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okiさんの記事が5件見つかりました

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[74368] 2010年 3月 17日(水)18:43:01【1】oki さん
RE:浜名湖境界確定?
[74367] 小松原ラガー さん
なぜか神戸新聞にこんな記事が出ていたのですが、本当なのでしょうか。

国土地理院の発表で確認できます。

浜松市北区と西区との境界も湖面上に引かれることになるのですね。
[74321] 2010年 3月 11日(木)00:07:16oki さん
柏崎市上輪の奇妙な遍歴
[74311] 山野 さん
[74315] じゃごたろ さん
[74316] hmt さん

話題になっている、かつて柿崎町の飛地であった柏崎市上輪、蕨野等ですが、調べてみると、とても奇妙な編入経緯を経ていることが分りました。

関係する地域の、近世村(天保国絵図)時点からの変遷を示すと次のようになります。

近世村明治大合併1901(明治34)年1956.12.191957.01.011989.04.01
上輪村米山村米山村柏崎市柿崎町柏崎市
上輪新田村
笠島村
青海川村
鉢崎村(現在の米山町)鉢崎村
(高畔)柿崎町
大平村
大平村のうち蕨野村柿崎町
小萱村柿崎町
大清水村
大清水村のうち竹ヶ花村柿崎町

関係しているのは8村(+枝村など)ですが、明治大合併期には、上輪村~青海川村の4村が合併して米山村、鉢崎村以下の4村が鉢崎村を形成します。
蕨野村、竹ヶ花村(現在は竹鼻)は天保国絵図では枝村になっていますが、明治合併期には大平村、大清水村に含まれていたようです。また、鉢崎村(現在の柏崎市米山町)の中心集落は日本海沿いに位置していますが、高畔の集落はそこからオガチ川を遡った場所にあり、近世の高畔は鉢崎村の小名だったと考えられます。
米山村と鉢崎村は1901(明治34)年に合併し、新たな米山村が誕生します。そして、この米山村全域が、1956年12月19日に柏崎市に編入されます。ここまではよくある話です。

ところが、編入直後の1957年1月1日、大字上輪、小萱の全域と、大清水、鉢崎、大平の各一部が分離し、柿崎町に編入されているのです。われらが「市区町村変遷情報」では、次のように記述され、
1957.01.01 境界変更 中頸城郡 柿崎町 中頸城郡 柿崎町, 柏崎市の一部
詳細な注記が入っています。
88さんの注記では、大清水、鉢崎、大平の各一部は多数の「字」からなっていますが、現在の大字名などから、近世村段階で上記の表のような位置づけにあった地域、と考えて構わないと思います。

この、大字上輪等の柏崎市からの分離、柿崎町への編入は、非常に奇異に感じられます。柿崎町に隣接する小萱、竹鼻はともかく、上輪、蕨野は完全な飛地。高畔も小萱に接してはいますが、接触部分は山間地で、盛んな交流があったとは思えません。
歴史的に見ても、近世において上輪は上輪新田の親村であり、蕨野、高畔も大平、鉢崎の一部でした。明治以降も、米山村や鉢崎村の一部として隣接地域と密接な関係があったと考えられます。それがどうして柿崎と飛地合併したのか、しかも柏崎への編入から2週間もたたない時に、というのはよく理解できないところです。
さすがに、この飛地合併に無理があったのか、小萱、竹鼻を除く上輪、蕨野、高畔の3地域は柏崎市に再編入されていますが、それはじゃごたろ さんが確認してくれたように1989年4月1日で、飛地編入から30年以上後のことになります。
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。
[74277] 2010年 3月 7日(日)04:46:42oki さん
武州入間郡川越領福岡村の石高に関する若干の補足
最初に御礼を。
[74211] hmt さん
ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
遅くなりましたが、ご回答有難うございます。hmt さんが正常に閲覧できている以上、私のPC環境に問題があることははっきりしているのですが、まだ原因を突き止めることができません。そのため、相変わらずJPEG2000の画像が閲覧できないのですが、国立公文書館はJPEG版が高機能化したので、そちらで閲覧するようにしています。

さて本題。

川越領福岡村の土地と年貢 [74245][74271]  hmt さん

貴重な資料のご提供有難うございます。ただ、補足した方が良いと思われる点が2つほどありますので、以下に述べておきます。

まず、福岡村の石高です。
[74271]
冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。
とありますが、慶安時点での福岡村の石高は345.79石ではありません。
これは川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。また、この時点で中福岡村、福岡新田は分村しておらず、すべて福岡村の石高に含まれています。慶安検地とほぼ同時点の「武蔵田園簿」以降における福岡村関連の石高を整理すると次のようになります。

 田園簿元禄郷帳天保郷帳旧高旧領
福岡村742.1683.9836.8525.1
中福岡村上に含む上に含む上に含む311.7
福岡新田上に含む115.3182.4182.4
742.1799.21019.21019.2
指数100108137137

ここに見るように、慶安時点で川越藩領および旗本2家の石高を合計すると742.1石で、元禄郷帳(1699年)時点では福岡新田を合わせて799.2石ですから、この間の増加率は8%ということになります。
天保郷帳(1834年)では、福岡村だけで837石、福岡新田を合わせれば1000石を越えていますが、この場合でも慶安時点からの増加率は4割に達しません(実際には、この石高に達したのは天保時よりかなり前のはずですが)。
なお、天保郷帳時点では中福岡村が分村していたと思われますが、中福岡村が全国資料に現われるのは明治維新後の旧高旧領取調帳を待たねばなりません。

次に、ご紹介いただいた福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表ですが、私自身よく理解できない点があったので、少し考えて次のように再整理してみました。

種別反別(反)石盛(石/反)石高(石)租率(石/反)金納租率(文/反)租額(石)租額(両)
上田44.91.2053.900.500022.4500.42
中田33.91.0033.900.400013.5600.40
下田43.30.8034.640.350015.1600.44
下々田86.50.6051.900.300025.9500.50
田合計208.60.84174.340.370077.1200.44
上畑111.20.8088.960.27511030.5812.230.34
中畑111.30.6066.780.2259025.0410.020.37
下畑153.10.4061.240.1757026.7910.720.44
下々畑486.40.2097.280.1004048.6419.460.50
屋敷36.51.0036.460.27511010.044.010.28
畑合計898.50.39350.730.15763141.0956.440.40
合計1107.00.47525.070.1970218.2100.42
(※四捨五入の関係で数値が合わない場合があります)

基本になるのは反別(耕地面積)で、水田が上田~下々田まで合わせて20町8反6畝、畑が上畑~下々畑+屋敷地で89町8畝5畝で、計110町7反あります([74271]の表では、上畑~下々畑の計と畑合計とが合わないので、差は屋敷地と考えて補足しておきました)。
上田、上畑などの種別を決めるのは石盛、つまり1反当たりの米の生産高で、上田の場合1石2斗、下々田では6斗などとされています。
前にも石高に関して議論がありましたが、石盛とは1反当たりの玄米生産量です。したがって、本来なら水田にしか適用できないのですが、畑にも石盛が割り当てられています。上畑で8斗と下田並みの水準であり、畑地の生産水準が低く見積もられていることが分ります。もっとも、畑では米が生産できないのですから、そこに無理やり米の石盛を付けているのは、村高を算定するためのバーチャルな操作、と考えた方が良いかもしれません。
福岡村全体の石高である村高は、Σ(反別×石盛)で算定されます。米が174石余、畑地の高が351石で、計525石です。繰り返しますが、畑地で米は取れませんから、この村高は一種のフィクションです。

次は年貢高(租額)の算定です。西国であれば、村高に免(年貢率)を掛ければ年貢高が算定できます。例えば、以前に話題にした富来地頭町村の場合、村高が330石、免は九ツ(90%~極端な高率です)ですから、330×0.9=297石が年貢高になります(このような年貢の算定法を厘取法といいます)。
しかし、関東では反取法という異なる算定法が適用されます。具体的には、1反当たりの租率を直接に決めます。上記の表では、上田で0.5石/反、下々田で0.3石等となっています。
年貢高は反別×租率であり、上田なら44.9反×0.5石=22.45石、これを各種別ごとに積算すると、77.12石が米の年貢と言うことになります。

少しややこしいですが、水田の年貢は以上のように算定できます。では畑地の年貢はどのように計算されるか。これを考えるためには、「永」という概念を理解する必要があります。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
[74245] に以上のようにありますが、「永」とは寛永通宝ではありません。後北条氏が所領の生産高を測るのに永楽銭を用いたことを起源とするもので、永楽銭の通用は江戸初期に禁止されましたが、「永」という概念、考え方は、関東を中心とする東日本各地で幕末まで残りました。
「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。実際に「永」という名の貨幣が存在するわけではありません。金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。
上の表では、上畑の金納租率が110文/反となっていますが、この110文は実際には「永110文」です。2.5石=永1貫文(1000文)ですから1石=永400文になります(つまり、hmt さんの指摘されたように、1斗=40文です)。この換算率で永110文を石高に直すと0.275石と計算できます(永110文×(1石÷永400文)=0.275石)。
実は、これは計算が逆で、水田と同様に上畑に対しても1反当たり0.275石という租率を決め、それを「永」に換算したのが110文という金納租率だと考えた方が良いと思います。水田の場合、下々田でも租率が0.3石で、上畑より高いですから、畑地の年貢率が非常に低く設定されていることが分ります。

いずれにせよ、畑地の年貢は米でも麦でもなく貨幣であり、上畑では111.2反×永110文/反=永12,234文と計算できます。つまり永12貫234文=金12.234両です。すべての畑地にこの計算を適用して積算すると、畑地からの年貢は金56.44両となります。

以上から、名目上525石の村高を持つ福岡村からの年貢が、米77石、金56両だとということが分ります。(上記の表では、上畑の租率0.275石/反などを使って畑地からの石高年貢を141石、米と合わせた年貢合計を218石と計算していますが、これは単なる計算値で、実際にこのような年貢を取られたわけではありません)。
[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。
村高から予想されるより、実際に生産される、もしくは領主が収納できる米の量がかなり少なくなりますが、関東のように耕地面積に占める畑地の割合が高い地域では、名目上の石高に比べ、実際に得られる米は少ない、と考えるべきなのでしょう。
[74209] 2010年 2月 23日(火)18:55:32oki さん
国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74207] hmt さん
この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。
それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。

本来はむっくんさんから回答があるのでしょうが、私もこのシステムを使っているので、私自身が採用している方法をご紹介します。

hmt さんがやったように、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索すると、「地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令」について2つの書類が該当します。一つは「公文類聚」所載のもの、もう一つは前天皇の御名御璽が入った政令原本です。
どちらも画像での閲覧が可能になっているので、例えば公文類聚の方を選んで「閲覧」ボタンを押すと、5ページ建ての閲覧画像が立ち上がります。これはJPEG2000の画像ですが、hmt さんが仰るように、URLボタンが有効になっておらず、国会図書館の近代デジタルライブラリーのようにはリンクが張れません。
そこで、右上にある「PDF」というボタンを押すと、PDF画像がDL可能なページに切り替わります。このページには次のような記載があります。

このPDFファイルは4143KBあります。
ブロードバンド環境でも、ダウンロードに数分から数十分かかることがあります
ダウンロードを開始してもよろしいですか?(「はい」または「いいえ」)をクリックしてください。
はい いいえ
ここで、「はい」を左クリックすればPDFファイルがDLできます。
一方、「はい」の上で右クリックすると、いくつかのポップアップメニューが表示され、その中に「ショートカットのコピー」があります。これを左クリックすればURLがクリップボードにコピーされるので、エディタなどにペーストできます。例えば以下のように。
http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S57B0307620000/071200458359.pdf

以上はIEでの手順ですが、ほかのブラウザでも同様だと思いますので、お試し下さい。

国立公文書館デジタルアーカイブ・システムからは、近代デジタルライブラリーに掲載されていない資料が得られるので、時によって非常に有用です。
私は今のところ、明治維新から市制町村制施行時までの廃置分合に関するデータを入手するためにいろいろ作業を行なっています。ある程度まとまれば、こちらで公開する予定なのですが、いつになることやら。
また、このシステムに含まれる資料は、すべてがネット上に公開されているわけではなく、現時点で閲覧不可のものも多数あります。ただ、それらの資料も、竹橋にある国立公文書館に出向けばマイクロフィルムで閲覧可能です。また、ネットに公開される資料は順次拡大されているので、今後も閲覧可能な資料が増えていくものと思われます。


それから、国立公文書館の資料に関して皆さんにご質問があります。
「天保国絵図」は国立公文書館のデジタルギャラリーで公開されているのですが、私の環境では、2~3ヶ月前からJPEG2000版の国絵図が閲覧できなくなりました。閲覧しようとすると、ブラウザがフリーズしてしまいます。IE、サファリなど、ブラウザを問わず同じ現象が生じます。国絵図以外の画像も同様です。異なるPCでも同じ現象が起きます(もちろん、プラグインはインストール済みです)。
一方、JPEG版だと問題なく表示されます。ただ、JPEG2000版の方が何かと便利なので、こちらで見たいと思っているのです。皆さんの環境でも同様の現象が生じているか、教えていただければ有り難いです。
[74206] 2010年 2月 23日(火)03:34:35oki さん
小字について
[74199] 右左府 さん

関東あたりの町名地番整理未実施の住所表示は「大字-地番」のみで、小字は日常生活では用いない……というのが通例だと思います。

確かに、小字を使うことはあまりないと思いますが、まったくないわけではありません。私は、業務または趣味で、住所データのアドレスマッチングを行なうことがたま~にあります。要は、番地レベルの住所データを収集し、既存の地図データをもとにその経緯度を求める作業です。
この作業を行なう際、住所に字(または小字)が付いていると、往々にしてアドレスマッチングに失敗します。というより、東北各県や徳島県といった小字単位での番地起番が一般的な地域以外の都道府県では、ほとんどの場合失敗します。
マッチングに使う地図はグーグルマップ(アース)もしくはヤフーマップなのですが、これらに番地レベルの経緯度情報を提供しているゼンリンやアルプス社のデータベースで、大字単位で起番している地域では字レベルの情報を受け付けない仕様になっているのではないかと思います。

逆に言うと、大字単位で起番している地域で、住所の確定に必要がないにもかかわらず、(小)字単位の地名を記入している事例が少なからず存在する、ということです。
手元に千葉県の宗教法人名簿があるのですが、そこに掲載されている6648件の住所のうち、字地名のあるものが10件あります。比率にして0.15%ですが、その程度は大字起番の住所でも字地名を記載することがある、ということになります。
なぜ、必要もないのに字地名を記載するのかはよく分りません。上の宗教法人名簿でも、字地名を記入している住所について、同じ大字に所在する他の住所を見ると字は記載していません。たぶん、どこかの時点で字のついた住所が採用され、それが修正されることなく使い続けられているのだろうと思います。
ご指摘の「印西市草深字原」に関しては、千葉ニュータウンで商業施設の管理等を行なっている株式会社千葉ニュータウンセンターという会社があり、その印西牧の原地区担当である牧の原モア管理事務所の住所が印西市草深「字原」2029―3になっています。おそらく、テナント入居している店舗の一部が、これをそのまま踏襲して「字原」を付した住所を採用しているのだろうと思います。


宮古島の方は、沖縄の地名変遷について不勉強なので、何も言えません。
ただ、1908年(明治41)の沖縄県及島嶼町村制の時点で、以前の「間切」が「村」、「村」が「字」とされたようですが、実質的には、島嶼町村制以前の沖縄の村はヤマトの近世村と同等の存在と考えて良いと思います。したがって、字(かつての村)の下に小字に当たる地名があっても不思議ではないでしょう。
実際には、宮古島市のサイト内を検索して見つけた小字は、「城辺字比嘉にある野加那泉(ヌガナガー)が小字野加那佐事に所在する」という記事だけなので、小字が正式の住所として存在するとは考えにくいと思いますが。
なお、右左府 さんの行かれた「史跡 マムヤの墓」の所在地が「城辺字保良1221-1(小字平安名)」だったということですが、「平安名」はかつて保良村の東隣にあった「平安名村」のことだろうと思います。歴史地名大系によれば、平安名村は1873年(明治6)の「琉球藩雑記」には存在するものの、1880年(明治13)の「県統計概表」には村名が記されていないということで、この間に廃村になったのでしょう。ただ、正式なものかどうかは分りませんが、地名としては残存し、使われる場合もあるのだと思います。


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