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矢作川太郎さんの記事が44件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[53592]2006年8月24日
矢作川太郎
[53591]2006年8月24日
矢作川太郎
[53519]2006年8月20日
矢作川太郎
[53094]2006年8月6日
矢作川太郎
[53062]2006年8月5日
矢作川太郎
[52983]2006年8月4日
矢作川太郎
[52974]2006年8月3日
矢作川太郎
[52955]2006年8月3日
矢作川太郎
[52943]2006年8月3日
矢作川太郎
[52899]2006年8月1日
矢作川太郎
[52817]2006年7月31日
矢作川太郎
[52731]2006年7月28日
矢作川太郎
[52463]2006年7月20日
矢作川太郎
[52360]2006年7月17日
矢作川太郎
[52358]2006年7月17日
矢作川太郎
[52281]2006年7月16日
矢作川太郎
[52198]2006年7月16日
矢作川太郎
[52195]2006年7月16日
矢作川太郎
[52193]2006年7月16日
矢作川太郎
[52192]2006年7月16日
矢作川太郎
[52027]2006年7月7日
矢作川太郎
[51966]2006年7月3日
矢作川太郎
[51950]2006年7月2日
矢作川太郎
[51949]2006年7月2日
矢作川太郎
[51934]2006年7月1日
矢作川太郎
[51928]2006年7月1日
矢作川太郎
[51881]2006年6月26日
矢作川太郎
[51846]2006年6月21日
矢作川太郎
[51845]2006年6月21日
矢作川太郎
[51814]2006年6月19日
矢作川太郎
[51731]2006年6月12日
矢作川太郎
[51666]2006年6月6日
矢作川太郎
[51636]2006年6月3日
矢作川太郎
[51631]2006年6月3日
矢作川太郎
[51527]2006年5月28日
矢作川太郎
[51514]2006年5月27日
矢作川太郎
[51430]2006年5月22日
矢作川太郎
[51331]2006年5月14日
矢作川太郎
[51315]2006年5月13日
矢作川太郎
[51312]2006年5月13日
矢作川太郎
[51114]2006年5月2日
矢作川太郎
[51024]2006年4月26日
矢作川太郎
[51002]2006年4月25日
矢作川太郎
[50286]2006年4月2日
矢作川太郎

[53592] 2006年 8月 24日(木)01:49:04矢作川太郎 さん
天城伊仙町の思ひ出・・・連称自治体名補足
[52681]みやこ♂さん
反応どうもです。

複数の核を有する「地域」や「区域」に何かひとつの名称を付与しなければならないとすると,もしかしたら「連称」は一番わかりやすい“賢い”解決法なのかもしれません。むろん,好みの問題は別として,ですが。

そういえば擦り込みなんでしょうが,わたくしどうも地名って「漢字二文字が基本だろう」って偏見を(明らかに)持ってますね~。
私としては和銅年間の二字化が現代の自治体名にまで影響を及ぼしているのかな?と思います。(これに関してはツッコミ歓迎です。)某辞書(落書き帳でも賛否のあるネット辞書)では戸籍を記載する際に地名の用字が不確定で文字数が不揃いだったので、表記の確定を期(713年5月とされる)に好字・二字化が行われたとあります。(これが、現代までの地名の表記に関する諸問題の発端の様に思う。)

さて、歴史的事実の補足はコレまでにして実際の用例を見てみます。(平成の大合併の事例に限る。)

連称
薩摩川内市・山陽小野田市・由利本荘市・いちき串木野市・横芝光町・東吾妻町・三方上中郡

合成
東御市・福津市・大紀町・宝達志水町・佐久穂町・大仙市・北栄町・長和町・市川三郷町・神河町・紀美野町・宮若市・愛荘町・和水町・小美玉市・八峰町・加賀郡

(漏れがあったらすいません。)
自分としては一文字で地名(自治体名)を代表させるためには、相当な知名度が無いとどこの事を言っているのやら分からなくなる可能性が否定出来ません。例えば、名古屋の事を一文字で表記すると「名」となります。コレを拡大使用して名古屋駅の事を「名駅」と言う事がもはや一般的になっています。(コレが(住所)地名にもなっている。)そして、同地異称(一体感を醸している一地域を細分化するための異なる呼び名、別々の地域が徐々に一体化した例も含む。)を自治体名化するためにひとまず合成しようと言う事で誕生した市名もあります。(稲沢市、蒲郡市、行橋市など)加えて、(自治体名は二字が大半!)と言う一般的なイメージに対応するために、連称より合成が好んで使われる様に感じます。

ひとまず、ここでけりを付けておきます。(何か思うところがまたあれば追って書きたいと思います。)

ところで、題名に徳之島地区合併協で決定した新町名をナゼ入れているかと言うと、私、この新町名募集に応募していたんです。(西徳之島町で応募。)まあ、合併協が休止した今となっては良い?思い出かなと・・・(あと木津川市の方にも「木津市」で応募。)無論、南薩三町合併協にも(薩摩知覧市で)応募しようかと・・・これが日本の自治体名(何度も言うが地名では無く。)を適正化するのか、はたまた、全く違う結果を招くのか私にはとても・・・(困)
[53591] 2006年 8月 24日(木)01:00:00矢作川太郎 さん
これって関西のジョーシキ?(んな訳ないか・・・)
[53584]k-aceさん
余談ですが、京阪は微妙にK府K町を通っていますね。

に少しだけ反応しようと思います。最初そんなわけ無いやろ!と思って手持ちの地図を確認してみました。するとその地図だけは15号線の陸橋が京阪本線に架かる手前の地点でく・・・K町の領域が途切れている様に描かれていました。確認のため他の地図サイトを見てみるとこんな感じになっていました。念のためマップファン・いつもガイドでも見てみると南側陸橋の地点から左側へK町の領域が延び、京阪の線路敷を横切り果ては(陸橋の)向こう側の15号線に付属する側道の際まで延びていました。これはワザと突き出ている所に線路を敷設した訳ではなく、偶然そんな所に掛かる様になっただけの事でしょうけど。偶然と言えば実を言うとここの陸橋の下にはロータリーがあってロータリーコレに採用されていたりします。あと、蛇足ですけど淀駅っていつからこんな構造になったのでしょうか?こっちの方では同じ様な構造になっていたモノに近鉄の八田駅があったのを思い出しました。(地図リンクの方ではそうはなっていませんけど。)これは確か工事で一時的に駅の方面分けが行われていたと思います。(近鉄八田と書いてある方が桑名方面で、西側に「八田町」と書いてある辺りに名古屋方面の駅があった様です。←実際には見て無く地図からの情報ですが。)

以上矢作の些末な小咄でした。(何でこんな記事を書いているかと言うと、いっちゃんさんのオフ会名古屋誘致が流レになったからです。(苦笑)実を言うと9/30に個人的に名古屋まで講演会を聞きに行こうと計画していまして、名古屋開催が決定していれば(どっちがついでか分かったものじゃありませんが。)ついでにオフ会に顔出し出来るなと思っていました。一転して、金沢開催が決定したので憂さ晴らしにこの記事を書いていると言う訳です。(どの道C2H5OHを実践するにはあと丸一年の時間が必要ですが・・・))
[53519] 2006年 8月 20日(日)12:36:55矢作川太郎 さん
まとめレス
皆様ご無沙汰です。(でした。)取り急ぎですが、早速。

[53098]千本桜さん
ご丁寧な訂正・補足どうもです。

では、色々と思うところをば。

まず、変わった形(山の狭窄部を挟んで村域が広がる)と言えば上岩出村なんかを私は知っていますが、どんな事情でこんな風になったんでしょうか?まあ、この事は今回のレスには余り関係無いので例示するに留めます。

次に、
それでいて、村域はfutsunoおじさんお得意の双耳峰青麻山の山頂で結ばれているから不思議。
不思議といえば、この青麻山はピークが二つあるわけですが、標高の高い「あけら山」より、標高の低い「青麻山」が山容全体を表わす名称になっていること。でも、地元に住んでいると、そう呼ばれるのも分かるような気がします。宮や大河原からですと、「あけら山」は「青麻山」の陰になって見えませんから。
で思い浮かべたのは私も一度(ほんの一度ですけど。)登った事がある「立山」でした。(3015m)の大汝山より(3003m)の雄山の方が一般的には有名ですよね。(ただ総称としては立山の方が有名ですが。)でも麓の五百石町が他の3村と合併した時の名称が「雄山町」となった事から地元民にとっては雄山の方がメジャーなのかも知れませんね。(ただその間も布倉村が改称した立山村が併存し、結局「立山町」が全体の名称になりましたが。)

あと、
ところで、一般的には「小字」より「大字」の知名度が高いのが普通ですが、「小字」ではなく「集落」として捉えると、己が帰属する「大字名」よりも著名な「集落名」がたまに見受けられます。宮城県を例に取れば下記のようなところでしょうか。
これも、大字というモノの広域性(拡がり・広ぼう?)が関係してくると思います。大字と言っても単独の集落で構成されているとも限りません。明治の大合併以前の合併も関係してくるでしょうし、その他にも一つの藩政村の中でも異なる気質の複数の集落が形成されている事もあるでしょうしね。(それが、後に知名度の違いに繋がっていくのかも知れませんね。)あと、宿場名が大字名と異なる例も千本桜さんは度々挙げられていますが、私の周りにも宿場名が自治体名と異なる例は数多くありますが、その様な例は余り知りませんでした。思うに複数の藩政村に跨った宿場の総称若しくは、大字の中心から外れた所に形成された宿場の名前だと私は考えます。(この様に多様な近世村落については纏めて書きたいと思いますがいつになるやら・・・)

さて、
[53106]花笠カセ鳥さん
にレスしなければと思いつつも徒然に過ごしていたら、
[53301]雪の字さん
のレスがありました。(本当にありがとうございます。)
なお、「あゆち」「あいち」には、古代から様々な字があてられており、六国史の中でさえ表記はバラバラです。
『万葉集』では「年魚市」「年魚道」ですけれど、『日本書紀』では「年魚市」の他「吾湯市」という表記も見られます。
[53094]で矢作川太郎さんがご提示くださった「愛智」は、『延喜式』『和名抄』に登場するもので、由緒正しい表記です。また、「阿由知」は、『尾張国熱田太神宮縁起』に見られるもので、これも古式ゆかしいものです。
この他にも「阿伊知」「鮎市」といった表記が存在したようです。
なお、「愛知」という表記は、古くは『続日本紀』にあり、『愛知郡誌』によれば、広く使われるようになったのは天保期からとのことです。
私は少なくとも「阿由知通」は愛知郡の局所的な由来では無いとは思っていましたが、「阿由知」の表記自体が由緒正しいモノだとは知りませんでした。(また、浅学を晒してしまった・・・[53094]←皆様御笑覧下さい・・・(苦笑))

[53176]U-4さん
横田基地の滑走路の北半分は瑞穂町内にありますが、基地の主要施設は福生市内、米兵の居住地区は西側の福生市から羽村市にかけてと東側の武蔵村山市の二箇所に分散しています。基地内日本人勤務者の居住地は定かではありませんが、基地の表玄関といえば福生市。瑞穂町は東京都心との距離は比較的近いもののアクセスの悪さからベッドタウン化している地域はごく限られており、お茶畑が広がるのどかな風景が続いています。都市圏というにはどうも・・・
確かに、例の資料には不整合な部分もまま有る様ですね。青梅街道が通っているから、日野自動車工場が羽村市に有るからと言うのも相当無理がありますしね。正確に地域の実態を反映しているかと言うと必ずしもそうでは無い事を留意する必要がありますね。
[53094] 2006年 8月 6日(日)04:03:37【1】矢作川太郎 さん
花火の音を聞きながらの投稿も乙なモノで・・・(汗)
[53082]ハンブルガーさん
ところで矢作川太郎さんが投稿した時間(20:13)は、岡崎市2大イベントの1つである”花火大会”(もう一つは、家康行列がある”桜祭り”)の真っ最中だったのではないでしょうか?
はい、言い訳は言いません!ワタクシは花火見てないんです・・・
ついでに言うと今年の家康行列も見てません。地元にいるのに嘆かわしいばかりです。5年位前には毎年行っていた記憶が有りますが、(花火に。)最近は殆ど御無沙汰で・・・人込みがイヤと言うか、食料の調達がままならないとか、見るポジションが悪いとか言って結局出不精なんですよね。(個人的な事情はコレにて打ち止め!)でも、自宅からでも大音響の片鱗が垣間見える?(垣間聞こえる?)程、音が大きかった事を今日改めて再確認出来ました。まあ、地元伝統産業の祭典ですからね~。

まあ、[51928]の拙稿にも
桜の開花時期や花火大会の時だけ中心街に凄い人数の人が押し寄せる。
と書いてますしね~。でも中心部に余り宿泊施設が無いので、鉄道の方は遅くまで花火ラッシュで大変そうです・・・

そうこうしている内にレスが!
[53090]雪の字さん
「阿由知県」へのご感想どうもです。あと、よく年魚市潟から県名が由来していると書いてあるので「年魚市県」も考えましたが突飛過ぎますよね。もっと一般的で「阿由知通」と用例もある表記を選んでみました。(考えてみれば「池鯉鮒市」位突飛ですね。(汗))ただ、「あいち」の「あい」に愛をあてた例は古くから見られます。(阿由「あゆ」)と言うのは最近になって考案された擬古調の表記かも知れませんし・・・因みに「ち」の表記は智→知と変わった様です。「愛智県」これも奥ゆかしい・・・

トヨタ、中部国際空港、徳川家康、犬山城、吉良上野介、伊良湖岬、八丁味噌、あわ雪、日本モンキーセンター…
愛知の名物、意外に多そうな気がいたします。
に関しても一言、確かに多彩で数多く有りますが、それが「愛知」と言うブランドで統一的にイメージ出来ないと言うのも知名度が低い原因でしょうか?(色々な所があると言う点では魅力的でありますが。)都道府県名若しくは旧国名でイメージ出来る物と言うのも興味深いテーマです。

【1】致命的(地名的では無い?)なミスを修正
[53062] 2006年 8月 5日(土)20:13:55矢作川太郎 さん
色々レス
[53038]ハンブルガーさん
で、これだけだと、1つも地理ネタがないので、自己紹介の一部として、私が数年在住した岡崎市に関する三河ネタを。
私の妻は、岡崎市出身であり、いつも「三河」を誇って語ります。しかしある日、妻が豊川市出身の友達に対して、「三河仲間」と喜んで話したら、その友達はあっさり「うちは、東三河だよ」と返されていました。私が思うに、ほとんどの岡崎市民は、「三河地方の岡崎市」と思っているようだが、他の三河地方の人達は、西三河と東三河を区別しており、岡崎は西三河という認識じゃないでしょうか。
また、矢作川より西側にある、刈谷市、安城市、知立市、豊田市の人達は、三河地方をあまり意識していなく、どちらかというとトヨタ城下町という認識の方が強いと思われます。妻においても、安城市は三河という認識があるが、豊田市、知立市は三河地方に入っていないと思っています。
(うっ!引用が長すぎたかっ!)
まあ、三河地方が一枚岩で無い事は自分でも自覚していますが。結論から言ってしまうと現在「(西)三河」を純粋に標榜しているのは岡崎・西尾位なのかなと思います。(東三河に穂の国を比定する事が有りますが、今回の話には余り関係ないので保留しておきます。)東三河とは違うと言う意識もこちら側には有ります。確かに地形的断絶(山地で隔てられている。)があるのでその様に感じられるのかも知れませんね。かたや、西三河西部は「豊田=名古屋??」の勢力下にあって「三河だ!」と言うよりは尾張の延長と言う位置付けに変わったのかなと思います。(その点安城は微妙な位置付けですし。(新幹線駅が有るがそれは豊田の最寄り駅の様な気もする。))

[53050]穴子家さん
しかし、残念ながらこの夏で廃止となるようですので、興味のある方はお急ぎください。
さいですか・・・名鉄の合理化もここまで・・・(ブツブツ以下自主規制)
とまあ、遠いところ御足路?頂き誠に・・・(こっちは長くなるのでカット・・・)
気を取り直して、
8月2日
京都から、近鉄で名古屋へ。さらに名鉄で岡崎へ。八丁味噌の蔵と岡崎城を訪問。その後、名鉄で名古屋に戻る。名古屋で宿泊。

(感想)二回通過したはずですが、尾張と三河の境がわかりませんでした。名古屋岡崎間の所要時間の短さに驚きました。八丁味噌の蔵周辺は昔ながらの風景が残っているのですね。
こういう事を聞くと地元民としてはショボイもんでしょうと言いたくなりますが、いちいち堪えてみますね。(謎)私としては八丁味噌蔵よりもその手前の愛環の高架にツッコまれるんじゃないかとヒヤヒヤでした。ハァ(実を言うとまじまじと見たことが無い・・・(汗))いつだって見られると言う意識は恐ろしいモノです。あと、境が分からない、時間も掛からないと言うのは名古屋経済圏の膨張の要因でもあるのかなと・・・(境川・自分も良く逢妻川と間違える事があります。高速の高架が見えたら尾張と言うのも有りなんですけどね。所要時間短・通学でほぼ毎日利用していますが、眠れる長さなので意外と長いんじゃないの?と思います。ただ、寝過ごす事が2・3回・・・終電だったら山越えした時点でアウトです。平坦に見えて結構急峻な坂ですので。(歩いては帰れない?)岡崎市~音羽町の峠?)

名古屋城(名古屋嬢!がいきなり変換で出てきて焦った。)・犬山城に関しては地元では無いので、事情に明るく無く詳しくは言えませんが、犬山城は本物志向でない私でも満足いく風格を備えていますよね。(ただ、個人所有でなくなったのはご存知でしょうが。)

読み返してみると殆ど徒然な内容ですいません・・・(苦笑)
[52983] 2006年 8月 4日(金)00:23:32【1】矢作川太郎 さん
愛・知~なんて因果な字なんだろ~♪
[52971]雪の字さん
暖かいお声有り難うございます。

でも、一方で「愛知=名古屋」でも仕方ないかなとも思っています。歴史的にみて愛知郡≒名古屋市に限りなく近づいています。しかし、その動きは現在では休止状態にあります。(現在、旧:愛知郡の範囲から現:名古屋市を取り除くと東部3市2町に分散している。東海市になった所もあるが。)でも、この状態が将来に渡って維持されるとは限らないのでいつまで続くやらと付け加えた次第です。

愛知こぼれ話・・・
そう言えば高校時代に、某大学の学内開放(←今は横文字が主流ですが。)に行った事がありました。その大学には入りませんでしたが、興味深いことがありました。それは、キャッチフレーズ(ひょっとしたら大学の名前の由来そのもの)が「知を愛する者が集う$$$$$$大学(←名前に愛知が入ります)」と言うモノだった事です。私は愛知の字面に引っ張られた「知を愛する者が集う愛知県」と言うとても良くできた冗談を追認した様で正直な事を言うと良くできてるけど良くできてないと思いました。加えてこれ程、字面が地名離れしている県名も珍しいと思いました。(あくまで字面がphilosophyなのか?)個人的には阿由知県の方が地名・地名しているかなと・・・あぁ滋賀県愛知(えち)郡が憎い!読みが違うだけで知を愛する云々言われなくて!(読みも違って元々の意味まで違う・・・ただ、当てられた字が同じだけ・・・(苦笑))

まあ、結局の所
「愛知(郡)であって名古屋(市)でない」果ては「愛知県であって名古屋市でない」
と言う地域が独自性を打ち出すには名古屋と言う名称を超えるための特段の努力が必要でしょうね。頑張ってもらいたい所ですが。

【1】色々修正
[52974] 2006年 8月 3日(木)22:40:46矢作川太郎 さん
三大都市圏ってTOKYO-OSAKA-あとは・・・
[52966]U-4さん
かれこれ愛知県民歴十ん年の矢作です。(「ん」と言うのは数字を伏せた「ん」です。一般的な言い方なのかな?)

たまたま行政区画は名古屋市には入っていないものの、名古屋城下とその周辺地域を総称して「名古屋」と認識しているんではないか、というような気もします。
確かに名古屋市では無く漠然と「名古屋」とすればその範囲は人によって如何様にも変わってきます。例えば私の場合、明治期に設置された名古屋区の範囲が「名古屋」だと感じます。(中区全域と東区の一部)ですが、東海地方の名古屋寄りでは、ごく一般的には幕政期の尾張藩の範囲である尾張一円だとされる事が多いと思います。また、東海地方から離れるに従って「愛知県一円と岐阜・桑名」・「東海三県と遠州地方」・「東海北陸7県(これは海外からでしょうか?)」までと幾らでも拡張は可能でしょう。(この認識には誤用と言う概念を差し挟む術は無い様に思います。)

あと、
さらにもう少し広域のイメージで使う地名は「尾張」ですね。これはキチンと線引きができる言い方です。それ以上の広域を示す言い方はあまりなくて、私の周辺では「愛知」という言い方は、「自治体」もしくは「県という行政区域」を明示するときぐらいしか使われていないんですね。「三河」とは違うという意識が強いのかもしれません。
についても、「尾張国」の独立性に着目して述べたいと思います。前述の尾張藩の範囲であると同時に現在に至っても市町村内に境界が埋もれる事無く維持されているのは特筆すべき事です。(←河川の流路変遷による海西郡・中島郡・羽栗郡の移管を除く)たとえば、因幡国や伊賀国などは地形的条件によって周りから遮断されています。しかしながら、特に三河国との境は「境川」と言う小川によって遮られているだけ(北部は地形的条件が関わる。)です。(最も、遠江国と駿河国の境であった大井川に比べて小さいと言う訳で・・・でも大井川ですら市町村内に埋もれていっている訳で・・・)まあ、一時期東郷町と三好町の合併話があったと言う様な事も聞きましたが、三河国が小藩林立状態だった過去を差し引いても、ここまで同県内に於いて境が明確かつ越えがたくは無いのは全国的に見ても希有な事例だと思います。(でも、知多半島が三河と一緒に扱われた時期も有りましたが。)

加えて、
府県名=県庁所在地市名であれば、大阪市ではなくても「大阪」、広島市でなくても「広島」というのが一般的でしょう(府県名と認識して使っているかどうかはわかりませんが)。しかし、江別市や北広島市の住民が「札幌」、綾瀬市や大和市の人が「横浜」というような使いかたをしているでしょうか。どうも「名古屋」というのは、「札幌」や「横浜」とは違うと思われてなりません。
と言うのもとても興味深いです。どうやら「愛知県」の影が薄いのにはとても複雑な事情が有りそうです。他の三大都市圏を例に挙げれば東京・大阪とも府県名=県庁所在地市名に厳密では無いにせよ大方当てはまります。それに周辺県の県庁所在都市を一つないし複数個都市圏に取り込んでいます。しかし、名古屋は隣県に影響を及ぼすも県庁所在都市を取り込むには至っていません。(県内で影響力がほぼ完結している。)もう一つの条件に府県名≠県庁所在地市名が挙げられます。U-4さんは札幌と横浜を例に挙げられていますのでそれに従いたいと思います。札幌の場合、道庁所在地と道名が不一致ですが、道名の知名度は絶大です。江別や北広島の人は札幌の名を出す以前に「北海道」を出せば内地?に来ていた場合は済ます事が出来ると思います。(道内の人に対しては札幌を出す。)横浜の場合ブランドイメージがまず先行します。札幌同様、県庁所在地と県名が不一致です。しかし、都市圏としては東京の名前に集約されてしまい東京都横浜市の様なイメージとなり「神奈川」の名前がぼやけたとも言えます。(千葉・以前の浦和も同様。)また、綾瀬や大和の人は東京と言ったあと横浜の近くと付け加えるだけで、神奈川を出す必然性が余り見えないのも有るかも知れません。(バックボーンとなる都名(首都名)を出すだけで良い。)一方、名古屋の場合はどちらにも当てはまりません。まず、県名は余り有名では有りません。加えて、何処かに付属している訳では無く他の都市名に付託する必要も有りません。そして、県内で影響力がほぼ完結となれば「愛知=名古屋」だと言う認識になっても仕方が有りません。

とまあ、ダラダラ書き綴ってみましたが最後までお読みいただき光栄です。

最後?
「瑞穂都市圏」なんていうのはどうも「西多摩郡瑞穂町」のことのようだし、「読谷都市圏」というものまであるし・・・
と言うのは、米兵の勤務実態まで反映されているのかな、と言うのが私の見解です。(基地近くに住み、基地などで演習。)あと、有り得ない事ですが、基地で働いている人の影響かなとも考えます。(ある程度の人数であれば周辺都市圏から独立して計算される・・・)どうなんでしょう?
[52955] 2006年 8月 3日(木)03:29:21【1】矢作川太郎 さん
豊田のTOYOTA?日立のHITACHI?そして豊田市の情け・・・
[52948]BEANさん
興味深い話題ですよね。確かに
豊田が名古屋と呼ばれるとすれば、
と言う話は地元にいても良く聞く事ができます。

では、ナゼこの様に言われるのかを推察してみます。私としては「会社名と本社所在自治体名←(ココが肝心!)の一致」では無いかと思います。そう言えば会社名が自治体名に転用された例として良く引き合いに出される自治体に「日立市」があります。実際は全くの逆で自治体名または鉱山名(厳密には地名では無い)から企業名に転じたモノです。(日立村=明治の大合併時に多賀郡-宮田村・滑川村の合併により成立。因みに日立の本社は東京都内らしい。)そう言えば、地元の新聞に日立市が豊田市とは由来が違うことがそれなりに書かれていて少し感心した事が有ります。まあ、それは置いておいて、本題に入ろうと思います。

ズバリ「豊田(市)のトヨタ」と聞いて耳に残るかと言うと私は疑問に思います。ですから、近くの大都市の名前を”代表して”「名古屋(経済圏?)のトヨタ」と呼ばれて居るのだと確信します。まあ、豊田市が挙母と言う地名から解放されると同時に「豊田」と言う自治体名から著しく地名特定性が損なわれた結果所在地として「名古屋」を代表とせざる負えなくなったのだと推測します。

あと、補足として「豊田市に残る挙母(衣)」をご紹介したいと思います。例えば市章などはその代表でしょう。改称前の昭和26年11月に制定されたもので、余り知られてはいません。(個人的にはどうせ変わるんだったらトヨタマークに変更してしまえ、なんて思ったりしましたが、特定の企業のマークは制定しにくい(出来ない)ですからね。)あと市内中心部には「挙母町」が存在します。挙母神社を中心とした一帯なので残ったのかも知れません。(因みにTOYOTA本社所在地は言わずと知れた「トヨタ町」です。)

加えて、
名古屋から遠く離れた地域の人たちに名古屋周辺の詳しい地理的知識を求めるのは酷でしょう。
も良く頷けます。例えばこんな資料があったりします。(中程の都市圏を構成する市町村一覧と言うアドビファイル)私は一時期コレを見て色々データをいじって楽しんでいました。(ある意味恐ろしい資料ですけどね。)コレに依ると名古屋都市圏は南知多町を除く尾張地域と岐阜県東濃の一部と三重県北部の一部となっています。まあ、都市圏として独立していないと単独の都市という認識と一定の知名度は得られにくいでしょうね。だから、
大府とか春日井とか稲沢とか言っても通じないので、あえて「名古屋から来た」と言うこともあるはずです。詳しく説明しようとしても「名古屋の近くの西春」のように、やはり名古屋が出て来ることになると思います。
と言う事態が発生するのでしょうね。

(因みに前の愛知万博が「トヨタ万博」だの「名古屋万博」と揶揄なのかどうか分からない呼び方をされた事もありましたっけ。←私は別に仕方がないと思っていますが。あと、私は県外に出れば「岡崎」または「愛知県」から来たとしか言いません。「間違っても名古屋なんておこがましい・・・」と家族共々思っていますから。実を言うと私は愛知郡にとても所縁のある人物ですが、これは名古屋出身と思われてしまうのでしょうか?私としては愛知郡出身の矜持?を大切にしたいと思っています。←あと何年続くやら・・・愛知郡2町がそれぞれ単独市制したとしてもか・・・)

【1】どうでも良いデータを追加
[52943] 2006年 8月 3日(木)00:14:13【1】矢作川太郎 さん
前言を撤回すべきか?せざるべきか?ココが思案の深渡し・・・
[52899]拙稿の発言を撤回しようかどうか迷っています・・・

[52930]huzisanさん
まあ、辞書の項目に無いと言うのは甚だ明快でありますが・・・
これはひどい、広辞苑ともあろうものが、こんなだらしないことでいいのだろうかと思いました。
辞書の立項のされ方一つをとって「だらしない」の一言で全てを片付けられては立つ瀬が有りません。それは編集当時の編者の意向によって幾らでも変わって来るモノです。

まあ、大和盆地は少なくとも誤用では無いと思う一人の人物がココに居る事が分かって頂ければ幸いです。

【1】最後の文を少し修正
[52899] 2006年 8月 1日(火)18:23:46【1】矢作川太郎 さん
乱れか?変化か?
[52894]huzisanさん

分かりました。これからはあなたのお考えである「大和盆地は誤用」と言うものを前提にした上でお話ししたいと思います。(私としてはこれを全面的に認めた訳ではありません。しかし、そちらには「大和盆地は誤用」とする確固たる証拠がお有りなのでしょうね。これが、どの様な物なのか推量する術は有りませんが、信用の置ける物としてあなたが論拠としているので、その辺りに関しては私も尊重してゆきたいと思います。)私としては大和国の範囲と奈良県の範囲が完全に一致しているので話がややこしくなったのだと考えます。話をこちらの地元である愛知県に移してみましょう。

そう言えばあなたは、
共時的には言葉(地名も当然言葉)は一つ
と仰っていましたね。私はそれを一つの原則でしかないと考えます。例えば、私の住んでいる所の住所を「三河国岡崎市~」と書き始めればそれは正式・公式ではありませんよね。ですから、「愛知県岡崎市~」と書き始める訳です。それは、三河国と岡崎市が同時に存在していない事を根拠とする訳です。ですが、あくまで住所表記などの正式・公式である必要がある場合に限られます。例えば、「岡崎平野」と言う平野があります。では、岡崎平野の範囲を正式に書き表してみろと言われれば、根拠となる資料は何処にも存在しません。つまり、住所と地形名の間には大きな違いが横たわっています。

加えて、愛知県東部を三河と呼ぶのは地元ではごく一般的な事となっています。三河国と言う律令制の統治区域が無実となった現在なぜ「三河」と言う呼称を用いる必要があるのでしょうか。答えは私にはよく分かりません。ただ、他に言い換えようが無いのも事実です。

並びに誤記が正式・公式な表記(言うなれば言葉の書き表し方)に転じた例を挙げておきます。(それに従って音も変わっていますが。)愛知県内に宝飯(ほい)郡と言う郡が有ります。しかし、元々は宝飫(ほお)郡でした。そして、二字化の前は「穂」だったと言う説もあります。音に着目すれば「ほ→ほお→ほい」と移り変わった訳です。ここで皆さんに質問したいのは「宝飯」は誤用であって「宝飫」または「穂」にすぐに戻せと言えるかと言うことです。仮に宝飯が全くの誤りであっても「宝飯」はすっかり定着しています。皆さんどの様にお考えでしょうか?

私は言葉の乱れと変化に関してある線引きをしています。それは、後世に残るか否かです。従来の言葉の枠組みから外れた言葉であっても後世に残ればそれは変化と言えるでしょう。反対に後世に残らなければそれは乱れとする事も可能でしょう。ただそれは、後々にならなければ分からないのが間怠っこしい所だと思いますが。(もしかしたら、この原則が破られる様な事が起こっているのかも知れませんが。)

【1】表現を少し修正
[52817] 2006年 7月 31日(月)02:50:16矢作川太郎 さん
奈良=大和?盆地≠平野?
[52723]EMMさんの書き込みがあったのに今気付きましたが・・・(汗)
私にはよく分からない分野なので差し出がましいと思いますが一応・・・

グーグルでの検索結果(含、第一用語・第二用語が離れてしまっているページ 例 奈良駅が~・・・~平野の形状・・・)
独り言・・・検索結果の件数で一般論を推量できるか大いに疑問ですが・・・
奈良盆地:約 69,000 件
大和盆地:約 18,800 件
奈良平野:約 338,000 件
大和平野:約 25,000 件
となっていますね。一般の認識としては、
奈良平野>奈良盆地>大和平野>大和盆地
で、大和よりも奈良、盆地よりも平野が多く用いられている「よう」です。
私としてはココ(奈良県北部のすり鉢状?の地形)の呼び名は奈良盆地が妥当なように思えます。しかし、(生駒山地と金剛山地・笠置山地のそれぞれの間が大和川と木津川によってヘコんで見えて二ヶ所が切れたすり鉢に見えるので、)大阪平野の延長として奈良平野も有りかなと思います。あと、現在では大和国・奈良県は用語として取り替えがほぼ可能であるように思えますが、奈良時代の間は芳野監が吉野郡に設置されていた時期もあります。(個人的に吉野郡は奈良県とは別の所の様に思えますが。)ですから、大和国+芳野監=奈良県と言えますので奈良市を中心とした一定の地域が一般的に大和と認識されても無理は有りません。(以前、奈良と言う余り広がりを持たない地名には盆地が付され、大和と言う広がりを持つ地名には平野が付されると一瞬思った事がありました。それじゃあ、例えば甲府盆地は甲斐平野と呼ばれるかと言ったら違いますね。(笑)甲府平野はあるのですが・・・)結論から言えば奈良盆地は(交通の便から言って)余り閉鎖性が無く、大阪平野と連続した地形と見なされ平野と言う用語が多用されるようになったのでしょう。(あと、大和と言う語は日本国全域の呼び名になっているので、他の旧国名と比べて特定性が薄まったとも取れます。)多分捉え方の違いでしか無いと思いますけど・・・

[52794]huzisanさん
確かに私の前の記事は拙速で独りよがりな書き込みだった感がありますね。(この点は謝りたいと思います。)ただ、私には奈良盆地の別名として大和平野が地元では良く知られていると言うニュアンスよりも、大和盆地と言う用語をバッサリと切り捨てているニュアンスの方が多分に感じられて少し気になったものです。確かに大和盆地は余り使われていない用語ですが、それは誤用とする根拠には少し弱い気がします。派生語と言うものは数限りなくありますし。例えばもう一つ用語である「奈良平野」は誤用なのでしょうか?あと主観論に付いてですが、主観論は必要なのは私も認めます。ですが、それが余りに「コレコレは誤用である。」と言うニュアンスが先行してしまうと(特に理由が「明示」されていない場合)どうしても他者の理解は得られにくいと考えます。どちらかと言うと、「より多くの資料を参照した上で(特定の場所・時代に於いて)コレコレは余り使われていない。(用例が少ない・一般的でない)」と言う方が説得力があると思います。あと、或る特定の時期に限ったとしても用語の統一と言うのはとても難しい事だと考えます。学術書に於いて用語に対しての見解の不一致がある事が気になるとの事ですが、公共性のあるこの落書き帳ですら見解が分かれているモノを敢えて統一した所で、例外が多く発生するのは明らかです。学術書に出ていても市井に出てみれば全く使われていなかったなんて事も有ったりします。まして、比較的広範に用いられた用語を封じるのも得策では無いように思えます。どうしても文書内で統一したいならば、用語が多くある中で自分(若しくは他の誰か)の考えに基づいてコレコレの用語だけを統一して使う旨を明記した方が良いかも知れませんね。

(あくまで主観的に考える方法はいけないと言っている訳では有りません。ただ、あなたの用いた方法が用語のブレ(多様さ)の一部分を容認せず、何が何でも「大和盆地」と言う用語を「誤用」の一言で一掃しようとしているための方法である様に思われたからです。何が間違って伝わっていて、何が自然に変化したかは時を経るほど曖昧になっていきます。今後同様の事例に私も出くわすかも知れません。その時に「私はこれを誤用だと思うので。」と言う理由であっさり捨ててしまえばその場は良いかも知れませんが、後にその判断自体が(一般的見地から見ても)誤りだと言われたらそれまでです。多くの可能性から検討するのが「妥当」ではないでしょうか?)

意図する所のすれ違いがあれば、これも謝ります。

#この書き込みに関してもあくまで私の認識であってそれ以外の何物でも有りません。
読み返してみたら全く返答の丈に合わないことが分かってしまいました・・・自分の脳力の限界を感じます・・・
[52731] 2006年 7月 28日(金)19:37:04【1】矢作川太郎 さん
「正しい」地名は無い?「妥当な・一般的な」地名は有る?
[52729]般若堂そんぴんさん

地名の「誤用」?

私もこの事は前々から気になっていました。まず、前提として地名を「正当」或いは「不当」とするのは主観的な見方でしか無いと言うことです。つまり、これこれの地名は間違って使用されている云々と言うのは主観の認識に於ける体現でしか有りません。まあ、元々地名を付けだしたのは「主観」を有するある人物であって、元々その土地に存在した訳でも、客観的に付けられた訳でも無いと言うのが「事実」で有るのでしょう。

昨今の「新・自治体名騒ぎ」でも言えることですが、インターネットなどを用いて分かるのは、あくまで「妥当な・一般的な」地名及び地名の認識でしかありません。(ですから、多くの場合別表記が併記されているのでしょう。)どこかのページに「この地名」が正しく、「あの地名」は間違っていると書いてある訳ではないでしょうし、また一人の人物が初めて従来の地名とは違う書き方・読み方をしてそれが後世には「妥当な・一般的な」地名と認識されないとも限りません。誰かが「その地名」が間違っていると言うのであればそれは「妥当な・一般的な」地名と言う枠組みから外れた珍奇なモノであると言うだけで正当・不当と言うのは当たらないと思います。

あと、文学的に云々と言うのはどうかと思います。そもそも、文学と言うのは○・×で判断及び評価する性格の学問では無いと言うのが私の認識です。(その点で私は救われたと思う場面が多いのでありますが。)ただ、地元民の立場から言ってその表記は一般的では無いと言ってもらえればそれで良いのではないでしょうか?風情的にどうこうと言うのも主観的に思えます。

#この書き込みはあくまで私の認識であってそれ以外の何物でも有りません。

【1】熟語のニュアンスを若干緩和
[52463] 2006年 7月 20日(木)00:15:59矢作川太郎 さん
メンバー紹介文・修正御礼
[52412]まがみさん
どうもです。

こうなってしまうとどうもいちいち注釈を入れないと気が済まない訳で・・・

・・・この注釈文を読まずに落書き帳に参入してくるであろうメンバーの方々には申し訳ありませんが。(お断り・メンバー紹介文執筆員のお二人?へ これ以上の修正は無用です。私の修正案が解りにくかったのがいけないんです。(汗))

さて、件の[52360]についてひとつ(驚きの修正案はこのまま晒しておきます♪・・・)

まあ、つまり条件とタイミングが合えば屋内(一つ屋根の下)で蛞蝓氏と御対面が出来るほど長閑な所に居住していると言うことで・・・あれっきり探してみても蛞蝓氏と御対面は出来てません。(くれぐれも飼っている訳ではぁ・・・無様なので止めて置きます。(苦笑))

おまけ・蛞蝓氏は死ぬ前であれば水をかけてやると復活しますが、私、矢作は忙殺されている最中であっても皆さんの記事を読むことによって復活します。(良い締め方の様で何か不自然かも~・・・キャラが壊れるので止めます。)

今度こそは「地理」ネタに反応したいモノです。
[52360] 2006年 7月 17日(月)21:10:01【1】矢作川太郎 さん
資料蒐集は地理人(チリ人?)の浪漫~♪(激謎)
風呂場で岐阜県!?の形の水滴を見つけて感心している矢作です。(笑)

[52305]88さん

#余談ですが、[51966]矢作川太郎 さん に刺激を受けて、私も、頭書の図書とあわせて「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」(東洋書林)の1、2、別巻を注文しました(在庫があると信じて・・)。これも図書館では何度見ていたのですが、やはり「コレクション」しておきたい、と。これらは、「市町村合併情報」の、明治の大合併などの基礎資料になる予定です。

えっ!!あれ(幕末以降市町村名変遷系統図総覧)を買われるんですか?流石ですね~。私は、高校時代帰りに高校の地元の市立図書館で読み耽って居りました。その後、バイトもせずひたすら、小遣いを貯めて(他でお金を貰えるチャンスも併せて。)漸く買った一品です。また、それと同時期にもう一冊(市町村名変遷辞典・三訂版)も買っていました。(コチラも古本ですが。)まあ、(全国市町村名変遷総覧)じゃ物足りないと言うのが正直な所でしょうか。あと、資料数が多い方が間違いを極力少なくする事が出来ると言うのが最大の利点でしょうか。でもあれ(幕末以降市町村名変遷系統図総覧)は私が目的としている、プレ明治の大合併の全容解明には少し足りない気もしますが。(ココまで来たら流石に・・・以下自主規制)

以下、余り読まれたくない独り言・・・

私にとって以上三点の資料は無くてはならない物です。が、誤字や表記のブレがやはり普遍的に存在するのも事実です。ですから、私は角川の地名辞典も併せて読みたいと思っているのですが。(各巻で編集方針がバラバラと言うのも聞いた事があるが・・・ あと、決して全巻買おうとして居る訳では・・・ でも、別巻2冊も読み応えが有るし・・・以下エンドレスにつき略)

あと、太白さんでしょうか?まがみさんでしょうか?いずれにしても私には身に余る紹介文有り難うございました。(どちらの御方がお書きになったか解らない様になっているのは何か事情が有るのでしょうか?それとも共同でお書きになっているのでしょうか?<グリグリさん、お忙しい中済みません。)あと、
一説によると自宅風呂場で蛞蝓を飼っているらしい(激嘘)。
は違います。(笑)私は蛞蝓さんには餌はやって居ませんので。(自宅で蛞蝓氏と共同生活、同居中、ルームシェアリング、同棲中!!のいずれかに変えてもらえれば幸いです。面白味が半減する提案ですねぇ~。でも(激嘘)は外せますよ。)

【1】最初のどうでも良い一文と、メンバー紹介文関係の書き込みを追加。
[52358] 2006年 7月 17日(月)20:16:05矢作川太郎 さん
補足レス-都市部の従来地名(どちらかと言うと歴史的地名では無く。)
丸一日自分なりに考えてみましたが難しい問題です。

[52289]inakanomozartさん
一般的に、人為的な区画により構築されている旧城下の町名まで地形にしたがわなければならないということは理解できません。

「地形」と言うのは少し限定的な言い方になってしまいましたね。どちらかと言うと「地理的条件」と言った方が良いかも知れませんね。(道路などの交通状況、家屋などの住宅状況、要は土地の利用形態全般を加えても良いかも知れません。)

また、町名は、近所づきあいのためにだけあるのではなく、どちらかと言えばそこに住んでいる人より他の地域に住んでいる人のためにあるとも言えると思われます。
「名古屋市中区栄○丁目○番」と聞いて即座にその場所が分る人はいないと思われます。
また、タクシーに乗って同様に告げ、何も見ずにそこまで連れて行ってくれる運転手はいないと思われます。
これが、道路沿いに付けられた町名を変更してしまった、ブロック式町名の実態でしょう。

外から来た人の為だけに住所を変更する訳にもいきませんからねぇ。そう言えば、郵便物などの宛名を書く時、住所から地域色が透けて見える事があるのも事実ですけど。市内の町それぞれのコミュニティーの再建と併せて考える必要もあると思います。あと地域共同体の在り方の変化にも関係して来るのでは無いでしょうか。それに、各町名の地元及び他からの来名者の認識は町によってまちまちです。(例えば、栄と錦の間に消えた伏見町は伏見通や伏見駅にその名を留めています。繊維製品の問屋街の長者町なども比較的知られています。でも、通称名に残らなかった物が在るのも事実です。)

かえって分りにくい住居表示町名がどうして実用的なのでしょうか。
実用的とは、行政当局にとって管理しやすいということなのでしょうか?
また、旧町名をかび臭い博物館の展示物のような扱いにすることに価値があるとは思われません。

確かに当時の価値観では込み入った町名が煩わしく感じられたのでしょう。しかし、一度廃止されて歴史的な町名だと認識した所でそれを(復活)させる事で都市の文化的水準を上げた様に見せるのは余り意味のある事だとは思えません。(復活させたくても種々の事情があり出来ない所もあるので。)第一、歴史的と言った時点で既に実効性が失われコミュニティーの枠組みから外れ、通称名としても現存していない町名は逆に混乱を招く可能性も否定出来ません。(ですから、私は実効性「僅かでも認識している人がいる事」が継続的にあった町名を従来地名と呼んでいます。全く知られて居ないのに復活させられて有名無実になる方がかび臭い博物館の展示物のような扱いになるよりも酷だと思いますが。)因みに、東区の久屋町、武平町、西新町、東新町は離れ小島の様に成りながらもブロック街区の狭間に息づいています。

最後にinakanomozartさんへ
私の読みにくい稚拙な文章では何の答えにもなって居ませんよね。謝ります。
[52281] 2006年 7月 16日(日)16:46:44矢作川太郎 さん
当たり前過ぎて鈍感になっているのさ~♪(謎)
十番勝負明けまで潜って居ようと思っていましたが突っつかれてしまいましたね。

どうやらわが市では当たり前に元の地名が残っているので鈍感になっていた様です。

[52273]般若堂そんぴんさん
旧町名復活の動きは必ずしも「情緒本位」のものだけとは限らないのではないでしょうか.「中央~丁目」などは,その無個性ぶりゆえに識別性において劣ると感じられます.そのような傾向の「新町名」に対して旧町名復活の動きがおこる場合もあるのではないかと思います
確かにその嫌いは否めませんね。往年の地名変工(変更よりニュアンスが強すぎるか。)によって地名の持つ「特定性或いは識別性」が著しく阻害されたのもまた事実です。(米沢市の現状を見てみましたが、大規模に住所が変えられて居ますしね。ex.中央、駅前等)いずれにしろ、
歴史的地名(これも歴史の「どの時点」のものをスタンダードとするか,悩ましいものがありますが)保存と新地名創造との間の妥協点を見いだすのはなかなか難しいものがありますね(この場合の妥協とは,双方の立場からの十分な論議を前提としたものであり,安易なもので在って欲しくないのは勿論です).
古い物が良い、新しい物は悪い-新しい物が良い、古い物は悪い
と言う二元論に為らぬ様心掛けたいですね。
[52198] 2006年 7月 16日(日)07:53:10矢作川太郎 さん
うちの住宅団地は丁目は有るが小字は無い-そして
[52170]くるりさん
「小字は不要」という人で、また「小字=田舎」というイメージが非常に強いです。

確かにそう言う人は多くて、私もその一人になりかけてたクチです。
しかし、岡崎市の中心部と住宅密集地である明大寺町と美合町では普通に小字を日常的に使っています。駅裏の住宅街や図書館の住所にすら小字が書いてあります。これは、只単に岡崎が田舎だと言う事なんでしょうか?(確かに少し山がちな所に小字が残ってはいるが・・・)ある所にはある、ない所にはないのでは無いでしょうか?

あと、グリグリさん各位へ
テストの都合で今回の十番勝負は岡目八目になりそうです。皆様の奮戦ご期待申し上げております。
[52195] 2006年 7月 16日(日)07:29:38矢作川太郎 さん
まだまだ書かねば!!-大字と取り留めの無い話
[51988]千本桜さん
レスどうもです。

一時期(昭和39年~昭和53年まで)は大字を編成していたようです。

そんな事もあるんですねぇ。やはり、一筋縄では行きません。そんな感じで一度住所に出てきたもののまた消えてしまった大字も無いわけではないんですね。興味深いです。

そう言えば、
[51948]EMMさん

大字小字の話は落書き帳上では鬼門のようなものではありますが

と仰っていましたが、元ネタ(爆)を探してみると

[51928]拙稿の

人口ハイアンドローゲームの鬼門と成り得る人口帯かも知れません。

なのかなぁと自信がありませんでしたが、以前に

[47769]グリグリさん

私には「字」は鬼門です。

とグリグリさん自身が仰っていましたね。また発見です。(読んだんだけど記憶から外へ・・・)

あと関係ありませんが、
[51996]右左府さん
実質的にはそれ以前から使用されていた、というケースが幾つかあってちょっと厄介です。
に関して、平成の大合併以前の話ですが、合併や単独で市制した市の市章は市制前の旧町の町章を再利用したものが幾つかありました。(悪く言えば使い回しですけど・・・)あと歴史に関して各地の市域の変遷を見ていると時代が下るほど大きい町村を編入する様です。気になったのが編入時の町村名しか書いてない事です。幾つかが合併した町と単独でいた村が同じように書かれているのも不自然だと思います。それに、編入前のその町村の歴史も充実させてもらいたいですね。

次。
[51881]拙稿
に書いてある都市現象は今話題の(笑)アンパン化現象そのものじゃないですか!!思いっきり面食らいました。

あと、
[52125]むっくんさん
ネタにまじレスしてしまったのか?^^;
誠意があって別に格好悪くは無いと思いますがねぇ。私は。(爆)
[52193] 2006年 7月 16日(日)06:48:37矢作川太郎 さん
あと1時間だ!!駆け込みレス-地名変更について
[19948]般若堂そんぴんさん
[49295]YSKさん

仙台市の地名変更について思う所があったので一つ。正直諸手を挙げて喜べません。なぜなら私の持論に(地名は地形に従う。)と言うモノがあります。だから、これに反したやりかたには賛成出来ません。例えば宅地開発の終了した後の区画がその新しく開発された道路に従って引き直されるのは仕方ないと思います。(区画整理前の森林の区画に従った住所の書き方をいつまでもするわけにはいきませんからね。)市街地に於いても同じ事が言えます。県内の名古屋市では戦後大規模な区画整理が有りました。しかし、その要因に大規模な都市計画道路の開通があると思います。例えば旧来日本の都市部では背割り(棟割り)の区画が主流で、道割りの概念は少なかったと思います。それが、路地等が拡幅され自動車の通行量が増大すれば、自然に向かいの家との交流は少なくなります。(向こう三軒両隣と言う言葉が有ったが今風に言えば、後ろ三軒両隣になるのだろうか?)この様な状態は仙台市でも存在するでしょう。なのに、敢えて昔の路地的繋がりの区画を現在の住所に反映させる事自体、相当の無理が有る様に思えます。それよりも実用と情緒を割り切った

[6682]般若堂そんぴんさん
住居表示とは別に旧町名を「通り名」を設定し,表示板を各町内に取り付けてあります.

の様な施策に方向転換出来ない物でしょうか。どうやら、仙台市の方にもそれに類する事業が行われている様ですが、若干の不備があるのも事実みたいです。金沢市では無理なく行われた様ですが、やはり、旧町名は私としては記録するべき対象であり、なおかつ、歴史的な価値が有るからこそ守っていくべきだと考えます。(現状で残っている所については。)しかしながら、一度、実用本位の住所に切り替えられた所が、いきなり情緒本位に傾くのはやはり無理の有る事です。現状に無くても記録の中で生きていればそれでいいのでは無いかと言うのが私の見解です。
[52192] 2006年 7月 16日(日)05:59:40矢作川太郎 さん
亀レスな上に(まとまっていない)まとめレス-新たな大字論
[52091]スナフキんさん
[52093]稲生さん
ワタクシをお忘れでは無いでしょうか?(笑)
どうやら百貨店の話題を挟んで完全に浦島(太郎)になってしまったようで・・・(でも4M1Tの話しか提供出来ないので勘弁!←4M1Tって御存知です?)

まず、
[51979]でるでるさん
[51981]EMMさん
[51983]でるでるさん
反応どうもです。そう言えば私が阿波市の住所変更について知ったのはウェブニュースの記事からでした。引用は出来ませんが、例として市場支所の住所が「阿波市上野段385番地1」と言うモノから「阿波市市場町市場字上野段385番地1」へ変わるとありました。私は最初これを見たとき不自然だなと思いました。変更後に「市場」が連続するのは仕方ないとしても、変更前の「上野段」は大字では無さそうなのに「阿波市」の直後に置かれている事でした。次に変更後には「市場字上野段」と書かれているので合併時にワザワザ大字を外したのだと確信しました。その後[51934]拙稿の後半の例示に引用した訳です。私の記事を受けてでるでるさんやEMMさんが調査を行われたのですが、合併時とこの件の住所表記の変更に関する、確証的な議会での取り決めやその理由までははっきりとしなかった様です。(でるでるさん、EMMさんありがとうございました。)

この(新市名+[旧町・村名+大字]~)と言うフォーマットへの変更に関連して、
[48798]hmtさんの
「住所を分かり易く表示するためのラベル付け」
と言うのを思い出しました。
そこで私は旧町内の自治区や特例区と言う事を抜きにして、この住所表記の機能は「激変緩和」では無いのかと言う結論に立ち至りました。例えば一宮市木曽川町~と言う住所が有ります。
この中で例えば木曽川庁舎は「一宮市木曽川町内割田一の通り27」となります。
それが旧木曽川町役場時代は「葉栗郡木曽川町大字内割田一の通り27」でした。
(但し尾西市域では「尾西(町)~」にはなっていませんが。)
そこで、私はこれは新たな大字では無いのかと考えました。本来大字は明治の大合併期にその起源を求められるモノで、大合併以前の村名及び村域の固定に一役買っていました。翻って、現在に於いては合併前の旧自治体名を新たな階層を作成せず、大字の水準の地名の文字数を増やす事によって保存しようとしたのでは無いでしょうか。住民感情への配慮の点からも文句の無い対応だと思います。(郵便の便から言えば郵便番号の各種変更でどうにかなるでしょう。ただ、新市名の下に「大字名+町」が来るのは住民からして暫くは違和感があるモノだと思われます。)木曽川町大字内割田の例で言えば、一宮市内割田町と言うのは今までの住所と余りにかけ離れた表示に見えます。緩やかに一宮市木曽川町内割田とする方が自然だと思います。

[52043][52075]88さん
この点では私と見解を異にしていますね。
私としては一度自治体名になったモノは歴史が浅かろう深かろうが実効性を持っていたモノはある程度尊重されるべきだと考えます。(だからこそ、自治体名命名には慎重にならなければいけません。あと、旧町名の下の大字が完全に過不足無く保存されている事が前提です。)例として新城市を挙げます。この市はここ2・3年の間に鳳来町と作手村と言う2町村と合併しました。その結果作手村の区域は「新城市作手~」になりました。ですが、鳳来町の区域は「新城市(大字)」になってしまいました。そこで町名の住所復帰を求める運動が一時期ありました。(敢えて地名復活とは書かない。)ここで両町村の名前の由来を見てみましょう。作手は作手村域の通称名に由来します。次に、鳳来町は(寺院名→山岳名→自治体名「鳳来寺村→鳳来町」)となります。ここで気になるのが、鳳来町域には鳳来寺村以前に(鳳来)を名乗った村は一つも無い事です。この一件に関して、或る新聞の投書欄に旧町名(鳳来町)の住所復帰を支持する内容の投書が掲載されました。しかし、その投稿者の認識に私は首を傾げました。その人の言うには、明治の大合併期に定められた旧村名が元の「地名」で大字になって村名の下に潜っていた【地名】は新たに付与された町名だと誤解している点にでした。やはり、明治の大合併が日本人の「地名認識」に与えた影響は多大だったと痛感した瞬間でもありました。

そう言えば良く地名と自治体名を混同した記述が市町村合併の新自治体名公募に対する意見に含まれています。また新自治体名は記号であるから決定した自治体名でも良いとの意見も見受けられます。私は新自治体名は記号であっても、地名までは記号とは認識出来ません。
その上で、多くの人に地名≠自治体名であると解ってもらえれば私からは何も言うことはありません。(まあ大半の自治体名は地名に由来していますが。ちなみに大字名=地名と言う訳でもありませんが。)
ですが、多くの人は地名=自治体名であると認識している様です。(私の居住する県の「あの新市名問題」もその認識の影響は否めません。例の新市名案は数々の前例をブチ抜いていますが。)
あと、住所地名を調べていて思うのは通称地名などの公的でない地名が目に見える所に書かれていないと言うジレンマが有る事ですかね。

#新城市(旧:鳳来町)の地名の中に連称地名の様な地名が有ります。(作手では無く。)これは、旧村名+藩政村名がそのまま地名になったのだと推測します。実は同じ現:新城市内に旧郡で別の郡にも同じ藩政村名が有りましたが冠称のお陰で新城市内に於いても識別出来ると言う面白い事例をご紹介して締めさせて頂きます。ヒント:この地名の場所は一種類しか年貢品を出さない田地の有った所です。
[52027] 2006年 7月 7日(金)00:02:03矢作川太郎 さん
そして遅すぎた御礼-字関連
[51973]EMMさん
貴重なお時間を使わせてしまいすみません。
なのに、3日もレスを空けてしまって(言い訳は言いません。(笑))

もしかして矢作川太郎さんはYahoo!地図orマピオンしかご覧になってないのでしょうか。
うっ、痛いところを衝かれましたね~。図星です・・・
でもこれで、小字化された大字や小字界に埋没した大字界が解るようになりますね。ところで都道府県公報の事にも触れて置きましょう。以前私は市町村以下の住所変更に関する資料の行方が分からず途方に暮れていました。第一、国が出している官報告示の資料は市町村の変更については分かるもののそれ以下については全く書かれていません。(所轄が違うのだから当然ですが。)そこで、[51631]の様な質問をした訳です。そこでそう言えばキチンとした御礼をまだ言っていないことに今更ながら気付いたのですが・・・EMMさん本当にありがとうございました!!(Its-mo GuideとMap Fanの件も併せて御礼申し上げます。)

あと、
小字全件を拾い出そうと言うことになるとネット上の地図サイトの住所一覧は必ずしも適切な資料とは言えないと思います。
ほかの手を考えなければならないでしょう。
についても考えていかなければいけませんね。(厳格に公図及び17条地図で調べる気は私には有りませんが。)一応、私は色々な地図サイトを行脚してみます。

そして、ご紹介の
過去ログ中の字名・町名に関する一般論的な話題は落書き帳アーカイブズ町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か?にまとめられています。
も、一度読んだような気がしますが、読み返してみますね。
[51966] 2006年 7月 3日(月)02:10:06矢作川太郎 さん
おやすみ前のもう1レス・・・
そうそう、これに触れ忘れていました!
[51948]EMMさん
それから長久手町や武豊町などの「大字無し」の部分は昭和の大合併によって話がややこしくなった事例だと思いますが、平成の大合併に於いてはまた異なる「字・大字・小字の関係の変化」の事例が見られます。
武豊町の事象はそれで正解なんですが(S29.10.5合併)、長久手町の場合は(M39.5.10合併)なので若干事情が異なります。(愛知県では明治の大合併期に人口基準が遵守されなかったらしく、少し経った時期に大量に合併しています。例:新潟県(東蒲原郡を除く)・岐阜県美濃地方・愛知県(北設楽郡を除く)など、愛知県では合併100周年として式典が各地で行われています。)あと、長久手町では「長湫」と字が異なりますので、(町村制施行時にナゼか字が変わった・・・)辛うじて「大字長湫」として命脈を保っています。(もし同じ字だったら大字無しになっていたかも!)

例として、実際の意図はともかくとして藩政村単位の字が小字になったように見える住所表記となってしまった沖縄県宮古島市、
については宮古島市に「仕事を増やしてくれて有り難う」と感謝状を贈りたいくらいです。(笑) (だってウェブ地図には小字の境界は例外(大字無し等)を除いて殆ど載っていないんだから・・・)あと藩政村単位の字と言うには少しニュアンスが異なるのでは無いでしょうか。薩摩藩に間接的な支配をされていたから藩政と言えなくもないですが、沖縄特有の字の出自からすれば琉球国政下の村名とも言えるのでは無いでしょうか。(琉球国政村?何か大袈裟な感じもしないでもない。郡(方)の出自がヤマト(本土)とは異なったり←豪族の縄張りに由来しているから本質的にはおなじか、間切と言う県に当たるモノについても触れたいがココでは割愛!)

どう考えても他のところなら小字になっているであろう細かーい区分が「大字無し」を経ずに大字となっている宮城県登米市の旧豊里町・旧南方町の部分を挙げておきます。
これについても反応します。手持ちの市町村名変遷系統図総覧・東洋書林刊(生徒?・学生の分際なのに大枚はたいて買った(泣)、但し古本だが・・・もはやビョーキかも?)を見ると、豊里町(豊里村)は赤生津・鴇波村の合併によって誕生しています。(S25年に町制・M7年~M11年までの一時期、潤沼村として一つになるも再分離。)どうやら一つの大字が大き過ぎると小字が住所の主体になる様です。南方町に関しては大字に当たる様なモノは無く、藩政村が単独で南方村になった様です。(複数の藩政村で構成されていなければ、大字は編成されないのだろうか?)しかし、旧:石越町は(千本桜さんか誰かが触れていましたが。)北郷・南郷・東郷が藩政村名で無いのだが、大字に位置付けられています。

と言うわけで、藩政村は大字とは必ずしも一致しない事が再確認できました。他にも、
・北海道では道南では村が小さく、道北では村が大きい事
・長野県・山梨県では明治の大合併期以前に殆ど村を整理してしまった事
・岐阜県の美濃地方と飛騨地方では対照的な合併が進んだ事
・愛知県では昭和の大合併が殆ど進まなかった事
・長崎県では十干字名や特殊な字名接尾語が多く有る事
などが浮かんできましたがそれぞれの話題が挙がるまで私からは触れないで置きましょう。
(寧ろ過去ログに既にある話題が殆どだと思う。)

最後に[51961]たもっちさんからレスが有りましたので、少し・・・私個人としては小字は(元のままで残っていれば)地域色の出やすいとても味わいのある「地名」だと思います。以前、私はウェブ地図の発行元に対して小字名は大字の下部地名だから市町村下の地名リストから「大字名(小字名)」を「大字名だけ」にして小字名を外すように要請しようとしました。(大字名を押すと小字と直付番地がダーッと出る)しかし、今にしてみれば恐ろしい考えです。自分が手間が掛かるからと言って小字名を隠すようにしてしまっては元も子も有りません。自分が苦労するだけで地名見聞を他の誰かがしてくれると思えば苦しいとも思わなくなりました。
締めに2つの市の対照的な地名リストをご覧に入れます。東海市碧南市です。どちらが好きかは各自のご判断にお任せします。
[51950] 2006年 7月 2日(日)18:01:18矢作川太郎 さん
(この話題に)関わったのが間違いだったのか?(爆)-まだまだ字名考
題名ではこんな事を言ってますが、自分自身の認識のワキの甘さが分かったので少し驚かされるとともに認識を更に深めたいと思いました。(どうしても自分の周りだけを参考に語ってしまう事が多いので。)まず、

[51948]EMMさん
地名コレクションで地形名も扱っていると「人間によってその場所の名として与えられたものは全て地名たりうるのでは」と思うようになったですが、まぁそれはそれとして。
に関して、私はどうも住所地名に関心が有る様です。例えば、自然地名や地形名が住所中に現れるのは、富士山頂簡易局の場所を特定するのに「静岡県富士宮市粟倉地先」と書くよりも「静岡県富士宮市(粟倉)富士山頂」と書いた方が所在地が特定しやすい場合などが有ります。一応参考ページ(こんな風に表記するんでしょうか?)

(蛇足ですが、富士山五合目簡易局の住所は山梨県南都留郡鳴沢村458字富士山8545-1となっていますが、この「富士山」は地形名でしょうか?それとも字が付いて居るので住所地名なんでしょうか?-住所としては鳴沢村(小字?)大田和となっていますが。)

ですが、大半の住所には自然地名や地形名が入ることは有りません。(自治体名に含まれる自然地名や地形名は除外して下さい。)住所地名が面的な広がりを持つのに対して、自然地名や地形名(川・山・谷・尾根・岬など、一部面的なモノもあるが。)はどちらかと言うと、線や点的な地名に思われます。この中で私の地名に対する興味の発祥点は「自治体を構成する区域の元の地名-元々そこは何町or村と呼ばれていたか?」と言う所に有りました。それが調べてゆく内に大半は「大字・町名=明治期のある時点の村名(例外アリ)」と言うことに気付きました。そして、住所地名が全てで自然地名や地形名はその上に載っかっているに過ぎないと言うかなり偏った認識になったのかも知れませんね。あくまでも捉え方の違いでしか無く地名と言うジャンルには(自然地名や地形名・住所地名・通称名)等が対等に存在するはずでしょうね。また、それぞれのモノに対して厳密な線引を求めた私も甘かったと言わざるを得ません。(第一、自然地名→住所地名が基本だろうし、住所地名→自然地名も有り得るかも。)

その中で、特に強く線引を求めたのが、字(大字・小字)です。私は両者を全く言って良い程(大字>小字)だと言う包括関係に押し込めようとしました。ですが、例外が余りに多すぎましたね。完敗です。実際問題、
あと、小字名をどういうウェイトで考えるか、と言うことについては、「現地に住んでいる人がコミュニティの単位として小字を使っているかどうか」というのも考慮に入れるべき何じゃないか、と考えます。
についても、住所に残っていても形骸化していたり、逆に住所に無いものの通称名や自治会名に残っている事も想定しなければいけないですね。(藩政村名が小字の中に紛れている事も有ります。)

ところで、大字田子島の例を拝見した後、郵便番号簿を見たところ(田子島は勿論、上田子島、下田子島、木呂場、木呂場新等)結構多くの通称名?がそれぞれ起番されていました。一方ネット地図を見ると田子島>上田子島、下田子島となっており(木呂場は橘に跨っているらしい。ってお書きになっていましたね・・・)田子島単体の所には正式な小字名?の数字・十干十二支・イロハ(いろはも?)が立項されていました。と言うことで、単純な内包関係で括るより、「もっと柔軟な対応を検討する必要もあるかな」と思います。
[51949] 2006年 7月 2日(日)15:18:59矢作川太郎 さん
現状(実際)は外見(名目)とは違う (謎)-小字住所考
[51943]千本桜さん

うわぁ、やらかしてしまいました。(大字)東大高には大字無しの区域である(少なくとも書類上の)小字が有るとは思いませんでした。想定外でした。私はどうもウェブ地図に出てくる事実のみが事実だと思っている様です。と言うかこれは架空の話でしたよね。(ですよね・・・?妙にリアリティが有ったので・・・はぁ)仮にそうなって居たとしても私は「2」を支持します。ですが、宅地化の勢いは止めることは出来ません。宅地化された部分が大字から分離され単独で立項されるのも仕方ないかも知れません。要は大字無し区域と住所表記?区域の識別をどうやって付けていくか(また、ドコの大字に所属していたか?)と言う事が重要になってきます。例えば、武豊町の内、明白に埋立地である区域(北から九号地・(七号地)・五号地・一号地・旭・竜宮)などは、(地図の中の住所項目では)大字無しとも住所表記とも取れる書かれ方をしています。(図を見ると会社によってどちらになるか若干のブレがあるのだが。)元から無かった土地ですので、私は後者だと解釈しますが、
1番目。
現行町名が武豊だから、大字なしの区域は全てひっくるめて大字武豊とし、「知多半島市大字武豊字○○」にする。
2番目。
旧大字武豊(藩政の武豊村)の区域については、大字武豊を復活して知多半島市大字武豊字○○と表わす。また、大字東大高にあって大字なしとなった字光明字および字浦之嶋は大字東大高に戻してやり、「知多半島市大字東大高字光明寺」および「知多半島市大字東大高字浦之嶋」と表わす。
3番目。
上記とは別の妙案がある。
の中で1番の対応の仕方をすると(仮に大字無しの区域だと解釈して。)大字冨貴にしか接していない竜宮までが大字武豊になってしまいます。海岸沿いの埋立地全体が旧:大字武豊だとは言い難いので埋め立ての始まる前の大字武豊のみが武豊を冠する事が出来ると考えます。(もしくは大字武豊と連続的な(土地)区画となっているごく少数の埋立地のみ。例:沢田新田・北曲輪等)埋立地をわざわざ大字に所属させる必要は必ずしも有りませんが、ドコで線引をするかを考える上で好例だと思います。

また、破滅的な考えですが、大字無しの区域全てが住所表記されれば大字無し(及び武豊)が消滅しますので、(その頃には仮に字光明寺・字浦之嶋も住所表記されて東大高に属さなくなっており。)全く有り得ないと思いますが、解決を見ることになるでしょう。(あくまでも考える事を完全に放棄した最悪のパターンではある。無理矢理に対策としてとられれば3番目の解決方法か・・・)

あと[51934]で言い忘れて居ましたが、小字由来の名称の町(付かない場合がある。)は必ずしも従来の小字区域とは符合しません。(むしろ全くと言って良い程符合しないのでは無いか。)小字は原則として田畑地(森林地?)の区画でしかなく、道路で分けられた宅地の区画とは全く性格を異にするモノです。当然拡大したモノや縮小を余儀なくされたモノが殆どでしょう。従来の小字がそのまま宅地の住所表示に用いられるのは、余り例が無いことなのかも知れません。あと、その様な表示に残らない小字も多々有ったのでしょう。因みにウェブ地図に載らない(立項されない)小字が大量に有るのでは?と言う疑問が前々から有りました。これが事実なら、ウェブ地図から小字名を書き出しても余り意味を為さないのでは無いでしょうか?
[51934] 2006年 7月 1日(土)13:17:45矢作川太郎 さん
小字は大字に相当する町名たりえるか?(地名調査のケーススタディ)
[51897]EMMさん

レスどうもです。まぁ、まずは私の地名調査のスタンスからご紹介しなければなりませんね。私としては、市区町村以下の大字名or町名が基本的に地名だと認識しています。(これについて、単独での記事を書きたいと思っていますが。)ですから、
確かに公報には小字の変更まで載りますね。
(石川の公報にも載っております)
愛知県は小字が細かい上に大量に残っているので公報も凄いことになっていると言うことですか。
について、小字の変遷に関しては小字自体の出自から言って全く諦めています。参考ページ(太閤検地の時期に持ち主が土地を呼ぶ為に用いた私称に基づくもので、表記・範囲が歴史的に一定しない。また、従来の小字が全く残っていない所があったり、大字内の仮住所表記の様に用いられる事もある。元々は大字内でしか通用しない名称では?)なので、基本的には大字もしくは大字に準じる町名の変遷に特化して調査するつもりです。

その中で、調査の支障と成り得そうな事柄は大字の範囲すら変遷していると言う事です。私が県公報を見て厄介だと思ったのは、大字内での小字変更が殆どであるが、大字を跨った小字の変更もあるにはあると言う事でした。認識としてその様な住所変更は従来の大字の境界線が現在の地形(道路・土地区画)に合わなくなったから行われると考えます。だから、私は住所変更はある程度(あくまでも度を越さない程度で無ければいけない。範囲はそのままで名前をわざわざ置き換える(単独での)名称変更は余り賛成出来ない。)は許容されるべきだと思います。そこで、元の大字の範囲を確定させるため旧版地図と内容を照らし合わせて検証したいと思ったりもしています。

ここに来て題名のテーマについてお話ししたいと思います。まず岡崎市の町名をご覧下さい。一部を除いて大半の町名には小字が併記されています。私の見当に依ると、明治初期の合併以前の村名を除いて殆どが村名=大字名=町名となっています。(私からすると岡崎では小字名が比較的頻繁に用いられているので実効性が失われず、住所(生活)の一部となっており、世間一般の「田舎臭い名称」の様な忌避されるイメージでは無い気がする。[町名を細分化する下部地名の様な感じ])次に人口増加が進む長久手町の町名武豊町の町名をご覧下さい。最初に長久手町のを見てみます。長久手町では東部の大字は殆ど残っていますが(熊張・前熊・岩作(やざこ)等)、西部の[大字長湫]では徐々に住所表記されて大字と並立してなおかつ大字に属しない区域が増えています。状況から推測するに、これらは[大字長湫]から分割そして設定されたと考えられます。しかし町名は何の関連も無い名称だとは思えず、大半が[小字]に依るモノでは無いでしょうか?次に武豊町のも見てみます。武豊町では南部の(東大高・冨貴(但し駅名は富貴))を除いて殆どの[小字らしきモノ]が2つの大字とは並立する様に書かれています。この中で想定したいモノは大字無し区域[要は大字武豊]の存在です。しかし問題が一つあります。それはドコが大字武豊から分かれた住所表記区域(本来の意味とは違うかも知れないが、後に~丁目や番地等の付くモノ。→地図上で大字区域とは大抵違う色で書かれる範囲。)で、ドコがそれ以外の大字無し区域(本来なら大字武豊字(小字)~と書かれる範囲。)なのか判然としない点です。パッと見だと全ての大字無し区域の小字が大字と並立する様に書かれています。この様に大字が解体され大字と並立し、小字に名称の起源を求められる町名(中には違うモノの有るかも知れないが。)の「町」が増えてきている様です。つまり内包関係が大字>小字だったモノが大字=小字+町or丁目となるのです。逆に大字に番地の番号を振って小字を住所表記上から消し去る事例も有りますがココでは割愛させて頂きます。

そう言えば阿波市に於いて住所変更(復元)が有ると聞きました。内容はコチラです。(アドビファイルですのでお気を付け下さい。)コレに依ると合併時に(どれが正確に大字名に当たるか分からないが。)少なくとも旧:市場町に於いて競合するモノを除いて全ての大字名を住所から消した様です。フォーマット(形式)を旧:阿波町と合わせた様ですが、それまで有った大字名を一挙に削除したのはどうかと思います。他の資料に依ると、旧:阿波町では早くから大字名を外した様ですが、旧:市場町に限って合併時に外した様です。今回の例で言えば急激に大字名を廃止するのは混乱を招くと言うことでしょうか。(小字名は大字より大きい土地区画(自治体名等)の下に来る事は昔は想定されない事だったのではあるまいか?)

注:住所から「大字」の文字を消すことは大字名の消滅にはならない。
●●郡△△町大字××字(小字)※※が●●市(△△町)××字(小字)※※になってもと言うこと。
[51928] 2006年 7月 1日(土)01:08:02【1】矢作川太郎 さん
ダンゴ4兄弟~♪(愛知県4強都市-名古屋を除く!!)
[51890]白桃さん

人口調査の父と呼ばれている(少なくとも私から。)白桃様からレスが頂けるなんて天にも昇る思いです。本当にどうし(以下エンドレスにつき略させて頂きます・・・)

いや、本当に面白いモノを見せて頂き恐縮です。名古屋の(第1位の)盤石さの影でこの様な順位争いがあった事は特筆すべき事柄であり、私の地理人生?(都市人口人生?)の永遠のテーマでもあります。僭越ながらその要因を考察してみます。

一度おさらいとして順位を再掲しておきます。
1940 名古屋-豊橋-岡崎-一宮-半田  -瀬戸
1950 名古屋-豊橋-岡崎-一宮-半田  -豊川
1955 名古屋-豊橋-一宮-岡崎-半田  -西尾
2003 名古屋-豊橋-豊田-岡崎-春日井-一宮
2006 名古屋-豊田-豊橋-一宮-岡崎  -春日井

いやぁ、本当に面白い!!名古屋の一位は変わらないものの他はずっと一定だった市が一つもありません。(笑)

それぞれの市に対してコメントを書きます。

名古屋市:尾張名古屋は城で持つ!強さは揺るがない!!

豊橋市:三河国・吉田から明治時代に改称してから、東三河の中心拠点として、また豊橋港を擁する都市として名古屋とは一定の距離をとって(実際離れているが・・・)独自の都市圏を形成して完全では無いにしろ盤石さを保っている。

岡崎市:家康の出生地(本当に出生しただけの所だが・・・幼少期までは居たらしいが。)また、東海道最大の宿場及び内陸部の水運の拠点だったが、確固たる産業を誘致出来ず(マキタや三菱ぐらい)、某自動車会社の社員や在名企業社員などのベットタウンとして歩む。あと、桜の開花時期や花火大会の時だけ中心街に凄い人数の人が押し寄せる。(伝統産業:花火・墓石・味噌製造 昔の一時期:紡績業など・・・但しどれも頭打ち感が拭えない様な・・・)

一宮市:門前町として歩み始めたが、昭和初期から毛織物王国として全国に名を馳せる。名古屋から近距離のため人口が増えているらしい。平成の大合併では、ウールの尾西で著名だった尾西市と合併し一挙に4位に躍り出る。

半田市:ミツカンなどの醸造業で著名・戦前からは軍需産業が盛んだったが現在13位に甘んじている。しかし、名古屋の通勤圏として、また碧南市と共に衣浦港を擁する市として堅実に発展している。

瀬戸市:陶都として早くから市制されたが重工業都市や新興都市には勝てず現在12位。

豊川市:妙厳寺(豊川稲荷・一応寺院です。)の門前町で有ったが、豊川海軍工廠が所在した事に依って人口が一時増加する?戦後、市内に日本車輌製造などが誘致され現在11位となる。

西尾市:古くから綿織物の産地として三州産地と呼ばれる(だから人口増加?)また、抹茶用の茶葉栽培は全国トップクラスと言われ、西尾茶として著名。小京都とも言われる。現在14位。

春日井市:名古屋近郊のニュータウンでも有名な高蔵寺ニュータウンを擁する。また、市内に王子製紙の工場も所在する。人口が次第に増え、名古屋を除くと五本指に入る規模となる。

豊田市:様々な意味で他の都市とは別格。コメントの必要も無い程の著名度。

私はこの中でも豊田-豊橋-一宮-岡崎の順位の変動に注目しています。(今回の合併だけで順位が大変動した程僅差なので。)意外と他地域の人にとって、人口ハイアンドローゲームの鬼門と成り得る人口帯かも知れません。人口分布(都道府県)の人口帯別(人数)に依る全国比較の良い調査対象だと私は思います。(例えば、何々県には人口の差が近い人口帯が何万人~何万人の間にある等。)

【1】そう言えば今日はわが市の市制記念日だったか・・・(因みに90周年)
[51881] 2006年 6月 26日(月)22:39:02矢作川太郎 さん
西三諸々事情(全国地図に載ったり載らなかったりする(岡崎)市より・・・)
どうも、今風呂場の中で蛞蝓(←読めます?)を見て驚いている矢作です。(ドコから入ってきたんだろう・・・)気を取り直して早速。
(題名の西三は西三河の地元で使う略称です。(西三模試、西三大会etc・・・))どちらかと言うと岡崎が話の中心になっていますが。他の都市との関連も今後述べたいなと思っていますが・・・

[51610]白桃さん
注2:宮城、茨城、岐阜、愛知、三重、岡山、広島、高知は未発表であるが、豊田、岡崎、安城の3市は超えていることが確実視される。仙台、名古屋、鈴鹿、岡山、広島は微妙なトコロ。

[51628]白桃さん
(参考)2006.4.1現在で 安城市1,515、豊田市1,070、岡崎市1,065

[51755]白桃さん
おまけ;愛知県5月の推計人口が発表になり、確実の◎を打った豊田、岡崎、安城の3市以外に、名古屋、春日井、刈谷、大府が2005年国勢調査速報値と比べ千人超増加でした。やっぱり愛知県は元気です。

そうなんですか。いや、薄々増加数は多いだろうと思って居ましたが、これ程とは。
元来、地元のことに関して疎いのが人の常ですが、この数字は全国的にも急激な増加なのでしょうか?一つわが市の人口増加の証明とまでは行きませんが具体的な住居動向をお知らせします。(リンクが切れてしまうかも知れませんが)こちらこちらの下の方に計画及び規模の概要があります。(後者は高さしか書いていませんが・・・ こっちには詳細が書いてありますがニュース記事なので切れるのが早いかも。)しかし、市街地の真ん中に31階建てとは・・・いや、中心部周辺には前々からマンションがポツポツ建ってましたが、流石に想像も付きません。ですが、景観に及ぼす影響はどんなモノなんでしょう。(今まで高くても20階が関の山だったのに・・・そんなところにこんなモノが、むぅ・・・)

今まででもわが市の市街地にはマンションがある程度建っていました。(名古屋鉄道の車窓から見ると威容を放っています。)以前、市街地の空洞化が目に見えて進行したと言われていましたが、そのために土地が空いた(価格が下落した?)ことにより(河川敷沿いの道路ギリギリですが。)小さい都心回帰?が起こった結果この様になりました。要は、市街地が完全に(ある程度の商業地帯は国道沿いに郊外化してますが、路面店ばかりなので。)郊外化する前に人口増加によって逆ドーナツ化している様です。(マンションに関しては。)しかし、商店街(元々その様な形態では無いが。)の役割を果たしていた商業地域は目に見えて縮小・郊外移転しています。ですが、核となっていた康生地域から岡崎駅までの細長いエリアに分散したとも考えられます。(元々、岡崎駅前は余り市街化していなかった。公的機関が少しずつ移転しているので、途上の状態とも言え得る。)しかし、市の市街地振興の施策は余り盤石とは言えません。図書館を中心地に持ってくる様ですが、効果の程は未知数です。以前、長浜市の振興策の話題が出ていましたが、古い建造物を生かしたバランスの有る振興策の方がやはり魅力的です。市民から起こされた草の根の運動が市を動かしたとの事ですが、残念ながらコチラでは余り既存の建造物は生かされているとは言い難いです。人口増加と地域観光の振興のバランス有る発展には並々ならぬ努力が要る様です。このまま、只のベッドタウンで、観光は申し訳程度になってしまうのか注意深く見つめて行きたいと思います。(ところで某局の連続テレビ小説を御覧の方は見えますでしょうか?)
[51846] 2006年 6月 21日(水)23:33:02矢作川太郎 さん
長い旅路・・・住所変更を辿って。
[51632]EMMさん
時期が決められている訳では無く、その自治体の判断で決められるようです。
現在自分の地名コレクションの所在地のチェックを続けていますが、もうHP上から町名変更のページが無くなっているところがあって参っちゃいます。
(例えば京都府南丹市とか)
そう言う時は都道府県公報(ところによって県公報だったり、県報だったりと若干名称が変わるので注意。それと、広報紙とも間違えないように注意。)を追ってみましょう。

レスどうもです。と言っても亀過ぎますが・・・
と言うわけで地元愛知県HPの閲覧ページを覗きました。ある意味絶句です。
絶句した理由・・・
1.小字の変更と町名の変更がゴッチャになっているらしい。(境界変更も含)
2.合併に伴うモノかどうかは時期から判断?(合併直後の些末な変更があるかも)
3.ディジタルデータ化されて居る割合が割と低い・・・
4.ある時期以前のモノは目録すら無い・・・
5.紙メディアの閲覧場所の開館日は平日だけ・・・

と私にとって不利な状況ですが随時調査しようとおもいますぅ・・・
*少なくとも角川書店の地名辞典の刊行時までは遡りたいと言うのが私の希望です。
[51845] 2006年 6月 21日(水)23:06:08矢作川太郎 さん
連称自治体名は越喜来「お嫌い」?(合併自治体名・自然公園名を考える)-2
[51814]拙稿の続きです。(長文御免。)

よくよく考えてみれば自然公園と自治体とでは成り立ちから言って大分異なりますが、このまま突っ走っていきます。(汗)

少々脇道に逸れますが、お付き合いをば(笑)
では、連称自治体名より合成自治体名の方が何故良く好んで使われるか少し触れてみようと思います。例として挙げるのは、地元愛知県の「美浜町」・「南知多町」です。(あの騒動にはほとほと厭気が指していますので、今後話題は振らないで下さい・・・)この枠組みの合併では市名候補として「美南市」・「知南市」と言うモノがありました。しかし、「南知多美浜市」若しくはその逆の組み合わせ、あと「知多~市」と言うのは余り見られなかった様に感じます。やはり、旧町名を使わず、なおかつ出来るだけ圧縮した候補が挙がっていた様に感じます。これも、やはり「地名と言うある種の柵(しがらみ)」と言う認識に立脚している様に思えます。(例えそれが広域に用いられる名称であっても、自治体名であれば「地名」と認識されるらしい。)あと、余談ですが、ココで用いる連称自治体名と言うのは、原則(ミクロ地名+ミクロ地名)と言うモノを指します。(広域地名「郡名・旧国名」+ミクロ地名)は除外して考えて下さい。と言う訳で合成自治体名の方が特定の自治体のイメージを素速く中和する作用があるから用いられているのでは無いかと言うのが私の見解です。

ようやく、この書き込みのヤマ場に入りたいと思います。
ココでは主に上越市・ひたちなか市・西東京市を想定して書いています。(3市だったら連称にはどうしてもしにくいので。)例えば前掲の3市の中心市街地(市役所の所在地では無く。)を挙げてみろと言われたら、誰もが答えに窮すると思います。(多分・・・)それには、中心市街地・最大市街地・市役所所在地の全てが必ずしも一致しない自治体が増えている事が根本にあると思います。自然公園の場合
つまりこれら,「連称公園の増加」という事実は,時代を経るに従って興味地の“発見”や勃興が続き,核心地が多極化していくのが当然であることを示しています(簡単に書けば,ですけど)。
と言うように、興味地(核となる地域)の発見により連称が多くなったと言う事象が見られるように、1つの自治体内でも市街地の隆盛・衰微によってその市の中心に位置づけられる地域が常に変化していると言う事があります。特に既存の市街地ではない新興の市街地が出現したとき、それでも既存の市街地の名称が自治体名に留まっている場合もあります。まして、複数の市(町)制可能だった市街地を擁する市(町)同士を合併した場合は更に情勢は、複雑です。このケースでは、市役所を2つの市街地の中間点に設置する事も稀にあります。(上越市・佐久市等)そのような場合には、やはり「直江津高田市」にはし難いだろうと思います。ですから、連称にしてみた所で既にどちらの市街地にも新市の軸足が無いと言う事も有り得る訳です。そうで無くとも市街地同士が一体化している事も想定されます。やはり、自治体名に置ける市街地の地名保存は一層難しくなっていくのでしょう。

次に自然公園では
まさか,既設の国立公園を二つに割って,新たな公園を生み出そうとは思いもよりませんでした。
「過去の常識」が通用しなくなっているということなのですね。
と言う動きがあります。それは、今回の合併に於いて新市を形作る範囲が必ずしも一定の生活圏で完結し辛い(何を生活圏とするかでも異なるが、生活圏に比してごく狭いと言うこと。)と言う事と類似性がある様に感じます。要は商業の中心が新市外の既存の市にある場合など、今までは市制出来なさそうな枠組みでも市制可能な(そして敢えて合併に動く)体制になったのが今回の大合併だった様に思います。それは、
かつて国は,国立公園の新規指定に慎重でした(拡張含む)。「国立公園ブランド」を大切に考えていたのです。そういう過去の常識を通用させないこと自体が,いいことなのかどうなのかはわかりません。むろん「地域の誇りとする場所の名前を国立公園の名称にしたい」という思いはわかります。ただ「思い」です。どうやったって定量化できません。定量化できないモノの評価はきわめて困難ですから,あとは権限を有する人がエイヤッと決めるしかないわけです。だからその「エイヤッ」に筋が通っていないといけない,と思うのですね。時代や法解釈は変わっても,同一の法律上で動くからには「筋の一貫性」「素性の良さ」が求められると思うのです。それが「過去の常識」だと思うのです。「慣習」と言い換えても良いかもしれない。
今回,いままでの“慣習”を破ってまで分立を選択した以上,国は今後,似たような案件に振り回され,国立公園ブランドの安売りを拒めなくなるのではないか,と危惧します。
と同じように、単独市制要件が全く緩和されないのに合併新自治体に対する要件の緩さ、要は「市」と言うブランドの変質が合併議論に与えた影響は計り知れないと思います。私は、2・3の町村が合併する際にこそ連称にするべきだと考えます。前にも述べた様に、生活圏に比して余り大きくない新市の名前に対して適切な地域名が早々有ろうとは思えません。幾ら自分達の住んでいる地域を愛しているからと言っても、今まで使われなかった様な新市名案がことごとく採用されるのには、やはりある程度の自省をして欲しいと思います。まるで、生活圏や郡の枠組みから「分立」した様な印象を私は受けます。しかも、その事実が今後の合併協議の前例として扱われる事を危惧しています。(安売りとは言わないが既存の市名と新市名の不揃いな感じを強くうける。)

あと
いまや「国立公園」であるというだけで客を呼べる時代ではありません。最近は世界遺産でしょうか,それに替わるモノは。それにしても,ひととき話題になって一過性の集客があったとしても,それって長続きしません。
についても、「市制施行(政令市移行)」しただけでイメージが向上したり、観光客が増加したり、企業誘致が巧くいったり等、余り根拠が有るとは思えない合併効果も色々な所で謳われています。中には大字を廃止するから都会になると言う根も葉も無い意見すら見受けられました。あと、地元マスコミに於いて、合併に伴う種々の施策及び住民サービスの擦り合わせによる変更を合併効果だとも報道していました。これ以上触れませんが、長期的な効果(影響)に対して議論が行き届いていない様に感じます。

最後にみやこ♂さんへ
この様な引用の仕方をしてしまいすいません。
しかし、尾瀬国立公園の新設に対する意見は大変興味深かったです。これから、富士箱根伊豆国立公園が富士山が見える公園だから富士山国立公園に改称する動きや、利尻礼文サロベツ国立公園を3つに割る動きがあるかも知れません。これらに対しても警鐘を鳴らして頂ける事を私は期待します。

みなさんへ
連称地名の有用性と問題点を述べようとしたら、合併自治体の問題点に話が飛んでしまいました。すいません。ここまで読んで頂けた方が居られましたら、深く感謝します。
[51814] 2006年 6月 19日(月)02:34:07矢作川太郎 さん
連称自治体名は越喜来「お嫌い」?(合併自治体名・自然公園名を考える)-1
[51625]みやこ♂さん
の書き込みを読んでいてシンパシーを感じると共に、私もひとつ思い当たる事がありました。よって[51625]からの引用が多少ありますが、相互の内容は余り関連性が無いと取って頂ければ幸いです。

早速、本題に入ります。例えば、皆さんは今回の大合併で連称の新自治体名が余り採用されなかった事に気付かれたでしょうか。無かったと言えば嘘になりますが、思い当たるモノを挙げれば、「横芝光町」、未成立の「天城伊仙町」位なものでしょうか。以前あった例も見てみれば、一日限りの「竹原堅倉村」、資料上にのみ存在する「檜沢嶐郷村」、あと比較的短命だった「市木尾呂志村」等、いろいろありました。中でも今回着目していきたいのは、市名でもあった「大湊田名部市」と、「宇治山田市」についてです。

まず、私が言いたいのは、何故に連称自治体名(敢えて地名とは書かない。)が嫌われているかと言うことです。一説に「大湊田名部市」が「むつ市」に改称した理由は連称自治体名が嫌われたと言われていますが、市の運営に何らかの支障が出るほどの問題だったとは必ずしも言えません。合併してから余り日が経っていないというのも理由になりますが、その他の理由を推測してみます。まず、第一に長すぎると言う点です。やはり、市名が長すぎると言うのは市民生活に少なからず影響を及ぼしたと察します。その煩わしさから何らかの陳情があったのかも知れません。次に市役所の意向もあったと考えられます。旧町名をそのまま繋げた市名であっては新市の一体感の熟成に支障を来すと考えられたのでは無いでしょうか。あと前後関係でまた揉める可能性も否定できません。では、何故その代替案が「むつ市」だったのでしょうか。どちらかの旧町名を採用するのはまずいとしても、「下北市」辺りが妥当では無いでしょうか。(自分は今回(平成)の合併で駅名・郡名に因んで「下北市」になると思っていた。)多分、地名と言うある種の柵(しがらみ)から解放されたいと思ったのでは無いでしょうか。地名というモノは土地が有って始めて成り立つモノです。「特定の地域の名前」そんなミクロなモノでは到底、新しい市のイメージに合致しないと思われたのかも知れません。どうせなら、スケールの大きい「陸奥」にあやかろうとしたのでしょう。(奥州市もその様な見地から命名されたのではと思う。)

次に、「宇治山田市」についてです。言わずと知れた伊勢神宮のお膝元である伊勢市の旧称です。改称があった時期は昭和の大合併期で、周辺4村の編入と共に行われました。こちらについても考察していきたいと思います。宇治・山田ともに内宮・外宮の門前町及び、神宮の所在地の名称として、古くから用いられてきた俗称です。何故これが「伊勢市」と言う名称に取って代わられたのかについて考える時に必要なキーワードは「全国的知名度」と、「市域の拡大(膨張)」だと思われます。前者について、まず言えることは地名を最初に用いたのは、ごく限られた範囲の限られた人々では無かったのではないか、と言うことです。それが、郵便事業や通信機器の発達によって全国的に知られる地名とそうでない地名に分かれてきます。(新市名公募の種々の問題もココに発していると思われる。)私も、江戸時代の役職名である山田奉行が管轄していたのが現在の伊勢市であることを確認するために少し時間を要しました。この様に地元の知名度よりも、全国の知名度を優先したと言う事なのかも知れません。後者については、明治初期の宇治山田町の範囲より改称時の範囲の方が広くなっている事に関連付けられます。要は最初、宇治山田と呼ばれていなかった範囲まで宇治山田が拡張されたと言うことです。編入された地域の人々にとっては宇治山田と言うのは他所の地名であると少なからず思ったでしょう。これも「地名と言うある種の柵(しがらみ)」と言う事に帰着するのでしょう。

長くなりました。一旦打ち切り、稿を改めます。
[51731] 2006年 6月 12日(月)01:52:43矢作川太郎 さん
後れてきた(汗)男-市章関連
[51618]右左府さん
最近、忙しくて全然落書き帳に目を通せていない矢作です。いやぁ本当にレスどうもです。但しこの記事にレスするために時間を浪費する事の無いようお願いしますよ。(笑)人生で受験勉強程糧になる物は無いと思っていますので。(例えそれが数年後であっても早過ぎると言う事は無い。適当に流してきた自分が悔やまれる・・・(遠い目))あと、大学に入ったら楽になるという考えは捨てた方が良いです。って、何語っているんだか!!

気を取り直して早速。
市町村の財政力や、慣行の本来の役割を元に考えると、矢作川太郎さんの述べられた通りになるでしょうね。

取り敢えずはこの6村は「未制定」と仮定して調査を進めて行きたいと思います。
とまぁ、お恥ずかしいながらも納得された様で安心しています。
あと、
自治体が消滅すると、その慣行(紋章、花・木・鳥、歌etc.)も消滅してしまいます。つまり、市旗などはお役目無用に。そうしますと、降納された旗はその後どうなってしまうんでしょうか?
に関して、情報提供では無いですが反応します。←(飯能では無くなったのかと。)もとい、そう言えば消滅する市町村の旗が最後に公式な場所に出てくるのは合併調印式のような気がします。(報道写真などでよく見る、でも地元では合併後の記念式典で用いられる気もする、全国的に見ることが出来る最後のチャンスと言うことで。)ですが、一部の市町村では、合併前の市町村の資料などを合併後に陋習だとばかりに破棄する事があるそうです。(保管場所の問題が絡んでくるのかも知れないが。)正直、複雑です。(例えば、ある町のHPでは昭和の大合併以前の歴史が記載されていない事があった、○○町の歴史としては正しいかも知れないが、通常○○町域の歴史ととる人が多いのでは無いだろうか。)話が横道に逸れましたが、相当心掛けが良くない限り資料には残っても、現物として残っているかは正直怪しい所があります。

これに関連して、私も「学内」の←(ナゼそこを強調する!!)図書館で旧市の市章を眺めていまして、とても懐かしく思いました。(具体的には勝田市、那珂湊市等の平成の大合併期以前に消滅した市、但し余り遡れない。)ところで、慣行の制定時期にはやはり相当なバラツキがあるようです。(市制○○周年を期に制定等。)でも市町村章は比較的、早期に制定されやすいようです。あと、平成の大合併期以前に存在した市町村章を総覧的に見たい時には、角川地名辞典の後の方がお薦めです。一部*を除いてかなりの数の市町村章が見られます。(他の慣行が載っていたかどうかは記憶が不確実。)

*徳山ダムに沈むため廃村になった徳山村等、要は地名辞典刊行以後に消滅した旧村など、但し静岡県の浜名郡可美村は載っていた。(廃村になると分かっているから、慣行を制定するのも気が引けたのだろうか。)

あと、些細な事ですけど、右左府さんのメンバー紹介の下の方にある出身地欄に、
出身地 秋田県能代市(能代市)
とあったので感服の一言です。
そう言えば、能代市は新設(合併)でしたね。わざわざ()内にお書きになっていて感心したと言うことです。私の方は編入(合併)でしたので、
居住地 愛知県岡崎市
のままです。(岡崎市に生まれたとしても。)
[51666] 2006年 6月 6日(火)01:21:23矢作川太郎 さん
鹿角八幡平IC-花輪SA-十和田IC
とまあ、題名に東北自動車道のIC・SAを出してみたわけです。本文と直接は関係有りませんけど、象徴的だと言うことにしておいて下さい。

一回週末に書き込む内容を練っていましたが、どうにもまとまらなくなりましたので平日にズレ込んでしまっ・・・ああっ!!まあ御託はそれまでにして早速本文をどうぞ。(笑)

[51430]拙稿
[51472]敷守ほむらさん

確か何処かのHPに「領」には郡を細分化した地理区分であったと書いてありました。(御存知の方情報求む。)今日、学内の図書館で角川の地名辞典を引っ張り出して調べた所、昔、八戸を中心とした一帯を治めた南部藩では「通」と言う物で郡を細分化したとありました。(多分、東通村に残ったのか?これは北浜街道の別名だから違うか。)つまり、この「通」と言う物が他の地域の「領」と何らかの関わりがあると「思われます。」(←あくまで主観です。)

次に、三戸郡に関しては、江戸時代のごく初期に陸奥国糠部郡を北郡(現:上北、下北郡)・三戸郡・二戸郡・九戸郡に分割した際に成立したとされていますが、それ以前から糠部郡を細分化する際に三戸領(通?)が用いられていたのでは無いでしょうか。

一方、鹿角郡に関して戦国期以前には隣の比内郡(現:大館市の一帯)とともに陸奥国とされましたが、戦国期に比内郡が秋田郡(後の北秋田郡)編入された後は出羽国に接する様になります。それでも、津軽地方と米代川上流域とは、坂梨・矢立両峠を介して交流は盛んだったのでしょう。しかし、鹿角領と呼ばれたかは確証が持てません。

でも、それが、
昔ばなし中では、三戸と鹿角がとなりの国という表現を使っていて、三戸領、鹿角領という言い方をしていたのですが、となりの領というのをとなりの国と表現していたのかな?
という事実となって、陸奥国内でも違う地域だと認識されたのでしょう。これに関連して、何故、陸奥・出羽両国が大きいまま明治を迎えたのか。という疑問が湧いてきますが、それは、律令制の崩壊と関連します。律令制というのは、朝廷が日本国内を多数の国に分けて、そこに国司を派遣して統治すると言うものですが、荘園や武士の領有によって、律令制の国が形骸化した後は、分割して面積の差を是正する必要は無くなり広いまま単に地理区分としてしか利用されなくなりました。その後、明治新政府により分割されてゆく過程で三戸と鹿角が別の国となっていった訳です。しかし、それは、殆ど利用されず県の単位=国の単位となって自然に忘れ去られていきました。(実際に使われている事例はある。)

この中で三戸と鹿角が別の国となった経緯に興味深い記述が角川の地名辞典に有りました。それは、南部藩の影響力を削ぐ為に新政府がワザと分けたと言う物です。鹿角郡周辺は古くから鉱業が盛んでした。(尾去沢鉱山小坂鉱山など、現在廃墟フリークの聖地となっている。)それらは、南部藩の重要な財源となっていました。しかし新政府から見れば脅威と映ったのでしょうか。後に倒幕派の松代藩の手に渡っています。またその際に、「鹿角郡田山村」を「二戸郡田山村」としたそうです。これが事実であれば、鹿角郡と岩手郡が接していた事になり、そのままの状態で分けられたら陸中に飛び地は出来なかったのかも知れません。

*題名のIC・SA名と今回の合併で鹿角市に接する様に出来た(八幡平市、十和田市)の関係はとても複雑だと思われます。鹿角市が鹿角郡花輪町、十和田町、尾去沢町、八幡平村の合併によって出来た所為でしょうか。
[51636] 2006年 6月 3日(土)14:50:46矢作川太郎 さん
今週の土日レス-2(自己紹介等)
改めまして初めまして。
と言うわけで新規メンバー登録しました。矢作と申します。

まあ自己紹介ついでにニックネームと自分色の決定のいきさつをお知らせしましょう。

ニックネームに関してはまんま市内を流れる一級河川からあやかって付けさせて頂きました。(流域の皆様済みません。(汗))自分色については、下は西三河の「碧海郡」「幡豆郡」をイメージ、左上は東・西加茂郡に分かれていた「加茂郡」をイメージ、右上はわが市が属していた「額田郡」をイメージ、そして名前の字の色は河川のイメージで蒼っぽく・・・って、色の構成がk-aceさんと被ってしまいました。(汗)よく考えていなかった私が悪いんですっっ!!申し訳ありません。

あと[51633]k-aceさん
あと、wikipediaの件ですが、[49418](北の住人 さん)にもあるとおり、素直に信用できないもの1つであるというのが基本スタンスなので、このような真実が不明な場合にwikipediaを用いて述べるというのもどうかと個人的に思ったりもするわけですが…(過去にwikipediaで、キダ・タロー氏死亡というガセを流した輩もいましたし…)。
とされているように、余り信用できないと躊躇ってはいましたが、私はwikipediaに何度もリンクを張ってしまいました。今後そのような事の無いようwikipediaは参考(でいいのか?)程度に収め、リンクは張らない様にしたいと思います。
[51631] 2006年 6月 3日(土)13:31:11矢作川太郎 さん
今週の土日レス-1(大字関連)
皆様、おはようございます。(こんにちはかな?)
平日はどうも忙しく、ROM専となっていました。
(レスしたいのはやまやまなんですけど、次の日の事を考えると・・・)

まあ気を取り直して早速

[51524]千本桜さん
確かに正当性が無いわけではないかもしれませんね。時期は違いますが、(江戸期の宿駅名と明治初期の村名の)実効性という点から言えば共通点が有りそうです。「和合」と言う地名の様な物が実際に効力持っていた間(村名として有効であった期間)は、明治11年から明治22年の間だけでしか有りません。無論その後は編入されるまで(昭和3年)の間はずっと「美合村」と呼ばれていた訳ですから、「大字和合」と言う名称はもはや形骸化していたと私は推測します。駅名に関しても1926年4月1日に美合駅が開業しているので最初は美合村(の中心)にある駅とされていたのでしょうが、その駅名によってその後(多分昭和30年代)に「大字和合」が「美合町」に変更された事への正当性の補強になっていったのかもしれません。今地元の人の認識では、生田、馬頭、平地地区を指す語は美合町でしかありませんし、領域の面からも(生田、馬頭、平地)=美合町であり、(生田、馬頭、平地)=和合→美合町では無いことも致し方ない事でしょうね。もちろん南大平町や東羽根町にされるよりは良かったでしょう。

しかし、そのような解りやすい変更ならまだ良いですが、合併に伴う町名変更でややこしくなった事例をご紹介します。

1.小原町の場合
わが市の北隣の某市(もう隠す必要は無いと思いますが、まだまだ(笑))は2005.4.1に大同合併?(1市に多町村の場合は違うようなイメージがありますが、大規模な合併ととって頂ければ・・・)をして同時に住所変更が行われました。その後私は新市の北部になった旧村の地図を眺めていました。すると、その村の主部であった「大字大草」が「大草町」になっていないのに気付きました。どうせ、旧村名をかぶせて「小原大草町」になったのだろうと探してみましたが、ありませんでした。それもそのはず、「大字大草」は「小原町」になっていたのです。ここで私が問題にしたいのは、「縮小町名」(と私は呼んでいます。)の危険性です。その旧村は明治39年に「豊原、福原、清原、本城村」が合併して成立した村でした。「小原」という名称は「市町村名語源辞典:東京堂出版」によると近世の通称によるとありました。その旧村域全体を指す「小原」と言う名称が主部ではあるものの特定の一地域に縮小されてしまったと言う事です。「大字大草」の範囲は「小原町」として維持されていますが、何も知らない人が見たら、「大字小原」(実際にそんな大字は存在しなかった。)を中心とした村がその旧村であると誤解しかねない状態になっています。(最もその旧村は既に消滅しているので別に良いと市役所は思ったのかも知れないが。)

2.稲武町の場合
前述の合併に参加した別の町の話です。(合併前に前もって郡変更をしたのでご存知の方もお見えでしょうが。)またも旧町名が一部の地域に冠せられてしまいました。今回は旧町名が合成地名(私は合成地名は反対でも賛成でもありませんが、合成地名が再合成されたり、この事例の様になることを危惧しています。)でした。旧町名の由来は具体的にいうと、「稲橋」と「武節」の合成です。しかし、合併後町名は「稲武町」と「武節町」になっていました。合併前はそれぞれ「大字稲橋」と「大字武節町」でした。でも、「大字稲橋」は「稲橋町」とはなりませんでした。ここでも、何も知らない人が見たら、「大字稲武」(実際にそんな大字は存在しなかった。)を中心とした町がその旧町であると誤解しかねない状態になっています。しかも、それまで「稲橋」と言う字名に存在しなかった「武」の字が入っています。由来を知っていればその「武」は「武節」から来ていると解るでしょう。これもその旧町は既に消滅しているので良いと言われればそれまでですが・・・。

このように、素人が地名の由来を厳密に調べるのが一層困難になってしまいました。例え、そこが役場の所在地であったとしても一部地域に旧町村名を冠するのは、私は賛成しかねます。もし旧町村名を残したかったら、旧町村全域の町名全てに冠称を付けるか、旧町村名+元の大字名としなければならないと思います。

*ところで合併に伴う町名変更の資料はだいたいどの位の期間HPに掲載されるものなのでしょうか。掲載が終了している場合どこに問い合わせれば分かるものなのでしょうか。
[51527] 2006年 5月 28日(日)12:57:34矢作川太郎 さん
郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
[51312][51315]拙稿
[51502]Issieさん
たとえば個々の自治体が「ケ」の大小にこだわるようになった(←必ずしも良い意味ではなく)のはやっぱり,元々たくさんのバリエーションが許されていた文字の形に無性に妙なほど“几帳面”になった,
に関連して、

題名は郡区町村編制法の条文から引用したもの(実はIssieさんのHPからだったりします。すいません。)ですが、旧称に基づいた名称であるべきの自治体名及び郡名(実態は明治の大合併期に従来の町村の範囲から大幅に拡大・変更されていますが。)は、後に1946年(昭和21年)11月16日に内閣から告示された1850字からなる当用漢字の枠内に制限された状態で、昭和の大合併期を迎えたとある本(市町村名変遷辞典:東京堂出版刊)の前書きにはあります。前述の通り実際の地名(大字名)は殆どが自治体名からは見られなくなりましたが、継承されたものも幾つかはあったでしょう。しかし、そのような地名も当用漢字に無い事を理由に自治体名から締め出された昭和の大合併期だったのでしょう。(実際の事例をご存知の方、情報をお待ちしています。あと全国地方公共団体コードによって自治体の変更等を管理・把握?するようになった意義についても情報をお待ちしています。←これって事実上の指名なんじゃ・・・)

とまあ、前置きが長くなりましたが、早速本題に入りたいと思います。(汗)
昭和の大合併期以降平成の大合併期に至るまでの期間において今までに無かった変更がちらほら行われています。例えば、濁音←→清音の変更、漢字の字体・書体?等の変更です。これらの変更は自治体運営上は最重要(何が重要かは個々人の価値観に依りますが。)だとは私としてはあまり思えません。(但し、それを探求する事が無意味だとは決して言いません。)他にも、例として挙げれば塩釜市と書いてある地図があるのに市役所としては塩竈市や塩竃市と書いて欲しいと求めているというのは言うのに及ばず(字体はもちろんヶ・ケや清音・濁音やちょう・まちやむら・そんや微妙な発音の違いや音読み・訓読み等、そう言えばヵ・カと言うのはあるのだろうか。)など本当に枚挙に暇が有りません。しかし、そのようなものの変更は殆ど昭和の大合併期以前には見られません。Issieさんが仰る様にそれは表記・読み上の揺れと認識され、ある程度自由度が許容されていたように思います。また、町・村の違いは条例等で今は定められていますが、昔はそのような物は無かったのかも知れません。(実際はどうだったか情報をお待ちしています・・・)要は旧称に依って弾力的に運用されていた自治体名が、何物かによって大幅に自由度を失ったと言えるのでは無いでしょうか。

と、とても長くなってしまいましたが、私達の中にも自治体名は一通りが原則であるという意識(悪く言えば固定観念)が見え隠れしているのでは無いでしょうか。私はそれに囚われて一通りに固定しようとしましたが、どうしても断念せざるおえませんでした。Issieさんが仰っている、
これとは違う表記・読みがあり得ることにご留意願いたい。
と言うことに尽きると思います。

*まとまっているようないないような文面で済みません。(汗)
[51514] 2006年 5月 27日(土)21:51:07矢作川太郎 さん
大字・字・小字→~町・~○丁目
[51473]千本桜さん
[51480]88さん
[51483]YSKさん

こういうのを見てしまうと思わず飯能シテしまいます。

私の住んでいる市(皆さんもうお判りですよね、一応ぼかしてみます。)では、ご多分に漏れず合併に伴い住所変更が有りまして、二つの事例をご紹介します。(例外的な取り扱いが為されたのはその二つだけです。)

1:東河原町の場合
合併前わが市には河原町という町がありました。ところが合併する隣町には「大字河原」(多分)と言う所がありました。この場合、機械的に「大字河原」→「河原町」とすると、二つ「河原町」が存在してしまいます。もちろん、対策はとられまして、わが市の「河原町」はそのままで、隣町の「大字河原」は冠称を付けて「東河原町」とされました。この場合、町と大字間の問題ですので、(元々両者が離れているので)あまり問題にはならないと思いますが、YSKさんが言われたような、ある大字と隣の大字との統合の際にとられる対策(双方の小字の衝突)としては、地名保存の観点から言えば有効だと思いますが、住民から言わせれば混乱の元と成り得るかもしれません。(元からそのような冠称が付いていたものと誤解される可能性も有り得る、しかし大字の範囲を固定するためには必要な妥協か。)

2:中伊町・中伊西町の場合
隣町には「大字中伊」という所が存在しました。しかし、今はわが市の「中伊町」の範囲とは異なります。実は合併を期に「大字中伊」が「中伊町・中伊西町」に分割されたのです。実態はどうだったかは存じませんが、少し前の地図を見てみると(大字)中伊の近くに「中伊西」という記載があります。中伊地区では地区は少し広すぎると言う意見が合併を期に実現されたのでしょう。しかし、一筋縄ではいかない事実があります。昔、「大字中伊」は明治11年に中保久村と伊賀谷村が合併したものだったのです。「中伊町・中伊西町」のそれぞれの範囲が中保久村と伊賀谷村の範囲が合致するとは限らないので妥当な処理だったと思いますが、(それぞれの村の小字が正確に記録された資料が無かったのかもしれない。)少し複雑な気分です。

※おまけ
1.隣町には「大字千万町(ぜまんぢょう)」が有りましたが、合併前に一時期「千万町(ぜまんちょう?)」にする事が検討されていました。結局「千万町町(ぜまんぢょうちょう)」となりましたとさ。
2.わが市内の事を少々、最終処分場がある「才栗町」は才熊村と栗木村の合成だったなんて、何人が知っているんだろう・・・
3.これもわが市の事ですが、「美合町」が衝撃的です。(生田・馬頭・平地村が明治11年に合併した)和合村の範囲が現在の美合町です。明治の大合併期に岡・保母両村と合併して美合村となりました。その後いつか解らないですが「美合村大字和合」→「美合町」となったらしいです。(岡・保母両村は岡町・保母町となっているのに・・・)この事実は最近になって解ったのでさらに驚きです。しかし、生田・馬頭・平地の名前はバス停名・街道名等に辛うじて残っています。

*最後に
地名(自治体内の特定の地域を指す名前)は人為的に加工(改変・改竄と言っても良いですが、あまり良いイメージが無いので。)されていますが。公的な住所表記から完全に消滅する事はあっても、ローカルな名称(バス停名・交差点名等)には比較的残っている事もあるようです。
何より、この事に関連して(もちろん伝統的な名前にするに越したことは有りませんが、少々乱暴な言い方になりますが)合併後の自治体名が盛んに議論されています。しかし、それよりも自治体内の地名(前述の通り)の加工への議論までは及ばない場合が多いのを少し危惧しています。(自治体内に組み込まれた大字・町名の合併・分割・改称、要は内なる町村合併の進行の方が私は気になります。)この事に関して皆様のご意見をお聞かせ下されば幸いです。

#私も88さんの様にギラギラした文になってしまいました(笑)
[51430] 2006年 5月 22日(月)00:29:21矢作川太郎 さん
奥州街道→陸羽街道
[51425]にまんさん
鹿角と三戸って「同じ国」になりませんか?
実は違う国だと今さっきまで思い込んでた矢作です。(笑)
Wikipediaのページに有るように鹿角郡は陸中、三戸郡は陸奥とそれぞれなっています。しかし
明治元年 (1868年) 12月7日に、陸奥国を分割して設けられた。
とあります。ですので、明治元年以前には同じ国であると言えるのです。昔話の類のものが明治時代に発祥したとは考えにくく、やはり前述の通りであるといえます。

では何故、鹿角郡が陸中とされたのかについて、一つ仮説を立ててみます。多分今でも有ると思いますが、青森県(陸奥国)内において南部地方と津軽地方とは藩政期から別個の物であるという意識があるようです。当然、それぞれの主要都市である弘前、八戸への交通路は途中で分岐していたのでしょう。(東北・八戸両自動車道が分岐しているように。)八戸へ向かう際には奥州街道を道なりに行けば辿り着けます。(その延長に竜飛崎始め、東津軽郡の宿が有ることから東津軽郡も他の津軽郡からすれば違う地域だと認識されたのでは無いでしょうか。)一方、弘前へは奥州街道から大釈迦峠を越えるルートは遠回りになります。ですから、奥州街道とは別の鹿角街道(津軽街道)が利用されたのでは無いでしょうか。(そのルートは東北自動車道のルートにもなっています。)ですから、後の陸中国(盛岡を中心とする地域)にしてみれば、鹿角は弘前に向かう際の道沿いの奥の方となるので、陸中の延長と見なされたのでしょう。そして明治元年の陸奥国分割に際して陸中国と位置付けられたのでしょう。(まあ、山向こうの他の水系の最上流部がこちら側の郡或いは国に属するのは良くある事例です。)しかし、二戸郡の区域は鹿角街道(津軽街道)沿いとは認識されず、(端っこをかすめているだけだからか?)奥州街道沿い、もしくは(安比川→馬淵川)沿いと認識されたのではないでしょうか?

*タイトルの奥州街道→陸羽街道への変更は1873年(明治6年)行われたそうです。(陸奥・陸
 中・陸前だけではなく羽後・羽前にも通じている事を表したかったのか?それとも、日本海
 経由が一般的では無かったからか?悩ましい・・・)
[51331] 2006年 5月 14日(日)12:40:50矢作川太郎 さん
市町村章などなど
[49665]右左府さん

亀レスですが、飯能してみます。
ですが、憶測を多分に含んでいますので、参考にはあまりしないで下さい。(笑)

一般的に役所・役場においては市町村章、花、木、鳥、市民憲章、各種宣言等と言うのは、慣行と呼ばれています。ですが、右左府さんも言われている通り、
他町村のシンボル制定時期を見ると、大半が戦後の制定となっています。
となっているので、多分無かったとみるしか有りません。多分、それは市町村の位置づけの変化が関わって来るのでしょう。明治の大合併では、大規模な合併と言っても、ある程度一体感のある地域が合併していたと思います。その時点では、一個の町村の人口は今にしてみれば、ずっと少数なものであったでしょう。ですから、現在の慣行のような物を制定する経済的な余裕は余りなく、また一体感を慣行のような物で醸し出す必要も無かったのかもしれません。

ただ都市部の大都市に限って言えば、人口も多数であったため、慣行を制定する経済的な余裕があり、なおかつ一体感を醸し出す必要があったのでしょう。

その後、昭和の大合併期に出来た新たな町村では、個々に一体感のある別の町村が多数合併したので、一体感を創出する為に慣行が制定されたのかもしれません。

抽象論で済みませんが、終戦間際に日本人が居なくなった6村に関して、状況証拠でしかなく確定的な事は言えません。しかし、時期を考えれば無かったとするのが一応妥当でしょう。しかしもしかしたら、制定しようとしていたのかも知れません。


この件に関連してご報告します。私は大学生なのですが、先日図書館で調べ物をしていた際、各県章並びに都道府県庁所在地の市章に併せて、外国の著名な都市の市章と言う項目を見つけました。私はやはり海外でもそのような物を制定しているのだと関心しました。
ただ日本の市章に多く見られる文字(ひらがな、カタカナ、漢字)を組み合わせた物は無く。(日本じゃ無いんだから当たり前か。)その都市にちなんだ動植物や領主の家紋?がモチーフになっていました。ただし市章全体の形は何故か国が違っても統一されていました。

一応ご参考までに。
[51315] 2006年 5月 13日(土)16:54:51矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より その2
拙稿[51312]
に関連してですが、町と村のイメージの違いについて述べたいと思います。

どちらも日本の自治体の区分で郡の下部に位置するものですが、率直に言うと町(大きい、都市に近い、商業が主な産業)で村(小さい、都市から遠い、農・漁・林業が主な産業)であると言うイメージが一般的にあると思います。では実態としてはどうだったのでしょう?

現在、制度の面から言えば、
町となるためには、当該都道府県の条例で定める「町」としての要件を具備する必要がある
村の法的な要件は特段定めはない。
以上Wikipediaの該当ページには書いてあります。過去に宮城県の加美町が合併して成立する際に、条例によって村になる所だったと聞いています。結局、条例の改正によって事無きを得ましたが。また熊本県の南阿蘇村では(南阿蘇)のイメージを変えない為に、敢えて「南阿蘇町」にならなかったとも聞きました。このように条例の解釈と町村の意図によって「町」と「村」が決まってくるようです。では歴史的にはどうだったのでしょう。

明治時代の初期には町と言うのは、純粋に市街地を指す言葉でした。(この落書き帳でも何度も言及されています。)また村はそれ以外の農・漁村を指していました。(一部の例外的な市街地を含む)それが郡区町村編制法・市制・町村制といわゆる明治の大合併により大規模な市街地は全体を総括して「市」となり、一部の市街化された村が「町」となりました。(中規模な市街地が「町」を総括して全体を「町」とした所もある。)この時点では現在のイメージとほぼ合致すると同時に町・村の違いは市街地・周辺部と言うことになってもまだまだ流動的なものがありました。(愛知県幡豆郡一色町、横須賀町の例がある。)

大正から昭和初期にかけては、順次市街化された「村」が「町」となり町が増加しました。小規模な合併もあり、町から切り離されて合併して成立した周辺部の村(極端に言うと愛知県愛西市のような感じ)も町に編入されました。

昭和の大合併では、小規模な「町」を核として「市」がいくつも誕生しました。町村部でも「村」がいくつも合併してできた従来よりは大きい「町」「村」ができました。その結果町:村の比率が1950年当時において約1:4だったのが、1960年には約2:1に逆転してしまいました。

その後、1960年から2000年にかけて500ほどの村が人口増加などによって町制していきました。ただし、その間は概ね町・村の全体数はあまり変わりませんでした。

そして平成の大合併を終えた今では町:村の比率は約4:1で推移しています。昔では考えられないような所さえ「市」になっていることは言うまでもありません。

このように町村部は激しく変化を繰り返していました。いや、これからも劇的な変化を余儀なくされるでしょう。そんな中で「町」「村」のイメージはあまり変わらないのは日本人の「ふるさと」へのイメージがあまり変わらないのと共通しているように思います。

*思いっきり硬い文章になってしまいました、すいません(汗)
 タイトルは本文の内容と関係してるようで、していません(笑)
[51312] 2006年 5月 13日(土)15:20:38矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より
呼ばれてもいないのに出てきてみました。
少し亀レスですが。

[51244]じょにーさん
[51246]花笠カセ鳥さん
[51261]Issieさん
[51273]千本桜さん
[51277]88さん

同じような例が静岡県にもあります。浜松市に編入された引佐町ですが、1953.4.1に金指町が井伊谷村に編入されて、同日に井伊谷村が改称・町制されて引佐町となって成立しています。もっとも1955.5.1には周辺3村と新設合併して新・引佐町となっていますが。
1889.4.1時点(明治の大合併時)では金指町は三和村から分離して成立しています。(三和村は明治9年に石岡、五日市場、金指の3村により成立)一方その頃の井伊谷村は井伊谷、横尾、白岩、花平、三岳村『兎荷村の一部が入っている資料もあり。』の合併により成立しています。(もっとも井伊谷村は明治9年に北神宮寺、東牧、南神宮寺の3村により成立)

この事から少し推測してみます。1889.4.1当時郡役所のある気賀村に程近かった三和村の金指地区で市街地が形成され始めたので三和村から分離しようという動きが起こったとします。それによって金指町が成立します。(よく言われている事ですが、明治の大合併は従来の村落を合併して財政的に安定した形態にしたと言います。産業形態の違いから分離されたと言うこともあったのではないでしょうか。)その後昭和の大合併期になって、丘陵によって隔てられている?井伊谷川沿いの井伊谷村との合併が打診されます。面積の点で言えば井伊谷村の方が合併によって成立していて大きいので(昔は耕地面積の広さが行政における重要度の指標となったのではないでしょうか?)井伊谷村への編入と言う実態で合併が行われます。しかし、建前としては、新規の名称を採用すると決められたのでしょう。(この場合は郡名ですね。)この名称が2年後の合併にも受け継がれたのではないでしょうか。

*町と村のイメージの違いの変遷については稿を改めます。
 長文済みませんでした。
[51114] 2006年 5月 2日(火)03:47:47矢作川太郎 さん
第11回十番勝負・感想
私は初参戦したクチですが、感想を書きたいと思います。
順番は番号順です。

・問1 美東(未答)
コレにはしてやられました。岡山市が一番市制が早いのまでは解ったんですが。第四ヒントで市制施行日関連だと見当はつきました。が、穿ちきれず断念。

・問2 美東(未答)
第一ヒントで「男と女」コレ以外からの問題だと思って探りを入れましたが解らず。スポーツ関連が久々に来るとは・・・

・問3 ○気仙沼市
第三ヒントの「名前変わらず」と問題・解答の市を見回して閃きました。国土地理協会のページを見て目に止まった所を解答。

・問4 美東(未答)
最初は過疎地域指定が新自治体の一部に指定されている所かと思いましたが、指宿市が当てはまらずそのまま放置(汗)案の定時間切れと・・・

・問5 ○府中市(広島)
ホームページを見れば解ると思って各ページを巡回。すると定形URLが最初のページ(転送される前のページ及びトップページ)に割り当てられた市と思うも越前市が当てはまらず出直し、アナグラム「全く同じ」で広島県の府中町と被る府中市を解答。(東京都の府中市を意識して解答したものの余計なお世話となりましたとさ。)

・問6 美東(未答)
大小と聞いてサイコロと思うもすぐに撤回。ヒント「気になる崖」→「何が聞ける」と取ってコミュニティーラジオ関連をあたるもいかんせん当てはまる所が少な過ぎました。

・問7 美東(未答)
「山口百枝の歌(1978)」から「いい日旅立ち」は導き出せました。が、駅スタンプか?と思ったり、「○○能代」というように(方位・新・中)+市名という駅が複数有るのかと迷走し絞りきれないまま終了。「(いい日)旅立ち」でしたか。

・問8 美東(未答)
「伊・佐」の多さが目につくも何の事だか解りませんでした。ギリギリになって解るも、すんでの所で売り切れになっており涙を飲む結果に・・・
[50618]紫魔法師さんよろしく私も保谷市・伊予三島市・松任市・佐原市と探してみても空しいばかり・・・(苦笑)

・問9 美東(未答)
最初の段階では面積が広い市が多かったのでその関係かと思うも、深く考えないまま時間切れ。ココで正統派な問題が来るとは・・・

・問10 ○沖縄市
唯一ノーヒントで答えられた問題です。最初に問題をザッと見て解答ラッシュが起こっていたのはコレだけでした。問題・解答の市を見れば言わずもがなだったので捻った解答をと思い、コザ市→沖縄市で解答。後で不安になり調べた所、1972年5月15日に沖縄返還が行われており、1974年4月1日の合併が後に行われたので確信が持てました。

総括
前々から十番勝負には興味があり何度も熱戦の様子を見ていましたが、やってみないと解らない事もあるだろうと思い切って参加しました。結果はそれ見たことか(汗)という具合でしたが、とても解き応えのある物でした。グリグリさんどうもありがとうございました。また機会があれば参加したいと思っております。では。
[51024] 2006年 4月 26日(水)21:59:37矢作川太郎 さん
第11回十番勝負
ココまで来てコレが解らないなんて・・・
問5 府中市(広島県)
こうなったら特殊解で(笑)
[51002] 2006年 4月 25日(火)02:04:30矢作川太郎 さん
第11回十番勝負
そう言うことだったのか。
問3 気仙沼市
[50286] 2006年 4月 2日(日)03:02:53矢作川太郎 さん
第11回十番勝負
皆様お初です。
早速ですが、
問10 沖縄市
でどうでしょうか。


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