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okiさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[73286]2009年12月13日
oki
[73283]2009年12月13日
oki
[72780]2009年11月7日
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[72750]2009年11月3日
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[72661]2009年11月1日
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[73286] 2009年 12月 13日(日)18:00:36oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73235] じゃごたろ さん  蓼科神社
[73238] hmt さん 長-----い参道

お二人の書き込みを受けて、いわゆる(誰が言うとるんや?)「立科のくびれ」の成因について、歴史的な観点からの私見を記しておきます。

まず話の前提として、現在の立科町を構成する近世村は、芦田村、山辺村、塩沢村、細谷村、藤沢村、牛六村、宇山村、茂田井村の八ヶ村です。中心となるのは、慶長年間に設置された中山道の芦田宿や、宿形成以前の中心地である古町を抱える芦田村です。それ以外の村々が本格的に発展をはじめたのは、江戸時代になって、[72008]でhmtさんが言及された塩沢堰や、八重原堰、宇山堰など、蓼科山を源流とする用水路が開削されて以降のことです。

次に蓼科神社は、上記の旧芦田村古町に里宮が、蓼科山頂に奥宮があります。元慶2(878)年、日本三代実録に「信濃国正六位上蓼科神」とあるのが史料上の初見とされています。里宮と奥宮があるのは日本の神社の古態ですから、元慶年間以前のきわめて古い時代から神社が存在し、里宮と奥宮を結ぶ道も確保されていたと思われます。

三番目に旧芦田村と白樺高原を結ぶ県道40号線に位置する雨境峠。ここは古くから諏訪と佐久を結ぶ交通の要地で、峠から分岐し佐久市中心部に向かう県道152号線のルートは、古代東山道設置以前に信濃国と中央とを結ぶ路線であったと見られています。戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由しています。
峠には勾玉などが出る古墳時代からの遺跡もあり、蓼科山の祭祀が行なわれていたようです。

さて、ここからが本題。
蓼科山は円錐型の山容をした火山で、広い山腹斜面を有し、山麓からは地下水を源泉とする多くの沢や川が流れ出ています。下流の村々はこの川を用水として利用しており、村の形状は必然的に、川の流れに沿った細長いものになります。平成合併以前の佐久市、臼田町、佐久町などが蓼科山を中心とした縦長の形状を有していたのはそのためで、立科町もその事例の一つと言えます。
ただし、これだけでは立科町の領域は雨境峠までに留まったかもしれません。白樺高原をも領有している理由は、[72008]でhmt さんが触れた以下の点にあります。
その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。
このとき決め手となったのが、上記の塩沢堰、八重原堰などがすでに引かれており、それに諏訪側から異論が出ていないことです。また、芦田村に住む(里宮の)神主が、立科山上叢祠(奥宮)の管理を行なっていることも佐久方勝訴の理由の一つとしてあがっています。
こうして、雨境峠の南側が佐久側八ヶ村の入会地と認められたのが、現在の「立科のくびれ」をもたらした直接の原因です。明文の裁許状により、この地域への諏訪側の立ち入りが禁止されて佐久側の独占に委ねられ、それが現在の自治体の境界として維持されているわけです。
もっとも、その前提として、佐久側の住民が蓼科神社奥宮の祭祀に関わっていたことがあります。そのための道を「長ーーーーーい参道」と呼ぶかどうかはともかく、芦田村などと蓼科山を結ぶルートは古い時代から確保され、またその道を通って、江戸時代の村人たちも入会地に出入りしていたわけです(入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。近世の農業には必需の産物ですから、神社関係以外にも多数の村人が、雨境峠を越えて蓼科山山腹までの道を往復していたと考えられます)。

ただし、多数の村人が通っていたとしても、近世の道はけもの道に近いものであったと考えられます。本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削したもので、これが現在の県道40号線の基礎になったと言われています。
上記塩沢堰を開発したのは六川長三郎勝家という武田家に仕えた元土豪で、六川家は代々、堰を契機に開村した塩沢新田の実質的な支配者でした。六川源左衛門は六川家の出身者もしくは関係者でしょう。現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。
[73283] 2009年 12月 13日(日)11:34:30oki さん
地図をつくろう、など
大変ご無沙汰しています。
ここ一月ほど、久々に業務が繁忙になり、落書き帳は横目で眺めてはいるのですが、書き込むまでの時間が取れませんでした。
今日はいくつかまとめてレスを。

あ、その前に大変遅くなってしまいましたが、落書き帳十周年おめでとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

オフ会は楽しそうですね。特に石島ツアーには関心を持っていたので、[72970] [72971] 石島探検(前・後編) ニジェガロージェッツさん、などは楽しく読ませていただきました。
瀬戸内海の島つながりと言うことで、[73276] 小松原ラガー さん
島買いませんか?って言われても・・・。
みんなで買い取ってオフ会の会場にするとか・・・。あほな・・・。
正確な場所はここです(呉市音戸町渡子2丁目)。細長い、軍艦みたいな形の島ですね。干潮時には南隣の島へ歩いて渡れそうです。オフ会の会場にする場合は野宿でしょうか。飲み会の肴は廻りで泳いでいそうですが。

[73190] 播磨坂 さん
道路と等高線だけの地形図とかってないんでしょうかね?
紙の地図では難しいかもしれませんが、電子地図であれば可能です。
こちらのサイトで、基盤地図情報(精度レベル25000)をWMS(Web Mapping System)で配信しています。
配信情報には行政区画、建物、水涯線、軌道中心線、等高線、道路縁などがありますが、QGISなどWMSに対応したフリーのGISか、グーグルアースを使い、等高線と道路縁だけを表示させれば、まさに「道路と等高線だけの地形図」を見ることが可能です(グーグルアースは見にくいので、QGISの方がお勧めです)。
ただし、2万5千分1地形図レベルなので等高線は10m間隔ですし、都心部は細かい街路が多数通っているので、あまり分かりやすいとは言いかねます。
それであれば、[72797]で播磨坂さん自身が触れられた東京地形地図には等高線のレイヤもあり(もちろんご存じでしょうが)、こちらは2m間隔なので、東京の低地では見やすいでしょう。

そして、これらよりさらに推奨したいのが、自分で地図をつくってしまうこと。
現在、国土地理院の基盤地図情報では、2万5千分1地形図から作成した10m(0.4秒)間隔のDEM(Degital Elevation Model 数値標高データ)を全国レベルで整備し、東京など大都市を中心に航空レーザ測量で得られた5m(0.2秒)間隔のDEMも順次増えています。これらのDEMデータは、自由にDLし、利用することができます。
かつては、DEMからの地図作成には大変高価なGISソフトが必要で、素人には手が出しにくいものでしたが、現在は高性能のフリーGISであるGRASSがWindowsに対応するようになったので、DEMさえ入手すれば、地形を表す地図を誰でも簡単につくれます(先の東京地形地図自体も、陰影段彩図や等高線は5mDEMから作成したものです。GRASSを使ったかどうかは分かりませんが)。
このやり方だと、等高線の間隔も自由に設定できますし、傾斜図とか流域図など色々な地図も作成できます(どのような地図がつくれるかはScreenshotsをご覧下さい)。もちろん印刷もできるので、紙の地図としての利用も可能ですよ。

私は、東京の5mDEMから、赤色立体地図をつくってみました(リンク先は見本で、私が作成したものではありません)。東京の赤色立体地をグーグルアースに貼り付けた上で、東京地形地図の2m等高線を重畳すると、文京区辺りの地形と標高がよ~く分かります。例えば、播磨坂(道路の方です)は標高8m弱の地点で都道436号から分岐、等高線と直交しながら小石川台の斜面を駆け上がり、その尾根線を走る国道254号(春日通り)と標高26m強の当たりで合流しています。標高差は18m強。この間の道のりは約500mなので、平均勾配は36‰以上ということになります。箱根登山鉄道で小田原~強羅間全区間の平均勾配が35‰なので、それと同程度。相当な坂道ですね。

等高線の間隔を1mにすれば、もっと正確な標高差が出せます。挑戦なさいませんか?
[73200] Issie さん
やはり,技術の進歩は素直に評価しなくては。
技術の進歩を評価するだけでなく、自分で活用できればもっと良い、ですよね。
[72780] 2009年 11月 7日(土)04:59:58oki さん
第二十四回十番勝負 悪戦苦闘記
十番勝負は第1回から「見て」いましたが、参戦したのは今回が初めてです。回答しなかったのは、考えても分からなかったから、という単純明瞭な理由ですが、今回はつい問十に答えてしまったのを契機に参入してしまいました。
はっきり言って悪戦苦闘の毎日でしたが、最終的には完答でき、本人としては大満足です。最初の感想なのでやや長くなってしまいましたが、素人が準備もなしに参加するとどうなるか、の事例としてお読み下さい。

問十:徳島市
■幕末10万石以上の藩があった市(十万石格は除く)
今回も参戦するつもりはなかったのですが、何気なく問題を見ていて、これが「分かってしまった」のがすべての始まりです。
お題の市で、行田と柳川には城があり、金沢、岡山、萩は言わずもがな。土浦と明石にもあったはずで、これらが除外される理由は何かと考えました。行田(忍)、土浦、明石は譜代の中小藩、他は外様の大藩なので、藩の規模だろうと見当がつきました(石高談義もあったことですし)。
土浦藩と忍藩を比較し、前者が江戸時代を通じて最高9.5万石、後者が10万石に達していることから、10万石以上が対象と考えました。この時点での先行回答が久留米市(なると金時さん[72264])、高松市(おがちゃんさん[72275])だったこともあり、間違いないと判断。記念すべき最初の回答なので、徳島市を選択したところ、なんと銅メダルを獲得してしまいました。
ただし、この時点では「幕末」ではなく、江戸期を通じて、と考えていました。明石藩を調べなかったのは、大した石高ではないはずという思いこみがあったためで、初期に10万石であったことや、幕末時に10万石格であったことは気が付きませんでした。そこまで調べていたら、条件の絞り込みに手間取ってメダルには手が届かなかったと思います。

ここで、[72283]油天神山 さんから
わあい、okiさんが十番勝負に参加だ♪
という合いの手が入り、何となく引くに引けない、という感じになってしまいました。

問五:笠岡市
■市の花に菊(○○菊も含む)を制定している市
ま、当然のことですが、他の問題はいくらお題の市を睨んでいても何も思い浮かばず。
今回はすべての問題に岡山市が含まれているので、こっちの方から攻めてみようと思い、公式HPやWikimediaで岡山市のプロフィールを調べにかかりました。
市の花が菊というのが目に止まり、菊なら市花にしているところが数十あっても不思議ではないと考え、検索をかけると八戸市、武生市が引っかかってきました。山武市は野菊だったので少し手間取りましたが、お題の全市が菊ということで(菊川市は、調べる必要もないと判断)間違いないだろうと。徳島県や四国にはなさそうなので、岡山県から笠岡市を回答。

問七:旭川市
■中核市に指定された市(過去の指定も含む)
お題に重量級の市が並んでいるので、中核市はすぐに連想しましたが、岡山、静岡が政令市だからという先入観が働いて検討対象から除外。先行回答に守山市、舞鶴市などがあったのも判断に影響しました。
しかし、これら軽量級の市が誤答になっていたため、改めて中核市のリストを確認すると、政令市になった市を含めた数がちょうど46になり、これで間違いないと確信。四国もしくは中国地方の市を答えたかったのですが、残っていなかったので、リストの最初にあった旭川市で回答。

問八:総社市
■東○○駅がある市(○○は市名)
お題を見ていても何も浮かばないので、地図を眺めてみるべいか、と中間市を見ていると、筑豊本線の中間駅と筑豊電気鉄道の東中間駅を発見。瞬間的に松戸ー東松戸、府中ー東府中という連想が働き、非該当市の広島市と東広島市は同一市になければ駄目との条件だろうと考えました。他のお題の市や既出回答も検討した上で間違いないと判断、岡山県から総社市を回答しました。

ノーヒントで分かったのはこの4問。
第一ヒントのアナグラムは問九を除いてすべて解けましたが、まったく参考にできず。第二ヒントが出て次の正答をするまでに何と6日間を要したのでした。

問一:阿南市(誤答)→山陽小野田市
■市役所の住所が1-1-1の市
第一ヒントの「阿見町も該当」は分かったので同町の地図を見ると、最初に目に飛び込んできたのが「阿見町総合運動公園」。ひょっとしてこれかいなとお題の市で調べるとすべてに該当。いくつかの既出市にも当て嵌まったので間違いないだろうと考え、「南部運動公園」のある、わが阿南市から回答するも、見事に誤爆。後で確認すると運動公園はあちこちにあってとても71市では収まり切らない様子。
その後はまったく分からなかったものの、第二ヒントが「一が沢山」と解けた時点で「住所かも」と思いつき、岡山市の市役所所在地を確認したところ「北区大供1丁目1番1号」。お題の市や既出市も検討し、間違いないと判断。四国も岡山県内も残っていなかったので、中国地方から山陽小野田市を回答。

問四:玉野市
■読みの最後の文字を取ると別の市になる市
これも第二ヒントが「最後が不要」と解凍できた時点で共通項が判明。数少ない残り想定解の中から、岡山市に隣接する玉野市を回答(宇野港から直島を眺めていたことも思い出したし)。

問六:長崎市
■市制施行または新設合併後、6回以上編入合併した市(市制施行日の編入は数えない。同日の複数編入は1回と数える)
第一ヒントの「高岡市はリセット」が解けた段階で、市町村変遷情報をチェックして高岡市が最後の合併時に新設合併していることを確認。編入合併のみだということは分かったものの、合併回数の条件が分からず。第二ヒントを「九州も管内」などと解いたおかげでよけい訳が分からなくなってしまう。「何回も吸収」の解が示されて、やはり編入合併と判断し、まず回数条件を満たすだろうと思えた長崎市を回答。

問九:行田市
■「く」ではじまる市に隣接する市(架橋隣接も含む)
第一ヒントは「野田市は大神楽」もしくは「小野市は大神楽だ」、第二ヒントも「名取はきの次」と解いてしまってよく分からず。第二ヒントの解「隣はきの次」が示された時点でやっと気が付きました。
今治市がお題に含まれているので、架橋隣接もありなのだろうとは思いましたが、安全のため行田市で回答(問十でお世話になったことだし)。

問三:大洲市
■「農業高等学校」がある市
これが分かったのは、完全無欠の偶然。
第二ヒントの解「帰農傾向」から、耕地面積の増加した市など農業関係の統計データに当たるも、ことごとく外れ。仕方がないので南国市の地図を見ていて、高知大学があるのを発見。ひょっとして農学部か、と検索するとピンポーン。やったね、府中には農工大があるはずだし、総合大学たる岡山大には農学部もあるだろうと。ところがさすがに朝倉市には大学そのものがなし。
一瞬唸ったものの、農学部でなければ農業高校ということで調べると、これでビンゴ。既出回答から「農業高校」という厳格な表現が求められると判断し、四国の残っている市として大洲市を回答。

問二:鳴門市(誤答)→八王子市
■女子大学(四年制)のキャンパスがある市
お題の中で大村市が異質かな、というのは誰しも考えることだと思います。
公式HP、Wikimedia、地図で大村市を調べまくり、最初に辿りついたのは大村公園が「歴史公園100選」に該当すること。他のすべての該当市にも100選に選ばれた公園があるため、これで良いだろうと考え、ドイツ村公園のある鳴門市で回答するも、誤回答。後で精査したら、歴史公園100選には200以上の公園が選定されており、該当市は少なく見積もっても100を超えるようでした。
あとは、「文京区も該当」「減少傾向」のアナグラムは解けるものの、それがどうした状態。統計関係の問題がないため、おそらくそれだろうと即断し、岡山市が含まれているからには量的な面ではなく比率関係で減少しているデータと考え、各種数値の推移を検討するも、すべて駄目(このために「統計でみる市区町村のすがた2009」をDLし、1枚のシートにまとめた上で02年のデータと比較してみたのですが)。
結局、第三ヒントの「男は行けない」が解けた段階で、「文京区」「減少傾向」との連想でお茶の水「女子大」が浮かびました。とにかく大村市を検証しなければと思って調べたところ、活水女子大学を発見。他のお題市は検証の必要もなしということで、既出市をいくつか見た上で確信。残っていた市の中から八王子市を答え、やっと完答できました。
ところで、活水女子大学看護学部は大村市の国立長崎医療センター内に設置されていますが、09年4月の開設から日が浅いためか、マピオンには記載されているのに対し、グーグルマップ、ヤフーマップには載っていません。今回は地図としてヤフーマップを使っていたため発見できなかったのですが、マピオンならもっと早く回答できたかもしれません。
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このような次第で、今回完答できたのは偶然の連鎖による奇跡に近い、と自分では考えています。最初の回答から完答まで11日を要しており、その間は七転八倒、夢で共通項が浮かんだので検証したら間違いだったということが二回ありました。
それだけに、共通解が見つかると本当に嬉しかったですね。このような、(何の見返りもない)純粋に知的な快感を味わったのは久々のような気がします。今回の問題が過去に比べて難しかったのかどうかは判断がつきませんが、すべての問題に岡山市を入れるという条件から、作成には苦労されたのではないかと思います。楽しませていただき、まことに感謝申し上げます。

次からはどうしようかな~。本気で参入するには過去問を分析した上で「傾向と対策」が必要だろうし、各種のデータベースをすぐ使える状態で整備することも考えなくてはいけない。次回までにはとても間に合わないので、参戦するとしても完答は無理かな、と思っています。あ、地図は次からマピオンを使います。

以上、長々と駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
[72750] 2009年 11月 3日(火)23:38:04oki さん
石島の人口
[72627] hmt さん
「石島」は、8島の中で唯一の有人島で、面積も 2.72km2あります。集落のある島の北部・岡山県側の面積は約3割。人口は2008年3月末で 116人(上記岡山県HP)。[24364]の 149人に比べて減少しています。
国勢調査資料によりこのテの局部人口を調べる方法についての記事があったと記憶しますが失念。ご存知の方があれば教えてください。

岡山オフ会には行けませんが、分かる範囲のことを。

「このテの局部人口」とは、一般に町丁大字(字)別人口と呼ばれるものだと思います。玉野市だけでなく、市のレベルの自治体であれば、少なくとも1年に1回程度は町丁大字別人口を調査し、HPにも掲載しているはずです(平成大合併で新しく市になったところは危ないですが)。
玉野市の場合は、「平成21年度 玉野市の概要」があります。
石島は、江戸時代は対岸胸上村の枝郷の扱いでしたが、現在の玉野市では大字扱いになっているようで、2009年3月末における人口は110人と明記されています(「III 統計資料→2.人口・労働力人口→(17)町別人口」と辿ると、エクセルファイルが立ち上がります)。
「玉野市の概要」で確認できるもっとも古い年次の人口は、01年3月末で143人ですから、8年間で33人、2割以上減少している計算になります。
ただし、これは住民基本台帳上の人口であり(hmtさんが引用された岡山県HPの数字も同じ)、国勢調査の人口とは異なります。

国勢調査で同様の数値を入手できるサイトとして、「地図で見る統計(統計GIS)」があります(「データダウンロード」へ進むと、市区町村別に、町丁大字別人口を「小地域統計」として入手できます)。もちろん、お役所のサイトなので使い勝手は良いとは言いがたく、データそのものにも癖があるので、注意が必要です。
確認したところでは、05年調査時点の石島の人口は112人、00年が129人です。住民基本台帳では上記のように01年に143人ですから、00年の国調と10人以上の差があります。おそらく、住民票を石島に置いたまま他所で就業・就学している人がいるのだろうと思います。この国勢調査と住民基本台帳との差を考慮すると、石島の現住人口は100人を切っているかもしれません。

石島に関しては、この島が岡山・香川両県に属していることもそうですが、石島を含む直島諸島全体が香川県所属であることにも興味を引かれます。最短距離だと宇野港から2000mもない直島本島をはじめとして、玉野市の鼻先にある島々が、(石島の一部を除き)すべて香川県というのは少し不思議な気がします。
歴史的に見ると、鎌倉時代までの直島諸島は備前国児島郡に属していたものの、南北朝期に讃岐守護細川氏(これは管領家ですね)の支配下に入ったため帰属が曖昧になってしまい、江戸時代に讃岐国の所属と決定したようです。石島北部は、全島が讃岐に奪われた直島諸島のごく一部を、備前側に取り戻した地域と考えられるのかもしれません。

なお、「日本歴史地名大系」によると、石島の人口は文化年間(1804~18)に127人だったそうですから、現在の人口はそれを下回っていることになります。
[72661] 2009年 11月 1日(日)09:12:35oki さん
第二十四回十番勝負回答
問二:八王子市
やっと完答できました。

あ~大変だった。


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