[51473]千本桜さん
[51480]88さん
[51483]YSKさん
こういうのを見てしまうと思わず飯能シテしまいます。
私の住んでいる市(皆さんもうお判りですよね、一応ぼかしてみます。)では、ご多分に漏れず合併に伴い住所変更が有りまして、二つの事例をご紹介します。(例外的な取り扱いが為されたのはその二つだけです。)
1:東河原町の場合
合併前わが市には河原町という町がありました。ところが合併する隣町には「大字河原」(多分)と言う所がありました。この場合、機械的に「大字河原」→「河原町」とすると、二つ「河原町」が存在してしまいます。もちろん、対策はとられまして、わが市の「河原町」はそのままで、隣町の「大字河原」は冠称を付けて「東河原町」とされました。この場合、町と大字間の問題ですので、(元々両者が離れているので)あまり問題にはならないと思いますが、YSKさんが言われたような、ある大字と隣の大字との統合の際にとられる対策(双方の小字の衝突)としては、地名保存の観点から言えば有効だと思いますが、住民から言わせれば混乱の元と成り得るかもしれません。(元からそのような冠称が付いていたものと誤解される可能性も有り得る、しかし大字の範囲を固定するためには必要な妥協か。)
2:中伊町・中伊西町の場合
隣町には「大字中伊」という所が存在しました。しかし、今はわが市の「中伊町」の範囲とは異なります。実は合併を期に「大字中伊」が「中伊町・中伊西町」に分割されたのです。実態はどうだったかは存じませんが、少し前の地図を見てみると(大字)中伊の近くに「中伊西」という記載があります。中伊地区では地区は少し広すぎると言う意見が合併を期に実現されたのでしょう。しかし、一筋縄ではいかない事実があります。昔、「大字中伊」は明治11年に中保久村と伊賀谷村が合併したものだったのです。「中伊町・中伊西町」のそれぞれの範囲が中保久村と伊賀谷村の範囲が合致するとは限らないので妥当な処理だったと思いますが、(それぞれの村の小字が正確に記録された資料が無かったのかもしれない。)少し複雑な気分です。
※おまけ
1.隣町には「大字千万町(ぜまんぢょう)」が有りましたが、合併前に一時期「千万町(ぜまんちょう?)」にする事が検討されていました。結局「千万町町(ぜまんぢょうちょう)」となりましたとさ。
2.わが市内の事を少々、最終処分場がある「才栗町」は才熊村と栗木村の合成だったなんて、何人が知っているんだろう・・・
3.これもわが市の事ですが、「美合町」が衝撃的です。(生田・馬頭・平地村が明治11年に合併した)和合村の範囲が現在の美合町です。明治の大合併期に岡・保母両村と合併して美合村となりました。その後いつか解らないですが「美合村大字和合」→「美合町」となったらしいです。(岡・保母両村は岡町・保母町となっているのに・・・)この事実は最近になって解ったのでさらに驚きです。しかし、生田・馬頭・平地の名前はバス停名・街道名等に辛うじて残っています。
*最後に
地名(自治体内の特定の地域を指す名前)は人為的に加工(改変・改竄と言っても良いですが、あまり良いイメージが無いので。)されていますが。公的な住所表記から完全に消滅する事はあっても、ローカルな名称(バス停名・交差点名等)には比較的残っている事もあるようです。
何より、この事に関連して(もちろん伝統的な名前にするに越したことは有りませんが、少々乱暴な言い方になりますが)合併後の自治体名が盛んに議論されています。しかし、それよりも自治体内の地名(前述の通り)の加工への議論までは及ばない場合が多いのを少し危惧しています。(自治体内に組み込まれた大字・町名の合併・分割・改称、要は内なる町村合併の進行の方が私は気になります。)この事に関して皆様のご意見をお聞かせ下されば幸いです。
#私も88さんの様にギラギラした文になってしまいました(笑)