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88さんの記事が5件見つかりました

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[80341] 2012年 2月 26日(日)23:38:3188 さん
変遷情報検索 異体字等の同一視について
市区町村変遷情報に関して。

[80268][80316] 中島悟 さん で、多数のご指摘をいただいていますが、中島悟さんもおっしゃるように、今回のご指摘の内容は、大きく分けて次の3つに分けられると考えられます。
(1)明らかに別の字であり、入力時の誤りである
(2)旧字体・新字体等が入力の際に一貫しておらず、入力時の誤りである
(3)当時としても表記の揺れがあったと思われ、文献によって表記に揺れがあり、本当の「漢字」を特定することが困難

(1)は言い訳のしようのないで誤りであり、精査し、順次修正していきます。
(2)は各文献を鵜呑みにしたり、編集作業時にその場しのぎで統一方針が定まっておらず誤ったもので、これも順次修正していきます。
(3)は悩ましく、調査も困難を極めるのですが、そのままではデータベースとしての機能が不十分であるので、判断をして何らかの結論を出し、順次修正していきます。

いずれにせよ、市区町村変遷情報においては、その名のとおりあくまで「変遷」をまとめたものであり、途中でいつの間にか名称が変わっていたり、不連続になってしまうことは許されません。変更するためには、改称手続きや、その他の変更するだけの理由が必要です。

(1)(2)(3)とも、内容により調査・作業にかかる時間は差がありますが、少しずつ既に対応しています。詳細については、まとめてレスします。

――――――――――
変遷情報検索の件。
[80316] 中島悟 さん
誤字はともかく、「ヶ」「ケ」以外も異字体を一括検索できるようにはならないでしょうか?
これは、前述の入力そのものの誤りの件とは別に、変遷情報検索の利用者の便宜を図るための観点で、異体字等を同一視する検索システムのご提言であると考えます。
例えば、「一ノ宮村」と思って検索しても想定したデータを発見できず、実は正式な村名は「一之宮村」であった場合。
本人が気づけば、「一之宮村」で再検索すれば事なきを得るのですが、「ない」「検索の不具合だ」となってしまっては元も子もないです。
こういった事態を避けるためにも、現在の
「ヶ」と「ケ」を区別しない
と同様に、便宜を図ろうとするものです。

[80319] グリグリ さん からもありましたが、以下に、「ヶ」「ケ」と同様の、私なりの案を示します。もし、他に何か対象とした方が良いものがあれば、お教えいただければ幸いです。

なお、以下に挙げるものをすべて対象とすると決定した訳ではありません。対象を広げ過ぎると、多大な負荷を与え、かえって検索の性能に影響を与えることがあり、利用者の便宜に逆行するおそれがあるからです。
グリグリさんから、いくつか試行し、その影響を検証してみようとの話がありましたので、それに先立ち示すものです。
なお、例は、実在するものとは限りません。イメージとして例示するものです。
番号対象備考
1ノ, の, 之, 野一ノ宮, 一の宮, 一之宮, 一野宮一宮 をこれに加えるのは困難か
2ヶ, ケ, が関ヶ原, 関ケ原, 関が原関原 をこれに加えるのは困難か
3島, 嶋
4曽, 曾
5館, 舘
6沢, 澤
7滝, 瀧
8竜, 龍
9篭, 籠
10条, 條
11峰, 峯, 嶺
12弥, 彌
13岳, 嶽
単に旧字体・新字体の差異もあれば、異体字もあります。[74087]拙稿で「旧字体・新字体の表記方法について」として方針を述べています。
[80302] 2012年 2月 18日(土)08:41:1288 さん
地名の成り立ち
[80276][80281] EMM さん

門前町門前の件、[80271]拙稿の投稿前に輪島市門前町門前付近の地図で、各字の境が錯綜していることは確認していました。例えば参道は沿道の家屋敷地と異なり切り取ったように「門前町門前」であることも。
M22.4.1の市制町村制施行前に、「門前村」や「走出村」があったこともあり、そのままの投稿となったわけですが、確かに、おっしゃるように「スジ悪」であったようで、 門前町剱地などを挙げれば、紛れもなく、私の趣旨の主張は全く問題はなかったところです。
正式な住所表示が明白な輪島市門前総合支所(旧門前町役場)の住所の例にこだわり過ぎたのは反省点です。

――――――――――
#以下は特にEMMさんあてに限定したものではありません。念のため。
#異論がある方ももちろん多いとは存じますが、観点の一つとして見ていただければと思います。

私が近世村に主眼を置いているのは確かですが、その理由は、単に近世村であるからではなく、さらに遡ると・・・自然発生的に生まれた「自然地名」につながる、ということを見据えているからです。
私の[80270][80271]では、記事番号を紹介しただけで内容には触れなかったのですが、私のもっと根底の主張は、[61545][61847]で述べています。
[61545]
「地名」を、長い歴史の中でたかだか100年しか存在しない「現在の住民」に、恣意的に決定する権利があるのかどうか、個人的には大いに疑問を持っています。「現在の」住民の感覚で判断するからさまざまな誤解が生じるのではないか、と。
[61847]
人類は地上で集団生活をしなければ種の保存も個体の保存も不可能であった。いつ(季節・時間)、どこ(地名)にいけば、どんな食料が得られ、あるいはどんな危険があるのか、集団生活で周知しあわなければ生きていけなかった。多層、多重の集団社会では『あそこ』『こっち』と言う代名詞だけでは円滑なコミュニケーションは成り立たず、必然的に、場所を特定するための言語=地名を大地の部分に命名して使いこなす必要があった。
(「こんな市名はもういらない!」(楠原佑介著、2003年4月30日初版発行、東京堂出版)の要約)
あとから命名した「人為地名」ではなく、その地に人類が初めてつけた、自然発生的な地名こそが、1000年前でも、現在でも、1000年後でも、どの時代でもたかだか100年しか生活しない、「点」に過ぎない個々の「ヒト」が、「線」となった「人類」として見た場合に、「自然地名」が普遍的に最も歴史性を備えた地名であると考えています。

全体の印象として。すごく大雑把な、個人的な印象かもしれませんが、城下町等により開発された地区よりも、いわゆる農村地区の方が、人類が生活し始めて自然発生的に生まれた「地名」が、現在に至るまで残っているように感じます。

私の居住する「高松」も、500年前に他地域の地名を持ってきて命名された、『新しい』地名です。
元々は讃岐国香東郡篦原(のはら、野原とも)郷です。天正15年(1587年)8月、生駒親正が前領主に代わって讃岐国の領主となり、その翌年天正16年(1588年)から城を築き、それまでの高松左馬之助の居城があった郊外の「高松郷」の名を採って、城下を高松、城は高松城(玉藻城)と呼びました。源平の屋島の合戦以来全国によく知られた高松に、との意識もあったようです。
本来の「高松」は、現在の高松市高松町。山田郡高松郷で、「高松」の由来は各説あります。
・古くからこの地に「大松樹」があった(翁媼夜話)
・当地では中国から渡来した漢民族の居住地には高を用い、格別に松をめでたい木としたものから、高松はこの渡来人の居住地に由来(高松地名考)。
「高松郷」の名は、平安期「和名抄」(和名類聚抄)にも見えます。
この「高松」は、城下の「高松」と区別するために江戸期からは「古高松」と呼ばれました。
#参考資料
・「角川日本地名大辞典 37香川県」(角川書店、「角川日本地名大辞典編集委員会編、昭和60年10月8日平成5年2月25日」)
・「香川県の歴史」(山川出版社、木原博幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁著、1997年10月25日第1版第1刷発行)
・「香川県史 第三巻 通史編 近世I」(平成元年2月28日発行、香川県編集・発行)
・「高松城主とその時代」(高松市歴史民俗協会、越智繁杉著、昭和62年3月初版、平成8年10月改訂)
高松城の歴史 (高松市HP内)
現在でこそ「高松市」ですが、「篦原市」「野原市」となっていた可能性も十分ある、その方が、歴史性はある、ということを、私は思い出したように意識することが多々あります。

もちろん、この500年の人類の「歴史」を、他の生物とは異なり、人類特有の文明とともに歩んできた発展の歴史として、ともに歩んできた地名を肯定的に捕らえる考え方もあると思います。
地域要因・個別要因によるのでしょうが、当地付近では、「和名抄」にもある地名が、大字等として多数残存しているように感じます。
[80298] 2012年 2月 16日(木)22:44:4388 さん
真鶴町・・・ 誤)静岡県、 正)神奈川県 / 誤)まなづるちょう、正)まなづるまち
[80296] 白桃 さん
[80295][80297] hmt さん
実は、[64779]拙稿の投稿直後(ただし30時間の訂正可能時間後)に自ら気づいていました。

しかし、どなたからもご指摘の投稿はなく(気づいていた方はいらっしゃるかもしれませんが)、[64866] YSK さん に真鶴町は「まなづる」町か、「まなつる」町か? の新規アーカイブの編集を行って頂いた後も同様でした。

それが今回、4年近くの歳月を経て、この誤りが脚光を浴びてしまいました。
改めてお詫び申し上げます。

もちろん、今回の誤りは、私が真鶴町を含む当該地域が、神奈川県か静岡県か、の意識が希薄であることによるものです。

[80295] hmt さん
【注】結論部(4)に真鶴町(まなづるちょう)と書いてありますが、まなづるまち ではないでしょうか?
これも、私が在住している地域を含め近隣は軒並み自治体の「町」は「ちょう」であることから、無頓着に記述したものです。

>グリグリさん(でいいのでしょうか)
せっかくですので、 [80296] 白桃 さん、[80295][80297] hmt さん、本拙稿も、前述のアーカイブに補う形で追加をご検討いただけますでしょうか?

今更ですので、[64779]拙稿はそのまま晒しておいていただければ、と思います。
[80273] 2012年 2月 11日(土)13:44:2188 さん
市区町村変遷情報 障害発生中です
各位

現在、市区町村変遷情報に障害が発生し、表示に不具合が出ているようです。
グリグリさんに対応を依頼しますので、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。

以下、業務連絡。
>グリグリさん
詳細は別途メールで送付します。よろしくお願いいたします。
[80271] 2012年 2月 11日(土)12:30:50【2】88 さん
合併に際しての地名の表記について その2(主張編)
[80270]の続きです。

■4 香川県三豊市
最後に、災害報道ではありませんが、同様のことが行われている(参考HP)、地元香川県の例を示しておきます。
(参考:H18.1.1付け香川県告示第1号 (pdfファイル、三豊市発足時の字の名称変更の告示))
「郷」の観点を加味しています。「郷(ごう)」とは、「角川日本地名大辞典37香川県」によると、次のとおりです。
霊亀元年に、令制で50戸1里の里を改称したもの。国郡制の最末端の行政区画である。平安中期には、約4,000郷を数えたが、平安後期から律令制の郷制は崩壊し、別に50戸1郷にこだわらない自然村落的郷が発生、太閤検地の村制まで続いた。江戸期以降は単なる広域にわたる地域称になったと思われるが詳細は不明。
近世村平成の合併前誤用(現在)正式私案簡潔版
三野郡大見村大見郷三豊郡三野町大字大見三豊市三野町三豊市三野町大見三野市大見大見
三野郡下高瀬村高瀬郷三豊郡三野町大字下高瀬三豊市三野町三豊市三野町下高瀬三野市下高瀬高瀬
三野郡上高瀬村高瀬郷三豊郡高瀬町大字上高瀬三豊市高瀬町三豊市高瀬町上高瀬三野市上高瀬高瀬
三野郡上勝間村勝間郷三豊郡高瀬町大字上勝間三豊市高瀬町三豊市高瀬町上勝間三野市上勝間勝間
三野郡大野村本山郷三豊郡山本町大字大野三豊市山本町三豊市山本町大野三野市大野本山(大野)
三野郡財田西村財田郷三豊郡山本町大字財田西三豊市山本町三豊市山本町財田西三野市財田西財田
三野郡財田中村財田郷三豊郡財田町財田中三豊市財田町三豊市財田町財田中三野市財田中財田
「財田」は、
古くは財田村1村であったものが、財田上・財田中・財田西の3か村に分かれて成立した
(西讃府志・・「角川日本地名大辞典37香川県」の記述)とのことです。
「高瀬」は、そもそも平安期からある「高瀬郷」が、「いよたいとう」(伊予大道、伊予に通じる大道)を境に南東を半分、北西を下半分とする中分が鎌倉末期に行われ、上高瀬・下高瀬の呼称はこれに由来するもののようです(前掲「角川日本地名大辞典37香川県」)。

――――――――――
さて、ここからは、主として私の主張です。
「五條市大塔町」の件。
土砂ダムの所在地もが「五條市大塔町の赤谷地区」「五條市大塔町赤谷」という誤った表現が行われています。
間違いを指摘云々ということより、地名としては明治の町村制以降のわずか120年(仮に大塔宮護良親王の時代から「大塔」と呼ばれていたと仮定しても700年ほど)によって旧大塔村の範囲を一纏めにしていまっています。近世村であって少なくとも数百年から(延喜式の時代まで遡るとすれば)千年以上の歴史を持つ「清水」を軽視しています。
何よりも、現在の住人にとって、「この間まで大塔村であった」ということだけが眼中にあり、「今回の合併前の町村名を尊重する」というという観点だけで、「五條市大塔町」「五條市大塔町」と連呼し、結果的に、明治の合併前の自治体名であり「大塔」よりも歴史のある「清水」を無視し、意識の彼方に押しやっている、ということになっていると考えます。

「輪島市門前町」の件。
合併を重ねて自治体である 鳳至郡 門前町 となった以降、輪島市との合併前までは、自治体名を表示して「門前町」と呼称することは自然でしょう。広義に解釈すれば、周辺一体が「門前」との考え方もあり得ますが、あくまで、元々の「門前」とは別の、歴史ある地名は「走出」等である、ということを念頭において、の条件付きですが。
しかし、自治体が輪島市となった現在、自治体名である「輪島市」と呼称することは自然として、それと組み合わせての表記が、ここ70~50年しか「門前町」(歴史の浅い「門前」)で代用して呼称して「輪島市門前町」で一括りにしてしまうことは、結果的に歴史の深い「走出」などを軽視していることつながります。「走出」の区域について、「門前」と「走出」のどちらで呼ぶことが長い歴史・地名の観点から適切なのか、と考えます。今現時点の住民の観点ではなく、千年以上前の住民の観点、千年後の住民の観点を意識した上で、今、「輪島市門前町」と、呼称しているのでしょうか。
「『門前』が由緒ある地名である」と言うの反論に対して。市制町村制施行前の鳳至郡門前村の区域がが本来の「門前」であり、どこの範囲でもよいから「門前」を呼称すればよい、というものではないでしょう。
「地名は変わっていくのが当然だ」「今の住民が呼ぶことに問題はない」という反論に対して。逆に質問すると、50年後・100年後の住民が、「門前」という呼称を「そんなのは古くて流行らない」と言い出して「門前」を消す場合でも、一切文句は言える立場ではない、ということです。

(旧)大塔村の範囲を(例えば「清水」を付さずに)自治体名ではない「大塔町」と呼ぶこと、(旧)門前町の範囲を(例えば「走出」を付さずに)自治体名ではない「門前町」と呼ぶことは、一種の「“デッチ上げられた”地名」であると考えます。

「三豊市○○町」の件。
ここ40年ほどの三野町・高瀬町・山本町・財田町の区分、現在の住民の観点ではなく、古来(平安期以降)からの「高瀬」「財田」の範囲を意識することが肝要であると考えます。
「財田」を「山本町」と呼び、「高瀬」を「三野町」と呼び、「勝間」を「高瀬町」と呼ぶ・・・。
せめて、それぞれ「山本町財田西」「三野町下高瀬」「高瀬町上勝間」と地方自治法第260条第1項の「字」(大字)のとおり正確に呼ぶか、いっそのこと、単に「三野市財田西」「三野市下高瀬」「三野市上勝間」と呼ぶ(正式に字も改称する)ことが、そもそもの由来に則した呼び方であると考えます。

――――――――――
「平成の大合併を検証する」という観点に関心を持っている方々も大勢いらっしゃいます。それとは別に、「平成の大合併により地名表記はどうなったのか」について、私は大いに関心を持っています。合併の功罪ばかりに視点が行き、個々の住所・地名の表記(正式なもの、報道等により耳にするもの)に世間ではあまり関心がない、ということに懸念を持っています。
明治の大合併や昭和の大合併のときには、古来からの近世村を、「大字」や自治体の中の「町」として残し、「『町村制』村」は、学校名や郵便局名等として残存しても、限定的であったように感じます。もちろん、私自身は合併当時を直接は知りませんので、平成の大合併前の状況から鑑みて、の考えですが。
それに比して、平成の大合併においては、今回の合併前の町村名(その多くが昭和の大合併の時の自治体名)を尊重するという「タテマエ」の下に、古来からの近世村を軽視しているように感じられます。
#この件については、私も過去に[51540][61545][61847]などで、ついつい力を入れて語っています。「三豊市」「三野市」についても[51540]にて。

地名(住所)表現の基本は、次のとおりであると考えます。
・「自治体名」+「近世村を踏襲した町名・大字名」+(※)
・「自治体名」+「政令市の区名(合併特例区名・地域自治区名等)」+「近世村を踏襲した町名・大字名」+(※)
(※)は、
・小字名(地番区域であるものに限る)+地番による住所表示(○○番地)
・街区符号+住居番号(住居表示実施区域)
#「住所」については、かねてからの予告どおり、詳細を執筆中です。


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