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okiさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[58111]2007年4月22日
oki
[58109]2007年4月22日
oki
[58062]2007年4月17日
oki
[57886]2007年4月9日
oki
[57885]2007年4月9日
oki

[58111] 2007年 4月 22日(日)03:24:34oki さん
あれは藺草だったのか
[58093] hiroroじゃけぇ さん
 常識が常識でなくなる時だってあるんですね
など

藩政村ばかりでは何なので、他の話題も少し。

先月の半ば、藺草を求めて早島まで行ってきました。
というのはもちろん冗談で、たまたま玉野市への出張があったので、宇野線に乗ったときに目をこらして藺草畑を捜したわけです。

私の年代では、「藺草は岡山」というのが社会科で刷り込まれた記憶なので、児島湾の干拓平野全面に藺草畑が拡がっているような印象を持っていました(早島駅前にも「畳表の早島」という大看板が立っていましたし)。しかし、実際にはほとんどの田圃が秋の刈入れ以降そのままになっているようで、緑色の耕地は少ししかありません。緑の絨毯がべったり広がっているのは、早島ではなく久々原駅の東・南方面だけでした。
そのときの観察では、草丈が20~30センチくらい、かなり粗放に植えてある上、田圃に水も張ってなかったのでとても水稲には見えませんでした。
しかし、私は生まれてこの方、自然に生えている藺草というものを見たことがなかったので、ここでの議論を知らなければ、あれが藺草だとは思わなかったと思います。藺草は田圃に水を入れたり落としたりして育てるとのことなので、もしも水が入っていて、季節がもう少し遅ければ、稲と間違えていた可能性は大です。
もしも、「とある18キッパーのおば様たち」が見ていたときに田圃に水が張られていたなら、水稲と間違えても(季節には疑問がありますが)、あながち非難はできないのかな、というのが実感です。

ところで最大の疑問は、私が見た児島平野の緑色の草が本当に藺草なのか、ということなのですが、以上の記述から判断していただけますでしょうか。

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玉野のスーパーで魚売場を観察していたところ、「けっけ」「げた」「ひら」などの興味深いものを見つけました。
特に興味を持ったのは「けっけ(「だいちょう」という別名も併記されていました)」で、縦横ともに5センチ、厚さ5ミリ程度の小魚で、私の故郷である徳島では「ギンバ」と呼ばれ(スーパーでも徳島産と明記されていました)、標準和名では「ヒイラギ」というようです。私の知る限り、防波堤釣りの外道の最たるもので、食用にはしていませんでしたが、高知の方では食べていると聞いたことがあります。
これは各地域によって食用にする魚が違うというだけで、その間に優劣はないと思っているのですが、実際問題として、「けっけ」をどのように料理して食べるのでしょう。教えていただければ試してみようと思っているのですが・・・。

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来月に、また岡山および玉野に出張予定です。玉野はホテルがほとんどないので岡山に宿泊することになると思うのですが、食事をするのにどこかお勧めのところがあれば教えていただけないでしょうか。予算上、お姉様方が侍るようなところは論外、できるだけ安くて岡山らしさが味わえる、朝早く玉野に行くので岡山駅近くのところ、という条件なのですが、もしもご存じであれば、ご教授いただければ幸いです。
出張時の、5月半ばの藺草畑についてはまたレポートを書くつもりです。
[58109] 2007年 4月 22日(日)01:51:29oki さん
藩政村について~その5
[57608]88さん
「藩政村の定義」なるものを確立しないと、同列には議論できないのでしょうか。

[58043]むっくんさん
ながながと書いてきて傍と気づきました。もしかして、[57481]88さんの
「『幕末以降・・・』のまま何も考えずに掲載する」という方針
と大して差がないのではないかと。

[58096]むっくんさん藩政村の具体的分析
(2-2)(2-3)(6)を比較してみて私には国絵図に、枝村の記載をするのかしないのか、そして記載した村が枝村である旨の記載をするのかあたかも独立村かのような記載のようにしておくのか、ということに対しての明確な基準が見えてきません。

考える必要があるのは、市区町村変遷情報で取扱う「藩政村」の時点をどこに置くか、依拠すべき基礎資料は何か、ということだと思います。
具体的な計数値を示しておきます。

年号  西暦  町数  村数  計  石高 基礎資料
正保2  1645554595545923292668正保国絵図
元禄10  1695627916279127095466元禄郷帳
天保1  1829634726347230553440天保郷帳
明治6  1873697366973632555897郡村石高帳(宮内省租税寮)
明治6  187311942688208076231017135府県概表(東京・有隣堂)
明治8  1975125936825980852日本全国戸籍表(内務省)
明治19  1986125375871971256地方行政区画総覧(内務省地理局)
(※この数値は、年次も含めて必ずしも正しいとは限りません。私が現時点で把握している数値というにすぎません。また明治になって町が出現するのは、村高がないため幕府の郷帳に記載されていなかった、城下町等を構成する町々が統計に表われてくるからです。江戸期の郷帳では城下町以外の町(新田、宿、浦など含め)も村の中に入っていますが、明治以降の町(これは町だけ)は、新田等を含む村と別扱いです。)

以上から分かるように、村の数は江戸期を通じて増加を続けています。新田開発による新村の出現、枝村の独立村化などによるものです。しかし、単純に増加だけがあったわけではなく、減少もあったようです。
「新田開発(菊地利夫 古今書院 1958)」によると、元禄~天保間の増加村数が1978、減少が1632で差し引き346村の増加(上の表とは合いませんね)、天保~明治間で増加7550、減少1286で純増が6264(これは上表と一致)とのことです。現在でもそうであるように、江戸時代にも村の数は常に変動しており、ある地域が独立村であるかどうかは、時期によって異なってくる可能性があります。そして、独立村であるかどうかは、領主が決めることです。より正確に言うと、領主が決めた村以外に、我々としては判断のしようがない、ということです。
江戸時代に幕府が行なった全国的な村名、村高の総覧としては、慶長、正保、元禄、天保の国絵図、郷帳しかありません。そのうち、国絵図、郷帳が完全な形で残っているのは天保だけです。これ以外に、「将軍の代替りごとの朱印改めに際し、諸大名らより提出された帳簿で,その領知している所領の村名と村高が国郡別に記載されている『郷村高帳』(平凡社百科事典)」があるようですが、全国一律の時点、基準で相互比較を行なうのは無理でしょう。また、「○○村明細帳」などの村方文書(村側で作成した文書)はそれこそ無数に残っていますが、これらをすべて読むのはとても不可能なことです。

[58096] むっくんさん
(2-2)高島郡天増川村(現:高島市)
この村には、梨子木村,六ツ谷村,轆轤(ろくろ)村,水谷村という枝村4村がありました。
天保国絵図にはこの内、梨子木村,轆轤(ろくろ)村が記載されていますが共に天増川村の枝村であるとの記載はありません。
元禄国絵図で見ると、天増川村(30石)と梨子木/轆轤村(18石~併記です)の記載があります。旧高旧領では、天増川村(48石)、梨木村(13石)、轆轤村/六ツ石村/水谷村(6石~これも併記です)が掲載されています。
現在の状況を見ると、すべてが高島市今津町天増川に含まれていると思われます。若狭国境に近い近江の山村であり、現在では天増川の集落以外ほとんど家もないようです。石高から見ても、独立村はおろか、枝村としても成り立つかどうか怪しい程度のものです。
そして、これらが村であるか否かといえば、その時点時点で、国絵図や郷帳に書いてあるように、領主が把握していたのだろう、としかいいようがありません。
村方文書を博捜すれば、梨子木村,六ツ谷村,轆轤村,水谷村という枝村があった、ということになるのでしょうし、村民の側ではムラとして意識していたのかもしれません。しかし、領主としては国絵図に記載されているように把握しているわけです。
このような、領主側と村民側との意識の相違は、おそらく全国の村であったはずで、それらをすべて確認するのは不可能です。

以上のような状況を考えると、とりあえずは、市区町村変遷情報における「藩政村」は「天保郷帳」記載の村とする、というのが妥当な線だと思います。「地名研究必携」の基礎資料が天保郷帳であるのも、このような考えに基づいているのではないかと思われます。
ただ問題は、天保~明治間で増加村数が7550にものぼるということで、この中には江戸期中に独立村になったものもあれば、明治初期に独立村として認められたものもあると思いますが、その区分が私にはよく分かりません。
天保郷帳以降の全国的な村名資料は旧高旧領ですが、これには以下で示すような欠点があります。その後は「郡区町村一覧」で、これは1979年(明治12)12月時点となっていて、「幕末」の資料というのは無理があります。
「幕末以降・・・」の依拠資料を知らないので何とも言いようがないのですが、以上を前提とした上で、幕末期と明治期を区分けしているのであれば、基礎資料として天保郷帳より相応しいでしょう。

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なお、天保郷帳には枝村は記載されていません。郷帳に記載されているのは村高のある村だけで、枝村を記載しているのは国絵図の方です(あくまで原則ですが)。したがって、この時点の枝村を把握するには国絵図を舐めるように見ていくしかなく、全国でこれを行なうのはかなりシンドイことだと思います。
また、「旧高旧領」は、元々明治新政府が維新直後の状況を把握するために編纂した資料だと思いますが、原本は存在しません。写本を木村礎氏が校訂したのが近藤出版社の刊本で、歴博のデータベースはそれに基づいています。しかし、写本は全国分が揃っているわけではなく、存在しない国の分は天保郷帳を流用しています(どの国が郷帳の流用分かは刊本に当たらないと分かりません)。歴博では「誤記や表記の統一性に欠けることが少なくありません」と記載していますが、私が検証した限りでも、明かな脱落がありました。そのため、「旧高旧領」をそのまま基礎資料にはできませんが、デジタルデータが得られるので、PCで扱うにはとても重宝します(私が整理した限りでは、「旧高旧領」記載の村数は64000村くらいです。)

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本当は城下町の扱いについて書こうと思っていたのですが、後にします。
先の表で、明治になって急に町が表われたことからも分かるように、城下町を構成する町々は、藩政「村」とは別に扱うことが必要だろうと考えています。
[58062] 2007年 4月 17日(火)01:57:52oki さん
藩政村について~その4
むっくん さん
[58044] 犬山と西尾の差異
[58043] 新田・枝村・城下町
[58035] 天保国絵図・旧村旧高取調帳・郡区町村一覧

十番勝負でお忙しい中、詳細なレスを付けていただき有り難うございます。
ただ、いくつか誤解があるようなので、その点への説明も加えながら、私の意見を述べたいと思います。

1.明治時代以前は米を中心に社会が成り立っていたのであるから、石高を持つ農村(藩政村)を行政単位の中心とし、石高を持たない町は行政単位の例外事項と見る。

これは私の説明不足だと思いますが、石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
石高の基礎となるのは水田、畑地、宅地の面積で、この面積に石盛と呼ばれる単位当たり収量(1反当たり1石など)を乗じ、これらを総計して石高が決定されます。江戸時代の水田と畑地との面積に関する資料はごく少ないですが、「明治以前日本土木史」所収の「町歩下組帳」では、江戸中期に水田172万町、畑地132万町で、両者の比率は57:43になっています(関東は特に畑地が多く、比率は37:63です)。水田から得られる米は現物納ですが、畑地、宅地は石高をその時々の米価で換算した金納であったようです。
重要なのは宅地も石高に組み入れられることで、結果として農耕収穫のない漁村、港町、宿場町などにも村高が付されます(宅地に収穫高があるわけはありませんが、現在の固定資産税のようなものとして高付けされ、石盛は畑地と同様であったようです)。そのため、
例外として石高を持たない宿場町・港町・門前町などを付け加える
とは言えないわけです。

次に城下町ですが、城下町の特性をきわめて簡単に整理すると次のようになるかと思います。
1.近世初期、兵農分離を徹底するため、従来農村に居住し農民を直接支配していた武士を、藩主直轄地である城下に集住させた
2.集住した武士に消費物資を供給するため、商工業者も城下に呼び寄せた
こういう形で計画的に建設された都市が城下町である。
城下町は武士の居住地域と商工業者(町人)の居住地域に分けられますが、領主直轄地として一体的な都市と考えることができ、その内部は複数の町に区分されています。
また、商工業者を集めるため、先の宅地に関わる年貢を免除されることが普通です(これを地子免除といいます)。武士の宅地に年貢が課されることはありませんから、城下町には石高がないわけです(あくまで原則で、例外は多数あります)。
もっとも、城下町といってもピンからキリまであるわけで、数百の町から構成される大都市から、数町の小城下町まで多様です。さらには、藩主の半数程度は城を持たない陣屋大名ですが、これらについては、厳密には「城下」町が存在し得ない、ということにもなります。

[58044] 犬山と西尾の差異
で展開された各城下町に関する考察は、おそらく考えすぎで、実態はもっと単純なものだと思います。
まず、彦根と西尾ですが、どちらも城下町としては比較的大きいものです。特に彦根は、井伊家35万石、譜代最大の大藩で、嘉永3年(1850)に町方だけで50ヵ町,3099戸を数え、藩士数は元禄8年(1695)に彦根在城だけでは1万9000人に達したとのことです(いずれも平凡社百科事典による)。明治5年頃の数値を反映する「共武政表」では、人口は24368人となっています(共武政表は国会図書館のデジタルライブラリーにあります)。
西尾は幕末期の石高が6万石とさほどでは大きくはありませんが、「江戸時代は西尾藩の城下として栄え,岡崎,吉田(豊橋)とともに三河三都と称された(平凡社)」とのことで、かなり繁華な都市だったことがうかがえます。共武政表による人口は7095人です。
この2つについては、幕末期に城下を構成した町々が明治維新後もそのまま維持された上で(多少の異動はあったでしょうが)、最終的に明治合併期に彦根町、西尾町が形成され、その内部に、旧城下内の町々が大字の形で残されたのだと思います。
この過程で、彦根町→彦根村→彦根村から96町の分立→明治大合併期に彦根町誕生などというプロセスを仮定する必要は特にないでしょう。(そもそも、天保国絵図に彦根村はありますが彦根町はありません。彦根村というのは彦根城下町を建設した際に城下から外れた部分が村方として残ったものだと思われます。また西尾町はありますが、これは西尾城下町の町方の総称と考えるべきでしょう)。
一方、仁正寺(西大路)と大溝ですが、前者は幕末に1.8万石、後者も2万石の極小藩で、いずれも陣屋大名です。つまり城を持っていないわけで、先のように、厳密には「城下」町を持ち得ない藩です。実際のところは、大溝は町だったようですから、武士の居住地のほか若干の町場が形成されていたのかもしれません。西大路は陣屋所在地が村なわけですから、傍目から見ても町と言えるほどの人口集積がなかったのでしょう。(共武政表によれば、西大路村の人口は1646人、大溝が周辺の2村と合併した勝野村が1917人です)。
どちらにせよ、これらは彦根などの城下と違ってその内部構成体である町々を持たず、明治以降は陣屋や武士居住地を含めて村になってしまったものと思われます(現在の地図を見ても、1藩の中枢が所在した片鱗すらうかがえません。)

次に犬山ですが、国宝犬山城はあまりにも有名ですし、その城下町も形成されていたようです。しかし実際のところ、犬山の城主成瀬氏は石高こそ3.5万石ですが、身分は尾張名古屋藩の付家老であり、独立の藩として認められたのは明治になってからです。おそらく、犬山城下町がさほど大きいものではなかったため、明治維新後に犬山村に編入され、犬山村が稲置村に改名された上で明治合併期に犬山町になったものだと思います(共武政表による稲置村の人口は6159人で、西尾と大差ありませんから、犬山城下町の村への編入には何らかの事情が作用したかもしれません。藩政期に存在した犬山村は、犬山城下町になり損なった村方でしょう)。
明治合併前に合併していた町村は、たとえ藩政期に独立村であったものでも大字として扱われず、それが現在まで引き継がれているのが一般的ですから、犬山城下町に関してもその一例と見なして差し支えないと思います。

膳所に関してはよく分からないのですが、
江戸時代には膳所城城下町のうち、町人町は農村たる藩政村からは独立した村とされていてました。
膳所の場合は町人町・侍屋敷町は共に農村たる藩政村の一部であるとの説も有力なので
という記述から推測すると、膳所村などのうちの一部が膳所の城下町になっており、残りは高のついた村方だったのだと思います。膳所藩の石高は6万石ですが、大津という大商業都市が近接していたため、商工業は不振で、つまり町人はあまり居らず、城下町の住民は武士が主体だったのではないかと思います。共武政表による膳所村の人口はわずか1840人ですから、版籍奉還や廃藩置県によって士族が四散した後は独立した町を形成するに至らず、旧城下町が元々の村に編入されたのではないでしょうか。

大津は、都市としては膳所よりよほど大規模です。信長時代の城郭は明智光秀の居城であった坂本ですが、秀吉の時代には大津に移されました。大津が城下町であったのは関ヶ原合戦時までで、このとき、東軍についた大津城主京極高次は籠城戦で西軍の進撃を阻止しましたが、この籠城戦によって大津は焦土と化し、その結果として城が膳所に移っています。しかし、大津自体は家康から地子免許の特典をうけて復興し、東海道の宿場町、琵琶湖水運の要的な港町として幕府の直轄都市となり、元禄期には2万人近い人口を記録しています(共武政表では15932人)。最盛時で100ヵ町を数えたそうですが、天保国絵図の大津町というのはこれら町々の総称でしょう。関寺町に高が付いているのは、地子免許を受けた時点では大津に含まれいなかったためだと思われますが、国絵図、旧領旧高いずれでもわずか9石ですから、すべて地子(宅地年貢)であり、実質的には大津の町と一体化していたと考えていいのではないかと思います。

長くなったので、とりあえず切ります。
[57886] 2007年 4月 9日(月)05:34:43oki さん
藩政村について~その3
疑問2:○○新田という名の村?をすべて藩政村として扱ってよいのか?

江戸時代の「新田」について、平凡社百科事典は次のように解説しています。
『江戸時代の新田には、新しく開発された耕地という一般的な意味のほかに、本田畑に対する新田という法制上の土地範疇としての意味が存在した。本田畑とは、ふつう江戸幕府初期の慶長初年(1596)以前に行われた総検地(古検ともいう)によって石高をつけられた土地をいい、これに対し、その後に新田開発され、寛文・延宝検地や元禄検地(新検ということがある)によって新たに高付けされた田畑屋敷地をすべて新田と称した。新田は、比較的大規模なものは本村の枝村となったり新田村として独立することがあったが、その他の場合は新田高として村高の内に編入された。ただし、石盛が低くつけられるなど、あくまで本田畑とは別扱いであり、後年になって両者の差異が事実上なくなっても、土地法制上の区別は形式的に残された。幕府は1726年(享保11)に新田検地条目を制定したが、この条目による享保以降の新田と区別するために、享保以前に成立した新田を古新田と呼ぶことがあった。』

さて、上記で「新田村として独立」したものは村立新田と呼ばれ、「村高の内に編入された新田」は持添新田と呼ばれています。
前者の典型例は、武蔵野台地の開拓によって生まれた畑作新田や、干拓地に新たに作られた新田です。この場合の「新田」というのは「村」と同義であり、慶長検地以前に村切りされた地域の行政区画単位を「村」と呼ぶのに対し、それ以降の新開村を「新田」と称しているだけです(江戸時代の行政区画の単位名称は多様で、村、新田以外の主なものに町、浦、郷、宿、浜、島などがあります。なかには「新田新田」というのも見受けられます)。享保の新田検地条目以前に村立新田であった地域は村と呼ばれるようになり、それ以降のものは新田と称されたとも言われますが、これも地域によって様々で、必ずしもその原則に従っているわけではありません。

一方、持添新田のあり方は多様で、最終的に独立した村になったもの、枝村であったもの、あるいは新田高として村高の内に編入されたものなど色々です。ただ、新田の特異性は、たとえ村高に編入されたものでも、土地法制上の区別があるため、国絵図等で石高が記載されていることです。
具体的に、大津市の事例を見ましょう。以下は旧高旧領をもとに、現大津市内で「新田」であった地域の地名とその石高を示しています。

旧村名石高
大萱新田354
今村新田98
栗林新田47
入江北新田41
赤尾新田30
小野新田26
入江南新田13
苗鹿新田8
八幡野新田8
荒川新田8
南小松新田8
錦織村地先・大久保新田7
北田新田7
真野浜新田6
今宿新田6
下坂本村地先・大久保新田5
山上村地先・大久保新田4
真野新田3
五別所村地先・大久保新田2
南滋賀村地先・大久保新田1
(石高は簡単のため石単位で四捨五入しています。)

以上のうち、現在も大字・町名として残っているのは大萱新田、栗林新田、赤尾新田だけのようです(すべてを確認したわけではありません)。国絵図によると、大萱新田、赤尾新田は独立村、栗林新田は南笠村の枝村になっています。逆に石高が微少な「五別所村地先・大久保新田」、「南滋賀村地先・大久保新田」などは、それぞれの本村に含まれていると考えることが可能です。
では今村新田や入江北新田、小野新田はどうなのか、今村新田については、国絵図に森村の枝村として今村新田があるので、これかもしれません。入江北新田は分かりません。小野新田はおそらく小野村の内部に含まれていると思われます。
他の新田についても、本村の名称が付されているものはその一部と考えられ、そうでないものはよく分からない、というのが正直なところです。

以上を前提に、「市区町村変遷情報」で「新田」をどう扱うかですが、大萱新田や栗林新田のように独立村、枝村であったものは先にお示ししたのと同様に考えればいいと思います。
問題はそれ以外のものです。
[57500] 矢作川太郎 さん
私としては後世の町名起立に何らかの変更を与えたと思われる新田を中心に据えて考えています。
このように考えてもいいのですが、今村新田のように幕末期には枝村で(?)、現在の所在がよく分からないという事例もあるので、即断も禁物です。可能であれば、詳細は不明とした上で、明治期の村、現在の大字・町名との関係を推定で記載した方がいいのではないかと思います。
[57885] 2007年 4月 9日(月)03:01:12oki さん
藩政村について~その2
[57608] 88 さん
楽しみにしています。お手すきのときに、またよろしくお願いいたします。

レスが遅くなって申し訳ありません。皆様十番勝負に夢中だと思い書き込みを遠慮していたのと、出張が入ったのと、その他諸々ありまして。しかし十番勝負は、あんな問題がどうして解けるのでしょうね。私が今までに解けたのは奥の細道関係の1問だけで、ほかは説明を受けてもよく分かりません。そのため最初から諦めているので参戦する勇気は起きませんが・・・。

さて、以下はあくまで私見です。私は専門的な歴史教育を受けたわけではなく、単なる物好きがいくつかの書物を読んで自分なりに理解した結果を記述してだけで、誤りは多々あると思いますので、その点をご承知の上でお読み下さい。

疑問1:A村の枝村となっているB村まで藩政村として扱ってよいのか?

江戸時代の村が「独立した村(=藩政村)」であるか否かは、「原則として」、村高(石高)が付されているかどうかによって決定されると思います。
近江の天保国絵図(以下天保国絵図を「国絵図」と称します)を見ると、五別所村には村高が表示されています。国絵図記載の高は私の能力で判読不能ですが、「旧高旧領取調帳」(以下「旧高旧領」)によると280石余のようです。そして、「五別所村内」として「神出村」と「唱文師村」が図示されています。この場合、五別所村が親村(藩政村)であり、神出・唱文師は枝村で、両村の村高は五別所村に含まれているはずです。(鵜川村については、国絵図に村高が記載されており(「旧高旧領」で483石)、天保郷帳の時点では独立した村として扱われていたようです)。
ただし、以上の「独立した村」というのは、あくまで領主の側からの見方です。江戸時代の村は年貢納付に関して「村請制」をとっており、領主は「村」に対して村高に年貢率(五公五民とか四公六民の「公」の部分ですね)を乗じた高の年貢を賦課し、「村」の側はこれを皆済する義務を負っていました。「村」の方では、これを個々の村民に割り当てて所要の年貢を集めるわけですが、領主はそこまで介入しません。どのような手法によろうと、割り当てた年貢を納めればいいわけです(江戸後期になると、他村から米を買って年貢に充てる村もあったようです)。このような「村請」の主体になるのが、領主から見た「村」、すなわち「藩政村」です。

しかし実際には、ほとんどの「村」は領主側から見たような一体的な存在ではなく、小地域ごとに細分されていました。小地域の呼称は、小名、坪、庭、垣内など、地域によってさまざまですが、それらこそが自然的に形成された集落(いわゆる自然村)であり、領主の規定した「藩政村」は「行政村」だと捉えられています(民俗学ではこの小地域を「ムラ」と呼んでいるようです)。
小名などの小地域は、領主から認められなくとも、内部的には村と称していた例が多々あります。また、自力で新田を開くなどによって収穫高を高め、公式に「村」として認められるようになる場合もあります(鵜川村はその一例でしょう)。独立村として認められなくとも、「○○村内△△村」の形で国絵図に掲載されることもあります。神出村などはこの例で、親村からの独立性が比較的高かったからだと思われます。しかし、これはむしろ例外で、藩政村内の小地域は独立村として認められず、国絵図にも掲載されないことがほとんどだったと考えられます。
さて、この「村」内の小地域が明治以降どうなったかですが、神出村は明治初期に村として独立し、最終的に現在の神出開町などになったようです。ほかにも、江戸期には独立した村として扱われなかったものの、明治時代に独立村になり、現在の大字等に名を残している事例はかなりあるようです。逆に、親村の小字扱いで、現在も小字に留まる、あるいは全く消えてしまったものも多数あります。
以上は一般論で、実際のところは、枝村などの存在形態は非常に多様で、私の理解を超えるものが多々あります(平凡社の歴史地名辞典によれば、神出村、唱文師村は江戸時代前期には村高が表示されていたのが、天保郷帳の頃にはなくなったとのこと。なぜなのかはよく分かりません)。同様に、明治以降のあり方も様々だと思います。

以上の記述では、「枝村を藩政村として扱ってよいのか?」という問いへの答えになっていませんが、私の考えは、国絵図などの領主側資料で枝村となっているものについては、「村」として扱っていいのではないか、というものです。先のように、小名などの小地域で枝村として表示されている地域は、親村に対する独立性が比較的高く、明治以降は独立した村になり、現在も大字として残っているところが多いからです。
「市区町村変遷情報」の充実を図るという観点から見れば、神出村の場合は明治以降独立し、現在も大字・町名に名を残しているわけですから、独立した村として扱うのが自然だと思います。(この場合、幕末期に「枝村」であったという情報を付加した方がいいと思います)。唱文師村は明治以降の動向が不明ですが、とりあえず情報としては記載しておき、その後の経緯は不明としておくのがいいのではないでしょうか。
幕末時の独立村で、現在は大字内の小字(もしくは通称地名)に留まり、あるいは全く消失してしまった地名もかなりあるという現実を考えると、以上のような扱いが妥当ではないかと考えるのですが、いかがなものでしょう。


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