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矢作川太郎さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[55767]2007年1月1日
矢作川太郎
[55766]2007年1月1日
矢作川太郎
[55358]2006年11月26日
矢作川太郎
[55285]2006年11月22日
矢作川太郎
[55115]2006年11月12日
矢作川太郎

[55767] 2007年 1月 1日(月)04:10:39矢作川太郎 さん
矢作の新年大花火・・・(2) 四ツ郷屋関連
続いては、

[55693]ゆあさん
[55705]敷守ほむらさん

話題になっている「四ツ郷屋」、実は元ザヤ(鞘?)だったりします。(これが地理の不思議なトコロ・・・)

順に追って行くと、
M22(明治22年):丸山(現在の神山)・北山(現在の東山)・木戸(現在の木山)・谷内の4新田村と四ツ郷屋村によって木山村成立。
M34(明治34年):四ツ郷屋が越前浜村と角田浜村と合併し角田村成立、同時に残りの木山村は赤塚村へ合併(詳細は省略・・・)
S30(昭和30年):角田村が巻町と合併
S36(昭和36年):赤塚村が新潟市に編入
H17(平成17年):巻町が新潟市に編入

そして、
H19(平成19年):新潟市が政令指定都市となる(予定)

と言う過程を経て「西区」内に収まる訳です。いや~多くの条件が重なったと言っても不思議なモノですね~。
[55766] 2007年 1月 1日(月)03:03:03【1】矢作川太郎 さん
矢作の新年大花火・・・(1) 小倉関連
明けましておめでとうございます。

レスしようと思っていましたが、新年にまで持ち越すとは・・・(汗)

[55501]88さん

(3)福岡県(豊前)の小倉は、上記書では「企救郡小倉町」の表記しかありません。福岡には155の町が並んで表記されているのに・・・(久留米や柳川も町名が並んでいる)。小倉は例外でしょうか? それとも単なる表記誤り?
このあたりになると、「地理」より限りなく「歴史」に近くなってきますが、まだまだ私は不勉強なのでご教示いただければ幸いです。

小倉町の表記見た上で、結論から言わせて頂くと、私の中で「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の位置付けは参考資料の一つでしか有りません。

確か「幕末(中略)総覧」での小倉町を構成する市制町村制以前の町村は「小倉町・長浜村・平松浦」となっていたはずです。一方、角川(地名辞典)に於いては小倉25町(いちいち書くのは気が引けますが・・・ 町は省略させて頂きます。)一応は「京・博労・船頭・舟・新魚・魚・鳥・大坂・宝・船場・米・鍛冶(鍛治?)-昭和46年から現在の1・2丁目が付く・堺・紺屋・古船場・馬借・室・西魚・八百屋・大門・堅・西紺屋・西鍛冶・田・鋳物師」と砂原村のうち長浜浦、干上(日明)村のうち平松浦となっています。(詳細を言えば、この付近では明治20年に町村の統合が行われたので、長浜浦は砂津村の旧:砂原村域の一地域である長浜浦、平松浦は板櫃村の旧:干上(日明)村域の一地域である平松浦となっています。)この後、小倉町には、25町と2大字(長浜・平松)が編成されました。(この点では市町村名変遷辞典にも若干の相違があります。)

まあ、市制町村制以前の変更については告示には多分出ない(実際どうなのでしょうか?)事項なので、参考に出来る資料はごく限られて来るでしょうね。例えば、私は地元の県の市町村変遷を記録した書物を自らの仮説(諸資料が全て矛盾する事項に対する)を補強するために読んでいました。しかし、仮説には符合する部分がある中で明らかに間違った箇所も見受けられました。言うなれば、市制町村制以前の町村の変遷(地租改正や郡区町村編制法に関わるモノ)を追う作業と言うのは大変な事だと察します。(現に私はやろうとしていますが、その後の大字と現町名の関係が解らなければ余り意味が無いと思い、そればかり調べてます・・・)あと、市制町村制の前後に於いて直前の町村名から大字・町名への変換が図られますが、その際に村名の用字の変更や区域の変更が複雑にあり解りづらくさせています。(どちらかと言うとそれ以前は仮の段階(江戸期の自然村に準じた形)で、これを機会に用字や区域を確定させた“自治体を構成する「大字」”を形成したと言う側面も有りますが。)一応参照する資料が多い方が格段にイイと思うので、市町村史にあたってみるのも手だと思います。(でも、市制町村制以前であれば自分が正しいと思った説で行くしか無いように思います。こんなアバウトが許される時代があったのかと考えてみるのも一興でしょう。)

【1】-冒頭の挨拶を追記(築城?)
[55358] 2006年 11月 26日(日)18:29:21矢作川太郎 さん
お察しの通りで・・・
[55341]桜トンネルさん

でも愛知県の平和村(後に平和町)もやっぱり地名になじんでいたものではなかったんですね。(大体想像はついていましたが・・・。)まだマシな名称があったような気もしますが・・・。例えば「中島村」とか・・・。そのころにはもう「中島村」があったかもしれないけど。

その通りです。(まあ自治体名としては入れ替わり立ち替わりになるのでしょうけど・・・)
江戸期から見られる「中島村」は今で言うここ(一宮市萩原町中島)ですね。地名としては戦国期から見られる地名だそうです。そして、郡名の由来となった地名の「ひとつ」として考えられます。(一応、確定的な事は言えないので・・・)

自治体名としては明治22年に、中島郡中島村(中島村・西御堂村・東宮重村・木全村・石橋村の区域)が成立します。しかし、明治39年5月10日に萩原町(現:一宮市)・稲沢町(現:稲沢市)に分割合併されます。(旧:中島村・西御堂村・東宮重村→萩原町、旧:木全村・石橋村→稲沢町)

それとほとんど同じ頃(明治39年5月2日)に六輪村・左右川村・三宅村の一部(旧:三宅村・東城村の区域)をもって平和村(後の平和町)が成立します。(私が見た村名の由来のある一説は、合併の前年-明治38年に日露戦争が終結したために平和を願って付けられたと言うモノでした。)

私としては西中島村がいいかなとも思いましたけど・・・(どちらかと言うと南中島村だろうか。)しかし、それでは”中島郡”の西部なのか、”中島村”の西側に接するのか解らなくなる可能性の方が多いと思います。(第一、広域地名を使った名称が入れ替わり消滅・成立するのは紛らわしいですしね。)多分、本家?中島村を尊重した結果と言うのもあるでしょう。

以下独り言。
六輪村の名称も捨てがたいと思ったがそれは明治の合併直前の村数を数え上げただけなので、平和村の場合「十三輪村」になってしまう・・・(大字が増えたらまた変えるのか??)あと本家?中島村を今の住所から探すのに手間取った・・・第一、町名だけでは、一宮か稲沢かが解らない。(市自体、どちらが北に有るかは解るのだが・・・)一宮市内にあると解っても冠称(萩原町、大和町など)が付いているので一宮市に合併される直前の自治体名が解っていないと佐賀市づらい。←?
[55285] 2006年 11月 22日(水)01:20:22【1】矢作川太郎 さん
南薩三町合併協新市名応募顛末記
出るべきモノが出たと言う感じですが・・・

まずは、私サイドの書き込みを振り返りたいと思います。

[53592]拙稿

無論、南薩三町合併協にも(薩摩知覧市で)応募しようかと・・・これが日本の自治体名(何度も言うが地名では無く。)を適正化するのか、はたまた、全く違う結果を招くのか私にはとても・・・(困)
と本当に困った書き込みですね(笑)。一応、初めは応募する気がまあ有ったんですが、事前の調査無しに軽々しく応募するのもイカンだろうと思い色々調べて行くと、「知覧郡」と言う郡が昔存在した事が判明しました。(と言っても角川地名辞典でチョコチョコ調べただけですけど・・・)早速グーグルで検索してみると、さすが落書き帳このアーカイブが引っかかりました。

その中でも興味深かったのが、
[31459]作々さん

その昔「和名抄」のころはまだ「知覧」の呼び名はありませんでしたが、今の知覧の位置にあったのであろうと推測されている「川上郷」は河辺郡にありました。その後、川上郷は知覧院として河辺郡から独立します。
江戸時代に入り、島津家は中世以後の伝統に倣う形で薩摩国を14郡とし、知覧を独立した郡として編成していましたが、これに江戸幕府が待ったをかけます。つまり寛永4(1664)年、幕府に提出した郡名の記載について、「和名抄」にはそのような郡は出てこず、薩摩は13郡(*)だとして訂正を求められたらしいのです。結局これに従い知覧郡は廃止、隣の喜入郡と合併して「給黎郡(←こちらも古来の表記に改めています)知覧郷」となることになりました。
この体制は明治に入って明治29年の郡区画改正で川辺郡に移動するまで続くことになります。
(作々さん、長く引用してしまってすいません。でも、私の言わんとしていた事を的確に捉えた記事だったので敢えて引用させて頂きました。そして、ありがとうございます。)
まず書き込みの主題とはあまり関係ない事ですが、郡合併直前の給黎郡の変わった形(山を挟んだ喜入・知覧が同じ郡である)に関して溜飲が下がりました。次に一番重要な事が新市域における旧郡の範囲が3町バラバラであったと言う事です。まずアドビファイルである(この資料)を見てください。これによると、合併後従来の大字に旧町名を冠する事が取り決められています。皆さんは所謂大字を識別する為のありふれた冠称であるとお思いでしょうが(私も最初はそう思っていた)、もっと大きな意味が出てくる事が次第に解ってきました。下の表を見てください。

中世→近世→近代(明治以後)→現在
頴娃郡→頴娃郡→揖宿郡→現:頴娃町・指宿市南部(旧:開聞町など)
知覧院→給黎郡→川辺郡→現:知覧町
河辺郡→川辺郡→川辺郡→現:川辺町・枕崎市・南さつま市南部(旧:坊津町など)
(一方、中世において旧:加世田市・大浦町・笠沙町は加世田別符 旧:金峰町は阿多郡だったようです。)

と変遷した様です。これには私も驚きました。(調べてみると、鹿児島県下において中世郷荘の範囲が現代町村の範囲とほぼ一致するケースが他にもある様です。)これを鑑みると薩摩知覧市だとどうも都合が悪い様な気がして来ました。(協議会の募集要項を見て萎縮した事の方が影響したかも。)それに追い打ちを掛ける様に
[54173]熊虎さん

私はパスすることに決めています。
の書き込みも有りスルーしようかと考えあぐねていました。ですが”自治体名を適正化”すると言う抑えようの無い意地が湧き出てきて大局的に考えた名称が良いと言う結論に至りました。そこで、知覧一帯を領有していた佐多島津氏に敬意を表して「島津」の二文字を入れた名称で応募に踏み切りました。と言うのが一連の私の思考の過程(足掻きとも言う)です・・・。

そして、ひと月が過ぎた所で・・・
[55270]はやいち@大内裏さん
の書き込みを(大学内のパソコン室で)目にし、急いで告知内容を見ました。結果、
島津市:5
私の応募したモノ:2←コレじゃバレバレですね・・・

でも、
[55277]k-aceさん

2次候補は、薩南市、南九州市、南薩市、南薩中央市、平和市、さつなん市、島津市の7点。
に残れただけ良しとしましょう。(泣)
島津市って、このエリアは島津氏の出身地なんでしょうか?(そうでないとしたら…)
本当に苦しい所を衝かれた感がありますが、どうやら都城市らしいです・・・。(すいません、あとの祭りですよ(爆))

[55278]作々さん

私は南薩市・薩南市が本命で決まりだと思っていました。意外だったのは、有る筋で人気のありそうな「南鹿児島市」が選考段階でハネられた事でした。これは協議会の見識なのでしょうかねえ?

とにかく、協議会よ、潰れちまえ!と思ってしまうくらい、こんな市名はいやです。
まあ条件が色々タイトだった事も有るんでギリギリ及第点と私は思いますが・・・

【1】・・・ちぃーと(ちょっと)訂正
[55115] 2006年 11月 12日(日)18:22:11矢作川太郎 さん
甘下・甘舌・真舌・味舌・・・
[54962]拙稿で
これから三連休のウチに追々長文(爆)を書きたいと思いますので・・・

と書いておきながら先週はモデムの不調で書き込めませんでした・・・(泣)

では、気を取り直して

[55106]白桃さん
[55110]88さん
[55113]たもっちさん

実を言うと角川日本地名大辞典の大阪府分が手元に有りまして(名瀬有るかはゴニョゴニョ・・・)
少し調べてみました。その結果の改訂版です。(引用の引用は出来ないので[55110]88さん・[55113]たもっちさんから一部ずつ引用・・・)

1950年4月1日町制施行の資料
・ 「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)
・ 「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(2)」(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)
・ 「旧市町村名便覧」(1999年4月、日本加除出版株式会社出版部編、日本加除出版)
・ 市町村合併情報(入力したのは私88)

・「大阪府市町村の沿革」(1961年、大阪府地方課)

に加えて
・ 「角川日本地名大辞典・大阪府」(昭和58年10月、「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編、角川書店)
(地名編・地誌編は1950(昭和25)年の記述のみ、資料編の市町村沿革表では1950(昭和25)年4月1日と記述。)

どうでしょうか?


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