶっているように「北区」にという意見がありました。ところが,この「北区」ならぬ「緑区」は広大な旧津久井郡を丸ごと含むわけで,現在の市の南端はこの緑区。全体としては「西区」がふさわしい位置にあるのですが,一部の意見の通り「北区」であったとしても,中央区中心のメンタル・マップ的にはそれほど変なネーミングではないかもしれません。

結局のところ,私たちはふだん地図を見てそれぞれの地点や区域の位置関係を捉えているわけでないので,頭の中の位置関係は実際の厳密な位置関係とはズレが生じてきて,それがそのまま“地名”として固定化されることがあるということなのかもしれませんね。
[80303] 2012年 2月 18日(土)12:03:26【1】Issie さん
西戸部町の「西」,南太田町の「南」
[80294] N-H さん
さきほどの「はまれぽ」記事の最後に答え(?)が書いてありますが、本当ですかね?

この時代に何か謎があったら,これを持ち出せばたちどころに解けた気になってしまう呪文のようなものですが,どうなんでしょうね。
私は眉唾物だと思いますが。

と言って,私も答えは持ち合わせていないので地図を見て“憶測”してみます。
確かに,お互いの接続部分だけを見ると

中区から見て南区は南にはなく、西区は西にはありません

と見えるわけですが,旧中区エリア全体で見ると「西区」「南区」もまあ妥当かなという気もしてきます。
「南区」の方は,より簡単。
旧中区エリアの西南部分が分区されたわけですが,当時は現在の 港南区(1969年に南区から分区) までがその対象でしたから,そうやって見ると,“西”よりもずっと“南”へ伸びています。既に南の臨海部に 磯子区(現・金沢区を含む) があってこれが邪魔ですが,そこには目をつぶって,まあ「南区」と…。

「西区」の方はねぇ…
市役所や県庁のある The Yokohama 地区,つまり中区の中心部から見ると,“北”にあるのはあくまでも「港」ではないか,と。
あるいは“北”と言えば,港をはさんだ臨海部の 鶴見・神奈川両区 の背後を編入した区域に既に「北区」ならぬ「港北区」というオリジナリティあふれる“創作新地名”を与えている。
そこへ,旧西戸部町エリアに「北区」という呼称を与えるのは何となく妙で,むしろ“港の西”にあるのだから「西区」でいいのではないか…。

…そんな感じですかねえ。
もちろん,これは今ある「西区」「南区」の地名からさかのぼって勝手な推測をしているだけで,実際の選考過程とは順序が逆転しているわけですけど。
ところで「港北区」といえば,“ライバルの神戸市”にも「湊西区」「湊東区」という区がありました。こちらは,湊=神戸港 が基準なのではなくて,“忠臣・楠木正成”の物語で当時の国民には一般常識であった(でも,これが強調されるようになったのは「昭和」の狂信的な時期でしょうかね)「湊川」によるものでしょうね。残念なことに,地名としては消滅してしまいました。

ちなみに,タイトルの 西戸部町 と 南太田町 は,それぞれ 西区 と 南区 の主要部分の町名。分区当時以来,多くの新町が分立して今はだいぶ面積を縮小してしまいましたが。
どちらも元の戸部村(町)や太田村が,早く市街地化して 横浜町→横浜区 を経て“オリジナル・横浜市”となった区域内に設けられたり,取り込まれたりした 太田町 や 戸部町 に対して,当時は“郊外”で別に「戸太村→町」を作った後,1901年に横浜市に編入された際に既存の両町と区別するために「西」「南」の接頭辞をつけたものですが,これが「西区」「南区」に符合していますね。
もちろん,それが区名の由来ではないでしょうが,少し面白く感じました。
[80280] 2012年 2月 12日(日)00:20:44Issie さん
絵にも描けない美しさ
[80279] k-ace さん
神奈川県横浜市神奈川区に気になる地名が。横浜市神奈川区浦島町/浦島丘/新浦島町/亀住町。浦島小学校、浦島保育園、浦島丘中学校もある。

神奈川県の公立高校は来週が後期入試。
そんなわけで,お仕事の上で「浦島丘中学校」という文字を再三ならずPCに打ち込む日々です。
亀住町の「浦島公園」や浦島丘の「浦島小学校」は,今は亡き「空から日本を見てみよう」ネタだったかと思いますが,何にしろ辺りは京浜工業地帯のまん真ん中。余所者としてこの話を初めて聞いたときは信じられない思いでいっぱいでした。

ただ、浦島町/浦島丘/新浦島町/亀住町に浦島伝説の寺等が全くないとは…。

今は“宿場”としての面影が全くかけらほども残っていない神奈川宿(程ヶ谷=保土ヶ谷はもちろん,川崎の方がまだ少しは残っています)。それでも,町名としては宿場本体としての「神奈川」「本町」「新町」の方が優先されたのではないでしょうかね。「浦島町」,「亀住町」,「浦島丘」はいずれも“神奈川町”としては東の外れ,隣りの 子安村 との境ですね。
浦島丘中学校のある 白幡東町 は完全に隣村(白幡村)の領域です。
埋立地の「新浦島町」はもちろん,他の浦島地名ともども,現物のない“周辺地域”が,むしろ現物がないからこそ隣接区域の現物にちなんだ名前を“わざわざ選ぶ”という在り勝ちなパターンのようにも思います。
まあ,個々の“浦島関連町”が…,ということではなくて,地域全体で浦島伝説にちなんでいるということなのでしょう。
要するに,「品川」ではなく「高輪」にある「品川駅」,「目黒区」ではなく「品川区」にある「目黒駅」というわけで…。
[80251] 2012年 2月 4日(土)23:38:42Issie さん
Re:加積郷
[80249] 白桃 さん
本落書き帳の「自治体越え地名」に収録されていないところを見ると、「○○加積」という名前が大字や字として残っていないのでしょうか?

とりあえず,そういう大字はないようですね。
むしろ一連の「加積」地名は大字よりもランク1つ広い範囲の地名であるようです。

こちらの「区市町村変遷情報」の 当該ページ を参照すると,たくさんの「加積村」が1889年の町村制施行に際して行われた「明治の大合併」で一斉に誕生したことがわかります。恐らくは“近世村”をそのまま引き継いだ合併前の旧村に「加積」を称するものはありません。したがって,各「○加積村」の大字で「加積」を称するものはなく,そのまま現在まで現れることもなく,収録対象となっていないということなのでしょう。

「加積郷」という地名は中世,あるいはそのもう少し前からのものかと思われるのですが,近世に広域的地名として「加積郷」が残ったとしても,より小さい範囲で“百姓”の自治単位(合わせて年貢負担の請負単位)としての「村」を編成するに当たっては,それぞれ個別の集落名が採られたのでしょう。それがそのまま「郡区町村編制法」下の“村”となり,「町村制村」としての 各加積村 の大字となり,現在に至る。
で,明治の大合併でその「町村制村」を編成するに当たって新しい村の名前を“創作”しなければならなくなったとき,かつての「加積郷」の記憶がよみがえり,それぞれで「○加積村」という名前を分け合ったということではないか,と。

「町村制村」の名前は,さらなる合併でその村自体が消滅してしまえば一緒に消えてしまいます。所詮,新しく“デッチ上げられた”地名に過ぎない,ということなのかもしれません。
その記憶をとどめるのは,その村ごとに設置された郵便局や小学校,そして公民館の名前。運良く鉄道が通って駅を作ってくれれば,その駅名に保存してもらえるかもしれない。「浜加積駅」や「早月加積駅」のように。
そういうわけで,今となっては見つけにくい地名になってしまっているのですね。
[80247] 2012年 2月 4日(土)10:05:22【1】Issie さん
イチバン南
[80242] 白桃 さん
一方、地球最南の都市はアルゼンチンにあるようですが、ハンメルフェストに比べそんなに有名ではありませんね。また、いずれにしろ最北よりは低緯度に位置しているようなので、「あったかい」という回答もあながち馬鹿には出来ないかもしれません。でも、あのあたりに暖流が流れていたっけ?

「ウシュアイア」という町だそうですね。
南アメリカ大陸の南端からマゼラン海峡をはさんでさらに南にあるフエゴ島の東側。ちなみにこの島は西半分がチリ領で,マゼラン海峡の中にある プンタアレナス という町の方が大きいのだけど,少し北にあるのでアルゼンチンの勝ち。
だいたい南緯55度くらいというから,日本の辺りで言えば北樺太かカムチャツカ辺りになりますか。やっぱり寒そうです。ちなみにヨーロッパだと,モスクワやコペンハーゲン,北アイルランドのロンドンデリーがだいたい同じくらいの緯度です。スカンジナビア半島の南端が北緯55度よりもやや北ですね。
南アメリカは思っているよりも南に伸びていて,すぐ先には南極半島があります。

実際の気候統計を見ると,一番“暖かい”2月の平均気温が9.4度。東京ではそろそろ「寒さ」を感じなくなる3月下旬から4月初めの気温に相当しますから,私たちの感覚で言うそれから後の春・夏・秋がないということに。
日本ではなぜか人気の高いケッペンの気候区分では“最暖月”の平均気温が10度に達しないのでE気候(=寒帯)に属してしまいます。
ただし,一番“寒い”6月と7月の平均気温が0.0度(←もちろん,小数点以下2位以降まで出せば差が出るはずで,どちらかが“最寒月”です)と,意外に冬は暖かい。札幌だって一番寒い1月の平均気温は-3度を割ります(だから札幌はC気候=温帯ではなくD気候=亜寒帯)。
つまり,2月の平均気温があと0.6度高かったら,区分上 ウシュアイア は「亜寒帯」を飛び越えて「温帯」になることができました。実際に,フエゴ島の一部は温帯の「西岸海洋性気候」に属します。だから,基本はノルウェーの沿岸部と同じような気候なのでしょう。
ただし,近くを流れているのは暖流ではなく寒流なので,教科書に載っている北西ヨーロッパの西岸海洋性気候とは違って,気温と降水量で判定したらそう出た,ということですね。

いずれにせよ,「南」という言葉で連想する“暖かさ”はないにしても(日本の方が暖かい),緯度の割には“暖かい”ところではあるようです。
[80228] 2012年 1月 30日(月)20:09:02Issie さん
浦和並みの「鳥島」
[80227] k-ace さん
日本の排他的経済水域(EEZ)基点で名称の無かった39離島の個々の名称が内定したとのこと。

内定した新島名を一瞥すると、「かもめ島」とか「トド島」とか…。何か埋立地に造成された団地にありがちな地名のような印象を受けたのですが,考えてみれば「鳥島」なんてとても安易な名前を,しかも「南‐」「沖ノ‐」「中ノ‐」と次々に使いまわしていたり,かつての(南)樺太にも「海馬島」(ロシア名:モネロン島)とか「海豹島」(同:チュレニー島)なんて島があったりして,結局のところ,名づけのセンスというものがそう変わるわけではないのでしょう。
一方で,たぶん昔から“関係者”の間で使われてきたであろう“見たこともない漢字”(←PC画面上に表示できるのか?)を使うものもあったりして,やっぱり面白いものです。
何にしろ,自国の領土と主張しても国際社会の中で他の国が認めてくれないと何の意味もありませんから,やることはやって,きちんとアピールしないとね。
[80216] 2012年 1月 28日(土)00:10:45【2】Issie さん
せこう
[80214] N-H さん
たとえば、「架」と一文字書いてなんと読むか?

これへの解答ではないけれど,昨日の「ブラタモリ」(←もう,おとついになっちゃいました)。
鉄道総研の専門家の前でタモリは「架線」を何て読んでいたかなぁ。

ただし、こういうのは誤読と言うものとはまた違って、業界用語として特殊な読み方が半ば認知されているといっていいのかもしれません。

ずいぶん前に話題になった「首長」を「くびちょう」と読むのもこの例ですね。今日(これも昨日)の国会でも連発されたようです。彼らは「法律を施行する」の「施行」も「せこう」と読みますね。「施工」でもあるまいに。こういったお役所用語も,いわゆる業界用語。

[80213] 実那川蒼 さん
実はこれはつくりの「番」に引きずられた誤読が定着してしまったものです。

地理ネタから離れるけれど,「消耗」を「しょうもう」と読むのも有名な“誤読”ですね。
「耗」の正しい音は「コウ」。この字は本来「耕」と「毛」の組み合わせによる会意文字だそうで,「毛」の方が意味を表し,「耕」の「井」を省略した「耒」の部分が音符なので「コウ」と読むのだとか。ややこしいことに,音符となった「耕」は「耒」と「井」の会意文字なのだけど,こちらでは「井」の方が「ケイ」と読んでその延長で「コウ」という音を表しているそうで,意味を表す「耒」の部分自体の音は「ライ」で「すき(犂)」という意味。
それはともかく,だから「消耗」は“正しく”は「しょうこう」と読まなければならない。実際に,「心神耗弱」は「しんしん“コウ”じゃく」と読みます。
ところが,「毛」の方が音を表し「モウ」と読むと誤解されて「しょうもう」となったのですね。「消耗」を「しょうこう」と読む人は普通いません。でも,そのような“誤読”が定着したのがそう古い話ではなさそうなのは,「耗弱」という読みを見ればわかりそう。
高校の政治経済の教科書に「固定資産減耗」という用語が出てきます。GNP(国民総生産)からこれ(減価償却とも)を引いたものがNNP(国民純生産)。さらに間接税を引いて補助金を加えたものがNI(国民所得)…。この「減耗」に教科書では「げんもう」という振り仮名が振ってあるのですが,これも本来の読み方は「げんこう」。漢字辞典などには両方の読み方が書いてあります。今まさに,「げんこう→げんもう」という“誤読の定着”が進行中なのでしょう。

なぜ播磨国に関する単語だけ誤読が定着してしまったのかは謎です。

まずは最初に播磨国を中国風に呼んだ「播州」が現れて,そこから「東播」以下の呼称が派生したのだろうと思うのですが,「播州」を“正しく”「はしゅう」と読むのでは,何か座りが悪いと感じられたのでしょうかねえ。
日本語一般のクセとしては「房州」や「信州」のように“2音+州”というのが座りがいいのですが,「武州」「紀州」「土州」のように“1音+州”だって例外とは言えないくらい普通にあります。そうすると「播」という字,あるいは「播磨」という読みにわざわざ「ばん」と読ませる秘密があるのかもしれません。

古い時代の中国語,あるいは漢字の音を“復元”(もちろん推定ですが)したことで知られる藤堂明保博士が編纂に携わった学研の漢字辞典によると,「播」という字の上古(秦・漢代)音は puar ,それが隋・唐代の中古音では pua となり,これが音韻体系の極めて貧弱な日本語に入って「ハ」(←実際の発音は“唇をかまないファ”)と読むようになりました。
ちょうどその時代である奈良時代,従来は「針間」などと表記してきた ハリマ という地名を“おめでたい漢字2文字”で表記するに当たって,「ハ」という音の「播」という漢字に“聞こえないはず”の r の音を無理やり聞いて「ハリ」と読み,「磨」と合わせて「播磨」という表記が律令国家の公式表記とされました。「播磨」のどこが“おめでたい”のか,全然わかりませんが。
“聞こえない音を無理やり聞く”というのはこの時に多用された手法で,たとえば「相摸」(2文字目は本来“手へん”)を「さがみ」と読むのも,「相」sang(サウ)の語尾に無理やり a という母音を聞いて「サガ」と読んだからです。山城国(京都府)の「相楽郡」は,さらに「楽」lak(ラク)の語尾にも a を聞いて,だから「さがらか郡」(現代の読みは「そうらく郡」)。

奈良時代,ハリマに漢字を当てる際に「播:ハ」という字に無理やり r を,ついでに i という母音まで聞いて「ハリ」としたことが後の世に「ばん」と読ませることにつながったと結論づける根拠は何もないので,そのような主張をするつもりもないのですが,やっぱり「はしゅう」では何となく物足りなくて,それで“つくり”の「番」に引きずられて「ばんしゅう」となったのかも。
で,こちらは「播州赤穂」のように,少なくとも「消耗:しょうもう」よりはずっと前から行われていたのでしょうね。

※【お詫び】
上の文章の中で「会意文字」とあるのは,いずれも「形声文字」の間違いです。
久しぶりに使って間違えてしまいました。お恥ずかしい限り。
以上,謹んで訂正させていただきます。
[80202] 2012年 1月 23日(月)20:47:12Issie さん
勝安房守義邦 改メ 勝安芳 海舟ト号ス
[80194] 星野彼方 さん
下総だから房総でいいんだろうけど、ん~、房総って私的には安房+上総ってイメージ。

[80197] N-H さん
それはおそらく「房総半島」から来るのでしょうね。
ちゃきちゃき房総っ子の私も、どうも「千葉からあっちは房総じゃない」的な感覚を持ってました。

この感覚は私も同じ。
九十九里の少なくとも北半分や成田空港の辺りは「房総」かなあ…。
結局は“くびれ”よりも南が「房総」というのが,しっくり来るような気がします。だから,まあ,上総+安房。それで,下総は「北総」。
もっとも,「房総」という言葉は旧国郡よりも現在の県域を前提とした呼称なのかもしれませんが。
いずれにせよ,“茨城県領下総”の利根川以北の区域が「房総」であるはずがなく,こちらは 常陸 と合わせた「常総」。まして,“武蔵国”の北葛飾郡に吸収されてしまった埼玉県の旧中葛飾郡域(江戸川以西の下総)は問題外。
ともかく,“くびれ”より北の下総国,旧千葉郡の習志野辺りだと「房総」という自覚はなかったなあ。

[80191] 伊豆之国 さん
習志野 千葉県船橋市■ 新京成電鉄 津田沼 ぎりぎりで市内だか、栄えているのは船橋市側。京成津田沼のほうが適切?

京成津田沼は市役所が近いと言っても,せっかく30年前に作った再開発ビルに入っていたホテルにも出て行かれて地元商店街も寂れる一方ですからねえ。それこそ,近隣の津田沼地区の住民の一部の外に,たぶんわざわざ京成津田沼周辺に買い物に行く人はいないでしょう。
賑やかな総武線津田沼駅北口側のうち,新京成の新津田沼駅側の半分は一応習志野市だし,南口側で長らく農地が広がっていた“習志野市領”の区画の開発も始まったようなので,やっぱり津田沼駅の方が適切であろうかと思います。
[80190] 2012年 1月 22日(日)20:55:53【2】Issie さん
ああ播磨灘
…ってお相撲さんの漫画がありましたね。

[80187] 白桃 さん
明石市は旧国名でいうと播磨なんですが、どうも「摂津」と言う感じが強くて

ここの所は [80188] k-ace さんのご説明の通りで,つまり須磨の浦・一ノ谷までが摂津の国で,親不知のような崖下の海岸を抜けた垂水区の塩屋から先が「播磨」。元々あまり大きくない明石郡の大部分が神戸市に取り込まれて海岸部だけが明石市として残っているから,そのような印象が強くなるのでしょうね。
この辺りは奇しくも,“武蔵国”に属する横浜市のうち,権太坂を越えた先の西南部(瀬谷・泉・戸塚・栄区および港南区の西半)が“相模国”で,しかもその“相模国鎌倉郡”の過半が横浜市に吸収されてしまったこととパラレルな関係ですね。ただし,神奈川県の場合は大部分が相模国で,源氏の鎌倉や後北条氏の小田原があるその「相模」のイメージの方が強くて,むしろ横浜・川崎が「武蔵」であるということの方が忘れられ勝ちのような気がしますが。また,鎌倉市が「京浜」である(←県の行政では,多くの分野で県の管轄外のこの2市の範囲をしばしば「浜川(はまかわ)」と表現します)と捉える人もあまりいないでしょう。
ちなみに,県の行政では北半分を失った 旧鎌倉郡(鎌倉市) は,その一部を吸収した藤沢市を中心とする 旧高座郡南部(藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町) とともに「湘南」とすることが多いです。

須磨・一ノ谷と言えば源平合戦。
さっきまでやっていた今年の大河ドラマ。やっぱり今年も去年に負けず劣らず思いっきりファンタジーですねえ。
でも,面白いからいいや。
[80165] 2012年 1月 20日(金)00:39:40Issie さん
Re:センター試験
何かとトラブルの多いセンター試験でも,今回最大のトラブル源となった「地歴・公民科」。何しろあまりに複雑な実施方法,1回聞いただけではわかりません。
今のセンター試験は色々な要求に対応しようと増設を繰り返した温泉旅館のようで,複雑怪奇。一度きちんと整理した方がいいと思うのですけどね。
で,「地理B」の問題。一応,お仕事の関係もあるので解いてみたのですが,個々の問題は極めてオーソドックスで,ごく基本的。それぞれの分野について一通りの知識と,それを応用する力があれば行けるかな。ただし出題範囲が余りに膨大で(要するに,これが地理Bで扱う範囲の広大さということです),たとえば高校3年生になってからの1年足らずで全部をカバーしようとするのは難しいかもしれませんね。
私立の個別入試や国公立の2次試験はともかく,センター試験は学習指導要領のしばりが強く,要するにこれが文科省が高校に求めている「地理B」の内容です。もはや,をぢさんたちが30年以上前に教わった“国別の産物地理”ではないのですね。「世界地誌」という別名がついていた30年前の「地理B」とは全く別の科目です。さらに同じ現行の学習指導要領の中でも「地理B」と「地理A」は,かなり違う科目です。センター試験では一部に共通問題があって,あまり違いがわかりませんけどね。

[80160] k-ace さん
地理B第6問

この大問の問3,大井川上流の山村集落と牧之原台地の農業の特徴を問う問題。写真と説明文を読めばすぐに正解できそうな問題ですが,山村集落の方の(と思われる)説明文を読んで「おやっ?」と思いました。

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近世には焼畑と組み合わせた労働集約的な茶栽培が営まれ……
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別に次のような点に突っ込まなくても正解できてしまうので受験生たちはスルーしてしまうでしょうが,「焼畑」と「労働集約的」という言葉の組み合わせには少し違和感を感じたのでした。
普通,地理の教科書で出てくる「焼畑」は,主に熱帯雨林気候の地域で伝統的に行われてきた「粗放的」(で,いくぶん原始的)な農業として登場するからです。それ以前に今の受験生には,温帯の先進国である日本と「焼畑」とが結びつかないかも知れない。実際は,ほんの数十年前まで東北以南の山村の多くで焼畑をやっていたのですが。
「労働集約的」というのは焼畑よりも「茶栽培」の方にかかるのだろうと思うのですが,焼畑を維持するには雑草取りなどに結構手間がかかり,そういう意味では「労働集約的」かもしれない。

…この問題を見てそんなことを考えました。
というのは,たまたまその直前に 佐々木高明 という人の『稲作以前』という本を読んでいたから。初版が1971年という,その意味では「古典」と言えそうな本ですが,それを洋泉社が一部改訂の上,昨年末に新書(“歴史新書y”)に復刻しました。この人は元々,人文系の地理を専門としていて,40年以上前の日本の山村をフィールドとして研究するうちに,弥生時代の稲作受容以前,縄文時代末期に主に西南日本で焼畑による雑穀(とイモ)栽培を中心とする農耕が稲作に先行して行われていたのではないか,ということを文化人類学(←広い意味で地理学の一部,あるいは隣接学問ですね)の立場と方法で検証したものです。
この学説には発表当初から,主に文化人類学とは違った視点と方法でアプローチをする考古学者を中心に強い批判があり,今でもそのような意見はあるようです。私にはこの学説やそれに対する批判の当否は判断できないのですが,とても面白く読みました。
いや,この本の本題とは別に,ときどき出てくるいくつかのキーワード(「焼畑」という意味の「コバ」(九州)・「サシ」(関東)とか,収穫作業に関連する「穂刈」など)から現実に存在する諸々の地名が思い浮かんできて,そういう意味でも面白かったのでした。

ま,センター試験からは離れちゃいましたが,これが今年のセンター試験問題に関する感想です。
[80113] 2012年 1月 14日(土)22:56:03Issie さん
栗きんとん
[80106] 白桃 さん
[80110] にまん さん

京成電車の沿線に看板が林立していたりして千葉県内では有名な成田山参道の和菓子屋,米屋のこれまた有名な「栗むし羊羹」には栗の実がゴロゴロ入っています。

ところで,「栗きんとん」という食べ物がありますね。みなさんは,どのようなものを連想しますか?
我が家ではおせち料理なんかに入っているのですが(家で作らずにお店で買ってくるのですが), それは栗の甘露煮とサツマイモの煮たものを水飴で練ったものを合わせたもので,実は“芋きんとん”に栗の実が入ったもの。高級なものになると,この芋きんとんが栗餡になるんでしょうかね。
…なんて感覚でいたら,栗と砂糖だけで作った餡を茶巾しぼりにした「栗きんとん」があるのですね。栗は完全に粒というか粉状の餡になっていて,甘露煮のような丸のままの形を失っている。「栗100%」でおいしそうです。
そう言えば,栗の産地として有名な信州の小布施にも似たような,というよりほぼ同じお菓子がありました。
残念ながらまだ食べる機会に接していないのですが,一度食べてみたいものです。
[80108] 2012年 1月 14日(土)20:55:29Issie さん
メロンパン
[80106] 白桃 さん
四国で食べていた「栗まんじゅう」は外観が栗の形をしているだけのものでした。

メロンの成分が全く入っていない「メロンパン」みたいなものでしょうか。
一説には網目の入った様子がメロンに似ているからだそうですが,最近のものは本当にメロン果汁が入っているようですね。
ところで,栗饅頭については私は「オバさん」に全く同意見です。
[80027] 2012年 1月 9日(月)10:57:05【1】Issie さん
廃村
[80021] グリグリ さん
過去にもこのような災害などによる合併の事例があったのではないかと考えますが、どうでしょうね。

1906(大正5)年7月1日に「強制廃村」されて同じ郡の 藤岡町 に合併された 栃木県下都賀郡谷中村 が今回想定される例に最も近いかもしれません。
原因が自然災害でなく,国策に近い企業による人的災害であり,さらに廃村そのものも国の政策によるものであるという点でも。


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