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矢作川太郎さんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[51731]2006年6月12日
矢作川太郎
[51666]2006年6月6日
矢作川太郎
[51636]2006年6月3日
矢作川太郎
[51631]2006年6月3日
矢作川太郎
[51527]2006年5月28日
矢作川太郎
[51514]2006年5月27日
矢作川太郎
[51430]2006年5月22日
矢作川太郎
[51331]2006年5月14日
矢作川太郎
[51315]2006年5月13日
矢作川太郎
[51312]2006年5月13日
矢作川太郎

[51731] 2006年 6月 12日(月)01:52:43矢作川太郎 さん
後れてきた(汗)男-市章関連
[51618]右左府さん
最近、忙しくて全然落書き帳に目を通せていない矢作です。いやぁ本当にレスどうもです。但しこの記事にレスするために時間を浪費する事の無いようお願いしますよ。(笑)人生で受験勉強程糧になる物は無いと思っていますので。(例えそれが数年後であっても早過ぎると言う事は無い。適当に流してきた自分が悔やまれる・・・(遠い目))あと、大学に入ったら楽になるという考えは捨てた方が良いです。って、何語っているんだか!!

気を取り直して早速。
市町村の財政力や、慣行の本来の役割を元に考えると、矢作川太郎さんの述べられた通りになるでしょうね。

取り敢えずはこの6村は「未制定」と仮定して調査を進めて行きたいと思います。
とまぁ、お恥ずかしいながらも納得された様で安心しています。
あと、
自治体が消滅すると、その慣行(紋章、花・木・鳥、歌etc.)も消滅してしまいます。つまり、市旗などはお役目無用に。そうしますと、降納された旗はその後どうなってしまうんでしょうか?
に関して、情報提供では無いですが反応します。←(飯能では無くなったのかと。)もとい、そう言えば消滅する市町村の旗が最後に公式な場所に出てくるのは合併調印式のような気がします。(報道写真などでよく見る、でも地元では合併後の記念式典で用いられる気もする、全国的に見ることが出来る最後のチャンスと言うことで。)ですが、一部の市町村では、合併前の市町村の資料などを合併後に陋習だとばかりに破棄する事があるそうです。(保管場所の問題が絡んでくるのかも知れないが。)正直、複雑です。(例えば、ある町のHPでは昭和の大合併以前の歴史が記載されていない事があった、○○町の歴史としては正しいかも知れないが、通常○○町域の歴史ととる人が多いのでは無いだろうか。)話が横道に逸れましたが、相当心掛けが良くない限り資料には残っても、現物として残っているかは正直怪しい所があります。

これに関連して、私も「学内」の←(ナゼそこを強調する!!)図書館で旧市の市章を眺めていまして、とても懐かしく思いました。(具体的には勝田市、那珂湊市等の平成の大合併期以前に消滅した市、但し余り遡れない。)ところで、慣行の制定時期にはやはり相当なバラツキがあるようです。(市制○○周年を期に制定等。)でも市町村章は比較的、早期に制定されやすいようです。あと、平成の大合併期以前に存在した市町村章を総覧的に見たい時には、角川地名辞典の後の方がお薦めです。一部*を除いてかなりの数の市町村章が見られます。(他の慣行が載っていたかどうかは記憶が不確実。)

*徳山ダムに沈むため廃村になった徳山村等、要は地名辞典刊行以後に消滅した旧村など、但し静岡県の浜名郡可美村は載っていた。(廃村になると分かっているから、慣行を制定するのも気が引けたのだろうか。)

あと、些細な事ですけど、右左府さんのメンバー紹介の下の方にある出身地欄に、
出身地 秋田県能代市(能代市)
とあったので感服の一言です。
そう言えば、能代市は新設(合併)でしたね。わざわざ()内にお書きになっていて感心したと言うことです。私の方は編入(合併)でしたので、
居住地 愛知県岡崎市
のままです。(岡崎市に生まれたとしても。)
[51666] 2006年 6月 6日(火)01:21:23矢作川太郎 さん
鹿角八幡平IC-花輪SA-十和田IC
とまあ、題名に東北自動車道のIC・SAを出してみたわけです。本文と直接は関係有りませんけど、象徴的だと言うことにしておいて下さい。

一回週末に書き込む内容を練っていましたが、どうにもまとまらなくなりましたので平日にズレ込んでしまっ・・・ああっ!!まあ御託はそれまでにして早速本文をどうぞ。(笑)

[51430]拙稿
[51472]敷守ほむらさん

確か何処かのHPに「領」には郡を細分化した地理区分であったと書いてありました。(御存知の方情報求む。)今日、学内の図書館で角川の地名辞典を引っ張り出して調べた所、昔、八戸を中心とした一帯を治めた南部藩では「通」と言う物で郡を細分化したとありました。(多分、東通村に残ったのか?これは北浜街道の別名だから違うか。)つまり、この「通」と言う物が他の地域の「領」と何らかの関わりがあると「思われます。」(←あくまで主観です。)

次に、三戸郡に関しては、江戸時代のごく初期に陸奥国糠部郡を北郡(現:上北、下北郡)・三戸郡・二戸郡・九戸郡に分割した際に成立したとされていますが、それ以前から糠部郡を細分化する際に三戸領(通?)が用いられていたのでは無いでしょうか。

一方、鹿角郡に関して戦国期以前には隣の比内郡(現:大館市の一帯)とともに陸奥国とされましたが、戦国期に比内郡が秋田郡(後の北秋田郡)編入された後は出羽国に接する様になります。それでも、津軽地方と米代川上流域とは、坂梨・矢立両峠を介して交流は盛んだったのでしょう。しかし、鹿角領と呼ばれたかは確証が持てません。

でも、それが、
昔ばなし中では、三戸と鹿角がとなりの国という表現を使っていて、三戸領、鹿角領という言い方をしていたのですが、となりの領というのをとなりの国と表現していたのかな?
という事実となって、陸奥国内でも違う地域だと認識されたのでしょう。これに関連して、何故、陸奥・出羽両国が大きいまま明治を迎えたのか。という疑問が湧いてきますが、それは、律令制の崩壊と関連します。律令制というのは、朝廷が日本国内を多数の国に分けて、そこに国司を派遣して統治すると言うものですが、荘園や武士の領有によって、律令制の国が形骸化した後は、分割して面積の差を是正する必要は無くなり広いまま単に地理区分としてしか利用されなくなりました。その後、明治新政府により分割されてゆく過程で三戸と鹿角が別の国となっていった訳です。しかし、それは、殆ど利用されず県の単位=国の単位となって自然に忘れ去られていきました。(実際に使われている事例はある。)

この中で三戸と鹿角が別の国となった経緯に興味深い記述が角川の地名辞典に有りました。それは、南部藩の影響力を削ぐ為に新政府がワザと分けたと言う物です。鹿角郡周辺は古くから鉱業が盛んでした。(尾去沢鉱山小坂鉱山など、現在廃墟フリークの聖地となっている。)それらは、南部藩の重要な財源となっていました。しかし新政府から見れば脅威と映ったのでしょうか。後に倒幕派の松代藩の手に渡っています。またその際に、「鹿角郡田山村」を「二戸郡田山村」としたそうです。これが事実であれば、鹿角郡と岩手郡が接していた事になり、そのままの状態で分けられたら陸中に飛び地は出来なかったのかも知れません。

*題名のIC・SA名と今回の合併で鹿角市に接する様に出来た(八幡平市、十和田市)の関係はとても複雑だと思われます。鹿角市が鹿角郡花輪町、十和田町、尾去沢町、八幡平村の合併によって出来た所為でしょうか。
[51636] 2006年 6月 3日(土)14:50:46矢作川太郎 さん
今週の土日レス-2(自己紹介等)
改めまして初めまして。
と言うわけで新規メンバー登録しました。矢作と申します。

まあ自己紹介ついでにニックネームと自分色の決定のいきさつをお知らせしましょう。

ニックネームに関してはまんま市内を流れる一級河川からあやかって付けさせて頂きました。(流域の皆様済みません。(汗))自分色については、下は西三河の「碧海郡」「幡豆郡」をイメージ、左上は東・西加茂郡に分かれていた「加茂郡」をイメージ、右上はわが市が属していた「額田郡」をイメージ、そして名前の字の色は河川のイメージで蒼っぽく・・・って、色の構成がk-aceさんと被ってしまいました。(汗)よく考えていなかった私が悪いんですっっ!!申し訳ありません。

あと[51633]k-aceさん
あと、wikipediaの件ですが、[49418](北の住人 さん)にもあるとおり、素直に信用できないもの1つであるというのが基本スタンスなので、このような真実が不明な場合にwikipediaを用いて述べるというのもどうかと個人的に思ったりもするわけですが…(過去にwikipediaで、キダ・タロー氏死亡というガセを流した輩もいましたし…)。
とされているように、余り信用できないと躊躇ってはいましたが、私はwikipediaに何度もリンクを張ってしまいました。今後そのような事の無いようwikipediaは参考(でいいのか?)程度に収め、リンクは張らない様にしたいと思います。
[51631] 2006年 6月 3日(土)13:31:11矢作川太郎 さん
今週の土日レス-1(大字関連)
皆様、おはようございます。(こんにちはかな?)
平日はどうも忙しく、ROM専となっていました。
(レスしたいのはやまやまなんですけど、次の日の事を考えると・・・)

まあ気を取り直して早速

[51524]千本桜さん
確かに正当性が無いわけではないかもしれませんね。時期は違いますが、(江戸期の宿駅名と明治初期の村名の)実効性という点から言えば共通点が有りそうです。「和合」と言う地名の様な物が実際に効力持っていた間(村名として有効であった期間)は、明治11年から明治22年の間だけでしか有りません。無論その後は編入されるまで(昭和3年)の間はずっと「美合村」と呼ばれていた訳ですから、「大字和合」と言う名称はもはや形骸化していたと私は推測します。駅名に関しても1926年4月1日に美合駅が開業しているので最初は美合村(の中心)にある駅とされていたのでしょうが、その駅名によってその後(多分昭和30年代)に「大字和合」が「美合町」に変更された事への正当性の補強になっていったのかもしれません。今地元の人の認識では、生田、馬頭、平地地区を指す語は美合町でしかありませんし、領域の面からも(生田、馬頭、平地)=美合町であり、(生田、馬頭、平地)=和合→美合町では無いことも致し方ない事でしょうね。もちろん南大平町や東羽根町にされるよりは良かったでしょう。

しかし、そのような解りやすい変更ならまだ良いですが、合併に伴う町名変更でややこしくなった事例をご紹介します。

1.小原町の場合
わが市の北隣の某市(もう隠す必要は無いと思いますが、まだまだ(笑))は2005.4.1に大同合併?(1市に多町村の場合は違うようなイメージがありますが、大規模な合併ととって頂ければ・・・)をして同時に住所変更が行われました。その後私は新市の北部になった旧村の地図を眺めていました。すると、その村の主部であった「大字大草」が「大草町」になっていないのに気付きました。どうせ、旧村名をかぶせて「小原大草町」になったのだろうと探してみましたが、ありませんでした。それもそのはず、「大字大草」は「小原町」になっていたのです。ここで私が問題にしたいのは、「縮小町名」(と私は呼んでいます。)の危険性です。その旧村は明治39年に「豊原、福原、清原、本城村」が合併して成立した村でした。「小原」という名称は「市町村名語源辞典:東京堂出版」によると近世の通称によるとありました。その旧村域全体を指す「小原」と言う名称が主部ではあるものの特定の一地域に縮小されてしまったと言う事です。「大字大草」の範囲は「小原町」として維持されていますが、何も知らない人が見たら、「大字小原」(実際にそんな大字は存在しなかった。)を中心とした村がその旧村であると誤解しかねない状態になっています。(最もその旧村は既に消滅しているので別に良いと市役所は思ったのかも知れないが。)

2.稲武町の場合
前述の合併に参加した別の町の話です。(合併前に前もって郡変更をしたのでご存知の方もお見えでしょうが。)またも旧町名が一部の地域に冠せられてしまいました。今回は旧町名が合成地名(私は合成地名は反対でも賛成でもありませんが、合成地名が再合成されたり、この事例の様になることを危惧しています。)でした。旧町名の由来は具体的にいうと、「稲橋」と「武節」の合成です。しかし、合併後町名は「稲武町」と「武節町」になっていました。合併前はそれぞれ「大字稲橋」と「大字武節町」でした。でも、「大字稲橋」は「稲橋町」とはなりませんでした。ここでも、何も知らない人が見たら、「大字稲武」(実際にそんな大字は存在しなかった。)を中心とした町がその旧町であると誤解しかねない状態になっています。しかも、それまで「稲橋」と言う字名に存在しなかった「武」の字が入っています。由来を知っていればその「武」は「武節」から来ていると解るでしょう。これもその旧町は既に消滅しているので良いと言われればそれまでですが・・・。

このように、素人が地名の由来を厳密に調べるのが一層困難になってしまいました。例え、そこが役場の所在地であったとしても一部地域に旧町村名を冠するのは、私は賛成しかねます。もし旧町村名を残したかったら、旧町村全域の町名全てに冠称を付けるか、旧町村名+元の大字名としなければならないと思います。

*ところで合併に伴う町名変更の資料はだいたいどの位の期間HPに掲載されるものなのでしょうか。掲載が終了している場合どこに問い合わせれば分かるものなのでしょうか。
[51527] 2006年 5月 28日(日)12:57:34矢作川太郎 さん
郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
[51312][51315]拙稿
[51502]Issieさん
たとえば個々の自治体が「ケ」の大小にこだわるようになった(←必ずしも良い意味ではなく)のはやっぱり,元々たくさんのバリエーションが許されていた文字の形に無性に妙なほど“几帳面”になった,
に関連して、

題名は郡区町村編制法の条文から引用したもの(実はIssieさんのHPからだったりします。すいません。)ですが、旧称に基づいた名称であるべきの自治体名及び郡名(実態は明治の大合併期に従来の町村の範囲から大幅に拡大・変更されていますが。)は、後に1946年(昭和21年)11月16日に内閣から告示された1850字からなる当用漢字の枠内に制限された状態で、昭和の大合併期を迎えたとある本(市町村名変遷辞典:東京堂出版刊)の前書きにはあります。前述の通り実際の地名(大字名)は殆どが自治体名からは見られなくなりましたが、継承されたものも幾つかはあったでしょう。しかし、そのような地名も当用漢字に無い事を理由に自治体名から締め出された昭和の大合併期だったのでしょう。(実際の事例をご存知の方、情報をお待ちしています。あと全国地方公共団体コードによって自治体の変更等を管理・把握?するようになった意義についても情報をお待ちしています。←これって事実上の指名なんじゃ・・・)

とまあ、前置きが長くなりましたが、早速本題に入りたいと思います。(汗)
昭和の大合併期以降平成の大合併期に至るまでの期間において今までに無かった変更がちらほら行われています。例えば、濁音←→清音の変更、漢字の字体・書体?等の変更です。これらの変更は自治体運営上は最重要(何が重要かは個々人の価値観に依りますが。)だとは私としてはあまり思えません。(但し、それを探求する事が無意味だとは決して言いません。)他にも、例として挙げれば塩釜市と書いてある地図があるのに市役所としては塩竈市や塩竃市と書いて欲しいと求めているというのは言うのに及ばず(字体はもちろんヶ・ケや清音・濁音やちょう・まちやむら・そんや微妙な発音の違いや音読み・訓読み等、そう言えばヵ・カと言うのはあるのだろうか。)など本当に枚挙に暇が有りません。しかし、そのようなものの変更は殆ど昭和の大合併期以前には見られません。Issieさんが仰る様にそれは表記・読み上の揺れと認識され、ある程度自由度が許容されていたように思います。また、町・村の違いは条例等で今は定められていますが、昔はそのような物は無かったのかも知れません。(実際はどうだったか情報をお待ちしています・・・)要は旧称に依って弾力的に運用されていた自治体名が、何物かによって大幅に自由度を失ったと言えるのでは無いでしょうか。

と、とても長くなってしまいましたが、私達の中にも自治体名は一通りが原則であるという意識(悪く言えば固定観念)が見え隠れしているのでは無いでしょうか。私はそれに囚われて一通りに固定しようとしましたが、どうしても断念せざるおえませんでした。Issieさんが仰っている、
これとは違う表記・読みがあり得ることにご留意願いたい。
と言うことに尽きると思います。

*まとまっているようないないような文面で済みません。(汗)
[51514] 2006年 5月 27日(土)21:51:07矢作川太郎 さん
大字・字・小字→~町・~○丁目
[51473]千本桜さん
[51480]88さん
[51483]YSKさん

こういうのを見てしまうと思わず飯能シテしまいます。

私の住んでいる市(皆さんもうお判りですよね、一応ぼかしてみます。)では、ご多分に漏れず合併に伴い住所変更が有りまして、二つの事例をご紹介します。(例外的な取り扱いが為されたのはその二つだけです。)

1:東河原町の場合
合併前わが市には河原町という町がありました。ところが合併する隣町には「大字河原」(多分)と言う所がありました。この場合、機械的に「大字河原」→「河原町」とすると、二つ「河原町」が存在してしまいます。もちろん、対策はとられまして、わが市の「河原町」はそのままで、隣町の「大字河原」は冠称を付けて「東河原町」とされました。この場合、町と大字間の問題ですので、(元々両者が離れているので)あまり問題にはならないと思いますが、YSKさんが言われたような、ある大字と隣の大字との統合の際にとられる対策(双方の小字の衝突)としては、地名保存の観点から言えば有効だと思いますが、住民から言わせれば混乱の元と成り得るかもしれません。(元からそのような冠称が付いていたものと誤解される可能性も有り得る、しかし大字の範囲を固定するためには必要な妥協か。)

2:中伊町・中伊西町の場合
隣町には「大字中伊」という所が存在しました。しかし、今はわが市の「中伊町」の範囲とは異なります。実は合併を期に「大字中伊」が「中伊町・中伊西町」に分割されたのです。実態はどうだったかは存じませんが、少し前の地図を見てみると(大字)中伊の近くに「中伊西」という記載があります。中伊地区では地区は少し広すぎると言う意見が合併を期に実現されたのでしょう。しかし、一筋縄ではいかない事実があります。昔、「大字中伊」は明治11年に中保久村と伊賀谷村が合併したものだったのです。「中伊町・中伊西町」のそれぞれの範囲が中保久村と伊賀谷村の範囲が合致するとは限らないので妥当な処理だったと思いますが、(それぞれの村の小字が正確に記録された資料が無かったのかもしれない。)少し複雑な気分です。

※おまけ
1.隣町には「大字千万町(ぜまんぢょう)」が有りましたが、合併前に一時期「千万町(ぜまんちょう?)」にする事が検討されていました。結局「千万町町(ぜまんぢょうちょう)」となりましたとさ。
2.わが市内の事を少々、最終処分場がある「才栗町」は才熊村と栗木村の合成だったなんて、何人が知っているんだろう・・・
3.これもわが市の事ですが、「美合町」が衝撃的です。(生田・馬頭・平地村が明治11年に合併した)和合村の範囲が現在の美合町です。明治の大合併期に岡・保母両村と合併して美合村となりました。その後いつか解らないですが「美合村大字和合」→「美合町」となったらしいです。(岡・保母両村は岡町・保母町となっているのに・・・)この事実は最近になって解ったのでさらに驚きです。しかし、生田・馬頭・平地の名前はバス停名・街道名等に辛うじて残っています。

*最後に
地名(自治体内の特定の地域を指す名前)は人為的に加工(改変・改竄と言っても良いですが、あまり良いイメージが無いので。)されていますが。公的な住所表記から完全に消滅する事はあっても、ローカルな名称(バス停名・交差点名等)には比較的残っている事もあるようです。
何より、この事に関連して(もちろん伝統的な名前にするに越したことは有りませんが、少々乱暴な言い方になりますが)合併後の自治体名が盛んに議論されています。しかし、それよりも自治体内の地名(前述の通り)の加工への議論までは及ばない場合が多いのを少し危惧しています。(自治体内に組み込まれた大字・町名の合併・分割・改称、要は内なる町村合併の進行の方が私は気になります。)この事に関して皆様のご意見をお聞かせ下されば幸いです。

#私も88さんの様にギラギラした文になってしまいました(笑)
[51430] 2006年 5月 22日(月)00:29:21矢作川太郎 さん
奥州街道→陸羽街道
[51425]にまんさん
鹿角と三戸って「同じ国」になりませんか?
実は違う国だと今さっきまで思い込んでた矢作です。(笑)
Wikipediaのページに有るように鹿角郡は陸中、三戸郡は陸奥とそれぞれなっています。しかし
明治元年 (1868年) 12月7日に、陸奥国を分割して設けられた。
とあります。ですので、明治元年以前には同じ国であると言えるのです。昔話の類のものが明治時代に発祥したとは考えにくく、やはり前述の通りであるといえます。

では何故、鹿角郡が陸中とされたのかについて、一つ仮説を立ててみます。多分今でも有ると思いますが、青森県(陸奥国)内において南部地方と津軽地方とは藩政期から別個の物であるという意識があるようです。当然、それぞれの主要都市である弘前、八戸への交通路は途中で分岐していたのでしょう。(東北・八戸両自動車道が分岐しているように。)八戸へ向かう際には奥州街道を道なりに行けば辿り着けます。(その延長に竜飛崎始め、東津軽郡の宿が有ることから東津軽郡も他の津軽郡からすれば違う地域だと認識されたのでは無いでしょうか。)一方、弘前へは奥州街道から大釈迦峠を越えるルートは遠回りになります。ですから、奥州街道とは別の鹿角街道(津軽街道)が利用されたのでは無いでしょうか。(そのルートは東北自動車道のルートにもなっています。)ですから、後の陸中国(盛岡を中心とする地域)にしてみれば、鹿角は弘前に向かう際の道沿いの奥の方となるので、陸中の延長と見なされたのでしょう。そして明治元年の陸奥国分割に際して陸中国と位置付けられたのでしょう。(まあ、山向こうの他の水系の最上流部がこちら側の郡或いは国に属するのは良くある事例です。)しかし、二戸郡の区域は鹿角街道(津軽街道)沿いとは認識されず、(端っこをかすめているだけだからか?)奥州街道沿い、もしくは(安比川→馬淵川)沿いと認識されたのではないでしょうか?

*タイトルの奥州街道→陸羽街道への変更は1873年(明治6年)行われたそうです。(陸奥・陸
 中・陸前だけではなく羽後・羽前にも通じている事を表したかったのか?それとも、日本海
 経由が一般的では無かったからか?悩ましい・・・)
[51331] 2006年 5月 14日(日)12:40:50矢作川太郎 さん
市町村章などなど
[49665]右左府さん

亀レスですが、飯能してみます。
ですが、憶測を多分に含んでいますので、参考にはあまりしないで下さい。(笑)

一般的に役所・役場においては市町村章、花、木、鳥、市民憲章、各種宣言等と言うのは、慣行と呼ばれています。ですが、右左府さんも言われている通り、
他町村のシンボル制定時期を見ると、大半が戦後の制定となっています。
となっているので、多分無かったとみるしか有りません。多分、それは市町村の位置づけの変化が関わって来るのでしょう。明治の大合併では、大規模な合併と言っても、ある程度一体感のある地域が合併していたと思います。その時点では、一個の町村の人口は今にしてみれば、ずっと少数なものであったでしょう。ですから、現在の慣行のような物を制定する経済的な余裕は余りなく、また一体感を慣行のような物で醸し出す必要も無かったのかもしれません。

ただ都市部の大都市に限って言えば、人口も多数であったため、慣行を制定する経済的な余裕があり、なおかつ一体感を醸し出す必要があったのでしょう。

その後、昭和の大合併期に出来た新たな町村では、個々に一体感のある別の町村が多数合併したので、一体感を創出する為に慣行が制定されたのかもしれません。

抽象論で済みませんが、終戦間際に日本人が居なくなった6村に関して、状況証拠でしかなく確定的な事は言えません。しかし、時期を考えれば無かったとするのが一応妥当でしょう。しかしもしかしたら、制定しようとしていたのかも知れません。


この件に関連してご報告します。私は大学生なのですが、先日図書館で調べ物をしていた際、各県章並びに都道府県庁所在地の市章に併せて、外国の著名な都市の市章と言う項目を見つけました。私はやはり海外でもそのような物を制定しているのだと関心しました。
ただ日本の市章に多く見られる文字(ひらがな、カタカナ、漢字)を組み合わせた物は無く。(日本じゃ無いんだから当たり前か。)その都市にちなんだ動植物や領主の家紋?がモチーフになっていました。ただし市章全体の形は何故か国が違っても統一されていました。

一応ご参考までに。
[51315] 2006年 5月 13日(土)16:54:51矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より その2
拙稿[51312]
に関連してですが、町と村のイメージの違いについて述べたいと思います。

どちらも日本の自治体の区分で郡の下部に位置するものですが、率直に言うと町(大きい、都市に近い、商業が主な産業)で村(小さい、都市から遠い、農・漁・林業が主な産業)であると言うイメージが一般的にあると思います。では実態としてはどうだったのでしょう?

現在、制度の面から言えば、
町となるためには、当該都道府県の条例で定める「町」としての要件を具備する必要がある
村の法的な要件は特段定めはない。
以上Wikipediaの該当ページには書いてあります。過去に宮城県の加美町が合併して成立する際に、条例によって村になる所だったと聞いています。結局、条例の改正によって事無きを得ましたが。また熊本県の南阿蘇村では(南阿蘇)のイメージを変えない為に、敢えて「南阿蘇町」にならなかったとも聞きました。このように条例の解釈と町村の意図によって「町」と「村」が決まってくるようです。では歴史的にはどうだったのでしょう。

明治時代の初期には町と言うのは、純粋に市街地を指す言葉でした。(この落書き帳でも何度も言及されています。)また村はそれ以外の農・漁村を指していました。(一部の例外的な市街地を含む)それが郡区町村編制法・市制・町村制といわゆる明治の大合併により大規模な市街地は全体を総括して「市」となり、一部の市街化された村が「町」となりました。(中規模な市街地が「町」を総括して全体を「町」とした所もある。)この時点では現在のイメージとほぼ合致すると同時に町・村の違いは市街地・周辺部と言うことになってもまだまだ流動的なものがありました。(愛知県幡豆郡一色町、横須賀町の例がある。)

大正から昭和初期にかけては、順次市街化された「村」が「町」となり町が増加しました。小規模な合併もあり、町から切り離されて合併して成立した周辺部の村(極端に言うと愛知県愛西市のような感じ)も町に編入されました。

昭和の大合併では、小規模な「町」を核として「市」がいくつも誕生しました。町村部でも「村」がいくつも合併してできた従来よりは大きい「町」「村」ができました。その結果町:村の比率が1950年当時において約1:4だったのが、1960年には約2:1に逆転してしまいました。

その後、1960年から2000年にかけて500ほどの村が人口増加などによって町制していきました。ただし、その間は概ね町・村の全体数はあまり変わりませんでした。

そして平成の大合併を終えた今では町:村の比率は約4:1で推移しています。昔では考えられないような所さえ「市」になっていることは言うまでもありません。

このように町村部は激しく変化を繰り返していました。いや、これからも劇的な変化を余儀なくされるでしょう。そんな中で「町」「村」のイメージはあまり変わらないのは日本人の「ふるさと」へのイメージがあまり変わらないのと共通しているように思います。

*思いっきり硬い文章になってしまいました、すいません(汗)
 タイトルは本文の内容と関係してるようで、していません(笑)
[51312] 2006年 5月 13日(土)15:20:38矢作川太郎 さん
町と村 ~NHK高校講座日本史~より
呼ばれてもいないのに出てきてみました。
少し亀レスですが。

[51244]じょにーさん
[51246]花笠カセ鳥さん
[51261]Issieさん
[51273]千本桜さん
[51277]88さん

同じような例が静岡県にもあります。浜松市に編入された引佐町ですが、1953.4.1に金指町が井伊谷村に編入されて、同日に井伊谷村が改称・町制されて引佐町となって成立しています。もっとも1955.5.1には周辺3村と新設合併して新・引佐町となっていますが。
1889.4.1時点(明治の大合併時)では金指町は三和村から分離して成立しています。(三和村は明治9年に石岡、五日市場、金指の3村により成立)一方その頃の井伊谷村は井伊谷、横尾、白岩、花平、三岳村『兎荷村の一部が入っている資料もあり。』の合併により成立しています。(もっとも井伊谷村は明治9年に北神宮寺、東牧、南神宮寺の3村により成立)

この事から少し推測してみます。1889.4.1当時郡役所のある気賀村に程近かった三和村の金指地区で市街地が形成され始めたので三和村から分離しようという動きが起こったとします。それによって金指町が成立します。(よく言われている事ですが、明治の大合併は従来の村落を合併して財政的に安定した形態にしたと言います。産業形態の違いから分離されたと言うこともあったのではないでしょうか。)その後昭和の大合併期になって、丘陵によって隔てられている?井伊谷川沿いの井伊谷村との合併が打診されます。面積の点で言えば井伊谷村の方が合併によって成立していて大きいので(昔は耕地面積の広さが行政における重要度の指標となったのではないでしょうか?)井伊谷村への編入と言う実態で合併が行われます。しかし、建前としては、新規の名称を採用すると決められたのでしょう。(この場合は郡名ですね。)この名称が2年後の合併にも受け継がれたのではないでしょうか。

*町と村のイメージの違いの変遷については稿を改めます。
 長文済みませんでした。


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