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okiさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[63434]2008年1月16日
oki
[58957]2007年6月10日
oki
[58922]2007年6月9日
oki
[58920]2007年6月9日
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[58864]2007年6月6日
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[63434] 2008年 1月 16日(水)04:03:27oki さん
その後の共武政表、および外海浦など
ご無沙汰しております。okiです。前回の書き込み(去年の6月ですね)以降、落書き帳を見られない状況になっていたのですが、年末になって何とか閲覧を再開しました。十番勝負の最中ということで、逆立ちしても1問も分からない身としてはただ傍観していたのですが、共武政表がらみの話題がちらほらしているので、話題に加わらせてください。

1.共武政表について
[63431] hmt さん 共武政表の戸数は連担接続せしもの
で引用された「陸軍省達第19号」には、「反別人口物産等之増減年末毎ニ詳細取調可差出」とあります。近代デジタルライブラリーに収載された共武政表は第1回のもので、それ以降、1882年(明治15)までに3回(合わせて4回)編纂されています。さらに、「徴発物件一覧表」と改称し、1884年(明治17)から1911年(明治44)まで発行されているようです。

2.外海浦、あるいは近世の漁村について
このうち、第4回共武政表(明治14年1月1日調)によると、外海浦の人口は次のようになっています。
外海浦内の小地名人口備   考
外海浦ノ内字深浦 940東外海浦
同浦ノ内字岩水浦 287(旧城辺町)
同浦ノ内字垣内浦 179
同浦ノ内字久良浦 1018計2424人
同浦ノ内字船越浦 1029西外海浦
同浦ノ内字久家浦 516(旧西海町)
同浦ノ内字樽見浦 254
同浦ノ内字福浦  633
同浦ノ内字外泊浦 190
同浦ノ内字中泊浦 396
同浦ノ内字内泊浦 943計3961人
          総計6385人

第1回共武政表(明治8年)で6,280人ですが、第4回でもそれに近い数字です。これらは、東は高知県境の愛南町(旧城辺町)脇本から西は船越半島西端の高茂(旧西海町)に至る非常に広い範囲の海岸部を含む地域で、[63423]千本桜さんの仰るとおり、直線距離でも東西18キロメートル以上あります。ただし、
行政的には大漁村かもしれませんが、集落的には小漁村だったのでしょう
とは必ずしも言えないと思います。人口1,000人前後の字が4つもありますが、1,000人の人口を数える集落を小漁村とは言わないでしょうからね。
むしろ興味深いのは、現在では過疎地の最たる地域とも言うべき四国西南部の海岸部に、明治初期には、これだけの人口を抱える漁村が成立していたと言うことです。これは、前に白桃さんが言及されていたように、伊予国宇和郡だけでなく瀬戸内沿岸に共通してみられる現象です。そして、その多くが、
[63420]白桃さん 後に都市に成長していく事例はごく少数
であるのも事実です。
この背景には、明治前期までの漁村が、単なる漁労集落ではなく、当時の物流の主要手段であった水運と密接に結びついた存在だったことがあると考えられます。江戸時代には、米はもちろんのこと塩、酒、藍、紅花等々のさまざまな商品が、水運を通じて全国から天下の台所である大阪に集められ、さらに大消費地である江戸に送られていました。海岸部に位置する漁村、特に流通の大動脈であった瀬戸内海周辺地域の漁村は、離島も含め、それらの海運に、船や水夫の提供という形で関わっていたと考えられます。また、漁村自体が交易の小センターで、自村の保有する廻船を通じ、後背地の農山村と全国の市場とを結ぶ役割を担っていたことも想定されます。要するに、漁村というのはその地域の交通と商業の拠点であり、農村に比べ、狭い地域に多数の人口を養うことが可能な存在だったということです。
近代になってこれらの漁村の多くが衰退したのは、物流の主体が鉄道に取って代わられたため、広い後背地を持つ有力な港町以外は、以前の拠点性を発揮し得ず、単なる漁労集落に戻ってしまったからではないか、というのが私の考えです。

3.浜名港
浜名港についてはすでに決着がついていますが、補足的に第4回共武政表による人口データをご呈示します。
地 名 人口備考
新居宿 3837
浜名村 1622
中之郷村1107
内山村  329計6895人
上記が、現在の新居町を構成する4大字の、明治14年時点での人口です。第1回が6,438人であることを考えると、浜名港とは、新居宿のほか、町屋が連担していた浜名村、中之郷村を指す(上記では6,566人)ものだと思われます。内山村は浜名・中之郷村と同様に明治合併時に合併していますが、純農村の趣が強く、浜名港には含まれていないのではないか、と考えます。

4.真壁郡城廻村、田中村
城廻村は、現在の下妻市下妻乙である、と断言できます。田中村は筑西市(旧下館市)甲の東南部から丙にかけての地域だと思われますがが、正確な範囲は不明です。
幕末以降総覧によると、城廻村は明治15年に、東・西・南当郷村とともに下妻町に合併されています。このとき、もしくはそれ以降に、大字名として旧村ではなく甲乙丙丁戊が設定されたと考えられます。ちなみに、城廻村以外は、下妻甲が旧下妻陣屋の所在地で合併時の下妻町、以下、丙が西当郷村、丁が南当郷村、戊が東当郷村と見られます。それ以外に本城町、本宿町などの住居表示されたらしい地名があり、そのかなりの部分が旧城廻村と推定されますが詳細は不明です。
田中村は、同じく明治15年に西郷谷村とともに旧下館城下に合併されており、同様に旧村名が消えて甲、乙、丙の大字が設定されています。下館城は現在の下館小学校周辺ですが、城下町はごく狭くて大字甲の北側に留まると見られ、甲の南東部および大字丙が田中村、甲の南西部と乙が西郷谷村だろうと思います。このように判断する根拠は、大字甲のほぼ中央に田中稲荷神社が存在すること、丙の南端に当たる下館駅周辺地域が、統計GISの大字区分地図で田中町になっていることですが、確証はありません。

以上、共武政表がらみの簡単なご報告です。
[58957] 2007年 6月 10日(日)04:06:40oki さん
幕末の勝浦
幕末時に「勝浦」を名乗っていたところは次の通り(旧高旧領取調帳による)。

幕末時現在
上総国夷隅郡勝浦勝浦市
紀伊国牟婁郡勝浦村東牟婁郡那智勝浦町
讃岐国鵜足郡勝浦村仲多度郡琴南町
土佐国吾川郡勝浦浜村高知市
筑前国宗像郡勝浦村福津市
阿波国勝浦郡小松島市、徳島市、勝浦郡

以上のうち、高知市を除く地域は今でも勝浦があります。
区画として最も大きい阿波国勝浦郡が、知名度で最低に近いのは残念な限り。平家物語には、摂津から暴風雨をついて上陸した義経が、地元民にここはどこだと尋ねたところ「勝」浦と聞いて大いに喜び、勇躍屋島に乗り込んで平家に大勝した、という逸話もあるのですけどね。
旧横瀬町と生比奈村が合併して誕生した勝浦町はもちろん、徳島市勝占町も元来は勝浦郡に属します。

私の父は、「勝浦」を「かつら」と発音します。京都の桂女も、「勝浦女」と表記されたことがあるようです。高知市にあるはずの勝浦浜村は、旧高旧領では浦戸村と併称されており、「よさこい」にいう「月の名所は桂浜」は、この勝浦浜村と見て間違いないでしょう。
要するに、勝浦=桂ということで、日本語にはこの手の表記は珍しくないと思います。大隅=大隈などというのはかわいいもの、と言うべきでしょうか。
[58922] 2007年 6月 9日(土)04:20:14oki さん
「小倉町」についての情報
[55501] 88 さん 市町村合併情報 履歴情報 苦悩日記 No.4
(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書(幕末以降市町村名変遷系統図総覧)では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?

上記の件は私も疑問に思っていたのですが、真相究明につながる(かもしれない)資料を見つけたのでご報告しておきます。
資料名は1887(明治20)年付け内務省地理局編纂の「例規類纂(近代デジタルライブラリー所収)」で、その71ページを見てください。
福岡県が1886(明治19)年10月に、豊前国企救郡郡小倉旧25町の町名復活を求めて提出した「伺」と、それに対して87(明治20)年に内務省が発した「指令」が記載されています。引用すると長いので原文はデジタルライブラリーを見ていただくとして、要旨は以下の通りです(私の解釈が入っています)。
・小倉は本来25の町からなっていたが、1875(明治8)年の地租改正の際に、旧小倉県がこの25町の地番を「小倉町」の名で1町に編制したため、公式には25町が存在せず、小倉町のみが存在することになってしまった。
・しかし、小倉町は25町の総称で、実際には旧25町が存続しており、それぞれが「小倉○○町」として通用している。旧25町を一括して小倉町として扱うのはきわめて不便なので、旧来通り25の町名を使用できるようにして欲しい。
・これに対する内務省の指令は、現在のまま「小倉町」1町とすべし。ただし、室町、八百屋町のような旧町名を「字として加用」するのは構わない、というものです。

これから見ると、郡区町村編制法の時代、公式には、小倉は「小倉町」という一つの町として扱われたようで、その点では「総覧」の記述は正しいと考えることができます。

しかし、ここで新たな疑問が生じます。内務省地理局が同じく1887(明治20)年に編纂した「地方行政区画便覧」には、小倉室町、小倉八百屋町をはじめとする25町が記載されており、小倉町はどこにもありません。この扱いは、久留米、柳川など他の城下町とまったく同じです。小倉室町等の25町は、福岡県(豊前国)企救郡に直結する独立した町で、同県(筑後国)御井郡久留米両替町などと同等の存在と見ざるを得ません。この扱いは、1881(明治14)年の「郡区町村一覧」でも同じです(こちらは「小倉」の冠称がありませんが)。
上記「伺」の記述が正しいとすれば「地方行政区画便覧」の記載はそれと矛盾しますし、「便覧」が実態を反映しているなら、「伺」に記述されたような不都合が生じるとは思えません。
一体どちらが正しいのか、ひょっとして両方とも正しいのかもしれないが、それは当時の地方制度が非常に混乱していて、明治政府の担当部局である地理局でも実態を把握しきれていないということではないのか、色々考えるのですが、正直言って私には判断がつきません。

却って謎を深める結果になってしまったかもしれませんが、とりあえず、ご報告です。
[58920] 2007年 6月 9日(土)02:28:29oki さん
ぶどう餅とぶどう饅頭
[58882]  今川焼 さん ぶどう饅頭

[58879]般若堂そんぴんさんの
本来は「武道餅」だったそうですね.う~ん,「ぶどうパン」とは違うのか……
を見て「よもや…」と思ったのが、徳島県美馬市穴吹町の「ぶどう饅頭」。

「ぶどう饅頭」のご紹介をいただき、有り難うございます。

かつて、白桃大人の
[47639] かの有名な「巴堂」の武道モチです。色とカタチは葡萄そのものです。
を読んで、三本松にもぶどう饅頭と似たぶどう餅なるものがあったのか、と思ったのですが、ぶどう饅頭まで出てきて黙っているわけにはいきません。

ぶどう饅頭は、金長狸に由来する「金長饅頭」とならび、徳島を代表する銘菓です(単にメジャーなものがこの二つしかない、ということですけどね)。
色と形は葡萄そっくり。今川焼さんのリンクされたものより、色についてはこちらの徳島新聞のサイトが分かりやすいですが、葡萄そのものの藤色をしています。「武道の上達祈願のため多くの人が剣山を訪れていたことから、土産物として武道と同じ語呂でブドウの形をした菓子を開発した」ということですが、穴吹近辺は葡萄の産地でもあることから、ほとんどの人が葡萄饅頭と理解して買っていると思います。饅頭といっても普通の餡が皮に包まれたものではなく、言ってみれば粘りのない羊羹のような代物で、外側に薄皮があるので辛うじて饅頭と称してもいいのかな、というようなものです。
一方、ぶどう餅については、申し訳ないことに私はまったく知りませんでした。「糊状の米粒でさらし餡を包み込んだ一口サイズ」という記述があったので、餡を餅でくるんだものだと思っていたのですが、「いうなれば、薄皮饅頭の皮に包まれた乾燥した赤福の餡」とも表現されています。
その上、葡萄そっくりで武道が起源やったら、ぶどう饅頭とまるで一緒やないか。どっちかがパクったんかい。
ということで、少し調べたのですが、東かがわ市商工会によると、ぶどう餅の誕生は170年前、ぶどう饅頭のほうは先ほどの徳島新聞で90年以上の歴史ということですから、どうもぶどう餅の方に分があるようです。
ぶどう饅頭がぶどう餅を模倣したのか、はたまた独立に考案されたのか詳細は分かりませんが(どうも前者のような気もします)、阿讃山脈の両側で生産された和三盆糖の系譜を引くもので、乾燥して水に恵まれなかったこの地域の歴史を反映した銘菓と考えたい、と思います。
とりあえず、結構美味しいものですので、万一徳島に来られることがあれば、騙されたと思ってぶどう饅頭をお土産に買っていただくよう、お願いするものです(落書き帳のメンバーとして三本松のぶどう餅を差し置いてぶどう饅頭など買えないというのなら、それは仕方ありませんが)。
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ところで、先に言及した金長饅頭は、しつこい甘さが敬遠されてか現在は人気凋落し、代わりに同名のサツマイモを原料とした「なると金時」なる菓子が、ぶどう饅頭と並んで徳島の2大土産品になっています。本物のなると金時の段ボール出荷箱を模した外箱のデザインが、いかにも徳島らしい田舎風の味を出した銘品(?)ですので、来徳の折りにはこちらもよろしくお願いします(常連メンバーの「なると金時」さんとは特に関係がないと思いますが)。
[58864] 2007年 6月 6日(水)00:07:53oki さん
四国の渇水~徳島側からの視点
ご無沙汰しております。
四国の渇水状況について、香川用水の問題など、主に香川県のことについて議論が進んでいるようなので(もう過去の話題かもしれませんが渇水状況が解決したわけではないので)、地元出身者として、徳島側から見た考えを一つ。

[58781] hmt さん
せっかくできている早明浦ダムと香川用水が、県境の壁に阻まれて生かしきれないという姿には疑問を感じます。
「四国三郎」は、兄貴の坂東太郎に比べれば、もともと懐が小さいというハンデがありますが、それでも精一杯の力を発揮できるような仕組みを整えてゆく必要があると感じた次第です。

仰ることは誠にごもっともで、合理的に考えれば、05年渇水時における徳島側の対応はきわめて理不尽であり、香川県民から見れば惻隠の情のかけらもなく、第三者の目には地域エゴそのものと感じられると思います。
しかし、徳島側にも言い分はあります。端的に言えば、徳島の吉野川流域というのは、決して水に恵まれた地域ではないのです。より正確に言えば、「利用できる水に関して、非常に不自由してきた地域であった」ということでしょうか。

池田以東の吉野川は中央構造線の谷を通って紀伊水道に注いでいます。そのため、吉野川の河道は両岸の段丘面に比べて低く、通常の方法では吉野川本流の水を農業に使うことはできませんでした。
江戸時代、大河の中下流には用水が開削され、流域は水田化されて穀倉地帯になるのが一般的な姿でした。この場合、水量が増える中流域に堰をつくって取水し、等高線に沿って長大な用水を引き回し、流域を灌漑するのが通常の手法です。しかし、吉野川は河道が低いため、この手法がとれませんでした。本流から水が得られなければ支流から引水するほかないわけですが、吉野川流域の徳島平野は四国山地の北側に位置し、気候的には讃岐平野とさほど変わりません。それでも、四国山地に源流を持つ南岸側はまだしも、阿讃山脈を源流とする北岸は、用水確保という面では讃岐平野と条件は同じなわけです。そして、特に中流域においては、北岸平野の方が南岸よりよほど広いのですね。
このため、徳島平野の広い範囲が、江戸時代を通じて畑作地のまま留められました。以前にもご紹介した「町歩下町帳」によれば、江戸中期における四国の水田、畑地の反別(面積)は以下のようになっています(反別の単位は町)。

田反別畑反別反別計田%
阿波11818204393225737
讃岐2203670502908676
伊予29144221175126157
土佐21590114123300265

一見して明らかなように、阿波の水田率は他の3国に比べて極端に低い数値です。その理由が、県内第一の平野である徳島平野で水田化が進まなかったことにあるのは明らかでしょう。藩政期、阿波藩の穀倉地帯は徳島平野ではなく県南の那賀川流域と淡路だったのです。

以上のように、藩政期の吉野川流域は讃岐平野と同様に水に恵まれない地域だったのですが、状況はむしろ徳島の方が悪かったと言えるかも知れません。讃岐の場合は単に大きな川がないだけですが、徳島の場合は目の前を滔々と流れる大河がありながら、その水を利用できないわけです。しかも、この川は平常時には何の恵みももたらさない代わり、ひとたび大雨が降ったときはとんでもない暴れ川となって流域の村々を襲いました。「吉野川洪水史」によると、万治二年(1659)から慶応二年(1866)までの二百年間に、阿波国内で約百回の洪水(風水害)があった、とされています。
さらに悪いことがあります。江戸時代、吉野川流域が全国随一の藍作地帯だったことは周知ですが、その背景には、上で見たようにこの地域が水田化困難だったこともあります。藍という作物は多量の肥料を必要とするため連作不可能とされているらしいですが、藍を経済基盤としていた阿波藩は実に巧妙な策を案出しました。毎年のように氾濫する吉野川に堤防を築かず、上流から流下してくる豊かな土壌を、氾濫時に藍畑へ自然客土するという手法です。ナイル川の氾濫によって肥沃な土壌を補給していた古代エジプトと同じようなものですね。
これによって藍の連作が可能になり、阿波藩は四国随一の経済力を手にします(このほかに阿波藩は、斎田(鳴門)の塩、那賀川上流部の材木という商品を手中にしており、藩都である徳島城下は全国でも有数の都市でした。もっとも、それで領民が幸福だったか否かはまったく別の話ですが)。
吉野川に堤防を築かずに肥沃な土壌を客土するのは、藍の栽培に関しては合理的なやり方でしょうが、流域に住んでいる農民にとってはたまったものではありません。豪農層は高台に石垣を築いてその上に家を建て、洪水時に備えたようですが、一般の農民は溢水のたびに逃げまどわなければならなかったでしょう。
加えて悪いことがありました。徳島平野は四国山地の北側に位置しますが、吉野川の源流は山地南側の土佐にあります。そのため、徳島平野でたいした降雨でなくとも、土佐側は豪雨で、それが前触れもなく洪水になって流域平野に押し寄せることが少なからずあったのです。徳島側でも大雨が降って洪水になるのを「御国水」、土佐だけで降った水が押し寄せるのを「阿呆水」として区別する用語すらあったようです。

このような状況が最終的に解決されるのは、吉野川総合開発によって早明浦ダムと池田ダムが建設され、池田ダムから取水する全長69.2kmの吉野川北岸用水が完成する1990年になってからで、北岸地域が全面的に水田化したのは北岸用水の開通後であったようです(北岸用水の工事が始まったのは1971年です)。
一方、同じく池田ダムから取水する香川用水が、阿讃山脈を貫く阿讃トンネル(5032m)を通じて通水したのは1974年です。このときは上水道だけの通水で、農業用水、都市用水の本格通水は75年、東かがわ市までの全線通水は78年とのことです。

吉野川流域の住民から見れば、歴史を通じた水不足の状況は香川側と同じです。一方、香川の方は吉野川の洪水による被害をまったく受けておらず、徳島側だけが引き受けてきたわけです。ところが、流域開発による利益は香川の方が先に享受することになります。また、明治以降、徳島県民の香川県に対する感情は微妙なものがあります。有り体に言えば、江戸時代には徳島の方が先進地であったにもかかわらず、明治以降、宇高航路が開かれた香川の方が四国の玄関口になった結果、高松の方が徳島より都会になり、徳島県民は香川から田舎者と見下されてきた(と徳島県民は思っている)、という背景があります。
このような状況の中で、それが国土計画上合理的だから吉野川の水を香川県に分水します、といっても、徳島県民がはいそうですかと納得するわけはありません。
河川維持に必要な 13t は別として、 30t が1975年の早明浦ダム建設以前から徳島県内で取水利用されてきた実績値で、水利権として認定されることにより、徳島県の「財産」になっているわけなのでしょう。
ということですが、以上のような吉野川の水利用事情を考えれば、30tの方も、徳島県内で実際に利用されてきたかどうかには疑問符がつきます。しかしこの分を、徳島ではダム建設前は利用不可能だったのだから香川用水にも回す、などということを言い出せば、吉野川総合開発そのものが不可能になっていたでしょう。要するに、吉野川に関する徳島県の「不特定用水」(既得権)なるものは、過去千年以上の洪水被害を一手に引き受けてきた吉野川流域住民に対する配慮から設定されたもの、と私は考えます。この地域の住民は、吉野川に対して愛憎様々な感情を抱いており、それにはこの地域に耕地が開かれた、遅くとも2000年前からの歴史があると思われます(阿波のうち吉野川流域の古代名は粟国で、これは古代から水田化不可能で畑作地であったこの地域の特性を表しているのでしょう)。
現徳島県知事である飯泉嘉門氏は大阪府池田市出身の自治官僚ですから、このような徳島県民の思いを共有しているとは思えません。しかし、彼の支持基盤である県会議員は流域農民の意向を無視できませんから、「吉野川水系水利用連絡協議会」では、「他の出席者があっけにとられるような態度」しか取れないのでしょう。

私は、以上のような歴史的背景に照らしても、香川用水に対する徳島県民の対応が倫理的に正しいとは思いません(後で記すように、私が吉野川流域の出身者でないことが大きな理由でしょうね)。しかし、香川県民が、長年に亘って吉野川の洪水と闘ってきた流域住民に対し、その歴史的背景に敬意を表した上で、配水を要請する態度に出ているのかどうかについては、いささか疑問があります。
「この辺りは『阿波の北方』いうて、昔から水争いが絶えんかった。だから、香川に分水するなんて、昔は絶対、考えられない。不特定用水? 知事さんの発言が地元の感覚、流域の声を代表していると思う。ここでうんと言えば、『県は何やっとんぞ』と農家が黙ってはおらん」
この吉野川流域農民の発言に対し、愚かしい地域エゴと切って捨てるのは簡単ですが、それでは問題は一歩も前に進まないでしょう。これは論理ではなく感情や情念のレベルに属する事柄であり、その背景には、以上のような歴史を通じた吉野川との愛憎一体となった関係があります。情念に論理を対置するのは愚の骨頂でしょう。

ということで、香川県民の皆様には、どうして香川用水の配水に関して徳島県民が常軌を逸した対応をするのか、その歴史的背景にもご理解をいただき、徳島側の重苦しい情念を解きほぐす形での説得方法を考えていただきたい、と思う次第です。

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ところで、私自身は吉野川流域ではなく、那賀川流域である県南の阿南市出身です。客観的に見て、現時点では吉野川より那賀川の方が危機的状況です。吉野川水系では早明浦ダムの貯水率が55%で、徳島用水の取水制限が13.9%、香川用水20%節水に対し(6月1日現在)、那賀川水系では長安口・小見野々ダムの貯水率はわずか7.6%、第6次取水制限で農水、工水ともに60%節水(5月24日)という状況ですからね。ところが、この掲示板で流れるのは香川側の状況ばかりで、那賀川流域への言及が皆無だったので、事情を知って欲しいというのも、久々に書き込みをした理由です。
那賀川流域が危機的な状況になっても、吉野川流域からの分水は一切ありません。しかし、香川県に分水しているのに同じ県内に分水しないのは不合理ではないか、という意見は特に出ていないようです。物理的に考えて、四国山地の剣山山系をぶち抜く分水トンネルの建設は非常に困難でしょうが、それだけではありません。
先日、田舎で一人暮らしをしている父親に電話をして状況を聞いたのですが、農業・工業用水は別ですが、上水で供給される一般的な生活用水にはまったく問題がないとのことでした。ネットで事情を調べてみると、阿南市の上水道は那賀川下流部の井戸から取水しており、上流ダムの貯水状況とは無縁のようです。実のところ、この点は今回調べて初めて知ったことで、阿南市に住んでいたときは自宅に来ている水道の水源がどこにあるかも意識していなかったのですね。
那賀川水系の井戸から取水する以上、究極的には那賀川の水の有無に関係するわけですが、この川の源流部である木頭地域は全国でも屈指の多雨地域で、04年には年間6000㎜近い降水量を記録しています。これは少し極端ですが、年間3000~4000㎜の降雨はごく普通で、それが伏流水となって何年もかけて下流に流下し、それを上水源として取水しているのでしょうから、上流のダムが空同然になっても下流の上水道は特に問題ない、ということのようです。
この点は、ダムの水がなくなれば即座に飲み水に影響が出る吉野川流域や香川用水流域と異なるでしょうね。その分、阿南市を含む徳島県南部は台風の常襲地で、それによる被害は常に受けていますが。

同じ渇水といっても、四国山地の北側と南側では性質がまったく異なるということでした。
上水には影響がないといっても、農業・工業用水が現在のような状況では産業活動に大きな支障が生じることは確実ですから、梅雨時の降水や、あまり被害のない雨台風が四国南部に襲来してくれることを願って、今回の書き込みを終わります。


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