[19928] まがみさん
近江八幡付近が気候的なわかれめになるのかも知れないですね。
同地が商業の街として発展した背景には、そうした気候上の境界地である事との因果関係はあるのでしょうか。この時期、瑞龍寺辺りから眺めると、湖越しに冠雪の比良山地が綺麗でしょうね。
踏切における視認性が低下するので、警報機を設置するなどの施設改善に充てるため、
なるほど、これは高架橋下の道路を運転する時など、私も実感できるところです。
[19934] kenさん
深海魚さん方面から片道2時間半とすると、常識的には 「会津」 だと思うのですが? ストレートすぎるかな。
過ぎません。あっさり大正解。(笑)
ストレートに考えると、SL撮影と思われますが?
それに加えて、寝台・座席兼用 「月光型」 が国鉄色のまま、臨時快速として喜多方まで入線し、これまた今年から国鉄色に回帰した定期特急が、週末ならではの若松-喜多方延長を行った為、私の世代にとっては旬の食材が勢揃いした訳です。
翁島-磐梯町-東長原あたりですかね。
その通り。この区間は、前面展望が効きにくい列車よりも、より直線に近い経路を辿る車の方が、猪苗代高原と会津盆地の標高差を実感します。午後になると逆光気味の中、水田や スポット状に点在する集落が陽に映える盆地を遠望するのも、なかなか オツなものです。地形が複雑な事情もありますが、猪苗代湖から流出する日橋川の流路も結構面白いですね。白衣観音像も目立ちますが、いつ頃建てられたものだろう?
磐越西線の撮影地といえば、この辺を紹介する場合が多いのですが、私はどちらかというと、若松-喜多方の水田地帯に惹かれます。若松を挟んで広田と堂島の両隣駅が直線で 2km程度しか離れていない為、先回りして同じ列車の二度撮りが効くのは魅力です。御手軽な場所では、広田側の塩庭踏切と堂島側の郡山街道踏切かな。なお、ここで云う 「郡山」 とは、安積地方のそれではなく、河東町内の地区名です。
藩校の遺構そのものではなく、作られた施設、という匂いを感じましたので、「日新館」かなあ、と。。。
その通り、日新館です。という事は、ここは旧来の立地と無関係に、展示目的で設置された施設と考えて良いのでしょうか。立地が河東町域の丘陵地帯で、鶴ヶ城や飯盛山、あるいは日新館を淵源とする県立会津高校の何れの立地とも、関連が無さそうに感じましたが。(展示内容には興味があります。)
日新館と会津高の間に明確な継承性を求めるのは戊辰戦争に伴う戦後処理の解釈上、少々無理があるかも知れません。旧制若松中学の内容は一切不明ですが、後身の私立会津中学は 1890年設置と、県立二中 (現磐城高) より古参なので、当初から県立で設置されていれば付番対象になったのに、そうならなかった点に戊辰戦争後の確執を感じる深海魚でした。学法石川高も中学として整備されたのは 20世紀に入ってからですが、義塾時代を含めれば会津高に次ぐ古参となります。
この会津中学と対を成した会津高女の後身である会津ぢょしこぉは、2002年の共学化に際し 「葵」 と改称しています。何ぞ徳川家の意を呈した様な命名感覚ですが、さて、その背景やいかに?
「余」 ということは、2,000mを超えているということですよね。飯豊山2,105m、大日岳2,128m。
今春、冠雪の飯豊連峰を求めて ドライブしましたが、見事な眺めでした。塩川以北になると手前の山が障害となる事から、喜多方からの眺望は今ひとつ。やはり河東か湯川あたりから仰ぐのが良いですね。方角的に、国道 49号線に近い甘石山と思われる辺りの山上に電波中継施設らしき鉄塔群が見られますが、あそこに登れば絶景だろうなぁ。
若松→喜多方間の磐越西線でしょうか?
そろそろ稲刈りと思われますので、こうした巡り合わせの良さも、あるいは昨日限りだったかも知れませんね。個人的には、若松-堂島、塩川-及川-姥堂ですと、田圃の広がりを絡めた構図が確保し易い様に思われます。
この日は、河東町域と喜多方市域を二往復しましたが、塩川から磐梯方面に抜ける県道を通った際、塩川町金川地区から東方に広がる水田は、磐梯山系を背景に非常に落ち着いた佇まいで、日本人で良かったと意味不明の感傷に浸った次第。
猪苗代高原との標高差に伴う屈曲勾配区間や、会津盆地における若松や喜多方といった街の位置を考えると、磐越西線が国道 49号線に比べ、方向転換を伴ってまで著しく迂回路を採っていのは仕方ないとして (それ故、新潟方面からの蒸機も、追い駆け撮影が効く事が多いそうです。) 坂下以東の只見線の経路には何の必然性があるのか腕組みモノです。もっとも、この クラスの ローカル線を概観すると、地盤の問題がある為か、水田地帯ではあえて丘陵等との境界部分に線路を設ける事が多い様ですね。(この手法は、地元・水郡線でも多々見られます。) あるいはそうした発想の産物なのでしょうか。
なお、この只見線、六十里越え区間が開通したのは 1971年ですが、それ以前の路線呼称は、只見を擁する福島県側が 「会津線」、新潟県側が 「只見線」 と判り難く、新潟県側は 「只見を目指す」 という、小湊鉄道的な命名感覚だったのかな。