[99371] オーナー グリグリ さん
[99341]高畠町史下巻引用部分の「(イ)期間」の混用の実相に関する記述が気になります(略されている部分)
[99387] オーナー グリグリ さん
「(イ)期間」の混用の実相に関する記述はどのようなものかお分かりでしたら教えてください。
[99341] MI で省略した部分を引用します。
(『高畠町史』下巻, p.699~703 高畠町史編集委員会編, 高畠町, 1972)
混用の実相 (イ)期間(明治二年以降、明治二二年四月一日の町村制施行直前までの期間……MI註)
(高畑と高畠それぞれが用いられた文書3点ずつを紹介……MI註)
明治二年、三年、七年と同年のものにつき対照的に「高畑」「高畠」の混用をみてきたのであるが、このような事例は右以外に所載することも可能である。ただ、この明治七年前後に高畑村に火災さわぎがあった。すなわち、明治三年五月二九日夜(注 横町三四戸焼失)、とりわけ明治六年五月二七日夜は大火となった(注 大町より出火、横町、荒町五か所より燃え立ち一〇七戸焼失・貞泉寺も焼失)。流言があり、「高畑」の畑は火事に関係するとか。そのような流言からか、個人的に「畑」を用いず。「畠」を用いることをしたという。しかし、「高畑」という伝統の村名は当時といえども変更されることはなかった。
(明治17年の文書で「高畑」「高畠」それぞれ表記の文書1点ずつ……MI註)
右二つの原本でみるとおり、町村監督の責任をもっていた郡役所でも混用している実相があった。この年、七月に東置賜郡下の組合村の編成替えがあった。その一覧表は、本巻の三五七ページに所載している。
高畑村外七ヶ村(注 安久津村・小郡山村・高安村・泉岡村・塩森村・金原村・二井宿村)の組合は、役場を高畑村においた。その役場の新築関係については、本巻四七九・四八〇ページに所載しているで参照のこと。高畑村外七ヶ村の組合役場名は、「高畑村外七ヶ村戸長役場」であって、「高畠村外七ヶ村戸長役場」ではない。注目すべきは、以降両者の混用度は激減し「高畑村」が大きく浮上する。流言は影をひそめたのである。
前ページの関係資料(明治17~20年の文書3点はいずれも「高畑」となっている……MI註)
そして次の704ページからは、
[99341] で引用した「混用の実相 (ロ)期間」となっております。
[99353] ekinenpyou さんから示していただいた史料を拝見して驚くと同時に納得したのですが、この混乱の原因は、
[99371] オーナー グリグリ さんのおっしゃるように、
・町側は「本来は「畑」が主流であるにも係わらず誤って「畠」が使われてしまった」
・県側は「「畑」は誤用で本来は「畠」である」
という認識や立場の違いにあったということなのでしょうね。
なお、この『高畠町史』は国会図書館のデジタルコレクションに収められてはおりますが、「インターネット公開」ではなく「図書館送信資料」ですから、
送信サービス参加館で閲覧可能となっております。しかし全国の図書館は臨時休館を余儀なくされているでしょうし、
国会図書館の遠隔複写サービスも受付休止になってしまいました。