>88 さん
長崎県西彼杵郡淵村の消滅時期が資料によって分かれていまして、ちょっと相談させて下さい。市区町村変遷情報では
1920/10/01に長崎市へ編入とされています。しかし、1898/10/01に長崎市へ編入し消滅しているとする資料もあります。
A.1898(明治31)/10/01に消滅
(1)『角川日本地名大辞典 42長崎県』1991年
(2)『長崎市制六十五年史 前編』長崎市役所 1966年(図の部分)
ただし、本文では拡張区域として、明治31年淵村一部表示。1920年に淵村編入の記述なし。
(3)
長崎市役所公式サイト内資料(PDF)
B.1920(大正9)/10/01に消滅
(4)『幕末以降市町村名変遷系統図総覧』原書房 1995年
(5)『新版 全国市町村名変遷総覧』日本加除出版 1999年
(6)『市町村名変遷辞典 補訂版』東京堂出版 1994年
このように分かれる原因となったのは1898/10/01の合併or境界変更にあると思います。
1898/10/01
・淵村の一部が長崎市へ編入
・淵村の一部が浦上山里村へ編入
この変更についてはA,B両者とも共通しています。つまりここで淵村に残余部があったのかどうかということが問題になります。(1)(6)の資料ではどの範囲が編入されたか書かれていました。どちらも浦上山里村への地域は「寺野郷」、長崎市への地域は「竹ノ久保郷、稲佐郷、船津郷、平戸小屋郷、飽ノ浦郷、水ノ浦郷、瀬ノ脇郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷」で一致していました。さらに(1)で明治22年時の行政区として記されていた郷は、分立した小榊村部分を除き上記11郷と一致しています。実際、明治22年時の淵村と現在の大字を比較する限り、1898年に編入された11郷というのは淵村のほぼ全域にわたっていると思われます。以上のことから私はAが正しいのではないかと推測していますが、いかがでしょうか?