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ezekielさんの記事が10件見つかりました

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[58717] 2007年 5月 28日(月)22:05:06ezekiel さん
風成塵 ~砂漠からの贈り物~
 黄砂を巡って、環境汚染の観点からの書き込みが幾つか見受けられますが、黄砂は風成塵やレスの一種で、東アジアの環太平洋の土壌は、少なからず、この風成塵の堆積による場合もあるようです。特に沖縄周辺の島々は、珊瑚礁の上に風成塵が堆積したものが土壌の基本になったようです。日本海で漁業資源が豊かなのは、風成塵が海に降り注ぎ、その付着したものを含めてプランクトンの餌になるためだとも言われています。

 砂漠化によって、その土地は不毛になりますが、風成塵が珊瑚礁の島の上に幾千年も掛けて堆積することによって土壌が出来て、島々に新たな自然環境が生まれる様(さま)は、まさに砂漠からの贈り物です。

 風成塵と、風成塵と共に飛来する汚染物質とを混同して、風成塵をも環境破壊の要因として悪者扱いするのは、ちょっと悲しいなあと感じます。火山灰や風成塵は、それ自体が近代文明の生活をする者にとっては、確かに迷惑な存在ともいえますが、でも数千年の風成塵の堆積が生んだ新しい自然環境を享受している方々も少なくないように感じます。

 比較的わかりやすい論文を紹介します。

http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ken/gakui/absts/D0435.pdf
[58583] 2007年 5月 20日(日)20:24:52【1】ezekiel さん
「たたら製鉄」と「かんな流し」の光と影
[58571] じゃごたろ さん、

[58578] 白桃 さん、

 コメントありがとうございます。

「たたら製鉄」は、経済的効果も大きい光の部分で、じゃごたろ さんからいただいたコメントにあるように地名として「多々良」という嘉名がついたりしています。ただ自然破壊や地形変化の影の部分は、近世以前は環境意識も低く、田畑に砂が入り込むので「かんな流しは農閑期(秋の彼岸から春の彼岸)」という取り決めが出来たりした例も見受けられますが、「かんな流し」が、結果的に扇状地を作ったり、河口に三角州を作ったり、土石流の原因になったり、海岸に豊かな砂浜を作ったりした因果関係がわかっていなかったようで、直接的に地名に反映する例が、ほとんどないのではないかと思っています。地図上の地名からは情報があまり得られないと思います。

 白桃 さんから紹介していただいた戦後の研究が、「たたら製鉄」や「かんな流し」が、地形形成や地形変化に大きく影響したことを解明した最初期の頃のものではないかと思っています。(感謝!)

 中世から近世に掛けて、中国地方の山々の一部では、「たたら製鉄」の影響で山林が伐採しつくされて、山肌が削られて地形が大きく変わり、「かんな流し」の影響で中流・下流の地形も大きく変わったことは、あまり知られていないようです。現在も、大々的に調査が行われた例があまり見受けられないのは、社会学的な別の見地から憚られる要素も多いようで、逆に、地理の愛好家の方々のフィールドワークに期待したい部分でもあります。
[58570] 2007年 5月 19日(土)20:17:51【1】ezekiel さん
「たたら製鉄」と「かんな流し」
 今、「たたら製鉄」や「かんな流し」による古代から中世期の人為的な地形の形成を調べているのですが、あまり地理の分野では取り上げられないようで、この落書き帳でも検索したのですが、ヒットしませんでした。環境問題を扱う方々や地学が専門の方々、郷土史を調べておられる方々には興味がある問題のようで、個別のフィードワークやリポートは結構あるのですが…。

 地元の兵庫県では、千種川や揖保川流域があります。日本刀で「備前~~」というのがありますが、原料となる良質の鉄は、播磨の国の 「千種鉄」や「宍粟鉄」だったようで、宍粟郡や佐用郡では 砂鉄を原料とした「たたら製鉄」が盛んだったそうです。砂鉄は花崗岩類の風化土層を 掘り崩して採掘するようで、山肌を削り、それを「かんな流し」で水との比重差 によって土砂中の砂鉄を凝集し、山林の木材を大量に伐採して薪や炭にして製鉄をしたようです。

 千種川や揖保川は山肌が削られ、山林が伐採され、「かんな流し」による大量の土砂が河川を汚濁してそれが河口付近に堆積するわけで、揖保川では、今の姫路市の網干辺りに平地が出来て、新田が拓かれ、今は工場地帯になっていたり、千種川では、現赤穂市の市街地区域に平地が出来て、遠浅の砂浜が広がり、新田が拓かれると共に塩田がつくられたわけです。

 もっとも顕著なのが島根県で、「たたら製鉄」や「かんな流し」によって形成されたとされる地形は、日野川や斐伊川の流域に多いです。出雲の国の山間部は、一時は禿山状態になったという説もあり、ヤマタノオロチの話も環境破壊の問題として捉える方々も少なくないようです。(今では主流でしょうか?)

 鳥取砂丘も「かんな流し」によって形成されたという学説がありますが、当時は地形をも変えるほどの環境破壊でしたが、今・現在となっては、それが「自然」とされている部分も多いです。そして「かんな流し」をしなくなった為に、河川に含まれる土砂が激減して砂浜が痩せていることが、逆に環境問題として取り上げられたり…

 *

 前触れが長くなりましたが、個々の事例は探せば見つかるのですが、地理の専門の方々が、「かんな流し」による(意図的ではないが人為的な)地形変化を分類したり、まとめたりされている研究者や文献等をご存じないでしょうか?

・「かんな流し」によって失われた山や丘、それによって出来た山間部の盆地や平地
・「かんな流し」によって出来た扇状地や河口に出現した平地、その結果としての新田
・「かんな流し」によって出来た砂丘
・「かんな流し」による地形の変化が地名として残っている例

 何か、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。
[58217] 2007年 4月 30日(月)12:26:50ezekiel さん
省略形の読み方  (大学編 「しんだい」)
 略称の話題を読んで、私自身が省略・略称で偶に勘違いするのが、「しんだい」です。新潟大学は新大(しんだい)、信州大学も信大(しんだい)、そして神戸大学も神大(しんだい)です。今まで間違ったことがないのですが、神奈川大学の略称は神大(じんだい)で、音(おん)が違うようです。「めいだい」も名古屋大学なのか明治大学なのか、一度確認したことがあります。
[58006] 2007年 4月 15日(日)06:00:48ezekiel さん
旧石器時代
[57991] hmt さん

ホモサピエンスによる「第2次出アフリカ」が、西はヨーロッパのクロマニヨン人、東は日本の高原山やオーストラリア、そして少し遅れて南アメリカにまで及んだことに思いを馳せると、今回の旧石器発見のニュースが、壮大な人類史の一翼を担うものと理解できます。

 朝鮮半島や日本での旧石器時代の発掘物が、中国に比べて少なかったのですが、今は韓国での発掘がかなり多いですね。この時代の人骨の発掘が日本であれば、かなり大きなニュースになるかもしれませんね。
[57290] 2007年 3月 16日(金)08:51:04【2】ezekiel さん
駅のコア・イメージ
[57276] スナフキん さん
「道の駅」はすっかり市民権を得た感がありますが、これに便乗したとしか思えないネーミングの施設が次々に生まれています。海の駅、川の駅、町の駅…そして今度は「駅の駅」かい!みたいな。

話題作りにと思いましたが…

 ネットのお陰で、地方紙の主な記事を見る機会が増えて、遠くのご当地ニュースが身近になったように思います。

 「駅」という言葉(文字)は、“鉄道の駅”のイメージが付き纏う言葉ですが、「道の駅」という言い回しの中では、“鉄道の・・・”という部分を削ぎ落として「駅」という言葉(文字)に附随されたイメージを利用しているんでしょうね。“鉄道の駅”という物理的・機能的な意味ではなくて、“人が集まる”とか、“駅前商店街”とか、そんなイメージを道路沿いに持ってきた(インストールした)のが「道の駅」ではないかなあ~と思っています。ネーミングとしては、奇をてらったというよりも、「駅」という言葉の持つコア・イメージを結果的に掘り起こしたことになったので、すんなりと定着したのかなあ~と考えています。

 「駅の駅」、この言葉の一つ目の“駅の・・・”は、“鉄道の駅”をイメージさせて、2つ目の“駅”は“道の駅”をイメージさせて、この記事を見て、面白いネーミングだなあ~と思いました。「駅の駅」という端的な言葉で“鉄道の駅舎に出来た「道の駅」”をすぐにイメージさせてくれたのは、「駅」という言葉の持つ2つのイメージがオーバーラップする妙味を活かしたネーミングの故だと感じました。

 「局」という言葉(文字)も、一般には郵便局や放送局を連想する言葉で用いられることが多いですが、官庁では、また違った機能の言葉として使われています。人によってイメージにばらつきのある言葉(文字)の一つではないかと思います。蛇足ですが、放送局の“局”はstationで、これは“駅”とオーバーラップするんですね!

 ネーミングで失敗したのが、“国鉄”に対する“国電”に相当する言葉として“JR”に対しての“E電”があるように思います。新しい言葉が、すんなり受け入れられて定着するか、奇をてらったネーミングで一時的に使われて廃れるか、それとも最初から違和感があって使われぬままになってしまうか・・・。言葉は意味を指し示す機能的な側面もありますが、目や耳にした人が感性としてイメージする側面も大きいように感じます。言葉が歴史の中で変わっていくのも、文化や生活と共に歩む生き物だからでしょうね!各地にある「~銀座」にもアナロジーを感じます。そして地名の多くも、歴史の中で根付いたものが多いのでしょうね。

 スナフキん さんの「話題作りにと」に乗っかって、寒い朝に徒然なるままに・・・
[57238] 2007年 3月 10日(土)23:07:34ezekiel さん
ワイワイマップ
グリグリさん、

[55724]
自分色変更を確認しました。



yahooの地図情報でワイワイマップというのを試してみました。
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=mHVIaKLEm9I1s16ui4GJqShx.NMqR3V7U1g-
「写真で綴る兵庫の風景」を、暇を見つけてスポットの登録をしようと思います。
[55716] 2006年 12月 29日(金)10:20:35ezekiel さん
「落書き帳」& ロータリー
グリグリさん、

[55229]
それよりも、ezekielさんにおかれましては、[54377]の私の書き込みに対してきちんと回答していただきたいと思います。
大変失礼しました。「落書き帳」ですね。以後気をつけます。

[54577]
ezekielさん、対応遅くなりましたが改めてよろしくお願いいたします。なお、申請時にご指定いただいた自分色は、未登録メンバーのカラーと紛らわしいため、勝手ながら私の方で色をアレンジさせていただきました。修正ご希望があればお手数ですが再度ご申請ください。
次の通り、修正をお願いします。
  左枠(記事番号日時欄) 背景色 #e3440f 文字色 #8bf3fc
  右枠(ニックネーム欄) 背景色 #fcfbd6 文字色 #498cf1
  下枠(記事タイトル欄)背景色 #e2fefe 文字色 #3d241f



JR加古川線西脇市駅駅前のロータリーを紹介します。
地図

長閑な感じのロータリーです。参考までに写真も紹介します。
写真
[55228] 2006年 11月 18日(土)10:46:11ezekiel さん
Re[54577]他にも懸案事項は沢山あるのですが、時間が取れ次第対応したいと思いますのでご了承ください。
了解しました。現時点での途中経過をお知らせ下さい。
[54368] 2006年 10月 8日(日)07:25:05ezekiel さん
神戸を巡って ~湊川河口付近
[54365] ニジェガロージェッツ さん、
確かに江戸期の豪商・高田屋嘉兵衛の店や邸は西出町にありましたが、この西出町は東隣の東出町とともに「湊西」に含まれます。確かに兵庫津全体の中では、湊川河口に向かって東に突き出た部分に位置していますが、それゆえ「出町」と名付けられ、後に東出・西出に分かれたのでしょう。しかし、湊川を越えて東には出ておらず、実際、幕末期の兵庫津において湊川の東、つまり「湊東」に位置していたのは、東川崎町と相生町の2町だけです。
後に神戸区、更に神戸市と発展するにつれて、兵庫湊東の範囲も拡大していきました。

 湊東という言葉を使ってしまいましたが、かえって指し示す地域がブレてしまった
ように感じます。それと、私自身の中でも西出町、東出町の位置を指し示す言葉に
ブレがあって、

[54363]ezekiel、
湊川の河口近くの左岸、湊東とよばれる地域

[54340] ezekiel、
湊川左岸に関しても、兵庫の町が発展、膨張して、西出町や東出町、東川崎町、相生町が

 私自身も、かなり漠然としたピンボケ状態で捉えていましたので、ニジェガロージェッツさん
との間で齟齬が生じたと思います。おっしゃるように、西出町&東出町と、相生町とを
私がひとくくりに扱ったのが問題だと思います。

 私の視点としては、江戸中期頃からの兵庫の町の拡大が東進して、湊川右岸の河口
近くが北限(東限)だった町の範囲が、河口を中心に湊川左岸に喰い込み、後に湊東
という名称になる地域まで兵庫の町が膨張した経緯に注目したわけです。

 今スポットを照らしているのは、国道2号線が中央区から兵庫区に入って、国道が
右折で、直進すれば高松線に入る七宮神社辺りのポイントを中心とする半径300m
ぐらいの範囲の地域になると思います。旧西国街道は、七宮神社の西から現・高松線の
数十メートル西を兵庫の町を貫通しながら現・中央卸売市場の南辺りから西に向かう
経路だったことになると思います。今は廃止されましたが、市電が概ね西国街道沿い
に走っていたことになるのかなあ~と思います。

 ちょっと余談になりますが、神戸駅の位置は多少は移動しましたが、もし山陽線との
接続を見据えて、元町から直進して湊川神社の北を通る経路にすれば、神戸の町の様子も
随分変わっていたかもしれませんね。東西に細長い神戸の街にあって、JR神戸駅は、ほぼ
ホームが南北方向になっています。当時は港との接続が重要であったので当然のこと
だったと思いますが、旧神戸駅を港専用にして、後の山陽線との接続の為に湊川神社の
北に新神戸駅が出来ていれば、現・山陽電車はなかったかもしれませんし、地下鉄の
経路が大きく変わっていたかもしれません。JR神戸駅の西(正確には南)の急カーブは、
全線に渡って線形が良いとされている東海道線及び山陽線のなかで特異点のようですね。

*

 私自身、どうしても明治期以降の地理的な(行政的な)前提で、兵庫から生田川右岸の
地域を考えてしまいがちですが、ニジェガロージェッツさんのおっしゃるように、
西出町や東出町というのは、どこの村にも属していないような河口の中洲を築地して
出来た出島のような場所だったのかもしれません。当時は田んぼに関しては、厳密に
検地されていたことと思いますが、江戸期のムラとムラとの境界線って、それほど厳密では
なかったと思います。山は入会地で、海岸の多くは入会のような感じだったのかも
しれませんね。江戸初期には、まだ生田の森も随分広大だったような記述も見受け
られますので、当時の“ムラ”というものを、私自身もっと正確に捉え直さないと、
神戸のルーツを見誤るかもしれないなあ~と痛感しています。生田村の件も同じですが、
湊川の左岸、河口付近の海岸線沿いの地域に関しても、しっかりと調べたと思います。


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