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ニジェガロージェッツさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[96477]2018年9月13日
ニジェガロージェッツ
[96472]2018年9月11日
ニジェガロージェッツ
[96466]2018年9月9日
ニジェガロージェッツ
[95700]2018年4月20日
ニジェガロージェッツ
[95684]2018年4月15日
ニジェガロージェッツ
[95678]2018年4月13日
ニジェガロージェッツ
[95627]2018年4月1日
ニジェガロージェッツ
[95510]2018年3月2日
ニジェガロージェッツ
[92801]2017年4月23日
ニジェガロージェッツ
[91751]2016年10月16日
ニジェガロージェッツ
[91749]2016年10月16日
ニジェガロージェッツ
[91743]2016年10月16日
ニジェガロージェッツ
[91732]2016年10月15日
ニジェガロージェッツ
[91594]2016年10月9日
ニジェガロージェッツ
[91566]2016年10月5日
ニジェガロージェッツ
[91555]2016年10月2日
ニジェガロージェッツ
[91551]2016年10月1日
ニジェガロージェッツ
[91536]2016年9月29日
ニジェガロージェッツ
[91508]2016年9月26日
ニジェガロージェッツ
[91495]2016年9月24日
ニジェガロージェッツ
[91491]2016年9月22日
ニジェガロージェッツ
[91482]2016年9月22日
ニジェガロージェッツ
[91428]2016年9月19日
ニジェガロージェッツ
[91427]2016年9月19日
ニジェガロージェッツ
[91386]2016年9月11日
ニジェガロージェッツ
[90050]2016年3月8日
ニジェガロージェッツ
[87289]2015年2月14日
ニジェガロージェッツ
[87284]2015年2月12日
ニジェガロージェッツ
[87282]2015年2月12日
ニジェガロージェッツ
[87158]2015年1月18日
ニジェガロージェッツ

[96477] 2018年 9月 13日(木)12:35:09ニジェガロージェッツ さん
皆さんへ
[96476] _ さん (アンダースコアさん,とお読みすればよろしいでしょうか?)
私が言いたかったことをすべて言っていただき,恐縮しております。

全くそのとおりで,[96468] でhmtさんには気付いていただいたので,それ以上は何も申し上げるつもりはございませんでした。
何よりも,現在進行中の北海道の地震災害,或いは西日本豪雨,台風20号,それに続く21号など,気象災害が進む中,殊更に23年前の1・17のことで話題が続くのはまったく当方の本意ではありません。
各地で災害に遭われました皆様に,この場を借りて,謹んでお見舞い申し上げますとともに,一日も早く,日常にお戻りいただけることを,心より願っております。
[96472] 2018年 9月 11日(火)09:33:07ニジェガロージェッツ さん
温度差
[96471] グリグリさん
hmtさんが話題にされた気象庁が名称を定めた地震には阪神・淡路大震災は含まれません。

含まれていますよ。リンク出しいただいた気象庁が名称を定めた気象・地震・火山現象一覧の,
26番は何のことでしょう?
当事者とそうでないものの温度差があるのは当然ですが,23年前に元町のレンガにメッセージを下さったグリグリさんでさえ,この程度のご認識かと,驚きと落胆を隠せません。
[96466] 2018年 9月 9日(日)18:52:28ニジェガロージェッツ さん
お伝えすべきこと
[96463] hmt さん
ウェザーニュースに紹介された 気象庁が名称を定めた地震現象のリストを列挙。

何かひとつ,お忘れではないですか? そして誰も指摘しない(誰もお気づきでない?)
いったい,あの大きな犠牲は何だったのか?
私たち被災経験者は,それこそ,思い出したくもないことまで,お伝えすべきこととしてお話してきたはずです。私でさえ,岡山でも,筑波山でも,折に触れてお話してきました。
声が届かなかったのかと,悲しくなりました。
[95700] 2018年 4月 20日(金)01:21:23【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市北区しあわせの村
「東,西,南,北,大,本,湊,戎,曙,鶯,楠,緑,京,前」
何のことか?
これは,ウォーキング中の頭の体操のつもりで,神戸市内の「漢字一文字+町」となる町名を連想していったものです。なお,元町,栄町や中町は正しくは元町通,栄町通,中町通なので該当しません。
帰宅後,神戸市町名一覧表(pdf)で確認した結果が冒頭の14文字で(東町は中央区と須磨区に,北町は長田区と須磨区にそれぞれ存在),小生は恥ずかしながら京町と前町(いずれも中央区の旧居留地内の町名),大町(垂水区)を逃してしまっていました。

さて,ここからが本題ですが,この神戸市町名一覧表を眺めていると,その中に「しあわせの村」というのが町名として一覧にあるのにびっくりしました。しかも,住居表示全域実施済みの印まで入っている。
しあわせの村は,神戸市北区山田町下谷上字中一里山の山林を80年代に造成,整備された広大な公園で,公園内に数あるリゾート施設を含めた名称として神戸市民にはお馴染みで,阪神高速道路7号北神戸線には同名のインターが存在します。しかし,その住所は従来の「中一里山」のままであった筈でしたが,2017年7月1日付けで町名変更されていました

地名コレクションには,『字名の“村”』がございますが,ご編集のたもっちさん,いかがでしょうか?
同コレクションには,神戸市内の村としては,西区平野町下村のみが収録されていますが,前出の町名一覧表には,兵庫区東尻池村と兵庫区御崎村が出ています。地図上では確認するのが難しい幽霊地名(拙[45136][75442]など)ですので,残念ながらコレクションからは外されたものと推測いたします。
[95684] 2018年 4月 15日(日)00:56:38ニジェガロージェッツ さん
海外出身のプロ棋士
[95679]うっかりじゅうべえさん,女流棋士の制度,およびカロリーナ・ステチェンスカ女流1級さんにつきましてのご解説,有難うございました。加えて,[95681]オーナーグリグリさん,早速のご対応有難うございます。

海外からのプロ棋士が,女流棋士を含めてもカロリーナ・ステチェンスカ女流1級さんただお一人というのが意外でした。故人を含めると旧外地からもおられたのではと推測していましたので,ランキングに海外枠が設けられていないことが少し疑問でございました。

私自身は将棋については駒の動きを知っている程度で,全く嗜みませんが,現在将棋界で進められている国際化にはちょっと関心を持って動画などを見ることがあります。
Moscow Shogi Open 2017 などを見ていると,ロシアの子供たちが将棋を囲んでワイワイ言いながら白熱している姿に感動します。欧州では,そのロシアと,カロリーナ・ステチェンスカ女流1級を生んだポーランドの間に挟まれた旧ソ連ベラルーシの首都ミンスクで将棋が盛んだそうで,先にリンクしたYouTubeの動画もMinsk Shogi Dojo さんによるもののようです。
旧ソ連など東欧圏ではチェスが大変盛んで,まだまだ少数だとは思料しますが「日本のチェス」と紹介される将棋が好意をもって受け入れられつつある現状に,時代の変化を感じます。
[95678] 2018年 4月 13日(金)00:54:40ニジェガロージェッツ さん
カロリーナ・ステチェンスカ女流1級
[95677] オーナー グリグリさん
プロ棋士(将棋)ランキング,楽しく拝見させていただきました。
例えば,ポーランドご出身のカロリーナ・ステチェンスカ女流1級を例に出して,海外出身棋士への言及を問う書き込みをしましたが,改めてランキングの解説を読み直すと「棋士」と「女流棋士」は別の制度とのご説明がある一方で,その前段落に「棋士における段位は四段以上」とあり,女流棋士についても四段に達していない棋士はランキング外であろうと解釈いたしました。

よって,先に投稿した拙稿は,当方の勘違いによるものであり,大変不細工でお恥ずかしい限りではありますが,全文削除し,本稿と差し替えさせていただきます。
お目汚し失礼いたしました。
[95627] 2018年 4月 1日(日)01:09:16ニジェガロージェッツ さん
廃止された地域自治区の住所
[95475]ピーくんさん
本日付けで奥州市の区が廃止されましたこと,「区コレクション」に反映させました。いつも情報のご提供有難うございます。

区がなくなるけど旧自治体名は残ることに。(中略)水沢、江刺、前沢、胆沢、衣川残ってよかった。
地域自治区の廃止に伴い,その後の住所が,この度の奥州市のように旧自治体名が残るのか,それとも旧自治体名ごと削除されているのかは,対応の違いが生じています。
このため,拙「区コレクション」の項「合併に際し旧市町村を区としたものの,後に廃止」では,従来は一律に
地域自治区廃止に伴い区を表記しない
とだけ記しておりましたが,廃止後の住所表記の違いも明記するように改めました。
旧自治体名が残ったものは,
住所より「区」の一文字を削除
と表現しておきました。
[95510] 2018年 3月 2日(金)02:34:54ニジェガロージェッツ さん
感謝
[95475] ピーくん さん
情報ご提供有難うございます。時期が来ましたら,更新しておきます。
[92801] 2017年 4月 23日(日)12:09:39【1】ニジェガロージェッツ さん
大東亜戦争期に検討された奠都案
[46226] 烏川碧碧 さん
中央日報*日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」
日本は1940年代の初め、15年後を目標に立案した秘密国土計画である「中央計画素案」で、京城部(ソウル)南の郊外、日本内岡山と福岡など3カ所を大東亜圏の首都移転候補地として提示した。


12年前の2005年10月に韓国紙の記事を紹介していただいたものですが,今日の西日本新聞にこれと同じ案件かと推測できる記事が紹介されています。
八女に「幻の首都」構想 太平洋戦争中に政府が検討 極秘文書に明記<福岡県>

記事によれば,内閣総理大臣直属の組織で,戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が,1943年10月付の極秘文書に記載した「中央計画素案」によるもので,遂行目標を「一応15年」としていることから,烏川碧碧さんご紹介の中央日報の記事と合致しています。
ただし,国立公文書館のアジア歴史資料データベースからの引用画像で「三地区を首都を奠むべき候補地とす」と書かれ,ソウルについては「(3)朝鮮京畿道京城府周辺地区」と紹介されており,「京城の南の郊外」とも「龍仁」とも限定はされていません。
なお,[46226]でリンクしていただいた12年前の中央日報の記事は,今でもリンク先が生きており,今日の記事と併せて読むと,韓国側では,龍仁地域で測量があったことと,測量図面があるのを「見た」と書かれています。

今日の西日本新聞の記事には,日本国内の岡山と福岡については,
「(1)岡山県邑久郡行幸村中心地区」 記事によれば現・瀬戸内市
「(2)福岡県八女郡福島町中心地区」 同,現・八女市
と明記されているのが興味深いところです。

一方,拙稿[4566][46297]にて遷都地として挙げた「1位・龍山,2位・加古川,3位・八王子」については,大正時代の関東大震災後のもので,過去に大地震の形跡の有無や,第一次世界大戦で登場した航空機による空からの防空の観点から,周囲に防空施設に適した山や丘の立地から求められた案だったと記憶しています。

今日の記事にある1943年の案での選定立地条件としては,
条件として、全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など計6項目
と書かれています。

普段はYahoo!のニュース欄からの引用はしないのですが,過去に話題として触れられた件につき,述べさせていただきました。

訂正【1】元記事の有効期限(削除)を考慮して,記事の一部分を追加,訂正
[91751] 2016年 10月 16日(日)14:39:11ニジェガロージェッツ さん
ご迷惑をおかけいたしました
[91750] グリグリさん
拙稿[91732]でのご指摘の一文では,ご迷惑をお掛けし,申し訳ございませんでした。
[91743][91749]での総括は,独りよがりでございました。しかしながら,言ってしまった事実は削除しても消せることではございませんので,そのままにしておきます。
貴兄からのご指摘をありがたく感謝し,今後につなげたく存じます。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
[91749] 2016年 10月 16日(日)13:21:12ニジェガロージェッツ さん
タイトルについて
[91746] グリグリさん
タイトルの件、議論が沸き上がっています。
お恥ずかしい限りで,誠に申し訳ございません。[91747] Takashiさんに於かれましても,不快な思いをさせてしまい,重ねてお詫び申し上げます。
本議論につきましては,[91730]じゃごたろさんのアドバイスに対して,拙稿[91732]で横レスする形で,予想外の方向へ議論を展開させてしまい,責任は小生にあります。

私といたしましては,[91733]じゃごたろさん,[91736]k-aceさんの書き込みを受けて,[91743]の冒頭で皆様にお詫びいたし,また,私見ながら「無題」とするタイトルから受ける印象についての危険性への注意を喚起し,総括したつもりでおりました。
[91743]では,[91736]k-aceさんの最後の一行にのみ善処を求めましたが,努めて感情を押しとどめ,感想を述べさせていただきました。

しかし,続くk-ace さん[91744]では,最初の一行こそ「すみません」と書かれていますが,余程不快感が強かったのか,重ねて拙元記事[91732]への批判に終始しておられる印象を持ちました。ですので,
書いてる人のセンスを問いたくなりました。
というお言葉は,まことに恐縮ですが,そのままお返しさせていただきます。

つまるところ,[91732]を書いた小生も,[91744]をお書きになられたk-aceさんにつきましても,同じ程度のセンスの持ち主ということで,お互いに至らなかったところは反省して,これからは気を付けましょうということで,宜しいのではないでしょうか。

改めて,「無題」とタイトルを付けられた皆様への配慮が足らなかった点につきまして,深くお詫び申し上げます。
[91743] 2016年 10月 16日(日)01:29:58【2】ニジェガロージェッツ さん
それでもタイトルは考えてほしい
[91733] じゃごたろさん をはじめ皆様
[91732]にて,タイトルを「無題」とした過去記事について,「タイトルさえまともに書けないような記事」として一様に切り捨て,記事検索結果のリンクまで出してしまい,これは行き過ぎた行為でした。中でも,じゃごたろさんの記事が多く含まれてしまっており,大変失礼いたしました。率直にお詫び申し上げます。
[91732]は,文面はそのままとしておりますが,検索結果リンクを削除いたしました。

加えて,じゃごたろさんの過去記事にて,「無題」とされましたことにつきましては,了解いたしました。背景をご説明いただき,ありがとうございました。

本来ならば,以上でこの話題は終了したかったのですが,k-aceさんからもご意見[91736]をいただきましたので,この場をお借りして,ご説明させていただければありがたく存じます。

まず,小生が 無題 というタイトルの記事から受ける印象は,決して良くないものでした。これは,k-aceさんがご指摘されているように,ニジェ一個人の感想でしかありませんが,「このように思っている視野の狭い人もいるんだ」くらいに,頭の片隅にでもお留め置きくだされば幸いでございます。
私自身は過去に一度も「無題」とした記事は書いたことがございませんから,推測でしかありませんが,書き手として自分の記事を「無題」とした背景として想像するのは,

1) タイトルを考えるのが面倒臭い
2) 上手いタイトルが浮かばない
3) 「無題」そのものが意思である
といったものです。
1)については論外で,きちんとタイトルを考えろ,というだけの話です。
2)については,まとめレスのように,一つのタイトルに絞れないような場合に用いられている過去の例もあり,それでも「無題」と名付けるのではなく,そのまま「まとめレス」とタイトルを付けたほうが良いような気がいたします。

問題は3)のケースになるのではないかと考えます。
じゃこたろさんがお話下さった「先入観なしに内容を受け止めてほしいという思い」のように,それが閲覧者に肯定的に伝われば良いのですが,必ずしも伝わらないようにも思料します。
中には,地理からは少し外れる話題のために,単純に「無題」としたものも含まれますが,他人の書き込みに対して,何らかの意見や忠告,苦言を書かれたものが印象に残っています。
その場合,肯定的に敢えて無題とした意思を汲み取られることなく,「お前ごときには,タイトルさえも付けてやらないぞ!」といった抗議のニュアンスで伝わってしまえば,気分を害するだけのことになってしまいます。(実際,私に書かれた無題記事にそのように感じたことがございました。)
せっかく,真摯に善かれと丁寧に言葉を選んで伝えようとしても,タイトル「無題」だけで内容が台無しになってしまっては,あまりにも勿体なく,残念に終わってしまいます。
実際,「無題」として書かれた記事で,その後全文削除したような,粗末な内容の記事もあったように記憶しています。(記憶違いであれば申し訳ありません)

掲示板は,それぞれの持っている情報を提供したり,意見や感想を述べたりし合う,双方向性を持ったメディアですから,やはり誤解を持って受け止められるのは,最小限に留めておきたい。そのためには,タイトルは記事で主張したい内容を踏まえて,しっかりと考えて名付けて欲しいと願っております。k-aceさんは音楽家が敢えて「無題」というタイトルで曲を出したことを絡めてご説明されていますが,双方向性の交流を目的とするところが大である掲示板への例えとしては,飛躍しているように感じます。

なお,「無題」については拙[91732]の後段について述べたことですが,前段の「タイトルに無意味に自治体名を付け加える」につきましては,これも語弊がありますので,追記させていただきます。
自治体名は地名であり,「地理とは,その土地がどのような場所であるかについて語ること」が本質と考えているので,地理雑学としての情報提供でさえなく,私には記事内容に関係なくタイトルに地名を出すことに,その土地へのリスペクトが感じられなかったことから「センスを問う」と言い切ってしまいました。
しかしながら,自由な書き込みは保証されるべきものですから,視野が狭いオッサンの容喙と切り捨てて頂いて結構です。


[91736] 2016 年 10 月 15 日 (土) 21:38:21【4】k-aceさん
視野が狭いというか、なんというか。
上記のように,自分のことですから否定はしません。
しかし,他人に言われると気分の良いものではありません。善処を求めます。

ある音楽家があえて「無題」というタイトルの曲を作りました。曲そのものはあるわけです。タイトルが「無題」なだけです。それをタイトルが「無題」なだけで、まともにタイトルを付けれないなら発表するなということと同じです。
件のタイトルの曲につきましては,聴いたこともなく存じ上げませんが,小生の様な凡人には,作曲家の意嚮として,音楽を自由に聴いて感じてほしいという意味合いで,敢えてタイトルを「無題」としたことと想像します。音楽に限らず,絵画や彫刻など,芸術作品の表現方法としては,大いにありです。
さすがに,芸術作品に「まともにタイトルを付けられないなら発表するな」と噛みつくほど狭量ではありません。

【2】文末の音楽についての見解を追加
[91732] 2016年 10月 15日(土)19:05:50【1】ニジェガロージェッツ さん
タイトルの重要性について
[91730] じゃごたろ さん
私個人の考えですが、タイトルはとても重要ですよ。その人のセンスを問われます。

全く同感です。
タイトルに無意味に自治体名を付け加えるメンバーもおられますが,もちろん,その自治体についてのお話は一切書かれていないなど,本当にその人のセンスを問いたくなります。
子供の頃(と推測される時期)に始めたことで,その時は大目に見ることも出来ましたが,成人した(と推測される)今では,例えばコラム的な形でも,ひと言その自治体に関する話題さえ書けないものかと感じています。

また,時々見かける 無題 という名のタイトルの記事については,タイトルさえまともに書けないような記事であれば,投稿しなければ良いのにと,その人のセンスを問いたくなります。
こちらのオーナーさんはもちろん,小生でさえ1稿たりとも,そのような粗末なタイトルはつけておりません。

記事訂正【1】文中,タイトルを 無題 とする過去記事検索結果を削除しました。大変失礼いたしました。
[91594] 2016年 10月 9日(日)09:07:13ニジェガロージェッツ さん
感謝3題
[91513] Takashi さん
川崎市の工業地帯についてのお話,ありがとうございました。
リンクしていただいた中原区の各工場の地図も拝見いたしました。

川崎区の主に臨港部にいわゆる京浜工業地帯の大工場群が立ち並んでおり、それらのおかげで川崎市の工業生産額の78%を川崎区が占めています

やはり,川崎の工業地帯のメインは川崎区でしたか。フォロー有難うございました。
2014(平成26)年の経済産業省工業統計調査(市区町村編)を見ましたが,確かにおっしゃる通りでした。
こちら神戸では,工業地帯のイメージでは,同じく臨港部の兵庫区や灘区のそれにありましたが,この統計によれば,神戸市の工業生産額のうち,トップは内陸の西区(34%),次いで東灘区(23%),兵庫区(20%)の順になっています。
とはいえ,神戸全市で,川崎区の8割程度しかなく,神戸港に隣接する工業地帯の空洞化と言ってよいのか,嘆かわしいところです。


[91538] Takashi さん
築地市場についての情報,ありがとうございました。
豊洲市場への移転問題という都政の話題が,全国の情報番組で,多くの時間を占めて同じことばかり報道される現状については,特にそれが不快だというわけではないのだけれども,その一方で,本来ならば報道されるべき情報が,おそらくこれらについても人員を割いて取材されている筈のものが,お蔵入りになって伝えられることなく葬り去られてしまっているとも類推されます。それは何だか,視聴者として損をしている気分になります。


[91576] 千本桜 さん
萩旅行についてのお話,ありがとうございました。
小生も萩へは,昭和59年に,萩港の沖合45キロにある孤島,見島へ渡った際に立ち寄りました。古い話ですが,昨日のことのようにも思い出され,貴題[91548]を読んですぐに萩のことだと分かりました。
「(A)~(K)をお答えください」とあったものですから,すぐに回答を投稿しようとしたのですが,書き込みのプレビューを見て,そのままの回答では,せっかくの問題が勿体なく感じられ,わざと分かりにくいように他国語に書き換えたのですが,大変失礼いたしました。
拙回答[91551]では,11問中10問の正解で,(J)で回答した район Хориути は「堀内地区」の露訳で,正解の「堀内鍵曲」に届かずでした。


追記:
ニジェ[91536]では,「連日どのチャンネルを廻しても」と書きましたが,今どき「チャンネルを回す」という表現は死語に近いのかとも思われ,あとで恥ずかしくなりました。
見たい番組があって特定のチャンネルに変えることを「チャンネルを変える」と言い,当てもなくチャンネルを次々に変えることを「チャンネルを回す」と表現して区別できる表現なのですが,歳は取りたくないものです。

かくいう小生らの世代も,子供の頃は「現代っ子」と言われ,社会に出れば「新人類」と呼ばれた世代です。「新人類って,イナズマンかよ!」と言いたくなりますが,ああ,そのツッコミが通じるのもごくわずかか。
[91566] 2016年 10月 5日(水)01:17:06【1】ニジェガロージェッツ さん
東灘区から灘区へ歩いてきました
10月2日の日曜日,ペーロケさんとの間で話題を展開している,東灘区と灘区を実際に歩いてきました。
東灘区では,芦屋市に近い地域までは足を延ばしませんでしたが,訪れた魚崎,住吉,御影の住宅街においては,古来からの酒造業により培われた豊かな文化を,広く区内のまちづくりに生かしているような気概が伝わってきます。
一方の灘区においては,確かに西郷地区は酒造地ではあるものの,それ以外の地では酒造とは無縁のように感じられました。
余談ながら,徳井町三丁目に下町の代表施設である銭湯があったので,1時間ドップリと浸かってきました。この銭湯,六甲おとめ塚温泉と言い,この界隈だけではなく,人気の銭湯だったらしく,非常に込み合っていました。灘区と長田区の銭湯件数の対比では6件-14件で長田の圧勝ですので,日ごろ銭湯に通っている長田区民としては,信じられないような混雑振りでした。

[91557]ペーロケさんに於かれましては,ご自身の東灘区、灘区に対するイメージの背景について,率直に述べて下さり,ありがとうございました。西宮市での「酒蔵通り」を前面に出した郷土教育についても,地元の人でなければ知りえない情報であり,勉強になりました。

私は東灘区、灘区共通として、阪神沿線は酒造や製鉄業のまち、JR沿線は住宅密集地、阪急沿線は高級住宅地という都市構造なのかと思い込んでいました。
イメージについてではなく,都市構造を述べるのであれば,大体において,そういった認識で問題はないと存じます。ただ,東灘区の工業地帯での製鉄業は皆無ではないものの,そのウエイトはかなり低く,盛んなのは製粉や製油,製糖といった食料品工業でしょう。
拙稿[91508]では,両区の違うところは,彼の地の住宅地について,その成立の時代と背景,インナーシティ問題の有無ということになるのだろうと述べています。
ですから,
それは違うと教えて頂きました。
というのは,少し的を外して理解しておられます。或いは,小生の文章構成にも問題があったのか,主張が伝わっていません。要は,表面的には似たような都市構造になっているのだけれども,もっと深く地域を見て,その違いと個性を認めましょうよ,ということです。

灘区の住宅地に於いては,その東部は落ち着いた整然とした佇まいで,東灘区のそれに似たところはある一方で,区の西部では下町の魅力が生きた街並みになっています。
そこには,もしかしたら「高級住宅地」と「下町」が,必ずしも対置されるものではないのかもしれない。すなわち,両者の混在をいうのではなく,両者がうまく融合した街並みがあってもよいのではないか。小生には,震災の悲劇を乗り越えて,インナーシティ問題まで克服しつつあると思料する今の灘区の街並みからは,そんな理想を夢見させる気さえします。

一方,インナーシティについては,TNさん[7664]が東京での実例を述べておられるように,「高級住宅地」とは相容れないものです。ただし,その区域は,かなり漠然としたもので,明確な境界線などは引けないものだろうと考えます。

王子公園に停車しない特急に乗ってるわけですから、インナーシティーに入ったのが王子公園過ぎてからなのか、JRに合流する辺りからなのか、という違いを指摘されるとは思いませんでした。
申し訳ございませんが,上記引用部分,何をおっしゃっているのか最初は理解に苦しみました。
どうやら,インナーシティに入る地点の違いを小生が指摘したらしいのですが,それについては拙[91555]を読めば分かることなので,ここでは問いません。また,ペーロケさんが書きニジェが読む,という私信であれば,これでも容認できます。しかし,ここは世界中で閲覧可能な人気の地理掲示板です。閲覧しておられる地理の好きな皆さんでさえ,その多くは神戸について馴染みのない人々です。そんなことは分かっていることですが,本当にそのことを理解しているのであれば,上記引用文のような粗い文章にはならない筈です。

まず,地理的な位置関係の確認から。インナーシティ地域は,都心の近傍に生ずるものですから,ここ灘区では,西にインナーシティ地域,東はそうではない地域ということになります。
そのインナーシティに 入る のですから,乗っておられた特急電車は,東から西へ運行していたことになります。だとすれば,地図を見れば瞭然ですが,「王子公園過ぎてから」という場所は,まさにJR線に合流する辺りになり,上記引用文の意味は不明となります。
そうではなく,王子公園駅の手前,つまりその東方でインナーシティ地域に入るのであれば,意味は理解できます。その場合に「王子公園を過ぎてから」というのであれば,特急電車は西から東へ移動していたことになり,だとすれば,インナーシティより「出る」と表現しなければなりません。
地理についての議論ですから,その位置関係を疎かにすることは閲覧者に間違った情報を与えることにもなりかねません。改善を求めます。

そんなにじっくり、道の1本1本、建物1つ1つの形まで覚えていた訳ではありませんよ
(阪急電車の車窓から)風景を本当によく見ていましたか?という問い[91555]に対する回答としてお書きいただきました。
「よく見ていた」という表現では,「細見していた」とも「頻繁に目にした」とも取れるものですが,ペーロケさんのそれは,おそらく後者であろうと推察します。しかし,いずれにしましても,地理的な事象に無関心な人ならばともかくも,興味があれば車窓から眺める「よく見た」風景からは,そこが高級住宅地であるか下町であるかの推測はついた筈です。
「道の1本1本、建物1つ1つ」との例えは,反論の要件を満たさないばかりか,極論に走り,質問者の意図を逆撫でする,不穏当な表現です。改善を求めます。

現役の神戸市民からみたら「よく知らないのに書き込むなよ」と思われたのでしょうが
思っていません。
ただし,よく知らないのであれば,知ったかぶりをせずに,そのことを明記してほしいとは思っています。最初からご自身の知識の背景として,貴[91557]に書いておられた内容を,それとなく触れられていれば,小生も問題視しませんでした。
ペーロケさんは,西宮のご出身であることを度々公言しておられることから,例えそれが20年以上前のことであっても,「準地元民」であると,落書き帳では看做されていることと推測します。したがって,ペーロケさんの発言は,ある程度地元兵庫県民の見方であると評価されます。そのことは自覚してほしいと願っています。

ここに神戸のことを書き込むのに、ものすごくハードルが上がった気がします。
それは心外です。自由な書き込みは奨励されるべきです。
小生とて,灘区や東灘区については,長田区のよそ者の私見に過ぎず,実際,大したことは書いていません。地元在住の方々から見れば,明らかな間違いがあるかもしれませんので,是非ご指摘願いたいところです。

率直に申し上げて,以前よりペーロケさんの書き込み,特に他人の記事へレスされる場合には,その元記事への理解が不十分,或いは,ずれていると感じることがしばしばありました。ここで過去の事例として これでもか,これでもか, と列挙することは控えますが,国語力というより,注意力とでも申しましょうか,元記事を書いた人が何を述べたいのかを徹底して見極めるという作業よりも,元記事から受ける第一印象や直感に頼り,書いてあること無いことを含めて発信するという印象を持っています。
また,その書き方にも,丁寧さが足りないと感じることがあります。これは,小生のみが感じた偏見になるのかもしれませんし,私ニジェ自身にもそのような粗い部分や,説明がくどく主題が分かりにくいなど,不十分なところがあるのは認めます。

もう,お互い,落書き帳レビューから14年です。ハードルを上げるのであれば,神戸についてではなく,他人の記事への理解力,書く記事の丁寧さのハードルを上げていきましょう。

【1】記事番号を追記
[91555] 2016年 10月 2日(日)04:23:26ニジェガロージェッツ さん
Re: 「長田村」と灘区
[91549] ペーロケ さん
長田区についてのご感想,有難うございました。地元民として,率直に感謝申し上げます。

実際問題として今まで通りのケミカルシューズを作ってもコストでは勝負にならない訳で、変革が求められているのも現実
確かにおっしゃる通りで,長田区で作られた靴が全国的なブランドとなるような,付加価値の高い商品にしていかなければならないのでしょうが,一方で,コスト削減を一方的に下請けに押し付けるような,その場しのぎの要求がまかり通っているのも現実です。極端なものでは,「中国(それも奥地)では,この値で仕事をするんやから,お前らもその値段でやれ。でけへんのやったら,よそへ(仕事を)まわすだけや!」的な,無茶な工賃カットを強いるという話まで聞きます。
これでは,これからの世代が続きません。シューズ業界から離れて,他の職業に就いていくのは当たり前のことです。日々の生活から靴が無くならないから,製靴産業が皆無になることはないとはいえ,後継者が続かないのであれば,業界は先細りになっていくのは自明のことです。

表題の件,小生の書き込みでは鉤括弧付きで「長田村」としているのは,実際に実在した過去の地名,村落名の長田村と明確に区別するためのことは[91427]にてご説明した通りです。
知っている人にとって,この「長田村」は業界を一言で言い表せる便利なものですが,一方で自嘲的な側面を持った言葉でもありますので,ケミカルシューズ業界とは関わりのない人は,「長田のゴム屋」も含めて,侮蔑的に捉えられる可能性があるために,控えたほうが良いでしょう。
その点では,小生も落書き帳の書き込みに当たって,この表現を採ったことを反省しなければなりません。

はいはい,もういやいや! 長田のお話はおしまい!

私は東灘区も灘区も阪急神戸線から見下ろした風景をよく見ていたため、どうしても六甲、王子公園といった、東灘区と似たような灘区の風景が印象的です。阪急がJRと合流するあたり(ちょうど灘区から中央区の境界)より、山裾の住宅地から急にインナーシティーに入ったという印象になってしまうため、正直、灘区=インナーシティという印象はありませんでした。だから、私にとっては両区とも高級住宅街といった、似たようなイメージだった訳です。

引用部分が長くなってしまい,申し訳ございません。
「風景をよく見ていた」とお書きですが,本当によく見ていましたか?

ペーロケさんの灘区と東灘区についてのイメージが,阪急神戸線から見たものであるとのお話が出てきましたが,それでは貴[91473]で述べられた「酒造の街」とは,整合性が感じられません。
酒造が盛んな地域は,灘区においては西郷地区,東灘区においては御影から魚崎あたりの,いずれも阪神電鉄線より南側の海沿いの地域であり,山麓を走る阪急神戸線沿線には見られないものです。強いて言えば白鶴美術館という,酒造メーカー由来の文化施設が東灘区住吉山手に存在する程度です。
また,灘区では阪急六甲駅あたりより東は高級住宅街に該当するかもしれませんが,王子公園駅周辺は,水道筋商店街や灘中央市場など,明らかに下町の趣の強い地域です。良い意味で下町であることを前面に出した街のPRも見受けられます。
確かに,阪急電車下り線では,王子公園駅を過ぎたあたりから,急に車窓の景色が変わりますが,これは,それまで地上面を走っていた線路が高架線になるためで,しかも,標高は下がりつつも高架線に変わっていくものですから,そのインパクトが大きいと推測します。

小生の一連のペーロケさんの書き込みからは,率直に申し上げて,「あまりこの地域のことをよくご存知ではないのかな?」といった印象を受けます。灘は酒造地として有名であること,阪急神戸線は高級住宅地として知られていること,これらを一緒にして漠然とイメージしておられるようにも邪推したくなります。

実際,世間的には決して珍しいことではありません。ネットで拝読した伝聞になりますが,東灘区という住宅地に住んでみると,周囲は酒造の工場だらけで,早朝からトラックの出入りが激しく,匂いもするという苦情です。「東灘地域まちづくり文化のツール」より
これなどは,灘地域が酒造の街であることを知らないはずはないのだけれども,高級住宅地であるイメージが強く,深く考えたこともないために,発生したトラブルではないのかなと想像します。

子供の頃は西宮市民であったペーロケさんの東から見た灘区,小生のように西の長田区から見た灘区では,違ったものに見えるのかも知れません。
いずれにしましても,街並みから受ける印象は人それぞれですから,ここでこれ以上議論しても仕方のないことでしょう。小生とて,自分の意見を正しいものとして押し付けたり,流布するつもりは毛頭ございません。

実際,どういう所であるのかは,それぞれのご判断にお任せすることといたしまして,この地域に立ち寄ったことのない方で,街並みにご興味を持たれた方のために,YouTubeで阪急沿線の動画を探してみました。
ペーロケさんの視座に立って,東から西へ走る阪急電車の車窓の風景を集めました。

前面展望:阪急神戸線の車窓だけ 特急 梅田ー神戸三宮
山側車窓:阪急神戸線の車窓
海側車窓:阪急神戸線 海側車窓 特急 梅田ー新開地 9000系

上記各動画,場所と通過時間を参考までに記しておきます。
場所前面展望山側車窓海側車窓
芦屋市/東灘区界19:1818:4719:02
岡本駅(停車)20:2619:5020:15
御影駅(通過)22:5522:1722:35
東灘/灘区界23:2622:4823:04
六甲駅(通過)24:0223:2223:42
王子公園駅(通過)25:0824:2624:50
灘/中央区界25:3524:5225:14

2014年撮影のものですが,JR神戸線の前面展望:新快速姫路行 大阪→姫路では,
芦屋市/東灘区界(15:21),甲南山手駅(15:34),摂津本山駅(16:18),住吉駅(17:06),東灘/灘区界(17:53),六甲道駅(18:21),摩耶駅(未成),灘駅(19:32),灘/中央区界(19:38)
[91551] 2016年 10月 1日(土)14:22:57ニジェガロージェッツ さん
懐かしい!
[91548] 千本桜 さん
ここはどこでしょう
いやあ,懐かしい!
昭和59年に友人4人と日本海の孤島[57118]にわたる際に,出港地となったこの街で時間があったので,レンタサイクルで廻りました。

以下,回答に代えさせていただきます
A)музей Хаги
B)Гиити Танака
C)дом Кикуя
D)переулок Кикуя
E)Синсаку Такасуги
F)переулок Эдоя
G)Такаёси Кидо
H)средняя школа Хагиниси
I)высшая школа Хаги
J)район Хориути
K)дом Кутиба
[91536] 2016年 9月 29日(木)01:42:07【1】ニジェガロージェッツ さん
龍と竜
いつも神戸のことばかり書いてしまっているので,ちょっとした閑話を2つ

東京都江東区の豊洲市場についての報道,その移転と汚染問題,施工法の是非についてはともかくも,移転が問題となっている東京都中央区築地市場についての日本地理での位置づけはどうなのでしょう。
築地市場を経由して,全国的に食材を卸しているのであれば,全国に及ぼす問題となるのでしょうが,「都民の台所」であるというのであれば,東京のローカルニュースではないのかと,ついつい疑問を感じてしまいます。
こちら関西でも連日どのチャンネルを廻しても,この報道で持ち切りですが,小生などには「豊洲」と言えば, ♪あられはやっぱり,とよす♪ のCMで有名な「とよすあられ」がまず頭に浮かびます。「とよすあられ」は明治時代からの大阪の米菓メーカーで,その創業者が「豊洲さん」であったことに由来し,つまり,昭和12年に東京市深川区の埋め立て地に起立した町名「豊洲」とは無関係で,変な風評被害に遭わなければと心配です。
実際の風評被害といえば,江東区豊洲のマンションにも汚染の風評が立っているとか。困ったものです。

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さて,表題のお話しに変えて,地名や駅名で用いられている,「龍」と「竜」の字体と,その変更について話題になっていましたが,その技術的なことにつきましては,皆様のご説明通りのことと確信いたしており,異議を挟むものではございません。
漢字や国語については専門でもなく,小生には苦手な分野になるのですが,「龍」の新字体は「竜」である,というのは理解できますが,その逆について,「竜」の旧字体は「龍」である,とは必ずしも言えないとの認識を持っています。
すなわち,両字は元々別の字として存在し,「龍」の字は,空を飛ぶ大蛇のような架空の動物であり,一方の「竜」の字は,ずんぐりとした胴体を持って空を飛ぶ動物のようにイメージします。更に言えば,「東洋的で縁起の良い龍」と,「西洋的で邪悪なドラゴンの竜」といった感想です。どちらも「リュウ」「たつ」と読むことから混同された結果,今では区別されなくなったものと思料していました。

地名をはじめ人名や企業名では,佳名が理想とされますから,旧字体に分類されてしまった「龍」が今でも好んで用いられているのは,こういったイメージがどこかに残っているのかとも想像します。
逆に,実在した恐竜を「恐龍」と書くのは,あまりお目に掛かれないのですが,「舊字體の時代」には,どう書いていたのでしょうか?

追記
[91529] 白桃 さん
後半部分は地理雑学に関係ないので、せめてものお詫びに地名をフンダンに入れときました。
真面目に地名を記事検索する際には邪魔ですから,面白いのですが程々にしていただければ幸いでございます。

訂正【1】
誤:♪とよすのあられ~ おせんべい → 正:♪あられはやっぱり,とよす♪
お恥ずかしい限りです。重大な過ちを犯してしましました。脳内で亀田製菓とごっちゃになっていたようです。
謹んで,お詫び申し上げます。また,間違いではないものの「東京府深川区」を「東京市深川区」に改めました。
[91508] 2016年 9月 26日(月)03:21:26【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市についての書き込みを続けます
I. 長田区について

[91496] ペーロケ さん
その頃はちょうど新長田駅前の再開発ビルが建設中で、周囲も焼野原から復興に向けて加速していた頃と記憶しています。すべて元通りにはならないけど、街が発展する、いい方向へ向けて進んでいる、と、当時の私の目にはそう感じていました。しかし、見た目には綺麗な建物が建ち、街が発展しているように見える一方で、ケミカルシューズ業界がそれほどまでに元気がない状態のままとはショックです。


当時,でるでるさん,両毛人さんと共に,新長田駅前から大丸新長田店(平成25年1月閉店,同年9月,東急プラザ新長田開店)に入り,新長田一番街から大正筋商店街へ向った記憶があります。いずれも,当時神戸市が進めていた新長田駅南地区震災復興再開発事業のエリア内です。皆さんと一緒に歩いた平成15年9月当時では,新長田一番街では再開発着手前(平成19年頃完成),大正筋では再開発ビルが完成間近(平成15年11月頃完成)で,まだ復興途上の夢のあった時代でした。
神戸市の計画では,新長田駅から大正筋の南端までの7~800メートルほどの空間に,10棟以上の再開発ビルをつなげ,地下,地上,2階の三層構造での商店街の建設で,その通りのものが完成しました。しかし,そもそも人口の減少している長田区において,商店街においても人通りはまばらで,地上1階のメインストリートでさえ,各商店の経営難からシャッター街になろうとしているさまで,特に2階部分には人通りはなく,当初より分譲は埋まらず,今では非常に厳しい状況になっています。市では対策として,売れなかった店舗を格安の家賃での賃貸に切り替えたため,不動産価格の暴落が起こり,既に分譲で購入した商店にとっては,本来ならば最終手段として店舗を売却することも出来たものが,それも無理となって困窮している状況と言われています。これを,学者は「復興災害」と呼んでいます。

なお,ペーロケさんに新長田でお会いしたあの日に,皆さんには「長田村」と揶揄される,長田区のディープな部分をご案内していません。
この新長田駅南再開発事業区域からは,ケミカルシューズ業界は完全にシャットアウトされました。事業区域内の若松町3,4丁目一帯は,昔からケミカルシューズの卸売問屋が集積していた地域で,「長田村」[91427]のコアとなる部分を形成していましたが,震災では一様に焼け野原となり,再開発を機に神戸市はこれを潰した格好です。これも長田のシューズ業界凋落の大きな原因となったと言われています。

II. 灘区について

東灘区と灘区の違いを一言で表す、となるとなかなか難しいです
灘区と東灘区の違いを一言で表すと,インナーシティ(灘区)と,そうでない街(東灘区)です。
灘区の区域は,昭和4年に神戸市に編入されたのですが,その翌年の昭和5年国勢調査では区人口85,909人だったのが,神戸市が人口100万人を突破した昭和14年(後述します)には16万人になっています。つまり,街並みのベースとしては,戦前期に市街地化が完了した地域であり,数次にわたる神戸大空襲による市街の破壊を経た直後の,昭和20年11月1日の人口調査でさえも70,636人の人口が記録され,昭和45年国勢調査の170,730人が最盛期人口となりました。
その後は震災に至るまで人口は減り続け,その推移は,程度の差こそあれ,インナーシティ問題がより深刻であった長田区のそれ(拙稿[7736])に似ています。

一方,東灘区においては,昭和50年代に人口増加の停滞を経験したものの,大幅な減少はありません。平成になってからは六甲アイランド完成による人口増加がありますが,それを差し引いても,震災による減少以外では微増傾向が続いています。

このように,人口推移を見れば,両区の性質が全く異なっていることが窺えます。これは数値化されたその街の履歴ですから,その違いは街並みに表れます。灘区が東灘区よりも古い市街地であることから,今でも庶民的な雰囲気の残る街並みが感じられます。
また,神戸市全体の発展から見た場合,灘区は「中央5区」,すなわち,戦前の神戸市域を形成した,現在の須磨区,長田区,兵庫区,中央区,灘区の一つであり,神戸市街と一体となっての発展した経緯から,昔の葺合区(現在の中央区東部)の延長にある街の印象が濃いと感じます。実際,震災前は葺合区脇浜海岸通に川崎製鉄阪神製造所と神戸製鋼所脇浜工場が,その東隣の灘区日出町に神戸製鋼所岩屋工場と続き,西郷の酒造地を挟んで,東には神戸製鋼所神戸製鉄所がある,鉄鋼の街の印象があります。

東灘区は戦前期には神戸市外で,酒造業も栄えた裕福な土地柄で,特に住吉村は関西財界のお歴々が居を構える「お金持ちの村」として有名でした。神戸市編入は昭和25年のことですが,街並みのベースには戦前の裕福な時代ものがあり,今でも高級住宅街として認識されています。

ですから,小生には,ペーロケさんのように灘区と東灘区を同じようなイメージにはどうしても持てないでいます。確かに,海岸沿いには工業地帯で,共に酒造地がある。住宅地には南から阪神,JR,阪急が並行して走り,阪急線の北側には灘区に神戸大学を筆頭に学生街が,東灘区に甲南大学を筆頭に,などと,表面的には似ているのかもしれません。

震災後は,灘区は復興の過程でインナーシティ問題を克服しつつあると推測され,人口は復興後も増え続けており,今では昭和57年頃の人口にまで戻っています。最盛期の17万人まではさすがに無理でしょうが,場合によっては14万人を超えるところまで回復すると思料します。
以下,両区の人口データを提示します。比較の参考までに長田区の人口も添えておきます。
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調査日灘区人口東灘区人口うち六甲Is.備考長田区人口
1930.10.185,90960,102昭和5年国勢調査181,015(林田区)
1935.10.1128,18670,240昭和10年国勢調査216,213(林田区)
1940.10.1155,49887,191昭和15年国勢調査229,356(林田区)
1945.11.170,63655,349人口調査112,992
1950.10.1114,40183,937昭和25年国勢調査167,109
1955.10.1138,214108,464昭和30年国勢調査189,806
1960.10.1155,694134,342昭和35年国勢調査202,266
1965.10.1168,973155,898昭和40年国勢調査214,325
1970.10.1170,730171,109昭和45年国勢調査210,066
1975.10.1157,892183,836昭和50年国勢調査185,971
1980.10.1142,312183,284昭和55年国勢調査163,949
1985.10.1133,746184,738昭和60年国勢調査148,590
1990.10.1129,578190,3545,136平成2年国勢調査136,884
1995.1.1124,538191,716震災95.1.17直前の推計人口129,978
1995.10.197,470157,59914,200平成7年国勢調査96,807
2000.10.1120,505191,30414,833平成12年国勢調査105,467
2005.10.1128,050206,03717,711平成17年国勢調査103,791
2010.10.1133,451210,40818,837平成22年国勢調査101,624
2015.10.1136,130213,727平成27年国勢調査速報値97,952
2016.9.1136,627214,190推計人口97,271
【註】東灘区人口は,1945年までのものは武庫郡御影町,住吉村,魚崎町,本山村,本庄村の,1950年のものは東灘区と武庫郡本山村,本庄村のそれぞれ合計値。六甲アイランド人口は町丁別人口より算出できるものは提示した。埋め立て途上の1985年の人口は不明だが世帯数1の記述あり。
また,灘区と東灘区(および兵庫区)との境界は,昭和47年6月1日の「六甲山移管」により,山域で灘区が拡大する形で変更があった。
戦前の長田区人口は林田区のもので代用した。ただし林田区と長田区ではその区域が大幅に異なる[75507]
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ところで,余談ですが,震災後に新都心「HAT神戸」として生まれ変わった,製鉄所の跡地である中央区脇浜海岸通から灘区日出町にかけて,脇浜海岸通は町名をそのままに1,2丁目に分割したものの,日出町は摩耶海岸通と改称したうえで1,2丁目に分割されています。
なんで町名変更したんでしょう?「日出町」のほうが画数も圧倒的に少なく,悪い名前でもなかったろうに。

追記1:
「神戸市が人口100万人を突破したのは昭和14年?」

国勢調査では,神戸市人口が100万人を超えたのは,昭和35年調査で初めて達成したことですが,神戸市では,それを昭和14年であると言っています。(近代神戸略年表)
これは,神戸市の推計人口によるもので,昭和14年10月1日のものを下表に提示しておきます。
市区昭和14年10月推計人口昭和15年10月国調人口面積km2
神戸市【8区】1,006,100967,23483.06
林田区242,200229,35610.60
灘区160,000155,49819.48
兵庫区152,100149,3634.00
葺合区129,400123,8467.56
須磨区109,600113,21224.74
神戸区92,70079,8507.68
湊東区67,80062,3822.04
湊区52,80053,7276.96

現在の「中央5区」に相当する,狭い旧市域のみでの100万人です。しかも面積の4割ほどは山域です。
昭和15年国調人口では,100万人を割りましたが,その後,昭和16年4月に明石郡垂水町(昭和15年国調人口23,140人,面積31.99km2)を須磨区に編入し,同年の10月推計の神戸市人口は1,003,200人(面積115.05km2)となり,再び100万人を突破しました。しかし,昭和17,18年の推計人口は公表されず,昭和19年2月22日人口調査では,918,032人に減少しています[75507]

次に再び人口100万人の回復が記録されたのは,昭和31年10月1日の推計人口になります。昭和30年国調人口と合わせて,次に提示しておきます。
市区昭和30年10月国調人口昭和31年10月推計人口面積km2
神戸市【8区】981,3181,003,807492.42
兵庫区213,427217,985223.31
長田区189,806192,5088.60
灘区138,214141,00518.43
東灘区108,464112,15028.21
垂水区95,22597,341170.80
生田区81,54083,1098.20
須磨区80,08382,67025.38
葺合区74,55977,0399.49
【註】神戸市および兵庫区の昭和30年国調人口,面積には,昭和30年10月15日編入の有馬郡長尾村(同人口2,013人,面積13.07km2)を含む。現市域と比べると,北区淡河町は美嚢郡淡河村,上淡河村で市外である。


追記2:
ペーロケさんへ

お忙しい中,拙稿へのレス恐縮です。拙[91491]では,ペーロケさんのご質問の真意がわからず,特に後半ではきつい表現になってしまいました。
小生へのレスなど全く急ぎませんから,どうぞ,お時間のある折に,お考えが纏まってから,ご寄稿いただければ幸いでございます。
拙稿[91386][91427]にしても,投稿まで2週間以上の時間をかけて書いています。

記事訂正【1】昭和30年,昭和31年の神戸市各区人口表,および昭和16年以降の説明文を追加記載
[91495] 2016年 9月 24日(土)00:14:02ニジェガロージェッツ さん
楽しみなミニオフ会
[91429] JOUTOU さん
JOUTOUさん,オフ会を長年もご無沙汰を重ねてしまい,申し訳ございません。お写真を拝見しましたが,変わらずお元気そうで何よりです。小生はここ数年でかなり老けたような気がします。

大都市中心のミニオフ会も開催されると思うので、何れ二ジェさんとも再会できればうれしいです。
これは楽しみです。
先々月に横浜市で開催された番外編と同じシリーズでのオフ会の開催案があるのですか。
街歩きは大好きですから,是非参加させていただきます。
ただし,神戸から泊り掛けで出られそうにない生活を送っておりますので,大阪か和歌山,京都か奈良あたりでの開催があれば,万難を排して駆けつけます。

[91492] 白桃 さん
落書き帳史上、最多記録は何年何月何日か、お判りになったら教えてください。
2007年4月1日の174件では。記事番号[57501][57675]まで。57604は缺番
[91491] 2016年 9月 22日(木)23:56:40ニジェガロージェッツ さん
普通の街
[91473] ペーロケ さん
「普通の街」ってどんな街でしょうか。


これはね,ポプラ社の「BE-KOBE 震災から20年,できたこと,できなかったこと」という書籍の中の一章に,灘区を舞台に楽しい企画を次々と仕掛けておられる"naddist"の物語が書かれており,そのタイトル
「普通の町」灘区を「冒険」するために
が言い得て妙に感じられ,そのことが頭に残っていたので,そのように書いたのですが,ただ,原題の「町」を「街」としたのは,ここは地理の掲示板ですから,「町」だと「市町村」や「町丁目」のイメージが強く,市街地の意味での「街」に置き換えました。

また,拙稿[91427]では灘区については「普通の街である」とは言い切っておらず,「普通の街という言葉が馴染む」とぼかした表現をしています。
もちろん,「普通」という言葉は,人それぞれの感性において,その意味合いが変わってきます。
"BE-KOBE"のタイトルが腑に落ちた小生の感覚としては,神戸市のような古い政令指定都市においての「普通の街」とは,既成市街化地域内にあって,都心業務地区や中心繁華街ではなく,また,長田区のような特定の地場産業に特化したような場所でもなく,おおよそ大正期から昭和中期までに市街地化した比較的古い住宅地であり,ところどころの商業核を持った街並みをイメージしています。住宅地であっても,ニュータウンのような新興住宅地や,或いは芦屋市や東灘区の阪急御影駅周辺地区のような高級住宅街は「普通の街」とは違うと感じます。
もちろん,灘区にも長峰山麓の篠原伯母野山町や篠原台のような高級住宅街があり,一方で浜手は神戸製鋼所をはじめとした工業地帯であり,それらの企業城下町かと感じるところもありますが,小生の持つ灘区全体のイメージとしては,東の副都心六甲道駅周辺や水道筋界隈などの商業核を持つ,どことなく庶民的な雰囲気がありながらも,静かで良好な住宅地といったものです。

以上,ペーロケさんの「普通の街ってどんな街でしょうか」というご質問への,[91427]を投稿した本人からの回答に変えさせていただきます。

・・・と言ったところで済ませればよいのですが,

しかし,一方では,ペーロケさんが[91473]にておっしゃりたかったことは,このような単純なご質問ではないと強く感じます。すなわち,長田区に劣らないくらいの個性的な灘区に対して「普通の街」とはどういう見解かとの,疑問を感じておられるとも解釈されますので,お話を続けます。

まず,事実誤認かと感じられること2点申し上げます
その1
私にとっては、灘区は長田区に劣らないくらいの個性的な街と思いますが。六甲山の地下水をうまく利用した「酒造の街」です。灘五郷の、六甲山を背景に蔵が並ぶ雰囲気は東灘区から灘区あたりしか見られない、独特な風景なのではと思われます。
これは灘区というよりは,東灘区の阪神電鉄線より南側の既成市街地のうち,御影から魚崎あたりまでの光景です。もちろん,酒造りで有名な灘五郷とは,西から西郷(灘区),御影郷,魚崎郷(以上,東灘区),西宮郷,今津郷(以上,西宮市)ですから,灘区には西郷(にしごう)と呼ばれる酒造地が大石南町,新在家南町にあります。しかし,ペーロケさんも東灘区に言及されている通り,東灘区に跨るイメージであり,小生の感覚では灘区を代表する風景ではなく,広い灘区のうち,都賀川河口近辺の西郷地区の狭い地域のものでしかありません。拙[91427]で「普通の街という言葉が馴染む」と言ったのは,灘区についてのイメージであり,他区のことをひっつけて言及するのは,ずれているように感じます。

その2
「普通の街」というのは、無個性な街なのでしょうか。言ってみれば、土地勘がない人に対しても一言で他の街との違いを表せない街。
[91427]では「普通の街」を「無個性な街」とは一言も言っていませんし,改めて読み返してもそのように理解される表現は見つかりません。
敢えて挙げれば,文末に西宮北口について,「何の魅力も感じられません」と書いているのが引っかかりますが,これも個人的な感想を述べただけのことです。実際には,西宮北口は大きな魅力を備えた街であるからこそ,常に関西の住宅地の人気投票でトップの座を争う位置にあるのですから。

むしろ,「無個性な街」などではなく,
神戸市の場合,区が一つ違えば街の性質もガラリと変わるのが感じられるほど,それぞれの区に特徴があり,今では合区から36年も経つ中央区でさえ,都心型商業地域を形成する旧生田区と,工業地帯とその背後地にあたる旧葺合区では明らかに雰囲気が違っています。更には,海に面する各区内に於いては,海沿いと山麓とでも違いがあります。
と,各区に個性があることを強調しています。
言ってもいないことを類推するのはご自由ですが,やはり,論点がずれているように感じます。

拙稿[91427]は,神戸には馴染みのない,川崎市ご在住のTakashiさんに対するレスの形での投稿になっていますが,落書き帳を閲覧される人々には,神戸に土地鑑のない方々も多いはずです。
そもそも,冒頭に表現した
地図だけを見れば,神戸市の都心の東に灘区があり,西に長田区がある。土地鑑がなければ,どちらも普通の市街地であるように感じられるかも知れません。確かに,灘区については「普通の街」という言葉が馴染みますが,一方で長田区は明らかに異なっています。
この一節は,文面通り,例えば2万5千分の1「神戸首部」や,各出版社の神戸市の地図の中で,都心区の中央区や兵庫区はそれらしく描かれているものの,灘区と長田区の市街地の表現は,結構似たようなものになっていることを前提に,しかし,実際には長田区のかなりの部分は「長田村」と呼ばれる一種独特の地域になっていることを,それ以降,シューズ業界についての工程を述べながらも,延々と説明を続けた往時の長田区の新長田駅界隈の街並みの様子との対比にあり,主題は灘区についてではなく,「『長田村』はケミカルシューズの街だ」にあり,その結果としてのシューズ業界の不況と人口減少について述べています。
全体文を無視し,その一節の一部分の表現のみに反応し,類推を交えてのご質問は,正直いただけません。
[91482] 2016年 9月 22日(木)20:23:04【1】ニジェガロージェッツ さん
横浜と神戸など,雑感
[91392] [91402] Takashi さん
拙稿[91386]に対してのご感想,特に横浜市との比較によって神戸市の状況をご解説いただき,大変興味深く読ませていただきました。
神戸市に長く暮らす身として,関東の港湾都市の横浜市とは,昔から「似た者同士」と言われ,行ったことがないにもかかわらず,何か親近感のある大都市と感じていました。

昭和59年の昔話になりますが,小生は当時,大学の建築学科で都市計画を専攻しており,卒業前のゼミ旅行が福岡市と長崎市の視察旅行だったのですが,他の都市も見たくなって,解散した後,長崎駅から寝台特急「さくら」に乗って,東京へ向かいました。そのとき初めて横浜市へも立ち寄り,関内の市役所も訪問して,広報課で横浜市のお話をいろいろとお聴きしました。「神戸からでしたら,横浜の元町も良いところですから是非見て帰ってください」と言われ,その後,元町や中華街などを散策したのち,石川町から根岸線に乗り,磯子区,港南区,戸塚区方面へまで行った記憶があります。
子供の頃より「神戸と似ている」と散々聞かされていただけに,実際に訪れてみると,神戸のような海と山に挟まれた狭い土地にぎっしりと詰まった街並みを予想していたのに反して,横浜のゆったりとした街並みにびっくりしました。それと同時に,どこへ行っても郊外型の住宅地が広々と続く様からは,「巨大なベッドタウン」との印象を持ちました。神奈川区や鶴見区の方面に足を延ばしていれば,もっと違った横浜の姿も見れたのかも知れず,残念でした。

Takashiさんの[91402]での横浜市各区の
A:区に常住している通勤者の内東京23区を通勤地としている人の割合(%)
を改めて見ると,その様がはっきりとデータで裏付けられました。
神戸と横浜が「似ていた」のは,横浜が巨大化する前の横浜でいられた時代,「ブルー・ライト・ヨコハマ」の60年代までのような気がします。

お住いの川崎市についてのご説明もございましたが,小生のような部外者にとって,川崎市の工場地帯のイメージは川崎区のそれにありました。
工場の跡地が再開発でマンションや商業施設になり特に工場数の減少が顕著な中原区や高津区ではそれが人口の増加につながっていることがうかがえます。
たまたま,先日のテレビ番組で,中原区の武蔵小杉界隈の特集があり目にしたのですが,昔,その名もズバリ「工業都市」という東急東横線の駅があったのを知りました。
過去に落書き帳でも話題になっていてもおかしくないので,工業都市駅についての書き込みを「工業都市 東急」「工業都市 東横」などで検索をしてしましたが,特に引っかかりませんでした。

[91234] Takashi さん
垂水区は大阪市から離れていますが、人口はそれほど減少していません。
垂水区内では,大規模な新規開発地がありました。その影響で人口減少に一時的に歯止めがかかった格好になったのではと推測します。場所は,垂水区の北部にある多聞町の未開発地域で,ここには平成8年まで広大な「舞子ゴルフ場」があり,その跡地を中心に,平成18年1月に舞多聞西1-8丁目,舞多聞東1-3丁目が起立し,第二神明道路北線の北側にある小束台と合わせて新しい街並みが誕生しています。この開発がなければ,或いは,開発の終了した今後の展開としては,垂水区の人口は,やはり減少の傾向が続くことになると想像します。
[91428] 2016年 9月 19日(月)01:07:27ニジェガロージェッツ さん
オフ会盛況なによりです
オフ会場からの書き込みから,盛況の様子が目に浮かび,嬉しい限りです。
とはいっても,小生6年もご無沙汰してしまっているので,当時とは雰囲気が随分変わったかな?

まだまだ怪しい夜更かしが続き,3次会,4次会,そして朝の温泉へと続くものと推察いたしますが,更なる盛会と,皆様の帰路のご無事をお祈り申し上げます。
すっかりオフ会への参加が遠くなってしまった,長田区,兵庫区,須磨区の3区だけで生きているニジェでした。
[91427] 2016年 9月 19日(月)00:43:08ニジェガロージェッツ さん
「長田村」
[91393] Takashi さん
神戸市の人口減少についての拙稿へのご感想をお聞かせ下さり,有難うございました。
レスにつきましては,まだ後日にさせていただき,先に長田区についてのお話しを済ませておきます。

[91234] Takashi さん
兵庫区と長田区は1995年から2000年にかけては震災に遭われた方が戻ってきた結果かどうかわかりませんが人口が増えていますがそれ以後は減少し続けています。特に長田区の場合1995年の人口に戻りそうなくらい減少しています。このあたりについては詳しい方の解説をお願いしたいところです。

神戸市のうち,長田区の人口減少についての要因は,神戸市全体の状況と長田区独自の問題の双方によるものではと考えます。神戸市の場合,区が一つ違えば街の性質もガラリと変わるのが感じられるほど,それぞれの区に特徴があり,今では合区から36年も経つ中央区でさえ,都心型商業地域を形成する旧生田区と,工業地帯とその背後地にあたる旧葺合区では明らかに雰囲気が違っています。更には,海に面する各区内に於いては,海沿いと山麓とでも違いがあります。

地図だけを見れば,神戸市の都心の東に灘区があり,西に長田区がある。土地鑑がなければ,どちらも普通の市街地であるように感じられるかも知れません。確かに,灘区については「普通の街」という言葉が馴染みますが,一方で長田区は明らかに異なっています。よく「下町」と表現されますが,確かに,地形的に高取山の山麓にあっても,街並みはやはり下町です。
そして,ここが地場産業ケミカルシューズの街であることが,他の区との全く違った性格を際立たせています。地理的には,JR新長田駅の南北,神楽町と若松町を中心に東西約2キロ,大雑把には山陽電鉄-神戸高速鉄道線より南側がその区域に当たります。面積では長田区全体の半分から3分の1程度になりますが,区内平地の密集市街地のかなりの部分が該当します。
「ケミカルシューズ」を直訳すると「化学靴」となるのでしょうが,ここでは靴甲の材料に塩化ビニール製の合成皮革を用いた靴のことを言います。長田区役所の,西を流れる新湊川対岸にわが国ゴム工業勃興の地と刻まれた碑が建っています。もともと戦前よりゴム履物やゴム長靴の生産が盛んな地域でした。
一方,神戸は「履き倒れ」の街と言われ,京都の「着倒れ」,大阪の「食い倒れ」,とともに有名でしたが,中でも,明治時代に元町商店街の神戸屋製靴所(東京新宿の「シューフィット・神戸屋」さんの沿革より)に始まる高級紳士靴は,アメリカ仕込みのもので,その後婦人靴へと広まり,神戸産の靴は「神戸靴」と呼ばれ,好評を博しました。

話を長田区に戻すと,戦後の区内では,安価で水に強い塩化ビニールを用いたケミカルシューズの生産が,従前のゴム長靴の生産に取って変わりました。昔のゴム長靴に由来するものか,靴底にはゴムを用いるのでそう呼ばれるのか,地元では今でも製靴業者を「長田のゴム屋」と呼んでいます。
ケミカルシューズについては,ご興味があれば,日本ケミカルシューズ工業組合のサイトに詳しく説明がされていますので,ご参照いただくとして,ケミカル婦人靴だけでなく,革製紳士靴,各種スポーツシューズを含めて,広く靴づくりが盛んであった長田区の往時の街並みの雰囲気を記述するのには割けられないので,靴の製造過程を小生の知っている範囲内で記述して置きます。

ざっくり述べると,反物素材からの靴甲の裁断,裁断面の処理や貼り合わせの加工,縫製作業,靴甲の釣り込みから靴底つける成型に分かれます。それらを行うのが靴メーカーですが,自社内だけでなく,広く一般家庭を含めた外注先で行います。
製造過程に応じて「裁断場」「加工所」「ミシン場」「成型場」と分業しますが,事業としてそれぞれ経営している作業所もあれば,一般の家庭に靴甲加工用の皮漉機,縁折機を置き,あるいは工業用ミシンを置いてミシン加工をする程度のところもあります。靴底の材料となるゴム板を製造する文字通りのゴム工場,靴甲になる反物素材を卸売りする材料業者,靴の木型や金型の製作所,裁断用の抜型を作る鉄工所,靴のアクセサリー業者などを加えて,これらが靴の生産に直接携わっています。
更には,関連業種として,糊屋,薬品卸売店,製靴機械をメンテナンスする機械販売業,皮漉機や縫製機器を販売修理する工業用ミシン店,糸店,出来上がった靴を入れる紙器業,段ボール製造業者等など,要するに,家庭内職を含めて,まるで街全体の一軒一軒が何らかの形で靴製造に関わっている現場,といった様相を呈していました。30年ぐらい前の話ですが,皮漉機1台で主婦が漉き加工の内職で月20~30万円の稼ぎになり,(個人差あり,「腕」にもよるそうです)そこまでいかなくても,丼茶碗と刷毛さえあれば,家で糊引きの内職ができました。

表題のタイトル,鉤括弧付きで「長田村」としているのは,ここは地理の掲示板ですから,地名,集落としての長田村,すなわち,鎌倉期に既に村落として存在し,明治期に八部郡林田村,のち神戸市林田区の大字として地図に記載された長田村のことではなく,狭いケミカルシューズ業界のムラ社会をやや自嘲気味に「長田村」と呼ぶ地場のことを言っています。
古来の正しい村落名でいえば長田村の範囲からは南ないし南西へ外れ,西尻池村,野田村(共に,はじめ八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在は長田区),駒ヶ林村(八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在はJR線以南で長田区,JR線以北は須磨区),池田村(八部郡須磨村,のち神戸市林田区,現在は長田区),西代村(八部郡須磨村,のち神戸市須磨区,現在は長田区)が該当し,東では東尻池村(八部郡林田村,のち神戸市林田区,現在は長田区と兵庫区で折半)から,西では板宿村(八部郡須磨村,のち神戸市須磨区,現在に至る)の一部にまで及んでいます。
この区域の市街地の街路は約100m四方の碁盤の目状になっており,その街路を,加工場から各家庭の内職へ,ミシン場へ,靴メーカーへと,ひっきりなしに行き交うワゴン車の荷台には,靴甲や靴底が満載されている,といった雰囲気でした。また,街路から一歩路地に入れば,両側の家々から工業用ミシンの「ザーザー」という運転音が聞こえてくる,通称「地獄谷」と呼ばれる,独特の世界でした。
直接製靴産業に関わっていない,飲食業や小売業など,デパートや商店街の景気も,行き交う住民の多くが「長田村」の一員ですから,非常に活気がありました。国鉄新長田駅は昭和29年の開業ですが,昭和40年代には,神戸市の「西の副都心」と呼ばれるようになっていました。

長田区最盛期の人口214,717人を記録したのは昭和42年7月の推計人口ですが,当時は1ドル=360円の時代,業界では輸出も盛んでした。昭和46年のドルショック以降は輸出こそ低迷しますが,まだまだ内需に支えられており,昭和60年ごろまでは革製紳士靴やスポーツシューズを含めて,ケミカルシューズ業界は繁栄していました。
しかし,昭和60年以降は,海外から安価な靴の流入があり,生産拠点もはじめは韓国へ,次第に中国や東南アジア方面へ移ってしまい,「長田村」では不景気の風が吹き,活気が失われていきました。そのような流れの中で,平成7年の大震災が発生しました。
拙稿[87158] では
震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
と書いていますが,この「長田村」とは,被災区域がほぼ完全に重なってしまいました。「長田大火」と呼ばれる区域もこの中に含まれ,ここでは全滅の様相がありました。
震災前より,業界では「見捨てられた産業」とか,「神戸市は『長田村』を潰したがっている」などと,噂されていましたが(実際にそうだとはわかりません),震災後の新長田地区の再開発では,シューズ業界の意嚮は無視した形で計画されてしまい,「長田村」ではある程度の復興は果たしましたが,震災を機に靴生産の流れは中国大陸へ一気にシフトしてしまい,後継者の不在と高齢化に伴い,メーカーだけではなく,加工所やミシン場などでは廃業が続きました。

震災のあった1995年から2000年にかけての長田区の人口増加は,Takashiさん[91234]でのご賢察の通り,市街地の復興によるものです。但し,新長田駅周辺での再開発ビルの完成とその入居による人口増については,本格的には2000年以降のことで,2000年10月の国勢調査時点では,まだまだ大規模な空き地もありました。一方,神戸市の進める再開発事業区域外では,整地の早かった町丁では,すでに市街地の再生は始まっていました。なお,ここでいう整地とは,旧来の幅の狭い路地でさえ,消防車が十分入れるぐらいの幅員を取り,大火の際にも隣接区画に延焼しないように土地区画を整理することであり,換地処分となります。また,防災のための小さな公園を各町丁に設けたりもするので,住民にとっては場所の移動を伴うだけでなく,従前の土地面積の確保が望めなくなることは避けられず,当然,住民同士の異論百出となり,そういったところでは整地が遅れ,復興の足かせとなりました。
換地が完了した現在でさえも,空き地のままとなっているところも多く,特に被災した町丁では元々がケミカルシューズなど靴産業に携わっていた所であり,旧住民もまた何らかの形でそれに従事していたことを併せると,極論すれば,シューズ業界に景気がない現在では,ここに住む理由もないと言ったところかと感じています。

1995年と2000年の国勢調査間に於ける推計人口では,住民票の移動では実態が掴めないため[12405],1998年10月に被災地人口実態調査が実施されました。それによる同月人口108,553人が,復興による区人口のピークに,統計上ではなっています。すなわち,少なくとも1998年10月以降は長田区の人口は減少傾向にあります。あまりにも早い人口減少といえるのですが,これも社会動態的には,長田区の地場産業である製靴業界の不況,および神戸市全体の景気低迷による要因が大きく,自然動態では,神戸市平均以上の高齢化によるものと推察します。
(2010年国勢調査による65歳以上人口および割合,神戸市354,218 / 1,544,200 = 22.93%,長田区 29,901 / 101,624 = 29.42%)

今では,「駅を降りればゴム臭い」ということもなくなりました。良くも悪くも,遠い昔話です。「地獄谷」など,どこを探してもありません。
しかしながら,今でも長田区に対しては従前のイメージが付き纏っているのも事実のようで,「普通の街」とは認識されていないように感じます。
昔から長田区で育った小生としては,住宅地の人気投票でトップの西宮北口のような街には何の魅力も感じられません。この下町の雰囲気と,なんでも揃う街,JRに乗れば7分で三宮へ,徒歩1時間圏内でハイキング(高取山,須磨アルプスなど)もでき,海水浴場(須磨海岸)もあり,都心の元町や神戸港へさえ行ける距離にある,この便利な街からは離れられそうにありません。

---追記---
先のニジェ[91386]には,訂正すべき字句がありました.
港湾部に隣接して造船,鉄鋼,ゴム等々,重工長大型産業の工場群がひしめき合い,
皆様お気付きのことと推察いたしますが,「重厚長大型産業」の間違いです。謹んで訂正いたします。
[91386] 2016年 9月 11日(日)23:57:45【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸市の人口減少について
ご無沙汰いたしております。実質的には1年7か月振りの投稿になります。
先月,神戸市の人口減少について話題になっておりましたが,地元長田区からお話しさせていただきます。小生は震災後の数年間こそ加古川市やニジニ・ノヴゴロド市で暮らしておりましたが,それ以外は長田区でございます。ふと気が付けば,いつの間にか在住歴50年を数えておりました。子供の頃の記憶になりますが,区人口21万人以上を数えた最盛期の昭和40年代の活況もはっきりと憶えております。

[91234] Takashi さん
神戸市の人口減について部外者からの考察

ご賢察,興味深く拝読いたしました。
神戸市の人口減少を語る場合,地元の報道や市民の会話などでは,市経済の不況を物語るニュースをよく耳にします。特に神戸市から企業や工場の移転,あるいは閉鎖といった情報に接することが頻繁にあり,何とも言えない寂しさを覚えます。
例えば工場が街から消えた場合,その工場の従業員とその家族が転出するだけでは済みません。その工場からの受注を基に運営される下請工場,孫請工場も移転あるいは廃業を余儀なくされ,それらの工場群に原材料,資材,機材を納入する業者,機器のメンテナンスを行うサービス業者など,あらゆる方面に影響が出ます。果ては駅前や工場までの道々にあった商店街からも人通りが絶え,商店や娯楽施設の廃業など,暗い話題のスパイラルに陥ります。
そして同様の話が市内各所で繰り返されるようだと,各種企業も神戸市内に事業拠点を置く必要性が問われます。神戸の場合は悪いことに大阪からも遠くなく,神戸支社,支店,営業所の大阪との整理統合という流れが当たり前のように出てくるという懸念がよぎります。

往時の神戸市は,大港湾神戸港を擁する一大工業都市でした。港湾部に隣接して造船,鉄鋼,ゴム等々,重工長大型産業の工場群がひしめき合い,国内最大,世界ではロッテルダム港に次いで2位と言われた神戸港の港勢も活況を呈し,貿易物流のハブ拠点として隆盛を極めていた感がありました。しかし,平成7年の震災で神戸港と工場群が軒並み被災し,モノの流れ変わってしまいました。神戸港は早期に復旧しましたが,今では世界50位にさえ入っておらず(pdfファイル 神戸港の質的変貌-日本銀行神戸支店より),一度変わってしまった物流を元に戻すのは非常に難しく,被災した工場も再建されることなく神戸から去っていったものも少なくありません。
震災後に新都心という看板で開発された「HAT神戸」も,元々は川崎製鉄阪神製造所,神戸製鋼所脇浜工場,岩屋工場などが並ぶ臨港工業地帯でした。

神戸市は大阪との近さから,特に市の東部3区(東灘区,灘区,中央区)は大阪から見れば阪神間の通勤圏に当たり,住宅地としてのイメージも良く,「建てれば売れる」状況にはあるのでしょう。数年前に大阪の女子アナウンサーが深夜のバラエティ番組で,関西で一番人気の住宅地は三宮だと紹介していたのを目にしましたが,長年神戸市民でいる身としては,そもそも市内一の繁華街三宮を住宅地として認識していませんでした。
確かに,工場等が転出した跡地にタワーマンションでも建てば,その町域では人の住まない工業用地や商業地が住宅地に変わったわけですから,一気に人口は増えるでしょうが,都市としての神戸全体を見た場合,果たしてそれで良いのかということになります。神戸市は,大阪の通勤圏にありながらも,昼夜間人口比が100を若干上回っていることから,総合的には独立都市です。当然市内の産業が低迷していれば人口は減る。大阪の衛星都市に成り下がっての人口増加など,神戸市では考えられません。
大阪の下町と神戸の下町を歩いて比べると感じるのですが,昔からの小さな商店街でも大阪の福島区や此花区ではまだ活気があるのに対し,神戸では人口が増えているはずの中央区に於いてでさえ,葺合の大日商店街などでは往時のアーケードがあることから,そこがかつては賑わっていた商店街であることは窺えるが,あまりにも寂しい現実がそこにはあります。
大阪から見て,通勤圏外と言われる兵庫区や長田区では,工場跡地の更地がそのままになっているところも目につきます。

もちろん,市も対策を打ってこなかったわけではなく,例えばポートアイランドに先端医療都市を創設したり,観光業に力を入れたりと,人口流出を食い止める政策を打ってきました。経営が厳しいことを承知でも,反対を押し切り神戸空港開港を断行したのも,震災後の低迷する神戸の復権に対する切ない事情があったことと推察します。県や市といった自治体の力では到底及ばない,日本の産業構造の変化もあり,震災からの復興の過程の中でも,失ったものが多すぎる。新産業の創設も大事なことで大いに派手にやってもらいたいところですが,行政には,現状の産業の保守と育成にも倍旧に力を入れてほしいところです。
最近では,兵庫区の神戸港の入り口に位置する,三菱重工業神戸造船所で商船建造を撤退するニュースがありました。造船部門では潜水艦建造に特化するとのことですが,神戸港を代表する三菱の造船所から商船の進水式が消えるのは寂しい限りです。

以上,愚痴ともつかない小生個人の雑感ではありますが,神戸市の人口データ 平成27年中の人口の動きによれば,年間推移として平成24年以降減少にあります。出生から死亡を引いた自然動態では,平成19年以降は連続9年の減少であり,転入から転出を引いた社会動態では平成24年と26年が減少,それ以外は増加を示しています。ここ数年の流れとしては,社会動態はプラスマイナスがほぼ均衡し,年によっては増加にも減少にもなるといったところで,連続して一定の自然動態が減少している分,市人口の減少になっていると見ます。
また,社会動態での相手地域別転入超過によれば,
相手地域平成26年平成27年備考
総計-1421,314
東京都-1,597-1,706
東日本-899-722東京都を除く関東,東北,北海道
愛知県-68-220
中部205216愛知県を除く
大阪府-685-701
阪神6市-967-630芦屋市,西宮市,宝塚市,川西市,伊丹市,尼崎市
兵庫県下1,1331,352阪神6市を除く
近畿276509兵庫県と大阪府を除く
西日本1.4771,592中国,四国,九州,沖縄
海外2,2372,828
その他-1,254-1,204職権による記載,帰化など
となっています。
データからは,神戸市が首都圏への人口供給源になっていることが伺えます。もっとも,東京には全国から人が集まって来ますから,その中での神戸出身者の割合などは,全く目立たないものでしょう。

悪口になってはいけませんから,記事番号のリンクは控えますが,国勢調査人口では2010年が最盛期となった神戸市人口の,2015年調査人口との比較にて,その人口減少の何よりの原因として,これまで人口増加地区であった主に北区と西区で人口が大幅に減少したのが原因だったとの考察を述べておられるのを拝読しましたが,小生は賛同致しかねます。
確かに,「オールドタウン」と揶揄される20年以上前に開発されたニュータウンなどの郊外にある新興住宅地において,入居当時は子供であったのが成人し,親御さんの許より離れて新生活を始める青年たちの転居が,人口減少に直結する訳ですが,第一,その青年たちが新生活を神戸に置くことを選べば,仮に親元の北区や西区や北須磨の人口は減ったとしても,他区に人口が移動するだけで,神戸市全体の人口は減りません。原因はそこにはない。
親元を離れる青年たちが,神戸市内では希望する職に就くのが難しい,魅力ある生活を見出せない,生計を立てるのが厳しい等など,それぞれの理由で神戸を離れていく,これこそが問題であると小生は考えます。
「震災がなかったならば」とよく言いますが,実のところ,この傾向は震災前からあったことです。ただ,当時はまだ神戸市が「公共ディベロッパー」として,須磨区の須磨ニュータウン,西区の学園都市,西神ニュータウン,北区の藤原台,鹿の子台など,各地に宅地造成を続けており,堅調に人口増加にあったために見えづらかっただけのことで,新規の大規模造成の余地がなくなったここ数年では,人口の流出がはっきりと表れたと推察します。

たまたま,今回の国勢調査で福岡市の人口との逆転を許した神戸市の,その人口問題についての報道が,2月ごろのテレビのニュース番組などで特集されており,その受け売りになってしまいますが,それによれば,市内では大学などの高等教育機関は充実しており,学生人口はむしろ増えているとのこと。しかし,卒業後に神戸を去ってしまうことが言われていました。

極論になりますが,これからの街の将来を築いていく期待のかかる青年層が神戸から出ていく傾向にある一方で,既に年金生活に入っておられる老人たちにとっては,神戸の景気動向は関係ありません。むしろ,工場がなくなることで環境が良くなると喜んでいるかもしれない。
都市の人口の高齢化は,当然人口の自然動態がマイナスに振れます。まさに今の神戸市の姿ではないでしょうか。

かなり悲壮な雑感ばかり書き綴りましたが,このような空気が流れている中でも,現実の神戸市人口は先に述べたように,今のところ社会動態は転出と転入が拮抗しています。海外からの転入も目につきますが,これも神戸市の持つ底力かと感じる次第です。
また,大阪から見て通勤圏外と言われる兵庫区や長田区へは,JR線に乗れば三宮から数分(新長田で7分)しかかかりません。しかし,どうも大阪からは全く別の都市圏に感じられるそうで,これも神戸の存在感がそう言わしめているのでしょうか。

長田区のお話もさせていただくところでしたが,長くなりましたので,近日のうちに別稿として改めます。
[90050] 2016年 3月 8日(火)01:18:45ニジェガロージェッツ さん
盛岡市玉山区
[90015] ピーくん さん
地域自治区・玉山区の終了のご連絡ありがとうございます。期日が来ましたら区コレクションに反映させていただきます。
[87289] 2015年 2月 14日(土)03:09:23【1】ニジェガロージェッツ さん
高取山
地元ネタ続きで恐縮です。
グリグリさんご編集の「自治体越えの地名」への情報提供に[87282]にて神戸市の区境を越える地名として「中一里山」を挙げましたが、もうひとつ小生の地元に「高取山」がありました。馴染みがありすぎて、空気みたいにすっかり気にせずにおりました。
長田区高取山町/須磨区妙法寺高取山
「高取山町」の読みは「たかとりさんちょう」ですが、「妙法寺(字)高取山」も「たかとりさん」でしょう。地元ではこの山を「たかとりやま」とは呼びません。

「高取山」については、実際に標高329mの高取山が存在していますが、念のための説明になりますが、[87282]で書いた「一里山」については、そのように呼ばれる山が実際にあるわけではありません。
ちょうど長田区に高取山町と一里山町とがあり、どちらにも山頂があるので、遠い将来に一里山町にある山を「一里山」と呼び、整備される可能性はあるかもしれませんが、現状では難しいでしょう。
高取山頂上一帯は高取神社の神域として市民に親しまれ、六甲全山縦走路が通るハイキングコースにもなっていますが、一里山町はかつて石切り場のあったところで、ハイキングコースもなく、鉄塔をつなぐ電線の巡視路の他にはいくつかの怪しい獣道のようなものがある程度です。ただ、治山事業は細々と続けられているようですが、山頂から南側は石切り場の崖になっており、ここを市民公園のように整備することはないでしょう。小生は北側から山頂に向かって藪を掻き分けアプローチしてみましたが、辿り着けませんでした。

ところで、口、中、奥の一里山について、「中一里山」は山田町下谷上の字に、「口一里山」は神戸港地方の字に現存し、昔は長田村や夢野村にも字があったことは[87282]に書きましたが、残る「奥一里山」についても、山田町にその名の字があるのか探してみました。ところが、神戸市の地番参考図の北区の索引に出ていないことから、現存していないかもしれません。
歴史的にも口、中、奥の名称は、あくまで神戸側の福原庄から見た呼び方であり、当時の山田庄の人々が自身の地に「奥一里」という地名は付けなかったのでないかと推測します。

[87269] グリグリさん
自治体名、町名、大字、小字のどのような組み合わせでも採用します。
全国各地の自治体の境界は、山頂や尾根筋を通ることが多く、共通の山の呼び名を冠した「字」レベルの細かな地名となると、探していけば全国至る所に境界の両側に散らばっているということはないでしょうか?
杞憂だとよいのですが。

[87285] ペーロケ さん
私は由来が異なるとは書きましたが、「関係がある」とは一言も書いていませんよ。
ならば、貴稿[87283]にて
どちらかといえば、大分市寒田のような扱い近いのかもしれませんね。
とお書きになられたのか。臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町に跨る西寒田と、場所の離れた大分市寒田とについては、グリグリさんは[87265]
両者は無関係ではないのは間違い無さそうですが、同じ地域が分断されたのではなく、神社由来の関係のようであり
と関連性を述べておられ、過去にはokiさんが[76694]にて分かりやすく両者の関係を詳説しておられます。
もちろん、ペーロケさんもそれらをお読みになったことでしょう。
[87265]にてグリグリさんが示された基準を問題視されていますが、寒田の例は自治体越えの地名として収録するのには無理があるものの、無関係ではないから「微妙」とおっしゃられている、と小生は理解しています。「無関係だけどたまたま同じ名前になったという例」が混じるとは考えられません。
[87284] 2015年 2月 12日(木)22:08:22【1】ニジェガロージェッツ さん
ニジニ・レス No.653
↑何年ぶりだろう、このタイトル

[87161] グリグリさん
「神戸レンガプロジェクト」へのメッセージ付きレンガに参加しました。元町商店街などに敷き詰められましたとのことですが、自分の目では確認しませんでした。

神戸へのメッセージ、ありがとうございます。神戸の一市民として、ひとりの被災者として、神戸へ想いを馳せていただいたこと、感謝の言葉を述べさせてください。
震災の年、小生は加古川市へ避難し、長田区と加古川市との往復ばかりで、元町など都心に出掛けることが少なかったのですが、確かに元町通商店街のうち、三丁目にあたる「元町3番街」の街路の所どころにメッセージの書かれたレンガが敷き詰められていたのを記憶しています。初めて目にしたときは心に沁みるものがありました。

日曜日に須磨区の人口を調べに中央図書館へ行った際に元町へ足を延ばし、20年を経た今、レンガはどうなっているかを確かめてきました。西の六丁目から東の一丁目まで足元を注視しながら通り抜けましたが、三丁目に20メートルほどの間隔でメッセージ入りのレンガが敷かれていました。
ただし、元町3番街はこの商店街の中でも人通りの多いところで、20年の間に随分と擦れてしまっており、中にはもう字が読めないメッセージもありました。震災8年後の2003年4月には、メッセージレンガの全面改修工事が完了し、復元が成されましたが、それからもすでに12年が経ちました。


[87196] スカンデルベクの鷲 さん
[87199][87200] ピーくん さん
地域自治区の廃止のお知らせ、ありがとうございました。情報の「区コレクション」への反映はスカンデルベクの鷲さんとピーくんさんの書き込みに気づいてすぐに更新しましたが、御礼のご挨拶が遅くなってしまいました。


[87283] ペーロケ さん
早速、一里山への反応ありがとうございます。ただし、
ちょっと悩ましい例を見つけました。
ちっとも悩ましくありません。全く無関係です。

拙稿[87282]でご紹介した神戸の一里山の件は、まだ江戸時代が始まっているかさえ怪しげな時代の慶長9(1604)年の「中一里山論争」に遡る地名です。「一里」の起点になっているのは神戸側の海岸線であり、そこから北へ1里までにある山地を「口一里山」とし、次の1里までを「中一里山」、3里目を「奥一里山」として、神戸背山の領域を3分割して当時の福原庄と山田庄とが争ったものです。
この中一里山論争については、非常に詳しく書かれた研究論文慶長十年中一里山裁許絵図の一里塚についてがあります。

ペーロケさんは西宮の一里山の由来を、甲山を基点として4キロ(=1里)との説をお書きですが、これをしても神戸の一里山との関連は全くないと言わざるを得ません。
ペーロケさんご自身が
個人的にはコレクション対象外とするのが妥当と思います。
と、書いておられるとおりです。

西宮市と神戸市は「同じ地域ではない」、とは言い切れない(そもそも隣り合っています
同じ地域ではありません。慶長年間に遡る古い「字」の話に、第二次世界大戦後の神戸市域と西宮市域が隣接していることが、どうして『「同じ地域ではい」と言い切れない』となるのでしょうか?
グリグリさんが[87265]にて述べておられる掲載基準との整合性から述べておられるように解釈しますが、由来も違い、場所も無関係で、何も共通点がない以上、収集の趣旨からは外れるものと思料します。

完全否定する根拠を探すために西宮市の一里山町の由来を調べてみたところ、「にしのみやインターネットテレビ」のサイトに、町名の由来 一里山町と田近野町という動画がありました。
10分間の動画ですが、面白いので見入ってしまいました。一里山町については6分過ぎより始まっていますが、その由来については
一里山町
昭和27年に命名。旧字名ではない。
一里山は一里塚にちなむ場合が多い。この地に一里塚があったか不明だが、町は旧街道に面している。
と説明しています。「西国街道の一里塚があったかも?」といったもので、甲山基点4キロという話も出ていません。
[87282] 2015年 2月 12日(木)02:07:18【2】ニジェガロージェッツ さん
中一里山
いろいろとレスをしなければならないのですが、それらは後日に別稿を起こすことにして、今日は情報提供を先にさせていただきます。
自治体越え地名の話題が続いていますが、字まで見ていくと神戸にも複数の区にまたがるデカイのがあります。

神戸市北区山田町下谷上の字に「中一里山」というのがあるのですが、小字にもかかわらずその範囲が広大で、同じ神戸市の区で接していないのは東灘区と垂水区のみという、実に灘区六甲山町中一里山との境から、西区伊川谷町布施畑との境まで、直線距離で10キロに及ぶ東西に細長い領域を持ちます。
Googleの地図による領域の図示では、東は再度公園あたりで切れていますが、実際には灘区六甲山町中一里山との境である、通称「まむし谷」と呼ばれる沢に達しています。
(pdfファイル神戸市地番参考図を見ると中一里山だけではなく、シャクナゲも両区に跨っている)
東隣の灘区六甲山町中一里山も、元々は山田町下谷上中一里山の一部だったところを、昭和47年5月の六甲山町新設によって下谷上より切り離され、当時の兵庫区(北区は昭和48年8月設置)より灘区に移管された部分です。

この中一里山については、12年前の拙稿[15879]に「一里山論争」として書き込みした場所です。
江戸期より「一里山論争」という六甲山脈南の神戸(兵庫)側と、北の山田側に、両者の境界を巡っての紛争が起きています。
これは、神戸の背山である六甲山脈に属する一連の山域を、南から一里ごとに「口一里山」「中一里山」「奥一里山」と称して三つに分け、それぞれがどちら側の所領かを争ったものですが、結局「口」と「中」は旧兵庫と神戸側の村々が入会権を持ち、「奥」は山田村の所属になり、互いに他を侵せない取り決めになったようです。

[15879]を補足すると、入会権(共同で利用する権利)こそ兵庫と神戸側の村々に認められましたが、中一里山の領域は山田に属しており、それが現在の山田町下谷上中一里山に至っています。
長田区雲雀ヶ丘の大部分も元は山田町下谷上中一里山に属し、昭和40年の町の起立と同時に兵庫区より長田区に移管しています。同様に昭和55年に町の設定と同時に灘区に移管した摩耶山町も北区山田町下谷上でしたから、ここも中一里山だったのでしょう。もちろん、北区南部の町々、ひよどり台(昭和50年起立)、ひよどり北町(昭和53年起立)、ひよどり台南町(平成16年起立)、中里町(平成元年起立)は元々中一里山の一部でした。

一方、中一里山の南に連なる「口一里山」については、現在残っているものでは「中央区神戸港地方口一里山」があります。中央区で町の起立していない山間部のうち、旧生田区(旧神戸区)の部分が神戸港地方ですが、そのうち、堂徳山、市章山、碇山を結ぶ稜線の北側一帯の北区との境界までが(字)口一里山で、唯一大龍寺の敷地周辺のみ(字)再度山となっています。
また、長田区には「一里山町」が存在し、この町は昭和16年に林田区長田村(字)口一里山の一部に起立した町で、兵庫区の里山町もまた、昭和24年に兵庫区夢野村(字)口一里山に起立した町名です。

コレクション「自治体越えの地名」にこれらが該当するかの判断は、ご収集のグリグリさんにお任せするとして、「中一里山」と「口一里山」を、その歴史的な背景を踏まえて別々の地名と捉えた場合では、
北区山田町下谷上中一里山/灘区六甲山町中一里山
のみの該当になり、
「一里山」でひとつの地名として捉えた場合には、
北区山田町下谷上中一里山/中央区神戸港地方口一里山
北区山田町下谷上中一里山/長田区一里山町
も該当します。
また、中一里山と同じく、昭和47年5月の六甲山町新設により分割された兵庫区山田町上谷上(字)シャクナゲについては、
北区山田町上谷上シャクナゲ/灘区六甲山町シャクナゲ
が該当しますが、上谷上側のシャクナゲについては、pdfファイル神戸市地番参考図しか見つかりませんでした。

なお、12年前の拙稿[15879]には、訂正すべき部分がありました。
大正11年に「神戸都市計画区域」が設けられ、その区域に当時の神戸市全域(現在の中央、兵庫、長田、須磨区)に、武庫郡8カ町村(現在の灘、東灘区)と山田村(北区南部)のうち「奥一里山」と呼ばれる神戸の背山が加えられました。
このうち、「奥一里山」は「中一里山」の間違いです。

「神戸港地方 こうべこうじがた」ですが、(中略)神戸区の区域となった「口一里山」「中一里山」の部分に付けられたようです。
この文章より「中一里山」は削除し、「口一里山」のみ該当します。

間違いがあり、それに12年間も気がつかなかったこと、謹んでお詫び申し上げます。

【2】長田区雲雀ヶ丘、灘区摩耶山町の記述を追加
[87158] 2015年 1月 18日(日)02:15:10ニジェガロージェッツ さん
文化
日付が変わりましたが、小生の自宅を全壊させ、店と仕事場を全焼させたあの忌まわしい記憶から、早くも20年の1・17を迎えました。神戸市のサイトには、昨12月より阪神・淡路大震災「1.17の記憶」と題して、震災当時の写真画像をオープンデータとして公開しています。小生の住む長田区だけでも264件もの画像が出てくる膨大なものです。
それよりも目が釘付けになったのが、関連サイトとしてリンクの張ってある震災写真アーカイブマップです。このサイトでは、長田区の新長田駅の南北と、その西に隣接する鷹取東、野田北部の、震災前後の町並みと現在の街並みが閲覧できるもので、20年、あるいは20数年前の失われた新長田界隈が鮮明に蘇ってきます。
しかしながら、雑な言い方をしてしまえば、今も昔も新長田は新長田なもので、そこに暮らしている者としては、どちらも「我が街」に違いはなく、同じ空気が流れているようにさえ感じていました。もちろん、その変貌振りは事実として認識していても、改めて当時の街並みに接してみると、あまりもの違いに驚愕します。建物が違うのは当然ですが、まず道路が違う。同じ道路が昔はこんなにも道幅が狭かったのかと気づかされます。

さて、新長田界隈は大規模な再開発事業が展開されて街並みは一新されましたが、震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
震災関連の報道ではあまり取り上げられませんが、長田区を隅々歩いていると、むしろこういった以前の街並みが残っている地域が、復興の影で衰退の一途を辿っているのではと強く感じます。

表題の「文化」という言葉、語頭にアクセントを置いて「ぶンカ」と読めば「カルチャー」の意味ですが、関西方言で「ブんカ」と読めば全く意味が違ってきます。これは「文化住宅」を意味しますが、[54539] Issieさんのおっしゃる関東など標準語でのモダンな文化住宅とも違って、当地では木造2階建てで4~10世帯程度が入居できるアパートのことを言い、その多くが昭和30年代から45年ぐらいまでの高度経済成長時代に建てられたものです。何が文化なのか良く分かりませんが、それまでの長屋などの集合住宅には浴室がなく、小さいながらも風呂場があるのが「文化的」だろうと言ったという説、などを聞きます。

その当時の神戸市では重工業が盛んな都市として人口は増加の一途を辿っており、一方で須磨区北部や現在の西区(当時は垂水区西神地区)のニュータウン群は開発前のことで、増加する神戸市人口の受け皿として、長田区では既存市街地の新長田界隈からは距離のある、高取山周辺の山麓部や丸山や名倉など北部の、坂道の多い丘陵地帯が所狭しと開発され、文化住宅も数多く建てられました。震災前にはこれらの文化住宅でも空き家となっているのは少なかったように記憶しています。
しかし、今では多くの文化住宅がまるで廃墟の如くになっています。神戸市を覆う不況もあるでしょうが、震災からの復興過程で新長田駅周辺などの便利なところに大規模な再開発があり、一方で郊外の西区などには広い一戸建て住宅の多いニュータウン群が出来、文化住宅の需要が急減したのでしょう。坂道の多さ、交通アクセスの見劣りなども不利に働いていることでしょう。とはいえ、解体するのも多額の経費かかり、更地にした後の土地利用などのことで、潰すに潰せないと放置しているのが現状でしょうか。
長田区の空き家率は18%を超え、市内9区の中では最も高くなっているようです。(神戸の住宅
特に文化住宅での空き家の問題、復興の影となった神戸特有の問題なのか、全国的な問題なのかは分かりません。
時代遅れの文化住宅など、確かに見劣りはするでしょうが、ライフスタイルに合わせれば、家賃も安く、魅力があるとも聞きます。これらの空き家を活用していくのか、それとも空き家のまま社会問題化してしまうのか、本格的に人口減少時代を迎えた神戸市、特に兵庫区以西の各区で非常に気になるところです。


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