都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
矢作川太郎さんの記事が5件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[51731]2006年6月12日
矢作川太郎
[51666]2006年6月6日
矢作川太郎
[51636]2006年6月3日
矢作川太郎
[51631]2006年6月3日
矢作川太郎
[51527]2006年5月28日
矢作川太郎

[51731] 2006年 6月 12日(月)01:52:43矢作川太郎 さん
後れてきた(汗)男-市章関連
[51618]右左府さん
最近、忙しくて全然落書き帳に目を通せていない矢作です。いやぁ本当にレスどうもです。但しこの記事にレスするために時間を浪費する事の無いようお願いしますよ。(笑)人生で受験勉強程糧になる物は無いと思っていますので。(例えそれが数年後であっても早過ぎると言う事は無い。適当に流してきた自分が悔やまれる・・・(遠い目))あと、大学に入ったら楽になるという考えは捨てた方が良いです。って、何語っているんだか!!

気を取り直して早速。
市町村の財政力や、慣行の本来の役割を元に考えると、矢作川太郎さんの述べられた通りになるでしょうね。

取り敢えずはこの6村は「未制定」と仮定して調査を進めて行きたいと思います。
とまぁ、お恥ずかしいながらも納得された様で安心しています。
あと、
自治体が消滅すると、その慣行(紋章、花・木・鳥、歌etc.)も消滅してしまいます。つまり、市旗などはお役目無用に。そうしますと、降納された旗はその後どうなってしまうんでしょうか?
に関して、情報提供では無いですが反応します。←(飯能では無くなったのかと。)もとい、そう言えば消滅する市町村の旗が最後に公式な場所に出てくるのは合併調印式のような気がします。(報道写真などでよく見る、でも地元では合併後の記念式典で用いられる気もする、全国的に見ることが出来る最後のチャンスと言うことで。)ですが、一部の市町村では、合併前の市町村の資料などを合併後に陋習だとばかりに破棄する事があるそうです。(保管場所の問題が絡んでくるのかも知れないが。)正直、複雑です。(例えば、ある町のHPでは昭和の大合併以前の歴史が記載されていない事があった、○○町の歴史としては正しいかも知れないが、通常○○町域の歴史ととる人が多いのでは無いだろうか。)話が横道に逸れましたが、相当心掛けが良くない限り資料には残っても、現物として残っているかは正直怪しい所があります。

これに関連して、私も「学内」の←(ナゼそこを強調する!!)図書館で旧市の市章を眺めていまして、とても懐かしく思いました。(具体的には勝田市、那珂湊市等の平成の大合併期以前に消滅した市、但し余り遡れない。)ところで、慣行の制定時期にはやはり相当なバラツキがあるようです。(市制○○周年を期に制定等。)でも市町村章は比較的、早期に制定されやすいようです。あと、平成の大合併期以前に存在した市町村章を総覧的に見たい時には、角川地名辞典の後の方がお薦めです。一部*を除いてかなりの数の市町村章が見られます。(他の慣行が載っていたかどうかは記憶が不確実。)

*徳山ダムに沈むため廃村になった徳山村等、要は地名辞典刊行以後に消滅した旧村など、但し静岡県の浜名郡可美村は載っていた。(廃村になると分かっているから、慣行を制定するのも気が引けたのだろうか。)

あと、些細な事ですけど、右左府さんのメンバー紹介の下の方にある出身地欄に、
出身地 秋田県能代市(能代市)
とあったので感服の一言です。
そう言えば、能代市は新設(合併)でしたね。わざわざ()内にお書きになっていて感心したと言うことです。私の方は編入(合併)でしたので、
居住地 愛知県岡崎市
のままです。(岡崎市に生まれたとしても。)
[51666] 2006年 6月 6日(火)01:21:23矢作川太郎 さん
鹿角八幡平IC-花輪SA-十和田IC
とまあ、題名に東北自動車道のIC・SAを出してみたわけです。本文と直接は関係有りませんけど、象徴的だと言うことにしておいて下さい。

一回週末に書き込む内容を練っていましたが、どうにもまとまらなくなりましたので平日にズレ込んでしまっ・・・ああっ!!まあ御託はそれまでにして早速本文をどうぞ。(笑)

[51430]拙稿
[51472]敷守ほむらさん

確か何処かのHPに「領」には郡を細分化した地理区分であったと書いてありました。(御存知の方情報求む。)今日、学内の図書館で角川の地名辞典を引っ張り出して調べた所、昔、八戸を中心とした一帯を治めた南部藩では「通」と言う物で郡を細分化したとありました。(多分、東通村に残ったのか?これは北浜街道の別名だから違うか。)つまり、この「通」と言う物が他の地域の「領」と何らかの関わりがあると「思われます。」(←あくまで主観です。)

次に、三戸郡に関しては、江戸時代のごく初期に陸奥国糠部郡を北郡(現:上北、下北郡)・三戸郡・二戸郡・九戸郡に分割した際に成立したとされていますが、それ以前から糠部郡を細分化する際に三戸領(通?)が用いられていたのでは無いでしょうか。

一方、鹿角郡に関して戦国期以前には隣の比内郡(現:大館市の一帯)とともに陸奥国とされましたが、戦国期に比内郡が秋田郡(後の北秋田郡)編入された後は出羽国に接する様になります。それでも、津軽地方と米代川上流域とは、坂梨・矢立両峠を介して交流は盛んだったのでしょう。しかし、鹿角領と呼ばれたかは確証が持てません。

でも、それが、
昔ばなし中では、三戸と鹿角がとなりの国という表現を使っていて、三戸領、鹿角領という言い方をしていたのですが、となりの領というのをとなりの国と表現していたのかな?
という事実となって、陸奥国内でも違う地域だと認識されたのでしょう。これに関連して、何故、陸奥・出羽両国が大きいまま明治を迎えたのか。という疑問が湧いてきますが、それは、律令制の崩壊と関連します。律令制というのは、朝廷が日本国内を多数の国に分けて、そこに国司を派遣して統治すると言うものですが、荘園や武士の領有によって、律令制の国が形骸化した後は、分割して面積の差を是正する必要は無くなり広いまま単に地理区分としてしか利用されなくなりました。その後、明治新政府により分割されてゆく過程で三戸と鹿角が別の国となっていった訳です。しかし、それは、殆ど利用されず県の単位=国の単位となって自然に忘れ去られていきました。(実際に使われている事例はある。)

この中で三戸と鹿角が別の国となった経緯に興味深い記述が角川の地名辞典に有りました。それは、南部藩の影響力を削ぐ為に新政府がワザと分けたと言う物です。鹿角郡周辺は古くから鉱業が盛んでした。(尾去沢鉱山小坂鉱山など、現在廃墟フリークの聖地となっている。)それらは、南部藩の重要な財源となっていました。しかし新政府から見れば脅威と映ったのでしょうか。後に倒幕派の松代藩の手に渡っています。またその際に、「鹿角郡田山村」を「二戸郡田山村」としたそうです。これが事実であれば、鹿角郡と岩手郡が接していた事になり、そのままの状態で分けられたら陸中に飛び地は出来なかったのかも知れません。

*題名のIC・SA名と今回の合併で鹿角市に接する様に出来た(八幡平市、十和田市)の関係はとても複雑だと思われます。鹿角市が鹿角郡花輪町、十和田町、尾去沢町、八幡平村の合併によって出来た所為でしょうか。
[51636] 2006年 6月 3日(土)14:50:46矢作川太郎 さん
今週の土日レス-2(自己紹介等)
改めまして初めまして。
と言うわけで新規メンバー登録しました。矢作と申します。

まあ自己紹介ついでにニックネームと自分色の決定のいきさつをお知らせしましょう。

ニックネームに関してはまんま市内を流れる一級河川からあやかって付けさせて頂きました。(流域の皆様済みません。(汗))自分色については、下は西三河の「碧海郡」「幡豆郡」をイメージ、左上は東・西加茂郡に分かれていた「加茂郡」をイメージ、右上はわが市が属していた「額田郡」をイメージ、そして名前の字の色は河川のイメージで蒼っぽく・・・って、色の構成がk-aceさんと被ってしまいました。(汗)よく考えていなかった私が悪いんですっっ!!申し訳ありません。

あと[51633]k-aceさん
あと、wikipediaの件ですが、[49418](北の住人 さん)にもあるとおり、素直に信用できないもの1つであるというのが基本スタンスなので、このような真実が不明な場合にwikipediaを用いて述べるというのもどうかと個人的に思ったりもするわけですが…(過去にwikipediaで、キダ・タロー氏死亡というガセを流した輩もいましたし…)。
とされているように、余り信用できないと躊躇ってはいましたが、私はwikipediaに何度もリンクを張ってしまいました。今後そのような事の無いようwikipediaは参考(でいいのか?)程度に収め、リンクは張らない様にしたいと思います。
[51631] 2006年 6月 3日(土)13:31:11矢作川太郎 さん
今週の土日レス-1(大字関連)
皆様、おはようございます。(こんにちはかな?)
平日はどうも忙しく、ROM専となっていました。
(レスしたいのはやまやまなんですけど、次の日の事を考えると・・・)

まあ気を取り直して早速

[51524]千本桜さん
確かに正当性が無いわけではないかもしれませんね。時期は違いますが、(江戸期の宿駅名と明治初期の村名の)実効性という点から言えば共通点が有りそうです。「和合」と言う地名の様な物が実際に効力持っていた間(村名として有効であった期間)は、明治11年から明治22年の間だけでしか有りません。無論その後は編入されるまで(昭和3年)の間はずっと「美合村」と呼ばれていた訳ですから、「大字和合」と言う名称はもはや形骸化していたと私は推測します。駅名に関しても1926年4月1日に美合駅が開業しているので最初は美合村(の中心)にある駅とされていたのでしょうが、その駅名によってその後(多分昭和30年代)に「大字和合」が「美合町」に変更された事への正当性の補強になっていったのかもしれません。今地元の人の認識では、生田、馬頭、平地地区を指す語は美合町でしかありませんし、領域の面からも(生田、馬頭、平地)=美合町であり、(生田、馬頭、平地)=和合→美合町では無いことも致し方ない事でしょうね。もちろん南大平町や東羽根町にされるよりは良かったでしょう。

しかし、そのような解りやすい変更ならまだ良いですが、合併に伴う町名変更でややこしくなった事例をご紹介します。

1.小原町の場合
わが市の北隣の某市(もう隠す必要は無いと思いますが、まだまだ(笑))は2005.4.1に大同合併?(1市に多町村の場合は違うようなイメージがありますが、大規模な合併ととって頂ければ・・・)をして同時に住所変更が行われました。その後私は新市の北部になった旧村の地図を眺めていました。すると、その村の主部であった「大字大草」が「大草町」になっていないのに気付きました。どうせ、旧村名をかぶせて「小原大草町」になったのだろうと探してみましたが、ありませんでした。それもそのはず、「大字大草」は「小原町」になっていたのです。ここで私が問題にしたいのは、「縮小町名」(と私は呼んでいます。)の危険性です。その旧村は明治39年に「豊原、福原、清原、本城村」が合併して成立した村でした。「小原」という名称は「市町村名語源辞典:東京堂出版」によると近世の通称によるとありました。その旧村域全体を指す「小原」と言う名称が主部ではあるものの特定の一地域に縮小されてしまったと言う事です。「大字大草」の範囲は「小原町」として維持されていますが、何も知らない人が見たら、「大字小原」(実際にそんな大字は存在しなかった。)を中心とした村がその旧村であると誤解しかねない状態になっています。(最もその旧村は既に消滅しているので別に良いと市役所は思ったのかも知れないが。)

2.稲武町の場合
前述の合併に参加した別の町の話です。(合併前に前もって郡変更をしたのでご存知の方もお見えでしょうが。)またも旧町名が一部の地域に冠せられてしまいました。今回は旧町名が合成地名(私は合成地名は反対でも賛成でもありませんが、合成地名が再合成されたり、この事例の様になることを危惧しています。)でした。旧町名の由来は具体的にいうと、「稲橋」と「武節」の合成です。しかし、合併後町名は「稲武町」と「武節町」になっていました。合併前はそれぞれ「大字稲橋」と「大字武節町」でした。でも、「大字稲橋」は「稲橋町」とはなりませんでした。ここでも、何も知らない人が見たら、「大字稲武」(実際にそんな大字は存在しなかった。)を中心とした町がその旧町であると誤解しかねない状態になっています。しかも、それまで「稲橋」と言う字名に存在しなかった「武」の字が入っています。由来を知っていればその「武」は「武節」から来ていると解るでしょう。これもその旧町は既に消滅しているので良いと言われればそれまでですが・・・。

このように、素人が地名の由来を厳密に調べるのが一層困難になってしまいました。例え、そこが役場の所在地であったとしても一部地域に旧町村名を冠するのは、私は賛成しかねます。もし旧町村名を残したかったら、旧町村全域の町名全てに冠称を付けるか、旧町村名+元の大字名としなければならないと思います。

*ところで合併に伴う町名変更の資料はだいたいどの位の期間HPに掲載されるものなのでしょうか。掲載が終了している場合どこに問い合わせれば分かるものなのでしょうか。
[51527] 2006年 5月 28日(日)12:57:34矢作川太郎 さん
郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
[51312][51315]拙稿
[51502]Issieさん
たとえば個々の自治体が「ケ」の大小にこだわるようになった(←必ずしも良い意味ではなく)のはやっぱり,元々たくさんのバリエーションが許されていた文字の形に無性に妙なほど“几帳面”になった,
に関連して、

題名は郡区町村編制法の条文から引用したもの(実はIssieさんのHPからだったりします。すいません。)ですが、旧称に基づいた名称であるべきの自治体名及び郡名(実態は明治の大合併期に従来の町村の範囲から大幅に拡大・変更されていますが。)は、後に1946年(昭和21年)11月16日に内閣から告示された1850字からなる当用漢字の枠内に制限された状態で、昭和の大合併期を迎えたとある本(市町村名変遷辞典:東京堂出版刊)の前書きにはあります。前述の通り実際の地名(大字名)は殆どが自治体名からは見られなくなりましたが、継承されたものも幾つかはあったでしょう。しかし、そのような地名も当用漢字に無い事を理由に自治体名から締め出された昭和の大合併期だったのでしょう。(実際の事例をご存知の方、情報をお待ちしています。あと全国地方公共団体コードによって自治体の変更等を管理・把握?するようになった意義についても情報をお待ちしています。←これって事実上の指名なんじゃ・・・)

とまあ、前置きが長くなりましたが、早速本題に入りたいと思います。(汗)
昭和の大合併期以降平成の大合併期に至るまでの期間において今までに無かった変更がちらほら行われています。例えば、濁音←→清音の変更、漢字の字体・書体?等の変更です。これらの変更は自治体運営上は最重要(何が重要かは個々人の価値観に依りますが。)だとは私としてはあまり思えません。(但し、それを探求する事が無意味だとは決して言いません。)他にも、例として挙げれば塩釜市と書いてある地図があるのに市役所としては塩竈市や塩竃市と書いて欲しいと求めているというのは言うのに及ばず(字体はもちろんヶ・ケや清音・濁音やちょう・まちやむら・そんや微妙な発音の違いや音読み・訓読み等、そう言えばヵ・カと言うのはあるのだろうか。)など本当に枚挙に暇が有りません。しかし、そのようなものの変更は殆ど昭和の大合併期以前には見られません。Issieさんが仰る様にそれは表記・読み上の揺れと認識され、ある程度自由度が許容されていたように思います。また、町・村の違いは条例等で今は定められていますが、昔はそのような物は無かったのかも知れません。(実際はどうだったか情報をお待ちしています・・・)要は旧称に依って弾力的に運用されていた自治体名が、何物かによって大幅に自由度を失ったと言えるのでは無いでしょうか。

と、とても長くなってしまいましたが、私達の中にも自治体名は一通りが原則であるという意識(悪く言えば固定観念)が見え隠れしているのでは無いでしょうか。私はそれに囚われて一通りに固定しようとしましたが、どうしても断念せざるおえませんでした。Issieさんが仰っている、
これとは違う表記・読みがあり得ることにご留意願いたい。
と言うことに尽きると思います。

*まとまっているようないないような文面で済みません。(汗)


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示