出るべきモノが出たと言う感じですが・・・
まずは、私サイドの書き込みを振り返りたいと思います。
[53592]拙稿
無論、南薩三町合併協にも(薩摩知覧市で)応募しようかと・・・これが日本の自治体名(何度も言うが地名では無く。)を適正化するのか、はたまた、全く違う結果を招くのか私にはとても・・・(困)
と本当に困った書き込みですね(笑)。一応、初めは応募する気がまあ有ったんですが、事前の調査無しに軽々しく応募するのもイカンだろうと思い色々調べて行くと、「知覧郡」と言う郡が昔存在した事が判明しました。(と言っても角川地名辞典でチョコチョコ調べただけですけど・・・)早速グーグルで検索してみると、さすが落書き帳
このアーカイブが引っかかりました。
その中でも興味深かったのが、
[31459]作々さん
その昔「和名抄」のころはまだ「知覧」の呼び名はありませんでしたが、今の知覧の位置にあったのであろうと推測されている「川上郷」は河辺郡にありました。その後、川上郷は知覧院として河辺郡から独立します。
江戸時代に入り、島津家は中世以後の伝統に倣う形で薩摩国を14郡とし、知覧を独立した郡として編成していましたが、これに江戸幕府が待ったをかけます。つまり寛永4(1664)年、幕府に提出した郡名の記載について、「和名抄」にはそのような郡は出てこず、薩摩は13郡(*)だとして訂正を求められたらしいのです。結局これに従い知覧郡は廃止、隣の喜入郡と合併して「給黎郡(←こちらも古来の表記に改めています)知覧郷」となることになりました。
この体制は明治に入って明治29年の郡区画改正で川辺郡に移動するまで続くことになります。
(作々さん、長く引用してしまってすいません。でも、私の言わんとしていた事を的確に捉えた記事だったので敢えて引用させて頂きました。そして、ありがとうございます。)
まず書き込みの主題とはあまり関係ない事ですが、郡合併直前の給黎郡の変わった形(山を挟んだ喜入・知覧が同じ郡である)に関して溜飲が下がりました。次に一番重要な事が新市域における旧郡の範囲が3町バラバラであったと言う事です。まずアドビファイルである
(この資料)を見てください。これによると、合併後従来の大字に旧町名を冠する事が取り決められています。皆さんは所謂大字を識別する為のありふれた冠称であるとお思いでしょうが(私も最初はそう思っていた)、もっと大きな意味が出てくる事が次第に解ってきました。下の表を見てください。
中世→近世→近代(明治以後)→現在
頴娃郡→頴娃郡→揖宿郡→現:頴娃町・指宿市南部(旧:開聞町など)
知覧院→給黎郡→川辺郡→現:知覧町
河辺郡→川辺郡→川辺郡→現:川辺町・枕崎市・南さつま市南部(旧:坊津町など)
(一方、中世において旧:加世田市・大浦町・笠沙町は加世田別符 旧:金峰町は阿多郡だったようです。)
と変遷した様です。これには私も驚きました。(調べてみると、鹿児島県下において中世郷荘の範囲が現代町村の範囲とほぼ一致するケースが他にもある様です。)これを鑑みると薩摩知覧市だとどうも都合が悪い様な気がして来ました。(協議会の募集要項を見て萎縮した事の方が影響したかも。)それに追い打ちを掛ける様に
[54173]熊虎さん
私はパスすることに決めています。
の書き込みも有りスルーしようかと考えあぐねていました。ですが”自治体名を適正化”すると言う抑えようの無い意地が湧き出てきて大局的に考えた名称が良いと言う結論に至りました。そこで、知覧一帯を領有していた佐多島津氏に敬意を表して「島津」の二文字を入れた名称で応募に踏み切りました。と言うのが一連の私の思考の過程(足掻きとも言う)です・・・。
そして、ひと月が過ぎた所で・・・
[55270]はやいち@大内裏さん
の書き込みを(大学内のパソコン室で)目にし、急いで告知内容を見ました。結果、
島津市:5
私の応募したモノ:2←コレじゃバレバレですね・・・
でも、
[55277]k-aceさん
2次候補は、薩南市、南九州市、南薩市、南薩中央市、平和市、さつなん市、島津市の7点。
に残れただけ良しとしましょう。(泣)
島津市って、このエリアは島津氏の出身地なんでしょうか?(そうでないとしたら…)
本当に苦しい所を衝かれた感がありますが、どうやら都城市らしいです・・・。(すいません、あとの祭りですよ(爆))
[55278]作々さん
私は南薩市・薩南市が本命で決まりだと思っていました。意外だったのは、有る筋で人気のありそうな「南鹿児島市」が選考段階でハネられた事でした。これは協議会の見識なのでしょうかねえ?
とにかく、協議会よ、潰れちまえ!と思ってしまうくらい、こんな市名はいやです。
まあ条件が色々タイトだった事も有るんでギリギリ及第点と私は思いますが・・・
【1】・・・ちぃーと(ちょっと)訂正