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北の住人さんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[64681]2008年4月13日
北の住人
[63684]2008年2月9日
北の住人
[63401]2008年1月14日
北の住人
[63261]2008年1月7日
北の住人
[62911]2007年12月22日
北の住人
[62719]2007年11月29日
北の住人
[62678]2007年11月26日
北の住人
[62631]2007年11月24日
北の住人
[62556]2007年11月18日
北の住人
[62501]2007年11月13日
北の住人

[64681] 2008年 4月 13日(日)17:34:52北の住人 さん
雑文
地理と全然関係ないですが、[64626] MasAkaさんの「煮詰まる」についての記事を読んでの感想です。この言葉、私も辞書にない意味で使うことが多いですね。自分で使っていながら言うのもなんですが、誤用でしょうね。そのうち、誤用の慣用として認められるかもしれませんが。これと似たような状態(切羽詰った状態、にっちもさっちも行かなくなった状態、問題が同時に大量に発生しお手上げの状態)になったとき、上司への言い訳として、「てんぱる(てんぱってます)」という言い方もします。これも本来の意味から離れた使い方だと思いますが、私の周辺ではそれなりに聞きます。
「少ない(少い)」「ひらがな(ひらかな)」は、教科書上ではなく日常の使用では、どちらでも許容範囲かなと思います。(単に私が無頓着なのかもしれませんが、両方とも気になりません。)

ところで、地名コレクション編集長のEMMさんへ、新コレクションの提案です。「々」コレクションというのがありますが、「記号を使った地名」コレクションはどうでしょうか。例えば「〆」が使われている地名がいくつかありました。(本来なら、いいだしっぺが行うのが、とある業界のしきたりではあるのですが、私のネット環境では何年かかるか分からないので、提案のみとさせて頂きました。)
[63684] 2008年 2月 9日(土)16:43:17【2】北の住人 さん
元紋別の元
[63643] ぺとぺと さん
[63649] 星野彼方 さん
紋別市の地名「元紋別」は駅名由来のようですが、その駅名は地名「元紋別」が由来かもしれません。

明治24年発行「北海道蝦夷語地名解」(永田方正著)によると、紋別郡海岸部の地名に「モペッ」があり「今人元紋別ト呼ブ藻別村ノ元名」と書かれています。この「藻別村」は「藻鼈村」のことで、藻鼈川河口付近は、俗称かもしれませんが「元紋別」と呼ばれていたようです。

一方、「元紋別駅」は大正10年に藻鼈川の右岸、「紋別町大字藻鼈村」の地に開駅しました(平成元年廃止)。駅名は、明治期から使われていた「元紋別」を採用したのではないかと考えられます。
字名としての「元紋別」がいつから存在したのか分かりませんが、昭和26年「北海道市町村行政区画便覧」には、「紋別町大字藻鼈村」の字名に「元紋別」が記載されています。その後、昭和34年に「紋別市大字紋別村」「紋別市大字藻鼈村」のそれぞれ一部が「紋別市元紋別」になったわけです。
[63401] 2008年 1月 14日(月)20:47:09【1】北の住人 さん
道国府県郡区の分合廃置と廃使置県
道府県の順序に関して[62911]の「官等表」に続き、こんな文書を見つけました。おそらく公文書だと思いますが、実物(引用元は「公文録 太政官」)は確認していません。北海道の「廃使置県(この語句は開拓使に対する太政官の令達に使われています)」に関して、札幌市史に書かれていた記述で、下の文は明治11年7月の政府の元老院に対する指令です。
市史では、「廃使置県」は明治15年2月8日の太政大臣・内務卿連署により行われ、元老院の議定に付さなかったのは急を要するので例外としたのではないか、となっています。ちなみに、これ以前にも北海道には、「廃藩置県」による「県」は存在していました。

「上奏ノ議道国府県郡区ノ分合廃置及名称ノ変更ハ、其院ノ議定ニ付セラルヘキ事」
[63261] 2008年 1月 7日(月)20:00:58【1】北の住人 さん
県境
記事検索で見当らなかったので初出だと思いますが、今日、本屋で「県境の謎」とかいう本に出会いました。カバーには「四国には愛媛と高知しかなかった」なんていう文句が書いてあります。目次を見たところ、廃藩置県から県境未定地の話題まで新旧いろいろ、手ごろな値段なので買ってもよし、図書館で借りてもよしの本だと思います
[62911] 2007年 12月 22日(土)20:27:55【2】北の住人 さん
「道府県」という呼称の順序
[62849] オーナー グリグリさん
明治の北海道(開拓使時代)についての本を読んでいたら、ある表に出会いました。各所の役職を抜き出すと次のようになります。

官等表(明治5年「法令全書」より抜粋)
一等二等三等四等五等
兵部省大輔少輔大丞少丞
陸軍大将中将少将大佐
開拓使長官次官判官権判官
知事権知事参事
権令
(三等以上は勅任、四等から七等は奏任)

各長の順は、開拓使長官>府知事>県令となり、開拓使を「道」とみなすと、「道府県」の順となります。

なお、開拓使長官は大臣級で、内閣(当時もそう呼んだ?)の一員に並ぶ階級にあたるという文章を読んだ記憶もあります。
時代は下り明治17年のことですが、県から○○さんに送られた感謝状(ある本に掲載の写真)に、こんなのがありました。

札幌県石狩国札幌区白石村 ○○○○
・・・・・・・・奇特ニ候事
明治十七年三月十日
札幌県令従五位勲四等 調所広丈
[62719] 2007年 11月 29日(木)22:52:19北の住人 さん
美泉定山さんの戸籍
[62696] [62697] hmtさんへ。
私の[62678]は説明不足でした。問題の戸籍は明治19年式戸籍とほぼ同じです。写真の戸籍を横書きで表すと次のようになっています(かなり苦しい表現になってますが、文字で表すのは無理があるようです)。なお、この戸籍は全体が斜線で抹消されています。

<第一欄:住所と身分>
 ここには「本籍」という字句はなく「北海道札幌郡平岸村~」となっており、右下に身分が記入されてます。前戸主の記入はありません。
<第二欄:戸主>
 下段、「戸主」は「美泉定山」(「美」は異字体)で、「定山」には抹消線が引かれています(※注1)。左側、生年月日は「文化一二年~」です(実際には文化2年が正しいとされている)。
 上段、登記事項は「明治十一年十一月山中ニ入行衛不知」「明治廿七年一二月萬八十???除籍?(※注2)」です。
<第三欄:妻>
 下段に「妻」と書かれ、「養母」と修正されています(※注3)。また名前の右欄に「亡美泉定山妻」と追記されています(※注3)。
<第四欄:養子>
 下段に「養子」と書かれ、「戸主」と修正されています(※注3)。また名前の右欄に「亡定山養子」と追記されています(※注3)。
 上段、登記事項は、「~平岸村○○○○亡三男入籍」(※注4)、「明治参?年○月○日家督相続~」(※注5)となっています。

注記については次のとおりです。
※注1:私は、この本での「除籍」の意味について「戸籍を除票とする」と思っていたんですが、ここでは「線を引いて戸籍から抹消する」ということのようでした。
※注2:これが「定山」の除籍の日のようです。「明治十一年~」とは明かに記入者が異なっています。
※注3:これらの修正・追記は、文字の様子から「明治3?年(注5)に行われたのではないかと思います。
※注4:養子となったのが何時かは不明です。注2の「明治十一年~」と記入者は同じだと思います。
※注5:「明治参?年」の「?」は「壱」だか「七」だかよく分かりません。ということで、[62678]で、問題のある書き方「明治3?年」となってしまったのでした。戸籍全体の抹消はこの時だと思います。

北海道読売に「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」の著者のことが書かれていますが、明治18年の戸籍調査時に、定山さんが死んでいては困る関係者がいたという推理になっています。

私は親の代から読売新聞なんですが、この手の郷土史的な記事(コラム)がよく掲載されています。ただ、記者さんも忙しいようで、深くは調べていないのか、ツッコミたくなることが多いんです。北海道読売にも、1つツッコミを入れて見ましょう。
「定山の前に温泉に小屋を建てた」云々から以降については、私の調査ではこうなります。

「明治35年頃の札幌周辺村の調査史料に、サッポロ開墾の祖である、早山清太郎翁からの聞き取りが載っている。早山翁の話では、温泉は早山翁が始めたもので、定山に請われ一代限りで貸す契約をしたということである。また、当時の長官が温泉の名を定山に聞いたところ、名が無いということなので、長官が定山渓と付けた、と話している。もっとも、この時の早山翁は高齢であり記憶をたどりながらの話と考えられ、またこの史料には早山翁の聞き取り部分が2ヵ所あり、今後の史料の分析が待たれる。」
[62678] 2007年 11月 26日(月)21:04:08北の住人 さん
明治18年の北海道の戸籍はこうなっている!?
あっさりとしたタイトルにしたかったんですが、新聞のテレビ欄のようになってしまいました、タイトル考えるのも難しいです。明治の本籍地記載に関するレスです。([62667]hmtさん、[62633]たもっちさん)

戸籍の収集は資金と時間がかかるので、ただで調べられる図書館に行って、とある本を借りてきました。その結果は「明治18年?の北海道の戸籍本籍地に『国』と『県』は記載されていない?」です。?マークが2つあるのがミソですが。

札幌の奥座敷に定山渓という温泉場がありますが、ここは「定山(戸籍名は美泉定山、みいずみ じょうざん)」というお坊さんにちなんで名付けられたといわれています。この定山さんの戸籍(除籍)の写真が「北海道と岡山の懸け橋 定山坊」(著者、合田一道)という本に載ってます。本文の内容はこんな感じです。

・開拓使が明治10年に戸籍調査をしたが、間違いが多かった。
・札幌県は明治16年から村役場戸籍係を動員して各戸の調査を行った。
・明治18年、定山の妻のもとに戸籍係がやってきて調査を行い、戸籍を作成した。

問題の戸籍ですが、掲載されている写真では、戸籍(除籍)の本籍地が「北海道札幌郡平岸村~」となっており、「石狩国」「札幌県」の記入は、加除も含めありません。

というわけで「明治18年の北海道の戸籍本籍地に『国』と『県』は記載されていない」と結論付けたいのですが、ちょっとした問題があるのです。この写真、よく見ると戸籍の編成日が書かれていない。さらに、本文では「明治27年に除籍」と書かれているのに、写真では「明治3?年」の家督相続について記載されており、除籍日との関係がおかしい。というわけで、?マークが2つ付いた結果になってしまったのでした。
多分、本文、写真とも信用できると思いますが、郷土史誌の掲載写真や地図に裏切られた経験のある私としては、一時資料でないものは全面的に信頼はしていないので、この結論を付けるには、自分の家系の戸籍を地道に集めるしかないようです。

この先は、単なるひとり言です。富山県(明治4年富山県成立・新川県と改称・同9年石川県に合併・同16年現在の富山県成立)のような場合の戸籍は、その都度本籍地が書き換えられたのだろうか。樺太の戸籍について、過去記事のどこかに出ていたような、いなかったような。
[62631] 2007年 11月 24日(土)06:52:14北の住人 さん
明治の戸籍法の本籍地に「国」は記載されていた?
とあることを調べに、戸籍を追っているのですが、明治41年届出の戸籍まで到達しました。何を調べようとしているのか、それは、明治15年から19年の、いわゆる北海道「三県一局時代」には、本籍地に「県」が記載されていたのか、ということです。私の予想は「記載されていない」(「県」は単に、国の政策上の区分けであり、戸籍の本籍地には影響を及ぼさなかった)ですが、今の所、その時代までたどりついていません。

記事のタイトルですが、[62613]hmtさんの記事によると、漱石の送籍地が「北海道後志国岩内郡~」となっており、「後志国」が含まれています。これが本籍地として記載されているのどうか、私の疑問となっているのです。

手元の明治41年届出戸籍では、本籍地が「北海道札幌区○○」で「石狩国」は入っていません。この戸籍の他の記載事項から考えると、おそらく、この戸籍以前の物にも「石狩国」は入っていないのでは、と想像しているわけです。同様に、北海道以外の県についても「国」は入っていないのではと思いますが、どうでしょう。(明治41年戸籍には、明治32年に他県から嫁いできた女性が入籍していますが「国」はありません。)

デジタルライブラリーを読めば、あるいは過去記事に当れば解決するのかも知れませんが、私のネット環境では苦しいものがあり、さらに古い戸籍を取り寄せようとしているのですが、現在、保存期間の壁に当っている所、苦しい状態になってます。まあ、親は2人いるので、別ルートを追っているのですが、そちらは本籍地が札幌でなく、取得に難儀しています。
[62556] 2007年 11月 18日(日)06:13:59北の住人 さん
内地について、および関東~関西の地方区分について
「内地」といっても幾つか意味があるようで、「北海道から見た本州以南」を指す言葉として、今だに周囲の高年令者(私は含まず)の間で使われています。「内地」の正式なというか第一義の意味としては、憲法や通常の法律が及ぶ領土を指し、それ以外の領土を「外地」というようです。その意味で、北海道がいつ「内地」となったのか考えてしまいますが。
「樺太沿革・行政史」を読んでいると「樺太の内地編入」という項目があり([62539]hmtさんの後段の記事をご覧下さい)、明治期には北海道と樺太は経済的にも人的にもかなりの交流があったのに、「樺太」は「外地」であったのかと思ったのでした。(私は戦争を知らない子供なもんで)

さて、線引きというか区分けというか、受持ち地区を作りなおすことは、顧客数を一定にするために私の上司達が毎年、頭を悩ましていることですが(一定にしたはずでも、一年経つと結構差がでる、そうすると仕事量と成績に影響が)、それ以上に政令市の行政区割りや、道州制の地域割りは大変な作業ではないかと思うわけです。
落書き帳でもたびたび、○○県はどこの地方に入るのか、といった話題がでていますが、昭和18年勅令第548号「地方行政協議会令」と、昭和20年勅令第350号「地方総監府官制」の地域区分を比較すると微妙な差があります。両勅令の区分けはこんな風になっています。(新潟県、長野県、福井県に移動があります。)

「地方行政協議会令」の「地方区分」
・関東地方(協議会を附署する都庁府県は東京都)
 茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県
・東海地方(協議会を附署する都庁府県は愛知県)
 岐阜県、静岡県、愛知県、三重県
・北陸地方(協議会を附署する都庁府県は新潟県)
 新潟県、富山県、石川県、福井県、長野県
・近畿地方(協議会を附署する都庁府県は大阪府)
 滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県

「地方総監府官制」の「管轄区域」
・関東信越地方(地方総監府の位置は東京都)
 茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県、新潟県、長野県
・東海北陸地方(地方総監府の位置は名古屋市)
 岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、富山県、石川県
・近畿地方(地方総監府の位置は大阪市)
 滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、福井県
[62501] 2007年 11月 13日(火)06:29:43北の住人 さん
カラトの島から樺太庁へ
突然ですが、樺太に関する、にわかメモです。古書・古地図は原典を確認していないので、実際にはどうなっているのかは分かりません。

●其一 カラフトの呼称の変遷
・哈喇土(の酋長云々) 松前藩の文書? 文明17年(1485年)
・カラトノ島  『正保御国絵図』 正保2年(1645年)?
・からふと島  『元禄御国絵図』 元禄13年(1700年)
・からと島  『松前島郷帳』 享保2年(1717年)
・唐太  『蝦夷拾遺』本文挿入の地図 佐藤玄六郎行信 天明6年(1786年)
・カラフト島  『絵図面方角道規地名控』 寛政3年(1791年)
・唐太島  『蝦夷巡覧筆記』 寛政9年(1797年)
・北蝦夷  『東韃地方紀行』巻頭の地図 間宮林蔵 文化7年(1810年) 
・カラフト  『北蝦夷図説(別名、北夷分界余話、銅柱余録)』間宮林蔵 安政2年(1885年) (「蝦夷地」との混同を避けるため、公称の「北蝦夷」を使わず「カラフト」を使用)

これを見ると、当初は「カラト」と呼ばれたのが「カラフト」に変化したのではないかと思います。
 
ところで、全国樺太連盟のサイト内樺太の名前の由来[62450]ニジェガロージェッツ さんの記事をご覧ください)のURLを見ると「kabaren」の文字があり、連盟の略称として「樺」を「かば」と読んでいるようです。実際、「樺太」の読みとして「かばふと」も書いている辞書もありました。

●其二 樺太地名解
全国樺太連盟が昭和53年に発行している「樺太沿革・行政史」には、「樺太」の語源として、9説紹介されています。この他にも2説(アイヌ語辞書で有名なバチェラー氏の説と、この辞書をもとに考案されたと思われる説)があります。
仮説「地名の語源の数は、その地の面積が大きいほど増える」の1つの例となるでしょう。なお、この仮説の関数式は、そのうち(遅くとも100年以内に)発表したいと思います。

ちなみに「樺太沿革・行政史」では「カバフト」は誤称としています。

●其三 カラフトの当て字
「樺太沿革・行政史」によると、「カラフト」について次のような表記があるそうです。
 哈喇土・加良不止・加羅不登・穀太・嘉楽?土・哈良敷登・加良布止

以上、仮名的当て字が多いですが、江戸時代を通じ一般的なものは「唐太」です。一時的に「北蝦夷」が使われますが、幕末からまた「カラフト」と称され、「柄太」「柯太」が多く使われ、明治2年以降は「樺太」に定まりました。
「樺太」については、「樺が多いから」という松浦武四郎の意見が採られたようです。

今思い付いたんですが、哈喇土はトカラ列島の「トカラ」と通じるものがあるような、そんな気がする、冬の朝です。(明日から、札幌は雪ですよ)

●其四 カラフトの別称
「北蝦夷」も別称ですが、他にもいろいろあるようです。以下「樺太沿革・行政史」から
 奥蝦夷・初島・クエ(クヱ、苦夷、庫葉、庫頁)・流鬼圍(ラヱルリ=クエ)・サガレン(撒甲連、薩哈嗹)・ヱレウテ=ボウセ・徳楞※山(デレンガサン)[※は「口」偏に「戛」]・タライカイ・シルン=モシリ

●其五 樺太庁について
「都庁府県」の「庁」には、北海道庁のほか「樺太庁」も入っているようです。昭和18年勅令第548号「地方行政協議会令」([62373]雪の字さんの記事をご覧ください)のほか、昭和20年勅令第350号「地方総監府官制」でも「都庁府県」の表現があり、「北海地方総監府」の管轄区域が「北海道」「樺太」になっています。


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