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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[73688]2010年1月5日
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[73683]2010年1月5日
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[73447]2009年12月30日
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[73283]2009年12月13日
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[72277]2009年10月21日
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[72066]2009年9月25日
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[72024]2009年9月21日
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[72021]2009年9月21日
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[71997]2009年9月19日
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[71892]2009年9月7日
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[71891]2009年9月7日
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[71851]2009年9月3日
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[71777]2009年8月24日
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[71593]2009年8月11日
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[71458]2009年8月7日
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[71256]2009年8月2日
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[71225]2009年7月31日
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[71224]2009年7月31日
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[71198]2009年7月30日
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[65419]2008年6月6日
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[65405]2008年6月5日
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[65365]2008年6月2日
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[65311]2008年5月30日
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[65136]2008年5月16日
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[65120]2008年5月14日
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[65091]2008年5月11日
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[65081]2008年5月11日
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[65062]2008年5月11日
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[64173]2008年3月31日
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[73688] 2010年 1月 5日(火)20:53:57oki さん
第二十六回 全国の市十番勝負 解答その弐
四国がなくなっているので、とりあえず近くの市を。

問十:流山市

さっきははご挨拶を忘れていました。

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
[73683] 2010年 1月 5日(火)18:41:45oki さん
【第二十六回】全国の市十番勝負
先ほど、やっとこさ帰省先から戻って来ました。

今回は参戦するつもりなので。まずは売り切れ寸前のところを。

問八:根室市
[73447] 2009年 12月 30日(水)07:43:10oki さん
昔の飛地と来年の勝負
三回連続投稿で申し訳ないのですが、見過ごせない書き込みがあったもので。

[73436] 88 さん 市制町村制施行時等における飛地・入会地等の表記方法について

88さま。市区町村変遷情報の入力、誠に、誠にご苦労様です。
私も、徳島などで天保郷帳~明治合併期の町村変遷について整理をはじめたことがあるので、この作業にどれだけの時間と労力が必要かは分ります。あれだけのデータを入力・整理されていることには、ただただ感謝、との思いだけです。
その上で、あえて言わせていただくのですが(この点については前々から考えていたのです)、少なくとも明治合併期に関しては、本村部分、飛地部分の両方について同じように「○○村の一部」とする現在の表現方法は、改めた方が良いと思います。各村がどのように合併したのかが非常に分りにくくなる場合があるからです。
実例を挙げます。私が現在住んでいる東京都江戸川区(当時は南葛飾郡)における3村の事例です。

小松川村:
西小松川村の一部, 逆井村, 東小松川村の一部
松江村:
西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, 西宇喜田村の一部, 桑川村の一部, 西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部

以上挙げた3村のいずれにも、「西小松川村の一部」、「東小松川村の一部」が出現しており、「西一ノ江村の一部」は2村にあります。
落書き帳のメンバーの皆さんであれば、小松川村は西小松川村と逆井村の合併村、松江村は西一ノ江村と東小松川村、船堀村は東西船堀村で、ほかはすべて狭小な飛地だろうと見当がつくと思います。しかし、市区町村変遷情報を閲覧しているのは常連メンバーだけではないはずで、この種の情報にあまり詳しくない人が見た場合、以上のような表記法だと、東小松川村や西小松川村がどのように合併したのか、混乱を来す畏れが強いのではないでしょうか。
そのような事態を回避するには、例えば次のような表記が求められるのではないかと思います(あくまで例です。実際の表記法はさらに工夫する必要があります)。

小松川村:
西小松川村(本体), 逆井村, 東小松川村(飛地)
松江村:
西一ノ江村(本体), 東小松川村(本体), 西小松川村(飛地)
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, (以下すべて飛地 西宇喜田村, 桑川村, 西一ノ江村, 東小松川村, 西小松川村)

あるいは、変遷情報の表にはあえて飛地の村を表示せず、「本体」の表記も省略して、これらを「詳細」部分だけに記述してもいいのかもしれません。いずれにせよ、現在の表記法は改善した方が良い、と考えます。
なお、ここには例がありませんが「どちらが本体か、という判断を迫られる」微妙な場合は、その場合に限って「○○村(一部)」などの表現を使えばいいと思います。
また、関連して言うと、変遷情報の参考文献としては「幕末以降総覧」などの刊本しかあげられていませんが、少なくとも明治合併時のデータについては、府県令でのチェックを行なっているのですから、その旨を明記するとともに、デジタルライブラリーの該当府県令へのリンクを張っておいた方が良いのではないでしょうか。「飛地」が現在のどの地域に該当するのか気になる人には、元データである府県令を見てもらうことにしても良いですし。

もちろん、これ以上88さんの負担を増やすのは本意ではないので、ご自身がもっともやりやすい手法をとっていただければと思いますが、以上の点も考慮してもらえれば有り難いです。

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本日、ネット環境のない実家に帰省しますので、今年の書き込みはこれが最後です。いろいろと楽しませていただいて有難うございました。来年もよろしくお願いいたします。
前回の十番勝負は見送りましたが、今回は参加したいと思っています。帰京してからの参戦なので、完答できれば御の字でしょうが。

では、皆様良いお年を。
[73446] 2009年 12月 30日(水)06:31:45oki さん
さまざまなレス
手短に、と言いながら長くなってしまい、連続投稿です。

[73423] hmt さん
由来が一番わからないのが「藤野」です。
1955年に命名された「藤野町」は、中央本線藤野駅に由来するとして、1943年当時の津久井郡小淵村に設けられたこの駅の名を「藤野」とした理由がよくわかりません。
[62419] スピカさん には、次のように記してあります。
「藤野」の名は駅所在地である小原(小渕の誤記)の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。
「藤野 = 小字」説は検証していませんが、この駅の立地は 甲州街道の関野宿(小淵村)と吉野宿(吉野町)との中間であり、駅名とするのに適した著名な集落があったとは思われません。

木村礎氏の「日本村落史」によると、江戸時代の津久井郡小淵村に「藤野」という小名(≒小字)があったとのことです。藤野駅のそばに「藤野」という小字レベルの地名がありますが、これが小名藤野の名残と考えて良いのでは。したがって、スピカさんが仰るように、小字藤野が鉄道駅の名称に採用され、さらに藤野町の自治体名まで成り上がったのは間違いないだろうと思います。
なお、元史料は「新編相模国風土記稿」ということなので、念のために、大きめの図書館で小淵村の項を確認しておいた方が良いとは思います(「新編武蔵風土記稿」と違って、近代デジタルライブラリーには収録されていないのです)。

[73420] 蒼の狼 さん
脇町出身の友人に尋ねてみたのですが、
見事に「わきまち」って答えてくれました。
ちなみに、その人いわく脇町地区だから「わきまち」で
岩倉地区だったら「わきちょう」って答えるかもと言ってましたが…どうでしょう??
わざわざ調べていただいて有難うございます。
これは、町民には町名が「わきちょう」であることが周知されているため、旧岩倉や旧江原の出身者なら「わきちょう」と答えるものの、ご友人は旧脇町(脇町、猪尻、北庄)の出身であるため、プライドにかけても「わきまち」と呼ぶ、と理解して良いのでしょうか。ますます、分らなくなる気もしますが。

[73314] なると金時さん
前からずっと思っているのですが、鳴「戸」と誤記される例が恐ろしく多い気がします。
上の名望家はそう書いてました(笑)
約100年前くらいのですが、その時も「鳴門」だった筈なんですがね…。

もともとは鳴「戸」や鳴「渡」の表記が行なわれており、近世後期以降に鳴「門」が優勢になってきたようです。大相撲の年寄名跡である「鳴戸」や「大鳴戸」は、江戸時代中期頃の表記の名残ではないかと。
明治以降の自治体名等にはもっぱら鳴「門」が使われていますが、100年前なら表記は十分に揺れていたはずで、その名望家には「鳴戸」が正しいと意識されていたのかもしれません。

[73424] YT さん
いつも貴重な人口データをご提供いただき、有難うございます。
あれらのデータを地図上に分りやすく表示してみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。

平安末期の平泉の人口を10万人以上と推定した書物について御存じの方がおりましたら教えてください。
次のようなサイトを見つけました。
「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介 角田文衛 他著)新潮社 1987年5月25日刊に、「今日、平泉町の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。」という記述があるようです。
実際に書籍を見たわけではないので断言できませんが、人口算定の根拠を記してあるか、もしくは基礎となる資料を明記してある可能性があります。佐貫利雄氏の著作より出版年が早いので、参考になるかもしれません(区立レベルの図書館にもあるようです)。
[73445] 2009年 12月 30日(水)06:08:18oki さん
美波町「日和佐」奥河内
今年分の仕事は何とかやっつけました。帰省前なので、あれこれ手短にレスを。

[73411] hmtさん  なぜ「日和佐」という地名を使わないのか?

「日和佐」の地名があまり使われていない(ように見える)理由として、2つの要因があると思います。
一つは、一般に「日和佐」と認識されている場所に比べ、「日和佐」の住所を名乗る地域が非常に狭いこと。二つめは合併して美波町になった由岐町への配慮だろうと思います。
まず第一の要因について。[73385]で「日和佐は薬王寺の門前町兼漁師町」と書きましたが、これが日和佐に関する一般的な認識で、要するにJR日和佐駅の周辺、日和佐川の河口部に開けた小都邑です。
もともとは日和佐川左岸(北岸)に位置する「日和佐浦」が中心だったと思われますが、ここは面積狭小な漁師町のため、江戸時代から隣接する奥河内に市街地が広がり(奥河内字本村と呼ばれる地域です)、一体的な町場になっていたようです。薬王寺やその門前集落は川の右岸にありますが(奥河内字寺前)、こちらも左岸の集落と一体的な存在だったはずです。さらに明治以降は、薬王寺の南側に牟岐線の日和佐駅が開設され、その周辺にも市街地が広がりました(奥河内字弁財天)。これらの地域を含んだ町場が「日和佐」です。千本桜さん流に言えば、「日和佐へ行く」と言った場合に対象として意識される地理範囲、ということになります(旧赤河内村は「日和佐」ではない)。
「富来」と地頭町、領家町との関係と同じく、日和佐浦と奥河内を併せた一体的市街地が「日和佐」なのですが、富来との大きな違いは、面積で見て奥河内が圧倒的に大きく、駅、町役場、各級の学校など主要施設の大半が奥河内にあることで、日和佐浦に位置するのは大浜海岸とうみがめ博物館(カレッタ)くらいです。それでも、今回の合併前はずっと日和佐町(村)奥河内だったので問題はなかったのですが、合併後は美波町奥河内になってしまったため、駅も役場も日和佐を名乗る地域にはなく、「日和佐」という地名が使われていない、という印象を与える結果になっているのだと思います。
この事態を避けるためには、富来と同様に美波町「日和佐」奥河内のような冠称を着ければ良かったのかもしれませんが、片方が「日和佐」日和佐浦になってしまうので、そうもいかなかったのでしょう。奥河内だけに日和佐を冠称するのも妙な話ですしね。

明治合併以後だけでも 100年以上も使い、売り込んできた地名を捨て去るのは、もったいないことであると思います

私もそう思うのですが、以上の状況からいかんともしがたい、というのが実態だったと思います。ただ、「日和佐」の名は鉄道や道路に残っているだけでなく、人々の意識に深く染み込んでいるので、「美波」が取って代わるまでには1世代以上の時間が必要だと思います。少なくとも、私たちの世代の人間があの町を「美波」などと呼ぶことは、絶対にないでしょう。
なお、美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。なぜ町のHPが間違っているかは謎です。

もう一つ、由岐町への配慮という点は私の推測です。前にも書いたように、気恥ずかしいので「ウエルかめ」はあまり見ていないのですが、横目で眺めているところでは、主な舞台は日和佐と徳島市内で、美波町に合流した由岐町はまったく出てこないようです。この状況で、ドラマに関連して「日和佐」を強調した場合、旧由岐町民の日和佐側を見る目が非常に微妙になり、合併町内での旧町民同士の融和に大きな齟齬が生じる畏れがあります。
実際にそういう動きがあるかどうかは分りませんが、昭和合併時に、誰がどう考えても日和佐町による赤河内村の吸収合併であるにもかかわらず、町制施行した赤河内村が(旧)日和佐町を編入した上で(新)日和佐町に改称するという3段階の変更を行なって赤河内に花を持たせた(それ以外に理由はない)日和佐町ですから、今回も由岐側に気を遣ってわざと「日和佐」を目立たせず、「美波」を強調している、としても不思議ではないと思います。あくまで推測ですけどね。

[73413] hmt さん
注目すべきは、藩政村についての6回シリーズを上梓された okiさん が、[71198]以降は「近世村」を使うようになり、既に5つもの記事があることです。
「近世村」の用語は意識して使っています。理由はお察しの通り。私自身は、江戸時代を通じて全県が徳島藩領だった地域の出身ですので「藩政村」でも別に構わないのですが、違和感を感じるという方がいらっしゃる以上、特にこだわるほどのものでもありません。「近世村」なら、藩領、幕領、旗本領、寺社領、公家領、皇室領など、すべてが含まれますからね。
[73385] 2009年 12月 24日(木)04:47:31oki さん
脇町 富岡 橘
現在、年末進行で尻に火がついた状態ですが、これだけ徳島県の話題が出ているのに反応しないわけにはいきません(オッサン仕事大丈夫か?)。

[73370] hmt さん 地方公共団体名称末尾における「町」の読み方 徳島県美馬郡脇町の事例から
いつもながらのお見事な考証、恐れ入ります。
要するに、「わきまち」か「わきちょう」かについて、「町村制」でも現行の「地方自治法」でも法的な根拠は何もないし、「谷保・国立」の関係と違って「わきまち・わきちょう」では改称の対象にすらならない、ということですね。
おそらく、明治大合併期の読みは「わきまち」であったはずで、「わきちょう」が採用されたのは、hmtさんの仰るようにかなり後年、戦後も相当年数が過ぎてからだろうと思います。それも、一部の行政関係者の間の了解事項に過ぎず、町職員の間にすら徹底されていなかったのだろうと推測されます(国勢調査ですら、「わきちょう」は二回だけで最新の2000年調査も「わきまち」ですからね)。
「わきちょう」の読みが「点々」と残っている理由はもう少し追究したいと思いますが、当サイトデータベースの脇町の読みを「わき・ちょう」に変更する必要はないようですね。

[73382] 伊豆之国 さん  美馬さん、穴吹さん
okiさんの故郷・阿南市ではベスト100には惜しくも入りませんが、それでも30数件見られます。
小学校~高校を通じ、「美馬」という名字の同級生が一人だけいました。とても可愛い女の子でしたね、当時は。

[73383] hmt さん  徳島県人の北海道移住
徳島県立文書館の開館10周年記念特別展・北海道の開拓と徳島県人 を見ると、明治4年の稲田家臣団による静内地方移住がその先駆だったようですが、その後も 徳島県から北海道内各地への移住が行なわれています。
稲田家臣団による静内移住は、hmt さんの引用された展示図録pdfにもあるように、いわゆる庚午事変(稲田騒動)が原因です(この間の経緯は、「北の零年」という映画にもなったはずです)。
稲田氏は、徳島藩への淡路加増以降、洲本城代を勤めた藩の筆頭家老ですが、洲本に引っ越す前は脇城を預かっていました(それだけ脇が重要な場所だったということですね)。
徳島藩は、幕末に至るまで実効性のある地方知行を維持した藩で、淡路移住後の稲田氏も美馬郡を中心に多数の給知を持ち、それを支配するため脇町の隣の猪尻村に猪尻役所と言われる屋敷を置いていました。当然、そこには稲田氏の家臣がいましたが、「農民の出自で農業兼務するものが多かった(日本歴史地名大系)」ということですから、美馬姓の人もいたはずです。北海道の美馬さんには、「永山兵村」との関係のほか、このような稲田氏関係の人もかなり存在するのではないかと考えられます。

[73371] 千本桜 さん スーパータウン
[73373] 白桃 さん 名探偵アナン

人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
ではズバリ、香川県のお隣にある県の富岡町。(現在は阿南市)
私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
(お二人まとめて引用してすみません)

ん~、当時の富岡町があの大河原にも匹敵するような「スーパータウン」であったとは、地元民ながら想像しなかったですね。
もっとも、1955年(昭和30)10月1日における富岡町は、54年3月に中野島村、、宝田村、長生村、大野村、55年1月加茂谷村、そして同3月に見能林村を合併した上での人口で、しかも58年5月には橘町と合併して阿南市が誕生しており、短い期間の水増しスーパータウンと言うべきかもしれませんね。
富岡町自体は、脇町などと並ぶ江戸時代からの町場です。脇と同じく小城下町で、蜂須賀氏の阿波入部直後、脇町の稲田氏に対し、こちらは賀島氏という家老が配置されています。城は本来牛岐城と呼ばれていましたが、賀島氏によって富岡と改名されています。
富岡町は、江戸時代を通じて阿波南方(みなみがた)の政治・商業の中心地でした。阿波南方とは、現在の阿南市を含む那賀郡、海部郡です。阿南市というのは、「阿」波「南」方を略した呼び方なのです。
阿波南方の中心地という富岡町の在り方は明治以降もそのまま維持され、現在に至っています。と言っても、阿南市を含む那賀・海部両郡の人口は、もっとも多いときでも15万人を超えたことがないという状態で、その面積は1500平方キロもありますから、人口密度は100人に達しません。

[73373] 白桃 さん
この富岡の街、1974年頃歩いたのですが、商店街は結構長かったです。ただ、アーケードはありませんでした。そして、言っちゃなんですが、なんとなく野暮ったい。

白桃さんが富岡の街を歩かれた1年後に、私はこの街の高校に入り、3年間を過ごしました。ま、白桃さんが仰るとおり、野暮ったいのは確かですね。上記のように阿波南方は人口希薄な地域で、徳島市や脇町など北方(きたがた)からも田舎扱いされているので、垢抜けていないのは紛れもない事実です。
で、誠に残念なことですが、白桃さんが歩かれた、長いけれどもアーケードのない、野暮だけれどもそれなりに活気のあった富岡の商店街は、現在壊滅状態です。街の東側、新しくできたバイパス沿いに2件の大型店が開業したため、駐車場のない旧来の商店街は顧客を奪われてシャッター通りと化しています。この商店街がかつての賑わいを取り戻すことは、まず望み薄です。まことに残念ながら。

私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
群馬県に同名の市があるから???、まさかね・・・。橘との合併を待って、おもむろに、いや一挙に五万人超の市を目指したのでしょうか?

橘は1955(昭和35)年3月に福井村、椿町、新野町という阿南市南部の町村を合併しています。おそらく、富岡と橘が合併して新市をつくるのは規定の方針で、富岡単独で市制を敷かなかったのはそれが原因だと思います(この点は今回帰省した際に確かめておきます)。
私の出身地は、富岡ではなく橘の方です(狭い町なので、ここまで言うと町民にはほぼ正体がバレてしまいますが、この掲示板を見ている人は居ない、でしょう)。結構古い港町で、室町時代には橘船籍の船が兵庫港に出入りしている記録が残っています。私が子供の頃も港町・漁師町で、5000人の人口が山と海の間の狭小な平地に密集する、それなりの町場でした。
今は、あまり口にしたくない惨状を呈しています。子供の頃に500人いた小学校の在校生が、現在は200人を切っているというだけで一端が分ると思います。5000人の人口が3000人台に減り、減少したのは若い世代、ということです。

以下は、個人的な愚痴なので読み流してください。
この町に、3箇所の火力発電所があります。昭和40年代にできた四国電力阿南発電所と、2000年に完成した四電の橘湾発電所、電源開発の橘湾火力発電所です。後の2つは小勝島という離島を埋立てた石炭火力発電所で、発電した電力はすべて、紀伊水道の海底に敷設したケーブルを通して近畿地方に送電しています。
江戸時代の近世村の範囲に3箇所の発電所がある町というのは、全国的にも例がないだろうと思います。それで町が発展するなら我慢もしますが、30年前と比べて人口が4割近く減っているわけで、発電所の誘致がわが橘町にとっては何の役にも立っていなのは明らかです。阿南市と徳島県のアホ役人、この惨状をどないしてくれるんじゃ。
あくまで個人的な愚痴です。読み流してください(私自身が現在は町を離れているわけで)。

日和佐、牟岐は行ったことが無いのでわかりません。「ウエルかめ」の日和佐は風光明媚だし、薬王寺さんもあるし、一度は行ってみたいです。
日和佐も牟岐も良い町です。日和佐は薬王寺(地元民は「おやくっさん」と呼びます)の門前町兼漁師町で、活気のある町でした(過去形です。残念ながら)。「ウエルかめ」はたまに見ているのですが、出演者の喋る阿波弁のアクセントが微妙にずれていて、気恥ずかしくなるのですぐに消してしまいます。でも、これで徳島の南方を多くの人が知って、訪れる人が増えればいいなとは思っています。
宮脇俊三氏が書いていたのですが、四国というのは、全国を行き尽し世界各国にも足を伸した旅人が「そういえば四国には行ったことがないな」と、ふと気づく地域だそうです(宮脇さんは香川が本貫なので、悪口ではなく実感でしょう)。
その四国の中でも、もっとも観光客が行かない地域が、阿波の南方と高知県東部です。大した観光地がないのと、室戸岬周辺は鉄道がなかったことが主因でしょう。したがって、日本国内でもっとも観光客の少ない地域、ということができるのではないかと思います。「ウエルかめ」の放送で、全国の皆様にこの地域を知ってもらい、観光客が増えることを切に願っております。
落書き帳の皆様も、暇な折には牟岐線と阿佐海岸鉄道に乗ってやって下さい(お前は徳島県観光課か?)。

愛郷心あふれるokiでした。今から仕事にかかります。
[73362] 2009年 12月 20日(日)18:15:01oki さん
脇町関連レス
少しサボった間に脇町関係の書き込みが沢山。申し訳ありませんが、まとめてレス。

[73358] 美馬をみて美馬しょう 白桃さん
[73357] 頑張れワッキー 千本桜さん
[73352] ふと思い出して なると金時さん
[73342] うだつが上がらぬ話ですが‥ 伊豆之国さん
[73331] ワッキー 白桃 さん
[73326] 脇町 なると金時さん

脇町の地名の由来は、脇町市街の北にあった脇城です。元々は西隣の岩倉村に岩倉城があり、戦国時代、その東脇に築かれた支城に脇の名が付けられました。城下の町場をつくったのは、織田信長登場以前に畿内を制覇した三好長慶のようです。
最初は、「脇」と「町」が一体であったわけではありませんが、江戸時代を通じて吉野川中流部北岸における商業の中心地として発展し、その間に「脇町」が固有地名として定着したと考えられます。
白桃さんの仰るとおり、
徳島県は、高知県ほどではないいにろ、首邑の「一人勝ち県」だった
ため、江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。ほかに、池田にも村の一部に町場がありました(白桃さんご指摘の撫養は、村や町の名称ではなく、現鳴門市中心部にあった製塩地帯の総称です)。
これらの地域は明治以降も地域の中心で、各種の公共機関が置かれましたが、なると金時さんが言われるように
脇町の脇町地区にある高校だから、脇高校ではなく、脇町高校なわけですね
ほかの町場にできた高校は池田高校、川島高校、富岡西・東高校という具合で、「町」がついているのは脇町だけです。裁判所、警察署などの名称も同様で、江戸時代に定着した「脇町」地名の一体性は現在も強固に残っています。この場合の読みは、言うまでもなく「わきまち」です。

それだけに、町長自らが「わきちょう」と称しているのにいささか驚いたわけなのですが、公的な資料も含めてほとんどが「わきまち」なので、自分でも本当かいな、と思っている部分はあります。しかも、すべてが「わきまち」ではなく、「わきちょう」とする資料もポツポツあるので、判断に迷います。真鶴町のように官報か何かで確認できれば良いのですが。

ところで、恥ずかしながら、私自身は脇町に行ったことはないのですね。
私の育った徳島の県南地域と、脇町など県西部との間には直接の連絡ルートがなく、鉄道はもちろん自動車で行くとしても、いったん徳島市を経由する必要があります。そのため、両者間の交流が薄いことが一つの要因。
もう一つは、伊豆之国 さんが書かれているように、現在の脇町は「うだつ」で有名ですが、私が県人であった頃は県内でも知る人が少ない状態であったこと。当時、県内の小学生は、脇町の東隣、阿波町にある「阿波の土柱」は必ず遠足で行きましたが、脇町まで足を伸すことは皆無でした。「うだつ」が有名になったのは、おそらくは1980年以降で、全国的な知名度を得たのは1988年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降だと思います。

[73357] 千本桜さん
たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
丁寧な考証、恐れ入ります。確かに、脇町の人口が横這いを維持し得たのは、工場誘致、具体的には松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)の脇町工場を誘致できたからのようです。
1970年以降、脇町には多いときで2,000人以上の工場従業者が存在しました。その多くが松下寿や関連工場の従業者でしょう。就業者総数が8,000人程度の町ですから、波及効果を含めて工場の影響力はきわめて大きい。穴吹、貞光、美馬など周辺諸町の工場従業者は1,000人に届かない状態でしたから、その相違が人口増減の差に連動したと考えられます。
ただ、1990年以降、その工場従業者が急速に縮小をはじめ、2004年には935人まで減っています。原因は言うまでもなく、製造業の海外展開に伴う「空洞化」でしょう。平成12年の「少し目立つ人口減」はこれが主因と考えられます。今後も、国内製造業が雇用を増やす事態は予想しにくいですから、脇町地区も急激な人口減少に見舞われるかもしれません(とても悲しいことですが)。
[73320] 2009年 12月 16日(水)11:55:35oki さん
みまぐんわきちょうおおあざわきまち
[73316] 白桃 さん
美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきまちおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち
ではないのでしょうか。
脇町は行ったことが無いのですが、「ちょう」と呼ばれるところが多い中で、いつも「まち」と呼ばれていたのを覚えております。

誰しもそう考えると思います。私もずっと「わきまち」だと思っていました。しかし、ある資料によると、美馬郡脇町は「わきちょう」だったようです。
資料というのは「美馬郡東部・北部合併協議会会議録」の第12回分(2004年1月8日)。合併新市の字名に関する協議が行なわれた中で、脇町の読み方に関するやり取りがあります。少し長いですが、そのまま引用します。
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【宇山勝委員】(美馬町学識経験者)
美馬町の宇山です。脇町は「ワキマチ」と読むんですか。「美馬市脇町(ミマシワキチョウ)字脇町(ワキマチ)」とくるんではないんですか?美馬町(ミマチョウ)、穴吹町(アナブキチョウ)、木屋平(コヤダイラ)云々で脇町(ワキマチ)って今、脇町(ワキマチ)というのは大字になるんではないのですか。この徳島県は大体、町村名は「チョウ」で、まあ独立した町ではないけど。
【西正二会長】(木屋平村長)
「チョウ」だそうです。脇町(ワキチョウ)。
【宇山勝委員】
分かりました。
【事務局・西岡】
すいません失礼します。この調整方針を頂いたときに町の担当者の方とも協議いたしたわけでございますが、その時には、私が聞いておりましたのは合併後脇町の名前は「美馬市脇町(ミマシワキマチ)」でいくっていうことで一応確認はさせていただいたのですが。
【佐藤浄委員】(脇町長)
今まで公式の町名表明の時は「ワキチョウ」あるいは「脇町長(ワキチョウチョウ)」という表示をしとったんですが、住所表示の場合は今まで「ワキマチ」という住所表示をしとるようであります。今後、住所表示については「ワキマチ」で統一したいと思います。
------------------------------------------------------

当時の脇町長の発言などにより、「地方自治体としての脇町」の名称は「わきちょう」であったと思われます。したがって美馬郡脇町は「みまぐんわきちょう」。自治体の下の住所表示は「わきまち」なので、「大字脇町」は「おおあざわきまち」。
一方、美馬市に合併後は自治体としての脇町は存在しなくなるので、どのレベルでも住所表示であり、「美馬市脇町」は「みましわきまち」と言うことのようです。
ですので、問題の答えは次の通り。

美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきちょうおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち

しかし実際のところは、ごく一部の行政関係者を除き、町民を含めて誰も「わきちょう」とは言ってなかったと思います(自ら解答を否定するようですが)。Wikipediaには「合併前は徳島県内の町で唯一「まち」という読み方であった」と明記されており、それが一般的な理解だったと考えられます(Wikipediaの信頼性はともかくとして)。当サイトの「データベース検索」の結果でも「わき・まち」になっていますし。
ネット上で調べると、「わきちょう」になっているサイトがいくつかあり、一つがIssie さんのここ。ふりがなとして「わきまち」、「わきちょう」が併記されていて、「わきちょう」には「国調:70,85」の注があるので、この年の国勢調査だけ「わきちょう」だったようです。

おそらく、町としては他の県内自治体に歩調を合わせて「わきちょう」の読みを採用したものの、固有地名が「わき」ではなく「わきまち」と認識されているため、誰からも「わきちょう」と読んでもらえず、実態としては自治体名も含めて「わきまち」と呼ばれていたのだと思われます。
したがって、白桃 さんのご解答は必ずしも間違いではない、とも言えます(どっちなんかはっきりせんかい)。お騒がせでした。
[73311] 2009年 12月 15日(火)13:40:13oki さん
簡単な地名の「読み」その2
[73310] N-H さん
あと、難読地名の話題になると私が必ず出すのが「大分」。
あまりに簡単な字だし、常識だから皆難読知名だとは思わないけど、これを「おおいた」と読ませるのは非常に難しいと思うのですが。

日本書紀巻七景行天皇十二年十月の条に次のような記載があります。
「冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。〈碩田。此云於保岐陀。〉」
同じエピソードが、豊後国風土記では次のようになっています。
「昔者 纏向日代宮御宇天皇 従豊前国京都行宮 幸於此郡 遊覧地形嘆曰 広大哉 此郡也 宜名碩田国 碩田謂大分 今謂大分」

以上から、「大分」を「於保岐陀=おほきた」と読むことが分かります。「おおいた」はイ音便の形ですね。
「分」は古語で「きだ」と読みます。白川静氏の「字訓」によれば次のような意味です。
「幾つもの部分に分れ刻まれているもの。「刻む」と同梱の語であると思われる。」
したがって「大分」とは、大分郡の地形が、低い丘陵と河川が錯綜し、多くの谷底平野と小台地からなって複雑であることを表現したもの、と考えられているようです。

同じように「分」を「きた」と読む地名として、筑前国鞍手郡新分(にひきた)郷があり、肥後国葦北郡は葦分郡と書かれることがあります。鞍手の新分は、現在新北と書かれています。

でも、良く考えるとどうして「慶喜」が「よしのぶ」なんですかね。
これは、いわゆる「名乗り訓」と呼ばれる読み方です。明治以前の公家、武家の実名に用いられる漢字を「名乗り字」と言い、名乗り字特有の読みが名乗り訓です。名乗り字以外の場合の訓とかけ離れた読みが少なくありません。
簡単なところでは、源頼朝や徳川光圀を読めない人はまずいないでしょうが、なぜ頼を「より」、光を「みつ」と読むのか、説明できる人も少ないと思います。
漢字が日本に伝わった当初は、さまざまな読みが当てられたものの、時代の変遷とともに常訓と言われる一定の読みが固定しました。名乗り訓は、常訓にならなかった古い読みが残存したものと考えられています。
詳しくはこちらの書籍をお読み下さい。
[73308] 2009年 12月 15日(火)08:27:39oki さん
簡単な地名の「読み」
次の地名は、平成の合併によって表記が変わっただけで、同じ場所を表しています。
両者の正確な読み方をひらがなでお答え下さい。

美馬郡脇町大字脇町
美馬市脇町大字脇町

ずっと読み方を間違っていました。同じ県内なのに。
[73286] 2009年 12月 13日(日)18:00:36oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73235] じゃごたろ さん  蓼科神社
[73238] hmt さん 長-----い参道

お二人の書き込みを受けて、いわゆる(誰が言うとるんや?)「立科のくびれ」の成因について、歴史的な観点からの私見を記しておきます。

まず話の前提として、現在の立科町を構成する近世村は、芦田村、山辺村、塩沢村、細谷村、藤沢村、牛六村、宇山村、茂田井村の八ヶ村です。中心となるのは、慶長年間に設置された中山道の芦田宿や、宿形成以前の中心地である古町を抱える芦田村です。それ以外の村々が本格的に発展をはじめたのは、江戸時代になって、[72008]でhmtさんが言及された塩沢堰や、八重原堰、宇山堰など、蓼科山を源流とする用水路が開削されて以降のことです。

次に蓼科神社は、上記の旧芦田村古町に里宮が、蓼科山頂に奥宮があります。元慶2(878)年、日本三代実録に「信濃国正六位上蓼科神」とあるのが史料上の初見とされています。里宮と奥宮があるのは日本の神社の古態ですから、元慶年間以前のきわめて古い時代から神社が存在し、里宮と奥宮を結ぶ道も確保されていたと思われます。

三番目に旧芦田村と白樺高原を結ぶ県道40号線に位置する雨境峠。ここは古くから諏訪と佐久を結ぶ交通の要地で、峠から分岐し佐久市中心部に向かう県道152号線のルートは、古代東山道設置以前に信濃国と中央とを結ぶ路線であったと見られています。戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由しています。
峠には勾玉などが出る古墳時代からの遺跡もあり、蓼科山の祭祀が行なわれていたようです。

さて、ここからが本題。
蓼科山は円錐型の山容をした火山で、広い山腹斜面を有し、山麓からは地下水を源泉とする多くの沢や川が流れ出ています。下流の村々はこの川を用水として利用しており、村の形状は必然的に、川の流れに沿った細長いものになります。平成合併以前の佐久市、臼田町、佐久町などが蓼科山を中心とした縦長の形状を有していたのはそのためで、立科町もその事例の一つと言えます。
ただし、これだけでは立科町の領域は雨境峠までに留まったかもしれません。白樺高原をも領有している理由は、[72008]でhmt さんが触れた以下の点にあります。
その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。
このとき決め手となったのが、上記の塩沢堰、八重原堰などがすでに引かれており、それに諏訪側から異論が出ていないことです。また、芦田村に住む(里宮の)神主が、立科山上叢祠(奥宮)の管理を行なっていることも佐久方勝訴の理由の一つとしてあがっています。
こうして、雨境峠の南側が佐久側八ヶ村の入会地と認められたのが、現在の「立科のくびれ」をもたらした直接の原因です。明文の裁許状により、この地域への諏訪側の立ち入りが禁止されて佐久側の独占に委ねられ、それが現在の自治体の境界として維持されているわけです。
もっとも、その前提として、佐久側の住民が蓼科神社奥宮の祭祀に関わっていたことがあります。そのための道を「長ーーーーーい参道」と呼ぶかどうかはともかく、芦田村などと蓼科山を結ぶルートは古い時代から確保され、またその道を通って、江戸時代の村人たちも入会地に出入りしていたわけです(入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。近世の農業には必需の産物ですから、神社関係以外にも多数の村人が、雨境峠を越えて蓼科山山腹までの道を往復していたと考えられます)。

ただし、多数の村人が通っていたとしても、近世の道はけもの道に近いものであったと考えられます。本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削したもので、これが現在の県道40号線の基礎になったと言われています。
上記塩沢堰を開発したのは六川長三郎勝家という武田家に仕えた元土豪で、六川家は代々、堰を契機に開村した塩沢新田の実質的な支配者でした。六川源左衛門は六川家の出身者もしくは関係者でしょう。現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。
[73283] 2009年 12月 13日(日)11:34:30oki さん
地図をつくろう、など
大変ご無沙汰しています。
ここ一月ほど、久々に業務が繁忙になり、落書き帳は横目で眺めてはいるのですが、書き込むまでの時間が取れませんでした。
今日はいくつかまとめてレスを。

あ、その前に大変遅くなってしまいましたが、落書き帳十周年おめでとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

オフ会は楽しそうですね。特に石島ツアーには関心を持っていたので、[72970] [72971] 石島探検(前・後編) ニジェガロージェッツさん、などは楽しく読ませていただきました。
瀬戸内海の島つながりと言うことで、[73276] 小松原ラガー さん
島買いませんか?って言われても・・・。
みんなで買い取ってオフ会の会場にするとか・・・。あほな・・・。
正確な場所はここです(呉市音戸町渡子2丁目)。細長い、軍艦みたいな形の島ですね。干潮時には南隣の島へ歩いて渡れそうです。オフ会の会場にする場合は野宿でしょうか。飲み会の肴は廻りで泳いでいそうですが。

[73190] 播磨坂 さん
道路と等高線だけの地形図とかってないんでしょうかね?
紙の地図では難しいかもしれませんが、電子地図であれば可能です。
こちらのサイトで、基盤地図情報(精度レベル25000)をWMS(Web Mapping System)で配信しています。
配信情報には行政区画、建物、水涯線、軌道中心線、等高線、道路縁などがありますが、QGISなどWMSに対応したフリーのGISか、グーグルアースを使い、等高線と道路縁だけを表示させれば、まさに「道路と等高線だけの地形図」を見ることが可能です(グーグルアースは見にくいので、QGISの方がお勧めです)。
ただし、2万5千分1地形図レベルなので等高線は10m間隔ですし、都心部は細かい街路が多数通っているので、あまり分かりやすいとは言いかねます。
それであれば、[72797]で播磨坂さん自身が触れられた東京地形地図には等高線のレイヤもあり(もちろんご存じでしょうが)、こちらは2m間隔なので、東京の低地では見やすいでしょう。

そして、これらよりさらに推奨したいのが、自分で地図をつくってしまうこと。
現在、国土地理院の基盤地図情報では、2万5千分1地形図から作成した10m(0.4秒)間隔のDEM(Degital Elevation Model 数値標高データ)を全国レベルで整備し、東京など大都市を中心に航空レーザ測量で得られた5m(0.2秒)間隔のDEMも順次増えています。これらのDEMデータは、自由にDLし、利用することができます。
かつては、DEMからの地図作成には大変高価なGISソフトが必要で、素人には手が出しにくいものでしたが、現在は高性能のフリーGISであるGRASSがWindowsに対応するようになったので、DEMさえ入手すれば、地形を表す地図を誰でも簡単につくれます(先の東京地形地図自体も、陰影段彩図や等高線は5mDEMから作成したものです。GRASSを使ったかどうかは分かりませんが)。
このやり方だと、等高線の間隔も自由に設定できますし、傾斜図とか流域図など色々な地図も作成できます(どのような地図がつくれるかはScreenshotsをご覧下さい)。もちろん印刷もできるので、紙の地図としての利用も可能ですよ。

私は、東京の5mDEMから、赤色立体地図をつくってみました(リンク先は見本で、私が作成したものではありません)。東京の赤色立体地をグーグルアースに貼り付けた上で、東京地形地図の2m等高線を重畳すると、文京区辺りの地形と標高がよ~く分かります。例えば、播磨坂(道路の方です)は標高8m弱の地点で都道436号から分岐、等高線と直交しながら小石川台の斜面を駆け上がり、その尾根線を走る国道254号(春日通り)と標高26m強の当たりで合流しています。標高差は18m強。この間の道のりは約500mなので、平均勾配は36‰以上ということになります。箱根登山鉄道で小田原~強羅間全区間の平均勾配が35‰なので、それと同程度。相当な坂道ですね。

等高線の間隔を1mにすれば、もっと正確な標高差が出せます。挑戦なさいませんか?
[73200] Issie さん
やはり,技術の進歩は素直に評価しなくては。
技術の進歩を評価するだけでなく、自分で活用できればもっと良い、ですよね。
[72780] 2009年 11月 7日(土)04:59:58oki さん
第二十四回十番勝負 悪戦苦闘記
十番勝負は第1回から「見て」いましたが、参戦したのは今回が初めてです。回答しなかったのは、考えても分からなかったから、という単純明瞭な理由ですが、今回はつい問十に答えてしまったのを契機に参入してしまいました。
はっきり言って悪戦苦闘の毎日でしたが、最終的には完答でき、本人としては大満足です。最初の感想なのでやや長くなってしまいましたが、素人が準備もなしに参加するとどうなるか、の事例としてお読み下さい。

問十:徳島市
■幕末10万石以上の藩があった市(十万石格は除く)
今回も参戦するつもりはなかったのですが、何気なく問題を見ていて、これが「分かってしまった」のがすべての始まりです。
お題の市で、行田と柳川には城があり、金沢、岡山、萩は言わずもがな。土浦と明石にもあったはずで、これらが除外される理由は何かと考えました。行田(忍)、土浦、明石は譜代の中小藩、他は外様の大藩なので、藩の規模だろうと見当がつきました(石高談義もあったことですし)。
土浦藩と忍藩を比較し、前者が江戸時代を通じて最高9.5万石、後者が10万石に達していることから、10万石以上が対象と考えました。この時点での先行回答が久留米市(なると金時さん[72264])、高松市(おがちゃんさん[72275])だったこともあり、間違いないと判断。記念すべき最初の回答なので、徳島市を選択したところ、なんと銅メダルを獲得してしまいました。
ただし、この時点では「幕末」ではなく、江戸期を通じて、と考えていました。明石藩を調べなかったのは、大した石高ではないはずという思いこみがあったためで、初期に10万石であったことや、幕末時に10万石格であったことは気が付きませんでした。そこまで調べていたら、条件の絞り込みに手間取ってメダルには手が届かなかったと思います。

ここで、[72283]油天神山 さんから
わあい、okiさんが十番勝負に参加だ♪
という合いの手が入り、何となく引くに引けない、という感じになってしまいました。

問五:笠岡市
■市の花に菊(○○菊も含む)を制定している市
ま、当然のことですが、他の問題はいくらお題の市を睨んでいても何も思い浮かばず。
今回はすべての問題に岡山市が含まれているので、こっちの方から攻めてみようと思い、公式HPやWikimediaで岡山市のプロフィールを調べにかかりました。
市の花が菊というのが目に止まり、菊なら市花にしているところが数十あっても不思議ではないと考え、検索をかけると八戸市、武生市が引っかかってきました。山武市は野菊だったので少し手間取りましたが、お題の全市が菊ということで(菊川市は、調べる必要もないと判断)間違いないだろうと。徳島県や四国にはなさそうなので、岡山県から笠岡市を回答。

問七:旭川市
■中核市に指定された市(過去の指定も含む)
お題に重量級の市が並んでいるので、中核市はすぐに連想しましたが、岡山、静岡が政令市だからという先入観が働いて検討対象から除外。先行回答に守山市、舞鶴市などがあったのも判断に影響しました。
しかし、これら軽量級の市が誤答になっていたため、改めて中核市のリストを確認すると、政令市になった市を含めた数がちょうど46になり、これで間違いないと確信。四国もしくは中国地方の市を答えたかったのですが、残っていなかったので、リストの最初にあった旭川市で回答。

問八:総社市
■東○○駅がある市(○○は市名)
お題を見ていても何も浮かばないので、地図を眺めてみるべいか、と中間市を見ていると、筑豊本線の中間駅と筑豊電気鉄道の東中間駅を発見。瞬間的に松戸ー東松戸、府中ー東府中という連想が働き、非該当市の広島市と東広島市は同一市になければ駄目との条件だろうと考えました。他のお題の市や既出回答も検討した上で間違いないと判断、岡山県から総社市を回答しました。

ノーヒントで分かったのはこの4問。
第一ヒントのアナグラムは問九を除いてすべて解けましたが、まったく参考にできず。第二ヒントが出て次の正答をするまでに何と6日間を要したのでした。

問一:阿南市(誤答)→山陽小野田市
■市役所の住所が1-1-1の市
第一ヒントの「阿見町も該当」は分かったので同町の地図を見ると、最初に目に飛び込んできたのが「阿見町総合運動公園」。ひょっとしてこれかいなとお題の市で調べるとすべてに該当。いくつかの既出市にも当て嵌まったので間違いないだろうと考え、「南部運動公園」のある、わが阿南市から回答するも、見事に誤爆。後で確認すると運動公園はあちこちにあってとても71市では収まり切らない様子。
その後はまったく分からなかったものの、第二ヒントが「一が沢山」と解けた時点で「住所かも」と思いつき、岡山市の市役所所在地を確認したところ「北区大供1丁目1番1号」。お題の市や既出市も検討し、間違いないと判断。四国も岡山県内も残っていなかったので、中国地方から山陽小野田市を回答。

問四:玉野市
■読みの最後の文字を取ると別の市になる市
これも第二ヒントが「最後が不要」と解凍できた時点で共通項が判明。数少ない残り想定解の中から、岡山市に隣接する玉野市を回答(宇野港から直島を眺めていたことも思い出したし)。

問六:長崎市
■市制施行または新設合併後、6回以上編入合併した市(市制施行日の編入は数えない。同日の複数編入は1回と数える)
第一ヒントの「高岡市はリセット」が解けた段階で、市町村変遷情報をチェックして高岡市が最後の合併時に新設合併していることを確認。編入合併のみだということは分かったものの、合併回数の条件が分からず。第二ヒントを「九州も管内」などと解いたおかげでよけい訳が分からなくなってしまう。「何回も吸収」の解が示されて、やはり編入合併と判断し、まず回数条件を満たすだろうと思えた長崎市を回答。

問九:行田市
■「く」ではじまる市に隣接する市(架橋隣接も含む)
第一ヒントは「野田市は大神楽」もしくは「小野市は大神楽だ」、第二ヒントも「名取はきの次」と解いてしまってよく分からず。第二ヒントの解「隣はきの次」が示された時点でやっと気が付きました。
今治市がお題に含まれているので、架橋隣接もありなのだろうとは思いましたが、安全のため行田市で回答(問十でお世話になったことだし)。

問三:大洲市
■「農業高等学校」がある市
これが分かったのは、完全無欠の偶然。
第二ヒントの解「帰農傾向」から、耕地面積の増加した市など農業関係の統計データに当たるも、ことごとく外れ。仕方がないので南国市の地図を見ていて、高知大学があるのを発見。ひょっとして農学部か、と検索するとピンポーン。やったね、府中には農工大があるはずだし、総合大学たる岡山大には農学部もあるだろうと。ところがさすがに朝倉市には大学そのものがなし。
一瞬唸ったものの、農学部でなければ農業高校ということで調べると、これでビンゴ。既出回答から「農業高校」という厳格な表現が求められると判断し、四国の残っている市として大洲市を回答。

問二:鳴門市(誤答)→八王子市
■女子大学(四年制)のキャンパスがある市
お題の中で大村市が異質かな、というのは誰しも考えることだと思います。
公式HP、Wikimedia、地図で大村市を調べまくり、最初に辿りついたのは大村公園が「歴史公園100選」に該当すること。他のすべての該当市にも100選に選ばれた公園があるため、これで良いだろうと考え、ドイツ村公園のある鳴門市で回答するも、誤回答。後で精査したら、歴史公園100選には200以上の公園が選定されており、該当市は少なく見積もっても100を超えるようでした。
あとは、「文京区も該当」「減少傾向」のアナグラムは解けるものの、それがどうした状態。統計関係の問題がないため、おそらくそれだろうと即断し、岡山市が含まれているからには量的な面ではなく比率関係で減少しているデータと考え、各種数値の推移を検討するも、すべて駄目(このために「統計でみる市区町村のすがた2009」をDLし、1枚のシートにまとめた上で02年のデータと比較してみたのですが)。
結局、第三ヒントの「男は行けない」が解けた段階で、「文京区」「減少傾向」との連想でお茶の水「女子大」が浮かびました。とにかく大村市を検証しなければと思って調べたところ、活水女子大学を発見。他のお題市は検証の必要もなしということで、既出市をいくつか見た上で確信。残っていた市の中から八王子市を答え、やっと完答できました。
ところで、活水女子大学看護学部は大村市の国立長崎医療センター内に設置されていますが、09年4月の開設から日が浅いためか、マピオンには記載されているのに対し、グーグルマップ、ヤフーマップには載っていません。今回は地図としてヤフーマップを使っていたため発見できなかったのですが、マピオンならもっと早く回答できたかもしれません。
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このような次第で、今回完答できたのは偶然の連鎖による奇跡に近い、と自分では考えています。最初の回答から完答まで11日を要しており、その間は七転八倒、夢で共通項が浮かんだので検証したら間違いだったということが二回ありました。
それだけに、共通解が見つかると本当に嬉しかったですね。このような、(何の見返りもない)純粋に知的な快感を味わったのは久々のような気がします。今回の問題が過去に比べて難しかったのかどうかは判断がつきませんが、すべての問題に岡山市を入れるという条件から、作成には苦労されたのではないかと思います。楽しませていただき、まことに感謝申し上げます。

次からはどうしようかな~。本気で参入するには過去問を分析した上で「傾向と対策」が必要だろうし、各種のデータベースをすぐ使える状態で整備することも考えなくてはいけない。次回までにはとても間に合わないので、参戦するとしても完答は無理かな、と思っています。あ、地図は次からマピオンを使います。

以上、長々と駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
[72750] 2009年 11月 3日(火)23:38:04oki さん
石島の人口
[72627] hmt さん
「石島」は、8島の中で唯一の有人島で、面積も 2.72km2あります。集落のある島の北部・岡山県側の面積は約3割。人口は2008年3月末で 116人(上記岡山県HP)。[24364]の 149人に比べて減少しています。
国勢調査資料によりこのテの局部人口を調べる方法についての記事があったと記憶しますが失念。ご存知の方があれば教えてください。

岡山オフ会には行けませんが、分かる範囲のことを。

「このテの局部人口」とは、一般に町丁大字(字)別人口と呼ばれるものだと思います。玉野市だけでなく、市のレベルの自治体であれば、少なくとも1年に1回程度は町丁大字別人口を調査し、HPにも掲載しているはずです(平成大合併で新しく市になったところは危ないですが)。
玉野市の場合は、「平成21年度 玉野市の概要」があります。
石島は、江戸時代は対岸胸上村の枝郷の扱いでしたが、現在の玉野市では大字扱いになっているようで、2009年3月末における人口は110人と明記されています(「III 統計資料→2.人口・労働力人口→(17)町別人口」と辿ると、エクセルファイルが立ち上がります)。
「玉野市の概要」で確認できるもっとも古い年次の人口は、01年3月末で143人ですから、8年間で33人、2割以上減少している計算になります。
ただし、これは住民基本台帳上の人口であり(hmtさんが引用された岡山県HPの数字も同じ)、国勢調査の人口とは異なります。

国勢調査で同様の数値を入手できるサイトとして、「地図で見る統計(統計GIS)」があります(「データダウンロード」へ進むと、市区町村別に、町丁大字別人口を「小地域統計」として入手できます)。もちろん、お役所のサイトなので使い勝手は良いとは言いがたく、データそのものにも癖があるので、注意が必要です。
確認したところでは、05年調査時点の石島の人口は112人、00年が129人です。住民基本台帳では上記のように01年に143人ですから、00年の国調と10人以上の差があります。おそらく、住民票を石島に置いたまま他所で就業・就学している人がいるのだろうと思います。この国勢調査と住民基本台帳との差を考慮すると、石島の現住人口は100人を切っているかもしれません。

石島に関しては、この島が岡山・香川両県に属していることもそうですが、石島を含む直島諸島全体が香川県所属であることにも興味を引かれます。最短距離だと宇野港から2000mもない直島本島をはじめとして、玉野市の鼻先にある島々が、(石島の一部を除き)すべて香川県というのは少し不思議な気がします。
歴史的に見ると、鎌倉時代までの直島諸島は備前国児島郡に属していたものの、南北朝期に讃岐守護細川氏(これは管領家ですね)の支配下に入ったため帰属が曖昧になってしまい、江戸時代に讃岐国の所属と決定したようです。石島北部は、全島が讃岐に奪われた直島諸島のごく一部を、備前側に取り戻した地域と考えられるのかもしれません。

なお、「日本歴史地名大系」によると、石島の人口は文化年間(1804~18)に127人だったそうですから、現在の人口はそれを下回っていることになります。
[72661] 2009年 11月 1日(日)09:12:35oki さん
第二十四回十番勝負回答
問二:八王子市
やっと完答できました。

あ~大変だった。
[72609] 2009年 10月 31日(土)03:13:43oki さん
第二十四回十番勝負
問三:大洲市
分かったのは偶然。
お題である南国市を見ていたら、1ランク上のが目に止まり、検証した結果こちらと判明。
厳格な表現が求められるようなので、四国の残っているところから。

ここまで来たら完答したいと思っていますが、問二が・・・・
とりあえず、寝ます。
[72604] 2009年 10月 31日(土)01:45:00oki さん
第二十四回十番勝負
やっと分かりました。
問九:行田市
「ぐ」だから「き」だとは思ったのですが、「名取はきの次」と解いてしまい、なんのこっちゃ状態でした。
これで残り2問、だと思いますが。
[72602] 2009年 10月 31日(土)00:55:29oki さん
第二十四回十番勝負
「九州も管内」というボケたアナグラム解のため、明後日の方向をさまよっていました。
本当なら高岡リセットの時点で分かっていたはずなのに。
問六:長崎市
[72575] 2009年 10月 30日(金)16:13:38oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
売り切れ寸前なので、続けて回答。
問四:玉野市
[72574] 2009年 10月 30日(金)15:38:25oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
第二ヒントでやっと分かった。
問一:山陽小野田市
[72442] 2009年 10月 26日(月)08:43:20oki さん
第二十四回 十番勝負
アナグラムはすべて解けた、と思います。
想定数は確認していませんが、この市で答えたいので。
問一:阿南市
これでやっと5問。
先は長いか・・・
[72399] 2009年 10月 24日(土)22:18:11oki さん
第二十四回十番勝負
やっと4問目。
問八:総社市
[72388] 2009年 10月 24日(土)11:27:26oki さん
第二十四回十番勝負
想定解数が合っているので、これで良いと思います。
そう考えれば良かったのですか。
問七:旭川市
[72292] 2009年 10月 22日(木)01:43:11oki さん
第二十四回十番勝負
問二:鳴門市
想定解数の検証はしていないのですが、条件は満たしているので、とりあえず回答しておきます。自信はありません。
[72284] 2009年 10月 22日(木)00:33:32oki さん
全国の市十番勝負(第二十四回)の解答
う~ん。考えると分かるものなのですね。
問五:笠岡市
[72277] 2009年 10月 21日(水)23:54:55oki さん
第二十四回十番勝負
初めて、自力で分かったような気がするのですが。
これで良いのかどうか。
問十:徳島市
[72066] 2009年 9月 25日(金)17:21:06oki さん
石高変遷
[72052]で、ニジェガロージェッツ さん が平成19(2007)年の石高を掲載されていたので、ふと思い立って、幕末時から現在までの石高の変遷を都道府県別に計算してみました。

(単位は万石・%)
県名幕末石高07年石高(米)07年/幕末増減率
青森県40.7199.4389.9
岩手県47.6206.3333.4
宮城県77.2272252.3
秋田県50.7366.3622.5
山形県102.1279.7173.9
福島県125.8296.8135.9
茨城県114.5269.3135.2
栃木県76.5240.5214.4
群馬県63.660.0-5.7
埼玉県89.3116.830.8
千葉県96.2219.1127.8
東京都29.70.5-98.3
神奈川県39.010.7-72.6
新潟県128.3433.7238.0
富山県80.7141.074.7
石川県75.891.320.4
福井県77.293.921.6
山梨県31.119.9-36.0
長野県78.6149.690.3
岐阜県71.279.812.1
静岡県70.762.1-12.2
愛知県124.1106.7-14.0
三重県84.3104.223.6
滋賀県85.9117.136.3
京都府57.654.5-5.4
大阪府71.520.5-71.3
兵庫県122.8129.35.3
奈良県49.633.1-33.3
和歌山県40.824.9-39.0
鳥取県43.844.72.1
島根県48.664.232.1
岡山県80.8116.143.7
広島県62.892.447.1
山口県100.377.5-22.7
徳島県30.744.344.3
香川県29.349.468.6
愛媛県43.452.521.0
高知県49.441.4-16.2
福岡県140.9129.3-8.2
佐賀県44.994.4110.2
長崎県27.545.966.9
熊本県85.1140.264.7
大分県58.585.145.5
宮崎県39.152.133.2
鹿児島県60.877.126.8
上記計3151.15405.671.5
東北・新潟572.52054.2258.8
その他2578.63351.430.0
(※幕末の石高は、歴博の「旧高旧領取調帳データベース」を元に算定。北海道、沖縄は表に含めていない)

ニジェガロージェッツさんご提供の07年石高は水稲だけの収穫量ですが、幕末のデータは水田のほか畑作の石高等も含まれているので、本来であれば直接比較が不可能な数値です。したがって、あくまでもお遊びのデータということでご理解下さい。
お遊びのデータであることを前提として、あえて分析を加えれば、東北各県および新潟での石高の大きな増加が注目されます。幕末(1870年頃)から2007年までおよそ140年の間に、全国の石高は7割増加していますが、そのうち東北・新潟が約260%増(3.6倍)に対し、他の地域は3割増に過ぎません。明治以降、東北や新潟でいかに米の増産が図られたかを物語っています(もちろん北海道も)。
そういえば、思い浮かぶ米の品種も、ササニシキ、コシヒカリ、あきたこまち、そしてキララ397など、「北」のものばかりですし。西南日本から栽培の広がった米が、いつの間にか北日本を主産地にするようになっていたことを、改めて実感した次第。
ところで皆さんは、普段どの地域の米を食べられてますか。私はもっぱら、妻の実家から送ってもらっている阿波米ですが。
[72024] 2009年 9月 21日(月)16:49:18oki さん
「阿土」か「阿佐」か
[72022] 88 さん
ですから、土佐の「佐」が土佐を代弁すると言うのは本来ありえません。「佐」は佐渡を示します。
阿佐海岸鉄道は、この歴史を踏まえていない名称のつけ方です。

歴史的に見れば88さんのご意見が正しいです。江戸時代、吉野川の高知藩領部分を「阿土」川とも称していたようですし。
一方、「四国循環鉄道阿土海岸線敷設促進に関する陳情書」と言うのが、少なくとも第16国会(1953年)、22回国会(1955年)に徳島県議会から出されており、「阿佐海岸」鉄道はもともと「阿土海岸」線と考えられていたようです。したがって、
[72023] Issie さん
既存の(とは言っても全然一般的ではない)「阿土」と差別化するためにあえてそうしたのか,それとも何も考えていないのか。
に関しては、敢えてそうしたのだろう、と考えられます。
なぜ「阿土」を「阿佐」に変えたのかはよく分かりませんが、この鉄道(の計画線)が室戸岬を境に東線・西線に分かれていたため、発音しにくい「阿土東線(あととうせん)」を避けて「阿佐東線(あさとうせん)」を選んだのかもしれません。

ただし、「阿土」、「阿佐」のどちらも、元徳島県民の私にとってさえ馴染みの薄い表現です。山脈内部に縦貫道路が何本も走っていて伝統的に往来の繁かった阿讃国境に対し、阿波・土佐両国の関係が非常に薄かったことが反映されているのでしょう(阿土山地は初めて目にしました)。

「備」は、備前・備中・備後のどれかに当てはめるよりは、この3国に分かれる以前の「吉備」と考えた方が自然ではないでしょうか。
そうなのかもしれませんが、現代の感覚では、「両備」というと岡山県内の備前・備中の意味で、広島県に属する備後とは少し距離があるのでは、と感じられるのですが。
また、美作は吉備が3国に分かれた後、さらに備前から分かれた国ですから、この考えに立つと「備作」という表現は成り立たない、ということにならないですか。
[72021] 2009年 9月 21日(月)13:03:20oki さん
Re:旧国名の組み合わせ地名・名称
[72010] オーナー グリグリ さん

あまり知られていなさそうなのを。

阿淡(阿波・淡路)・・・阿淡交通社
藩政期はともに蜂須賀氏の領国だったので頻用され、かつては阿淡汽船という定期航路もありましたが、今はあまり聞きません。

越佐(越後・佐渡)・・・越佐人物誌(書名)
これもあまり一般的ではない様子。

備作(備前/備中・美作)・・・備作山地県立自然公園
ほかに、県立備作高校、吉井川に架かる備作大橋というのもあります。自然公園は備中、高校・大橋は備前だと思います。

雲伯(出雲・伯耆)・・・雲伯方言
雲伯方言というのは、「砂の器」のあれですね。

「国」が現役であった江戸時代以前は、隣接(近接)する国同士であらゆる組合せの表現がなされたと思いますが、現役の地理名称でなくなってから1世紀が経つ現在、一般的に使用される組合せは限定されていると思います。上のようなグレーゾーンの組合せについて、どこまでを採用するかが問題になってくると思いますが。

ところで、以下は反則でしょうか?
両毛 両総 両丹 両備 両筑
[71997] 2009年 9月 19日(土)20:49:39oki さん
古代郷と昭和自治体 その2
[71947] 今川焼 さん
古代郷と昭和自治体 追加します

大量に追加いただき、誠に有難うございます。
私が確認したのが61件、今川焼さんのが66件。うーん、これほどまで見逃しが多かったとは。昭和合併期の自治体名を知らないことを自ら暴露したようなものですね。

このままでは申し訳ないので、私のと今川焼さんのと合計125件についての簡略な集計結果を以下に示します(125件の表はお目汚しなので省略。もしもお入り用の方がいらっしゃればメールでお送りします)。

  件数構成比(%)
合計125100.0
--------------
畿内97.2
東海道1814.4
東山道1713.6
北陸道21.6
山陰道2217.6
山陽道1814.4
南海道1814.4
西海道2116.8
--------------
東北43.2
関東129.6
中部1814.4
近畿2822.4
中国2620.8
四国1612.8
九州2116.8
--------------
2419.2
32.4
8971.2
97.2
--------------
存続5040
消滅7560
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
志木の場合は、本来新羅郡志楽郷で遺称地は現在の和光市白子地域、志木市は明治以降に「僭称」したものと判断しています【この種の考証をはじめると切りがないのですけどね】)

五畿七道で見ると分かりにくいのですが、現在の地方区分で見ると、近畿以西に偏っているのが明らかです。東国の場合、現在の比定地すら明らかでない古代郷が少なくありませんから、当然といえば当然の結果。
都道府県別で見ると、兵庫県12、島根県10、岡山県9がベスト3、旧国別では讃岐、出雲、土佐の3国が6郷ずつで同率首位です。
島根・出雲が非常に多いのが注目されるところ。四国、九州の多さが結構意外で、逆に北陸は予想より少ないですね。
町が7割を占めるのは、前にも触れたように、町が郷と同じように郡の一段下のレベルに位置する存在だからでしょうね。当然ながら、その半数以上が平成の大合併で消滅しています。
[71892] 2009年 9月 7日(月)03:38:15oki さん
古代郷と昭和自治体
[71891]で、富来について以下のように書いたので、このような事例がどのくらいあるのか、検証してみました。
国名や郡名であれば、古代の地名が残っていくのは珍しくもありませんが、郷名レベルの地名が、1000年以上にわたって常に使われ続け、昭和合併期の自治体名としても残存したのは、全国的に見ても珍しい例ではないかと思います(どのくらい珍しいかは、後で検証します)。

下表で道~郷は「和名類聚抄」に記載されている地名であり、郷名は9世紀初頭のものです。都道府県・市区町村は平成大合併前のもので、現在も存続する自治体名は「○」、合併で消えた名称には「×」を付しています。
古代の郷名が昭和合併期の自治体名として存続していると考えられる事例を取り上げていますが、富来のように古代~中世~近世~近現代を通じて現役地名だったとは限りません(そこまで検証していない)。また、郷名が国名・郡名と一致するものは除外しています。
和名類聚抄の底本は京大が所蔵する本居宣長旧蔵本ですが、ざっと見ただけなので、取り残しがまだあると思います(富来のように途中で地名が変わったものもあるはずです)。また誤解もあると考えますので、ご指摘いただければ幸いです。

No都道府県市区町村現存
1東山道陸奥宮城多賀宮城県多賀城市
2東山道出羽飽海遊佐山形県飽海郡遊佐町
3東海道常陸久慈大田茨城県常陸太田市
4東海道常陸行方麻生茨城県行方郡麻生町×
5東海道常陸行方板来茨城県行方郡潮来町×
6東山道下野都賀小山栃木県小山市
7東山道下野河内三川栃木県河内郡上三川町
8東山道下野芳賀氏家栃木県塩谷郡氏家町×
9東山道上野利根渭田群馬県沼田市
10東海道安房安房白浜千葉県安房郡白浜町×
11東海道武蔵多磨狛江東京都狛江市
12東海道相模高座寒川神奈川県高座郡寒川町
13北陸道能登羽咋荒木石川県羽咋郡富来町×
14東海道甲斐山梨石禾山梨県東八代郡石和町×
15東海道甲斐巨麻市川山梨県西八代郡市川大門町×
16東山道信濃更級麻績長野県東筑摩郡麻績村
17東山道美濃本巣穂積岐阜県本巣郡穂積町×
18東海道遠江敷智浜津静岡県浜松市
19東海道駿河廬原蒲原静岡県庵原郡蒲原町×
20東海道遠江蓁原相良静岡県榛原郡相良町×
21東海道参河碧海智立愛知県知立市
22東山道近江犬上甲良滋賀県犬上郡甲良町
23山陰道丹後与謝宮津京都府宮津市
24畿内山城綴喜田原京都府綴喜郡宇治田原町
25山陰道丹波天田夜久京都府天田郡夜久野町×
26畿内摂津八部長田兵庫県神戸市長田区
27山陽道播磨明石垂水兵庫県神戸市垂水区
28山陽道播磨美嚢吉川兵庫県美嚢郡吉川町×
29山陽道播磨多可加美兵庫県多可郡加美町×
30山陽道播磨多可黒田兵庫県多可郡黒田庄町×
31山陰道但馬美含竹野兵庫県城崎郡竹野町×
32山陰道但馬美含香住兵庫県城崎郡香住町×
33畿内大和城下三宅奈良県磯城郡三宅町
34畿内大和葛下當麻奈良県北葛城郡當麻町×
35南海道紀伊日高南部和歌山県日高郡南部町×
36山陰道因幡八上若桜鳥取県八頭郡若桜町
37山陰道石見美濃益田島根県益田市
38山陰道出雲能義安来島根県安来市
39山陰道出雲飯石三屋島根県飯石郡三刀屋町×
40山陰道石見邇摩湯泉島根県邇摩郡温泉津町×
41山陽道備中哲多新見岡山県新見市
42山陽道備中下道成羽岡山県川上郡成羽町×
43南海道阿波麻殖川島徳島県麻植郡川島町×
44南海道讃岐山田高松香川県高松市
45南海道讃岐三野詫間香川県三豊郡詫間町×
46南海道伊予宇和三間愛媛県北宇和郡三間町×
47南海道土佐安藝奈半高知県安芸郡奈半利町
48西海道豊前田河香春福岡県田川郡香春町
49西海道豊前京都刈田福岡県京都郡苅田町
50西海道肥前養父鳥栖佐賀県鳥栖市
51西海道肥前彼杵大村長崎県大村市
52西海道肥前松浦値嘉長崎県北松浦郡小値賀町
53西海道肥後球麻人吉熊本県人吉市
54西海道肥後葦北水俣熊本県水俣市
55西海道肥後飽田殖木熊本県鹿本郡植木町
56西海道豊後速見由布大分県大分郡湯布院町×
57西海道豊後大野緒方大分県大野郡緒方町×
58西海道大隅姶羅鹿屋鹿児島県鹿屋市
59西海道薩摩頴娃開聞鹿児島県揖宿郡開聞町×
60西海道日向諸県財部鹿児島県曽於郡財部町×
61西海道大隅姶羅串占鹿児島県肝属郡串良町×

全部で61件です。これが多いか少ないかは議論の余地がありますが、和名抄所載の郷名、昭和合併期の市町村数はともに3000を超えるので、その2%弱と言うことになります。統計学的には、5%水準で有意、つまり十分に珍しい事例と結論づけることが可能でしょう(有意性検定にあまり意味があるとは思いませんが)。
属性別に区分すると、市が17、区2、町41、村1です。町が圧倒的に多いですが、市レベルの地名は郡・国名を流用することが多かったからだろうと思います。
逆に言うと、昭和の大合併は、近世に7万以上あった「村」を古代の「郷」レベルに整理して3000強の自治体をつくったと考えられるかもしれません。

平成の大合併は、さらに郡レベル(全国で500~600)を目指し、最終的には「道」レベル、つまり道州制を志向するものなのでしょうか。
[71891] 2009年 9月 7日(月)02:40:34oki さん
富来の冠称に関する考察
今回の富来に関する議論の根源は、千本桜さんの次のような問題意識にあります。

[70836] 千本桜さん
富来地区、西海地区については、大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。
自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。
そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。

そもそもの発端は、EMM さんの
[70743] EMM さん
旧富来町のうちで「富来○○」となっているところがあり、そうなっている字名は「旧・旧富来町」だったところのみ。
しかもそれだけでなく、旧西海村だったところが合併に際してすべて「西海○○」になってます。・・・・・・・
千本桜さん的には特に「富来町○○」→「志賀町西海○○」は「きわめて喜ばしい事例」かも?
という書き込みですが、この記述自体、大河原町などでの「地名浸食」に対する千本桜さんの考えを理解しているからこそ、出てきたものだと思います。

以上の経緯と、これまで略述してきた富来の歴史を踏まえた上で、志賀町「富来」・「西海」という冠称についての私の「解釈」を以下に述べておきます。

千本桜さんは富来、西海について、昭和29年まで(明治合併期)の村名と見ておられるようで、これは現象的にはその通りですが、実際にはさらに深い意味があるだろうと思います。

まず「富来」に関してですが、この地名は、富木院の誕生からは約1000年、前身である荒木郷を含めれば1200年以上の歴史を持っています。古代・中世・近世を通じ、常に現役の地名であり続け、明治合併期に村名になり、昭和合併後も町名として生き残りました。
国名や郡名であれば、古代の地名が残っていくのは珍しくもありませんが、郷名レベルの地名が、1000年以上にわたって常に使われ続け、昭和合併期の自治体名としても残存したのは、全国的に見ても珍しい例ではないかと思います(どのくらい珍しいかは、後で検証します)。
したがって、志賀町との合併に伴って「富来」の地名が消失することは、この地名の歴史を知る地元の人たちにとって、耐え難い事態であったと想像されます。では、富来の地名を残すにはどうすればよいか。
「地頭町」だけを「志賀町富来」に変更することはできないでしょう(領家町が黙っていないし、地頭町の名前が消えることにも猛反対が起こるはず)。また、「地頭町」、「領家町」、「高田」を合併した上で「富来」を名乗ることもできない(それが可能であれば、とっくの昔、富来宿の存在した江戸時代にそうしたはずです)。つまり、ピンポイント地名としての「志賀町富来」をつくるのは無理だと言うことです。
であれば、冠称形式を選択せざるを得ません。歴史的ないきさつを勘案すれば、かつての富来院の地域に「富来」を冠称することも考えられますが、(昭和)富来町でありながら富来院ではなかった熊野地区の存在から、それは難しいでしょう。逆に、近世の富来宿であった「地頭町」、「領家町」、「高田」だけに「富来」をかぶせることもあり得ますが、八朔祭りに富来地区として参加している七海、生神、牛下を除外するのも妙な話です。
以上のように、近世以前と近代以降のさまざまな経緯が複合した結果、志賀町との合併に伴って「富来」の冠称を付す対象は、(明治)富来村の範囲にならざるを得ないだろうと、私は思います。

一方の西海ですが、おそらく、[70771] EMM さん にあるように、志賀原発の建設に際して最後まで強硬に反対した旧・西海漁協の影響が大きかったと思います。西海漁協の沿革を示すと次のようになります。

1912年(明治45)風戸、風無、千浦の各浦に漁業組合設立
1921年(大正10)3組合を統合して西海漁業組合設立
1949年(昭和24)西海漁業協同組合に改組
1954年(昭和24)富来町(昭和)誕生
1967年~1983年(昭和42~58)能登原発への反対運動
1993年(平成5)志賀原発1号機運転開始
2000年(平成12)石川とぎ漁協発足(西浦漁協との合併による改称)
2005年(平成17)富来町が志賀町に合併
2006年(平成18)石川県漁業協同組合とぎ支所発足
2007年(平成19)とぎ支所から西海支所に改称

注目されるのは二点です。一つは、西海漁協が「富来」に対するロイヤリティーをまったく持っていないであろうこと、もう一点は、EMM さんも言及された志賀原発との関係です。
まず「富来」との関係では、(昭和)富来町が誕生したのは1954年ですが、富来漁港を抱える西海漁協が「とぎ漁協」に改称したのは半世紀近くが経過した2000年で、しかも07年には「西海支所」に戻してしまっています。西海支所への復帰を報じる北国新聞の記事にあるように、水産物のブランドとして「富来」は無意味であり、「西海」を維持した方が有利と考えたのだと思います。
志賀原発との関係では、西海漁協は、原発建設に対して周辺漁協の中で最後まで組織的な抵抗を続けたようです。原発に対する賛否はひとまず置くとして、漁民にとって、原発事故に伴う風評被害はもっとも警戒すべき事象でしょう。原発の放射能漏れは真っ先に周辺の海を汚染し、その程度にかかわらず、周辺水産物の売行きに悪影響を及ぼすはずです。
西海地区の漁民にとって、原発の名称を「能登」から「志賀」へ封じ込めたにもかかわらず、合併によって「志賀」の地名を名乗るようになったのは誤算だったろうと思います。西海漁民にとって、富来は無視すれば良い存在ですが、志賀は積極的に消し去りたい地名のはずです。それができないので、せめて「西海」を冠称する。そうすれば、北国新聞の写真にもあるように、志賀を表面に出さずに、「西海」ブランドを押し出すことができます。「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、「西海」は現実的なブランド構築と風評被害の回避が大きな目的であったのではないか、と私は考えます。

根拠の乏しい推測が多すぎると思われるかもしれませんが、「富来」「西海」の2地区だけに冠称が付された原因は以上のようなことではないか、と考えています。少なくとも、この2地区の冠称について、明治合併村を基準にしたフォーマットから見て不揃いだから統一すべき、などと外部の人間が簡単に言うべきことではないと思います。
あまりにも当たり前の結論、と思われるかもしれませんが、「富来」に関する私の解釈は以上で終わりです。異論・反論・反証・論駁を期待したいところです。

最後に、千本桜さんにお伝えしたいこと。
千本桜さんの地名に対する愛着は十分に分かっていますし、「地名浸食」に対する憤りにも共感します。しかし、今回の件に関し、千本桜さんが事例として挙げたのはすべて東北地方のものです。対してEMMさんは、[70838]
能登の大字は基本的に1集落1大字、大字の単位=集落=祭礼の範囲…「八朔祭りの中心で、富来を叫べ」
と仰っています。東北の村の多くは1集落1大字ではないので、千本桜さんがあげた事例は、「富来宿」の存在を実証するためには無意味なのです。それが、EMMさんを苛立たせた大きな理由だろうと思います(もう一つは私が途中で割り込んだことでしょうが)。
以降で、東北(東国)の近世村と能登を含む西国(畿内近国)の近世村との相違について考察するつもりです。以前千本桜さんは、東北地方で、近世村の名称とその中に設置された宿駅の名称が違うことについて疑問を呈されていたと思いますが、その点に関しても検討するつもりですので、議論に参加いただければと思います。
[71851] 2009年 9月 3日(木)01:20:51oki さん
コンビニの出店・閉店数
[71845] みかちゅう さん
本当は、チェーンごとにこの1年で「新規オープンした店舗」と「撤退に追い込まれた店舗」の数を知りたいですね。新規オープンすら公式ホームページでは宣伝していないし、閉店なんて絶対に知らせたくないので、地道に調べるしかないですね…。

この種のデータは、各社のIR情報のページに掲載されています。当該企業に投資しようと考える場合、出店数・閉店数というのは重要な業績指標ですからね。
で、上位3社のデータから出店と閉店数の経年変化を整理したのが以下の表です。

  2004年2005年2006年2007年2008年2009年
セブンイレブン店舗数103031082611310117351203412298
 出店904891832816874 
 閉店381407407517610 
 純増523484425299264 
ローソン店舗数782180778366856485878674
 出店711717700452501 
 閉店455428502429414 
 純増2562891982387 
ファミリーマート店舗数599462846501669168917091
 出店606586520542550 
 閉店316369330342350 
 純増290217190200200 
【※店舗数は各年2月末、出店・閉店数は3~2月の1年間の数値
  ファミリーマートの店舗数は宮崎・鹿児島・沖縄・北海道を含まない
  資料出典はここ→セブンイレブン(P1)ローソン(P36)ファミリーマート(P3)

ここに見るように、上位3社とも毎年数百店の出店をしていますが、同時に少なくない数の閉店店舗があります。いわゆる「スクラップアンドビルド」を積極的に進めているわけです。
特にセブンイレブンはこのところ閉店が急増しており、それに伴って店舗数の純増が大きく減っています。逆にローソンは、閉店数はあまり変わらないものの、出店が減っているために同じく純増が急減という状況です。
コンビニ業界は、店舗数が飽和状態に達しているとの見方もあり、他社との競合だけでなく、自社店舗間の競合すら辞さないという地域も出てきています。
同業者を撤退に追い込み着々と自社の店舗数を増やしているのはどこのチェーンでしょう
どころではなく、業績の悪い店はどんどん潰し、売上と利益の見込める新店を血眼になって捜しているのが実態と言えるでしょう。


[71819] 今川焼 さん
[71738] YT さん
富来に関する情報提供、有り難うございます。さて、富来のまとめを書かなければ。
[71777] 2009年 8月 24日(月)01:43:31oki さん
富来の明治合併村と祭り
富来の明治合併村と祭り

また書き込みの間が開いてしまい、はるか昔(8/11)のことになりますが、まず御礼を。

[71594] [71596] なると金時 さん
新幹線が今止まってますよ。
運転再開したそうです。
情報提供有り難うございました。
現在、我が家ではテレビが映らない状態のため、この情報がなければ、東京駅へ行ってから右往左往するところでした。前日の地震に比べて揺れが小さかったため、新幹線が止まるなど想定外だったもので。
結局のところは、新幹線が2時間半遅れたため、予約していた高速バスには乗れなかったのですが、何とかその日のうちに帰郷することができました。感謝いたします。

さて、富来についてですが、[71678] でEMM さん から教えていただいた周辺の祭り情報と、近世村、近世郷庄、明治合併村の関係を以下のようにまとめてみました。

明治村近世村郷庄役場
富来村地頭町富木院八朔祭り
富来村領家町富木院八朔祭り
富来村高田富木院八朔祭り
富来村七海富木院八朔祭り
富来村生神熊野方郷八朔祭り
富来村牛下熊野方郷八朔祭り
東増穂村相神富木院八朔祭り
東増穂村八幡富木院八朔祭り
東増穂村里本江富木院八朔祭り
東増穂村給分富木院八朔祭り
東増穂村八幡座主富木院
東増穂村中泉富木院
東増穂村相坂富木院
東増穂村草江富木院
東増穂村大鳥居富木院
東増穂村中浜富木院中浜祭り
西増穂村酒見富木院酒見大祭
西増穂村稲敷富木院稲敷祭り
西増穂村栢木富木院栢木祭り
西増穂村大福寺富木院大福寺祭り
西海村風無藤掛郷西海祭り
西海村風戸藤掛郷西海祭り
西海村千浦藤掛郷西海祭り
西浦村鹿頭藤掛郷鹿頭祭り
西浦村赤崎藤掛郷赤崎祭り
西浦村前浜藤掛郷前浜神社
西浦村小窪藤掛郷
西浦村篠波藤掛郷
西浦村深谷藤掛郷
(※「-」は不明、「○」は明治合併村の町役場所在地です)

これから見ると、明治の富来村に合流した6村は、すべて八朔祭りに参加しています。東増穂村の村々も、多くが八朔祭りにキリコを出しているようです(祭りの状況が不明な村のうち八幡座主村はもともと八幡神社の神田で、中泉村、相坂村は神戸だったそうです)。
逆に西増穂村は、すべて八朔祭りとは別に個々の近世村単位で祭りを行なっていると考えられます。
一方、西海村に合流した3村(久喜は千浦の枝村だったと考えられます)は西海祭りをともに開催しているようですが、西浦村は西増穂村と同様、各村が個別に祭りを行なっていると見られます。

このような近世村(現在の大字)と祭りとの関係が、明治合併期以降に生じたか、それ以前からの慣行だったかは即断できません(富来地区とそれ以外で八朔祭りの開催日時が違っていた時期もあるようですし)。しかし、祭りの主体となる各神社は明治以前の創建でしょうから、江戸時代には神社(=祭り)と近世村(大字)との基本的な関係ができていた、と考えてもいいのではないかと思います。
同じ神社の祭りを共催する近世村は、日常生活の面でも密接な関係を持っていたと考えられます。その意味からすれば、この地域の明治合併村は、祭りの共催関係に象徴される相互間の関係の深さをもとに、合併の単位を決めていったと見ることができます。
ここで、富来院のうち八朔祭りに参加する村々が富来村と東増穂村に分かれたのは、前者が地頭町村などの町場、後者が農漁村だったからでしょう。熊野方郷に属していた生神、牛下両村が(明治)富来村に属したのは、外浦街道や渡海船などを通じて「富木宿」と密接な関係を持っていたためだと考えるのですが、両村が八朔祭りに参加していることからして、江戸時代にはすでに富来八幡の氏子であったのだと思います。
西増穂村になった4村は、ひょっとすると中世の酒見村の系譜を伝えるものかもしれません。
西海村と西浦村に関しては、歴史地名体系の千浦村の項に「風戸村から前浜村にいたる村々では刺網鯖漁が行われ、西海刺鯖として金沢表へ運ばれた(能登志徴)」とあるので、江戸時代にはかつての藤掛村全域が「西海」と呼ばれていたようです。位置関係から見て、西浦というのは西海のうちの西浦を意味するのではないかと思われます。また、西海村になった3村は現在西海祭りを共催していますが、風戸の松ヶ下神社、風無の西海神社、千浦の渡会社は、江戸時代にはすべて神明宮で、明治以降に改称しています。もともとは一つの神社で、集落の拡大分化とともに分祀されたのかもしれません(神明社は伊勢内宮の末社ですから、前に触れた富来御厨との関係も考えられますが、これだけでは何とも言えません)。

かなり時間がかかりましたが、私が分かる範囲での、「富来」の歴史を、古代~明治合併期にわたってまとめてみました。次回は、以上を踏まえた上で、[70743] でEMMさんが、[70753] で千本桜 さんが提起された、「富来」、「西海」の冠称に対する私の解釈を書き込みたいと思います。
また、お二人の間の行き違いについて、その背景として近世村の在り方に関する東国と西国の相違があるのではないか、との仮説を立てているので、引き続きその点についても投稿したいと考えています。

現在青森市におり、初めて自宅以外から書き込みしています。1週間ほど滞在する予定ですので、時間が取れれば三内丸山遺跡を見ておきたいと思っているところです。
[71593] 2009年 8月 11日(火)07:28:19oki さん
地頭町・領家町の歴史概(妄)説
前回から間が開きましたが、「広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係」について。
これを考えるためには、地頭町・領家町の歴史について押さえておく必要があると思います。

まず、地頭町・領家町という名称が、「下地中分」に由来することは間違いないと思います。(下地中分について、ここで詳しく説明する必要はないと思いますが、事例としては、有名な伯耆国東郷荘に関する説明を御覧下さい~歴史→中世→鎌倉・南北朝時代→東郷荘と辿っていくと下地中分についての記述が出てきます)。
富木地域での下地中分の実態を示す文書は発見されておらず、中分の対象となった荘園が富木院だったのかどうか、当事者である地頭(武士)や領家(公家・寺社)が誰だったか、時期はいつか、などについては一切不明です。
ただ、下地中分が盛んに行なわれたのは鎌倉中期(13世紀中葉)から南北朝末期(14世紀末)とされているので、この地でもその頃に実施されたのでしょう。また、建治年間(1275~77)以降、富来を名字とする武士が現われますから、その一族が地頭の任にあったのかもしれません。
いずれにせよ、下地中分に基づくものとすれば、地頭町・領家町はペアをなす地名と考えることができます。

次に各町についてですが、史料上、先に現われるのは領家町で、天正5年(1577)に「とき村領家町」とあるのが初出です。もちろん、文献に初めて現われたのがこの時だというだけで、もっと前から領家町が存在したことは確実でしょう。
地頭町はやや遅れ、慶長九年(1604)の史料に「富木之院地頭町」とあるのが初出のようです。が、こちらも、上記の事情から領家町と同様の16世紀後半、もしくはそれ以前から存在したのは間違いないでしょう。

ここで注目されるのは、史料初出時の戦国時代から、両者とも「町」と呼ばれていること。農業集落が町と呼ばれることはないでしょうから、地頭町、領家町とも、遅くとも16世紀後半の時点で、人家が密集するとともに、定期的な市が立つなど交易機能を持った場所であったと思います。江戸時代の初め、この地に外浦街道の宿駅が置かれたのも、もともとそこが交通の結節点であり、それを背景とした商業機能を有していたからだろう、と考えます。

また、もう一つ気になるのが、高田村に属する地域に、「高田遺跡」と呼ばれる弥生中期から室町期におよぶ複合遺跡が存在すること。弥生時代の土坑墓、古墳時代の祭祀遺構、奈良時代前期の鍛冶に関連する工房跡、平安時代に属する竪穴住居跡などが検出され、さらには鎌倉・室町時代の遺物として中国製陶磁器類や銅銭が発掘されたそうです。具体的な場所は統合前の富来小学校の敷地(富来高田2-41)で、富来川左岸に位置し、現在の地頭町・高田市街地の北側に隣接しています。

で、以下は推測です。
古代~中世のこの地域に、荒城郷、富木院などと呼ばれ、一定のまとまりを持った領域が存在したことは間違いありません。高田遺跡は、この領域の中心的な集落であったのではないか、そして、富来川の沖積平野が拡大するとともに、中心地がより下流部の地頭町、領家町に移っていったのではないか、と思うのです。
荒城郷=富木院の範囲が、西方海岸部の藤掛村、酒見川流域~富来川下流の富木七ヶ(富木村)、富来川上流の稗造庄、その東方に位置する鉈打村から成っていたとすれば、その中心となる場所は富来川河口部以外にありません。酒見川流域とは近く、富来川の流域は直接的な影響下に置ける。鉈打村とも、富来川支流の広地川の谷から盤谷峠を介した連絡が確保されている。河口部なので水運の拠点ともなる。これだけの条件を備えた場所が、地域の中心にならない方がおかしい。
さらに想像を逞しくすれば、荒木の遺称地が地頭町の南側にあることから考えて、荒木とは高田遺跡のことであり、荒木郷荒木里とでも呼ぶべき地であったのではないか。

何を言いたいかというと、荒木郷荒木里が富木院富木となり、それが地頭町・領家町に引き継がれた、つまり、江戸時代に富木宿(あえてこう言っておきます)が成立する以前から、富来川河口部の町場は「富木」と呼ばれていたのではないか、ということです。しかし、下地中分の区分線が富来川に引かれたため、富木院富木のうち川の左岸は地頭町と名乗り、右岸は領家町となった。地頭方、領家方の勢力がこの地域から消えた後も、両者間の対立意識は尾を引き、地頭町、領家町が一体となった富木町を名乗ることはついになく、外からは富木と呼ばれながら、内部では地頭町、領家町の区分が残った、このように想像するわけです。

もちろん、以上は史料的な裏付けがまったくない、単なる想像です。しかし、このように考えれば、江戸時代を通じて、一方では一体的な町場としての富木であり、他方では地頭町村、領家町村という別の村であった、という両者の関係がうまく説明できるような気がするのですが、いかがなものでしょうか。忌憚のないご批判を頂きたいと思っているところです。


今日から帰省するのですが、田舎でネットに繋げるかどうか分からないので、1週間くらい、追加の書き込みができないかもしれません。その間、富来の冠称について考えを巡らせたいと思います。

(追記)
書き込もうと思ったら、[71592] Issie さんの地震の記事を目にしました。これから新幹線で東海道を下り、高速バスで淡路を通って徳島まで帰省する予定なのですが、台風は来ているし、2日続けて東海地方を震源とする地震はあるし、無事に帰り着けるんやろか。
[71458] 2009年 8月 7日(金)01:18:21oki さん
富木(富来)の歴史概説
古代から戦国時代に至る、「富木」の歴史を概説しておきます。本来、EMMさんが原稿を用意されている部分だとも思いますが、とりあえず、調べたこととそれに基づく私の考えを書いておきますので、間違いがあればご指摘下さい。

「富木」に関する名称変化を時代順に一括すると次の通り。
奈良時代:荒城(荒木)郷
平安時代:富木院
戦国時代:富木村(富木七ヶ)

富木の歴史は古代の荒城郷に遡ります。和名類聚抄では荒木郷ですが(これは9世紀初頭と想定されます)、より古い形は荒城郷のようです。大日本古文書では天平勝宝2年(750)の記事に「越中國羽咋郡荒城郷」が記載されており、遅くとも8世紀には存在した地名と考えられます(東大史料編纂所データベースの正倉院文書の画像です。プラグインを入れないと見られないかもしれません)。
現在、地頭町の南に荒木隧道、荒木ヶ丘グラウンドゴルフ場などが確認されますが、この荒木が古代郷の遺称地とされています。

平安時代には富来院がありました。富来(富木)は荒木の「荒」を佳字である「富」に変えたものと考えられています。
資料上確認できるのは承久3年(1221)の「能登国田数注文」が最初ですが、富来院の成立は郷の解体後、院が置かれた11世紀初頭と推定されています(歴史地名大系による)。
「田数注文」の時点で、院から酒見村・藤懸村・釶打村が分立していることが確認されます(これらの範囲については後で触れます)。残った富木院は、資料上、南北朝期には京都の吉田社領であり、また伊勢神宮領の荘園を記載した「神鳳鈔」には貞治3年(1364)付けで「富来御厨」の記載があるようですが、いずれにせよ詳細は不明です。文明2年(1470)、総持寺文書に「富来院豊田西方町後百苅等」とあるのを最後に、所領としての「富来院」の名称は消えた、とのことです。

戦国時代には、大永六年(1526)の気多社年貢米銭納帳に「富来村七ヶ」が現われます。同様の表現として、「富木七箇・七ヶ庄」などもあったようです。そのほか、年次の明らかな資料として、天文10年(1541)の気多大宮司家文書に「富来地頭方百姓さた」、天正5年(1577)の同文書に「とき村領家町」などが確認されるということで、「富木村」の表示がかなり一般化していたと考えられます。
「と考えられます」というのは、歴史地名大系にそう書いてあるということで、自分で確認したわけではありません。申し訳ないので、「富来七ヶ」の事例を示しておきます(これもプラグインが必要かもしれません)。

さて、ここで問題は以上の富木院、富木村などがどの範囲を指すかですが、参考になるのが[71198]でも引用した三州志 図譜村籍(1819)です。この資料には、富木院26村のほか、先の能登国田数注文にも名が出た藤掛郷9村、釶打郷9村の名前が記されています。また、今回の議論に関係するものとして、稗造庄8村、熊野方郷15村も記載されています。以下に一覧表を示し、カッコ内には各村が属した明治合併村の名称も付記しておきます。

富木院26村:
地頭町、領家町、高田、七海(富来村)
東小室、広地、江添、大西、貝田、田中、和田、今田(稗造村)
八幡、八幡座主、給分、中泉、相坂、里本江、草江、大鳥居、相神、中浜(東増穂村)
酒見、稲敷、栢木、大福寺(西増穂村)
藤掛郷9村:
千浦、風無、風戸(西海村)
深谷、前浜、篠波、鹿頭、小窪、赤崎(西浦村)
釶打郷9村:
藤瀬、河内、西谷、鳥越、古江、大平、町屋、上畠、免田(釶打村)
稗造庄8村:
尊保、阿川、楚和、鵜野野、灯、入釜、地保、切留(稗造村)
 以上が、中世富木院(古代荒城郷)の範囲と考えられます

熊野方郷15村:
領家七海、生神、牛下(富来村)
三明、中畠、中山、町居、日用、草木、日下田、谷神、荒屋、豊後明(熊野村)
福浦(福浦村)
長田(上熊野村)

まず、能登国田数注文に記載された地名から片付けていくと、田数注文の藤懸村は藤掛郷9村で、明治大合併時の西海村、西浦村に対応する地域と見られます。釶打村は明治合併時に羽咋郡釶打村になった地域に該当するでしょう(現在は七尾市、平成合併前の鹿島郡中島町に属します)。酒見村は、当然酒見村(およびその周辺?)です。
ほかに富来川上流域を占める稗造庄があります。田数注文にはないので、それ以降に富木院から分立したと見られますが、この地域は天明六年(1786)に金沢藩領から幕府領に替地になったとのことで、富木院と別になっているのはそのためかもしれません。
戦国時代の富木村(富木七ヶ)は、上記の富木院、もしくはそれに稗造庄を加えた範囲と目されます。また、この富木村に藤掛郷、釶打郷を加えた範囲が平安時代の富木院で、おそらく、古代荒城郷の広がりに対応するものと考えられます。

一方、熊野方郷15村は、中世に「直海保(のうみほ)」と呼ばれていた地域の一部です。直海保は、熊野方郷と、その南に位置する旧志賀町の上熊野地区から成っていたと考えられていますが、資料上の初出が応永19年(1412)と遅く、富木院や荒城郷との関係はよく分かりません。直海保は福浦など海岸部を除いて神代川上流の米町川水系に属し、富来川・酒見川水系を主とする富木院等とは生活圏が異なると考えられるので、富木院=荒城郷には含まれなかったと思いますが、確証はありません。
ただし、[71408]でむっくんさんが触れられたように、「羽咋郡誌」には富木院、藤掛郷、釶打郷、稗造庄、熊野方郷を併せて「富木郷」と称するようになった、との記述があります。この記述が正しいとすれば、江戸時代前期には富木院などの中世以来の呼称がまだ残っており、後期にはそれが廃れて富木郷と呼ばれるようになったと思われます。

以上が、江戸時代以前の「富木」の概説です(一部江戸時代も含みますが)。富木院、富木村、富木郷など、同じような名称が出てきて、しかもその範囲が時代によって異なるのでややこしいと思いますが、ただ一つはっきりしているのは、これらの富木はすべて、[70838]でEMMさんが仰った「広域地名」だということです。江戸時代の、「地頭町および領家町から成る富木」というピンポイントの地名とは異なるものです。

[71198]
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。
と述べたことの背景説明が以上で、戦国期に広域地名としての「富木村」があったことは明かです。

で、私の役目はここまでで、後はお任せします、とはいかないですね。
次は、広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係について考察する必要が出てきますが、これは次回に。
最終的には、明治合併村との関係を経て、なぜ「富来」「西海」のみ冠称されているか、というそもそもの疑問に立ち返らなければならないのですが、結構道は遠そうです。


なお「羽咋郡誌」には、
「地頭町領家町は旧名は富木村といひ富木川ここに至りて海に入る」(31コマ
あるいはむっくんさんが引用されたように、
「富来は富来郷唯一の名邑なり市街は富来川を以て地頭町・領家町の二に分たれ元は二者を合せて富来駅と称へ又富来町村といへり」
など、地頭町、領家町を合わせた「富木村」ないしは「富来町村」があったかのような記述があります。しかし、後者はその典拠を示しておらず、前者の資料は「能登国田数目録解」のようですが、現物を目にしていないので、当否の判断ができません。ただし、[71224]で指摘したように、三州志来因概覧では「今富木村ナシ」と明記されていることから、少なくとも、金沢藩が認定した村としての「富木村」はなかったのではないか、と考えます。


あと、資料について。
むっくんさん、「羽咋郡誌」のご紹介有り難うございました。これは見逃していたので、参考になりました。
EMMさんが[71427]で引用された「越登賀三州誌」は、上記の「三州志」のことです。引用名称が不明確でしたね。これはデジタルライブラリーにありますが、本記、来因概覧、故墟考、本封叙次考、図譜村籍、沿革図伝からなる大冊で、ライブラリーでも6部立てになっており(1884年に出版された刊本です)、内容を確認するだけでも大変です。とりあえずは、上記で引用した来因概覧と図譜村籍の富木に関する部分だけで十分だと思います。
また、「富来町里本江および風戸に関するフィールドノート」のご紹介、有り難うございました。興味のあるところのみ拾い読みしている段階ですが、目を引いたのは、八朔祭りを行なう富来八幡神社がかつての富木院および稗造庄諸村の郷社であり、風戸を含む漁村部の藤掛郷の方は別の神社で個別の祭りをやっているらしいこと。「富来」の冠称との関係から言えば、熊野方郷に属しながら(明治)富来村に合流した生神、牛下両村が富来八幡神社を郷社としたのかどうかが気になるところですが。
[71256] 2009年 8月 2日(日)01:59:38oki さん
外では富木 内では地頭/領家
[71240] EMMさん
[71199]では大変失礼しました。
なんだか出鼻をくじかれた様な感じがして訳の分からない八つ当たりのような書き込みをしてしまいました。

とんでもありません。EMMさんが原稿の用意をしているのを分かっていながら、割り込む形で書き込んだわけですから、こちらこそ恐縮いたします。
私は気が向いたときに現われて、突然姿を消す不良メンバーで、メインイベントである十番勝負にもまったく参加しない人間ですから、気になさらないで下さい(十番勝負は、本当に、全然分からないのですよ。どうしたらあんな問題に解答できるのか、不思議でしょうがない)。
ただ、EMMさんと千本桜さんという、この掲示板の巨頭お二人の議論が、感情的なレベルになりかかっており、お二人の主張のどちらにも全面的には賛成できないので、私の集められる資料と、そこから推測できることを提示した、ということはあります。
富来に関しては、まだ書き込む予定ですので、それを含め、冷静な意見のやり取りができればいいと思っています。

時間が2時間ほどしかなかったので主に「富来院や富来郷など、富来が冠された広域地名の範囲」を書いた部分を見てきたのですが(これは別途まとめます)、江戸時代の辺りの記述中になぜか「商業集積地」としての地頭町・領家町の記述や、富木駅に関する記述が見あたらないのです。
この点に関しては、そもそも歴史地名大系に、地頭町や領家町単独の説明はあっても、両者を合わせた「富木」についての記述がまったくない、という点を含め、いささか疑問を抱いているところです。

少し参考になるかもしれない、と思う資料に、金沢大学文化人類学研究室の地頭町に関するフィールドノートがあります。
この中の「富来地区と地頭町の概要」には、富来川両岸に位置する地頭町、領家町、高田(の一部)が一体的な街区を形成し、旧富来町の中心的な商業地域であったことが記載されています。
その中でも地頭町は特別な存在で、周辺の農漁村に対する「町」であるだけでなく、領家町に対しても一段高い立場に自らを位置づけており、地頭町はダンナサマ、オヤッサマの町、領家町はシンタク(分家)の多いオッサマ(次・三男)の町、という階層意識があったようです。
今までに見た資料から得られる感覚では(感覚ですよ)、「富木」は外部向けの名称、もしくは外部からこの地域を見たときの地名という気がします(いちいち示していませんが、江戸時代や明治初期の全国・能登地域レベルの地図で、富来川河口に富木の地名を記したものがかなりあります)。一方、内部的には地頭町と領家町が厳然と区分されているのははっきりしています。金沢藩の村明細等もそうですし、郡区町村一覧以降の明治期の資料でも両者が別の村であるのは疑いがありません。

このような、外部向けの富木、内部での地頭町・領家町の峻別という事情の背景に、上記のような地頭町の特権意識があり、それが富来町史や歴史地名大系の記述に影響しているのではないか、という気もします(推測以前の想像ですね)。

以上の検証も含め、県立図書館での「富来駅年代記」などの成果を楽しみにしています、が、無理のない範囲でのご報告をお願いします。

次回は古代~戦国期の富木に関する概説を書き込む予定です。
[71225] 2009年 7月 31日(金)16:06:47oki さん
富木宿はあったか?
[71224]の続きです。

EMMさんがこだわっておられる「富木宿」について。
[71199] EMM さん
富来宿という言い方をどの程度されていたかというのは、わたしとしてはほとんど無いのではと思うのです。
それと、交通の面で富来のことを考える場合は(富来に置かれた宿駅の規模、宿と言えるまでに発達していたのか?等)は福浦との関係込みで考えた方が良いんじゃないかと思うのですが。

私が言いたいのは、[71198]であげた種々の資料から推測して、「地頭町、領家町から成る富木」が「富木宿」とも言われていた可能性がある、ということで、「富木宿と言われていた」と断言するつもりはありません。同時代の資料で「富木宿」という語を確認していませんから、断言はできないのです。
ただ、歴史地名大系の川尻村の項に、次のような記載があることは触れておきたいと思います。
「川尻宿は外浦街道一宮宿と富来宿の間にあり」

また、富木の規模については、先の資料に引用した「繁盛の地也」、「小繁華ノ地ナリ」などの形容から判断するしかありませんが、外浦街道という限定された地域内で見れば、それなりの中心性を有していたと思います。
富木と他の3つの宿駅の家数、人口は次の通りで(歴史地名大系に引用する天保年間の村明細の数値)、4つの中では富木、今浜が群を抜き、家数では富木がもっとも多かったようです。

 家数人口備考
富木2551135地頭町、領家町の合計
川尻43201
一宮179793一宮、一宮寺家の合計
今浜2131246

富木の宿駅機能と福浦とは、直接の関係はないと思います。富木が金沢藩の指定した宿駅であるのに対し、福浦は幕府が指定した西廻航路の寄港地だからです。富木は外浦街道という限定された地域における人馬(陸上)交通の小中心ですが、福浦は幕府米の回漕船や北前船が風待港とした、全国ネットワークにつながる海運の拠点で、両者の受け持つ役割はまったく違います。したがって、外浦街道の宿駅としての富木を考える場合、福浦との関係まで考慮する必要なないだろうと思います。

地頭町・領家町から南の外浦街道がどんなところだったか…と言うことも宿駅としての富来を考える上で重要なんじゃないかな、と思います。福浦・牛下・生神の集落は三方向「切り立った山」に囲まれてますし。
歴史地名大系に次のような記述があります。
「外浦街道は富来駅の南の荒木が最も難所で、風が荒く波が高い時は四~五町ほどが往来不能となり、越後の親不知に匹敵するともいわれた」
これから見ると、荒天時に荒木海岸のルートが途絶することはあったようです。しかし、全国幹線である東海道ですら大雨の際には通行止めになったのですから、その程度のことは織り込み済みだったのではないでしょうか。

近世の富木に関する考察は、とりあえず以上で終わりです。
[71199] EMM さん
私が思っていたのは、両地所では江戸時代やそれ以前の文献中に出てくる「富来村」「富木村」という記載は、「富来院」「富木院」のバリエーションだと判断されているのでは、と言うことです。
私の考えでは、戦国以前の「富木村」はEMMさんの仰る通り「富木院」のバリエーションです。しかし江戸時代(正保・天保郷帳)の「富木村」は、[71224]で述べたとおり「地頭町+領家町から成る富木」に引きずられた金沢藩の捏造もしくは勇み足だと思います。
次回は、戦国時代の「富木村」に至る富木の歴史を振り返ってみたいと思います。
[71224] 2009年 7月 31日(金)15:22:38oki さん
地頭町+領家町=富木≠富木村 その2
最初にお詫びとお礼を。
[71200] 88 さん
お名前(ニックネーム)欄に記入するのは、ニックネームではなく暗証コードです。
[71212] オーナー グリグリ さん
[71200]で、88さんがアドバイスされている通りです。[71198]の書き込みは自分色に修正しておきました。
88さん、アドバイス有り難うございます。長らく書き込みしていなかったので失念しておりました。
オーナー グリグリさん、誠に失礼いたしました。自分色への修正有り難うございます。今後は気をつけますので、よろしくお願いいたします。

で、本題の富来ですが。
[71199] EMM さん
「どういう形であれ、地頭町1集落(果たしてあそこを1集落と言っていいのかと言う問題はありますが)を指す形では富木村という表現はされていない」
この考えには全面的に賛成です。[71198]で私が提示した「富木」は、あくまで地頭町、領家町の総称で、おそらくは両村の連接する町場のみを指す語だと考えています。対して、「富木村」などというものは、江戸時代には存在しなかったと思います。

では、どうして正保郷帳や天保国絵図などに「富木村」が記載されているのか。この理由は、[70838][70940]でEMMさんが触れられた正保郷帳の作成過程にあるようです。
歴史地名大系の石川県の文献解題で、「加能越三ヶ国高辻帳原稿(正保郷帳)」に関し、金沢藩の集めた基礎資料から幕府に提出する郷帳を作成する際、「一定の加工」がなされたとの記述があります。ここでの議論に関係する分では次のようなものです。
「村高の小さな村を二または三ヵ村程度合せ、そのうちの一ヵ村に他の村高をすべて組込む加工」。その後の郷帳(元禄郷帳および天保郷帳)も、「これを基準に机上の操作を加えたもの」であったということです。
正保郷帳では、「富木村 領家町 町本江村」という記載がなされ、天保国絵図では「富木村」と「富木村之内領家町町村」が図示されていますが、これらは、以上のような加工・操作によって生まれたもので、EMMさんが仰るとおり、「前田家が作った亡霊」と言うべき存在です。
実際はどうだったかというと、歴史地名大系の記述では、寛文10年(1670)の「三箇国高物成帳(村御印)」、および天保年間(1830~44)の「村明細」に、地頭町村、領家町村が記載されていることが明記されています。
正保郷帳などは幕府に提出した、いわば外部向け文書、村御印や村明細は金沢藩の内部文書です。要するに二重帳簿を作成していたわけですが、両者の内容に差異がある場合、内部文書が正しいと見るのが当然です。したがって、この2村が別個の村として存在したことは明らかです(歴史地名大系の記述によれば、両村の間には対立もあったようです)。
なお、「富木村」が存在しなかったことに関しては、前述の三州志来因概覧(寛政11年)にも、「今富木村ナシ」と明記されています。

実際に存在したのが地頭町村、領家町村であったとして、次の問題は、なぜここに「富木村」なるものが出現するか、です。ここで、近隣で金沢藩の「加工」を受けたと考えられる村をいくつか見ると、次のようになっています(天保国絵図の記載です)。

・七海村/七海村之内領家七海村  ・小室村/小室村之内高田村
・八幡村/八幡村之内里本江村  ・鹿頭村/鹿頭村之内小窪村
・笹波村/笹波村之内前浜村

これらの例から分かるのは、金沢藩の「加工」によって親村の扱いを受けている村が、すべて実際の名で挙げられていることです。富木のように、存在しない村名を親村の名として「捏造」したものはありません。これは天保郷帳の基本的なフォーマットで、他の国についても、親村には実在する村の名が使われているはずです。
では、富木村だけが例外なのはなぜか。ここからは私の推測ですが、ごく単純に、「地頭町、領家町から成る富木」が存在したため、両者を合わせて捏造した村を「富木」と呼ぶのが自然だったからだろうと思います。天保郷帳のフォーマットに従うなら、ここは「地頭町村」と「地頭町村之内領家町村」とするのが普通です。あえてそうしなかったのは、「富木」という総称地名が存在したからだ、と考えます(あくまで推測ですが)。

長くなったので、いったん切ります。
[71198] 2009年 7月 30日(木)19:08:02oki[oki2] さん
地頭町+領家町=富木≠富木村
大変ご無沙汰しております。okiです。
久々に覗いてみたところ、付いていけそうな話題があったので、富来を巡る議論に参加させてください。
議論の流れから言って、EMMさんのご意見を伺ってから書くべきなのでしょうが、考えが若干異なるようなので、先に記述させてもらいます。

[70838] EMM さん
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった、じゃあ富来って何?どこが富来?

このご意見に対し、二点異論があります。私の考えは次の通りです。
1.富来は、歴史上広域地名であった時代が長いですが、江戸時代においては、富来川河口部の地頭町、領家町から成るピンポイントの「富木」という地名が存在したと考えます。この富木が「富木宿」と呼ばれることもあったと思います。
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。

まず1について、「地頭町、領家町から成る富木」に言及した、江戸時代中期~明治初期の資料を以下に列挙します。
(以下の資料において、引用部分の漢字はすべて現行字体としています。助詞や句読点は適当に補いました。富木、富来の地名が混在しますが、原資料の記述に従います。「」内が引用部分です)

能登名跡志 安永六年(1777)
平凡社の日本歴史地名大系にも引用されている、江戸中期の能登の地誌です。今浜、一宮、神代川尻などに続いて「富木」が立項されており、次のような記述で、「富木」が地頭町村、領家町村の惣名(総称)であることが記されています。
「富木とは此辺の惣名にして、邑は領家町村、地頭町村川隔て、家数五百軒斗有り。市場にして商家也。川の東は地頭町、川の西は領家町也。繁盛の地也」

日本東半部沿海地図(伊能小図) 文化元年(1804)
いわゆる伊能小図(東日本部分)の写しです。リンク図葉には、地頭町、領家を併記した上で、両者について「富木共曰(とも言う)」の書き込みがあります。

三州志 図譜村籍 文政二年(1819)
三州志は加越能三国に関する江戸後期の地誌です(これも歴史地名大系に引用されています)。その図譜村籍の中に、「富木院二十六村並垣内六処」として中世富木院に属した近世村が列挙されており、地頭町、領家町も含まれます。その末尾に次のような割注があり、地頭町、領家町、高田村からなる「富木」が存在したことが明らかです。
「地頭町、領家町、高田村。之ヲ合テ富木ト云」

能登めぐり 文久元年(1861)
能登の主な町や著名な景勝に関する画文集です。「富木」の風景画もあり、地頭町と領家町の間の富木川に橋が架かり、両者が一体化していることが分かります。他の他の図葉と比較すると、富木はかなり繁華な町と見られます。

第1回共武政表 明治8年(1875)
文献紹介は不要ですね。この中に「富木駅/高田村」で人口1709人という記述があります。明治14年(1881)の第4回共武政表には「富來(地頭町村・領家町村・高田村)」で人口1821人という記載があることから、「富木駅」が地頭町村・領家町村であることは確実です。

能登地誌略その1 明治11年(1878)
明治初期の能登の地誌です(同じ名称の文献があるので、その1としています)。富木が羽咋、子浦、今浜と同レベルの一つの「邑」であること、その富木の中に地頭町が存在することが示されています。
「富木、羽咋、子浦、今浜ノ四邑ハ、共ニ小繁華ノ地ナリ。富木ハ、商家多ク、近郷諸村ノ物産皆此地ヨリ輸出ス。」
「七尾警察署分署ハ、今浜、大念寺新村、富木(地頭町~実際は割注)・・・ニ在リ」

能登地誌略その2 明治11年(1878)
「富木邑ハ、郡ノ稍北ニアリ。地頭、領家、高田村ヲ合セ称ス。」
地頭町、領家町、高田村から成る「富木邑」が存在することが示されています。

以上の資料から、江戸時代に、地頭町、領家町(場合によっては高田村)から成る「富木」が存在したことは明らかだと思います。
江戸時代初期、地頭町には、今浜、一宮、川尻と並んで能登外浦街道の宿駅が置かれました。即物的には伝馬が常備されたわけですが、当然ながら、宿屋が集まり、商家が密集する町場が形成されていたはずです。「能登めぐり」から分かるように、地頭町、領家町は橋でつながって一体的な町場となり、それが「富木」と呼ばれたと考えられます。
一般的に言って、宿駅が「宿」と「呼ばれるのは当然です。傍証を挙げると、「能登めぐり」では今浜、一宮が「宿」と記載されており、富木を「宿」と呼んでもおかしくありません。また、第1回共武政表で「駅」とされた所の多くが、一般的には「宿」と呼ばれているのはご存じの通り。さらに言えば、平凡社の歴史地名大系の「富来八幡神社」の項で「地頭町・領家町などいわゆる富来宿」という記述もなされています。
したがって、「地頭町、領家町から成る富木」は、「富木宿」と呼ばれることもあっただろう、というのが私の考えです。

長くなったので、とりあえずここで切ります。
EMMさんは完答されたようですので、十番勝負の邪魔にはならないと思いますが。

(長いこと書き込みをしていなかったためか、okiで新規書込をすると「既に他の方が使用しています」という表示が出て書き込み不能になりました。仕方がないのでニックネームをoki2としています。ご了承下さい。)
[65419] 2008年 6月 6日(金)02:37:21oki さん
静岡新聞 徳島新聞 配達する人
[65407] EMM さん
全国新聞折込広告部数集計表を見てみました。
これもなかなか興味深いデータでした。
が、気になった点が何点か。

はい、気になる点がいくつか上がってくるだろうと思っていました。
まず、このデータの性格ですが、広告主が新聞に折込広告を入れる場合の、部数(料金)算定の基礎資料として提供されているものです。ローデータは各販売店の新聞ごとの配達部数で、それを折込専門の広告代理店が集計・整理したものだと思います。したがって、販売店側からのデータ提供がなければ、新聞ごとの部数は分かりません。

静岡県は折込に関して全国でも特殊な地域らしく、どのデータを見ても、新聞別の部数が明らかになっていません。わたしが昔使っていたデータでは、上の部数表とは逆に、全国紙を含めてほぼすべてが静岡新聞の部数になっていました。おそらく、業界内の何らかの事情で、販売店が新聞ごとの部数を公表しないのだと思います。

次に、秋田、山形などの地域紙のことですが、これらは、「部数が少なすぎ」「折り込み広告が入らない」ために、集計表に載っていないのだと思います。大崎タイムスのように総部数7000部程度の新聞でも掲載されていますから、紙名のない新聞はそれ以下の部数しかないのでしょう。
販売店が配達するのは一般紙だけでなく、スポーツ新聞や各種業界紙も対象で、市郡単位でまとめれば数百部程度になるものもあると思いますが、これらは部数表には掲載されていません。小規模な地域紙も、これと同じような扱いになっていると考えられます。

なお、この部数表やABC協会の公表する部数は、いわゆる公称部数で、実際の配達部数とは異なります。新聞業界には「押し紙」と言われる慣行、有り体に言えば部数の水増しがあることは公然の秘密です。押し紙について説明し出すとややこしくなるので詳しくはこのサイトなどを見ていただきたいのですが、一般的には公称部数の2割、場合によってはそれ以上の押し紙があると言われています(新聞社自身はもちろん、テレビも週刊誌も報道しないので具体的な数値は不明ですが)。したがって、部数データを見る場合には、この分を割り引いて考える必要があると思います。

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徳島県が際だっている感があるのは、徳島新聞の占有率だけではなく、ライバル紙が無いあたりも影響しているかも。
「とくしん」が他の県紙と比べても際だった占有率を示す理由として考えたのは、ざっと次のようなことです。
・すでに県内で圧倒的な地位を占めているため、県内資本が新たな新聞社を立ち上げて読者を拡大することは困難(販売店もほとんど徳島新聞が抑えていますからね)。
・隣接する香川の四国新聞、高知の高知新聞も県紙であり、中日新聞や西日本新聞のようなブロック紙と違い、各県内のみを購読対象としているので、徳島まで進出する動機に乏しい(もしそれをやると徳島新聞から反撃されかねません。また、山陰中央新報が鳥取県で主な販売エリアとしているのは境港や米子といった島根県に隣接する都市で、距離的には鳥取市より松江市に近い地域です)。
・全国紙にとって、総部数30数万部に過ぎない徳島は、圧倒的な影響力を持つ地元紙を相手に多大なコストをかけて販売合戦を仕掛け、部数を拡大するほどの魅力に乏しい。

ただこのような状況は、多かれ少なかれ、県紙を持つような地域に共通するはずで、ほかにないかな、と思いついたのが、テレビ視聴のあり方です。
以前にも話題になったことがあると思いますが、徳島の民間テレビ局は徳島新聞と関係のある「四国放送」のみ。この局は、一応は日本テレビ系列なのですが、民放が1つしかないことなどから、ほかのキー局の番組も流しています。しかし、県民の多くは四国放送など見ていません。
県の人口が集中する東部の沿海地域には、生駒山上から発射される大阪キー局の電波が直接届き、四国放送と合わせて5局の民放が見られます(場所によっては和歌山放送や神戸のサンテレビも)。この場合、ほかの県と違って地元局の放送ではなく、大阪の放送が直接見える、という点が重要です。テレビでから流れるニュースは朝日新聞ニュースや毎日新聞ニュースでしたし(今もやっているのだろうか)、枚方パーク菊人形祭りのCMも入ります。

徳島県民にとっての大都会は今も昔も大阪(および神戸)です。東京が日本の中心であるのは分かっていますが、歴史的なつながりが深く、移住者も多い大阪への親近感は非常に強いものがあります。その大阪の情報が、テレビを通してダイレクトに入ってきますから、県外の情報を知るために全国紙を購読する必要がありません。
つまり、県内情報は徳島新聞、県外情報はテレビ、という使い分けができるわけで、とくしんの異常なまでのシェアの高さは、その点が一つの要因ではないかと。今思いついた考えですが。

ただ、県外情報がテレビで得られるためか、徳島新聞の県内ニュース偏重たるや、それはもうため息が出るほどです。実家はずっと全国紙を取っていたので、たまに学校などで徳島新聞を読むと、報道内容の落差に愕然としました。国内外の政治、経済、社会報道はほとんど共同や時事の配信記事で、ほかはすべて県内関係のニュースですからね。

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ついでなので、もう一点、新聞に関わる話題を。
地方は違うでしょうが、東京などの大都市圏の場合、日々新聞を配っているのは多くが新聞奨学生と言われる勤労学生です。販売店に住み込んで新聞を配り、その給与で生活費と学費をまかなっている健気な若者達です。

この新聞奨学生、かつてはすべて日本人でしたが、豊かになった代わりに根性の無くなった日本の若者にはもはや勤まらないようで、ここ10年ほど、わが家への配達をしてくれているのは全員外国から学びに来ている人たちです。覚えているだけで3~4人いますが、一人は17度線を国境にしていた国、ほかは38度線の南の国から来た若者です。
どこの学校に通っているかまでは聞いていませんが、みんな2~3年は継続して流暢な日本語を話せるようになっているので、仕事と学業を両立させた上で帰国しているのだと思います。

こういう形で、日本人がやらなくなった労働の、外国人への置き換えが進んでいるのですね。首都圏のほかの地域や関西圏などでも、自宅への新聞を配っているのは外国人の奨学生、という方は多いのではないでしょうか。
[65405] 2008年 6月 5日(木)02:48:23oki さん
吉野川の潜水橋
[65375] 役チャン さん
例えば河口から100キロまでの間の橋について、吉野川と多摩川をどなたか調べた方はおいででしょうか? 100キロというと、吉野川では阿波池田のあたりか、多摩川だと小河地ダムあたりでしょうか。ついでに両側の自治体の人口などもわかると面白いのですが。

何についても調べてくれている人がいるもので、吉野川の橋の数はこちら、多摩川はこのサイトにデータがあります。
両者を比較すると、吉野川は河口の新吉野川大橋から高知県境に近い大歩危橋までで44橋(高徳線、土讃線の3鉄橋を除く)、多摩川は羽田空港南側の首都高湾岸線から小河内ダム手前の境橋までで62橋(水道管のみの多摩川横断水道橋を除く)です。
一方、流域人口は吉野川が約57万人、多摩川が425万人で、1橋当たりの人口は吉野川約13,000人、多摩川69,000人となります。整理すると以下の通りです。
 橋数人口1橋当人口(含鉄道橋)1橋当人口
吉野川44569536129444712118
多摩川624250000685487457432
多摩川/吉野川1.417.465.31.574.74

なお、輸送手段として同等と考えて鉄道の鉄橋も含めると、吉野川が上記3橋、多摩川が14橋あります。合わせて、吉野川47橋、多摩川74橋で、1橋当たり人口は上の通りです。
吉野川に対する多摩川の比率を計算すると、橋数は多摩川が吉野川の1.4倍ありますが、人口が7倍以上なので、1橋当たり人口では多摩川流域は吉野川の5.3倍、鉄道橋を含む場合でも4.6倍となります。それだけ、吉野川流域の方が単位人口当たりの橋数が多いということです。ただ、これから単純に、
要するに、いかに地方の道路に手厚いか、ということのデータによる説明にもなるかも知れないと思ったからです。
と言えるかどうか。
徳島県の人口は80万人で、世田谷区と同程度。その人口が、東京都、神奈川県を併せたと同じくらいの面積に散在しているわけですから、徳島の人口密度は東京の1/30に過ぎません。同じ1本の橋を架けても、それを日常的に利用する人口に大きな差があり、建設の投資効果が落ちるのは、ある程度は仕方のないことだと思います。もしも、吉野川での1橋当たり人口を多摩川と同じにするべきだ、とするのであれば、紀伊水道から高知県境までで8本の橋しか架けてはいけない、ということになってしまいます。

もう一つ考えなければいけないのは、「同じ1本の橋」と言えるかどうか。かつて、吉野川の特に中下流部には、潜水橋と言われる橋が沢山あり、現在でも一部が残っています
潜水橋とは、出水時に文字通り水流に潜ってしまう橋で、平常時水面からの高さ1~2mくらいのところに、自動車が1台通れる程度の細い橋桁を架けたものです(四万十川水系では沈下橋と呼ばれるようです)。洪水の水圧や流木で流されないよう、水流に直交する断面を可能な限り小さくしてあり、欄干はもちろん、ガードレールすらありません(実物写真はこちらをご覧下さい)。
当然、きわめて危険な代物で、増水時の通行は自殺行為ですし、平水時でも、ハンドル捌きを誤ると水中に落下しかねません。徳島にいた頃には、潜水橋からの落下事故の報道を何度か耳にしたことがあります。

徳島県は交通安全対策として潜水橋の解消を進めているようで、現在吉野川に架かっている新しい橋の相当部分は、潜水橋の架け替えに伴うものでしょう。
それでもまだ9本くらいの潜水橋が残っているようですが、このような潜水橋と多摩川に架かる高速道路橋などとを同列に論じるのは無理があり、正確な比較のためには個々の橋の構造まで調べていく必要があるように思います。

※ 上記を書いている間に[65401] にまん さん の「吉野川と多摩川プラスアルファ」がありましたが、そのまま書き込みます。多摩川の橋はあきる野市より上流の方が多いようで、川幅が狭まって橋が架けやすくなるのではないでしょうか。
[65365] 2008年 6月 2日(月)02:01:56oki さん
新聞三国志
[65313] inakanomozart さん
したがって、静岡新聞のシェアは平均すると51.9%になるのかもしれません。
それにしても、同じ県内で偏りがあるのは静岡県独特の現象かもしれませんね。

これについては昔むかしのアーカイブス地元の言論機関 -地方紙の研究-がありますが、補足すると、静岡以外にも次のような県で地域別に購読紙の偏りが見られます。

青森県:
八戸市と三戸郡はデーリー東北、それ以外は東奥日報で、弘前市を中心とした陸奥新報というエリア紙も存在する。

滋賀県:
全国紙が過半を占めるが、大津市に加えて草津市、守山市など湖南地域に京都新聞が勢力を伸ばす(以前に比べて部数が減っている模様)。彦根市、長浜市、米原市など湖東では中日新聞も比較的強い。

兵庫県:
尼崎~芦屋のいわゆる阪神間諸都市では全国紙が圧倒的だが、神戸市以西では神戸新聞がトップシェア。加古川、姫路など、西部の播州地域ほど神戸新聞の比重が高くなる。

山口県:
基本的に全国紙の地域だが、広島県に隣接する岩国市では中国新聞がシェアトップで、周辺地域にも食い込む。宇部市では宇部日報というエリア紙が一定の比重を占める。下関市に山口新聞があるものの、部数はわずか。

福岡県:
北九州市は山口県と同じく全国紙の地域で、行橋、中間、豊前など周辺地域も同様。西日本新聞は福岡都市圏および筑後地域でトップのシェアを誇り、筑豊は両者が拮抗。ブロック紙である西日本新聞は、佐賀県、長崎県などでも一定の部数を確保。

主なものはこんなところでしょうか。福島県の福島民報と福島民友、沖縄県の琉球新報と沖縄タイムスには地域的な偏りはなさそうです。
また、静岡の場合、中日新聞は浜松と磐田市で全体の1/3弱、ほかでは取るに足りない勢力です。

実は、都市(郡)別の新聞部数を把握しているのは、新聞社よりもむしろ折込屋さん、正確に言うと折込広告専門の広告代理店です。10年近く前に、折込に関係する業務を担当したことがあり、全国データも持っているのですが、古くなっている部分もあるので、こちらの全国新聞折込広告部数集計表を参考にしました。興味があればご覧下さい。


[65309] EMM さん
県内における占有率がトップなのは徳島県の徳島新聞で、なんと県内の80%以上が「とくしん」なんですね。はたから見ると「高すぎ?」と思ってしまうぐらい。
まさしくその通りで、「とくしん」のシェアは圧倒的です。全国紙の部数には、官庁や学校など公共機関での購読や県外からの一時転勤者が結構多いのではないかと思われ、地元民で徳島新聞以外を購読している人はごくわずかです。
父親はその数少ない他紙購読者で、ずっと日経を取っているのですが、困ることがあるそうです。それは、もう高齢なので亡くなる知人がけっこう多く、訃報欄のない日経では死亡の情報が入らず、義理を欠いてしまう畏れがあること。
若者が「紙」の新聞を読まなくなって新聞購読者の年齢層が高くなっているようですが、特に高齢者にとって訃報欄は必需情報であり、地方新聞の存在意義の一斑はそこにある、と言えるでしょう。
[65311] 2008年 5月 30日(金)03:11:55oki さん
逆転駅名総覧
[65282] 鳴子こけし さん
誰か全駅調べてくれないかな~(←他力本願)。

ということで、全駅調べてみました。
スナフキんさんが、自分のホームページに「日本全国駅名一覧(2008.04.01)」というファイルをアップしてくれていて、9108駅記載されています(大変有り難うございます)。このデータに検索をかけた結果では、皆さんがすでに書き込まれているものを含め、全部で74組ありました。
「組」というのは同字異駅が複数あるためで、関わっている駅は189駅になります。すべて2字の駅で、3字以上の駅には逆転はない模様です。

全部挙げると結構大変なので、面白そうなものを。
まず、複数組の駅が関わっているもの。最大で5駅が関連しているのが4組あり、すべてに「山」の字が関係しています。
駅名読み路線←→駅名読み路線
山下やました東:常磐線←→下山しもやま西:山陰本線
山下やました#東急世田谷線←→下山しもやま土佐くろしお鉄道阿佐線
山下やました能勢電鉄妙見線

本山もとやま名古屋市営東山線←→山本やまもと阪急宝塚本線
本山もとやま四:予讃線←→山本やまもと九:筑肥線
本山もとやま松浦鉄道西九州線

北山きたやま東:仙山線←→山北やまきた海:御殿場線
北山きたやま真岡鐵道真岡線
北山きたやま京都市営烏丸線
北山きたやま#土佐電気鉄道[伊野線]

東山ひがしやま北:函館本線←→山東さんどう和歌山電鐵貴志川線
東山ひがしやま京都市営東西線
東山ひがしやま近鉄生駒線
東山ひがしやま#岡山電気軌道[東山本線]

4駅または3駅では次の通り。こちらは「山」に加えて「田」、「野」、「中」が目立ちます。
田野たの土佐くろしお鉄道阿佐線←→野田のだ西:大阪環状線
田野たの九:日豊本線←→野田のだ阪神本線

神田かんだ東:東北本線←→田神たがみ名鉄各務原線
神田こうだ松浦鉄道西九州線
神田しんでん#鹿児島市営[唐湊線]

中田ちゅうでん四:牟岐線←→田中たなかしなの鉄道
中田なかた東:五能線
中田なかだ横浜市営1号線

山崎やまさき北:函館本線←→崎山さきやま平成筑豊鉄道田川線
山崎やまざき名鉄尾西線
山崎やまざき西:東海道本線

山田やまだ京王高尾線←→田山たやま東:花輪線
山田やまだ長良川鉄道越美南線
山田やまだ阪急千里線

中野なかのわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線←→野中のなか松浦鉄道西九州線
中野なかの東:中央本線
中野なかの上田電鉄別所線

上道じょうとう西:山陽本線←→道上みちのうえ西:福塩線
上道あがりみち西:境線

読みも逆転しているのは4組で、すべて読みが2字です。
駅名読み路線←→駅名読み路線
谷津やつ京成本線←→津谷つや東:陸羽西線
矢野やの西:呉線←→野矢のや九:久大本線
和佐わさ西:紀勢本線←→佐和さわ東:常磐線
和知わち西:山陰本線←→知和ちわ西:因美線

山陰本線の和知駅と下山駅は、逆転駅名を持つ駅同士が同一自治体内で隣接しているまれな例です。ほかにあるかどうかは確認していませんが。

駅間距離では、やはり[65298] 今川焼 さん の谷保←→保谷が一番近そうです。


データの処理を行なっただけで、地図上ですべての駅を確認したわけではないので、間違っていたらごめんなさい、です。
[65136] 2008年 5月 16日(金)01:11:30oki さん
四日市次郎丸村についての考察
[65106] むっくん さん
本当に四日市次郎丸村という1つの村であったのか、という疑問を私は持っています。より正確には、四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成していたと考えるのが自然なのではないか

となると、市区町村変遷情報・広島県に記載されている
2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市次郎丸村

2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市村/次郎丸村
とでも記載した方が実は実情をより良く表していることになります。以上の私の考えに対し、皆様の意見を伺いたい次第です。

私の考えは、「四日市村/次郎丸村」とする必要はない、とするものです。理由は以下に述べますが、この件に関しては四日市次郎丸村の実態と、その表記に分けて考える必要があると思うので、説明を2つに分けます。

1.四日市次郎丸村の実態
この村について考えるには、むっくんさんも触れられた寺町村の説明から始めなければなりません。
寺町村は天保国絵図記載の石高が2800石という大村ですが、実際には4つの村に分かれていました。遅くとも16世紀初めには次郎丸方など4地域からなっていたと見られ、江戸時代初頭に四日市次郎丸、吉行、土与丸、助実の4村に分立します。
慶長6年(1601)に福島正則の行なった検地では寺町村として一括され、それ以降も、天保郷帳など幕府に提出された文書では寺町村とされていますが、広島藩内部の文書では独立した4つの村として扱われていたようです。庄屋などの村役人も各村ごとに居たと思われます(4村分立の正確な年次は不明です。また、このように幕府に出す文書と各藩内部の文書とで、村の扱いが異なることはままあることです)。
次に四日市と次郎丸ですが、文書上に名称が初めて現れるのはともに天文年間(1630~50年頃)で、それ以前から地名が存在したことは確実です。次郎丸は、上に述べた寺町村を構成する地域の一つ、次郎丸方として初出しています。四日市は天正年間(1670~90年頃)に4の日に市を開いていたとされ、その後山陽道(西国街道)の宿場になっています。次郎丸の一部が町場になったもので、街道に沿って人家が密集する地域が四日市、その周りの田園地帯が次郎丸であったと考えられます。町場と農村という2つの地域からなっていたわけですが、先のように近世初頭から、2つ合わせて四日市次郎丸村という1つの村を構成しており、江戸期を通じて、庄屋職も1人しか置かれていません。
なお、天保国絵図では寺町村のほかに四日市町屋敷分、四日市田畠分が高付けされていますが、これは町場である四日市の分を別に表記しただけで、実際には、上記のように四日市次郎丸村という1つの村でした。
これを証拠立てる資料が、明治3年の郷村高帳です。廃藩置県の前年の文書で、この種の文書としては広島藩が最後に作成したものだと思いますが、「四日市次郎丸村」の文字がはっきりと読み取れます。これから推定して江戸期の広島藩内では、国絵図など幕府文書の記載とは無関係に、四日市次郎丸村として扱っていたことは確実です。
当然、明治以降も四日市次郎丸村という1つの村であり、四日市村/次郎丸村の中に四日市村、次郎丸村があったのではない、と考えます。
(※以上の記述は、「日本歴史地名大系 広島県の地名」(平凡社)および「角川地名大辞典 広島県」に基づいています。)

2.四日市次郎丸村の表記
むっくんさんは、
素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません
との表現を繰り返されていますが、これは、引用されている各種明治期文書の次のような縦書表記について述べられたものだと思います。
 四 次
 日 郎
 市 丸
  村
(※以下では、このような表記を「併称表記」と呼び、横書きでは「四日市|次郎丸村」と書くこととします、これに対して、「四日市次郎丸村」のような表記を「連称表記」と呼びます。あくまでも、ここだけの便宜的な呼び方です)。
「四日市|次郎丸村」という併称表記が、「四日市次郎丸村」の連称表記と異なることは事実です。しかし、それが直ちに、四日市村、次郎丸村の2村が存在したという結論に結びつくわけでありません。
むっくんさんが「四日市村/次郎丸村」の表記にこだわるのは、歴博の旧高旧領取調帳データベースにそのような記載がなされていたからではないかと思うのですが、その元資料も縦書きであった、ということに注意が必要です。おそらく、そこには「四日市|次郎丸村」の併称表記がなされており、それを「四日市村/次郎丸村」としたのは、歴博の担当者の解釈だと思います。また、
町制を施行して西条町となった県告示について、広島県史・年表(別編1)(編・出版:広島県、1984)には、賀茂郡四日市村・次郎丸村を合併し西条町と改称(明治23年広島県告示第97号)と記載されています。
とあるのも、明治期資料の併称表記を「四日市村・次郎丸村」と解釈したものでしょう。したがって、四日市、次郎丸の双方に「村」を付した「四日市村/次郎丸村」の表記は、原資料のどこにも存在しないはずです。
さらに
地方行政区画便覧によると明治19年1月当時についてでは、四日市次郎丸村が2箇所記載されています。
とありますが、これも考えすぎではないでしょうか。当該箇所には、上段に戸長役場所在地、その下に戸長役場が所管する村名を記載しています。ここは単に、四日市|次郎丸村所在の戸長役場が、四日市|次郎丸村、土与丸村、吉行村の3村を管轄していることを示しているだけ、だと思います。

以上の結果
上述の各文献の記載内容からは私の仮説を否定するよりは肯定した方がいいのではないか、と私は考えます。特に地方行政区画便覧と広島県史の記述は、私の仮説に立った方が説明しやすいのではないでしょうか。
という主張は、その前提が崩れてしまうと考えます。

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以上から、「四日市村/次郎丸村」ではなく、現在の市区町村変遷情報の通り「四日市次郎丸村」の連称表記で記載する方が適切である、というのが私の結論です。
むっくんさん、いかがでしょうか。
(※以上の説明では、明治になって併称表記がなされるようになったのはなぜか、という疑問が残り、それに対する考えもあるのですが、あまりに長くなったのでここら辺でやめておきます)。
[65120] 2008年 5月 14日(水)01:40:22oki さん
正距方位図法_その2
[65116] にまん さん
探しているのは「東京中心の正距方位」の地図です。国境と主要都市が記載されていて、A3~A4程度に印刷できるとベストです。

地図サイトではありませんが、PTOLEMYという地図ソフトがあります。
私自身はここのところ利用していないので、どの程度詳細な地図が描けるのか分かりかねるのですが、東京中心の正距方位地図の作成は可能です。
[65091] 2008年 5月 11日(日)22:58:42oki さん
明治初期の地図情報について
明治大合併期までの市区町村変遷に関し、文字資料としては近代データライブラリなどを参照できるようになっています(特に、むっくん さんの「[62863] 市制町村制施行時の府令県令(ver2)」には大変お世話になっています。これだけの資料を発掘していただいたことに感謝いたします)。
加えて、ネット上で明治初期の地図情報を公開するサイトも増えてきました。皆さん、あまり触れられることがないようなので、私の知っているものをご紹介しておくことにします。

1.関東地方
歴史的農業環境閲覧システム
明治初期から中期にかけて作成された「迅速測図」のうち、関東地方の分を閲覧できるようにしたサイトです。確認した限りでは、明治13~15年時点の地図のようです。明治前期の市区町村変遷に興味がなくとも、地図好きであれば見逃せないサイトだと思います。

2.大阪府(および隣接地域)
大阪市立図書館イメージ情報データベース 地形図をさがす
「2万分の1仮製地図」を選ぶと、明治10年代の地形図の閲覧が可能です。画面が小さくて見にくいですが、現在の地形図を参照しながら閲覧すれば、見たい地域に素早くたどり着けると思います。
ちなみに、このサイトで「妙見山」を見ると、[65062]でご報告した山下町/村が、明治18年測量時点で山下「町」となっていることを確認できます。

3.奈良県
奈良県立図書情報館 絵図展示ギャラリー 古地図・地図
「大和全国地図」、「大阪府奈良県管内細見全図」などが明治10年代の地図です。後者は奈良県が大阪府と一体であった時期のもので、大阪府管内の摂河泉3国と大和国が1枚の地図に描かれています。

4.徳島県
徳島県立図書館 デジタルライブラリ 所蔵絵図
「阿波国全図」が明治3年の地図です。ほかに、明治合併期直後のものと見られる「徳島県明細全図」があり、合併後の村とその中の大字との領域が分かります。

5.岡山県
デジタル岡山大百科 コレクション一覧 絵図・古地図
(「絵図・古地図」ページには直接飛べず、「コレクション一覧」へのリンクです)
「岡山県管内地図 岡山県管内図」が明治12年、「岡山県三国地図」が明治18年の地図です。両者を比較すると、大多府村は明治12年から18年の間に日生村から独立したようです。

以上のうち、1以外では、明治前期のほか江戸期の絵図や大合併期以降の古地図も閲覧可能なので、興味のある方はご覧下さい。
また、これら以外で、村レベルの位置確認が可能な明治前期の地図を閲覧できるサイトをご存じの方は、教えていただければと思います。
[65081] 2008年 5月 11日(日)18:05:34oki さん
メンバー登録のご報告
昨日、メンバー登録をいたしました。皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

改めて自己紹介をしておきますと、出身地は徳島県阿南市、現住地は東京都江戸川区です。経県値の登録もしておきました。点数は167点で、こちらのメンバーでは平均的です。愛媛、島根、沖縄と3県も未踏県があるのが痛いところです。

現在、天保郷帳の藩政村から明治大合併期までの推移を調査・入力しているところですが、枝村まで対象にしており、独立・合併などのデータが整備されていないこともあってなかなか進んでいません。藩政村の地図上の位置も入力しているので、ある程度整理できれば、データをプロットしてGoogle Earthなどで閲覧可能にしたいと思っているのですが、いつになることやら。

とりあえず、今後ともおつきあいをお願いいたします。
[65062] 2008年 5月 11日(日)01:08:56oki さん
山下町/村
ご無沙汰しております。

[65038] 伊那谷さん
[65048] むっくん さん

山下町/村について、むっくん さんが挙げられた以外の資料を含め、江戸末期~明治合併期までの経緯を整理してみました。

No調査時点出版年資料名編著者山下?備考
1天保9.5天保国絵図江戸幕府笹部村之内山下町
2明治最初期不明旧高旧領取調帳明治政府なし
3明治13年明治14.3郡区町村一覧内務省地理局山下村
4明治14.1.1不明第4回共武政表陸軍省参謀本部山下町山下町・下財屋敷併せて105戸480人
5明治14年中明治18.8明治14年兵庫県統計概表兵庫県庶務課山下町
6明治16.12明治18.4地名索引内務省地理局山下町
7明治17.7?明治17.11兵庫県管内郡区町村名一覧福本虎蔵山下村調査時点は識語の時点。内容は郡区町村一覧の引き写しでは?
8明治19.1明治20.10地方行政区画便覧内務省地理局山下町
9明治22.4.1明22.5.14兵庫県市町村名称区域及役所役場位置福永惟精山下村/山下町調査時点は県令施行日
10明治22.4.1明22.11.13新旧対照市町村一覧和泉橋警察署山下村同上
11明治22.4.1明25.9.20兵庫県報類纂第2冊明治22年今井馬吉,山下三郎山下村同上

まず、山下という地域は、遅くとも天保期(1830~40年代)から「町」と呼ばれていたことが分かります。笹部村の枝村の扱いですが、国絵図では山下町の北側に古城跡が記され(今も城山があります)、町の北隣に下財屋敷(現在は下財町)の地名があることからすると、中世に国人土豪クラスの居館があって一定の商業機能を備え、それが近世に引き継がれたのかもしれません。ただ、資料4で明治14年の人口が山下町、下財屋敷併せて500人弱ですから、さほどの規模ではなかったと思われます。
次に、資料2では山下の名称が記載されていないので、幕末明治移行期はまだ笹部村の枝村であり、資料3の明治13年までに独立して山下「村」になったと考えられます。
それ以降、資料4~資料8(明治14~19年)は基本的に山下「町」であり、資料3、4の調査時点が正しいとすれば、明治13年中に町になったのでしょう。なお、資料7では「村」ですが、この資料は町村の配列が資料3(郡区町村一覧)と同一であり、後者を引き写したものではないかと思います(資料7の時点は巻頭の識語の執筆時で、実際の調査時点は記載されていません)。
以上であれば、江戸時代に農村の枝村として小さな町場であった地域が、明治に入って独立、その後町になった、というよくある話です。奇妙なのは、明治合併時の資料9~11で山下「村」となっている点です。特に9の場合、東谷村を構成する旧村名としては山下「村」なのに、東谷村の役場所在地としては山下「町」である、という摩訶不思議な記載になっています。

この説明として考えられるのは次の3点。
1.資料9、10、11で、単純に町を村と誤植した。
2.資料8(地方行政区画便覧)の調査時点である明治19年1月から、合併県令の公布された明治22年2月までの間に、町から村に変更された
3.県が認定する公式の自治体名は「村」であるが、地元では江戸時代以来「町」と呼ばれており、それを採用する資料があった

以上のうち、3は伊那谷さんの
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
と同じような考えですが、兵庫県や内務省の公式資料である5、6、8に山下「町」とあるので、ちょっと採用しがたい。
2は、まったくないとは言い切れませんが、いったん町になった自治体が村に戻った例を知らないので、考えにくいと思います(明治維新後、大合併期までに町から村になった例をご存じの方はご教授下さい)。
1については、資料9は町、村の両方が記載されているのでどちらかが誤記であることは明白ですし、10も下財屋敷を下財屋村と誤植していることから、ほかにも誤りがある可能性は高い。11は県庁に直接調査を依頼しているため信頼性はありますが、誤植がないとは言い切れません。

したがって、私としては、町を村と誤植した可能性がもっとも高いと考えますが(3つの資料が揃って誤植した、とするのは躊躇する面があるものの)、伊那谷さん、むっくんさん、いかがでしょうか。

ただ留意が必要なのは、どの資料にも誤記、誤植は必ずあるだろうということ。たとえば、「地方行政区画便覧」の巻末には2ページにわたって正誤表が記載されており、その中には漢字の間違いとともに町と村の誤記も多数見受けられます。このような誤りは他の資料にもあるはずで、何らかの疑問が生じた場合、可能な限り複数の資料を援用してその整合性から当否を判断するしかないと思います。と言っても、一つの資料が間違っていた場合(特に県や国の公的資料)、他の資料にも誤りが連鎖する場合があってなかなか難しいとは思いますが。
[64173] 2008年 3月 31日(月)04:36:19oki さん
盛岡仁王村について
[64165] hmt さん
これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。
これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

hmt さんがあげられたうち盛岡仁王村(等)は、ほかの村から市になったものとは性格が違うと思うので、以前に調べた結果を記しておきます。

盛岡は南部藩20万石の城下町であり、幕末明治初期、東北のみならず全国でも有数の都市に数えられ、市制施行時の最初の市の一つであったことはご存じの通りです。
通常であれば盛岡レベルの城下町は、郡区町村編制法の下で、区にはならないものの、旧城下町を構成した町々が単独の自治体として郡に直属するのが通例です(多くの場合、各町には城下名が冠称されます)。その中で盛岡のみ、旧城下が解体されて仁王村、志家村、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の「村」になっています(これらの村には盛岡が冠称されています)。
その理由はよく分かりませんが、はっきりしているのは、盛岡城下が村に分解されたのは1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行時ではなく、明治4(1871)年だということです。
南部藩は戊辰戦争の結果いったん改易され、改めて白石13万石に転封されることになりましたが、償金70万両を納めることを条件に盛岡13万石への復帰が許されました。しかし、敗戦、転封、所領の10郡から4郡への縮小などのため、最終的に藩財政が破綻、明治3(1870)年、他藩に1年先がけて廃藩し、盛岡県となっています。
盛岡城下町の各丁、小路が、城下形成以前の旧村に属せられ、城下が(形の上で)消滅するのが翌明治4(1871)年です。廃藩と旧城下町の消滅に何らかの関係があると見るのが妥当でしょうが、理由は不明です。考えられるのは、明治新政府の南部藩に対する懲罰、あるいは南部藩から明治政府に対する恭順の意の表明、というところです。ただ、明治政府にとってのA級戦犯である若松や仙台、長岡でも、旧城下町はそのままの形で維持され、盛岡のように村になってはいませんから、明治政府側の意向とは考えにくい面があります(長岡藩も盛岡と同様、明治3年に財政破綻によって廃藩しています)。南部藩内部には、明治政府への恭順派と反政府派との対立があったようで、盛岡城下の解体にはそれが影響している可能性がありますが、詳しいことは分かりません。

いずれにせよ、盛岡は他の大規模城下町とは異なる形で「村」とされたわけですが、それによって住民が四散したわけではありません。明治5年以降の記録である第1回共武政表で盛岡の人口が25,457人、1880(明治13)年の第2回共武政表で32,735人、1886(明治19)年の地方行政区画便覧で盛岡仁王村をはじめとする6ヶ村の人口が30,069人(盛岡仙北町村、山岸村、新庄村3ヶ村の人口が含まれていません)、1889(明治22)年の合併時点で31,581人等々の状況で、旧城下の人口がそのまま維持され、おそらくは増加傾向を示していたと考えられます。
盛岡が市町村制施行時に最初の市の一つになったのも、市となるに十分な人口と、「都会輻輳ノ地」と呼ぶに相応しい市街地を備えていたからでしょう。その意味で、盛岡仁王村などを「村だけで市になった事例の第1号」と呼ぶのは誤解を招きかねない表現だと思います。行政区画として「村」であったことは事実ですが、そもそも盛岡城下を「村」にしたこと自体が例外的、変則的な事態で、実際には他の城下と同じく、南岩手郡に直属する町の集合体であり、人口集積の面でも、「村」と呼ばれるべき実態はなかったからです。
なお、盛岡市は、仁王村、志家村の全域と、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の各一部(旧城下町部分)が合併して成立しますが、9村の村名は大字として維持され、その下に58の小字が設定されています。この小字が、本来の盛岡の町名に当たるものでしょう。ただ、大字が維持されたために、市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸などといった表記になったようです。実際には、岩手県の公式文書でも「大字仁王字」の部分が表記されず、盛岡市内丸などとされたようですが。

新旧対照市町村一覧で「仙北町の内」とあるのはよく分かりません。1886(明治19)年の地方行政区画便覧で仙北町村なので、1889(明治22)年の合併時までに仙北町に改称していることは考えにくいのですが、この間の文書が入手できないので、確言はできません。
仙北町(ちょう)は北上川西岸に位置しますが、東岸中心に形成された盛岡城下の一部でした。仙北町村(まちむら)は、城下の一部である仙北町に、北上川西岸の周辺農村を併せて成立した村であったかと思われます。


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