都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
okiさんの記事が50件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[74368]2010年3月17日
oki
[74321]2010年3月11日
oki
[74277]2010年3月7日
oki
[74209]2010年2月23日
oki
[74206]2010年2月23日
oki
[74175]2010年2月18日
oki
[74154]2010年2月13日
oki
[74139]2010年2月11日
oki
[74023]2010年1月23日
oki
[73936]2010年1月15日
oki
[73926]2010年1月15日
oki
[73925]2010年1月15日
oki
[73901]2010年1月14日
oki
[73877]2010年1月13日
oki
[73814]2010年1月11日
oki
[73810]2010年1月10日
oki
[73803]2010年1月10日
oki
[73801]2010年1月10日
oki
[73776]2010年1月9日
oki
[73764]2010年1月9日
oki
[73688]2010年1月5日
oki
[73683]2010年1月5日
oki
[73447]2009年12月30日
oki
[73446]2009年12月30日
oki
[73445]2009年12月30日
oki
[73385]2009年12月24日
oki
[73362]2009年12月20日
oki
[73320]2009年12月16日
oki
[73311]2009年12月15日
oki
[73308]2009年12月15日
oki
[73286]2009年12月13日
oki
[73283]2009年12月13日
oki
[72780]2009年11月7日
oki
[72750]2009年11月3日
oki
[72661]2009年11月1日
oki
[72609]2009年10月31日
oki
[72604]2009年10月31日
oki
[72602]2009年10月31日
oki
[72575]2009年10月30日
oki
[72574]2009年10月30日
oki
[72442]2009年10月26日
oki
[72399]2009年10月24日
oki
[72388]2009年10月24日
oki
[72292]2009年10月22日
oki
[72284]2009年10月22日
oki
[72277]2009年10月21日
oki
[72066]2009年9月25日
oki
[72024]2009年9月21日
oki
[72021]2009年9月21日
oki
[71997]2009年9月19日
oki

[74368] 2010年 3月 17日(水)18:43:01【1】oki さん
RE:浜名湖境界確定?
[74367] 小松原ラガー さん
なぜか神戸新聞にこんな記事が出ていたのですが、本当なのでしょうか。

国土地理院の発表で確認できます。

浜松市北区と西区との境界も湖面上に引かれることになるのですね。
[74321] 2010年 3月 11日(木)00:07:16oki さん
柏崎市上輪の奇妙な遍歴
[74311] 山野 さん
[74315] じゃごたろ さん
[74316] hmt さん

話題になっている、かつて柿崎町の飛地であった柏崎市上輪、蕨野等ですが、調べてみると、とても奇妙な編入経緯を経ていることが分りました。

関係する地域の、近世村(天保国絵図)時点からの変遷を示すと次のようになります。

近世村明治大合併1901(明治34)年1956.12.191957.01.011989.04.01
上輪村米山村米山村柏崎市柿崎町柏崎市
上輪新田村
笠島村
青海川村
鉢崎村(現在の米山町)鉢崎村
(高畔)柿崎町
大平村
大平村のうち蕨野村柿崎町
小萱村柿崎町
大清水村
大清水村のうち竹ヶ花村柿崎町

関係しているのは8村(+枝村など)ですが、明治大合併期には、上輪村~青海川村の4村が合併して米山村、鉢崎村以下の4村が鉢崎村を形成します。
蕨野村、竹ヶ花村(現在は竹鼻)は天保国絵図では枝村になっていますが、明治合併期には大平村、大清水村に含まれていたようです。また、鉢崎村(現在の柏崎市米山町)の中心集落は日本海沿いに位置していますが、高畔の集落はそこからオガチ川を遡った場所にあり、近世の高畔は鉢崎村の小名だったと考えられます。
米山村と鉢崎村は1901(明治34)年に合併し、新たな米山村が誕生します。そして、この米山村全域が、1956年12月19日に柏崎市に編入されます。ここまではよくある話です。

ところが、編入直後の1957年1月1日、大字上輪、小萱の全域と、大清水、鉢崎、大平の各一部が分離し、柿崎町に編入されているのです。われらが「市区町村変遷情報」では、次のように記述され、
1957.01.01 境界変更 中頸城郡 柿崎町 中頸城郡 柿崎町, 柏崎市の一部
詳細な注記が入っています。
88さんの注記では、大清水、鉢崎、大平の各一部は多数の「字」からなっていますが、現在の大字名などから、近世村段階で上記の表のような位置づけにあった地域、と考えて構わないと思います。

この、大字上輪等の柏崎市からの分離、柿崎町への編入は、非常に奇異に感じられます。柿崎町に隣接する小萱、竹鼻はともかく、上輪、蕨野は完全な飛地。高畔も小萱に接してはいますが、接触部分は山間地で、盛んな交流があったとは思えません。
歴史的に見ても、近世において上輪は上輪新田の親村であり、蕨野、高畔も大平、鉢崎の一部でした。明治以降も、米山村や鉢崎村の一部として隣接地域と密接な関係があったと考えられます。それがどうして柿崎と飛地合併したのか、しかも柏崎への編入から2週間もたたない時に、というのはよく理解できないところです。
さすがに、この飛地合併に無理があったのか、小萱、竹鼻を除く上輪、蕨野、高畔の3地域は柏崎市に再編入されていますが、それはじゃごたろ さんが確認してくれたように1989年4月1日で、飛地編入から30年以上後のことになります。
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。
[74277] 2010年 3月 7日(日)04:46:42oki さん
武州入間郡川越領福岡村の石高に関する若干の補足
最初に御礼を。
[74211] hmt さん
ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
遅くなりましたが、ご回答有難うございます。hmt さんが正常に閲覧できている以上、私のPC環境に問題があることははっきりしているのですが、まだ原因を突き止めることができません。そのため、相変わらずJPEG2000の画像が閲覧できないのですが、国立公文書館はJPEG版が高機能化したので、そちらで閲覧するようにしています。

さて本題。

川越領福岡村の土地と年貢 [74245][74271]  hmt さん

貴重な資料のご提供有難うございます。ただ、補足した方が良いと思われる点が2つほどありますので、以下に述べておきます。

まず、福岡村の石高です。
[74271]
冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。
とありますが、慶安時点での福岡村の石高は345.79石ではありません。
これは川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。また、この時点で中福岡村、福岡新田は分村しておらず、すべて福岡村の石高に含まれています。慶安検地とほぼ同時点の「武蔵田園簿」以降における福岡村関連の石高を整理すると次のようになります。

 田園簿元禄郷帳天保郷帳旧高旧領
福岡村742.1683.9836.8525.1
中福岡村上に含む上に含む上に含む311.7
福岡新田上に含む115.3182.4182.4
742.1799.21019.21019.2
指数100108137137

ここに見るように、慶安時点で川越藩領および旗本2家の石高を合計すると742.1石で、元禄郷帳(1699年)時点では福岡新田を合わせて799.2石ですから、この間の増加率は8%ということになります。
天保郷帳(1834年)では、福岡村だけで837石、福岡新田を合わせれば1000石を越えていますが、この場合でも慶安時点からの増加率は4割に達しません(実際には、この石高に達したのは天保時よりかなり前のはずですが)。
なお、天保郷帳時点では中福岡村が分村していたと思われますが、中福岡村が全国資料に現われるのは明治維新後の旧高旧領取調帳を待たねばなりません。

次に、ご紹介いただいた福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表ですが、私自身よく理解できない点があったので、少し考えて次のように再整理してみました。

種別反別(反)石盛(石/反)石高(石)租率(石/反)金納租率(文/反)租額(石)租額(両)
上田44.91.2053.900.500022.4500.42
中田33.91.0033.900.400013.5600.40
下田43.30.8034.640.350015.1600.44
下々田86.50.6051.900.300025.9500.50
田合計208.60.84174.340.370077.1200.44
上畑111.20.8088.960.27511030.5812.230.34
中畑111.30.6066.780.2259025.0410.020.37
下畑153.10.4061.240.1757026.7910.720.44
下々畑486.40.2097.280.1004048.6419.460.50
屋敷36.51.0036.460.27511010.044.010.28
畑合計898.50.39350.730.15763141.0956.440.40
合計1107.00.47525.070.1970218.2100.42
(※四捨五入の関係で数値が合わない場合があります)

基本になるのは反別(耕地面積)で、水田が上田~下々田まで合わせて20町8反6畝、畑が上畑~下々畑+屋敷地で89町8畝5畝で、計110町7反あります([74271]の表では、上畑~下々畑の計と畑合計とが合わないので、差は屋敷地と考えて補足しておきました)。
上田、上畑などの種別を決めるのは石盛、つまり1反当たりの米の生産高で、上田の場合1石2斗、下々田では6斗などとされています。
前にも石高に関して議論がありましたが、石盛とは1反当たりの玄米生産量です。したがって、本来なら水田にしか適用できないのですが、畑にも石盛が割り当てられています。上畑で8斗と下田並みの水準であり、畑地の生産水準が低く見積もられていることが分ります。もっとも、畑では米が生産できないのですから、そこに無理やり米の石盛を付けているのは、村高を算定するためのバーチャルな操作、と考えた方が良いかもしれません。
福岡村全体の石高である村高は、Σ(反別×石盛)で算定されます。米が174石余、畑地の高が351石で、計525石です。繰り返しますが、畑地で米は取れませんから、この村高は一種のフィクションです。

次は年貢高(租額)の算定です。西国であれば、村高に免(年貢率)を掛ければ年貢高が算定できます。例えば、以前に話題にした富来地頭町村の場合、村高が330石、免は九ツ(90%~極端な高率です)ですから、330×0.9=297石が年貢高になります(このような年貢の算定法を厘取法といいます)。
しかし、関東では反取法という異なる算定法が適用されます。具体的には、1反当たりの租率を直接に決めます。上記の表では、上田で0.5石/反、下々田で0.3石等となっています。
年貢高は反別×租率であり、上田なら44.9反×0.5石=22.45石、これを各種別ごとに積算すると、77.12石が米の年貢と言うことになります。

少しややこしいですが、水田の年貢は以上のように算定できます。では畑地の年貢はどのように計算されるか。これを考えるためには、「永」という概念を理解する必要があります。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
[74245] に以上のようにありますが、「永」とは寛永通宝ではありません。後北条氏が所領の生産高を測るのに永楽銭を用いたことを起源とするもので、永楽銭の通用は江戸初期に禁止されましたが、「永」という概念、考え方は、関東を中心とする東日本各地で幕末まで残りました。
「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。実際に「永」という名の貨幣が存在するわけではありません。金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。
上の表では、上畑の金納租率が110文/反となっていますが、この110文は実際には「永110文」です。2.5石=永1貫文(1000文)ですから1石=永400文になります(つまり、hmt さんの指摘されたように、1斗=40文です)。この換算率で永110文を石高に直すと0.275石と計算できます(永110文×(1石÷永400文)=0.275石)。
実は、これは計算が逆で、水田と同様に上畑に対しても1反当たり0.275石という租率を決め、それを「永」に換算したのが110文という金納租率だと考えた方が良いと思います。水田の場合、下々田でも租率が0.3石で、上畑より高いですから、畑地の年貢率が非常に低く設定されていることが分ります。

いずれにせよ、畑地の年貢は米でも麦でもなく貨幣であり、上畑では111.2反×永110文/反=永12,234文と計算できます。つまり永12貫234文=金12.234両です。すべての畑地にこの計算を適用して積算すると、畑地からの年貢は金56.44両となります。

以上から、名目上525石の村高を持つ福岡村からの年貢が、米77石、金56両だとということが分ります。(上記の表では、上畑の租率0.275石/反などを使って畑地からの石高年貢を141石、米と合わせた年貢合計を218石と計算していますが、これは単なる計算値で、実際にこのような年貢を取られたわけではありません)。
[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。
村高から予想されるより、実際に生産される、もしくは領主が収納できる米の量がかなり少なくなりますが、関東のように耕地面積に占める畑地の割合が高い地域では、名目上の石高に比べ、実際に得られる米は少ない、と考えるべきなのでしょう。
[74209] 2010年 2月 23日(火)18:55:32oki さん
国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74207] hmt さん
この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。
それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。

本来はむっくんさんから回答があるのでしょうが、私もこのシステムを使っているので、私自身が採用している方法をご紹介します。

hmt さんがやったように、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索すると、「地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令」について2つの書類が該当します。一つは「公文類聚」所載のもの、もう一つは前天皇の御名御璽が入った政令原本です。
どちらも画像での閲覧が可能になっているので、例えば公文類聚の方を選んで「閲覧」ボタンを押すと、5ページ建ての閲覧画像が立ち上がります。これはJPEG2000の画像ですが、hmt さんが仰るように、URLボタンが有効になっておらず、国会図書館の近代デジタルライブラリーのようにはリンクが張れません。
そこで、右上にある「PDF」というボタンを押すと、PDF画像がDL可能なページに切り替わります。このページには次のような記載があります。

このPDFファイルは4143KBあります。
ブロードバンド環境でも、ダウンロードに数分から数十分かかることがあります
ダウンロードを開始してもよろしいですか?(「はい」または「いいえ」)をクリックしてください。
はい いいえ
ここで、「はい」を左クリックすればPDFファイルがDLできます。
一方、「はい」の上で右クリックすると、いくつかのポップアップメニューが表示され、その中に「ショートカットのコピー」があります。これを左クリックすればURLがクリップボードにコピーされるので、エディタなどにペーストできます。例えば以下のように。
http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S57B0307620000/071200458359.pdf

以上はIEでの手順ですが、ほかのブラウザでも同様だと思いますので、お試し下さい。

国立公文書館デジタルアーカイブ・システムからは、近代デジタルライブラリーに掲載されていない資料が得られるので、時によって非常に有用です。
私は今のところ、明治維新から市制町村制施行時までの廃置分合に関するデータを入手するためにいろいろ作業を行なっています。ある程度まとまれば、こちらで公開する予定なのですが、いつになることやら。
また、このシステムに含まれる資料は、すべてがネット上に公開されているわけではなく、現時点で閲覧不可のものも多数あります。ただ、それらの資料も、竹橋にある国立公文書館に出向けばマイクロフィルムで閲覧可能です。また、ネットに公開される資料は順次拡大されているので、今後も閲覧可能な資料が増えていくものと思われます。


それから、国立公文書館の資料に関して皆さんにご質問があります。
「天保国絵図」は国立公文書館のデジタルギャラリーで公開されているのですが、私の環境では、2~3ヶ月前からJPEG2000版の国絵図が閲覧できなくなりました。閲覧しようとすると、ブラウザがフリーズしてしまいます。IE、サファリなど、ブラウザを問わず同じ現象が生じます。国絵図以外の画像も同様です。異なるPCでも同じ現象が起きます(もちろん、プラグインはインストール済みです)。
一方、JPEG版だと問題なく表示されます。ただ、JPEG2000版の方が何かと便利なので、こちらで見たいと思っているのです。皆さんの環境でも同様の現象が生じているか、教えていただければ有り難いです。
[74206] 2010年 2月 23日(火)03:34:35oki さん
小字について
[74199] 右左府 さん

関東あたりの町名地番整理未実施の住所表示は「大字-地番」のみで、小字は日常生活では用いない……というのが通例だと思います。

確かに、小字を使うことはあまりないと思いますが、まったくないわけではありません。私は、業務または趣味で、住所データのアドレスマッチングを行なうことがたま~にあります。要は、番地レベルの住所データを収集し、既存の地図データをもとにその経緯度を求める作業です。
この作業を行なう際、住所に字(または小字)が付いていると、往々にしてアドレスマッチングに失敗します。というより、東北各県や徳島県といった小字単位での番地起番が一般的な地域以外の都道府県では、ほとんどの場合失敗します。
マッチングに使う地図はグーグルマップ(アース)もしくはヤフーマップなのですが、これらに番地レベルの経緯度情報を提供しているゼンリンやアルプス社のデータベースで、大字単位で起番している地域では字レベルの情報を受け付けない仕様になっているのではないかと思います。

逆に言うと、大字単位で起番している地域で、住所の確定に必要がないにもかかわらず、(小)字単位の地名を記入している事例が少なからず存在する、ということです。
手元に千葉県の宗教法人名簿があるのですが、そこに掲載されている6648件の住所のうち、字地名のあるものが10件あります。比率にして0.15%ですが、その程度は大字起番の住所でも字地名を記載することがある、ということになります。
なぜ、必要もないのに字地名を記載するのかはよく分りません。上の宗教法人名簿でも、字地名を記入している住所について、同じ大字に所在する他の住所を見ると字は記載していません。たぶん、どこかの時点で字のついた住所が採用され、それが修正されることなく使い続けられているのだろうと思います。
ご指摘の「印西市草深字原」に関しては、千葉ニュータウンで商業施設の管理等を行なっている株式会社千葉ニュータウンセンターという会社があり、その印西牧の原地区担当である牧の原モア管理事務所の住所が印西市草深「字原」2029―3になっています。おそらく、テナント入居している店舗の一部が、これをそのまま踏襲して「字原」を付した住所を採用しているのだろうと思います。


宮古島の方は、沖縄の地名変遷について不勉強なので、何も言えません。
ただ、1908年(明治41)の沖縄県及島嶼町村制の時点で、以前の「間切」が「村」、「村」が「字」とされたようですが、実質的には、島嶼町村制以前の沖縄の村はヤマトの近世村と同等の存在と考えて良いと思います。したがって、字(かつての村)の下に小字に当たる地名があっても不思議ではないでしょう。
実際には、宮古島市のサイト内を検索して見つけた小字は、「城辺字比嘉にある野加那泉(ヌガナガー)が小字野加那佐事に所在する」という記事だけなので、小字が正式の住所として存在するとは考えにくいと思いますが。
なお、右左府 さんの行かれた「史跡 マムヤの墓」の所在地が「城辺字保良1221-1(小字平安名)」だったということですが、「平安名」はかつて保良村の東隣にあった「平安名村」のことだろうと思います。歴史地名大系によれば、平安名村は1873年(明治6)の「琉球藩雑記」には存在するものの、1880年(明治13)の「県統計概表」には村名が記されていないということで、この間に廃村になったのでしょう。ただ、正式なものかどうかは分りませんが、地名としては残存し、使われる場合もあるのだと思います。
[74175] 2010年 2月 18日(木)03:19:43oki さん
高松-宇野間の流動人口
[74170] hiroroじゃけぇ さん
四国と本州をつなぐ役割は他のどの連絡航路よりも大きかったと思っています。そして、その航路が廃止というのは、四国の歴史にとっては大きなニュースであると思ったのですが・・・。そうでないとすると、やはり「過去の幻想」なんでしょうね。

宇高航路が、四国と本州をつなぐ路線として他のどの連絡航路より大きな役割を果たしてきたのは紛れもない事実です。しかし、それに寄せる思いが、岡山・香川県民と、他の四国3県とで差があるのも否めないようです。
高知・愛媛県にとって、宇高航路は何よりも本州への連絡ルートでしたから、瀬戸大橋によってその機能が維持されていれば、現行の宇高フェリーが廃止されてもさほど痛痒を感じないようです。徳島に至っては、国鉄の時代から本州への連絡は南海フェリーが主であり、現在は明石海峡大橋がその機能を担っていますから、宇高フェリーの廃止を聞いてもほとんど感慨も抱かないでしょう。
一方、岡山・香川県民にとって、宇高航路は本四連絡ルートであるとともに、両県を相互に(たぶんもっとも安い価格で)結びつける「生活航路」としての機能を持ってきたのだと思います。宇高フェリーの廃止は、この「生活航路」の切断であるため、その直接関係者には見過ごせない事態であり、hiroroじゃけぇさんのように、過去にこの路線を利用されていた人たちにも衝撃として受け止められたのではないかと思います。

そこで、現行の宇高航路が、岡山・香川県間の日常生活でどの程度の役割を果たしているかを探るために、2005年国勢調査の流出入人口をもとに、次のような表を作ってみました。

    就業者通学者
岡山市366215151
倉敷市1147143
玉野市43385
その他281711
 計 551341210
岡山市491309182
倉敷市411215196
玉野市1067432
その他1235667
 計 1131654477
 岡山市857524333
倉敷市525286239
 玉野市14911237
その他1517378
  計 1682995687

宇高フェリーの特性を考えて、対象としたのは高松市と岡山県内各市との流出入人口です。
分りにくい表で恐縮ですが、「高松→宇野」の欄にあるのは、高松市に住んでいて岡山・倉敷・玉野その他の岡山県内に通勤通学する人の数で、計551人です。「宇野→高松」は岡山市等に居住して高松市に通勤通学している人で、計1,131人になります。両者を合計すると1,682人で、これが宇高フェリーを使って通勤通学している可能性がある人の最大限の数です。
最初は、岡山市や、倉敷でも玉野から遠い地域では宇高フェリーを使わないだろうと思っていたのですが、このフェリーの運賃が宇野-高松間で大人片道390円と信じられないほど低額なため(JRだと岡山-高松間1,470円)、会社が定期代を払ってくれる就業者(通勤者)はともかく、687人の通学者はすべて宇高フェリーを利用している可能性があります。玉野市関係の就業者112人も当然利用者でしょうから、合わせて800人程度は、通勤通学で毎日宇高フェリーを利用しているのではないかと思われます(往復で1,600人ですね)。

本来であれば、少なくともこの通勤通学者に対しては代替交通手段の提供が必要なのだと思います。トラックを含めた車両輸送の激減がフェリー廃止の主因ですから、代替交通手段は高速船のような旅客専用船が求められるだろうと思います。しかしこの航路では、1988年の瀬戸大橋開通後も残されたJRの高速艇が、90年に廃止されており、旅客専用船の運航は難しいでしょう。であれば、現在の通学生が卒業するまで、朝夕の通勤通学時のみ、現行のフェリーを自治体の補助金で運航させる、くらいのことしかできないのではないでしょうか(それもかなり難しいことでしょうが)。
なお、hiroroじゃけぇさんの指摘された宇高フェリーの物流機能に関しては、ほぼ考慮の余地はないでしょう。先のように、フェリー廃止の理由がトラックを含めた車両輸送の激減ですし、重機の輸送は現在でも内航海運が担っていると思います(そうでなければ、高松に本社を置く重機メーカーのタダノが、今回の件に沈黙を通すはずはありません)。

-----------------------------------------
話変わって、横断と縦断のことなのですが、ふと思い立って辞書を引いたところ、「横断」について「横にたち切ること。平行方向に区切ること」などのほかに「ある地域や海域を東西の方向に通ってゆくこと」という説明がありました(日本国語大辞典)。え~そうなの、と思って「縦断」を見ると、「縦または南北の方向に断ち切ること」となっています。
念のために広辞苑を確認したところ、やはり横断に東西、縦断に南北方向に通り抜けるとの意味があると書いてあります。
春秋戦国期の中国ならともかく、現代日本語で、横断=東西、縦断=南北の意味があるとは今の今まで知らなかったのですが、皆さんはいかがですか?
[74154] 2010年 2月 13日(土)23:55:34oki さん
宇高航路、もしくは本四間の海上交通と陸上交通について
[74152] Issie さん
[74151] hiroroじゃけぇ さん
[74148] みかちゅう さん

hiroroじゃけぇ さんには申し訳ないですが、宇高航路の廃止を聞いても、「相当な衝撃」を受けたわけではありません。ただ、一昨年玉野に行ったときに30分間隔で運行していたのを見て、「宇高フェリーは頑張ってるな」と思っていたので、南海の徳島~和歌山航路より先に廃止するのはちょっと意外、というのが実感です。
徳島県民は、明石大橋の開通以前から宇高航路はほとんど利用せず、本州との連絡には南海フェリーを使うのが通例でした(県西部の池田周辺は別ですが)。私自身も、国鉄時代の宇高航路に数回乗船した程度です。
また、マスコミの反応を見ても、地元の四国新聞山陽新聞では相当な話題になっていますが、高知新聞は「高知県への影響 限定的」と冷静ですし、徳島新聞や愛媛新聞に至っては、ネット上には記事すらありません。あくまで、香川~岡山間に限定された話題に留まっているようです。
もっとも、問題の構図から影響が宇高航路だけに限定されるとは考えられず、早晩南海フェリーにも同様の事態が生じるでしょうから、関心は強く持っています。
そこで、まず事実を把握するため、宇高航路の利用動向の推移を整理してみました。

  高松 ~ 宇野      徳島 ~ 阪神    
年度航送台数指数輸送人員指数航送台数指数輸送人員指数
1987年度1872933100.03968221100.0463763100.02399414100.0
1989年度132154070.6211523453.345723598.6227432094.8
1993年度126526067.6189251447.740754587.9224377893.5
1998年度108437257.9159493940.220859345.0114035447.5
1999年度104846656.0149692437.717995338.885691935.7
2000年度104939656.0150704438.018931640.866518327.7
2001年度105814056.5159138540.119173141.366120327.6
2002年度108669258.0162434940.919389141.860056625.0
2003年度102378354.7149005037.519054841.157970624.2
2004年度97782752.2138268734.818597440.155814223.3
2005年度96425951.5132977833.518569440.056723323.6
2006年度95291050.9131222533.118153839.154139522.6
2007年度93984750.2129910032.718105239.052657021.9
2008年度85131345.5119965530.216994536.649729020.7
                  
2008年度第2四半期23956233776350259150445
2009年度第2四半期137975-42.4227719-32.66862536.518117520.4

表の初年度である1987年度は、瀬戸大橋が開通した1988年4月の前年度です。参考のために徳島阪神航路の推移も示しています(阪神航路といっても、本州側の発着地は和歌山で、徳島側発着地は1999年4月に小松島港から徳島港に移っています。ちなみに明石海峡大橋の開通は1998年4月です)。
(※データは四国運輸局のこのページ所載のファイルから抜き出しています。車両の航送台数はトラックと乗用車、バスとの合計値です)

表から明らかなように、宇高航路の利用者は瀬戸大橋の開通に伴って大きく減少しています。ただ、08年度の旅客輸送人員が87年度の30%の水準であるのに対し、車両航送台数は46%に踏み止まっています。両者の差をもたらした主因が、瀬戸大橋の通行料金の高さにあることは言うまでもないでしょう。
徳島阪神航路の場合は航送台数が87年度の37%、旅客輸送に至っては21%という水準ですから、これと比べても宇高航路が健闘していたことは間違いありません。この記事によれば、88年以降も航路収支は黒字だったそうですから立派なものです。その影には相当な企業努力があったと思います。

問題は高速道路の1000円政策が導入された09年度4月以降です。年度を通しての数字はまだ出ていませんから、最新統計である第2四半期(7~9月)の数値で代用します。
09年度第2四半期における宇高航路の車両航送台数は、前年同期に比べ、実に▲42%も激減しています。旅客輸送人員も▲33%の減少です。おそらく、09年度を通じてこのような数値なのでしょう。
87年から08年までの20年をかけて▲55%の減少であったものが、たった1年で▲40%も減少すれば、普通の私企業が対応できないのは無理もありません。今後も高速道路料金を抑える国の方針に変更がないとすれば、傷が大きくならないうちに事業撤退を選択するのは当然と言えます。

では、明かな総選挙目当ての人気取りであった前内閣の高速料金値下げ政策が悪いのか、それとも現政権のそれが原因か。しかし、非常に高額である瀬戸大橋(のみならず本四架橋全体)の通行料金を値下げしてほしいというのは、四国4県こぞっての願望だったはずです。
先の表からも分るように、宇高航路の航送台数が08年までの水準を維持し得ていたのは高速道路の料金が高かったからで、それを値下げすれば自動車が本四架橋に流れ、フェリー会社の経営を圧迫し、最悪の場合航路廃止に至ることは自明だったはずです。もしも、フェリー会社の経営維持のため、他の高速道路の料金を引き下げても本四架橋だけは従来通り維持する、などという政策が採用されれば、四国各県の行政も住民も黙ってはいないでしょう。
結局、あちらを立てればこちらが立たずです。しかし、きわめて冷徹な言い方をすると、行政と住民が本四架橋の建設を選択した時点でフェリー会社の命運は尽きていたのであり、開通後は地域経済や利用者、そして従業員に与える悪影響を最小限に保ちながら、一定の時間をかけて会社の安楽死を図るのが、Issie さんの仰る「総合的な交通政策」というものではなかったかと思います。本州と四国との連絡を陸上交通化するのが本四架橋の本来的役割であり、それが両者間の海上交通を無用のものにするのは当然ですから。
今回の航路廃止が突然に思えるのは、昨年3月からの唐突な高速料金引き下げ政策が引き金になったからですが、四国の行政や住民が高速料金の引き下げを望んでいるのであれば、フェリー航路の廃止はそれに伴う犠牲として甘受するしかないでしょう。あとは、激変緩和措置として、自治体段階の補助金で廃止期日を若干引き延ばすくらいの対応しかないと思います。

個人的なことを言えば、私は港町の生まれであり、自分では自動車を運転しないので、高速道路が伸びるより海上航路が維持された方がよっぽど良いと思っています。本四架橋に関しても、四国と本州の間に3本の橋を架ける必要などまったくなかったと思います(別に瀬戸大橋だけでも私は構いません。南海を利用すれば良いだけのことです)。しかし、現実に3本の橋をつくってしまった以上、これを活用する方策を見つけるしかないでしょうし、それが本四間の海上交通を圧迫するのは必然です。本四架橋は、四国の行政と住民が強く望んだ結果建設されたものです。その果実を享受するなら、マイナス面も併せて引き受けるしかないと思います。
結果として、徳島阪神航路も早晩廃止されるでしょう、残念ではありますが。
[74139] 2010年 2月 11日(木)17:27:59【1】oki さん
市町村の一部区域にかかる廃置分合の表記方法
[73436] [73497] [74035] [74123] 88さん
[73753] [73754] [73755] [73756] むっくん さん

しばらく本業が疾風怒濤でROM状態になっていましたが、上記の点は気になっていました。遅くなりましたが、私の考えを述べておきます。

最初の前提として、88さんが市区町村変遷情報を整理・入力されている基本的な目的は、「確実な資料をもとに、全国の自治体の廃置分合の変遷を明らかにする」ことだと思います。そして、現時点では明治大合併期が起点になっていますが、全国統一の史料が存在する天保郷帳(天保国絵図)の時点までは遡ることが可能である、と考えています。
この場合、常に天保郷帳時点の近世村に立ち戻って考えることが可能な状態にしておく、ことがベストであると思っています(これはかなり難しいことですが)。

以上を前提とした場合、第一に、市制町村制施行時とそれ以降とで分けて考える必要があると思います。第二に、市制町村制施行時に関しては、1.「本体と飛地等に分かれる場合」と、2.「本体が複数部分に分割される場合」を区別することが必要と考えます。

まず市制町村制施行時について。
1.本体と飛地等に分かれる場合:
「飛地等」としたのは、、むっくんさんが引用された徳島県の「差込地」などの例があるためです。飛地とは限らないので、一般化して「微少部分」と表現した方が良いと思っています。
いくつかの府県令を見ましたが、「微少部分」は、「番地単位」、「反別面積」、「字単位」で記載されることが多く、あるいは徳島のように「飛入地、差込地」等の表現をとっているため、本体と混同することはまずないと考えられます。
また、山梨県の場合、「山梨県令達全書」に「飛地ハ各其所在市町村ノ地籍ニ編入ス」とだけあって、飛地の具体的な記載がありません。この場合、飛地情報は不明なわけです。これから考えれば、微少部分の情報は県令等に記載のある場合、とせざるを得ないと考えます。
市区町村変遷情報での表現は次のようになるでしょうか。

香川郡多肥村:香川郡 出作村(本), 上多肥村, 下多肥村
(詳細情報で「出作村のうち字松ノ上、松ノ下、下町を除く」と記述)
香川郡百相村:香川郡 百相村, 出作村(微)
(詳細情報で「出作村(微少部分)は、字松ノ上、松ノ下、下町」と記述)

(本)は本体、(微)は微少部分の略です。(本体)、(微少部分)と記述しても構いませんが、見た目がうるさくなるので簡略な記載とし、どこかに注を付けておけばいいと思います。後でも示しますが、微少部分と「○○村の一部」との混同を避けたいので、(一部)などの記述には賛成できません。

市制町村制施行時により問題となるのは、微少部分ではなく、本体が分割されてそれぞれが「一部」となる場合で、これには主に次の2つの要因があると思います。
1)近世村そのものがいくつかの集落からなっており、町村制施行にあたって近世村の範囲が分割される場合
2)明治維新~町村制施行までに複数の近世村が合併して1つの村になっていたが、町村制施行にあたって元の近世村単位で分割される場合

1)の事例は少なからずあると思います。実際のところ、近世村が1つの集落から成る事例というのは畿内やその周辺を除くとあまり多くなく、複数の集落から成っているのが通例だからです(枝村が分割される場合もこれに含めます)。
事例を挙げます。現在の八戸市にあった浜通村ですが、明治合併時に、浜通村のうち湊、白銀の部分が大久保村と合併して湊村に、鮫、持越沢などが金浜村と一緒になって鮫村を構成しています(県令はこちら)。
現在は八戸市大字湊町、大字鮫町などに当たる場所です。

近世村県令の記載明治合併村現在の住所
浜通村浜通村ノ内湊湊村八戸市大字湊町など
同上浜通村ノ内白銀同上八戸市大字白銀町など
大久保村大久保村同上八戸市大字大久保
浜通村浜通村ノ内鮫鮫村八戸市大字鮫町
同上浜通村ノ内持越沢同上
同上浜通村ノ内二子石同上
同上浜通村ノ内白浜同上鮫町白浜の地名あり
同上浜通村ノ内深久保同上
同上浜通村ノ内種差同上八戸市大字鮫町字種差
同上浜通村ノ内法師浜同上鮫町法師浜の地名あり
同上浜通村ノ内大久喜同上鮫町大久喜の地名あり
金浜村金浜村同上八戸市大字金浜

浜通村は、湊、鮫など複数の集落からなる広大な村でしたが、これらの集落は実際上それぞれが村であり、浜通村はその総称と考えられています。
この場合、変遷情報での表現としては次のような形態をとれば良いと思います。

湊村:浜通村の一部、大久保村
(詳細情報で「浜通村のうち湊、白銀」と記述)
鮫村:浜通村の一部、金浜村
(詳細情報で「浜通村のうち鮫、持越沢、二子石、白浜、深久保、種差、法師浜、大久喜」と記述)

次に2)の事例では、先にも話題になった八幡浜浦があります。県令の記載では、西宇和郡八幡浜浦が「字本浦」、「字栗野浦」、「字向灘浦」に三分され、字本浦は単独で八幡浜町になり、字栗野浦は矢野町などと合併して神山村、字向灘浦は大平村などとともに矢野崎村を構成したことになっています。ところが、天保郷帳では栗野浦、向灘浦は八幡浜浦とは別の独立した村です(国絵図はこちら)。(※向浦ではなく向灘浦です)。
時期は特定できませんが、明治合併期までに八幡浜浦、栗野浦、向灘浦が合併して八幡浜浦を構成し、合併時に分かれたようです。
町村制施行時までに先行して合併が進められた山梨、岡山、宮城などの諸県では、このような事例が少なくないと思います(明治大合併期に下九一色村と上九一色村に分裂した九一色村もそうですね)。
この場合には、基本的に近世村単位で分割がなされるはずで、それぞれを「○○村の一部」とし、詳細欄にそこに含まれる地域(=近世村)を記述すればよいと思います。例えば次のように。

八幡浜町:八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字本浦」と記述)
神山村:矢野町, 八代村, 五反田村, 国木村, 八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字栗野浦」と記述)
矢野崎村:大平村, 高野地村, 八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字向灘浦」と記述)

この場合、どこが八幡浜浦の本体か、にこだわる必要はなく、すべて「○○村の一部」とすればいいと思います。もともと独立した村だったわけですから。

以上の考え方で問題が生じるとすれば、「微少部分」が比較的大きい場合、あるいは微少部分なのか上記1)のような近世村内集落なのか区別できない場合はどうするか、です。端的に言うと、「分らない場合はすべて『○○村の一部』の表現をとる」ということで良いと思います。
詳細な歴史的経緯を調べているのでは、88さんに非常な負担がかかります。88さんが分る範囲で判断し、判断がつかない場合は「○○村の一部」としておいた上で、その旨を落書き帳に明記しておく。その部分は他の人が調べて88さんに報告する、とすれば良いと思います。
もちろん、私も調べて報告するようにします。現在、自発的に市区町村変遷情報をチェックされているむっくん さんも、これまで同様にフォローしてくれるでしょうし、ほかの方からの情報も入ると思いますので、それらをもとに88さんが判断して必要な場合に修正を加える、という仕組みにするのはいかがでしょうか。

以上のようにする場合、本体分割(または分割区分不明)を意味する「○○村の一部」と、「本体 対 微少部分」との混同は避けたいところです。したがって、「本体」の表現は常に「微少部分」との対の形で使用し、[74123]で88さんが提起された「○○村(一部)」の表現は使用しない方が良いと考えます。


次に市制町村制施行時以降の変遷ですが、本質的には上記と同様です。ただ、明治合併期以降は近世村が複数集まって一つの市町村が構成されているのが原則ですから、「微少部分とは近世村の範囲が分割された地域」と定義しておけば良いと思います。
つまり、大合併期以降の市町村が分割される場合、「近世村の範囲以下の部分とそれ以外」になる場合は「○○村(微)と○○村(本)」とし、それ以外(近世村単位で分割される場合)はすべて「○○村の一部」の表現でよいと考えます。例えば、徳島県の次の事例のように。

「○○村(微)と○○村(本)」の例
1954.03.31
新設 那賀郡富岡町:那賀郡 中野島村, 富岡町, 宝田村, 長生村, 大野村(本)
(詳細に「大野村は字妙見を除く」と記述)
編入 那賀郡羽ノ浦町; 那賀郡 羽ノ浦町, 大野村(微)
(詳細に「大野村(微少範囲)は字妙見」と記述)
※字妙見は、大野村を構成する3つの近世村(上・中・下大野村)のうち下大野村の小字で、那賀川以北の部分です

「○○村の一部」の例
1955.01.01
編入 徳島市:徳島市, 名西郡 入田村の一部, 名東郡 新居町
(詳細に「入田村の一部は大字入田」と記述)
編入 名東郡国府町:名東郡 国府町, 名西郡 入田村の一部
(詳細に「入田村の一部は大字矢野」と記述)

また、ここでも「判断がつかない場合は『○○村の一部』」の原則を適用します。つまり、[74035]で88 さんが事例にあげた仲多度郡象郷村は次の通り。

1958.03.31
編入 仲多度郡琴平町:仲多度郡 琴平町, 象郷村の一部
(詳細に次のように記述
「象郷村のうち次の部分を含む:
 大字苗田の全域
 大字上櫛梨の本体(字川西の一部を除く部分)
 大字下櫛梨の一部(字船磐、川原、平石、泉田、上新田の各一部を除く部分)
 大字上櫛梨、下櫛梨の残余は善通寺市へ」
編入 善通寺市:善通寺市, 仲多度郡 象郷村の一部
(詳細に次のように記述
「象郷村のうち次の部分を含む:
 大字上櫛梨の微少部分(字川西の一部)
 大字下櫛梨の一部(字船磐、川原、平石、泉田、上新田の各一部)
 大字上櫛梨、下櫛梨の残余は琴平町へ」

象郷村の場合は分割形態が複雑なので、琴平町に編入された部分を象郷村(本)、善通寺市部分を象郷村(微)とするより、上記のように両方とも象郷村の一部とし、それぞれの範囲を「詳細」に記述する方が良い、と私は考えます。が、皆さん色々な意見があると思いますので、決着がつくまではとりあえず「象郷村の一部」にしておけば良いのでは、という意味を含めています

かなりゴチャゴチャして分りにくい記述になってしまったので、もう一度簡潔に書きます。

明々白々に微少部分と本体に分かれる場合は「○○村(微)と○○村(本)」に。
それ以外はすべて「○○村の一部」
詳しいことは「詳細情報」に記述。

以上、ご参考になればと思います。
[74023] 2010年 1月 23日(土)15:48:47oki さん
第二十六回十番勝負 感想戦
遅くなりましたが、第二十六回十番勝負の感想を。

今回は帰省後からの参加ということもあり、目標は次の3つでした。
1.完答  →  達成
2.(できれば)誤答なし  →  誤答2問
3.(できるだけ多く)ヒント前に解答  →  第一ヒント前解答3問

実際には、完答はできたものの誤答2問、第一ヒント前に解答できたのが3問ということで、自己評価としては目標の半分くらい達成、というところです。

では、解答順に簡単に振り返り。

問八:根室市
■市名に関連する半島がある市(半島コレクション登録が対象)
お題を見ただけで「半島」が浮かびました(私にしては珍しいことです)。解答したのが1月5日の夕方ですからメダルとは無関係ですが、売り切れる前にこれに答えておいたおかげで全問完答できました。

問十:流山市
■市名誕生日が1月1日の市
グリグリ さんの第0ヒント?「開催日、都道府県市区町村内各メニュー、過去記事などは重要なポイントです。」と、糸島市から分りました。

問三:大洲市
■読みに同じ字が連続する市(濁音・促音も許容する)
解答順位が29位で、さすがにこれだけ並べば私でも分ります。しかし、お題の5市だけから閃く方々は凄い、としか言いようがない。

ここで第一ヒント

問七:宇和島市
■都道府県で一番最近市制施行した市(新設合併を含む)
第一ヒント「さいきんのがっぺい」で分りました。

問五:市川市
■市名が苗字ランキング300位以内の市
簡単な漢字の市名が並んでいたので「市名の普通度」を考えたのですが、除外市の松山市がよく分らず。
第一ヒント「珍しくない名」を睨んでいた結果、名字と気が付きました。しかし、グリグリさんがサービス(?)でお題に首相を2人も並べてくれていたのだから、もっと早く思い至るべきでした。

問六:西条市(誤答)→鴻巣市
■1市2町で合併(新設・編入)した市(直近の合併)
問六・八・十に共通する糸島市が一つのポイントなのは分っていましたが、第一ヒント「1足す2は1」まで気が付きませんでした(それも、最初は「1足す1は2」と解凍してました)。
西条市の誤答は四国の市から答えたいな~、という気持ちが強すぎたための錯覚でした。

ここで第二ヒント

問二:藤岡市
■ダム湖百選がある市
第一ヒント、第二ヒントともに解凍できず。第一ヒントの答え「治水と利水に益」を示してもらってやっと分りました。
長年首都圏に住んでいるのだから、東大和市、相模原市で何らかのリアクションが欲しいところ(>自分)。

ここで第三ヒント

問九:松江市
■東京23区の住所地名になっている市(部分一致を含む)
いっちゃんさんの記事は目を通していましたが、まさかそのまま出題されるとは思わず。完全に北上市に騙されました。
第一ヒントの「どこかの住所」を「自市以外の自治体に市名と同じ地名がある」と解釈し、郵便番号簿をもとに調査しましたが、文字および読みが完全一致する地名でも、全国で2400件以上、市名にして340市あったので、さすがに間違いに気づきました(「きたかみ」と読む「北上」は新潟市秋葉区に1ヶ所だけあるようです)。
結局、気が付いたのは第三ヒントの「23区」の後でした。

問四:高松市(誤答)→中津川市
■同時に7市町村以上で合併(新設・編入)した市(直近の合併)
第一ヒント「沢山の市町村」で、こちらの方面であることは分っていたのですが、美濃市の確認に手間取りました。
除外市の高松市を誤答する大ポカは、問題を細かいところまで詰め切れていない証拠と言えます。

問一:今治市
■松竹梅を含む市に隣接する市(島隣接、架橋隣接を含む)
第一ヒントの「三種類ある」から「一富士、二鷹、三茄子」を連想し、第二ヒント「目出たい物」、第三ヒント「隣は目出たい」が出た後も、意識がそちらに引きずられていました(浜松市中区に「茄子町」という地名があったので、しつこくそっちにこだわったのですね)。
気が付いたのは、解答市に徳島市と阿南市があり、両者の間の小松島市が浮かんだからです。

-------------------------------------------------------------------
という具合で、今回の解答順は21位。完答者の中では最後から3番目ですが、意識して最後の解答を狙ったりはしていないので、実質的には最下位でしょう。ま、実力から言って妥当なところ。
第二十四回に次いで二回目の参加ですが、今回も楽しませていただきました。有難うございます。
次回以降は、誤答なし完答が達成できるよう、もう少し精進したいと思っております(ヒント前の完答はちょっと無理だろうなぁ)。
[73936] 2010年 1月 15日(金)22:12:04oki さん
第二十六回十番勝負 解答その九 _訂正
問四:中津川市

除外市を答えるという大ポカ。
これで本当に最後、のはず。
[73926] 2010年 1月 15日(金)07:11:36oki さん
第二十六回十番勝負 解答その十
連答失礼いたします。

問一:今治市

やっと完答か?

もう一つの方に意識が固着して、こっちに気が回らなかった。まったく・・・
[73925] 2010年 1月 15日(金)06:45:59oki さん
第二十六回十番勝負 解答その九
問四:高松市
[73901] 2010年 1月 14日(木)10:05:29oki さん
第二十六回全国の市十番勝負 解答その八
地元から。

問九:松江市
[73877] 2010年 1月 13日(水)22:04:25oki さん
第二十六回十番勝負 解答その七
問二:藤岡市

これはヒントが解凍できなかったのですが。
[73814] 2010年 1月 11日(月)10:04:15oki さん
第二十六回十番勝負 解答その六_訂正
バカなミスをしてしまった。

問六:鴻巣市
[73810] 2010年 1月 10日(日)22:00:58oki さん
RE:平泉
[73804] YT さん
早速目を通してみましたが、残念ながら
政治的にも奥羽の中心となた平泉であり、十万に近い人口が集中していたはずである。
今日、平泉町全体の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。
とあるばかりで、根拠も参考文献も全く示されていませんでした。

余計な手数をお掛けさせたようで、申し訳ありません。
すでにご存じかもしれませんが、改めて平凡社の「日本歴史地名大系 岩手県」を見たところ、さすがに平泉古図の信憑性は否定するものの、平泉の人口そのものについては次のような記述しかありません。
「多くの大寺・堂塔が甍を競い,禅坊は中尊寺三〇〇余・毛越寺五〇〇余、平泉館・伽羅御所など藤原氏の居館があり、北奥特産物の集散地でもあったことを考慮すると、平泉の人口はゆうに数万を超えよう。」

これでは、表現こそ異なるものの、YTさんの御覧になった「政治的にも奥羽の中心となった平泉であり、十万に近い人口が集中していたはずである。」と、記述内容としてはほぼ同一です。文献史学の側は、平泉の人口を推定する確実な史料を持ち合わせていないような感じもします。

いずれにせよ、今後は平泉の人口について気に留めておいて、大きな図書館に行ったときなどに確認してみるようにします。何か新しいことが分ればお知らせいたしますので。
[73803] 2010年 1月 10日(日)15:10:01oki さん
第二十六回十番勝負 解答その六
長浜市×の理由がよく分らないので、いささか不安なのですが。

問六:西条市
[73801] 2010年 1月 10日(日)12:16:04oki さん
第二十六回十番勝負 解答その五
問五:市川市

やっと五答目。完答まで匍匐前進。
[73776] 2010年 1月 9日(土)18:53:09oki さん
第二十六回十番勝負 解答その四
こういうことですか。

問七:宇和島市
[73764] 2010年 1月 9日(土)10:28:46oki さん
第二十六回十番勝負 解答その三
やっと分りました。
まだ三答目。完答まで先は長い。

問三:大洲市

しかし、お題の5市だけからこれが分る人たちというのは、一体どういう・・・
[73688] 2010年 1月 5日(火)20:53:57oki さん
第二十六回 全国の市十番勝負 解答その弐
四国がなくなっているので、とりあえず近くの市を。

問十:流山市

さっきははご挨拶を忘れていました。

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
[73683] 2010年 1月 5日(火)18:41:45oki さん
【第二十六回】全国の市十番勝負
先ほど、やっとこさ帰省先から戻って来ました。

今回は参戦するつもりなので。まずは売り切れ寸前のところを。

問八:根室市
[73447] 2009年 12月 30日(水)07:43:10oki さん
昔の飛地と来年の勝負
三回連続投稿で申し訳ないのですが、見過ごせない書き込みがあったもので。

[73436] 88 さん 市制町村制施行時等における飛地・入会地等の表記方法について

88さま。市区町村変遷情報の入力、誠に、誠にご苦労様です。
私も、徳島などで天保郷帳~明治合併期の町村変遷について整理をはじめたことがあるので、この作業にどれだけの時間と労力が必要かは分ります。あれだけのデータを入力・整理されていることには、ただただ感謝、との思いだけです。
その上で、あえて言わせていただくのですが(この点については前々から考えていたのです)、少なくとも明治合併期に関しては、本村部分、飛地部分の両方について同じように「○○村の一部」とする現在の表現方法は、改めた方が良いと思います。各村がどのように合併したのかが非常に分りにくくなる場合があるからです。
実例を挙げます。私が現在住んでいる東京都江戸川区(当時は南葛飾郡)における3村の事例です。

小松川村:
西小松川村の一部, 逆井村, 東小松川村の一部
松江村:
西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, 西宇喜田村の一部, 桑川村の一部, 西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部

以上挙げた3村のいずれにも、「西小松川村の一部」、「東小松川村の一部」が出現しており、「西一ノ江村の一部」は2村にあります。
落書き帳のメンバーの皆さんであれば、小松川村は西小松川村と逆井村の合併村、松江村は西一ノ江村と東小松川村、船堀村は東西船堀村で、ほかはすべて狭小な飛地だろうと見当がつくと思います。しかし、市区町村変遷情報を閲覧しているのは常連メンバーだけではないはずで、この種の情報にあまり詳しくない人が見た場合、以上のような表記法だと、東小松川村や西小松川村がどのように合併したのか、混乱を来す畏れが強いのではないでしょうか。
そのような事態を回避するには、例えば次のような表記が求められるのではないかと思います(あくまで例です。実際の表記法はさらに工夫する必要があります)。

小松川村:
西小松川村(本体), 逆井村, 東小松川村(飛地)
松江村:
西一ノ江村(本体), 東小松川村(本体), 西小松川村(飛地)
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, (以下すべて飛地 西宇喜田村, 桑川村, 西一ノ江村, 東小松川村, 西小松川村)

あるいは、変遷情報の表にはあえて飛地の村を表示せず、「本体」の表記も省略して、これらを「詳細」部分だけに記述してもいいのかもしれません。いずれにせよ、現在の表記法は改善した方が良い、と考えます。
なお、ここには例がありませんが「どちらが本体か、という判断を迫られる」微妙な場合は、その場合に限って「○○村(一部)」などの表現を使えばいいと思います。
また、関連して言うと、変遷情報の参考文献としては「幕末以降総覧」などの刊本しかあげられていませんが、少なくとも明治合併時のデータについては、府県令でのチェックを行なっているのですから、その旨を明記するとともに、デジタルライブラリーの該当府県令へのリンクを張っておいた方が良いのではないでしょうか。「飛地」が現在のどの地域に該当するのか気になる人には、元データである府県令を見てもらうことにしても良いですし。

もちろん、これ以上88さんの負担を増やすのは本意ではないので、ご自身がもっともやりやすい手法をとっていただければと思いますが、以上の点も考慮してもらえれば有り難いです。

-------------------------------------------------------
本日、ネット環境のない実家に帰省しますので、今年の書き込みはこれが最後です。いろいろと楽しませていただいて有難うございました。来年もよろしくお願いいたします。
前回の十番勝負は見送りましたが、今回は参加したいと思っています。帰京してからの参戦なので、完答できれば御の字でしょうが。

では、皆様良いお年を。
[73446] 2009年 12月 30日(水)06:31:45oki さん
さまざまなレス
手短に、と言いながら長くなってしまい、連続投稿です。

[73423] hmt さん
由来が一番わからないのが「藤野」です。
1955年に命名された「藤野町」は、中央本線藤野駅に由来するとして、1943年当時の津久井郡小淵村に設けられたこの駅の名を「藤野」とした理由がよくわかりません。
[62419] スピカさん には、次のように記してあります。
「藤野」の名は駅所在地である小原(小渕の誤記)の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。
「藤野 = 小字」説は検証していませんが、この駅の立地は 甲州街道の関野宿(小淵村)と吉野宿(吉野町)との中間であり、駅名とするのに適した著名な集落があったとは思われません。

木村礎氏の「日本村落史」によると、江戸時代の津久井郡小淵村に「藤野」という小名(≒小字)があったとのことです。藤野駅のそばに「藤野」という小字レベルの地名がありますが、これが小名藤野の名残と考えて良いのでは。したがって、スピカさんが仰るように、小字藤野が鉄道駅の名称に採用され、さらに藤野町の自治体名まで成り上がったのは間違いないだろうと思います。
なお、元史料は「新編相模国風土記稿」ということなので、念のために、大きめの図書館で小淵村の項を確認しておいた方が良いとは思います(「新編武蔵風土記稿」と違って、近代デジタルライブラリーには収録されていないのです)。

[73420] 蒼の狼 さん
脇町出身の友人に尋ねてみたのですが、
見事に「わきまち」って答えてくれました。
ちなみに、その人いわく脇町地区だから「わきまち」で
岩倉地区だったら「わきちょう」って答えるかもと言ってましたが…どうでしょう??
わざわざ調べていただいて有難うございます。
これは、町民には町名が「わきちょう」であることが周知されているため、旧岩倉や旧江原の出身者なら「わきちょう」と答えるものの、ご友人は旧脇町(脇町、猪尻、北庄)の出身であるため、プライドにかけても「わきまち」と呼ぶ、と理解して良いのでしょうか。ますます、分らなくなる気もしますが。

[73314] なると金時さん
前からずっと思っているのですが、鳴「戸」と誤記される例が恐ろしく多い気がします。
上の名望家はそう書いてました(笑)
約100年前くらいのですが、その時も「鳴門」だった筈なんですがね…。

もともとは鳴「戸」や鳴「渡」の表記が行なわれており、近世後期以降に鳴「門」が優勢になってきたようです。大相撲の年寄名跡である「鳴戸」や「大鳴戸」は、江戸時代中期頃の表記の名残ではないかと。
明治以降の自治体名等にはもっぱら鳴「門」が使われていますが、100年前なら表記は十分に揺れていたはずで、その名望家には「鳴戸」が正しいと意識されていたのかもしれません。

[73424] YT さん
いつも貴重な人口データをご提供いただき、有難うございます。
あれらのデータを地図上に分りやすく表示してみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。

平安末期の平泉の人口を10万人以上と推定した書物について御存じの方がおりましたら教えてください。
次のようなサイトを見つけました。
「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介 角田文衛 他著)新潮社 1987年5月25日刊に、「今日、平泉町の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。」という記述があるようです。
実際に書籍を見たわけではないので断言できませんが、人口算定の根拠を記してあるか、もしくは基礎となる資料を明記してある可能性があります。佐貫利雄氏の著作より出版年が早いので、参考になるかもしれません(区立レベルの図書館にもあるようです)。
[73445] 2009年 12月 30日(水)06:08:18oki さん
美波町「日和佐」奥河内
今年分の仕事は何とかやっつけました。帰省前なので、あれこれ手短にレスを。

[73411] hmtさん  なぜ「日和佐」という地名を使わないのか?

「日和佐」の地名があまり使われていない(ように見える)理由として、2つの要因があると思います。
一つは、一般に「日和佐」と認識されている場所に比べ、「日和佐」の住所を名乗る地域が非常に狭いこと。二つめは合併して美波町になった由岐町への配慮だろうと思います。
まず第一の要因について。[73385]で「日和佐は薬王寺の門前町兼漁師町」と書きましたが、これが日和佐に関する一般的な認識で、要するにJR日和佐駅の周辺、日和佐川の河口部に開けた小都邑です。
もともとは日和佐川左岸(北岸)に位置する「日和佐浦」が中心だったと思われますが、ここは面積狭小な漁師町のため、江戸時代から隣接する奥河内に市街地が広がり(奥河内字本村と呼ばれる地域です)、一体的な町場になっていたようです。薬王寺やその門前集落は川の右岸にありますが(奥河内字寺前)、こちらも左岸の集落と一体的な存在だったはずです。さらに明治以降は、薬王寺の南側に牟岐線の日和佐駅が開設され、その周辺にも市街地が広がりました(奥河内字弁財天)。これらの地域を含んだ町場が「日和佐」です。千本桜さん流に言えば、「日和佐へ行く」と言った場合に対象として意識される地理範囲、ということになります(旧赤河内村は「日和佐」ではない)。
「富来」と地頭町、領家町との関係と同じく、日和佐浦と奥河内を併せた一体的市街地が「日和佐」なのですが、富来との大きな違いは、面積で見て奥河内が圧倒的に大きく、駅、町役場、各級の学校など主要施設の大半が奥河内にあることで、日和佐浦に位置するのは大浜海岸とうみがめ博物館(カレッタ)くらいです。それでも、今回の合併前はずっと日和佐町(村)奥河内だったので問題はなかったのですが、合併後は美波町奥河内になってしまったため、駅も役場も日和佐を名乗る地域にはなく、「日和佐」という地名が使われていない、という印象を与える結果になっているのだと思います。
この事態を避けるためには、富来と同様に美波町「日和佐」奥河内のような冠称を着ければ良かったのかもしれませんが、片方が「日和佐」日和佐浦になってしまうので、そうもいかなかったのでしょう。奥河内だけに日和佐を冠称するのも妙な話ですしね。

明治合併以後だけでも 100年以上も使い、売り込んできた地名を捨て去るのは、もったいないことであると思います

私もそう思うのですが、以上の状況からいかんともしがたい、というのが実態だったと思います。ただ、「日和佐」の名は鉄道や道路に残っているだけでなく、人々の意識に深く染み込んでいるので、「美波」が取って代わるまでには1世代以上の時間が必要だと思います。少なくとも、私たちの世代の人間があの町を「美波」などと呼ぶことは、絶対にないでしょう。
なお、美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。なぜ町のHPが間違っているかは謎です。

もう一つ、由岐町への配慮という点は私の推測です。前にも書いたように、気恥ずかしいので「ウエルかめ」はあまり見ていないのですが、横目で眺めているところでは、主な舞台は日和佐と徳島市内で、美波町に合流した由岐町はまったく出てこないようです。この状況で、ドラマに関連して「日和佐」を強調した場合、旧由岐町民の日和佐側を見る目が非常に微妙になり、合併町内での旧町民同士の融和に大きな齟齬が生じる畏れがあります。
実際にそういう動きがあるかどうかは分りませんが、昭和合併時に、誰がどう考えても日和佐町による赤河内村の吸収合併であるにもかかわらず、町制施行した赤河内村が(旧)日和佐町を編入した上で(新)日和佐町に改称するという3段階の変更を行なって赤河内に花を持たせた(それ以外に理由はない)日和佐町ですから、今回も由岐側に気を遣ってわざと「日和佐」を目立たせず、「美波」を強調している、としても不思議ではないと思います。あくまで推測ですけどね。

[73413] hmt さん
注目すべきは、藩政村についての6回シリーズを上梓された okiさん が、[71198]以降は「近世村」を使うようになり、既に5つもの記事があることです。
「近世村」の用語は意識して使っています。理由はお察しの通り。私自身は、江戸時代を通じて全県が徳島藩領だった地域の出身ですので「藩政村」でも別に構わないのですが、違和感を感じるという方がいらっしゃる以上、特にこだわるほどのものでもありません。「近世村」なら、藩領、幕領、旗本領、寺社領、公家領、皇室領など、すべてが含まれますからね。
[73385] 2009年 12月 24日(木)04:47:31oki さん
脇町 富岡 橘
現在、年末進行で尻に火がついた状態ですが、これだけ徳島県の話題が出ているのに反応しないわけにはいきません(オッサン仕事大丈夫か?)。

[73370] hmt さん 地方公共団体名称末尾における「町」の読み方 徳島県美馬郡脇町の事例から
いつもながらのお見事な考証、恐れ入ります。
要するに、「わきまち」か「わきちょう」かについて、「町村制」でも現行の「地方自治法」でも法的な根拠は何もないし、「谷保・国立」の関係と違って「わきまち・わきちょう」では改称の対象にすらならない、ということですね。
おそらく、明治大合併期の読みは「わきまち」であったはずで、「わきちょう」が採用されたのは、hmtさんの仰るようにかなり後年、戦後も相当年数が過ぎてからだろうと思います。それも、一部の行政関係者の間の了解事項に過ぎず、町職員の間にすら徹底されていなかったのだろうと推測されます(国勢調査ですら、「わきちょう」は二回だけで最新の2000年調査も「わきまち」ですからね)。
「わきちょう」の読みが「点々」と残っている理由はもう少し追究したいと思いますが、当サイトデータベースの脇町の読みを「わき・ちょう」に変更する必要はないようですね。

[73382] 伊豆之国 さん  美馬さん、穴吹さん
okiさんの故郷・阿南市ではベスト100には惜しくも入りませんが、それでも30数件見られます。
小学校~高校を通じ、「美馬」という名字の同級生が一人だけいました。とても可愛い女の子でしたね、当時は。

[73383] hmt さん  徳島県人の北海道移住
徳島県立文書館の開館10周年記念特別展・北海道の開拓と徳島県人 を見ると、明治4年の稲田家臣団による静内地方移住がその先駆だったようですが、その後も 徳島県から北海道内各地への移住が行なわれています。
稲田家臣団による静内移住は、hmt さんの引用された展示図録pdfにもあるように、いわゆる庚午事変(稲田騒動)が原因です(この間の経緯は、「北の零年」という映画にもなったはずです)。
稲田氏は、徳島藩への淡路加増以降、洲本城代を勤めた藩の筆頭家老ですが、洲本に引っ越す前は脇城を預かっていました(それだけ脇が重要な場所だったということですね)。
徳島藩は、幕末に至るまで実効性のある地方知行を維持した藩で、淡路移住後の稲田氏も美馬郡を中心に多数の給知を持ち、それを支配するため脇町の隣の猪尻村に猪尻役所と言われる屋敷を置いていました。当然、そこには稲田氏の家臣がいましたが、「農民の出自で農業兼務するものが多かった(日本歴史地名大系)」ということですから、美馬姓の人もいたはずです。北海道の美馬さんには、「永山兵村」との関係のほか、このような稲田氏関係の人もかなり存在するのではないかと考えられます。

[73371] 千本桜 さん スーパータウン
[73373] 白桃 さん 名探偵アナン

人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
ではズバリ、香川県のお隣にある県の富岡町。(現在は阿南市)
私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
(お二人まとめて引用してすみません)

ん~、当時の富岡町があの大河原にも匹敵するような「スーパータウン」であったとは、地元民ながら想像しなかったですね。
もっとも、1955年(昭和30)10月1日における富岡町は、54年3月に中野島村、、宝田村、長生村、大野村、55年1月加茂谷村、そして同3月に見能林村を合併した上での人口で、しかも58年5月には橘町と合併して阿南市が誕生しており、短い期間の水増しスーパータウンと言うべきかもしれませんね。
富岡町自体は、脇町などと並ぶ江戸時代からの町場です。脇と同じく小城下町で、蜂須賀氏の阿波入部直後、脇町の稲田氏に対し、こちらは賀島氏という家老が配置されています。城は本来牛岐城と呼ばれていましたが、賀島氏によって富岡と改名されています。
富岡町は、江戸時代を通じて阿波南方(みなみがた)の政治・商業の中心地でした。阿波南方とは、現在の阿南市を含む那賀郡、海部郡です。阿南市というのは、「阿」波「南」方を略した呼び方なのです。
阿波南方の中心地という富岡町の在り方は明治以降もそのまま維持され、現在に至っています。と言っても、阿南市を含む那賀・海部両郡の人口は、もっとも多いときでも15万人を超えたことがないという状態で、その面積は1500平方キロもありますから、人口密度は100人に達しません。

[73373] 白桃 さん
この富岡の街、1974年頃歩いたのですが、商店街は結構長かったです。ただ、アーケードはありませんでした。そして、言っちゃなんですが、なんとなく野暮ったい。

白桃さんが富岡の街を歩かれた1年後に、私はこの街の高校に入り、3年間を過ごしました。ま、白桃さんが仰るとおり、野暮ったいのは確かですね。上記のように阿波南方は人口希薄な地域で、徳島市や脇町など北方(きたがた)からも田舎扱いされているので、垢抜けていないのは紛れもない事実です。
で、誠に残念なことですが、白桃さんが歩かれた、長いけれどもアーケードのない、野暮だけれどもそれなりに活気のあった富岡の商店街は、現在壊滅状態です。街の東側、新しくできたバイパス沿いに2件の大型店が開業したため、駐車場のない旧来の商店街は顧客を奪われてシャッター通りと化しています。この商店街がかつての賑わいを取り戻すことは、まず望み薄です。まことに残念ながら。

私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
群馬県に同名の市があるから???、まさかね・・・。橘との合併を待って、おもむろに、いや一挙に五万人超の市を目指したのでしょうか?

橘は1955(昭和35)年3月に福井村、椿町、新野町という阿南市南部の町村を合併しています。おそらく、富岡と橘が合併して新市をつくるのは規定の方針で、富岡単独で市制を敷かなかったのはそれが原因だと思います(この点は今回帰省した際に確かめておきます)。
私の出身地は、富岡ではなく橘の方です(狭い町なので、ここまで言うと町民にはほぼ正体がバレてしまいますが、この掲示板を見ている人は居ない、でしょう)。結構古い港町で、室町時代には橘船籍の船が兵庫港に出入りしている記録が残っています。私が子供の頃も港町・漁師町で、5000人の人口が山と海の間の狭小な平地に密集する、それなりの町場でした。
今は、あまり口にしたくない惨状を呈しています。子供の頃に500人いた小学校の在校生が、現在は200人を切っているというだけで一端が分ると思います。5000人の人口が3000人台に減り、減少したのは若い世代、ということです。

以下は、個人的な愚痴なので読み流してください。
この町に、3箇所の火力発電所があります。昭和40年代にできた四国電力阿南発電所と、2000年に完成した四電の橘湾発電所、電源開発の橘湾火力発電所です。後の2つは小勝島という離島を埋立てた石炭火力発電所で、発電した電力はすべて、紀伊水道の海底に敷設したケーブルを通して近畿地方に送電しています。
江戸時代の近世村の範囲に3箇所の発電所がある町というのは、全国的にも例がないだろうと思います。それで町が発展するなら我慢もしますが、30年前と比べて人口が4割近く減っているわけで、発電所の誘致がわが橘町にとっては何の役にも立っていなのは明らかです。阿南市と徳島県のアホ役人、この惨状をどないしてくれるんじゃ。
あくまで個人的な愚痴です。読み流してください(私自身が現在は町を離れているわけで)。

日和佐、牟岐は行ったことが無いのでわかりません。「ウエルかめ」の日和佐は風光明媚だし、薬王寺さんもあるし、一度は行ってみたいです。
日和佐も牟岐も良い町です。日和佐は薬王寺(地元民は「おやくっさん」と呼びます)の門前町兼漁師町で、活気のある町でした(過去形です。残念ながら)。「ウエルかめ」はたまに見ているのですが、出演者の喋る阿波弁のアクセントが微妙にずれていて、気恥ずかしくなるのですぐに消してしまいます。でも、これで徳島の南方を多くの人が知って、訪れる人が増えればいいなとは思っています。
宮脇俊三氏が書いていたのですが、四国というのは、全国を行き尽し世界各国にも足を伸した旅人が「そういえば四国には行ったことがないな」と、ふと気づく地域だそうです(宮脇さんは香川が本貫なので、悪口ではなく実感でしょう)。
その四国の中でも、もっとも観光客が行かない地域が、阿波の南方と高知県東部です。大した観光地がないのと、室戸岬周辺は鉄道がなかったことが主因でしょう。したがって、日本国内でもっとも観光客の少ない地域、ということができるのではないかと思います。「ウエルかめ」の放送で、全国の皆様にこの地域を知ってもらい、観光客が増えることを切に願っております。
落書き帳の皆様も、暇な折には牟岐線と阿佐海岸鉄道に乗ってやって下さい(お前は徳島県観光課か?)。

愛郷心あふれるokiでした。今から仕事にかかります。
[73362] 2009年 12月 20日(日)18:15:01oki さん
脇町関連レス
少しサボった間に脇町関係の書き込みが沢山。申し訳ありませんが、まとめてレス。

[73358] 美馬をみて美馬しょう 白桃さん
[73357] 頑張れワッキー 千本桜さん
[73352] ふと思い出して なると金時さん
[73342] うだつが上がらぬ話ですが‥ 伊豆之国さん
[73331] ワッキー 白桃 さん
[73326] 脇町 なると金時さん

脇町の地名の由来は、脇町市街の北にあった脇城です。元々は西隣の岩倉村に岩倉城があり、戦国時代、その東脇に築かれた支城に脇の名が付けられました。城下の町場をつくったのは、織田信長登場以前に畿内を制覇した三好長慶のようです。
最初は、「脇」と「町」が一体であったわけではありませんが、江戸時代を通じて吉野川中流部北岸における商業の中心地として発展し、その間に「脇町」が固有地名として定着したと考えられます。
白桃さんの仰るとおり、
徳島県は、高知県ほどではないいにろ、首邑の「一人勝ち県」だった
ため、江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。ほかに、池田にも村の一部に町場がありました(白桃さんご指摘の撫養は、村や町の名称ではなく、現鳴門市中心部にあった製塩地帯の総称です)。
これらの地域は明治以降も地域の中心で、各種の公共機関が置かれましたが、なると金時さんが言われるように
脇町の脇町地区にある高校だから、脇高校ではなく、脇町高校なわけですね
ほかの町場にできた高校は池田高校、川島高校、富岡西・東高校という具合で、「町」がついているのは脇町だけです。裁判所、警察署などの名称も同様で、江戸時代に定着した「脇町」地名の一体性は現在も強固に残っています。この場合の読みは、言うまでもなく「わきまち」です。

それだけに、町長自らが「わきちょう」と称しているのにいささか驚いたわけなのですが、公的な資料も含めてほとんどが「わきまち」なので、自分でも本当かいな、と思っている部分はあります。しかも、すべてが「わきまち」ではなく、「わきちょう」とする資料もポツポツあるので、判断に迷います。真鶴町のように官報か何かで確認できれば良いのですが。

ところで、恥ずかしながら、私自身は脇町に行ったことはないのですね。
私の育った徳島の県南地域と、脇町など県西部との間には直接の連絡ルートがなく、鉄道はもちろん自動車で行くとしても、いったん徳島市を経由する必要があります。そのため、両者間の交流が薄いことが一つの要因。
もう一つは、伊豆之国 さんが書かれているように、現在の脇町は「うだつ」で有名ですが、私が県人であった頃は県内でも知る人が少ない状態であったこと。当時、県内の小学生は、脇町の東隣、阿波町にある「阿波の土柱」は必ず遠足で行きましたが、脇町まで足を伸すことは皆無でした。「うだつ」が有名になったのは、おそらくは1980年以降で、全国的な知名度を得たのは1988年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降だと思います。

[73357] 千本桜さん
たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
丁寧な考証、恐れ入ります。確かに、脇町の人口が横這いを維持し得たのは、工場誘致、具体的には松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)の脇町工場を誘致できたからのようです。
1970年以降、脇町には多いときで2,000人以上の工場従業者が存在しました。その多くが松下寿や関連工場の従業者でしょう。就業者総数が8,000人程度の町ですから、波及効果を含めて工場の影響力はきわめて大きい。穴吹、貞光、美馬など周辺諸町の工場従業者は1,000人に届かない状態でしたから、その相違が人口増減の差に連動したと考えられます。
ただ、1990年以降、その工場従業者が急速に縮小をはじめ、2004年には935人まで減っています。原因は言うまでもなく、製造業の海外展開に伴う「空洞化」でしょう。平成12年の「少し目立つ人口減」はこれが主因と考えられます。今後も、国内製造業が雇用を増やす事態は予想しにくいですから、脇町地区も急激な人口減少に見舞われるかもしれません(とても悲しいことですが)。
[73320] 2009年 12月 16日(水)11:55:35oki さん
みまぐんわきちょうおおあざわきまち
[73316] 白桃 さん
美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきまちおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち
ではないのでしょうか。
脇町は行ったことが無いのですが、「ちょう」と呼ばれるところが多い中で、いつも「まち」と呼ばれていたのを覚えております。

誰しもそう考えると思います。私もずっと「わきまち」だと思っていました。しかし、ある資料によると、美馬郡脇町は「わきちょう」だったようです。
資料というのは「美馬郡東部・北部合併協議会会議録」の第12回分(2004年1月8日)。合併新市の字名に関する協議が行なわれた中で、脇町の読み方に関するやり取りがあります。少し長いですが、そのまま引用します。
------------------------------------------------------
【宇山勝委員】(美馬町学識経験者)
美馬町の宇山です。脇町は「ワキマチ」と読むんですか。「美馬市脇町(ミマシワキチョウ)字脇町(ワキマチ)」とくるんではないんですか?美馬町(ミマチョウ)、穴吹町(アナブキチョウ)、木屋平(コヤダイラ)云々で脇町(ワキマチ)って今、脇町(ワキマチ)というのは大字になるんではないのですか。この徳島県は大体、町村名は「チョウ」で、まあ独立した町ではないけど。
【西正二会長】(木屋平村長)
「チョウ」だそうです。脇町(ワキチョウ)。
【宇山勝委員】
分かりました。
【事務局・西岡】
すいません失礼します。この調整方針を頂いたときに町の担当者の方とも協議いたしたわけでございますが、その時には、私が聞いておりましたのは合併後脇町の名前は「美馬市脇町(ミマシワキマチ)」でいくっていうことで一応確認はさせていただいたのですが。
【佐藤浄委員】(脇町長)
今まで公式の町名表明の時は「ワキチョウ」あるいは「脇町長(ワキチョウチョウ)」という表示をしとったんですが、住所表示の場合は今まで「ワキマチ」という住所表示をしとるようであります。今後、住所表示については「ワキマチ」で統一したいと思います。
------------------------------------------------------

当時の脇町長の発言などにより、「地方自治体としての脇町」の名称は「わきちょう」であったと思われます。したがって美馬郡脇町は「みまぐんわきちょう」。自治体の下の住所表示は「わきまち」なので、「大字脇町」は「おおあざわきまち」。
一方、美馬市に合併後は自治体としての脇町は存在しなくなるので、どのレベルでも住所表示であり、「美馬市脇町」は「みましわきまち」と言うことのようです。
ですので、問題の答えは次の通り。

美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきちょうおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち

しかし実際のところは、ごく一部の行政関係者を除き、町民を含めて誰も「わきちょう」とは言ってなかったと思います(自ら解答を否定するようですが)。Wikipediaには「合併前は徳島県内の町で唯一「まち」という読み方であった」と明記されており、それが一般的な理解だったと考えられます(Wikipediaの信頼性はともかくとして)。当サイトの「データベース検索」の結果でも「わき・まち」になっていますし。
ネット上で調べると、「わきちょう」になっているサイトがいくつかあり、一つがIssie さんのここ。ふりがなとして「わきまち」、「わきちょう」が併記されていて、「わきちょう」には「国調:70,85」の注があるので、この年の国勢調査だけ「わきちょう」だったようです。

おそらく、町としては他の県内自治体に歩調を合わせて「わきちょう」の読みを採用したものの、固有地名が「わき」ではなく「わきまち」と認識されているため、誰からも「わきちょう」と読んでもらえず、実態としては自治体名も含めて「わきまち」と呼ばれていたのだと思われます。
したがって、白桃 さんのご解答は必ずしも間違いではない、とも言えます(どっちなんかはっきりせんかい)。お騒がせでした。
[73311] 2009年 12月 15日(火)13:40:13oki さん
簡単な地名の「読み」その2
[73310] N-H さん
あと、難読地名の話題になると私が必ず出すのが「大分」。
あまりに簡単な字だし、常識だから皆難読知名だとは思わないけど、これを「おおいた」と読ませるのは非常に難しいと思うのですが。

日本書紀巻七景行天皇十二年十月の条に次のような記載があります。
「冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。〈碩田。此云於保岐陀。〉」
同じエピソードが、豊後国風土記では次のようになっています。
「昔者 纏向日代宮御宇天皇 従豊前国京都行宮 幸於此郡 遊覧地形嘆曰 広大哉 此郡也 宜名碩田国 碩田謂大分 今謂大分」

以上から、「大分」を「於保岐陀=おほきた」と読むことが分かります。「おおいた」はイ音便の形ですね。
「分」は古語で「きだ」と読みます。白川静氏の「字訓」によれば次のような意味です。
「幾つもの部分に分れ刻まれているもの。「刻む」と同梱の語であると思われる。」
したがって「大分」とは、大分郡の地形が、低い丘陵と河川が錯綜し、多くの谷底平野と小台地からなって複雑であることを表現したもの、と考えられているようです。

同じように「分」を「きた」と読む地名として、筑前国鞍手郡新分(にひきた)郷があり、肥後国葦北郡は葦分郡と書かれることがあります。鞍手の新分は、現在新北と書かれています。

でも、良く考えるとどうして「慶喜」が「よしのぶ」なんですかね。
これは、いわゆる「名乗り訓」と呼ばれる読み方です。明治以前の公家、武家の実名に用いられる漢字を「名乗り字」と言い、名乗り字特有の読みが名乗り訓です。名乗り字以外の場合の訓とかけ離れた読みが少なくありません。
簡単なところでは、源頼朝や徳川光圀を読めない人はまずいないでしょうが、なぜ頼を「より」、光を「みつ」と読むのか、説明できる人も少ないと思います。
漢字が日本に伝わった当初は、さまざまな読みが当てられたものの、時代の変遷とともに常訓と言われる一定の読みが固定しました。名乗り訓は、常訓にならなかった古い読みが残存したものと考えられています。
詳しくはこちらの書籍をお読み下さい。
[73308] 2009年 12月 15日(火)08:27:39oki さん
簡単な地名の「読み」
次の地名は、平成の合併によって表記が変わっただけで、同じ場所を表しています。
両者の正確な読み方をひらがなでお答え下さい。

美馬郡脇町大字脇町
美馬市脇町大字脇町

ずっと読み方を間違っていました。同じ県内なのに。
[73286] 2009年 12月 13日(日)18:00:36oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73235] じゃごたろ さん  蓼科神社
[73238] hmt さん 長-----い参道

お二人の書き込みを受けて、いわゆる(誰が言うとるんや?)「立科のくびれ」の成因について、歴史的な観点からの私見を記しておきます。

まず話の前提として、現在の立科町を構成する近世村は、芦田村、山辺村、塩沢村、細谷村、藤沢村、牛六村、宇山村、茂田井村の八ヶ村です。中心となるのは、慶長年間に設置された中山道の芦田宿や、宿形成以前の中心地である古町を抱える芦田村です。それ以外の村々が本格的に発展をはじめたのは、江戸時代になって、[72008]でhmtさんが言及された塩沢堰や、八重原堰、宇山堰など、蓼科山を源流とする用水路が開削されて以降のことです。

次に蓼科神社は、上記の旧芦田村古町に里宮が、蓼科山頂に奥宮があります。元慶2(878)年、日本三代実録に「信濃国正六位上蓼科神」とあるのが史料上の初見とされています。里宮と奥宮があるのは日本の神社の古態ですから、元慶年間以前のきわめて古い時代から神社が存在し、里宮と奥宮を結ぶ道も確保されていたと思われます。

三番目に旧芦田村と白樺高原を結ぶ県道40号線に位置する雨境峠。ここは古くから諏訪と佐久を結ぶ交通の要地で、峠から分岐し佐久市中心部に向かう県道152号線のルートは、古代東山道設置以前に信濃国と中央とを結ぶ路線であったと見られています。戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由しています。
峠には勾玉などが出る古墳時代からの遺跡もあり、蓼科山の祭祀が行なわれていたようです。

さて、ここからが本題。
蓼科山は円錐型の山容をした火山で、広い山腹斜面を有し、山麓からは地下水を源泉とする多くの沢や川が流れ出ています。下流の村々はこの川を用水として利用しており、村の形状は必然的に、川の流れに沿った細長いものになります。平成合併以前の佐久市、臼田町、佐久町などが蓼科山を中心とした縦長の形状を有していたのはそのためで、立科町もその事例の一つと言えます。
ただし、これだけでは立科町の領域は雨境峠までに留まったかもしれません。白樺高原をも領有している理由は、[72008]でhmt さんが触れた以下の点にあります。
その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。
このとき決め手となったのが、上記の塩沢堰、八重原堰などがすでに引かれており、それに諏訪側から異論が出ていないことです。また、芦田村に住む(里宮の)神主が、立科山上叢祠(奥宮)の管理を行なっていることも佐久方勝訴の理由の一つとしてあがっています。
こうして、雨境峠の南側が佐久側八ヶ村の入会地と認められたのが、現在の「立科のくびれ」をもたらした直接の原因です。明文の裁許状により、この地域への諏訪側の立ち入りが禁止されて佐久側の独占に委ねられ、それが現在の自治体の境界として維持されているわけです。
もっとも、その前提として、佐久側の住民が蓼科神社奥宮の祭祀に関わっていたことがあります。そのための道を「長ーーーーーい参道」と呼ぶかどうかはともかく、芦田村などと蓼科山を結ぶルートは古い時代から確保され、またその道を通って、江戸時代の村人たちも入会地に出入りしていたわけです(入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。近世の農業には必需の産物ですから、神社関係以外にも多数の村人が、雨境峠を越えて蓼科山山腹までの道を往復していたと考えられます)。

ただし、多数の村人が通っていたとしても、近世の道はけもの道に近いものであったと考えられます。本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削したもので、これが現在の県道40号線の基礎になったと言われています。
上記塩沢堰を開発したのは六川長三郎勝家という武田家に仕えた元土豪で、六川家は代々、堰を契機に開村した塩沢新田の実質的な支配者でした。六川源左衛門は六川家の出身者もしくは関係者でしょう。現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。
[73283] 2009年 12月 13日(日)11:34:30oki さん
地図をつくろう、など
大変ご無沙汰しています。
ここ一月ほど、久々に業務が繁忙になり、落書き帳は横目で眺めてはいるのですが、書き込むまでの時間が取れませんでした。
今日はいくつかまとめてレスを。

あ、その前に大変遅くなってしまいましたが、落書き帳十周年おめでとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

オフ会は楽しそうですね。特に石島ツアーには関心を持っていたので、[72970] [72971] 石島探検(前・後編) ニジェガロージェッツさん、などは楽しく読ませていただきました。
瀬戸内海の島つながりと言うことで、[73276] 小松原ラガー さん
島買いませんか?って言われても・・・。
みんなで買い取ってオフ会の会場にするとか・・・。あほな・・・。
正確な場所はここです(呉市音戸町渡子2丁目)。細長い、軍艦みたいな形の島ですね。干潮時には南隣の島へ歩いて渡れそうです。オフ会の会場にする場合は野宿でしょうか。飲み会の肴は廻りで泳いでいそうですが。

[73190] 播磨坂 さん
道路と等高線だけの地形図とかってないんでしょうかね?
紙の地図では難しいかもしれませんが、電子地図であれば可能です。
こちらのサイトで、基盤地図情報(精度レベル25000)をWMS(Web Mapping System)で配信しています。
配信情報には行政区画、建物、水涯線、軌道中心線、等高線、道路縁などがありますが、QGISなどWMSに対応したフリーのGISか、グーグルアースを使い、等高線と道路縁だけを表示させれば、まさに「道路と等高線だけの地形図」を見ることが可能です(グーグルアースは見にくいので、QGISの方がお勧めです)。
ただし、2万5千分1地形図レベルなので等高線は10m間隔ですし、都心部は細かい街路が多数通っているので、あまり分かりやすいとは言いかねます。
それであれば、[72797]で播磨坂さん自身が触れられた東京地形地図には等高線のレイヤもあり(もちろんご存じでしょうが)、こちらは2m間隔なので、東京の低地では見やすいでしょう。

そして、これらよりさらに推奨したいのが、自分で地図をつくってしまうこと。
現在、国土地理院の基盤地図情報では、2万5千分1地形図から作成した10m(0.4秒)間隔のDEM(Degital Elevation Model 数値標高データ)を全国レベルで整備し、東京など大都市を中心に航空レーザ測量で得られた5m(0.2秒)間隔のDEMも順次増えています。これらのDEMデータは、自由にDLし、利用することができます。
かつては、DEMからの地図作成には大変高価なGISソフトが必要で、素人には手が出しにくいものでしたが、現在は高性能のフリーGISであるGRASSがWindowsに対応するようになったので、DEMさえ入手すれば、地形を表す地図を誰でも簡単につくれます(先の東京地形地図自体も、陰影段彩図や等高線は5mDEMから作成したものです。GRASSを使ったかどうかは分かりませんが)。
このやり方だと、等高線の間隔も自由に設定できますし、傾斜図とか流域図など色々な地図も作成できます(どのような地図がつくれるかはScreenshotsをご覧下さい)。もちろん印刷もできるので、紙の地図としての利用も可能ですよ。

私は、東京の5mDEMから、赤色立体地図をつくってみました(リンク先は見本で、私が作成したものではありません)。東京の赤色立体地をグーグルアースに貼り付けた上で、東京地形地図の2m等高線を重畳すると、文京区辺りの地形と標高がよ~く分かります。例えば、播磨坂(道路の方です)は標高8m弱の地点で都道436号から分岐、等高線と直交しながら小石川台の斜面を駆け上がり、その尾根線を走る国道254号(春日通り)と標高26m強の当たりで合流しています。標高差は18m強。この間の道のりは約500mなので、平均勾配は36‰以上ということになります。箱根登山鉄道で小田原~強羅間全区間の平均勾配が35‰なので、それと同程度。相当な坂道ですね。

等高線の間隔を1mにすれば、もっと正確な標高差が出せます。挑戦なさいませんか?
[73200] Issie さん
やはり,技術の進歩は素直に評価しなくては。
技術の進歩を評価するだけでなく、自分で活用できればもっと良い、ですよね。
[72780] 2009年 11月 7日(土)04:59:58oki さん
第二十四回十番勝負 悪戦苦闘記
十番勝負は第1回から「見て」いましたが、参戦したのは今回が初めてです。回答しなかったのは、考えても分からなかったから、という単純明瞭な理由ですが、今回はつい問十に答えてしまったのを契機に参入してしまいました。
はっきり言って悪戦苦闘の毎日でしたが、最終的には完答でき、本人としては大満足です。最初の感想なのでやや長くなってしまいましたが、素人が準備もなしに参加するとどうなるか、の事例としてお読み下さい。

問十:徳島市
■幕末10万石以上の藩があった市(十万石格は除く)
今回も参戦するつもりはなかったのですが、何気なく問題を見ていて、これが「分かってしまった」のがすべての始まりです。
お題の市で、行田と柳川には城があり、金沢、岡山、萩は言わずもがな。土浦と明石にもあったはずで、これらが除外される理由は何かと考えました。行田(忍)、土浦、明石は譜代の中小藩、他は外様の大藩なので、藩の規模だろうと見当がつきました(石高談義もあったことですし)。
土浦藩と忍藩を比較し、前者が江戸時代を通じて最高9.5万石、後者が10万石に達していることから、10万石以上が対象と考えました。この時点での先行回答が久留米市(なると金時さん[72264])、高松市(おがちゃんさん[72275])だったこともあり、間違いないと判断。記念すべき最初の回答なので、徳島市を選択したところ、なんと銅メダルを獲得してしまいました。
ただし、この時点では「幕末」ではなく、江戸期を通じて、と考えていました。明石藩を調べなかったのは、大した石高ではないはずという思いこみがあったためで、初期に10万石であったことや、幕末時に10万石格であったことは気が付きませんでした。そこまで調べていたら、条件の絞り込みに手間取ってメダルには手が届かなかったと思います。

ここで、[72283]油天神山 さんから
わあい、okiさんが十番勝負に参加だ♪
という合いの手が入り、何となく引くに引けない、という感じになってしまいました。

問五:笠岡市
■市の花に菊(○○菊も含む)を制定している市
ま、当然のことですが、他の問題はいくらお題の市を睨んでいても何も思い浮かばず。
今回はすべての問題に岡山市が含まれているので、こっちの方から攻めてみようと思い、公式HPやWikimediaで岡山市のプロフィールを調べにかかりました。
市の花が菊というのが目に止まり、菊なら市花にしているところが数十あっても不思議ではないと考え、検索をかけると八戸市、武生市が引っかかってきました。山武市は野菊だったので少し手間取りましたが、お題の全市が菊ということで(菊川市は、調べる必要もないと判断)間違いないだろうと。徳島県や四国にはなさそうなので、岡山県から笠岡市を回答。

問七:旭川市
■中核市に指定された市(過去の指定も含む)
お題に重量級の市が並んでいるので、中核市はすぐに連想しましたが、岡山、静岡が政令市だからという先入観が働いて検討対象から除外。先行回答に守山市、舞鶴市などがあったのも判断に影響しました。
しかし、これら軽量級の市が誤答になっていたため、改めて中核市のリストを確認すると、政令市になった市を含めた数がちょうど46になり、これで間違いないと確信。四国もしくは中国地方の市を答えたかったのですが、残っていなかったので、リストの最初にあった旭川市で回答。

問八:総社市
■東○○駅がある市(○○は市名)
お題を見ていても何も浮かばないので、地図を眺めてみるべいか、と中間市を見ていると、筑豊本線の中間駅と筑豊電気鉄道の東中間駅を発見。瞬間的に松戸ー東松戸、府中ー東府中という連想が働き、非該当市の広島市と東広島市は同一市になければ駄目との条件だろうと考えました。他のお題の市や既出回答も検討した上で間違いないと判断、岡山県から総社市を回答しました。

ノーヒントで分かったのはこの4問。
第一ヒントのアナグラムは問九を除いてすべて解けましたが、まったく参考にできず。第二ヒントが出て次の正答をするまでに何と6日間を要したのでした。

問一:阿南市(誤答)→山陽小野田市
■市役所の住所が1-1-1の市
第一ヒントの「阿見町も該当」は分かったので同町の地図を見ると、最初に目に飛び込んできたのが「阿見町総合運動公園」。ひょっとしてこれかいなとお題の市で調べるとすべてに該当。いくつかの既出市にも当て嵌まったので間違いないだろうと考え、「南部運動公園」のある、わが阿南市から回答するも、見事に誤爆。後で確認すると運動公園はあちこちにあってとても71市では収まり切らない様子。
その後はまったく分からなかったものの、第二ヒントが「一が沢山」と解けた時点で「住所かも」と思いつき、岡山市の市役所所在地を確認したところ「北区大供1丁目1番1号」。お題の市や既出市も検討し、間違いないと判断。四国も岡山県内も残っていなかったので、中国地方から山陽小野田市を回答。

問四:玉野市
■読みの最後の文字を取ると別の市になる市
これも第二ヒントが「最後が不要」と解凍できた時点で共通項が判明。数少ない残り想定解の中から、岡山市に隣接する玉野市を回答(宇野港から直島を眺めていたことも思い出したし)。

問六:長崎市
■市制施行または新設合併後、6回以上編入合併した市(市制施行日の編入は数えない。同日の複数編入は1回と数える)
第一ヒントの「高岡市はリセット」が解けた段階で、市町村変遷情報をチェックして高岡市が最後の合併時に新設合併していることを確認。編入合併のみだということは分かったものの、合併回数の条件が分からず。第二ヒントを「九州も管内」などと解いたおかげでよけい訳が分からなくなってしまう。「何回も吸収」の解が示されて、やはり編入合併と判断し、まず回数条件を満たすだろうと思えた長崎市を回答。

問九:行田市
■「く」ではじまる市に隣接する市(架橋隣接も含む)
第一ヒントは「野田市は大神楽」もしくは「小野市は大神楽だ」、第二ヒントも「名取はきの次」と解いてしまってよく分からず。第二ヒントの解「隣はきの次」が示された時点でやっと気が付きました。
今治市がお題に含まれているので、架橋隣接もありなのだろうとは思いましたが、安全のため行田市で回答(問十でお世話になったことだし)。

問三:大洲市
■「農業高等学校」がある市
これが分かったのは、完全無欠の偶然。
第二ヒントの解「帰農傾向」から、耕地面積の増加した市など農業関係の統計データに当たるも、ことごとく外れ。仕方がないので南国市の地図を見ていて、高知大学があるのを発見。ひょっとして農学部か、と検索するとピンポーン。やったね、府中には農工大があるはずだし、総合大学たる岡山大には農学部もあるだろうと。ところがさすがに朝倉市には大学そのものがなし。
一瞬唸ったものの、農学部でなければ農業高校ということで調べると、これでビンゴ。既出回答から「農業高校」という厳格な表現が求められると判断し、四国の残っている市として大洲市を回答。

問二:鳴門市(誤答)→八王子市
■女子大学(四年制)のキャンパスがある市
お題の中で大村市が異質かな、というのは誰しも考えることだと思います。
公式HP、Wikimedia、地図で大村市を調べまくり、最初に辿りついたのは大村公園が「歴史公園100選」に該当すること。他のすべての該当市にも100選に選ばれた公園があるため、これで良いだろうと考え、ドイツ村公園のある鳴門市で回答するも、誤回答。後で精査したら、歴史公園100選には200以上の公園が選定されており、該当市は少なく見積もっても100を超えるようでした。
あとは、「文京区も該当」「減少傾向」のアナグラムは解けるものの、それがどうした状態。統計関係の問題がないため、おそらくそれだろうと即断し、岡山市が含まれているからには量的な面ではなく比率関係で減少しているデータと考え、各種数値の推移を検討するも、すべて駄目(このために「統計でみる市区町村のすがた2009」をDLし、1枚のシートにまとめた上で02年のデータと比較してみたのですが)。
結局、第三ヒントの「男は行けない」が解けた段階で、「文京区」「減少傾向」との連想でお茶の水「女子大」が浮かびました。とにかく大村市を検証しなければと思って調べたところ、活水女子大学を発見。他のお題市は検証の必要もなしということで、既出市をいくつか見た上で確信。残っていた市の中から八王子市を答え、やっと完答できました。
ところで、活水女子大学看護学部は大村市の国立長崎医療センター内に設置されていますが、09年4月の開設から日が浅いためか、マピオンには記載されているのに対し、グーグルマップ、ヤフーマップには載っていません。今回は地図としてヤフーマップを使っていたため発見できなかったのですが、マピオンならもっと早く回答できたかもしれません。
-------------------------------------------------------------------

このような次第で、今回完答できたのは偶然の連鎖による奇跡に近い、と自分では考えています。最初の回答から完答まで11日を要しており、その間は七転八倒、夢で共通項が浮かんだので検証したら間違いだったということが二回ありました。
それだけに、共通解が見つかると本当に嬉しかったですね。このような、(何の見返りもない)純粋に知的な快感を味わったのは久々のような気がします。今回の問題が過去に比べて難しかったのかどうかは判断がつきませんが、すべての問題に岡山市を入れるという条件から、作成には苦労されたのではないかと思います。楽しませていただき、まことに感謝申し上げます。

次からはどうしようかな~。本気で参入するには過去問を分析した上で「傾向と対策」が必要だろうし、各種のデータベースをすぐ使える状態で整備することも考えなくてはいけない。次回までにはとても間に合わないので、参戦するとしても完答は無理かな、と思っています。あ、地図は次からマピオンを使います。

以上、長々と駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
[72750] 2009年 11月 3日(火)23:38:04oki さん
石島の人口
[72627] hmt さん
「石島」は、8島の中で唯一の有人島で、面積も 2.72km2あります。集落のある島の北部・岡山県側の面積は約3割。人口は2008年3月末で 116人(上記岡山県HP)。[24364]の 149人に比べて減少しています。
国勢調査資料によりこのテの局部人口を調べる方法についての記事があったと記憶しますが失念。ご存知の方があれば教えてください。

岡山オフ会には行けませんが、分かる範囲のことを。

「このテの局部人口」とは、一般に町丁大字(字)別人口と呼ばれるものだと思います。玉野市だけでなく、市のレベルの自治体であれば、少なくとも1年に1回程度は町丁大字別人口を調査し、HPにも掲載しているはずです(平成大合併で新しく市になったところは危ないですが)。
玉野市の場合は、「平成21年度 玉野市の概要」があります。
石島は、江戸時代は対岸胸上村の枝郷の扱いでしたが、現在の玉野市では大字扱いになっているようで、2009年3月末における人口は110人と明記されています(「III 統計資料→2.人口・労働力人口→(17)町別人口」と辿ると、エクセルファイルが立ち上がります)。
「玉野市の概要」で確認できるもっとも古い年次の人口は、01年3月末で143人ですから、8年間で33人、2割以上減少している計算になります。
ただし、これは住民基本台帳上の人口であり(hmtさんが引用された岡山県HPの数字も同じ)、国勢調査の人口とは異なります。

国勢調査で同様の数値を入手できるサイトとして、「地図で見る統計(統計GIS)」があります(「データダウンロード」へ進むと、市区町村別に、町丁大字別人口を「小地域統計」として入手できます)。もちろん、お役所のサイトなので使い勝手は良いとは言いがたく、データそのものにも癖があるので、注意が必要です。
確認したところでは、05年調査時点の石島の人口は112人、00年が129人です。住民基本台帳では上記のように01年に143人ですから、00年の国調と10人以上の差があります。おそらく、住民票を石島に置いたまま他所で就業・就学している人がいるのだろうと思います。この国勢調査と住民基本台帳との差を考慮すると、石島の現住人口は100人を切っているかもしれません。

石島に関しては、この島が岡山・香川両県に属していることもそうですが、石島を含む直島諸島全体が香川県所属であることにも興味を引かれます。最短距離だと宇野港から2000mもない直島本島をはじめとして、玉野市の鼻先にある島々が、(石島の一部を除き)すべて香川県というのは少し不思議な気がします。
歴史的に見ると、鎌倉時代までの直島諸島は備前国児島郡に属していたものの、南北朝期に讃岐守護細川氏(これは管領家ですね)の支配下に入ったため帰属が曖昧になってしまい、江戸時代に讃岐国の所属と決定したようです。石島北部は、全島が讃岐に奪われた直島諸島のごく一部を、備前側に取り戻した地域と考えられるのかもしれません。

なお、「日本歴史地名大系」によると、石島の人口は文化年間(1804~18)に127人だったそうですから、現在の人口はそれを下回っていることになります。
[72661] 2009年 11月 1日(日)09:12:35oki さん
第二十四回十番勝負回答
問二:八王子市
やっと完答できました。

あ~大変だった。
[72609] 2009年 10月 31日(土)03:13:43oki さん
第二十四回十番勝負
問三:大洲市
分かったのは偶然。
お題である南国市を見ていたら、1ランク上のが目に止まり、検証した結果こちらと判明。
厳格な表現が求められるようなので、四国の残っているところから。

ここまで来たら完答したいと思っていますが、問二が・・・・
とりあえず、寝ます。
[72604] 2009年 10月 31日(土)01:45:00oki さん
第二十四回十番勝負
やっと分かりました。
問九:行田市
「ぐ」だから「き」だとは思ったのですが、「名取はきの次」と解いてしまい、なんのこっちゃ状態でした。
これで残り2問、だと思いますが。
[72602] 2009年 10月 31日(土)00:55:29oki さん
第二十四回十番勝負
「九州も管内」というボケたアナグラム解のため、明後日の方向をさまよっていました。
本当なら高岡リセットの時点で分かっていたはずなのに。
問六:長崎市
[72575] 2009年 10月 30日(金)16:13:38oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
売り切れ寸前なので、続けて回答。
問四:玉野市
[72574] 2009年 10月 30日(金)15:38:25oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
第二ヒントでやっと分かった。
問一:山陽小野田市
[72442] 2009年 10月 26日(月)08:43:20oki さん
第二十四回 十番勝負
アナグラムはすべて解けた、と思います。
想定数は確認していませんが、この市で答えたいので。
問一:阿南市
これでやっと5問。
先は長いか・・・
[72399] 2009年 10月 24日(土)22:18:11oki さん
第二十四回十番勝負
やっと4問目。
問八:総社市
[72388] 2009年 10月 24日(土)11:27:26oki さん
第二十四回十番勝負
想定解数が合っているので、これで良いと思います。
そう考えれば良かったのですか。
問七:旭川市
[72292] 2009年 10月 22日(木)01:43:11oki さん
第二十四回十番勝負
問二:鳴門市
想定解数の検証はしていないのですが、条件は満たしているので、とりあえず回答しておきます。自信はありません。
[72284] 2009年 10月 22日(木)00:33:32oki さん
全国の市十番勝負(第二十四回)の解答
う~ん。考えると分かるものなのですね。
問五:笠岡市
[72277] 2009年 10月 21日(水)23:54:55oki さん
第二十四回十番勝負
初めて、自力で分かったような気がするのですが。
これで良いのかどうか。
問十:徳島市
[72066] 2009年 9月 25日(金)17:21:06oki さん
石高変遷
[72052]で、ニジェガロージェッツ さん が平成19(2007)年の石高を掲載されていたので、ふと思い立って、幕末時から現在までの石高の変遷を都道府県別に計算してみました。

(単位は万石・%)
県名幕末石高07年石高(米)07年/幕末増減率
青森県40.7199.4389.9
岩手県47.6206.3333.4
宮城県77.2272252.3
秋田県50.7366.3622.5
山形県102.1279.7173.9
福島県125.8296.8135.9
茨城県114.5269.3135.2
栃木県76.5240.5214.4
群馬県63.660.0-5.7
埼玉県89.3116.830.8
千葉県96.2219.1127.8
東京都29.70.5-98.3
神奈川県39.010.7-72.6
新潟県128.3433.7238.0
富山県80.7141.074.7
石川県75.891.320.4
福井県77.293.921.6
山梨県31.119.9-36.0
長野県78.6149.690.3
岐阜県71.279.812.1
静岡県70.762.1-12.2
愛知県124.1106.7-14.0
三重県84.3104.223.6
滋賀県85.9117.136.3
京都府57.654.5-5.4
大阪府71.520.5-71.3
兵庫県122.8129.35.3
奈良県49.633.1-33.3
和歌山県40.824.9-39.0
鳥取県43.844.72.1
島根県48.664.232.1
岡山県80.8116.143.7
広島県62.892.447.1
山口県100.377.5-22.7
徳島県30.744.344.3
香川県29.349.468.6
愛媛県43.452.521.0
高知県49.441.4-16.2
福岡県140.9129.3-8.2
佐賀県44.994.4110.2
長崎県27.545.966.9
熊本県85.1140.264.7
大分県58.585.145.5
宮崎県39.152.133.2
鹿児島県60.877.126.8
上記計3151.15405.671.5
東北・新潟572.52054.2258.8
その他2578.63351.430.0
(※幕末の石高は、歴博の「旧高旧領取調帳データベース」を元に算定。北海道、沖縄は表に含めていない)

ニジェガロージェッツさんご提供の07年石高は水稲だけの収穫量ですが、幕末のデータは水田のほか畑作の石高等も含まれているので、本来であれば直接比較が不可能な数値です。したがって、あくまでもお遊びのデータということでご理解下さい。
お遊びのデータであることを前提として、あえて分析を加えれば、東北各県および新潟での石高の大きな増加が注目されます。幕末(1870年頃)から2007年までおよそ140年の間に、全国の石高は7割増加していますが、そのうち東北・新潟が約260%増(3.6倍)に対し、他の地域は3割増に過ぎません。明治以降、東北や新潟でいかに米の増産が図られたかを物語っています(もちろん北海道も)。
そういえば、思い浮かぶ米の品種も、ササニシキ、コシヒカリ、あきたこまち、そしてキララ397など、「北」のものばかりですし。西南日本から栽培の広がった米が、いつの間にか北日本を主産地にするようになっていたことを、改めて実感した次第。
ところで皆さんは、普段どの地域の米を食べられてますか。私はもっぱら、妻の実家から送ってもらっている阿波米ですが。
[72024] 2009年 9月 21日(月)16:49:18oki さん
「阿土」か「阿佐」か
[72022] 88 さん
ですから、土佐の「佐」が土佐を代弁すると言うのは本来ありえません。「佐」は佐渡を示します。
阿佐海岸鉄道は、この歴史を踏まえていない名称のつけ方です。

歴史的に見れば88さんのご意見が正しいです。江戸時代、吉野川の高知藩領部分を「阿土」川とも称していたようですし。
一方、「四国循環鉄道阿土海岸線敷設促進に関する陳情書」と言うのが、少なくとも第16国会(1953年)、22回国会(1955年)に徳島県議会から出されており、「阿佐海岸」鉄道はもともと「阿土海岸」線と考えられていたようです。したがって、
[72023] Issie さん
既存の(とは言っても全然一般的ではない)「阿土」と差別化するためにあえてそうしたのか,それとも何も考えていないのか。
に関しては、敢えてそうしたのだろう、と考えられます。
なぜ「阿土」を「阿佐」に変えたのかはよく分かりませんが、この鉄道(の計画線)が室戸岬を境に東線・西線に分かれていたため、発音しにくい「阿土東線(あととうせん)」を避けて「阿佐東線(あさとうせん)」を選んだのかもしれません。

ただし、「阿土」、「阿佐」のどちらも、元徳島県民の私にとってさえ馴染みの薄い表現です。山脈内部に縦貫道路が何本も走っていて伝統的に往来の繁かった阿讃国境に対し、阿波・土佐両国の関係が非常に薄かったことが反映されているのでしょう(阿土山地は初めて目にしました)。

「備」は、備前・備中・備後のどれかに当てはめるよりは、この3国に分かれる以前の「吉備」と考えた方が自然ではないでしょうか。
そうなのかもしれませんが、現代の感覚では、「両備」というと岡山県内の備前・備中の意味で、広島県に属する備後とは少し距離があるのでは、と感じられるのですが。
また、美作は吉備が3国に分かれた後、さらに備前から分かれた国ですから、この考えに立つと「備作」という表現は成り立たない、ということにならないですか。
[72021] 2009年 9月 21日(月)13:03:20oki さん
Re:旧国名の組み合わせ地名・名称
[72010] オーナー グリグリ さん

あまり知られていなさそうなのを。

阿淡(阿波・淡路)・・・阿淡交通社
藩政期はともに蜂須賀氏の領国だったので頻用され、かつては阿淡汽船という定期航路もありましたが、今はあまり聞きません。

越佐(越後・佐渡)・・・越佐人物誌(書名)
これもあまり一般的ではない様子。

備作(備前/備中・美作)・・・備作山地県立自然公園
ほかに、県立備作高校、吉井川に架かる備作大橋というのもあります。自然公園は備中、高校・大橋は備前だと思います。

雲伯(出雲・伯耆)・・・雲伯方言
雲伯方言というのは、「砂の器」のあれですね。

「国」が現役であった江戸時代以前は、隣接(近接)する国同士であらゆる組合せの表現がなされたと思いますが、現役の地理名称でなくなってから1世紀が経つ現在、一般的に使用される組合せは限定されていると思います。上のようなグレーゾーンの組合せについて、どこまでを採用するかが問題になってくると思いますが。

ところで、以下は反則でしょうか?
両毛 両総 両丹 両備 両筑
[71997] 2009年 9月 19日(土)20:49:39oki さん
古代郷と昭和自治体 その2
[71947] 今川焼 さん
古代郷と昭和自治体 追加します

大量に追加いただき、誠に有難うございます。
私が確認したのが61件、今川焼さんのが66件。うーん、これほどまで見逃しが多かったとは。昭和合併期の自治体名を知らないことを自ら暴露したようなものですね。

このままでは申し訳ないので、私のと今川焼さんのと合計125件についての簡略な集計結果を以下に示します(125件の表はお目汚しなので省略。もしもお入り用の方がいらっしゃればメールでお送りします)。

  件数構成比(%)
合計125100.0
--------------
畿内97.2
東海道1814.4
東山道1713.6
北陸道21.6
山陰道2217.6
山陽道1814.4
南海道1814.4
西海道2116.8
--------------
東北43.2
関東129.6
中部1814.4
近畿2822.4
中国2620.8
四国1612.8
九州2116.8
--------------
2419.2
32.4
8971.2
97.2
--------------
存続5040
消滅7560
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
志木の場合は、本来新羅郡志楽郷で遺称地は現在の和光市白子地域、志木市は明治以降に「僭称」したものと判断しています【この種の考証をはじめると切りがないのですけどね】)

五畿七道で見ると分かりにくいのですが、現在の地方区分で見ると、近畿以西に偏っているのが明らかです。東国の場合、現在の比定地すら明らかでない古代郷が少なくありませんから、当然といえば当然の結果。
都道府県別で見ると、兵庫県12、島根県10、岡山県9がベスト3、旧国別では讃岐、出雲、土佐の3国が6郷ずつで同率首位です。
島根・出雲が非常に多いのが注目されるところ。四国、九州の多さが結構意外で、逆に北陸は予想より少ないですね。
町が7割を占めるのは、前にも触れたように、町が郷と同じように郡の一段下のレベルに位置する存在だからでしょうね。当然ながら、その半数以上が平成の大合併で消滅しています。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示