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Issieさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[79484]2011年10月11日
Issie
[79454]2011年10月9日
Issie
[79433]2011年10月7日
Issie
[79418]2011年10月1日
Issie
[79395]2011年9月27日
Issie

[79484] 2011年 10月 11日(火)20:06:35【1】Issie さん
国道の踏切追加?
[79477] 今川焼 さん
ところで、せっかく集めたデータなのでと、Googleマップにしてみたのがこれ→国道の踏切-Googleマップ

これ,面白いですね。
京急が品川を出ていきなり微妙な形で国道15号(第一京浜)と平面交差するのは,さすが元路面電車であった名残ですね。ここは元々,国道の上を走っていたのでした。
京急蒲田の空港線との平面交差は,今は半分だけ。立体化工事が完了すれば,ここの平面交差は解消します。あと何年でしょうか。

さて,八ツ山橋際の微妙な平面交差がありなら,こちらもご検討ください。

*国道16号・JR横浜線 相模原市緑区橋本

ここは“本線”はやや南の国道413号との分岐交差点ともども立体交差化されて陸橋で横浜線を乗り越していますが,側道の踏切が残されています。
16号は踏切の北側で御殿峠を越える“旧道”と八王子バイパスに分かれるのですが,この旧道につながっているのは側道の方です(ただし,内回り:横浜方面のみ)。先の交差点の状況から,16号で八王子方面から津久井方面へ国道413号線に入るためには,陸橋を通らず旧道から側道の踏切を通らなければなりません。実際,橋本駅北口から津久井方面に向かうバスはこのルートで413号線に入っています。
要は側道も立派な国道,ということで,こちらの踏切も仲間に加えていただければ,というお願いです。

※もう1つ追加。
その16号の旧道が御殿峠を越えて八王子市内に入った後,片倉の横浜線と京王高尾線との交差は国道の方がアンダーパスしているのですが,その先の中央線との交差は,こちらは正真正銘,橋本の踏切のような微妙なものではなく100%完全な混じり気なしの踏切です。
是非,こちらは追加を。
[79454] 2011年 10月 9日(日)12:02:30Issie さん
十鉄
…と呼ばれているそうですね,十和田観光電鉄。“正書法”(かなづかい)的には「とおてつ」であるはずですが,「とうてつ」とカナをふるらしい。

[79425] 山野 さん
東北新幹線・「七戸十和田駅」が開業し、利用者が減少、東北大震災で観光客が激減が原因らしいですが。

[79428] hmt さん
確かに十和田市を走っていますが、十和田湖の観光客は利用しているのでしょうか?

[79450] まかいの さん
ルートをあれこれ検討しましたが、十和田観光電鉄ルートはまったく上ってきませんでした。

もうだいぶ前,東北線の交流区間にまだ客車普通列車が走っていた頃,その列車で三沢を通りかかった時にここから分かれていく十鉄の様子を見て,何でこんなところにこんな路線が生き残っているのだろうと不思議に思った記憶があります。南部縦貫鉄道もまだ残っていたっけ。
要は,十和田湖観光のアクセス路線として盛況であるとはとても思えない状態。
恐らくは新幹線の開業を待つまでもなく,まかいの さんの感覚が普通の感覚なのではないかと思います。
たとえば,現在とは違って自家用車での観光などあまり考えられなかったであろう1968年10月の時刻表(いわゆる,国鉄“ヨンサン・トオ”白紙ダイヤ改正号)を見てみると,十和田湖へのアクセスのメインとなっているのは青森駅からの国鉄バスで,1~2時間に1本という実に頻繁な回数のバスが運行されています。
もう1つのメインは,国鉄バスと秋北バスが共同運行する花輪線の 十和田南駅 から(一部は大館駅から)の路線。
だから,観光客の多くは青森駅と十和田湖の間の往復,もしくは 青森駅~十和田湖~十和田南駅~盛岡または大館 というルートをとっていたのではないかと思われます。
もちろん,十鉄を利用した 三沢~三本木(現十和田市)~十和田湖 というルートもあって,三本木乗り換えのバスも午前中は1時間に1本と,青森ルートに引けを取らない回数が運行されているのですが,マイナーな感じは否めません。もっとも,それはこの時刻表(交通公社版)が「国鉄監修」であるせいかもしれませんが。

たぶん,十鉄は「十和田観光」を社名として謳っているし,事実それも少なくない比重を占めてはいたのだろうけれども,基本的にこの鉄道は十和田市内(三本木周辺)と東北線とを結ぶ“フィーダー”(培養線)としての役割を担ってきたのだろうと思います。
これが弘前のようにある程度の都市圏を形成していれば弘南鉄道のように生き残る余地もあり得るでしょうが(ここも,もとは2社競合であったものが一方(弘前電鉄:大鰐線)が維持できずに弘南鉄道(弘南線)に吸収されたものです),十和田市がそれだけの都市圏を持っているようには思えません。さらに三沢との間に「鉄道」を維持できるような流動があるかどうか。
だから十鉄が鉄道として存続していることの方が不思議,という最初の感想に至るわけです。
やはり新幹線の開業が“最後の打撃”になったのは確かでしょうが,それは「観光客の減少」というよりももっと日常的であった 三沢~三本木 間の数少ない乗客流動も奪ってしまった,ということだろうと思います。
そういうわけで,十鉄の廃止は惜しむべきことではあるかもしれませんが,結局は“必然”あるいは“当然”のことだと私は考えています。
[79433] 2011年 10月 7日(金)20:02:21Issie さん
実に失礼
[79431] いろずー さん
とりま失礼

「とりま」ではなく,本当に失礼です。
ここが“上品な言葉遣い”で“高尚な”お話をするサロンである言うつもりは全くありません。
でもその場にはその場に相応しい言葉遣いというものがあるだろうと思います。そして,それは普通の人ならば普通にできるはずのことです。実際に,小学生(当時)もそのようにしてこの場所に加わってきました。
いろずー さんは,ここにどんな話題を提供したいのですか。どんな情報が欲しいのですか。
いろずー さんの書き込みを読んで,残念ながらそれが全く伝わってきません。
「説明不足」以前の問題です。

説明不足で申し訳ない!

その後に「説明」らしきものが書いてあるけれど,ますます意味不明です。その前の N-H さん([79430])の指摘に全く答えていません。
さらに言うに事欠いて「テロ朝」とは何事か。ここは 2ちゃんねる でも ヤフコメ でもありません。この放送局をそのような名前で呼ぶなら,それに足るだけの十分な根拠を挙げてください。

そして本題。

[79429]
十番勝負のネタ

設問の前提条件が極めて不正確です。
N-H さんが指摘されているように,

NHKと朝日新聞社が主催する合唱コンクール

というものが存在しない以上,これは問題として成立していません。
問題を作成するときには,その前提となる事実確認はきちんとしなければなりません。答える側も当てずっぽうに言っているのではなくて,事実に基づいて考えているのです。
だから,いろずー さんの“十番勝負らしきもの”には誰も答えることができません。
もし,真面目な気持ちで「十番勝負のネタ」を提供したのであれば,きちんと事実確認をしたうえで,“本物の十番勝負”の「メダリスト」たちから細々としたツッコミが入れられることのないような,完璧な問題を作って提供してください。
[79418] 2011年 10月 1日(土)21:32:18【1】Issie さん
がっかり門
[79384] hmt さん
「日本三大がっかり名所」として列挙されていたのは、札幌時計台・はりまや橋・名古屋テレビ塔・京都タワー・守禮の門・長崎オランダ坂 でした。

週明けから3泊4日で沖縄へ行きます。残念ながらお仕事で。
最終日は定番の「首里・那覇班別自主行動」なのですが,時間が許せば首里城門前の広場で記念撮影をする予定。昔だったら,その「がっかり門」が撮影スポットだったんですけどね。
班別自主行動の間,私たちは“お客様たち”の様子をそれとなく見守るため,首里と那覇の町を手分けして歩き回ります。今回,残念なことに私は記念撮影の後,首里城内に入らずに那覇の町へ下りて国際通り辺りを回るグループに当てられてしまいました。
実は前回(6年前)にお仕事で行ったとき,是非,復元なった首里城を見に行こうと那覇のホテルでの打ち合わせ終了後速攻で首里に向かったのですが,時間切れで有料ゾーンへは入れず,残念な思いをしたのですが,今回もまた無理そう。
私にとって,首里城内への壁はかなり高いようで。

さて,その守礼門。
私が初めて沖縄を訪れたのは学生だった1981年の夏休みなのですが,その頃は城内がまだ琉球大学のキャンパスに使われていて,とりあえずお城の石垣の復元は進んでいたけれど後は住宅街の中に守礼門がポツンと建っているような雰囲気で,「がっかり」と言われるのもムベなるかな,というものではありました。
でもまあ,あの場所の歴史を考えればしかたないよなあ,と思わずにはいられません。
むしろ,戦争で灰燼に帰する前の戦前には旧王宮は一応“神社”にはされていたけれど荒れ放題だったそうで,だからその頃訪れた方がガッカリ度は高かったかもしれません。
門が再建されたのは1958年。奇しくも東京タワーと同じ年ですが,米軍統治下で高度経済成長の蚊帳の外にあった沖縄でこれを復元するのは多くの困難があったのではないかと推察します。とりあえず,これを復元できたことだけでも大きな成果であり,だから長年,首里城が復元されるまで沖縄のシンボルであり続けたのだろう。
そう思うと,やっぱり「がっかり」は酷だよな。

…でね,ほかの「ガッカリ地点」も多かれ少なかれそうなのではないかと思うのですよ。
[79395] 2011年 9月 27日(火)21:57:59Issie さん
岐阜駅は動く
[79386]
手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。

と書いたのですが,某所を見るとどうも岐阜駅はこの後1913(大正2)年にもう一度移転して現在位置に来たらしいということがわかりました。
そこで地図を見比べてみると,なるほど,1891年当時の東海道線は岐阜駅付近で現在よりもやや北に膨らんだ経路を通っていて,現在の名鉄岐阜駅(←新岐阜だと思っていたら,いつの間に…)あたりのラインを通っていたのですね。
その某所では,当初の「加納駅」が現在の名鉄岐阜駅付近にあって,1889(明治22)年に「西に移動した」とあり,それが1891年当時の岐阜駅なのですが,どうもこの時の移転はそれほど大きなものではなかったらしい。踏切をはさんで反対側に移動した京成高砂駅や京王調布駅程度のものでしょうか。
いずれにしろ,1891年当時の東海道線ラインは今よりも北の長住町の通りの南側にあったようで,長住町と問屋町の境辺りが当時の岐阜市と上加納村の境界に当たるようです。
1913年に岐阜駅がやや南の現在位置に移転することで岐阜旧市街から伸びる駅前市街地がさらに南に広がったことになるのですね。
そんなわけで,今の岐阜駅はますます“岐阜ではなくて本来は加納”と言える場所にあるわけです。


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