[54365] ニジェガロージェッツ さん、
確かに江戸期の豪商・高田屋嘉兵衛の店や邸は西出町にありましたが、この西出町は東隣の東出町とともに「湊西」に含まれます。確かに兵庫津全体の中では、湊川河口に向かって東に突き出た部分に位置していますが、それゆえ「出町」と名付けられ、後に東出・西出に分かれたのでしょう。しかし、湊川を越えて東には出ておらず、実際、幕末期の兵庫津において湊川の東、つまり「湊東」に位置していたのは、東川崎町と相生町の2町だけです。
後に神戸区、更に神戸市と発展するにつれて、兵庫湊東の範囲も拡大していきました。
湊東という言葉を使ってしまいましたが、かえって指し示す地域がブレてしまった
ように感じます。それと、私自身の中でも西出町、東出町の位置を指し示す言葉に
ブレがあって、
[54363]ezekiel、
湊川の河口近くの左岸、湊東とよばれる地域
[54340] ezekiel、
湊川左岸に関しても、兵庫の町が発展、膨張して、西出町や東出町、東川崎町、相生町が
私自身も、かなり漠然としたピンボケ状態で捉えていましたので、ニジェガロージェッツさん
との間で齟齬が生じたと思います。おっしゃるように、西出町&東出町と、相生町とを
私がひとくくりに扱ったのが問題だと思います。
私の視点としては、江戸中期頃からの兵庫の町の拡大が東進して、湊川右岸の河口
近くが北限(東限)だった町の範囲が、河口を中心に湊川左岸に喰い込み、後に湊東
という名称になる地域まで兵庫の町が膨張した経緯に注目したわけです。
今スポットを照らしているのは、国道2号線が中央区から兵庫区に入って、国道が
右折で、直進すれば高松線に入る七宮神社辺りのポイントを中心とする半径300m
ぐらいの範囲の地域になると思います。旧西国街道は、七宮神社の西から現・高松線の
数十メートル西を兵庫の町を貫通しながら現・中央卸売市場の南辺りから西に向かう
経路だったことになると思います。今は廃止されましたが、市電が概ね西国街道沿い
に走っていたことになるのかなあ~と思います。
ちょっと余談になりますが、神戸駅の位置は多少は移動しましたが、もし山陽線との
接続を見据えて、元町から直進して湊川神社の北を通る経路にすれば、神戸の町の様子も
随分変わっていたかもしれませんね。東西に細長い神戸の街にあって、JR神戸駅は、ほぼ
ホームが南北方向になっています。当時は港との接続が重要であったので当然のこと
だったと思いますが、旧神戸駅を港専用にして、後の山陽線との接続の為に湊川神社の
北に新神戸駅が出来ていれば、現・山陽電車はなかったかもしれませんし、地下鉄の
経路が大きく変わっていたかもしれません。JR神戸駅の西(正確には南)の急カーブは、
全線に渡って線形が良いとされている東海道線及び山陽線のなかで特異点のようですね。
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私自身、どうしても明治期以降の地理的な(行政的な)前提で、兵庫から生田川右岸の
地域を考えてしまいがちですが、ニジェガロージェッツさんのおっしゃるように、
西出町や東出町というのは、どこの村にも属していないような河口の中洲を築地して
出来た出島のような場所だったのかもしれません。当時は田んぼに関しては、厳密に
検地されていたことと思いますが、江戸期のムラとムラとの境界線って、それほど厳密では
なかったと思います。山は入会地で、海岸の多くは入会のような感じだったのかも
しれませんね。江戸初期には、まだ生田の森も随分広大だったような記述も見受け
られますので、当時の“ムラ”というものを、私自身もっと正確に捉え直さないと、
神戸のルーツを見誤るかもしれないなあ~と痛感しています。生田村の件も同じですが、
湊川の左岸、河口付近の海岸線沿いの地域に関しても、しっかりと調べたと思います。