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スピカさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[61592]2007年10月7日
スピカ
[61569]2007年10月7日
スピカ
[61520]2007年10月6日
スピカ
[61492]2007年10月3日
スピカ
[61476]2007年10月2日
スピカ

[61592] 2007年 10月 7日(日)20:41:36スピカ さん
十番勝負
帰宅しました。ケータイからでもうまく書きこめて良かった♪

問九.千葉市
[61569] 2007年 10月 7日(日)20:13:07スピカ さん
十番勝負
ケータイからです。

問六.小田原市
[61520] 2007年 10月 6日(土)00:16:00【2】スピカ さん
郵便 「下」ネタ(?) Oh塚
「根小屋・根古屋」コレクションをリリース致しました。是非ご覧ください。

今日は消印を2000通以上して辛かったです。腱鞘炎になりそう…。


[61479] 2007 年 10 月 3 日 (水) 01:26:47 みかちゅうさん
最後に戸別配達をするのが集配センターということになっています。
そうなんですか!!うちでは第○集配課と呼んでいるのでそんな名前が付けられたなんて知りませんでした。取集が外注業者、押印・区分が郵便課、配達順に区分するのが集配課で分かれています。したがって集配センターも郵便事業会社…になりますよね?
従って「複数の集配センターを1つの郵便事業会社の支店が管轄する」ということが結構あるということになります。
これは山間部などのケースを考えていました。人口が少なくてもやたらと集配局が多い自治体(北杜市など)がありますから。戸塚3区はもう少し様子を窺ってみます。すべての管轄が泉支店なら調査が面倒だなってのが本音ですが…。まだ26本です。


[61487] 2007 年 10 月 3 日 (水) 11:40:14 N-Hさん
ニアミスあり得ます。電車とかで…?! と言うのも…。
京浜急行もかつては駅名に京浜○○とつけていたものを、あるときに一斉に京急○○にかえましたし、スーパーをはじめとする系列会社も京浜ではなく京急を名乗るようになりました。
鶴見や川崎などJRの駅前にあるのに律義に会社名を付けていますよね。新子安は京急の方が先だったのに。その京急新子安ですがR15に「京浜新子安」の看板があるらしいですね。
京急ストアってもとは京浜ストアだったんですね。


[61503] 2007 年 10 月 4 日 (木) 00:53:04 今川焼さん
ところで、今日になって気がついたことなんですが、消印も「丹波」になっているのですね。消印を郵便事業会社の支店名に合わせるのは当然といえば当然(?)なのかもしれませんが、9月30日までの消印は「兵庫柏原」で、大阪の柏原局とはすでに同名回避していただけにこれはちょっと意外でした。
[61506] 2007 年 10 月 4 日 (木) 21:54:31 紅葉橋律乃介さん
郵便局の窓口では現在でも「兵庫・柏原」と記されています(年号に下線入り)。「丹波」は収集した郵便物に記されているはずです。
支店は郵便事業会社の管轄なので支店名の「丹波」、窓口は郵便窓口会社の管轄の柏原郵便局なので「兵庫・柏原」になるんですよね。かなり紛らわしいのです。窓口で渡してもすべてがその段階で消印されるわけではないので、事業会社の消印になる事もあります。ゆうゆう窓口は実は事業会社の管轄なので(窓口営業時間帯は小包の扱いなど)、窓口営業時間帯以外なら「丹波」が押されるのでしょう。

日本郵便では専用の白い封筒も用意しているようです(局会社は?)。
 〈紅葉橋律乃介さん〉
局会社の封筒も白で、下の方がテーマカラーのオレンジに白抜きでマークが入った物です。


[61511] 2007 年 10 月 5 日 (金) 06:49:41 千本桜さん
つらつら思うに、榎下の「下」、後山田の「後」を嫌っての改称ではなかったか。上猿山の「猿」は「去る」に通じるから上山に改称したという土地柄ですから、有り得なくもない話です。どうも、当時の横浜には語感・字面に鋭敏すぎる人がいて、地域の史実を曲げてしまったような気がします。
確かに「下」はことごとく消されていますよね。
「下」を使った大字を並べてみると、
編入大字町名(~町)編入大字町名(~町)
S2.4.1笹下明治初期に「下郷○村」が3つ合体S14.4.1下川井
下大岡大岡下谷本
下末吉下白根白根
下菅田菅田榎下新治
下星川星川下猿山白山
S11.10.1下野庭野庭上野庭の領域と合わさる下倉田
下柏尾柏尾
下飯田
14のうち8も変えていますね。やはり千本桜さんの推測のようですね。でも、「北」はそのままってのが引っ掛かります。偶然でしょうか。


あれ!、大塚って宿場じゃなかったの?。(中略)ところで、国分宿って、海老名の国分のことですか?。
他の街道はどうなのかはよく分からないのですが、矢倉沢往還には「大塚」という通称の土地(土地と言うよりも特定の場所、スポットといいましょうか)がいくつかあるようです。それって一里塚の様な気もするのですが…。江戸からだと柏ヶ谷村まで12里余り、国分村まで14里だそうで。海老名市は丘陵の周辺部が削られて大きな塚状のなったとしています。(参考)
国分宿は海老名市の国分です。現在市の中心地は海老名駅の南から南西方向ですが、鉄道が通ったころは駅の東の大字国分の国分寺跡地に海老名村役場が置かれたそうです。役場なのに“郡役所様式”の建物だそうで、現在は「温故館」となって保存されています(なお、現在は耐震強度の問題から中には入れません)。


[61517] 2007 年 10 月 5 日 (金) 21:52:30 桜トンネルさーん(?)
早速のリンクをありがとうございます。
中央佃局ver.は都会なのに都会ぽっさを感じさせない、つまり下町的な雰囲気を出しています。演出が巧いですよ。



【1】海老名市に関する記事を訂正。(10:50)


------------------------------------------
その後の調べで矢倉沢往還に大塚という宿場があった事が分りました。大塚屋などの宿があったそうです。このような伝承も。それにしても大塚~国分は近いですね。
大変失礼しました。

【2】-以下を追加。(11:07)
[61492] 2007年 10月 3日(水)18:05:00【1】スピカ さん
榎下村
[61420] 2007 年 9 月 30 日 (日) 20:47:34 千本桜さん
大字って面白いでしょう。
…面白いです(笑。
そのような観点に立つと、榎下が新治の名を継承したのは妥当だったのだろうか?と疑問を感じてしまうのです。
新治村が横浜市に編入された当時、新治村役場が置かれたのは大字中山で、編入後は港北区役所新治出張所となって行政機能を残しました。村内唯一の横浜鉄道(現在の横浜線)の駅、中山が置かれたのは大字寺山(注)です。恩田川対岸にある都筑郡唯一の町であった川和町への最寄り駅も中山だったので新治地区で一番栄えているのは、昔も今も中山・寺山です(横浜線の快速電車は鴨居にも停車します)。また、中原街道が通り南北への交通の拠点であり、鶴見川と恩田川が合流する点でもあります。
注:所在地は大字寺山ですが、大字中山との境界付近です。なお、鴨居駅は昭和37年、十日市場駅は昭和54年の設置です。

手に入れることができた人口データですが、
村名現在の町名(概)『新武』(軒)明治人口明治24年人口昭和44年人口
上菅田村(保)上菅田町4434911,132
十日市場村(緑)十日市場町58M2→33655811,084
中山村(緑)中山町35M3→2162336,561
新井新田(保)新井町14905,282下略の改称
寺山村(緑)寺山町17M3→1431593,745
本郷村(緑)東本郷町48M2→2683723,528同名回避の改称
鴨居村(緑)鴨居村85M3→4505853,372
久保村(緑)三保町74M5→4804953,198同名回避の改称
台村(緑)台村町282522,390同名回避の改称
榎下村(緑)新治町46M2→2333261,365改称
猿山村70M3→384明治の初めに上下に分かれる
上猿山村(緑)上山町1821,360旧称忌避の改称
下猿山村(緑)白山町327713旧称忌避の改称
 ※「新武」…天保年間に成立した「新編武蔵国風土記」による家の軒数
 ※明治2,3,5年人口は「横浜農村明細帳」によるもの
 ※昭和44年の人口は横浜市が国勢調査人口を基準に算出したもの 
 
これを見るところでは、明治期までは各村間で人口の開きは大きくないですが、その後は横浜線の沿線や開発が進めやすい鶴見川・恩田川の氾濫原を中心に人口が伸びています。昭和の人口で白山町が少ないのは平地部に工場が多く立地しているためです。
この編入と同日に鎌倉郡川上村も編入し、こちらも大字後山田を川上町に置き換えていますが、こちらも後山田に拠点性はなく、川上川の最上流部と云う意味合いだけで、無理矢理藩政村の地名を抹消している感も否めません。対照的なのが都筑郡中川村で、大字大棚を大棚町と中川町に分割することで、直前までの村名と藩政村の両方の名前を残しました。また、西谷(保土ケ谷区)や中和田(泉区)のように明治の村が後年に復活して、あたかも大字であったかのように居座り、混乱させられました。


[61433]でみかちゅうさんが挙げている「榎下城」ですが、こちらのHPによれば、
 榎下城は室町時代前半に上杉重兼の次男憲清によって築城された。やがて永享の乱(1438~39)勃発すると城主の上杉憲直(憲清の子)は鎌倉公方足利持氏に加担して幕府軍に敗れ、持氏は自害、憲直は持氏が出家した金沢称名寺を守るところを攻められて自害した。その後関東管領上杉氏は榎下城よりさらに堅固な小机城に拠点を移していったものと考えられる。
 やがて戦国時代に入って武蔵国が後北条氏の支配になると、榎下城は小机城の支城として本格的な改修を行い、城主には山田右京進をおいて守らせたとされる。
ということですので、[61373]でIssieさんが
私たちが「城下町」という言葉で連想するような都市が成立するのは早くても戦国末期,そのほとんどは江戸時代初期のことです
と言われているように、大きな「城下町」は形成されなかったのではないでしょうか。
また、この城は「榎下城」と言いながら実際は三保町(久保村)に位置しています(そんな名前のバス停も…)。地図を見ていただくと「旧城寺」という寺がありますが、正に城跡に建てられた寺です。角川では慶長(1596-1614)年間にとありますから、その頃には既に城はなかったと思います。
「榎下村」は1650年に成立した「武蔵田園簿」では「榎本村」と書かれています。(「日本の地名による」)

大分逸れてしまいました。
先日気になることがと言いましたが、「郷」の存在が出てきたのです。「郷」とは奈良時代後半に郡の下に置かれた行政区画で、その後は広域名称としての漠然とした区画になったそうです。(恥ずかしながら、昨日知った事なので覚束ないのです) 
室町時代―戦国時代に掛けて都筑郡に「榎下(荏下)郷」という郷があったそうです。この時の範囲は分りませんが、江戸時代には久保、寺山、台、中山、十日市場、小山(明治の合併で中里村)を表していたようで、新治村を形作る12村のうち5村を含み、且つ中心部を含む広域名称だったことになります。
大区小区制では上の5村に猿山村を合わせて第7大区第4小区(このままなら榎下村でも良かった?)、そして、町村制にあたって新村名を決める事になります。12村を束ねるには当然「榎下村」では批判が出たでしょうからいわゆる瑞称地名の「新治」を選びました。

横浜市に編入されるにあたって「新治」の自治体名が消える時、“ある意味”その土地の中心であった榎下を新治に変えたのでしょうか。しかしそれまで親しんできた「榎下」の名を抹消してしまう事は、矛盾が生じています。
藩政村時代の中心的地名を見ると妥当、新治村になってからの勢力を見るとグレーゾーンと言えましょうか。


しかし、
藩政村の平、堤、新寺から成る金ヶ瀬村は、大河原町との合併に際し、消え行く金ヶ瀬村の名を平に託して平を金ヶ瀬に改めました。その代償として平の地名が消えました。このことを思うとき、平には平の地名が消えることへの抵抗感が。堤、新寺には金ヶ瀬の名を継承できないことへの抵抗感がなかったかと あれこれ思いがめぐります。
という「抵抗感」を考えると「榎下」を消してしまう事に対しての抵抗感がなかったのか、そう思います。
結局答えは導き出せずに。…端から答えなんぞ用意されてはいないのでしょうけれども。


[61458] 2007 年 10 月 2 日 (火) 01:59:48 音無鈴鹿さん
下猿山→下山→白山 ってシモをシロにしたわけかぁ。
白山市の白山比 口+羊 神社を総本山とする白山神社がある事に由来します。(此処)
それについては、色々あるのかもしれないですし、音無さんも知っていてぼかしているのかもしれないので、取り敢えずこれ以上の言及は避けます。


------------------------------------------
以下は決して未来を先読みした書き込みではありません。
[61498] 2007 年 10 月 3 日 (水) 21:36:45 千本桜さん
大塚本町界隈については[60656]に少し書いたのですが、改めて考えてみると可笑しな点もあるので調査、再報告(違う視点から)したいと思います。イトコがあのあたりど真ん中に住んでいるので土地勘もあるのです♪ 大山街道の宿場は下鶴間宿(大和市)-国分宿(大和市)では…?(川崎国道事務所の大山街道の解説)
知らず知らずのうちに最初の頃の勢いでの書き込みから、ちゃんと下調べをするような書き込みになっていました。間違った事を流してしまう怖さですかね。


【1】-以下を追加。
[61476] 2007年 10月 2日(火)23:37:00スピカ さん
事業会社の制服はノーネクタイ
公社最後の日に珍しく他局から来た「配達区分(自局の町名単位に分ける作業)」をしたのですが、誤区分の多いこと…。100通に5通くらいはあったのでは。郵便物にとっては当然無駄な寄り道なのですから、配達が遅くなるだけですし、作業する側にとっても無駄な事です。おそらく仕立てた局で手区分したものですから、その作業の正確さを疑います。お客様の信頼もありますから、正確な区分を目指したいところです。


[61453] 2007 年 10 月 2 日 (火) 00:16:54 かぱぷうさん
素早い回答をありがとうございます。
ある人が郵便局会社にメールで問い合わせたところ
 >公社が運営していた「郵便局の開局情報」のホームページは終了
 >今後は郵便局株式会社のホームページの「お知らせ」欄へ掲載というかたちで対応
…との返信が帰ってきたとのことです。
これはなくなると痛いんですよね。私も重宝してました。
そうなんですか。あのページのチェックは日課だったので残念です。末期に一時閉鎖が結構出ましたから、行ったのにやってないといった事態は避けたいですね。
お知らせなんて言ったら、すべて載せてくれるのか怪しいですね。


[61455] 2007 年 10 月 2 日 (火) 01:20:03 みかちゅうさん
原則的には「窓口会社の支店名」=「郵便事業会社の局名」となるのですが、上記の通り「○○中央局」など一部では支店名と局名が異なることになりました。手元に『郵趣』10月号があるのでその一覧表からまとめてみます。
そんなに変更があったのですか…。同名回避も大切ですが、変に名前が変わって地域密着から離れてしまう事を懸念します。と言っても郵便局名はそのままだから関係ないですね。郵便局名の下の部分が省略されてしまうと例えば「神奈川」と「神奈川菊名」「神奈川白幡」などが紛らわしくなりますね。
ところで、今日戸塚の図書館に行きがてらポストの番号をチェックしました。横浜泉支店なのですが、弥生台―泉局―立場―踊場―戸塚と回っただけでポスト番号の百の位が4、5、6、8、9を見つけてしまいました。泉区と戸塚区大正地区だけでそんなに…と思っていましたが、〒244の踊場駅前局も泉支店、さらには戸塚駅西口の戸塚郵便局至近のポストも泉支店でした。戸塚郵便局は取集業務をせず、配達のみかと邪推しているのですが、栄区方面はご存じないですか。


[61458] 2007 年 10 月 2 日 (火) 01:59:48 音無鈴鹿さん
嗚呼。これは玉縄城を見に行ったら不審者として通報されちゃいますね(笑)。
勇気あるお方もいらしたようです(笑。見学はそれにしておきましょう。しっかし、学校の事も文化財を守る事も教育委員会のお仕事ですよね。
親御さんにしてみれば安心して通わせられるかも…?!城だけに防御は…。


[61458] 2007 年 10 月 2 日 (火) 01:59:48 音無鈴鹿さん
[61465] 2007 年 10 月 2 日 (火) 14:43:59 きまぐれさん
鎌倉彫は職人の技が光る美しいものから、2時間ほどで体験できるものまであるみたいですね。
  鎌倉彫資料館


[61464] 2007 年 10 月 2 日 (火) 14:38:31 N-Hさん
ううむ、そうですか?
行政の方で「ケ」と決めているのでそれに合わせていることに好感が持てるという事です。変換しても「保土ケ谷」は出てこないので面倒くさいですから、「保土ヶ谷区」に改名してほしいと思います。次回の行政区再編の際には是非(22区くらいになる?!)。

※横浜市に行政区再編の予定はないようです。念のため。


[61471] 2007 年 10 月 2 日 (火) 22:47:52 MasAkaさん
・東京+横浜
東横 3,800,000件
京浜 2,230,000件 ※「京浜葉」は除外
これは意外ですね。京浜は普段から沢山使いますけど、東横はあの路線と私立高校くらいしか浮かびません。沿線に話題の街を抱えてることやマンションが多いからでしょう。


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