現在の仙台市街地における繁華街の核はJR仙台駅西口を中心としたエリアと、一番町通と中央通とによって構成されるアーケード街を中心としたエリア(中心は広瀬通一番町付近)とです。双方は約1キロメートルほど離れておりますが、アーケード街で有機的に繋がっているため、人々の動線が確保され、ほぼ一体的な市街地を構成しています。
[67019]Issieさん
お話を拝見いたしましたが、仙台経験が相対的に長い私の意見は少し違います。
まず、明らかな誤りは、「芭蕉の辻」は大町と東一番丁の交点ではなく、大町と奥州街道筋(現在の国分町通)の交点です。ちなみに、「一番丁通」「大町通」という表現も厳密に言えば誤りで、それぞれ「東一番丁」「大町」とするのが正しいです。仙台的な語感では、「○○通」というのは「○○」へ通じる道及びその道沿いの町という意味です。芭蕉の辻以南の奥州街道筋は「南町」と呼ばれていましたが、その南町へ通じる東西の通りが「南町通」と呼ばれました。この通りは市電通りとなったため戦前から拡幅されまして、現在でも仙台市街地における重要な通りとなっています。一見市街地の南側を貫通する通りだからその名があると錯覚しますが、本来は当時一大繁華街であった南町へと通じる通りであるという意味でして、市電開通前は本当に細い路地であったようです。
仙台城下町建設にあたって、ベースラインとなったものが、南北の奥州街道筋と東西の大町で、大町は仙台城大手門から広瀬川の大橋を経て、まっすぐ城下を東西に貫通する目抜き通りでした。その交点が「芭蕉の辻」と呼ばれ、高札場ともなった、仙台城下町の一大結節点でした。現在では相対的に市街地の中心部から外れ、多く集積してきた卸売業等の店舗も郊外の卸町等に移転し、やや寂れた印象のエリアとなっていますが、日銀仙台支店をはじめとした金融機関は現在でも集積していまして、町の中心たる面影もまた残すエリアです。
大町は東に向かって新伝馬町(しんてんまち)、名掛丁(ながけちょう)を経て二十人町、原町へと至り、陸前浜街道筋へと連接しました。城下町時代から近代にかけても多くの商店が集まる中心市街地として繁栄していました。この大町~新伝馬町~名掛丁のうち、一番町通以東が現在「中央通」と呼ばれるアーケード街となっています。
一方で、現在の仙台駅のあるエリアは、北東に祀られる東照宮から南へ、宮町、東六番丁、清水小路を経て、藩政期は大寺であった大年寺へと一直線に繋がる堂々たる門前町通が形成されていまして、この周辺を中心市街地内に組み込む都市軸として機能していました。宮町は現在でも東照宮に向かって直線的な道路としてあり、清水小路は、東五番丁と一体となり、現在の「愛宕上杉通」となっています。東六番丁はといいますと、実はこの通りこそ、現在の仙台駅のある場所にあたります。仙台駅舎及び鉄路は東六番丁筋をまるまるつぶす形で完成しております。結果として上述の門前町を連接する南北の通りは遮断され、また当時繁華街であった名掛丁も東西に分断され、仙台市街地の都市構造は大きな影響を受けることとなります。特に名掛丁東部以東の陸前浜街道筋はさびれていくこととなります。
以上のような認識から、仙台駅のある場所は必ずしも「町外れ」ではなく、当時栄えていた町場の一部をまさしく“縦断”し、当時の人々の感覚では中心市街地の一部を横切ったように映ったことと思います。まあ、中心市街地の本当に中心という意味ではやや東にずれた位置ではありますが・・・。せめて宮町~東六番丁~清水小路の幹線を壊すことなく、その東に隣接して駅ができればまた違っていたのでしょうが、既存の住宅地域をなるべく壊さないように鉄路を通すため、当時直線的に繋がっていて土地を確保しやすかった東六番丁が駅舎の適地とされたのでしょう。
なお、
当初は長町方面からほぼ直線に現在の 宮城野貨物駅 付近を通過してそこに駅を設置する計画であったものを,住民の運動によって市街地に“できるだけ近いところ”まで線路を引き込んで,現在の位置に駅が設置されることとなった,という話が伝えられています。
というご説明は、仙台関連の多くの書籍で散見される内容ですね。
なお、仙台駅東口は「東○番丁」などの町場が割り出された足軽などの居住地及び市街地から移転された寺院が集積する寺町(新寺地区や連坊地区)でして、戦災が少なかったことから高度経済成長期も低層の住宅地域や寺院、近隣商業エリアが交錯するエリアでしたが、1970年代半ば頃から順次土地区画整理事業が進められ、「宮城野通」を中心とした現代的な都市地域へと生まれ変わりました。現在は、旧仙石線の鉄路が通ったエリアより北、二十人町から鉄砲町にかけてのエリアで土地区画整理事業が進行中で、完成の暁には、西口の広瀬通と繋がった一大幹線道路がエリアを貫通する予定となっています。