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Issieさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[78773]2011年7月16日
Issie
[78753]2011年7月10日
Issie
[78735]2011年7月9日
Issie
[78724]2011年7月7日
Issie
[78687]2011年7月2日
Issie

[78773] 2011年 7月 16日(土)11:24:37Issie さん
美ヶ原
[78772] 千本桜 さん
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。

「美ヶ原」というのは元々,山上の放牧地の名前だったようですが(それほど古い名前ではない),現在の松本では“山全体”の名前として理解されているようです。
個別の峰の呼称としては「王ヶ鼻」,「王ヶ頭」などといった名前があるのですが,それはあくまでも“全体の中の部分”の名前であって,別に“全体”の名前が必要。
で,「美ヶ原」という名前が定着するまでは漠然と「東山」と呼んでいたようです。
「西山」,つまり乗鞍などの北アルプス主稜線やその前に連なる常念などの“前山”の総称に対する呼び名ですね。ただし,松本市街は松本盆地の東縁を限る糸・静線ライン(その一部は最近注目の「牛伏寺(ごふくじ)断層」)よりも東に引き込んだ女鳥羽(めとば)川と薄(すすき)川の扇状地にあるので,「西山」というと西側に見える山並み全部,つまり北アルプスとなるのに対して,「東山」というとほぼ美ヶ原に限定されるようです。
[78753] 2011年 7月 10日(日)21:47:44【3】Issie さん
新・坊っちゃん
私が小学生の頃,NHKで「新・坊っちゃん」というドラマが放送されました。
井上ひさしはある本の前書きで「『坊つちゃん』の映像化はことごとく失敗している」と書いているのですが,小学校6年生の私にはとても面白く思いました。この人がムーミンパパ(の声の人)か,ってね。“正露丸のラッパ”とか…。
これを機会に夏目漱石を読んでみようと思ったのですが,「坊つちゃん」はともかく,ほかの作品は小学生にはあまりにも難しくて,すぐに挫折しました。
で,何の話かというと,このドラマの冒頭の場面が松山に赴任した坊っちゃん(柴俊夫)が“はしけ”で三津浜の港に上陸することろでした。“はしけ”で上陸するのですね。大型船が接岸できる港湾施設が当時の三津浜になかったからです。

[78747] ペーロケ さん
「港にとって河川は害である」

昭和の初めに自動車の普及が始まるまで「車」(人力,馬力を問わず)による長距離輸送が発達しなかった日本において,鉄道網が整備されまで内陸における唯一の大量輸送手段は河川の舟運でした(次に来るのが背中に荷物をくくりつけた駄馬,その次は人間が背負う歩荷(ぼっか)。で,あとはもうない…)。もちろん,水系を越えた全国的な流通についても船による海運が唯一の手段。越前・三国港の繁栄もそれによるものです。
ところが十分な水深を確保するのが困難な河川と外洋とではそれに適当な船の構造が違いますから,必然的にその接点で河川用の船と外洋用の船との荷物の積み替えが起こります。だから,内陸水運の発達した大河川の河口には港(港町)が発達する基本条件があるのです。新潟や酒田などはその典型です。

江戸の場合,徳川入府以前の元の市街は現在の大手町のあたりに形成されていたと考えられています。よく“家康は何もない江戸に飛ばされた”という言い方がされますが,中世以降の江戸は南関東の物流拠点としてそれなりに繁栄していたようです。基礎的な立地条件は荒川(隅田川)の河口ということにあるのですが,実際に市街が形成されたのは隅田川本流ではなくこれに合流する平川(現在の日本橋川)沿いであったのですね。後に,家康の“江戸大改造”で大手町付近は武家町となり,物流の拠点はやや下流の日本橋に移ります。
巨大城下町・江戸のもう1つの港として栄えたのが品川でした。こちらは目黒川の河口に立地しています。目黒川は舟運に利用できるはずもない小さな川ですが,河口の地形が船の発着に利用できたのでしょうね。
近世の城下町はほとんどの場合,このような舟運を意識して都市計画がなされています。大坂(大阪)や広島のようにそのような河川に直接面して建設されているものもあれば,その支流や運河(掘割)を介しているものもあります。たとえば,信州の松本は女鳥羽(めとば)川がお城の外堀の役目を果たすとともに,奈良井川・犀川の舟運を引き込む役割もしています。ただし,千曲川/信濃川は信濃(長野県)と越後(新潟県)の境界付近に急流があって,両者の舟運は断絶していました。ここが両国の国境である所以でしょう。

神戸にとって「河川が毒」だったのは,そこを流れるのが「川」というよりは,すぐ背後にそびえ立つ六甲・麻耶から流れ落ちる「滝」に等しいものであり(「垂水区」とはよく言ったものです),内陸交通路としての機能を全く期待できないばかりか,大量の土砂を運び込むだけの厄介な存在であることによると思います。
つまり,神戸は河川交通との接点として発達した港町ではない。平清盛の日宋貿易がその始まりであったように,主に“海の交通”の拠点として発達した。長崎や平戸,あるいは那覇もこのグループに属するように思います。対外交易の拠点としてなら,後背市場とはほかの交通手段で結ばれていればいいので,港そのものに地形的な後背地は必要ない。だから必ずしも大河川の河口である必要もなく,長崎のようにリアス海岸の入り江深くでも立地し得る。現在の姿からは想像しにくいのですが,那覇は元はベネチアのようにラグーン(潟湖)の出口に形成された砂州の上に立地したようです。
神戸(大輪田)の場合,大きな船が入るのに適した地形には恵まれませんでした。だから,平清盛は大規模な築港事業を行ったのですね。そこは同時代の鎌倉も同じで,ここでも大規模な築港が行われましたが,これはその後放棄されて現在ではごくわずかな痕跡しか残っていません。結局,山を越えた六浦(むつら)・金沢(かねさわ)というラグーン(平潟湾)に面した港がその後も機能し続けました。こちらも中世後期以降,鎌倉とともに衰退し,江戸・品川に主役を奪われることになります。
河川自体は舟運に堪えないような小さなものであっても,その谷を重要な陸上交通路が通っていれば,その河口には海陸接点型の港町が発達します。鉄道から自動車に主役が移った現在においても特に日本海貿易の拠点として重要な敦賀は,遥かな昔,「角鹿」(つぬか)と呼ばれて高句麗や新羅・渤海などとの交易拠点であった時代からの典型例です。
四国の中では比較的に広い平野である松山平野でも重信川にどれだけ交通路としての機能を期待できたか,おそらくは平野全体の陸上交通の集約点,そして海上交通への接点として「熟田津」以来の三津浜の役割があったのだろうと思います。
で,坊っちゃんはここで上陸して,「マッチ箱のような」伊予鉄の汽車に乗って松山市街に向かった…。

[78736] hmt さん
その他に小樽

これは迂闊でした。
確かに道内経済の中枢としての地位は失っても,日本海海運の拠点としての小樽の重要性は今でも大きなものがありますね。「脱落組」とするのは,小樽に失礼でした。
[78735] 2011年 7月 9日(土)10:19:20【4】Issie さん
稚泊航路,浦塩航路
[78730] 白桃 さん
室蘭と稚内

ものすごく意地の悪い言い方をしたら,「“大”から脱落した2大港町」。
水産業が衰退した現在では,稚内は利尻・礼文航路が主体のローカル港だけど,元は“日本領南樺太”への玄関口ですよね。当然ながら,それなりのにぎわいはあったのでは。
室蘭港は石炭の積み出し港。私は世代的に石狩炭田の最末期しかリアルタイムで知らないけれど,“複線”(!)の室蘭本線を往来する石炭列車の姿は写真や映像で見ていた覚えがあります。
どちらも港の役割の大半が消えて,室蘭に至っては新参者の苫小牧にその地位を完全に奪われて,脱落しちゃった…,という感じでしょうか。
もっとも,“脱落”組には 小樽 という大物がいるし,ウカウカしていると函館もこちらに仲間入りしてしまうかも。

[78733] ペーロケ さん
福井 三国港 九頭竜川の河口に開けた漁港。

元は北前船で栄えた商港ですね。言うまでもなく,越前随一の港町。
でも,稚内つながりで言うと,「浦塩航路」の拠点である 敦賀港 も捨てがたいのでは,と。
北前船の残照に思いをはせるか,それとも日魯交渉の拠点として育まれた異国情緒に重きを置くか。
どちらも甲乙つけがたい。

島根 浜田港 県内に、浜田以外の大きな港が出てこない。

むしろ,鳥取県の境港の方がその位置と“水木マンガ”からの連想で島根県と思っちゃうんですよね。
島根県としては,境港の対岸の島根半島にある 美保関 というのが歴史的には著名な港町ではあります。あるいは,隠岐航路のフェリーが出ている七類港というのもありますが,これはかなりにマイナー。

なんとなく、大河川の河口を利用した港が多いですね。。。

ま,これは“江”戸がそうであるように,ある意味当然の結果ではないかと。
ただし,この中には「東京港」がそうであるように,明治以降,大型外航船の時代になって一旦「港」から滑り落ちたけれど,その後の大規模な港湾(再)整備によって再び浮上したものもありますね。


[78734] デスクトップ鉄 さん
他の内陸県も探してみました。

やっぱり相当無理があるような。
舟運が内陸の交通手段として完全に壊滅した今,ここに「港」というべきものはもはや存在しない。 あるのは,単なる観光遊覧船の船着き場。
唯一,例外としてノミネートされる琵琶湖の大津港も現状では観光船の船着き場に過ぎないけれど,ここは過去の歴史,たとえば鉄道黎明期に琵琶湖水運を介した水陸連絡拠点として機能していたことを踏まえてのことだろうと思います。
たとえば埼玉県には荒川・新河岸川や古利根川沿いにそんな“港町”が少なからず存在するけど,今は「港」はありませんからね。
[78724] 2011年 7月 7日(木)19:44:43【2】Issie さん
皆さんお毛がなくておめでたい
[78723] ぺとぺと さん
妻 : 「箱根かぁ・・・でも、箱根は山に登るって感じじゃないよね」

あっ,これはわかる気がする。
つまるところ,箱根は「登る山」ではなくて「越える山」なのですよ。
“登山電車”なるものが走っているし,地元では“登山バス”と呼ばれているものもあるけれど,登るのは乗り物。たいてい,自分の足で登るわけではない。
だから,「山に登る」という感覚が希薄なのでは?

今も丹沢山系を眺めていますが、前衛にある大山はハッキリわかりますが、東西にのびる稜線のどこが丹沢山のピークなのかは全くわかりません

これは別の角度から眺めても同じです。
当地,相模原からは富士山が見えませんから,どこより目立つ山は大山です。
“単独峰”としての「丹沢山」はボーッとした塊である“丹沢山塊”の中の“有象無象”の峰の1つに過ぎない。「百名山」なんて,山に登らない一般ピープルには関係ない話ですから。
その存在感の大きさゆえ,信仰の対象となって,南関東各地から“何本もの大山街道”が走り(一番有名なのが“246”),「大山詣で」なんて落語の題材にもなる。
これは“県内最高峰”の蛭ヶ岳にもない存在感です。

全国的な知名度なら箱根山の方が勝るかもしれません。けれども,箱根はやっぱり「県西」の山。“神奈川県”として見ると,西に偏りすぎなのは否めません。これが「足柄県の山」というなら,間違いないのですが(いや,「足柄県」なら「足柄山」という声も聞こえそうです。この場合,「足柄山」とは単独の峰を指すのではなく“足柄峠”を中心とする山塊の総称ととらえるべきでしょう)。
もっとも,大山および丹沢山塊も,元は 神奈川県 ではなく 足柄県 に属していました。

そんなわけで,私は 大山 に一票を投じます。
で,単独峰としての丹沢山には古代ギリシアの「オストラキスモス(陶片追放)」よろしく“排除票”を投じたい。

※そうそう,言い忘れていました。
単独峰としての 丹沢山 は,千葉県の鹿野山,そして東京・麻布の 日本経緯度原点 と並ぶ“超一等三角点”の1つ([78608])で,「地理」の立場からはとっても重要な山です。
でも,その世界でも存在感は鹿野山に数段劣る,という気がします。
[78687] 2011年 7月 2日(土)20:52:25【1】Issie さん
むかし丹波の大江山 鬼ども多く集まりて
[78685] 伊豆之国 さん
京都 比叡山 大文字山 鞍馬山

やっぱり京都“市”に偏ってしまいますねぇ。
ここは,丹後の大江山,なんてのはどうですか。京都“府”北部では,かなり存在感のある山だと思いますよ。
一説によれば,「酒呑童子」をはじめ数々の鬼退治伝説の舞台,とも言われていますが,一方ではこの「大江山」とは,京都の西,丹波との境の「大枝山」(西京区に「大枝」という地名があるが,具体的な位置は甚だ曖昧)だという説もあって,私はこちらの説に賛成。
でも,両丹地域から挙げるとすれば,丹後大江山は外せないだろうと思います。

箱根はどの山を代表にするか?

外輪山を含めた「全体」でしょうね。


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