[66936]熊虎 さん
え~、呼ばれましたので出て参りました。久しぶりの登場です。では、本題。
新潟市、静岡市、浜松市、そして岡山市は、官民(経)挙げての政令市待望論がありました。
少なくとも新潟・静岡・浜松は、私が市町村合併に関心を持ち始めた90年代前半、行政や地元経済界が合併政令市構想をぶち上げていました。
岡山はその時点では話は聞きませんでしたが(hiroroじゃけぇさん、その辺はどうなんでしょう・・・)、60年代に倉敷との大合併構想もあったことですし、待望論はあったのでしょう。
対広島市対策という観点ではありましたよ。広島に勝るように「政令市」となることで同等、いやそれ以上に強化することを望んでいました。でも、それも失敗。100万人以上(80万人以上で人口増加傾向)の枠組みで合併することは、約160万人の都市圏人口から考えると、倉敷市と合併しなくても可能であったはずです。でも、そうしなかった。その理由は学区や県の地域区分などが2地域以上に跨っていたからに他なりません。例えば、高校入試においては、「岡山5%」(岡山5校:朝日・操山・一宮・大安寺・芳泉)と「倉敷5%」(倉敷4校:青陵・倉敷南・古城池・天城)という特別処置がありました。hiroroじゃけぇがもしも、上記の校を受験したとします。すると、倉敷学区の児島からは倉敷4校なら、入学者数の95%の人数が倉敷地域に配分されるので、400人の定員では380人の枠に入ればいいということになります。でも、岡山5校を受験した場合、学区外なので、400人の定員の内20人にはいらなくてはならないことになります。こういった例は一例かもしれませんが、合併という枠組みでは大きな障壁になっていました。(現在はこのような処置はありません。)現に、早島町では岡山市との合併賛成派が、倉敷市との合併賛成派よりも多かった(単独町制を貫くことになりましたが)のに、地域区分や地域の連携などでは倉敷市とのかかわりが強かったため、早島町としては倉敷との合併に向かったのです。つまり、官:倉敷派、民:岡山派であったわけです。このように、官民一体ではなく、官民分裂の状況下において、「岡山市の政令指定都市移行待望論」はかき消されてきたといってもいいでしょう。結局のところ、岡山と倉敷の各雇用圏が統合された時期からこの垣根が低くなってきたことで、今回の政令市移行に至ったわけです。
ということで、質問?の答えになったでしょうか。
(ちなみに、操山:「そうざん」、天城:「あまき」と読みます。「あまき」の発音については、以前も紹介しましたね)
[66940] N-H さん
あら、私の地元?にようこそ。って、児島ではなさそう・・・。まぁ、そんなことはいいとして、岡山に今後も何度か訪れることがあるようですね。来年の春まで続けば、懸念事項であった一つ、岡山駅地下の「三番街」が復活開業しております。逆に、倉敷駅北は「チボリ公園」が廃公園と化し、廃墟テーマパークの仲間入りをしていると思います。また、県知事は現職のままかもしれませんし、ひょっとしたら「ちくわ笛」を演奏しているかもしれません。と、岡山も何度か訪れる内に変化すると思いますので、楽しみにしていてくださいね。また、津山の扇形機関庫なども訪問されてみればいかがでしょうか?