[14322]uttさん
岩国だけ、山口県ではないような、異色の雰囲気があるような気がします。
そうですね,岩国に行くと,広島の影響をかなり感じますね.山口県の中では確かに異色の雰囲気ありますね.一つ思うのは,テレビ局が県西部と全然違うことですね.チャンネルをつけると,当然ながら,広島の放送にあわせてありますので,広島ならではのCMを見ることができます.県央部の小郡は福岡のテレビ局がかなり入りますね.
話はそれますが,uttさんの実家は小郡町のようですが,私の母の実家も小郡で,その関係で私の生誕の地は小郡です.だから,JR小郡駅の新山口への名称変更はやっぱち,ちょっと寂しいですね.私は九州と関西での生活も計15年ありましたので,新幹線のホームに降りた時の“おごおり,おごおりです”のアナウンスが地元に帰ってきたなと感じる瞬間の一つでしたから...でも,他県の人からはやはり新山口の方がはるかにわかりやすですね.
話を戻しますが,山口市は盆地な分,福岡の放送はちょっと苦しいです.山口県西部(少なくとも宇部以西の山陽側では)になると,たいてい福岡の放送にあわせていますね.
ちなみに,宇部小野田では,西日本新聞をとっている人はきいたことがありませんね.
小郡の実家では,全国紙と中国新聞をとっていましたね.
防長2カ国は毛利氏であったものの、岩国藩だけ吉川氏であり、長州征伐のときに岩国藩は幕府方に味方したとか。そのときの恨みもあってか、今でも岩国と徳山以西とは溝があるようです。
歴史の話しになってしまいますが,岩国藩は長州征伐,実際,戦闘のおこった第二次長州征伐(山口県では芸州口,石州口,小倉口,大島口の4箇所での戦闘であったことから,通称四境戦争とよびます)でも,長州方についているはずだと思います.
芸州口は,広島・山口の県境である,小瀬川を向かいあい,戦闘しています.
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/wakisho/gif/sikyou.html
下記の資料でも
1865年(慶応1) 7月9日、徳山・岩国両支藩主に上阪の幕府命令が来た。四支藩、山口に集まり協議してこれを辞退した。
とあり,幕府命令に背いています.
http://www.c-able.ne.jp/~tseiso/ishin/h-4.html
また,他の資料では次のような表現をしているものもありました.
幕末の岩国藩は徳川幕府打倒の急先鋒となり、元治元年(1864)(←1866の間違いです)の長州戦争では幕府の大軍を安芸と周防の国境で迎撃して徹底的に打ち破った。これは岩国城破却の恨みからともいわれている。
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/chugoku/iwakunijyo.htm
でも,岩国藩が毛利本家から冷遇されていたのは事実みたいですね.
下記の資料の岩国藩の部分を読みますと.
岩国藩:毛利元就の孫にあたる吉川広家を藩粗とします。
広家の父である元春は毛利元就の次男ですが、鎌倉時代より安芸の地頭であった吉川家に養子に入り、小早川家を継いだ弟(元就の三男)の小早川隆景とともに毛利の両川と呼ばれました。
広家は元春の三男ですが、兄元長の死後1587年に吉川家を相続し、所領14万国を領しました。
1600年の関ヶ原の戦いの際、広家は東軍徳川方が有利とみて東軍への参戦を唱えますが、結局、宗家毛利輝元は西軍の総大将として大坂城に入城します。一方、広家は関ヶ原に出陣しますが、西軍に勝ち目無しと信じる広家は、家康の家臣である本多正信を通じて、戦闘不参加を条件に毛利家120万石の安堵を申し出ました。
しかし、毛利本領安堵の約束は反故とされ、毛利家は取りつぶし、毛利家領地の内、周防および長門36万石を広家に与えるとの沙汰が下されます。広家にとっては14万石から倍増となりますが、毛利家安泰を願う広家はこの申し出を辞退し、周防・長門両国を毛利本家の領土とすることを願い出て認められます。広家はこの中から岩国3万国を領することとなりました。
関ヶ原の戦い時のこの広家の振る舞いからか、吉川家は毛利家から冷遇され、3万石(後6万石)の領地を有しながら、宗藩の推挙がなく正式な藩とはなれませんでした。
とあります.
http://shinsent.hp.infoseek.co.jp/zyoukaku/sannyou.html
県外では会津の人と対立が残っている
さすがに今の時代にそれほど思っている人はいないと思っていますが,親族が福島県の人と結婚するときに,以前私の亡き祖父が“敵の所に行くのか”といった旨のことをいった時には,さすがに回りも“おー”といった感じでびっくりしていました.
会津・長州の対立の訳は,戊辰戦争の怨恨程度としか,私も知らなかったので,調べてみました.
会津の薩長(とくに長州)への恨み
会津の長州に対する恨みは、明治天皇即位に始まります。 孝明天皇時、会津は、幕府の懐刀であると同時に、
天皇からも厚い信頼を得ていました。
ところが、孝明天皇の御崩御(毒殺?)後、薩長が擁する明治天皇が即位すると、会津は、 ”朝敵”扱いとなりました。これが、恨みの始めです。
次ぎは、和平交渉には全く応じなかった事。
そして、戊辰・会津戦争です。
老若男女を問わず殺し、”分捕り”と名付けて、農工商を問わず土蔵の財産を全て奪い、 市井人の妻娘を捕らえて妾にしたり、強姦したり・・。戦いの常とは言え、近代国家を謳う軍隊にしては、酷く、やりたい放題でした。
これを見ていた人々は、薩長を恨み、長くこの話を伝えたものと、 思われます。
(この”分捕り”は、福島県中通り地方の、人夫として使われた農民も、賃金代わりに参加した、という話も伝わっていますが。)
さらに、当時、殆ど不毛の地、斗南藩に流されて、辛酸をなめました。
廃藩置県後も、薩長の政敵会津は、大正時代まで賊軍として、いわれなき差別を受けました。後述しますが、国立の高校・高専校も、 設置されませんでした。
薩摩には、西南の役で、少し仕返ししたので、やや、許せるものがあったとして、長州に対しては、長く恨み を持つ事になった訳です。
(実は、会津藩は、8.18の政変、池田屋騒動、蛤御門の変、第一次長州征伐等、何度も、(頑迷な攘夷論を唱える)長州藩を叩いています。黒船を見ただけの容保や、見た事もない容保の重臣達と、実際に四カ国連合の攻撃を受けた長州では、反省・自己改革の深さが違った、とも思えますが?)
(さらに、第二次世界大戦・太平洋戦争の時、仙台の師団長が山口県出身で、会津や九州の兵は、激戦地に回された。そのため、犠牲が多かった。と、新たな長州への恨みの種を見つける古老も、まだ、会津には居ます。)
http://alco-inf.hp.infoseek.co.jp/komno_htm/aid_reks_baku_go.html
実は6月に郡山へ行く用事があります.一日半ぐらい,時間が取れそうなので,この際,地理だけでなく,歴史の学習も兼ねて,初めての会津,米沢,山形周囲を回ってみようと思います.