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[63434] 2008年 1月 16日(水)04:03:27oki さん
その後の共武政表、および外海浦など
ご無沙汰しております。okiです。前回の書き込み(去年の6月ですね)以降、落書き帳を見られない状況になっていたのですが、年末になって何とか閲覧を再開しました。十番勝負の最中ということで、逆立ちしても1問も分からない身としてはただ傍観していたのですが、共武政表がらみの話題がちらほらしているので、話題に加わらせてください。

1.共武政表について
[63431] hmt さん 共武政表の戸数は連担接続せしもの
で引用された「陸軍省達第19号」には、「反別人口物産等之増減年末毎ニ詳細取調可差出」とあります。近代デジタルライブラリーに収載された共武政表は第1回のもので、それ以降、1882年(明治15)までに3回(合わせて4回)編纂されています。さらに、「徴発物件一覧表」と改称し、1884年(明治17)から1911年(明治44)まで発行されているようです。

2.外海浦、あるいは近世の漁村について
このうち、第4回共武政表(明治14年1月1日調)によると、外海浦の人口は次のようになっています。
外海浦内の小地名人口備   考
外海浦ノ内字深浦 940東外海浦
同浦ノ内字岩水浦 287(旧城辺町)
同浦ノ内字垣内浦 179
同浦ノ内字久良浦 1018計2424人
同浦ノ内字船越浦 1029西外海浦
同浦ノ内字久家浦 516(旧西海町)
同浦ノ内字樽見浦 254
同浦ノ内字福浦  633
同浦ノ内字外泊浦 190
同浦ノ内字中泊浦 396
同浦ノ内字内泊浦 943計3961人
          総計6385人

第1回共武政表(明治8年)で6,280人ですが、第4回でもそれに近い数字です。これらは、東は高知県境の愛南町(旧城辺町)脇本から西は船越半島西端の高茂(旧西海町)に至る非常に広い範囲の海岸部を含む地域で、[63423]千本桜さんの仰るとおり、直線距離でも東西18キロメートル以上あります。ただし、
行政的には大漁村かもしれませんが、集落的には小漁村だったのでしょう
とは必ずしも言えないと思います。人口1,000人前後の字が4つもありますが、1,000人の人口を数える集落を小漁村とは言わないでしょうからね。
むしろ興味深いのは、現在では過疎地の最たる地域とも言うべき四国西南部の海岸部に、明治初期には、これだけの人口を抱える漁村が成立していたと言うことです。これは、前に白桃さんが言及されていたように、伊予国宇和郡だけでなく瀬戸内沿岸に共通してみられる現象です。そして、その多くが、
[63420]白桃さん 後に都市に成長していく事例はごく少数
であるのも事実です。
この背景には、明治前期までの漁村が、単なる漁労集落ではなく、当時の物流の主要手段であった水運と密接に結びついた存在だったことがあると考えられます。江戸時代には、米はもちろんのこと塩、酒、藍、紅花等々のさまざまな商品が、水運を通じて全国から天下の台所である大阪に集められ、さらに大消費地である江戸に送られていました。海岸部に位置する漁村、特に流通の大動脈であった瀬戸内海周辺地域の漁村は、離島も含め、それらの海運に、船や水夫の提供という形で関わっていたと考えられます。また、漁村自体が交易の小センターで、自村の保有する廻船を通じ、後背地の農山村と全国の市場とを結ぶ役割を担っていたことも想定されます。要するに、漁村というのはその地域の交通と商業の拠点であり、農村に比べ、狭い地域に多数の人口を養うことが可能な存在だったということです。
近代になってこれらの漁村の多くが衰退したのは、物流の主体が鉄道に取って代わられたため、広い後背地を持つ有力な港町以外は、以前の拠点性を発揮し得ず、単なる漁労集落に戻ってしまったからではないか、というのが私の考えです。

3.浜名港
浜名港についてはすでに決着がついていますが、補足的に第4回共武政表による人口データをご呈示します。
地 名 人口備考
新居宿 3837
浜名村 1622
中之郷村1107
内山村  329計6895人
上記が、現在の新居町を構成する4大字の、明治14年時点での人口です。第1回が6,438人であることを考えると、浜名港とは、新居宿のほか、町屋が連担していた浜名村、中之郷村を指す(上記では6,566人)ものだと思われます。内山村は浜名・中之郷村と同様に明治合併時に合併していますが、純農村の趣が強く、浜名港には含まれていないのではないか、と考えます。

4.真壁郡城廻村、田中村
城廻村は、現在の下妻市下妻乙である、と断言できます。田中村は筑西市(旧下館市)甲の東南部から丙にかけての地域だと思われますがが、正確な範囲は不明です。
幕末以降総覧によると、城廻村は明治15年に、東・西・南当郷村とともに下妻町に合併されています。このとき、もしくはそれ以降に、大字名として旧村ではなく甲乙丙丁戊が設定されたと考えられます。ちなみに、城廻村以外は、下妻甲が旧下妻陣屋の所在地で合併時の下妻町、以下、丙が西当郷村、丁が南当郷村、戊が東当郷村と見られます。それ以外に本城町、本宿町などの住居表示されたらしい地名があり、そのかなりの部分が旧城廻村と推定されますが詳細は不明です。
田中村は、同じく明治15年に西郷谷村とともに旧下館城下に合併されており、同様に旧村名が消えて甲、乙、丙の大字が設定されています。下館城は現在の下館小学校周辺ですが、城下町はごく狭くて大字甲の北側に留まると見られ、甲の南東部および大字丙が田中村、甲の南西部と乙が西郷谷村だろうと思います。このように判断する根拠は、大字甲のほぼ中央に田中稲荷神社が存在すること、丙の南端に当たる下館駅周辺地域が、統計GISの大字区分地図で田中町になっていることですが、確証はありません。

以上、共武政表がらみの簡単なご報告です。
[58957] 2007年 6月 10日(日)04:06:40oki さん
幕末の勝浦
幕末時に「勝浦」を名乗っていたところは次の通り(旧高旧領取調帳による)。

幕末時現在
上総国夷隅郡勝浦勝浦市
紀伊国牟婁郡勝浦村東牟婁郡那智勝浦町
讃岐国鵜足郡勝浦村仲多度郡琴南町
土佐国吾川郡勝浦浜村高知市
筑前国宗像郡勝浦村福津市
阿波国勝浦郡小松島市、徳島市、勝浦郡

以上のうち、高知市を除く地域は今でも勝浦があります。
区画として最も大きい阿波国勝浦郡が、知名度で最低に近いのは残念な限り。平家物語には、摂津から暴風雨をついて上陸した義経が、地元民にここはどこだと尋ねたところ「勝」浦と聞いて大いに喜び、勇躍屋島に乗り込んで平家に大勝した、という逸話もあるのですけどね。
旧横瀬町と生比奈村が合併して誕生した勝浦町はもちろん、徳島市勝占町も元来は勝浦郡に属します。

私の父は、「勝浦」を「かつら」と発音します。京都の桂女も、「勝浦女」と表記されたことがあるようです。高知市にあるはずの勝浦浜村は、旧高旧領では浦戸村と併称されており、「よさこい」にいう「月の名所は桂浜」は、この勝浦浜村と見て間違いないでしょう。
要するに、勝浦=桂ということで、日本語にはこの手の表記は珍しくないと思います。大隅=大隈などというのはかわいいもの、と言うべきでしょうか。
[58922] 2007年 6月 9日(土)04:20:14oki さん
「小倉町」についての情報
[55501] 88 さん 市町村合併情報 履歴情報 苦悩日記 No.4
(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書(幕末以降市町村名変遷系統図総覧)では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?

上記の件は私も疑問に思っていたのですが、真相究明につながる(かもしれない)資料を見つけたのでご報告しておきます。
資料名は1887(明治20)年付け内務省地理局編纂の「例規類纂(近代デジタルライブラリー所収)」で、その71ページを見てください。
福岡県が1886(明治19)年10月に、豊前国企救郡郡小倉旧25町の町名復活を求めて提出した「伺」と、それに対して87(明治20)年に内務省が発した「指令」が記載されています。引用すると長いので原文はデジタルライブラリーを見ていただくとして、要旨は以下の通りです(私の解釈が入っています)。
・小倉は本来25の町からなっていたが、1875(明治8)年の地租改正の際に、旧小倉県がこの25町の地番を「小倉町」の名で1町に編制したため、公式には25町が存在せず、小倉町のみが存在することになってしまった。
・しかし、小倉町は25町の総称で、実際には旧25町が存続しており、それぞれが「小倉○○町」として通用している。旧25町を一括して小倉町として扱うのはきわめて不便なので、旧来通り25の町名を使用できるようにして欲しい。
・これに対する内務省の指令は、現在のまま「小倉町」1町とすべし。ただし、室町、八百屋町のような旧町名を「字として加用」するのは構わない、というものです。

これから見ると、郡区町村編制法の時代、公式には、小倉は「小倉町」という一つの町として扱われたようで、その点では「総覧」の記述は正しいと考えることができます。

しかし、ここで新たな疑問が生じます。内務省地理局が同じく1887(明治20)年に編纂した「地方行政区画便覧」には、小倉室町、小倉八百屋町をはじめとする25町が記載されており、小倉町はどこにもありません。この扱いは、久留米、柳川など他の城下町とまったく同じです。小倉室町等の25町は、福岡県(豊前国)企救郡に直結する独立した町で、同県(筑後国)御井郡久留米両替町などと同等の存在と見ざるを得ません。この扱いは、1881(明治14)年の「郡区町村一覧」でも同じです(こちらは「小倉」の冠称がありませんが)。
上記「伺」の記述が正しいとすれば「地方行政区画便覧」の記載はそれと矛盾しますし、「便覧」が実態を反映しているなら、「伺」に記述されたような不都合が生じるとは思えません。
一体どちらが正しいのか、ひょっとして両方とも正しいのかもしれないが、それは当時の地方制度が非常に混乱していて、明治政府の担当部局である地理局でも実態を把握しきれていないということではないのか、色々考えるのですが、正直言って私には判断がつきません。

却って謎を深める結果になってしまったかもしれませんが、とりあえず、ご報告です。
[58920] 2007年 6月 9日(土)02:28:29oki さん
ぶどう餅とぶどう饅頭
[58882]  今川焼 さん ぶどう饅頭

[58879]般若堂そんぴんさんの
本来は「武道餅」だったそうですね.う~ん,「ぶどうパン」とは違うのか……
を見て「よもや…」と思ったのが、徳島県美馬市穴吹町の「ぶどう饅頭」。

「ぶどう饅頭」のご紹介をいただき、有り難うございます。

かつて、白桃大人の
[47639] かの有名な「巴堂」の武道モチです。色とカタチは葡萄そのものです。
を読んで、三本松にもぶどう饅頭と似たぶどう餅なるものがあったのか、と思ったのですが、ぶどう饅頭まで出てきて黙っているわけにはいきません。

ぶどう饅頭は、金長狸に由来する「金長饅頭」とならび、徳島を代表する銘菓です(単にメジャーなものがこの二つしかない、ということですけどね)。
色と形は葡萄そっくり。今川焼さんのリンクされたものより、色についてはこちらの徳島新聞のサイトが分かりやすいですが、葡萄そのものの藤色をしています。「武道の上達祈願のため多くの人が剣山を訪れていたことから、土産物として武道と同じ語呂でブドウの形をした菓子を開発した」ということですが、穴吹近辺は葡萄の産地でもあることから、ほとんどの人が葡萄饅頭と理解して買っていると思います。饅頭といっても普通の餡が皮に包まれたものではなく、言ってみれば粘りのない羊羹のような代物で、外側に薄皮があるので辛うじて饅頭と称してもいいのかな、というようなものです。
一方、ぶどう餅については、申し訳ないことに私はまったく知りませんでした。「糊状の米粒でさらし餡を包み込んだ一口サイズ」という記述があったので、餡を餅でくるんだものだと思っていたのですが、「いうなれば、薄皮饅頭の皮に包まれた乾燥した赤福の餡」とも表現されています。
その上、葡萄そっくりで武道が起源やったら、ぶどう饅頭とまるで一緒やないか。どっちかがパクったんかい。
ということで、少し調べたのですが、東かがわ市商工会によると、ぶどう餅の誕生は170年前、ぶどう饅頭のほうは先ほどの徳島新聞で90年以上の歴史ということですから、どうもぶどう餅の方に分があるようです。
ぶどう饅頭がぶどう餅を模倣したのか、はたまた独立に考案されたのか詳細は分かりませんが(どうも前者のような気もします)、阿讃山脈の両側で生産された和三盆糖の系譜を引くもので、乾燥して水に恵まれなかったこの地域の歴史を反映した銘菓と考えたい、と思います。
とりあえず、結構美味しいものですので、万一徳島に来られることがあれば、騙されたと思ってぶどう饅頭をお土産に買っていただくよう、お願いするものです(落書き帳のメンバーとして三本松のぶどう餅を差し置いてぶどう饅頭など買えないというのなら、それは仕方ありませんが)。
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ところで、先に言及した金長饅頭は、しつこい甘さが敬遠されてか現在は人気凋落し、代わりに同名のサツマイモを原料とした「なると金時」なる菓子が、ぶどう饅頭と並んで徳島の2大土産品になっています。本物のなると金時の段ボール出荷箱を模した外箱のデザインが、いかにも徳島らしい田舎風の味を出した銘品(?)ですので、来徳の折りにはこちらもよろしくお願いします(常連メンバーの「なると金時」さんとは特に関係がないと思いますが)。
[58864] 2007年 6月 6日(水)00:07:53oki さん
四国の渇水~徳島側からの視点
ご無沙汰しております。
四国の渇水状況について、香川用水の問題など、主に香川県のことについて議論が進んでいるようなので(もう過去の話題かもしれませんが渇水状況が解決したわけではないので)、地元出身者として、徳島側から見た考えを一つ。

[58781] hmt さん
せっかくできている早明浦ダムと香川用水が、県境の壁に阻まれて生かしきれないという姿には疑問を感じます。
「四国三郎」は、兄貴の坂東太郎に比べれば、もともと懐が小さいというハンデがありますが、それでも精一杯の力を発揮できるような仕組みを整えてゆく必要があると感じた次第です。

仰ることは誠にごもっともで、合理的に考えれば、05年渇水時における徳島側の対応はきわめて理不尽であり、香川県民から見れば惻隠の情のかけらもなく、第三者の目には地域エゴそのものと感じられると思います。
しかし、徳島側にも言い分はあります。端的に言えば、徳島の吉野川流域というのは、決して水に恵まれた地域ではないのです。より正確に言えば、「利用できる水に関して、非常に不自由してきた地域であった」ということでしょうか。

池田以東の吉野川は中央構造線の谷を通って紀伊水道に注いでいます。そのため、吉野川の河道は両岸の段丘面に比べて低く、通常の方法では吉野川本流の水を農業に使うことはできませんでした。
江戸時代、大河の中下流には用水が開削され、流域は水田化されて穀倉地帯になるのが一般的な姿でした。この場合、水量が増える中流域に堰をつくって取水し、等高線に沿って長大な用水を引き回し、流域を灌漑するのが通常の手法です。しかし、吉野川は河道が低いため、この手法がとれませんでした。本流から水が得られなければ支流から引水するほかないわけですが、吉野川流域の徳島平野は四国山地の北側に位置し、気候的には讃岐平野とさほど変わりません。それでも、四国山地に源流を持つ南岸側はまだしも、阿讃山脈を源流とする北岸は、用水確保という面では讃岐平野と条件は同じなわけです。そして、特に中流域においては、北岸平野の方が南岸よりよほど広いのですね。
このため、徳島平野の広い範囲が、江戸時代を通じて畑作地のまま留められました。以前にもご紹介した「町歩下町帳」によれば、江戸中期における四国の水田、畑地の反別(面積)は以下のようになっています(反別の単位は町)。

田反別畑反別反別計田%
阿波11818204393225737
讃岐2203670502908676
伊予29144221175126157
土佐21590114123300265

一見して明らかなように、阿波の水田率は他の3国に比べて極端に低い数値です。その理由が、県内第一の平野である徳島平野で水田化が進まなかったことにあるのは明らかでしょう。藩政期、阿波藩の穀倉地帯は徳島平野ではなく県南の那賀川流域と淡路だったのです。

以上のように、藩政期の吉野川流域は讃岐平野と同様に水に恵まれない地域だったのですが、状況はむしろ徳島の方が悪かったと言えるかも知れません。讃岐の場合は単に大きな川がないだけですが、徳島の場合は目の前を滔々と流れる大河がありながら、その水を利用できないわけです。しかも、この川は平常時には何の恵みももたらさない代わり、ひとたび大雨が降ったときはとんでもない暴れ川となって流域の村々を襲いました。「吉野川洪水史」によると、万治二年(1659)から慶応二年(1866)までの二百年間に、阿波国内で約百回の洪水(風水害)があった、とされています。
さらに悪いことがあります。江戸時代、吉野川流域が全国随一の藍作地帯だったことは周知ですが、その背景には、上で見たようにこの地域が水田化困難だったこともあります。藍という作物は多量の肥料を必要とするため連作不可能とされているらしいですが、藍を経済基盤としていた阿波藩は実に巧妙な策を案出しました。毎年のように氾濫する吉野川に堤防を築かず、上流から流下してくる豊かな土壌を、氾濫時に藍畑へ自然客土するという手法です。ナイル川の氾濫によって肥沃な土壌を補給していた古代エジプトと同じようなものですね。
これによって藍の連作が可能になり、阿波藩は四国随一の経済力を手にします(このほかに阿波藩は、斎田(鳴門)の塩、那賀川上流部の材木という商品を手中にしており、藩都である徳島城下は全国でも有数の都市でした。もっとも、それで領民が幸福だったか否かはまったく別の話ですが)。
吉野川に堤防を築かずに肥沃な土壌を客土するのは、藍の栽培に関しては合理的なやり方でしょうが、流域に住んでいる農民にとってはたまったものではありません。豪農層は高台に石垣を築いてその上に家を建て、洪水時に備えたようですが、一般の農民は溢水のたびに逃げまどわなければならなかったでしょう。
加えて悪いことがありました。徳島平野は四国山地の北側に位置しますが、吉野川の源流は山地南側の土佐にあります。そのため、徳島平野でたいした降雨でなくとも、土佐側は豪雨で、それが前触れもなく洪水になって流域平野に押し寄せることが少なからずあったのです。徳島側でも大雨が降って洪水になるのを「御国水」、土佐だけで降った水が押し寄せるのを「阿呆水」として区別する用語すらあったようです。

このような状況が最終的に解決されるのは、吉野川総合開発によって早明浦ダムと池田ダムが建設され、池田ダムから取水する全長69.2kmの吉野川北岸用水が完成する1990年になってからで、北岸地域が全面的に水田化したのは北岸用水の開通後であったようです(北岸用水の工事が始まったのは1971年です)。
一方、同じく池田ダムから取水する香川用水が、阿讃山脈を貫く阿讃トンネル(5032m)を通じて通水したのは1974年です。このときは上水道だけの通水で、農業用水、都市用水の本格通水は75年、東かがわ市までの全線通水は78年とのことです。

吉野川流域の住民から見れば、歴史を通じた水不足の状況は香川側と同じです。一方、香川の方は吉野川の洪水による被害をまったく受けておらず、徳島側だけが引き受けてきたわけです。ところが、流域開発による利益は香川の方が先に享受することになります。また、明治以降、徳島県民の香川県に対する感情は微妙なものがあります。有り体に言えば、江戸時代には徳島の方が先進地であったにもかかわらず、明治以降、宇高航路が開かれた香川の方が四国の玄関口になった結果、高松の方が徳島より都会になり、徳島県民は香川から田舎者と見下されてきた(と徳島県民は思っている)、という背景があります。
このような状況の中で、それが国土計画上合理的だから吉野川の水を香川県に分水します、といっても、徳島県民がはいそうですかと納得するわけはありません。
河川維持に必要な 13t は別として、 30t が1975年の早明浦ダム建設以前から徳島県内で取水利用されてきた実績値で、水利権として認定されることにより、徳島県の「財産」になっているわけなのでしょう。
ということですが、以上のような吉野川の水利用事情を考えれば、30tの方も、徳島県内で実際に利用されてきたかどうかには疑問符がつきます。しかしこの分を、徳島ではダム建設前は利用不可能だったのだから香川用水にも回す、などということを言い出せば、吉野川総合開発そのものが不可能になっていたでしょう。要するに、吉野川に関する徳島県の「不特定用水」(既得権)なるものは、過去千年以上の洪水被害を一手に引き受けてきた吉野川流域住民に対する配慮から設定されたもの、と私は考えます。この地域の住民は、吉野川に対して愛憎様々な感情を抱いており、それにはこの地域に耕地が開かれた、遅くとも2000年前からの歴史があると思われます(阿波のうち吉野川流域の古代名は粟国で、これは古代から水田化不可能で畑作地であったこの地域の特性を表しているのでしょう)。
現徳島県知事である飯泉嘉門氏は大阪府池田市出身の自治官僚ですから、このような徳島県民の思いを共有しているとは思えません。しかし、彼の支持基盤である県会議員は流域農民の意向を無視できませんから、「吉野川水系水利用連絡協議会」では、「他の出席者があっけにとられるような態度」しか取れないのでしょう。

私は、以上のような歴史的背景に照らしても、香川用水に対する徳島県民の対応が倫理的に正しいとは思いません(後で記すように、私が吉野川流域の出身者でないことが大きな理由でしょうね)。しかし、香川県民が、長年に亘って吉野川の洪水と闘ってきた流域住民に対し、その歴史的背景に敬意を表した上で、配水を要請する態度に出ているのかどうかについては、いささか疑問があります。
「この辺りは『阿波の北方』いうて、昔から水争いが絶えんかった。だから、香川に分水するなんて、昔は絶対、考えられない。不特定用水? 知事さんの発言が地元の感覚、流域の声を代表していると思う。ここでうんと言えば、『県は何やっとんぞ』と農家が黙ってはおらん」
この吉野川流域農民の発言に対し、愚かしい地域エゴと切って捨てるのは簡単ですが、それでは問題は一歩も前に進まないでしょう。これは論理ではなく感情や情念のレベルに属する事柄であり、その背景には、以上のような歴史を通じた吉野川との愛憎一体となった関係があります。情念に論理を対置するのは愚の骨頂でしょう。

ということで、香川県民の皆様には、どうして香川用水の配水に関して徳島県民が常軌を逸した対応をするのか、その歴史的背景にもご理解をいただき、徳島側の重苦しい情念を解きほぐす形での説得方法を考えていただきたい、と思う次第です。

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ところで、私自身は吉野川流域ではなく、那賀川流域である県南の阿南市出身です。客観的に見て、現時点では吉野川より那賀川の方が危機的状況です。吉野川水系では早明浦ダムの貯水率が55%で、徳島用水の取水制限が13.9%、香川用水20%節水に対し(6月1日現在)、那賀川水系では長安口・小見野々ダムの貯水率はわずか7.6%、第6次取水制限で農水、工水ともに60%節水(5月24日)という状況ですからね。ところが、この掲示板で流れるのは香川側の状況ばかりで、那賀川流域への言及が皆無だったので、事情を知って欲しいというのも、久々に書き込みをした理由です。
那賀川流域が危機的な状況になっても、吉野川流域からの分水は一切ありません。しかし、香川県に分水しているのに同じ県内に分水しないのは不合理ではないか、という意見は特に出ていないようです。物理的に考えて、四国山地の剣山山系をぶち抜く分水トンネルの建設は非常に困難でしょうが、それだけではありません。
先日、田舎で一人暮らしをしている父親に電話をして状況を聞いたのですが、農業・工業用水は別ですが、上水で供給される一般的な生活用水にはまったく問題がないとのことでした。ネットで事情を調べてみると、阿南市の上水道は那賀川下流部の井戸から取水しており、上流ダムの貯水状況とは無縁のようです。実のところ、この点は今回調べて初めて知ったことで、阿南市に住んでいたときは自宅に来ている水道の水源がどこにあるかも意識していなかったのですね。
那賀川水系の井戸から取水する以上、究極的には那賀川の水の有無に関係するわけですが、この川の源流部である木頭地域は全国でも屈指の多雨地域で、04年には年間6000㎜近い降水量を記録しています。これは少し極端ですが、年間3000~4000㎜の降雨はごく普通で、それが伏流水となって何年もかけて下流に流下し、それを上水源として取水しているのでしょうから、上流のダムが空同然になっても下流の上水道は特に問題ない、ということのようです。
この点は、ダムの水がなくなれば即座に飲み水に影響が出る吉野川流域や香川用水流域と異なるでしょうね。その分、阿南市を含む徳島県南部は台風の常襲地で、それによる被害は常に受けていますが。

同じ渇水といっても、四国山地の北側と南側では性質がまったく異なるということでした。
上水には影響がないといっても、農業・工業用水が現在のような状況では産業活動に大きな支障が生じることは確実ですから、梅雨時の降水や、あまり被害のない雨台風が四国南部に襲来してくれることを願って、今回の書き込みを終わります。
[58590] 2007年 5月 21日(月)01:02:49oki さん
藩政村から明治大合併へ
[58561] 88 さん
 市区町村変遷情報 関連 まとめレス など

ご無沙汰しております。常時書き込むのは時間的に無理なので、今後も間を置いての書き込みになると思いますが、どうか御容赦のほどを。

いろいろ御託を並べるより、具体的にやってみた方が早いと思い、土地勘のある徳島と千葉について「天保郷帳」、「旧高旧領」、「地方行政区画便覧」、「新旧対照市町村一覧」、「幕末以降総覧」などを参照しながら、藩政期~明治大合併時の異動を追ってみました。手をつけたのは徳島の旧那賀郡、海部郡、千葉では千葉郡、葛飾郡、印旛郡などで、この2県だけでも全部をやるのはかなり大変ですね。

幕末以降総覧は図書館から借りてきて見ているのですが(買うのはフトコロに響く)、これだけの資料を個人が独力で完成したことには敬服せざるを得ません。しかし、同書の「序」で筆者自ら書いているように、「参考資料による不一致、現地市町村との食い違い」などが、特に明治合併期以前にかなりあるようです。

徳島に関しては、那賀川中上流の山村で、「旧高旧領」に記載がなく、「新旧対照」と「幕末以降」に記載されている村が相当数あります。また郷帳では、旧高旧領とも異なる記載が多々見受けられます。いずれも、石高数十石、人口数十人程度の集落で、小名であるか独立村であるか、藩からの扱いそのものが曖昧な存在のようです。

千葉については、「幕末以降総覧」で明治維新以降の改称、合併、分立等について注記がされていますが、それに漏れているものが相当数(感覚では半分以上)あり、それらの合併時点等は不明です。

徳島の分については、平凡社の歴史地名辞典を読んでも、藩政期に独立村だったのか、明治以降に独立村になったかの判断がつきません。千葉の分はこれから調べます。
藩政村から明治合併期までの異動を明らかにするには、明治政府によるこれらの扱いを史料によって跡づける必要があります。「幕末以降総覧」の筆者も、平凡社、角川の地名辞典はもちろん、各県の市町村合併誌も参照しているようです(「市町村合併誌」というのはよく分かりませんが、県史の資料編などではないかと思います)。それを今から調べても、結局は時期不明というのが相当出そうな感じです。前に書いた、国立公文書館にあるはずの内務省布達を調べたいと思っているのですが、時間的な余裕がないのが実際のところです。

調べた結果はご報告したいと思うのですが、落書き帳に直接書き込むのは量が多すぎます。エクセルやCSVのファイルをやり取りできる方法はないもんですかね。
[58247] 2007年 5月 2日(水)02:52:55oki さん
明治初期の町村分合資料
明治初期の町村分合の資料については
[55276] Issie さん 内務省告示
実は町村の異動について「官報」が使えるのは,1947年5月3日の地方自治法施行以降のことです。それ以前の「市制」(明治44年法律第68号)・「町村制」(明治44年法律第69号)の下では,市の異動については 内務省告示 による周知の対象とされていましたが,町村の異動はその対象とはされず,したがって「官報」には掲載されず,「法令全書」にも収録はされませんでした。
という情報もあったので、原資料の入手はまず無理だと思っていたのですが、ひょっとして可能性があるかもしれません。
国会図書館が運営している「日本法令索引〔明治前期編〕」はご存じだと思うのですが、これの法令分類として「FA02 : 地方制度-地方制度-大区小区・郡区町村制」を入れて検索すると、次のような結果が返ってきました(以下は一例です)。

35. 各府県管下村市改称分合 明治7年5月5日 内務省甲第10号布達
36. 各府県管下村市改称分合 明治7年5月20日 内務省甲第12号布達

これで、例えば「明治7年5月5日 内務省甲第10号布達」にリンクすると、出てくるのは近代デジタルライブラリーの「法令全書第9冊明治7年」で、そこには次のように記されています。
甲第10号(5月5日輪郭付)「各府県管下村市改称分合等別紙之通候條此旨布達候事(別紙略す)」
これから見ると、布達の原文には別紙があり、そこには「各府県管下村市改称分合」の詳細が記されているようなのですが、残念ながら法令全書には別紙が略されています。

布達原文の出所は「内務省布達全書」で、それは次のような文書だそうです。
明治7年から18年までの内務省の布達、達を収載した、編年の法令集である。明治7年の分から年1冊または2冊ずつ刊行された。巻頭に分類別(一部は局別)の目録があり、本文は年によって、すべて発令年月日順に配列したものと、甲乙丙の布達、達に分けた上で、その中を年月日順に配列したものがある。
明治7年から13年までは活版刷りの刊本、明治14年から16年までは個別に印刷配布した布達を合綴したもの、明治17,18年は墨書のものを合綴したものである。
日本法令索引〔明治前期編〕出典資料解題

デジタルライブラリーにある「内務省布達全書」は明治10年の下巻のみで、この時期は政府が町村合併を抑制していた時期らしく、「村市改称分合」の例がないため、具体的な記載内容は分かりません。が、他の布達を見ると、別紙も掲載されています。
この内務省布達全書は、国立公文書館に所蔵され、マイクロフィルムもあるとのことです。したがって、国立公文書館の原本もしくはマイクロフィルムを閲覧できれば、明治7年から郡区町村編制法の公布された明治11年までの町村分合を、内務省布達によって確認できる可能性があります。
国立公文書館にはデジタルアーカイブがあり(国絵図のデジタルギャラリーはその一環です)、そこで「内務省布達全書」を検索したのですが、引っかかってきません。もし検索できても、文書類はまだ電子化されていないので、閲覧したければ公文書館に出向くしか手はないようです。
羊頭狗肉になってしまいましたが、とりあえず情報のご提供を。なお、日本法令索引〔明治前期編〕で検索できた町村分合関係の記事は次の通りです。

35各府県管下村市改称分合明治7年5月5日内務省甲第10号布達
36各府県管下村市改称分合    明治7年5月20日  内務省甲第12号布達          
37各府県管下村市改称分合明治7年7月22日内務省甲第20号布達
39各府県管下村市改称分合明治7年7月30日内務省甲第21号布達
40各府県管下村市改称分合明治7年11月22日内務省甲第30号布達
42各府県管下村市改称分合明治8年1月10日内務省甲第1号布達
44各府県管下村市分合改称明治8年2月8日内務省甲第4号布達
45各府県管下村市分合改称明治8年2月8日内務省甲第5号布達
48各府県管下村市分合改称明治8年6月12日内務省甲第13号布達
49各府県管下村市分合改称明治8年6月13日内務省甲第14号布達
53各府県管下村市分合改称明治8年8月28日内務省甲第18号布達
61各府県下村市合併改称明治9年1月8日内務省甲第1号布達
65各府県下村市合併改称明治9年3月22日内務省甲第5号布達
66各府県下村市分合改称新称明治9年4月4日内務省甲第6号布達
69各府県下村市合併改称新設明治9年4月14日内務省甲第9号布達
70各府県下村市分合改称新設明治9年4月15日内務省甲第10号布達
71各府県下村市分合改称新設明治9年4月17日内務省甲第11号布達
72各府県下村市分合改称明治9年4月18日内務省甲第12号布達
73各府県下村市合併改称新設明治9年4月24日内務省甲第13号布達
76各県下村市改称明治9年5月26日内務省甲第18号布達
78各県下村市分合改称新称明治9年6月1日内務省甲第21号布達
79各県下村市分合改称明治9年6月14日内務省甲第22号布達
84各府県下村市分合改称明治9年8月14日内務省甲第33号布達
104各府県下村市分合改称新称明治11年3月1日内務省甲第2号布達
113各府県下村市分合改称明治11年8月12日内務省甲第24号布達
[58221] 2007年 4月 30日(月)18:51:08oki さん
淵村の存否 明治31年長崎県治一斑
[58149] [58201] むじながいり さん
[58172]88 さん

むじながいり さんの[58201]で結論は出ていると思いますが、傍証をもう一つ。
上記国会図書館近代デジタルライブラリーにある「明治31(1898)年長崎県治一斑」の25ページ(25枚目?)に、当時の長崎県の市町村名一覧が出ています。
西彼杵郡に、小榊村はありますが淵村はありません。この時点で淵村が存在しなかったことは間違いないと思います。長崎県発行の資料ですから、県報ではないにしろ、それに準ずるものと見なすことが可能ではないでしょうか。
また、同じページに、長崎市に編入された淵村の郷名が掲載されていますが、これから見て、淵村から分村した小榊村は現在の長崎市小瀬戸町、神ノ島町の辺りだと思われます(当時、神ノ島は離島だったようです)。

なお、天保郷帳で見ると、村として石高がついているのは「浦上村」だけで、淵村に相当する長崎港西岸の部分はすべて枝村としての郷です。東岸には浦上山里村に相当すると思われる枝郷があります。
しかし、浦上淵村、浦上山里村は、江戸初期から独立した村であり、それぞれに庄屋もいたようです。このあたりの藩政村のあり方は、調べれば調べるほど例外的な事象が山のように出て来るようです。

[58172] 88 さん
一点気になるのは、現在の長崎市淵町の存在。Bパターンが事実であると仮定すると、ひょっとするとここが最後まで残った淵村なのでは?と思ってしまいました。
淵町には淵神社があります。おそらく、この神社が江戸時代の浦上淵村の総鎮守で、村の中心地だったと思われます。江戸時代にも、明治以降にも淵郷というのは存在しないようなので、淵村の時代、もしくは長崎市編入以降に創設された大字だと思いますが、確証はありません。
[58209] 2007年 4月 29日(日)19:45:57oki さん
藩政村について~その6 城下町
今回は、城下町について考えを述べたいと思います。

[58109] 藩政村について~その5 で書いたように、
城下町を構成する町々は、藩政「村」とは別に扱うことが必要
というのが私の考えです。
城下町というのは、領主が家臣である武士を集住させるために建設した都市ですが、その政治的・社会的意義は、従来農村に居住して農民を直接支配してきた武士を農村から切り離し城下に居住させることによって領主直属の家臣団に組み込み、農村からの年貢を領主が直接収納する体制を造り上げることにあった、と思います(この体制が完成したのは地方知行が蔵米知行に転換した江戸中期で、城下町の軍事的意義についてはまた別ですが、くだくだしいので略します)。
江戸期の幕藩体制が封建制であった、つまり中国史の概念で言って「封とは支配すべき領域の境界を定めること,建はその領域に国を建てること」と解するなら、個々の藩は日本の中の自治国家であり、城下町はその首都であると考えることができます。城下町は、領主直轄の特別な地域であり、「年貢を納める藩政村の上に君臨する」もので、郡や村と同一のレベルにあるものではない、というのが私の考えです。
この意味から言うと、
[55501] 88 さん
(2)城下町は、「郡」(あるいは「郷」)には属するのでしょうか? 例えば、福岡の城下町の一つである「天神町」の、「那珂郡馬出村」に対応する呼称は、何でしょうか。 単に何もつかずに「天神町」?「那珂郡天神町」?「福岡天神町」?「福岡城下天神町」?
という問いに対する答えは、「天神町」は、それが属する城下町福岡が一体となって「那珂郡馬出村」などの村の「上」に君臨する存在で、馬出村と同一レベルで扱うことはできない、ということになります。
あえて住所として表記すれば、「筑前福岡天神町」となるでしょうから、福岡は郡と、天神町は村と同一レベルと言えるかもしれません。しかしこれは、福岡が黒田藩の首都であり、領下の村々から年貢を収奪する領主支配の拠点であるという事実を前提として、あえて言えばそう解釈することもできる、ということです。
ところが、このような城下町の存在形態は、当然のことながら明治維新によって激変します。大区小区制の時代は私自身よく分かっていないので何とも言えませんが、郡区町村編制法施行時には、城下町を構成する町々は、村と同一視されるようになったと考えられます。
ただ、これにも、区が編制された城下町と、それ以外とで相違があります。区が編制された福岡などの地域では、府県の下位区分として区があり、旧城下町の町々は区の中に組み込まれました。一方、区にならなかった城下町の町々は、郡の直下に組み込まれます。例示すれば、区が編制された広島では「広島県広島区水主町」で、区のない徳島の場合は「徳島県名東郡寺島町」です。徳島の場合、旧城下町を構成した寺島町は、藩政期に村であった「徳島県名東郡田宮村」と同じレベルの存在として扱われています。
しかし、実際には徳島城下町は維新後も一体的な都市として存在したわけで、それを構成する町々がバラバラにされて旧藩政村と同一レベルで扱われるのは不都合です。そのため、旧城下町の町々は「徳島」の城下町名を冠称し、「徳島寺島町」などと称して旧城下町であることを主張しました。この現象は、確認した限り、区にならなかった旧城下町に共通しています。
このような冠称は、旧城下町を構成した町々が明治大合併時に徳島市になった時点で廃されました。徳島以外でもそうですし、市ではなく町になった城下町でも同様です。いずれの場合も、冠称によって旧城下町であることを主張する必要がなくなったからですね。

「城下町を構成する町々が、村と同一視されるようになった」というのは、区が編制された地域では区と郡が同一レベルにあって、区に属する町と郡に属する村とが同じレベルで扱われており、区が編制されなかった地域でも、旧城下町の町々は郡直下に属して村と同じように扱われた、という意味です。前回の書き込み[58109]で示したように明治以降の統計に突然町が表われるのはそのためですし、この取り扱いは現在でも変わっていません。私は、このような扱い方でよかったのか、という疑問を持っていますが、現時点で何を言ってもどうしようもないことではあります。

ともあれ、旧城下町のあり方が以上のようなものであったとすれば、「市区町村変遷情報」では、旧城下町を構成した町々について次のように扱うのが妥当だと思います。

1.旧城下町については、藩政「村」とは別の存在として扱う。
2.具体的には、城下の名称(福岡、広島、徳島など)を明示した上で、そこに属した町々の名称を列記する。
3.この場合、町々が侍屋敷地であるか、町屋であるかは考慮しない(下位区分として区別することは妨げない)。
4.藩政期の存在としては上記のように扱うが、明治維新後は藩政「村」と同列の存在とする。その場合、郡区町村編制法の施行下では、区の下にあった町々とそれ以外とを判別できるようにする。
5.現在の町丁大字との対応関係では、藩政「村」と同様に扱う。

私の考えは以上です。これだけでは非常にわかりにくいと思いますので、引き続き城下町の変遷事例を書き込むつもりですが、長くなったので今回はここまで。
[58189] 2007年 4月 28日(土)17:54:34oki さん
遅ればせの御礼
[58121] 油天神山 さん おさかな天国

[58131] 淡水魚 さん  ヒイラギの味 

レスが遅れて申し訳ありませんが、貴重な情報のご提供、有り難うございます。
「市場魚貝類図鑑」で調べてみましたが、やはり「オキヒイラギ」ではなく「ヒイラギ」でした。魚体の大きさや体型などから見て、食べるとすればカラアゲ位かなと思っていたのですが、刺し身にもできるというのは驚きです。
とても美味しい魚のようなので、帰省時に手に入ったら料理して食べてみます。

[58124] hiroroじゃけぇ さん

あれはやっぱり藺草でよかったのですね。早島町のHPでは「平成12年には早島町のい草栽培面積はゼロとなり、450年のい草栽培の歴史に幕を降ろしました。」とあったので、少し不安を感じたいたのですが、栽培が復活したのでしょうね。

岡山の繁華街は「表町」ですか。前回は特に調べもせず駅近のホテルに泊まったので、駅前の地下街には足を運んだのですが(結構大きな地下街だったのでびっくりしました)表町の方は行きませんでした。次回は盛り場を徘徊して、「成田家」にも寄ってみます。

以上、かなり間が開いてしまいましたが、とりあえず御礼まで。
[58111] 2007年 4月 22日(日)03:24:34oki さん
あれは藺草だったのか
[58093] hiroroじゃけぇ さん
 常識が常識でなくなる時だってあるんですね
など

藩政村ばかりでは何なので、他の話題も少し。

先月の半ば、藺草を求めて早島まで行ってきました。
というのはもちろん冗談で、たまたま玉野市への出張があったので、宇野線に乗ったときに目をこらして藺草畑を捜したわけです。

私の年代では、「藺草は岡山」というのが社会科で刷り込まれた記憶なので、児島湾の干拓平野全面に藺草畑が拡がっているような印象を持っていました(早島駅前にも「畳表の早島」という大看板が立っていましたし)。しかし、実際にはほとんどの田圃が秋の刈入れ以降そのままになっているようで、緑色の耕地は少ししかありません。緑の絨毯がべったり広がっているのは、早島ではなく久々原駅の東・南方面だけでした。
そのときの観察では、草丈が20~30センチくらい、かなり粗放に植えてある上、田圃に水も張ってなかったのでとても水稲には見えませんでした。
しかし、私は生まれてこの方、自然に生えている藺草というものを見たことがなかったので、ここでの議論を知らなければ、あれが藺草だとは思わなかったと思います。藺草は田圃に水を入れたり落としたりして育てるとのことなので、もしも水が入っていて、季節がもう少し遅ければ、稲と間違えていた可能性は大です。
もしも、「とある18キッパーのおば様たち」が見ていたときに田圃に水が張られていたなら、水稲と間違えても(季節には疑問がありますが)、あながち非難はできないのかな、というのが実感です。

ところで最大の疑問は、私が見た児島平野の緑色の草が本当に藺草なのか、ということなのですが、以上の記述から判断していただけますでしょうか。

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玉野のスーパーで魚売場を観察していたところ、「けっけ」「げた」「ひら」などの興味深いものを見つけました。
特に興味を持ったのは「けっけ(「だいちょう」という別名も併記されていました)」で、縦横ともに5センチ、厚さ5ミリ程度の小魚で、私の故郷である徳島では「ギンバ」と呼ばれ(スーパーでも徳島産と明記されていました)、標準和名では「ヒイラギ」というようです。私の知る限り、防波堤釣りの外道の最たるもので、食用にはしていませんでしたが、高知の方では食べていると聞いたことがあります。
これは各地域によって食用にする魚が違うというだけで、その間に優劣はないと思っているのですが、実際問題として、「けっけ」をどのように料理して食べるのでしょう。教えていただければ試してみようと思っているのですが・・・。

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来月に、また岡山および玉野に出張予定です。玉野はホテルがほとんどないので岡山に宿泊することになると思うのですが、食事をするのにどこかお勧めのところがあれば教えていただけないでしょうか。予算上、お姉様方が侍るようなところは論外、できるだけ安くて岡山らしさが味わえる、朝早く玉野に行くので岡山駅近くのところ、という条件なのですが、もしもご存じであれば、ご教授いただければ幸いです。
出張時の、5月半ばの藺草畑についてはまたレポートを書くつもりです。
[58109] 2007年 4月 22日(日)01:51:29oki さん
藩政村について~その5
[57608]88さん
「藩政村の定義」なるものを確立しないと、同列には議論できないのでしょうか。

[58043]むっくんさん
ながながと書いてきて傍と気づきました。もしかして、[57481]88さんの
「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針
と大して差がないのではないかと。

[58096]むっくんさん藩政村の具体的分析
(2-2)(2-3)(6)を比較してみて私には国絵図に、枝村の記載をするのかしないのか、そして記載した村が枝村である旨の記載をするのかあたかも独立村かのような記載のようにしておくのか、ということに対しての明確な基準が見えてきません。

考える必要があるのは、市区町村変遷情報で取扱う「藩政村」の時点をどこに置くか、依拠すべき基礎資料は何か、ということだと思います。
具体的な計数値を示しておきます。

年号  西暦  町数  村数  計  石高 基礎資料
正保2  1645554595545923292668正保国絵図
元禄10  1695627916279127095466元禄郷帳
天保1  1829634726347230553440天保郷帳
明治6  1873697366973632555897郡村石高帳(宮内省租税寮)
明治6  187311942688208076231017135府県概表(東京・有隣堂)
明治8  1975125936825980852日本全国戸籍表(内務省)
明治19  1986125375871971256地方行政区画総覧(内務省地理局)
(※この数値は、年次も含めて必ずしも正しいとは限りません。私が現時点で把握している数値というにすぎません。また明治になって町が出現するのは、村高がないため幕府の郷帳に記載されていなかった、城下町等を構成する町々が統計に表われてくるからです。江戸期の郷帳では城下町以外の町(新田、宿、浦など含め)も村の中に入っていますが、明治以降の町(これは町だけ)は、新田等を含む村と別扱いです。)

以上から分かるように、村の数は江戸期を通じて増加を続けています。新田開発による新村の出現、枝村の独立村化などによるものです。しかし、単純に増加だけがあったわけではなく、減少もあったようです。
「新田開発(菊地利夫 古今書院 1958)」によると、元禄~天保間の増加村数が1978、減少が1632で差し引き346村の増加(上の表とは合いませんね)、天保~明治間で増加7550、減少1286で純増が6264(これは上表と一致)とのことです。現在でもそうであるように、江戸時代にも村の数は常に変動しており、ある地域が独立村であるかどうかは、時期によって異なってくる可能性があります。そして、独立村であるかどうかは、領主が決めることです。より正確に言うと、領主が決めた村以外に、我々としては判断のしようがない、ということです。
江戸時代に幕府が行なった全国的な村名、村高の総覧としては、慶長、正保、元禄、天保の国絵図、郷帳しかありません。そのうち、国絵図、郷帳が完全な形で残っているのは天保だけです。これ以外に、「将軍の代替りごとの朱印改めに際し、諸大名らより提出された帳簿で,その領知している所領の村名と村高が国郡別に記載されている『郷村高帳』(平凡社百科事典)」があるようですが、全国一律の時点、基準で相互比較を行なうのは無理でしょう。また、「○○村明細帳」などの村方文書(村側で作成した文書)はそれこそ無数に残っていますが、これらをすべて読むのはとても不可能なことです。

[58096] むっくんさん
(2-2)高島郡天増川村(現:高島市)
この村には、梨子木村,六ツ谷村,轆轤(ろくろ)村,水谷村という枝村4村がありました。
天保国絵図にはこの内、梨子木村,轆轤(ろくろ)村が記載されていますが共に天増川村の枝村であるとの記載はありません。
元禄国絵図で見ると、天増川村(30石)と梨子木/轆轤村(18石~併記です)の記載があります。旧高旧領では、天増川村(48石)、梨木村(13石)、轆轤村/六ツ石村/水谷村(6石~これも併記です)が掲載されています。
現在の状況を見ると、すべてが高島市今津町天増川に含まれていると思われます。若狭国境に近い近江の山村であり、現在では天増川の集落以外ほとんど家もないようです。石高から見ても、独立村はおろか、枝村としても成り立つかどうか怪しい程度のものです。
そして、これらが村であるか否かといえば、その時点時点で、国絵図や郷帳に書いてあるように、領主が把握していたのだろう、としかいいようがありません。
村方文書を博捜すれば、梨子木村,六ツ谷村,轆轤村,水谷村という枝村があった、ということになるのでしょうし、村民の側ではムラとして意識していたのかもしれません。しかし、領主としては国絵図に記載されているように把握しているわけです。
このような、領主側と村民側との意識の相違は、おそらく全国の村であったはずで、それらをすべて確認するのは不可能です。

以上のような状況を考えると、とりあえずは、市区町村変遷情報における「藩政村」は「天保郷帳」記載の村とする、というのが妥当な線だと思います。「地名研究必携」の基礎資料が天保郷帳であるのも、このような考えに基づいているのではないかと思われます。
ただ問題は、天保~明治間で増加村数が7550にものぼるということで、この中には江戸期中に独立村になったものもあれば、明治初期に独立村として認められたものもあると思いますが、その区分が私にはよく分かりません。
天保郷帳以降の全国的な村名資料は旧高旧領ですが、これには以下で示すような欠点があります。その後は「郡区町村一覧」で、これは1979年(明治12)12月時点となっていて、「幕末」の資料というのは無理があります。
「幕末以降・・・」の依拠資料を知らないので何とも言いようがないのですが、以上を前提とした上で、幕末期と明治期を区分けしているのであれば、基礎資料として天保郷帳より相応しいでしょう。

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なお、天保郷帳には枝村は記載されていません。郷帳に記載されているのは村高のある村だけで、枝村を記載しているのは国絵図の方です(あくまで原則ですが)。したがって、この時点の枝村を把握するには国絵図を舐めるように見ていくしかなく、全国でこれを行なうのはかなりシンドイことだと思います。
また、「旧高旧領」は、元々明治新政府が維新直後の状況を把握するために編纂した資料だと思いますが、原本は存在しません。写本を木村礎氏が校訂したのが近藤出版社の刊本で、歴博のデータベースはそれに基づいています。しかし、写本は全国分が揃っているわけではなく、存在しない国の分は天保郷帳を流用しています(どの国が郷帳の流用分かは刊本に当たらないと分かりません)。歴博では「誤記や表記の統一性に欠けることが少なくありません」と記載していますが、私が検証した限りでも、明かな脱落がありました。そのため、「旧高旧領」をそのまま基礎資料にはできませんが、デジタルデータが得られるので、PCで扱うにはとても重宝します(私が整理した限りでは、「旧高旧領」記載の村数は64000村くらいです。)

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本当は城下町の扱いについて書こうと思っていたのですが、後にします。
先の表で、明治になって急に町が表われたことからも分かるように、城下町を構成する町々は、藩政「村」とは別に扱うことが必要だろうと考えています。
[58062] 2007年 4月 17日(火)01:57:52oki さん
藩政村について~その4
むっくん さん
[58044] 犬山と西尾の差異
[58043] 新田・枝村・城下町
[58035] 天保国絵図・旧村旧高取調帳・郡区町村一覧

十番勝負でお忙しい中、詳細なレスを付けていただき有り難うございます。
ただ、いくつか誤解があるようなので、その点への説明も加えながら、私の意見を述べたいと思います。

1.明治時代以前は米を中心に社会が成り立っていたのであるから、石高を持つ農村(藩政村)を行政単位の中心とし、石高を持たない町は行政単位の例外事項と見る。

これは私の説明不足だと思いますが、石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
石高の基礎となるのは水田、畑地、宅地の面積で、この面積に石盛と呼ばれる単位当たり収量(1反当たり1石など)を乗じ、これらを総計して石高が決定されます。江戸時代の水田と畑地との面積に関する資料はごく少ないですが、「明治以前日本土木史」所収の「町歩下組帳」では、江戸中期に水田172万町、畑地132万町で、両者の比率は57:43になっています(関東は特に畑地が多く、比率は37:63です)。水田から得られる米は現物納ですが、畑地、宅地は石高をその時々の米価で換算した金納であったようです。
重要なのは宅地も石高に組み入れられることで、結果として農耕収穫のない漁村、港町、宿場町などにも村高が付されます(宅地に収穫高があるわけはありませんが、現在の固定資産税のようなものとして高付けされ、石盛は畑地と同様であったようです)。そのため、
例外として石高を持たない宿場町・港町・門前町などを付け加える
とは言えないわけです。

次に城下町ですが、城下町の特性をきわめて簡単に整理すると次のようになるかと思います。
1.近世初期、兵農分離を徹底するため、従来農村に居住し農民を直接支配していた武士を、藩主直轄地である城下に集住させた
2.集住した武士に消費物資を供給するため、商工業者も城下に呼び寄せた
こういう形で計画的に建設された都市が城下町である。
城下町は武士の居住地域と商工業者(町人)の居住地域に分けられますが、領主直轄地として一体的な都市と考えることができ、その内部は複数の町に区分されています。
また、商工業者を集めるため、先の宅地に関わる年貢を免除されることが普通です(これを地子免除といいます)。武士の宅地に年貢が課されることはありませんから、城下町には石高がないわけです(あくまで原則で、例外は多数あります)。
もっとも、城下町といってもピンからキリまであるわけで、数百の町から構成される大都市から、数町の小城下町まで多様です。さらには、藩主の半数程度は城を持たない陣屋大名ですが、これらについては、厳密には「城下」町が存在し得ない、ということにもなります。

[58044] 犬山と西尾の差異
で展開された各城下町に関する考察は、おそらく考えすぎで、実態はもっと単純なものだと思います。
まず、彦根と西尾ですが、どちらも城下町としては比較的大きいものです。特に彦根は、井伊家35万石、譜代最大の大藩で、嘉永3年(1850)に町方だけで50ヵ町,3099戸を数え、藩士数は元禄8年(1695)に彦根在城だけでは1万9000人に達したとのことです(いずれも平凡社百科事典による)。明治5年頃の数値を反映する「共武政表」では、人口は24368人となっています(共武政表は国会図書館のデジタルライブラリーにあります)。
西尾は幕末期の石高が6万石とさほどでは大きくはありませんが、「江戸時代は西尾藩の城下として栄え,岡崎,吉田(豊橋)とともに三河三都と称された(平凡社)」とのことで、かなり繁華な都市だったことがうかがえます。共武政表による人口は7095人です。
この2つについては、幕末期に城下を構成した町々が明治維新後もそのまま維持された上で(多少の異動はあったでしょうが)、最終的に明治合併期に彦根町、西尾町が形成され、その内部に、旧城下内の町々が大字の形で残されたのだと思います。
この過程で、彦根町→彦根村→彦根村から96町の分立→明治大合併期に彦根町誕生などというプロセスを仮定する必要は特にないでしょう。(そもそも、天保国絵図に彦根村はありますが彦根町はありません。彦根村というのは彦根城下町を建設した際に城下から外れた部分が村方として残ったものだと思われます。また西尾町はありますが、これは西尾城下町の町方の総称と考えるべきでしょう)。
一方、仁正寺(西大路)と大溝ですが、前者は幕末に1.8万石、後者も2万石の極小藩で、いずれも陣屋大名です。つまり城を持っていないわけで、先のように、厳密には「城下」町を持ち得ない藩です。実際のところは、大溝は町だったようですから、武士の居住地のほか若干の町場が形成されていたのかもしれません。西大路は陣屋所在地が村なわけですから、傍目から見ても町と言えるほどの人口集積がなかったのでしょう。(共武政表によれば、西大路村の人口は1646人、大溝が周辺の2村と合併した勝野村が1917人です)。
どちらにせよ、これらは彦根などの城下と違ってその内部構成体である町々を持たず、明治以降は陣屋や武士居住地を含めて村になってしまったものと思われます(現在の地図を見ても、1藩の中枢が所在した片鱗すらうかがえません。)

次に犬山ですが、国宝犬山城はあまりにも有名ですし、その城下町も形成されていたようです。しかし実際のところ、犬山の城主成瀬氏は石高こそ3.5万石ですが、身分は尾張名古屋藩の付家老であり、独立の藩として認められたのは明治になってからです。おそらく、犬山城下町がさほど大きいものではなかったため、明治維新後に犬山村に編入され、犬山村が稲置村に改名された上で明治合併期に犬山町になったものだと思います(共武政表による稲置村の人口は6159人で、西尾と大差ありませんから、犬山城下町の村への編入には何らかの事情が作用したかもしれません。藩政期に存在した犬山村は、犬山城下町になり損なった村方でしょう)。
明治合併前に合併していた町村は、たとえ藩政期に独立村であったものでも大字として扱われず、それが現在まで引き継がれているのが一般的ですから、犬山城下町に関してもその一例と見なして差し支えないと思います。

膳所に関してはよく分からないのですが、
江戸時代には膳所城城下町のうち、町人町は農村たる藩政村からは独立した村とされていてました。
膳所の場合は町人町・侍屋敷町は共に農村たる藩政村の一部であるとの説も有力なので
という記述から推測すると、膳所村などのうちの一部が膳所の城下町になっており、残りは高のついた村方だったのだと思います。膳所藩の石高は6万石ですが、大津という大商業都市が近接していたため、商工業は不振で、つまり町人はあまり居らず、城下町の住民は武士が主体だったのではないかと思います。共武政表による膳所村の人口はわずか1840人ですから、版籍奉還や廃藩置県によって士族が四散した後は独立した町を形成するに至らず、旧城下町が元々の村に編入されたのではないでしょうか。

大津は、都市としては膳所よりよほど大規模です。信長時代の城郭は明智光秀の居城であった坂本ですが、秀吉の時代には大津に移されました。大津が城下町であったのは関ヶ原合戦時までで、このとき、東軍についた大津城主京極高次は籠城戦で西軍の進撃を阻止しましたが、この籠城戦によって大津は焦土と化し、その結果として城が膳所に移っています。しかし、大津自体は家康から地子免許の特典をうけて復興し、東海道の宿場町、琵琶湖水運の要的な港町として幕府の直轄都市となり、元禄期には2万人近い人口を記録しています(共武政表では15932人)。最盛時で100ヵ町を数えたそうですが、天保国絵図の大津町というのはこれら町々の総称でしょう。関寺町に高が付いているのは、地子免許を受けた時点では大津に含まれいなかったためだと思われますが、国絵図、旧領旧高いずれでもわずか9石ですから、すべて地子(宅地年貢)であり、実質的には大津の町と一体化していたと考えていいのではないかと思います。

長くなったので、とりあえず切ります。
[57886] 2007年 4月 9日(月)05:34:43oki さん
藩政村について~その3
疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

江戸時代の「新田」について、平凡社百科事典は次のように解説しています。
『江戸時代の新田には、新しく開発された耕地という一般的な意味のほかに、本田畑に対する新田という法制上の土地範疇としての意味が存在した。本田畑とは、ふつう江戸幕府初期の慶長初年(1596)以前に行われた総検地(古検ともいう)によって石高をつけられた土地をいい、これに対し、その後に新田開発され、寛文・延宝検地や元禄検地(新検ということがある)によって新たに高付けされた田畑屋敷地をすべて新田と称した。新田は、比較的大規模なものは本村の枝村となったり新田村として独立することがあったが、その他の場合は新田高として村高の内に編入された。ただし、石盛が低くつけられるなど、あくまで本田畑とは別扱いであり、後年になって両者の差異が事実上なくなっても、土地法制上の区別は形式的に残された。幕府は1726年(享保11)に新田検地条目を制定したが、この条目による享保以降の新田と区別するために、享保以前に成立した新田を古新田と呼ぶことがあった。』

さて、上記で「新田村として独立」したものは村立新田と呼ばれ、「村高の内に編入された新田」は持添新田と呼ばれています。
前者の典型例は、武蔵野台地の開拓によって生まれた畑作新田や、干拓地に新たに作られた新田です。この場合の「新田」というのは「村」と同義であり、慶長検地以前に村切りされた地域の行政区画単位を「村」と呼ぶのに対し、それ以降の新開村を「新田」と称しているだけです(江戸時代の行政区画の単位名称は多様で、村、新田以外の主なものに町、浦、郷、宿、浜、島などがあります。なかには「新田新田」というのも見受けられます)。享保の新田検地条目以前に村立新田であった地域は村と呼ばれるようになり、それ以降のものは新田と称されたとも言われますが、これも地域によって様々で、必ずしもその原則に従っているわけではありません。

一方、持添新田のあり方は多様で、最終的に独立した村になったもの、枝村であったもの、あるいは新田高として村高の内に編入されたものなど色々です。ただ、新田の特異性は、たとえ村高に編入されたものでも、土地法制上の区別があるため、国絵図等で石高が記載されていることです。
具体的に、大津市の事例を見ましょう。以下は旧高旧領をもとに、現大津市内で「新田」であった地域の地名とその石高を示しています。

旧村名石高
大萱新田354
今村新田98
栗林新田47
入江北新田41
赤尾新田30
小野新田26
入江南新田13
苗鹿新田8
八幡野新田8
荒川新田8
南小松新田8
錦織村地先・大久保新田7
北田新田7
真野浜新田6
今宿新田6
下坂本村地先・大久保新田5
山上村地先・大久保新田4
真野新田3
五別所村地先・大久保新田2
南滋賀村地先・大久保新田1
(石高は簡単のため石単位で四捨五入しています。)

以上のうち、現在も大字・町名として残っているのは大萱新田、栗林新田、赤尾新田だけのようです(すべてを確認したわけではありません)。国絵図によると、大萱新田、赤尾新田は独立村、栗林新田は南笠村の枝村になっています。逆に石高が微少な「五別所村地先・大久保新田」、「南滋賀村地先・大久保新田」などは、それぞれの本村に含まれていると考えることが可能です。
では今村新田や入江北新田、小野新田はどうなのか、今村新田については、国絵図に森村の枝村として今村新田があるので、これかもしれません。入江北新田は分かりません。小野新田はおそらく小野村の内部に含まれていると思われます。
他の新田についても、本村の名称が付されているものはその一部と考えられ、そうでないものはよく分からない、というのが正直なところです。

以上を前提に、「市区町村変遷情報」で「新田」をどう扱うかですが、大萱新田や栗林新田のように独立村、枝村であったものは先にお示ししたのと同様に考えればいいと思います。
問題はそれ以外のものです。
[57500] 矢作川太郎 さん
私としては後世の町名起立に何らかの変更を与えたと思われる新田を中心に据えて考えています。
このように考えてもいいのですが、今村新田のように幕末期には枝村で(?)、現在の所在がよく分からないという事例もあるので、即断も禁物です。可能であれば、詳細は不明とした上で、明治期の村、現在の大字・町名との関係を推定で記載した方がいいのではないかと思います。
[57885] 2007年 4月 9日(月)03:01:12oki さん
藩政村について~その2
[57608] 88 さん
楽しみにしています。お手すきのときに、またよろしくお願いいたします。

レスが遅くなって申し訳ありません。皆様十番勝負に夢中だと思い書き込みを遠慮していたのと、出張が入ったのと、その他諸々ありまして。しかし十番勝負は、あんな問題がどうして解けるのでしょうね。私が今までに解けたのは奥の細道関係の1問だけで、ほかは説明を受けてもよく分かりません。そのため最初から諦めているので参戦する勇気は起きませんが・・・。

さて、以下はあくまで私見です。私は専門的な歴史教育を受けたわけではなく、単なる物好きがいくつかの書物を読んで自分なりに理解した結果を記述してだけで、誤りは多々あると思いますので、その点をご承知の上でお読み下さい。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

江戸時代の村が「独立した村(=藩政村)」であるか否かは、「原則として」、村高(石高)が付されているかどうかによって決定されると思います。
近江の天保国絵図(以下天保国絵図を「国絵図」と称します)を見ると、五別所村には村高が表示されています。国絵図記載の高は私の能力で判読不能ですが、「旧高旧領取調帳」(以下「旧高旧領」)によると280石余のようです。そして、「五別所村内」として「神出村」と「唱文師村」が図示されています。この場合、五別所村が親村(藩政村)であり、神出・唱文師は枝村で、両村の村高は五別所村に含まれているはずです。(鵜川村については、国絵図に村高が記載されており(「旧高旧領」で483石)、天保郷帳の時点では独立した村として扱われていたようです)。
ただし、以上の「独立した村」というのは、あくまで領主の側からの見方です。江戸時代の村は年貢納付に関して「村請制」をとっており、領主は「村」に対して村高に年貢率(五公五民とか四公六民の「公」の部分ですね)を乗じた高の年貢を賦課し、「村」の側はこれを皆済する義務を負っていました。「村」の方では、これを個々の村民に割り当てて所要の年貢を集めるわけですが、領主はそこまで介入しません。どのような手法によろうと、割り当てた年貢を納めればいいわけです(江戸後期になると、他村から米を買って年貢に充てる村もあったようです)。このような「村請」の主体になるのが、領主から見た「村」、すなわち「藩政村」です。

しかし実際には、ほとんどの「村」は領主側から見たような一体的な存在ではなく、小地域ごとに細分されていました。小地域の呼称は、小名、坪、庭、垣内など、地域によってさまざまですが、それらこそが自然的に形成された集落(いわゆる自然村)であり、領主の規定した「藩政村」は「行政村」だと捉えられています(民俗学ではこの小地域を「ムラ」と呼んでいるようです)。
小名などの小地域は、領主から認められなくとも、内部的には村と称していた例が多々あります。また、自力で新田を開くなどによって収穫高を高め、公式に「村」として認められるようになる場合もあります(鵜川村はその一例でしょう)。独立村として認められなくとも、「○○村内△△村」の形で国絵図に掲載されることもあります。神出村などはこの例で、親村からの独立性が比較的高かったからだと思われます。しかし、これはむしろ例外で、藩政村内の小地域は独立村として認められず、国絵図にも掲載されないことがほとんどだったと考えられます。
さて、この「村」内の小地域が明治以降どうなったかですが、神出村は明治初期に村として独立し、最終的に現在の神出開町などになったようです。ほかにも、江戸期には独立した村として扱われなかったものの、明治時代に独立村になり、現在の大字等に名を残している事例はかなりあるようです。逆に、親村の小字扱いで、現在も小字に留まる、あるいは全く消えてしまったものも多数あります。
以上は一般論で、実際のところは、枝村などの存在形態は非常に多様で、私の理解を超えるものが多々あります(平凡社の歴史地名辞典によれば、神出村、唱文師村は江戸時代前期には村高が表示されていたのが、天保郷帳の頃にはなくなったとのこと。なぜなのかはよく分かりません)。同様に、明治以降のあり方も様々だと思います。

以上の記述では、「枝村を藩政村として扱ってよいのか?」という問いへの答えになっていませんが、私の考えは、国絵図などの領主側資料で枝村となっているものについては、「村」として扱っていいのではないか、というものです。先のように、小名などの小地域で枝村として表示されている地域は、親村に対する独立性が比較的高く、明治以降は独立した村になり、現在も大字として残っているところが多いからです。
「市区町村変遷情報」の充実を図るという観点から見れば、神出村の場合は明治以降独立し、現在も大字・町名に名を残しているわけですから、独立した村として扱うのが自然だと思います。(この場合、幕末期に「枝村」であったという情報を付加した方がいいと思います)。唱文師村は明治以降の動向が不明ですが、とりあえず情報としては記載しておき、その後の経緯は不明としておくのがいいのではないでしょうか。
幕末時の独立村で、現在は大字内の小字(もしくは通称地名)に留まり、あるいは全く消失してしまった地名もかなりあるという現実を考えると、以上のような扱いが妥当ではないかと考えるのですが、いかがなものでしょう。
[57484] 2007年 3月 31日(土)05:51:30oki さん
藩政村について
[57481] 88 さん

藩政村や城下町の時代になると資料が乏しく、また、その中でもどの資料を採用すべきものか悩ましい(判断するほどの材料も少ない)ことも多いと思います。

初めまして、okiと申します。地理と地図は子供の頃から好きで、かなり前からROMっていました。どちらかというと歴史地理的な分野に興味が強く、Issie先生やhmtさんの卓見には敬服しています。
皆さんに刺激を受けて、藩政村と現在の町丁大字区域との対応関係を地図上に表現できないかと考え、可能な資料を集めて悪戦苦闘しているのですが、なかなか思うようにはいきません。
この間の、88さん、むっくんさんなどの議論を読んでいて、ひょっとして私でも少しはお役に立てるかもしれない、と思って投稿することにしました。すでにご存じのことも多いでしょうが、お読みいただければ幸いです。

明治以降の自治体と藩政村との関係を考える場合、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」など、これまでにあがっているものを除くと、基礎にすべき資料としては以下のようなものが考えられます。以下で○をつけているのは、ネット経由で閲覧可能な資料です。

江戸時代末期の資料
1.天保郷帳
2.天保国絵図(○)
3.地名研究必携

明治初期の資料
4.旧村旧高取調帳(○)
5.郡区町村一覧(○)
6.地方行政区画便覧(○)
7.新旧対照市町村一覧(○)

以下、簡単に説明しておきます。

まず郷帳というのは、「江戸幕府が国絵図とともに作成・提出させた帳簿。郡ごとに村名とその石高を書き上げ,一国単位でまとめたもの(平凡社百科事典より)」です。江戸時代に何度か編纂されていますが、その最終版が「天保郷帳」で、年次は天保5(1834)年です。
影印本が出版されていますが、大きな図書館にしかないと思います(東京でも、国会図書館以外では都立中央図書館にしかないようです。大学図書館は別ですが)。

「天保国絵図」は天保郷帳と対になる絵図で、蝦夷・松前、琉球を含む全国の絵図が、国立公文書館のHPで閲覧可能です。urlは以下の通りで(これは滋賀県)、JPEG2000で閲覧する方が便利です。

http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/map/shiga.html

天保郷帳がなくとも、この国絵図を見れば、その時点の村名を知ることが可能です(絵図なので、書体は筆による崩し字であり、活字ではありません。古文書解読の能力がなければ、「素のまま」で読むのはかなりシンドいと思います。しかし、以下の旧村旧高取調帳などで当りを付けた上で見れば、ほぼ読解可能です。これは古文書解読能力のない私の経験から言えることです)。

「地名研究必携」は、長野県地名研究所の滝澤主税氏が天保郷帳以降の自治体の変遷を整理された大作で、天保郷帳記載村名、天保~明治大合併以前、明治大合併時、昭和大合併時まで、昭和大合併時、に分けた記載があります。サンプルは以下の通り。

http://www.geocities.jp/chimeikenkyui/chimeikenkyuu.htm

この本は大図書館以外には所蔵していないと思いますが、入手もしくは閲覧できれば、かなり役に立つと思います。


次に「旧村旧高取調帳」は、「明治政府が編纂した江戸時代の末期時における全国村名目録で、明治初年における近世村落の概要を知ることのできる資料」です。掲載されているのは明治2年(1869)頃の村名で、現在は地名として消失したものも含まれている、とのことです。
近世史家で明治大学教授・学長であった木村礎氏が校訂した刊本がありますが、これをもとに歴史民俗博物館がデータベースを作成しており、同館のHPから検索可能です。

http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param

このDBでは、村名だけでなくその石高も知ることができますが、一つの村が複数の領主に宛行われている場合(これを相給といいます)、同一の村が領主の数だけ検索されます(これがどういうことなのかは、例えば「山城国 乙訓郡 久我村」で検索すれば分かると思います)。そのため、単純に全国の村名を知るためには、データを取り込んで加工する必要がありますが、総件数が97,359件に達するので、結構大変なものがあります。
また、この資料で把握できるのは「石高」の付された村だけです。三都はもちろん、主な城下町の町名は載っていません。町場には田畑がなく、年貢徴収がなされないためです。逆に、石高がつけられるのは「村」だけでなく、在郷「町」、港や漁師町である「浦、浜」、宿場町の「宿」、「新田」など色々なものがありますが、煩雑なのでここでは詳説しません。
それ以外にも、藩政村の特性に起因する色々な問題があり、私自身がかなり前から整理しているのですが、まだ全国の藩政村を一意的に把握するには至っていません。

「郡区町村一覧」は、ご存じの方も多いと思いますが、内務省地理局が明治11(1878)年時点で全国の郡区名およびそこに属する町村名をとりまとめたものです。この時点の町村名を確認できるとともに、旧村旧高取調帳と照合することで、この間に合併・名称変更等のあった町村を確認することができます。国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧が可能で、urlは以下の通りです。

http://kindai.ndl.go.jp/index.html

「地方行政区画便覧」も内務省地理局の編纂物で、デジタルライブラリーから閲覧可能です。市町村制施行直前の明治19(1886)年時点の郡区町村名を知ることができます。また、戸長役場所在町村と、そこに属する町村、戸長役場単位での人口が記載されています。

「新旧対照市町村一覧」もデジタルライブラリーから閲覧可能です。文字通り、市町村制施行直後に、新しい市町村とそこに属する旧町村を整理した資料です。本来、このような資料は地理局が刊行すべきだと思いますが、どういうわけか「東京都和泉橋警察署著作」となっています。同署の署長が府県庁等に問い合わせた結果をまとめたもので、各府県の官吏も警視庁警視にデタラメな資料を提供することはないでしょうから、それなりの信頼性はあると思います。

資料紹介は以上の通りです。
枝村や新田の扱いなどに関しては、私の意見がありますが、長くなったなので次の機会に回したいと思います。

では、今後ともよろしくお願いいたします。


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