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Issieさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[76854]2010年11月23日
Issie
[76831]2010年11月21日
Issie
[76830]2010年11月21日
Issie
[76727]2010年11月10日
Issie
[76721]2010年11月9日
Issie

[76854] 2010年 11月 23日(火)11:20:31【1】Issie さん
東海東山地方
[76852] 伊豆之国 さん
岐阜県(美濃・飛騨)は東山道、三重県の紀伊の部分は南海道なのですが‥。逆に山梨県(甲斐)はなぜ東海道なのか、今思うと不思議なのですが‥。きっと昔は富士川の水運で駿河と深くつながっていたのでしょうか?)。

たとえば飛騨の北端の白川郷や神岡鉱山(カドミウムは日本海側へ流れて行ってしまった)で考えると,何でここが「東海」なのか不思議に思ってしまうのですが,やはり岐阜・名古屋間地域の濃密な関係から,こちらに引っ張られるのでしょうね。
鉄道網も,結局は美濃(関ヶ原)~上野(碓氷峠)間で中山道(旧東山道)とは別のルートになってしまいましたから,近代以降「東山地方」としての括りは成立しにくくなったのでしょう。東海道本線も東海道新幹線も高速道路(名神高速)も関ヶ原を通過する今,国道1号線だけが鈴鹿峠を越えることの方が不思議なのかもしれません。
私たちは,東海道と東山道(中山道)を比べて前者がメインで後者が迂回路,のような感覚を持っているのですが,古代では東山道の方がメインで,東海道はワンランク下のローカル線という位置づけだったようです。陸奥があるのは“東山道の果て”ですね。東海道が浮上するのは,海沿いルートの上に位置する鎌倉が東国の中心として勃興し,次いで小田原,江戸が関東の中心として繁栄してからのことだと思います。

さて,ここ に掲載されている「全国七道駅路図」を見ると,甲斐国府(現在の石和町,…ぢゃなくて,笛吹市)が思っているよりも東海道本道に近いことわかります。
古代の東山道は伊那谷廻りで善知鳥(うとう)峠を越えて信濃国府のある松本平へ入っていたようですが,このルートだと伊那谷から諏訪盆地を抜けて富士見高原を越え…,と意外に面倒だし遠い。となれば,甲斐国は東海道に所属する方が自然かな。
※この地図をよく見ると,甲斐国府へのアプローチは富士川沿いではなくて,富士山の東側から甲斐に入っていますね。足柄経由であった東海道の御殿場付近から籠坂峠と御坂峠を越えて甲府盆地へ入るルート。ほぼ同じルートを現在も富士急バスが走っています(富士吉田で分断されていますが)。

なお,この地図は平安時代のものであるようで(延喜式によるのでしょうか),相模国余綾郡(よろぎ。現在の大磯町付近)以東が内陸経由になっていて,武蔵国府(現府中市)へは東海道からアプローチするようになっています(だから武蔵国は東海道に所属)。けれども既にご案内のように,東海道は当初,湘南海岸沿いに横須賀の走水に向かい,浦賀水道を渡って 安房→上総→下総→常陸 の順に進み,武蔵国府へは上州の高崎付近から後の鎌倉街道と同じようなルートで北からアプローチしていたのですよね。だから,武蔵国は初めのうちは東山道。
[76831] 2010年 11月 21日(日)02:01:27Issie さん
粟島とは?
[76821] YT さん
沖縄島 / 計羅摩島 / 戸無島 / 久米島 / 粟島 / 伊恵島 / 伊是那島 / 恵平屋島
喜界島 / 大島 / 徳之島 / 永良部島 / 与論島
宮古島 / 八重山島
(スペースの都合で島名だけ抽出して改行を省略しました。)

私が興味深く感じたのは,薩摩藩が直接支配下に置いた奄美と首里王府支配下の沖縄および先島をまとめて一括りにしていることでした。もちろん以前に話題になったように,奄美(大島郡)が「大隅国」に編入されたのは明治になってからですから,「琉球(国)」の中に括らざるを得ないのでしょうが。

一部の島の名前の表記が現在と違いますが,

 計羅摩島=慶良間諸島,戸無島=渡名喜島,伊恵島=伊江島,伊是那島=伊是名島,恵平屋島=伊平屋島

ということでしょうかね。「粟島」は 粟国島?
「イヘヤ島」の表記,「エ」と「イ」が混同されていますね。それ以前に「ゑ(恵)」と「え」の区別がありません。もっとも,ウチナーグチの「標準語」であろうところの首里・那覇方言では本来,wi(ヰ)と i (イ),wee(ヱー)と ee(エー)はそれぞれ区別されるようです。ただし,よく知られているようにヤマト(本土)の言葉の“短いエ”はウチナーグチでは“短いイ”に合流して,だから「恵平屋/伊平屋」という表記の混同が起きるのですね。
首里・那覇方言には,さらに ア行・ヤ行・ワ行 について音節のはじめで“喉をつめる/つめない”というヤマトの言葉にはない区別があって,これはカナで表記することが(そのままでは)できません。ウチナーグチではなく,実際に通用している「ウチナーヤマトグチ」で区別されているかどうか,ヤマト人の私には聞き分けられませんが。

それはともかく,

[76816] YT さん
郷帳の方では完全に日本に組み込まれており、琉球が日本に組み込まれた時期について考えさせられます。

ここは少し慎重にとらえた方がいいように思います。
少なくとも,“ヨーロッパ標準”で彼らが勝手に構築した(でも近代以降の世界では誰もが従わなければならない)「国際法」に基づく“近代国家”の概念としての「領域(領土)」という感覚で「組み込まれた」と捉えるのであれば。
[76830] 2010年 11月 21日(日)01:20:06【1】Issie さん
水高もあるでよ…
[76829] おがちゃん さん
旧制高校とオフ会の関係
は完全に無くなってしまいましたね。こじつけるのも難しそうですし・・・。

大丈夫。
「ナンバースクール」(一高~八高)というシバりをはずせば,茨城県には「(旧制)水戸高等学校」がありました。そこの代打ということで。

ちなみに,「九高」所在地となるはずだったのが 松本 か 新潟。お互いの熾烈な誘致合戦が加熱しすぎて絞り切れず,結局,両校同時開校。どちらかを「九高」とすることもできず,ナンバースクールの時代は終わってしまいました。
松本の不倶戴天のライバルは長野だけではなかったのですね。
その悔しさをまぎらすためか,旧制松本高等学校の校章には放射状の線が「9本」あしらわれています。

というわけで,「九高」所在地の 松本 or 新潟 はいかが?
[76727] 2010年 11月 10日(水)00:57:43【2】Issie さん
弟の橘姫
[76725] hmt さん
妹背

親族呼称というのは,どの言語でも体系立っているように見えて結構複雑ですね。日本語の場合もそうで,本来列島内でできあがった“ピュアなやまとことば”の体系らしきものの上に,全く違った体系を持った中国語由来の漢字語が入って来て,それらが混じりあった上で改めて親族呼称の体系が再構築(中には見当違いの思い込みによる類推も含む)されたもので,やっぱり複雑です。

男から見て女のきょうだいを意味する「妹」の訓は、「いも」が本来の形で

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

ここも年長/年少を区別する現代語の あに/おとうと,あね/いもうと とは違って,「せ」(男きょうだい)も「いも」(女きょうだい)も長幼の区別はなかったようです。必要に応じて elder/younger で区別しなくてはならない英語の brother, sisiter と似ているかもしれません。そして,これは hmt さんのご説明にある通り,異性のきょうだいに対する呼び方。「いも」は男から女のきょうだい(現代語の姉または妹),「せ」というのは,女から男のきょうだい(現代語の兄または弟)を呼ぶときの名前です。
同性のきょうだいの間では,年長者(elder)つまり 妹から見た姉,弟から見た兄 は「え」,年少者(younger)つまり 姉から見た妹,兄から見た弟 を「おと」と呼びます。
「え」という呼称は,たとえば 中大兄皇子 の「大兄:おほえ」という呼び名に見ることができます。あるいは干支(えと)の「え」(きのえ:甲,ひのえ:丙,つちのえ:戊,かのえ:庚,みづのえ:壬)。
「おと」には男女の区別なく「弟」という字が充てられました。だから,女性なのに「弟橘媛(おとたちばなひめ)」という名前が成立するのです。「おと」には「乙」という字も当てられました。「乙姫(おとひめ)」とは本来,年長の「大姫(おほひめ)」に対する“年少の娘”という意味です。そして,干支の「と」もこれに由来。
現代語の「いもうと」が「いもひと(妹人)」の転訛であるように,「おとうと」は「おとひと(弟人)」の転訛であると考えることができそうですが,この「いも」と「おと」は元は別の系列の呼称だったのですね。

さらに,「あに」「あね」は別の系列から,この体系に加わったようです。そしてこれらが混じりあい,再構築されて現代語の あに(兄)/おとうと(弟)・あね(姉)/いもうと(妹) という体系ができあがりました。その間に中国語由来の「きょうだい(兄弟)」という語が,“男用”の漢字しか使っていないのに,(日本語では)“男だけ”でなく,“女どうし”あるいは“男女混合”の場合にも使われるようになりました。その場合,「兄弟」という表記が何となくしっくりこないので,「きょうだい」と かな書き するしかない…。

そして古代に立ち戻って,お互いの間を“契(ちぎ)り合った”男女間で互いに「いも(妻)」,「せ(夫)」と呼ぶのは,このきょうだい間の呼称から派生したものなのでしょうね。で,現代の地名に現れる「妹背(いもせ)」というのは,語源である「きょうだい」ではなくて,もっぱら「夫婦」という派生的意味で使われているものだと思います。

「妹尾」の場合は「せのお」

ここで「妹」を「せ」と読ませるのも,このあたりの“複雑な事情”に由来するものなのかもしれませんね。
[76721] 2010年 11月 9日(火)19:39:10【1】Issie さん
讃美歌430番
[76711] おがちゃん さん
「兄弟姉妹」コレクション

大龍エクスプレス さんからのお知らせ([76720])にある「妹背橋」ほかの「妹背」地名ですが,具体的に「いもうとせ」と読む証拠があるのでしょうか。
というのも,普通この字は「いもせ」と読むからです。
プロテスタント系の教会で結婚式をやると必ず歌われる 讃美歌430番 がこの言葉で始まります。
「妹背(いもせ)をちぎる家のうち…」

「いもせ(妹背)」というのは万葉時代の古い言葉で「夫婦」(いも=妻,せ=夫 だから正しくは「婦夫」)という意味。古事記の“黄泉の国”のくだりでも,お互いの絶縁と対立が明らかになったイザナキ(夫)とイザナミ(妻)が,それでも互いに「愛(うつく)しき我(あ)が汝背(なせ)の命(みこと)」(イザナミがイザナキを),「愛しき我が汝妹(なにも)の命」(イザナキがイザナミを)と呼び合っています(読みと表記は岩波文庫版『古事記』倉野憲司校注による)。
これを「いもせ」と読むから,「妹背牛」を「もせうし」と読めるのですね。

だから,普通は「いもせ橋」だったり,「いもせ山」だったり,「いもせ滝」などと読むのではないかと思うのですが。


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