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むじながいりさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[58579]2007年5月20日
むじながいり
[58364]2007年5月6日
むじながいり
[58308]2007年5月4日
むじながいり
[58201]2007年4月29日
むじながいり
[58149]2007年4月25日
むじながいり

[58579] 2007年 5月 20日(日)13:08:55むじながいり さん
淵村
[58561] 88 さん
長崎県西彼杵郡淵村を巡る一連の議論について、遅くなりましたが反映しました。
変更対象自治体名に淵村が記載されていませんが…。
[58364] 2007年 5月 6日(日)22:08:22むじながいり さん
クイ図
今回の試作品で気づいたことをいくつか。

mapionの場合、中心カーソルの他に、任意の場所に表示される十字に丸のマークもあります。下のリンク用URLを使用すれば中心カーソルの場所に表示されるようですが、ブラウザのURL欄からコピーすると意図しないことが起こります。
例えば[58309]ぺとぺと さん
問三:岐阜県岐阜市
縮尺を変えていくと、岐阜県庁にマークがされています。このマークは後に続く解答者にヒント、問題によっては解答となりうるのではないでしょうか。解答方式としてリンク用URLの使用、もしくはマークの削除などを条件にしたほうがよいかもしれません。
試作問題ですし、ぺとぺとさんを非難する意図はありませんのでご了承ください。


郵便局の出張所の件。本家はあまり信用できないかもしれません。例えば多摩センター駅出張所の場合、本家に対して、実際。まあ50mくらいずれています。もっとひどいものでは私の出身大学。なんと300mのずれがありました。Web上に構内図があればよいのですが、そうでなければ実際知っているが故、なんてことも起こりかねません。基準元によってはあまりピンポイントというのも難しいと思います。


県庁最寄り駅の件。沖縄県庁最寄はmapionのキョリ測で測る限り、617.8kmで枕崎駅のようです。ちなみに開聞駅620.8kmです。


問二の郵便番号ぞろ目、十番勝負第一回問十で出題されていますが、このとき金メダル取ったのが私でした。それ故か、今回もすぐわかっちゃいました。
[58308] 2007年 5月 4日(金)22:33:51むじながいり さん
Re:大型連休緊急特別企画(クイ図 試作品PartII)
風邪ひいてさっきまで寝込んでいました。

[58305]オーナー グリグリ さん

問一:千葉県南房総市
問二:愛知県岡崎市
問三:山梨県甲府市

ところで問二の解って15ありませんか?
[58201] 2007年 4月 29日(日)08:55:18むじながいり さん
淵村は1898年に消えたんじゃん?
昨日は国会図書館に行ってきたわけですが、システム障害で紙に書いて申し込みしたりとかでした。電子化する前はこんなんだったのかなとか思いつつ、効率悪いったらありゃしない。

[58149]自分
[58172]88 さん
さすがに町名の由来となると資料がなくて調べられませんでした。改めて別の資料を探してみると、『長崎県市町村便覧』(長崎県市町村振興協会,2006/03/31)ではAパターン(1898年消滅)でした。そして、かなり決定的?と感じた資料が、日本地図センターが発行している『地図で見る長崎の変遷』(2000/05/01)です。これは複数年次の国土地理院地形図をセットにしたもので、その中に明治34年(1901)測量のものがありました。これに淵村は存在していません。後世に発行された数々の資料と違い、その当時測量されたものですから存在する村を消し去るなんてことはまずないでしょうし、信頼性はもっとも高いのではないでしょうか。

本当は県報を調べられればベストなんでしょうが。
[58149] 2007年 4月 25日(水)19:11:29むじながいり さん
淵村はいつ消えたのか
>88 さん
長崎県西彼杵郡淵村の消滅時期が資料によって分かれていまして、ちょっと相談させて下さい。市区町村変遷情報では1920/10/01に長崎市へ編入とされています。しかし、1898/10/01に長崎市へ編入し消滅しているとする資料もあります。

A.1898(明治31)/10/01に消滅
(1)『角川日本地名大辞典 42長崎県』1991年
(2)『長崎市制六十五年史 前編』長崎市役所 1966年(図の部分)
ただし、本文では拡張区域として、明治31年淵村一部表示。1920年に淵村編入の記述なし。
(3)長崎市役所公式サイト内資料(PDF)

B.1920(大正9)/10/01に消滅
(4)『幕末以降市町村名変遷系統図総覧』原書房 1995年
(5)『新版 全国市町村名変遷総覧』日本加除出版 1999年
(6)『市町村名変遷辞典 補訂版』東京堂出版 1994年


このように分かれる原因となったのは1898/10/01の合併or境界変更にあると思います。

1898/10/01
・淵村の一部が長崎市へ編入
・淵村の一部が浦上山里村へ編入

この変更についてはA,B両者とも共通しています。つまりここで淵村に残余部があったのかどうかということが問題になります。(1)(6)の資料ではどの範囲が編入されたか書かれていました。どちらも浦上山里村への地域は「寺野郷」、長崎市への地域は「竹ノ久保郷、稲佐郷、船津郷、平戸小屋郷、飽ノ浦郷、水ノ浦郷、瀬ノ脇郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷」で一致していました。さらに(1)で明治22年時の行政区として記されていた郷は、分立した小榊村部分を除き上記11郷と一致しています。実際、明治22年時の淵村と現在の大字を比較する限り、1898年に編入された11郷というのは淵村のほぼ全域にわたっていると思われます。以上のことから私はAが正しいのではないかと推測していますが、いかがでしょうか?


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