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Issieさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81204]2012年7月29日
Issie
[81200]2012年7月29日
Issie
[81170]2012年7月22日
Issie
[81158]2012年7月21日
Issie
[81139]2012年7月18日
Issie

[81204] 2012年 7月 29日(日)18:04:50Issie さん
Re:町と字、福島県矢吹町の事例
[81198] 皿 さん
矢吹町の町名変更に関しては、どこも探しても見つかりません。

「どこ」というのは,どこを探されたのでしょう。

とりあえず,比較的容易に手に入る情報から探してみることにしましょう。
角川の地名辞典にはお説の通り,「矢吹(町)」の項に「昭和55(1980)年に大字が廃止された」旨が記載され,各大字(明治の大合併以前の旧村・新田)ごとの項でもその末尾で「大字が廃止された」と述べられています。後半の(編纂当時の)現市町村ごと,現行大字町の「現況」について述べた部分でも,矢吹町についてはあえて「廃止前の大字」単位で記載されています。これでは大字廃止後の現況がどうなっているかがわからない。
そこで,現況についてはたとえば昭文社の「県別マップルシリーズ」あたりが便利。これで福島県の矢吹町の地図を見てみると,なるほど,町内の区分の単位が周辺市町村よりも細かい。つまり,大字が廃止されて,その下にあった(小)字が表面に出てきたのでしょう。そのそれぞれが元のどの大字に属していたのかは,もちろん,この地図ではわかりません。

ところで,地名辞典シリーズとして角川と双璧をなす 平凡社 のそれ,「福島県の地名」を見てみると,「矢吹町」の項の総論末尾に同じく「(昭和)五五年国土調査の実施に伴い大字を廃し,字の合併整理を行い現在に至る」と記載してあります。角川よりほんの少しだけ詳しい。
以下,旧村すなわち旧大字ごとの説明があるのですが,そのそれぞれの冒頭に(やはり編纂時点での)現町字名との対応が記載されています。これを見ると,確かにいくつかの現町字名が複数の旧村に重複して記載されていますから,少なくない場所で現町字の境界が旧大字の境界と一致しないであろうことがわかります。やはり,1980年の大字廃止と字の再編で少なからず複数の旧大字にまたがる町字が編成されたことがあったのでしょう。
とはいえ,元の大字どうし,あるいは大字の下位にあった(小)字の境界が相互に激しく錯綜していたわけではないではないかと思います。一部の現町字が複数の旧大字にまたがっていたとしても,それぞれの位置を突き合わせればおおよその位置はわかるのではないでしょうか。
少なくとも

福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません

「全然わからない」ということはないと思います。

また,そもそも大字の廃止は1980年。わずか30数年前のことです。
この程度の「古さ」であれば,それ以前の地図を手に入れるのはそれほど難しいことではないかもしれません。いよいよ,より本格的にというのであれば,国土地理院に かつて刊行された地図のコピーを申請する という手もないではありません。これを見れば旧村の位置はすぐにわかるはずです。

ただし,旧村(大字)間の境界の位置を正確に知りたいとなると,ハードルはグンと高くなります。
もっともこれも,わずか30数年前のことですから,すでに ゼンリンの住宅地図 が刊行されているのではないかと思います。何らかの方法でそれを閲覧できれば,そのハードルを越えることも難しくはないでしょう。
ただ,どこでそれを閲覧できるか,私は情報を持ち合わせていません(国立国会図書館の地図室あたりなら可能か?)。必要であるなら,ネットで検索されることをお勧めします。
[81200] 2012年 7月 29日(日)08:28:22【1】Issie さん
Re:むじながいりさんについて
[81197] 皿 さん
どうにか、このサイトの各都道府県の市町村変遷の一覧が完成したことをむじながいりさんに伝えて、是非この資料を参考にむじながいりさん本人のサイトで全47都道府県のパラパラ地図を完成させてください。

それは無理じゃないかなあ。
よそのサイトの運営に口をさしはさむ義務も権利も誰も持っていないと思いますよ。
もしそのようなご要望があるなら,たとえ返事が返ってこなくてもご自身で直接お伝えするしかありません。
そしてサイトを運営する側からすれば,そのようなご要望にお応えしなければならない義務は全くないし,見知らぬ人からの一方的なメールに返事を返さなければならない義務もありません。もちろん,公的機関や企業が“業務”として行っていることであれば,話は別ですが。
私も自分のサイトを持っていますが,極端な話,「これで飯を食っている」わけではありません。普段の生活の合間を縫ってサイトを運営しているわけですから,傍から一方的に「早めに」とお願いされても,それに応えられるかどうかは周りの状況次第です。もちろん,情報を発信する側として,その情報の「正しさ」を保証する責任があるのは当然ですけれども。
実際に私も「早く更新を」というようなお願いをされたことがありますが,そのような時にはこう答えることにしています。
「そのうちにね。」
[81170] 2012年 7月 22日(日)23:22:52Issie さん
基準の“河”は?
[81159] グリグリ さん
そう言えば、かほく市も参考データにすべきでしょうね。

この市の発足当時に話題になっていると思いますが,これはこの市自体が“川(河)の北”にあるのではなくて,旧所属郡の「河北郡」に由来するのでしょうね。
その 河北郡 は加賀4郡の最北の郡で浅野川以北を区域としたので,“浅野川の北”という意味で理解してよいようにも思いますが,若干保留すべき点が無きにしも非ず。
「河北郡」という呼称が現れるのは中世後半の室町時代のことで,この郡はもともと「加賀郡」という呼称でした。古代を通じて「越の国」はその区分がめまぐるしく変遷し,その都度各国間の境界が移動し,最終的に823年に 越前国 のうちの北部2郡(加賀,江沼)を分けて「加賀国」が設置され,そののちまで続く5国体制(越前・加賀・能登・越中・越後)となりました。そのうちの1郡が 加賀郡 であったことが「加賀国」の国名の由来ですね。合わせて,加賀・江沼両郡がそれぞれ2分割されて,加賀・石川・能美・江沼の4郡を治める国となりました。
で,以来何百年も経ってから“おもむろに”「加賀郡」から「河北郡」に郡名が変わっていくわけですが,単純に“浅野川の北”という意味なのかどうか。むしろ,“加賀国の北”の「加北郡」から表記が変わってしまったということも考えられないか。実際に近世(場合によっては明治)までの過程で郡名の漢字表記が換わってしまうことは珍しくないことですから。

[81164] hmt さん
北海道河西郡、同河東郡

これも意外に難題。
河西郡の芽室町が十勝川左岸を合併してしまったために現在の 河西・河東 両郡の境界は北に移動してしまっているのですが,もともとは十勝川が両郡の境界でした。だから“十勝川の西/東”という意味だ,と言いたいところですが,この区間の十勝川はほぼ西から東へ流れています。素直に考えれば「河南郡/河北郡」とした方が自然です。
河東郡の場合は,より上流の 上川郡 との間で十勝川がほぼ南へ向かって流れているので“河の東”と無理やり解釈することもできそうです。一方,河西郡の方も“東”の 中川郡 との境界が川とは関係なくなっていますが,これは 中川郡幕別村 の一部が編入された結果であり,少なくとも十勝川との合流点に近い区間では 札内川 が両郡の境界であったようで,その意味では“札内川の西”という意味であるのかもしれない。
とすると,「河西郡」と「河東郡」は実はお互いに“対になる郡”ではないのかもしれません。
いや,もっと単純に,北海道に国郡が設置された1869(明治2)年の段階では十勝平野の内陸まで実測が行われてはいないでしょうから方位の測量も完全ではなく,やっぱりサックリと“十勝川の西と東”ということなのかもしれませんが。

[81151] グリグリ さん
島根県 1951(S26).4.1 那賀郡 江東村 新設 1954(S29).4.1 江津市 新設/市制

これも一瞬,“江の川の東”という意味かと思いましたが,この区域は江の川とは山一つ隔てた北の日本海岸で,川とは関係ないようです。地図を見ると現・江津市の北東端に当たり,しいて言えば「江津町の東」という意味であるのかもしれません。

ところで「“江”シリーズ」にはもう一つ,“拡大新潟市”の「江南区」があります。
この区も直接には大きな川を“北の境界”にしてはいないのですが,位置関係からするとこの“江”はやっぱり 信濃川 なんでしょうかね。
区名選定の際にどんな議論をしていたんでしたっけ。
[81158] 2012年 7月 21日(土)18:14:14Issie さん
川東の河南町
[81149][81151] グリグリ さん
なぜ「川西村」が圧倒的に多いのか?
河東、河西、河南、河北
江東、(江西)、江南、江北

こうして並んでみると結構面白いですね。
それぞれの名前には当然個々の事情があるわけで,その辺に「川西」が多い秘密があるのかもしれません。
ところで,

大阪府(南河内郡)河南町

これは“河川の南”という意味ではありませんね。「河州(河内)の南」という意味。
実際は 石川 とその支流の 千早川 の東で,その意味では「川東町」という名前もあり得たかもしれない。

その意味で,滋賀県に「江北」「江南」がないのも興味深いですね。この場合は“濁点”のついた「ごうほく,ごうなん」と読むのでしょうが。江州(ごうしゅう=近江)の北や南ではなく,実際に創作された地名は“琵琶湖の南”の「湖南市」。
東近江市が「江東(ごうとう)市」になることはなかったのでしょうかねえ。

そして実際に“川”に関連する地名の場合。
東京都の「江東区」も含めて,それが“川”なのか“江”なのか“河”なのか,その選ばれ方にも何か傾向があるのでしょうかね。
[81139] 2012年 7月 18日(水)23:17:44【2】Issie さん
揖宿郡
[81134] 88 さん
M22.4.1付け市制町村制施行時から、揖宿郡指宿村と、「指」であったと判断し、修正しました。

「指宿町」の表記の当否については言及しません。それに言及するだけの材料を持っていないので。
ここでは,その前提にある「いぶすき郡」について。

まず,「揖」という字。
常用漢字,あるいはその前身の当用漢字外の文字であり,現代の日常生活にはなじみのない漢字ですが,“軽く会釈をする”という意味の「一揖」(いちゆう)という言葉がとりあえずは身近でしょうか。ここにある通り,現代音は「ユウ」(または「シュウ」),旧仮名遣いの字音表記では「イフ」(または「シフ」)と表記されました。
もちろん,「指」(シ,ゆび)という字とは全く別の漢字であり,ここではこの「イフ」という旧表記が大事です。

平安時代初期に編纂された『和名類聚抄』(和名抄)には,当時(律令制後期の“国郡郷制”)の地名が列記され,それぞれの国郡,さらに一部の郡の郷の読み方が万葉仮名で表記されています。
その「薩摩国」(散豆萬:さづま)の項にあるのは「揖宿郡」という表記。読みは「以夫須岐」と記載されています。後代の“かな”とは違って万葉仮名は“清濁の違い”をきちんと書き分けるのですが,「夫」という字があらわすのは「濁点がついた“ぶ”」という音。したがって,「揖宿郡」の読みは現代と(ほぼ)同じ「いぶすき」であると考えられます。
この郡名に漢字を宛てるにあたって,日本語に「イフ」という音で受け入れられた「揖」という字がちょうど適当な文字として選ばれたのでしょうね。そうして「揖宿」という表記が成立した。

「イフ」という音は,元になった中国語の中古音では ip に近い音であったのでしょう。このような“母音+破裂音”という発音を漢文の音韻学では「入声:にっしょう」と呼びますが,この破裂音は現代のベトナム語や韓国語の“パッチム”がそうであるように,たとえば英語やフランス語の音節末の破裂音のようにしっかりと発音はせず,飲み込んでしまう「内破音」であったと思われます。で,この音を,はるかに単純で貧弱な音節構造(子音+母音)しか持たない“列島”の人々は,この破裂音に無理やり母音( u または i )を加える(そうすると,「イフ」とか「リキ」という日本語の漢字音になる)か,あるいはその破裂音を落として「イ」のように読むことにして日本語の表記に応用しました。
この「イ」という読み方を用いたのが播磨国の「揖保郡」。後ろに「ホ(保)」という音が続く前の部分でわざわざ「揖(イフ)」という字を選んだのは,「フ」の響きが残っていたせいかもしれませんね。
中世になって 揖保郡 は東西に分割されて「揖東郡」と「揖西郡」になります。これを「ゆうとう郡」ではなく「いっとう郡」「いっさい郡」と読むのは,「十本」を「じっぽん」(<ジフ+ホン)と読むのと同じ理屈で,武蔵国の 入間郡 が東西に分割されて「入東(にっとう)郡」「入西(にっさい)郡」となったのと同じですね。

話を戻して「揖宿郡」。
和名抄にあるように,この郡名は少なくとも平安時代前期には「揖宿」と表記されて「いぶすき」と読まれていたのでしょう。もちろん,それ以外の表記や読み方を排除するものではありませんが,少なくとも記録として残っているのはこちらの方。

指宿町一帯は温泉随所に湧出し、温泉量の豊富なことは別府附近以上とも称されているが、古来この地域は「湯豊宿(ゆはしゅく)」、即ち「湯の豊かなる宿」として世に知られていたが、今を去る約千三百年前、天智天皇薩摩大隅地方の巡幸の砌、高須(鹿屋市の海岸)より海路この地へ向われたのであるが、天皇が「人の宿程遠い」と云われたのに対し、案内の者が対岸をさして「湯豊宿」という所がもうすぐそこですと答えたところから「湯豊宿」が転化して「指宿(ゆびしゅく)」さらに「指宿(いぶすき)」と称えられるようになったことが伝えられている。

「言い伝え」は言い伝えとして,これは「事実」なんでしょうかね。
私には,「国引き」を終えた神様が「おゑ」と一息ついた(出雲国意宇郡。←これを某ネット百科事典は「終える」という意味だと説明してますが,「をへる」とは発音が違いすぎる気がします)とか,永年の征服の旅に疲れてヤマトタケルノミコトの足が「三重」に曲がってしまった(伊勢国三重郡)というのと同類の“語源説”であるように思えます。天智天皇が出てくるあたり,「出雲風土記」や「古事記」よりは新しい話であるようですけどね。

そもそも「揖宿」に対する「指宿」という表記がいつ現れてきたのか,というのが興味のあるところです。

ついでに関連して,

[81137] グリグリ さん
ポリネシア語源の説明

これについての当否についても,言及する材料を私は持ち合わせていません。
でも,正直な気持ち,私はこの手の語源説をあまり信用していません。私は門外漢ですが,比較言語学にはこのような単語どうしのつながりを検討する厳密な手順があるそうです。これらの語源説はそのような手続きに則っているのでしょうか。
ずっと以前にも表明したことですが,私は地名の語源については詮索しないことにしています。よほど明確な由来がある(それでも,たとえば有名な「岐阜」と織田信長の関係も厳密に検討すると微妙なところがあるようです),あるいは地形などのような地物と直接のつながりがあるような場合を除けば,“地名の由来”として伝えられているものの多くはかなり疑問があるものではないか,と思うけれども,それを補強することも反証することもできないからです。

ちなみに,これも以前に触れたことがあるかもしれませんが,「道志」という言葉は本来,平安時代の官制に由来するものでもありました。
平安時代中期,都の警察を担当する 検非違使(けびいし) が設置されます。これは“令外官(りょうげのかん)”,つまり律令の規定外の官職ですが,役所の官人は律令にならって長官(かみ)・次官(すけ)・三等官(じょう)・四等官(さかん)の4ランクにわけられ,検非違使ではその“さかん”を「志」(し=四)と呼びました。四等官の“さかん”は官庁において実務を担当する役人であり,検非違使ではその役柄から“武力系”と“事務系”の「志」がそれぞれ配置されました。武力系の「志」に任命されるのはもちろん武士ですが,事務系の「志」には法律の専門家として“明法道”を修めた者が任命されました。この“事務系の志”を「道志」と呼びました。
…長くなりました。
つまり,これが「道志村」ないしは「道志集落」に関係あるかどうかはわかりませんが,「道志」とは本来このような意味の単語であった,ということを申し添えておきます。


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