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夜鳴き寿司屋さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[38501]2005年3月11日
夜鳴き寿司屋
[38476]2005年3月10日
夜鳴き寿司屋
[38447]2005年3月10日
夜鳴き寿司屋
[37961]2005年2月20日
夜鳴き寿司屋
[37755]2005年2月12日
夜鳴き寿司屋

[38501] 2005年 3月 11日(金)22:35:26【1】夜鳴き寿司屋 さん
「元宇品」と「向宇品」
[38440] 2005 年 3 月 9 日 (水) 23:06:04 両毛人 さん

また「宇品」をさすと思われる、「元宇品」と「向宇品」の関係はどのようなものなのでしょうか。正式名と通称名という関係なのか


[37858]でベセスダさんが、[37875] でEMM さんが仁保島村のことを書かれていたのですが(仁保島村のハワイ移民についての資料館があるそうです
)、宇品に関係するとおもい図書館で件の村の変遷をしらべたところ

明治22年(1889)4月1日  安芸郡仁保島村が単独村制
明治37年(1904)9月15日 字宇品を広島市に分離編入
大正6年(1917)8月31日  仁保村に名称変更
昭和4年(1929)4月1日   広島市に編入

 とかかれておりました。
 また図書館で大正6年(1917)発行の広島県の地図を調べたところ元の島であった宇品島と宇品港の間に郡境が記入されており、当時は宇品といえば「広島市字宇品」と「安芸郡仁保島村(仁保)字宇品」の二つの地域に分立されていたようです。
 ただ明治27年(1894)年発行の2万5千分の1を確認したところ、宇品港完成当時の広島市と仁保島村の西側の境界線がかかれていなかったため、どうやら新しく宇品港(現広島港)の建設によって誕生した宇品の干拓地の境界が明確になっていなかったようです。

 また、広島電鉄が宇品線を向宇品口(現在の元宇品口)まで開業したのが1915年4月のことですが、その当時はすでに官営の宇品線(*)が開業していたため、終点の宇品駅と同名回避のために別称を用いた可能性もあります。

 そのため、もしかすると開業当時は「元宇品」という地名がなかったばかりか、2つの自治体(戦前の制度でいえば財産区)に「宇品」が存在し、そのような状態が25年存続したため、仁保島村字宇品と区別するために、広島市側の宇品をさす言葉として「向宇品」という地名が誕生したのだとおもいます。

 その後広島電鉄の宇品線は、1951年4月に向宇品から宇品(現在の広島港)まで延伸したのですが、国鉄宇品線の方は軍港のための運輸機能も消滅し、またダイヤや経由地に問題もあり広島電鉄宇品線に押され日本一の赤字路線に転落し、旅客営業は1966年、貨物営業は1972年に廃止され、国鉄営業線として廃止(1986年までは専用側線として存続)されました。そのため「宇品」とつけても国鉄駅との同名回避する必要もなくなったようです。

 現在では「向宇品」の地名は住居表示からは消滅していますが、仁保村が広島市に編入してからは、宇品地区の分断も消滅し一緒に向宇品になったとおもいます。


(*)日清戦争の人員・物資輸送のために1894年に当時広島駅まで開業していた山陽鉄道(現山陽本線)が陸軍省の委託により広島駅と宇品港(現広島港)とを連絡するために建設した路線。
 戦時であったため8月4日着工20日完成という突貫工事であったそうです。日清戦争の主戦場は朝鮮半島であったため相当重宝されたようです。
 また当時は戦争指揮のために広島城本丸に大本営(天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関)が設置され明治天皇が行幸し、また戦時予算を可決するため帝国議会も広島で開催され、現在でも国会が地方開催された唯一のケースです。
[38476] 2005年 3月 10日(木)23:52:44夜鳴き寿司屋 さん
芸予地域のおはなし
[38440] 2005 年 3 月 9 日 (水) 23:06:04 両毛人 さん

 元宇品、向宇品の関係ですが今度、市内の図書館に行って調べてみたいとおもいます。もしかするとどちらかが通称で同一地域を指し示す地名なのかもしれないですね。結構古い広島市関係の郷土史の資料がありますので。
 余談ですが以前行ったときには「郷土資料」の棚に地元出身として宮沢喜一氏のほかに大林宣彦氏やかわぐちかいじ氏の作品までありました(後者2人は隣の尾道市の出身ですが)

[38451] 2005 年 3 月 10 日 (木) 06:31:51 北の住人 さん

私は広島に出張で3日間滞在したことがありますが、良い所でした。お登りさんの例に漏れず、お好み焼きビルを見に行きました。

 実は昨年私も所用で広島に行ったときに、同行していた方に「広島に来たのだからお好み村に行きたい」といわれたので案内したのですが、広島に住んでいたのが20世紀のことなので完全に所在地を忘れてしまい市内を散策してしまいました。「お好み村」の隣が「お好み共和国」であり、2つのビルが並んでいても成立するのですから完全に広島の名物ですね。

[38453] 2005 年 3 月 10 日 (木) 08:45:49 YASU さん

松山:坊ちゃん列車に乗って道後温泉はいかがでしょうか?

 伊予鉄道の道後駅のそばにある「坊ちゃん」のカラクリ時計や本館の雰囲気もいいですよ。
 予断ですが来月兄が道後温泉で結婚披露宴を行う予定でして、私が受付をやらないといけないので正装していかないといけないし、緒祝儀などが物入りでして・・・(哀)めでたいのですがね。

[38449] 2005 年 3 月 10 日 (木) 01:07:15 まかいの さん

正確には、伊予鉄の路面電車が伊予鉄高浜線を待つ、大手町の踏み切り。
線路が直角に交差してました。
こんなところに感心してしまうのはもしかして私だけ??
全国にはほかにこんな場所ってあるのでしょうか??

昔は東京都電や阪急西宮北口などで鉄道の平面交差があったようですが、現在では富山の万葉線と貨物引込み線(実際には廃止?)を除けば現役では日本最後の鉄道の平面交差のようです。私も子供のときに見て驚きましたよ。
[38447] 2005年 3月 10日(木)00:15:27【1】夜鳴き寿司屋 さん
Re: 元宇品の謎
[38440] 2005 年 3 月 9 日 (水) 23:06:04 両毛人 さん

 広島市立大河小学校のHPによれば
明治17年 大河簡易小学校設立(安芸郡仁保島村大河山根)日宇那・丹那・向宇島(向宇品の誤記?)に分校設置

明治24年 日宇那・丹那・向宇品の分校廃止
とありまして、少なくとも向宇品の地名は明治にあったようです。また広島市立元宇品小学校のHP
明治24年、江村岡(現在の小学校の下、アパ-トの所)に仁保島村立宇品尋常小学校が設置され、30余名の4年生までの複式学級でスタ-トしました。
とありますので、明治24年(1891年)には、「向宇品」にたいして「宇品」という地名(ないし集落名)が存在していたようです。

 また宇品港の今昔2では、宇品港の沿革が記載されていますが、宇品港が完成したのが1889年であり、大田川の河口のひとつの京橋川の左岸と宇品島の間に岸壁を構築して建設したとあります。

 どうやら推測ですが明治時代の「向宇品」は現在の「宇品御幸」の付近だとおもいますし、宇品港のフェリー乗り場の付近を指す地名を現在でも向宇品という使われ方をしていますが、こちらは明治時代に作られた港湾施設により開発された地域であり、元宇品は瀬戸内海に浮かぶ島であった地域だと思います。

広島市立宇品小学校のHPより宇品港の昔の写真

 実は以前広島に住んでいたときに元宇品に行ったことがあるのですが、原生林と言われている元宇品公園の森とリゾートのような雰囲気がある高層ホテルを見ていると、とても政令指定都市とはおもえない良い環境だとおもいました。

(余談)
 昔、村下孝蔵(1983年のヒット曲「初恋」のシンガー)の作品に「松山行きフェリー」があったのですが、生前の彼のインタビューでは舞台は宇品港だったそうです。
[37961] 2005年 2月 20日(日)18:52:35【1】夜鳴き寿司屋 さん
千歳川放水路計画
[37955] 2005 年 2 月 20 日 (日) 12:14:27 Issie さん


以前,石狩川の支流の千歳川の放水路を開削して,ウトナイ湖の近くで太平洋に水を落とそう,という事業が計画されていましたね。
千歳付近の分水界の標高は非常に低いですから,この水路が開かれていたとしたら,船で北海道(島)を横断することもそれほど難しくはなかったでしょう。

で,この事業,どうなったんでしたっけ。

「千歳川放水路計画」の経緯と概要



1999年に、計画は中止になったようです。この千歳川治水対策のために全長40Kmの水路、パナマ運河建設工事の3分の2に相当する土砂の処理、工期20年から30年の長さ、建設費4800億円の巨費、そしてウトナイ湖をはじめとする環境対策への対応に加え計画への反対運動も強くクリアするのが不可能なために挫折したようです。

 まあ経済面からも環境面からも考慮しても、中止して正解だったと思いますが、戦前から「石狩勇払運河構想」としてあったのには驚きましたが、1981年に発生した水害を教訓にして翌年に計画が決定するのはあまりにも拙速だったようにおもいます。

 もっとも現在は石狩川の支流になっている千歳川も3万年前までは太平洋に注いでいたといわれており、その後火山活動によって流れが変わったので、昔に状態を戻すともいえますが、運河でありながら普段は水を流さずに幅300mの水路を設置する計画案はいくら広い北海道でも無理があったといわざるをえないと思います。

参考ホームページ
http://wwwgeo.ees.hokudai.ac.jp/~ono/envgov.htm
[37755] 2005年 2月 12日(土)11:04:57【2】夜鳴き寿司屋 さん
ベリカード
[37620] 2005 年 2 月 8 日 (火) 00:58:52 ken さん

◆ラジオのこと
BCL全盛期、結構ハマってましたね。
「ベリカード」集めてたし。
若い世代の方々「ベリカード」って知ってます?


[37679] 2005 年 2 月 10 日 (木) 01:16:35 EMM さん

岡山の山陽放送や広島の中国放送が受信出来ているのでラジオ関西の電波も盛岡まで届きそうなものですが、ラジオ関西と同じ周波数に韓国のKBS(出力250kw…)があるのでそれに邪魔された上に奥羽山脈に遮られ、さらにNHKにつぶされて…と踏んだり蹴ったり状態なのだろう、と考えられます。

 地元のラジオ局でラジオの電波はどこまで届くかという話をしていたのですが、ラジオの電波は中波が使用されているのですが、昼間は大気に太陽光の影響で電離層(D層)により吸収され近くにしか飛ばないのですが、夜になると電離層(D層)が弱くなり、より高層の電離層(E層)が反射するため遠くに届くそうです。

 そのため夜間になるとトンデモなく遠くの放送局がきけるわけですが、もし受信した放送局がわかれば、そのラジオ放送局に万国共通方式の受信報告書などを郵送すれば、その受信報告書のお礼状と認定状であるベリカードが送られるそうです。なんでもこれは放送局のオリジナルデザインの絵葉書のようなもので、放送局の電波が本当はどこまで届くのかの報告としてデータベース化できるので、そのお礼として世界中のラジオ局が発行してくれるそうです。またベリカードをコレクション(実際に受信して)にしている方も多いそうです。

 ベリカードとは?

 地元のラジオ局の話では、冬季には北欧が一日中夜なので日本の放送が一日中受信可能だそうで、スウェーデンから広島まで受信報告書と放送の録音テープ(夜の番組)が送られたそうです。もっとも高性能の受信機でなければ受信できないそうで、趣味で全長1000mの電線をアンテナにして受信している方もおられるようです。

 そういえば、私も愛媛県で岩手県のNHKの放送を聴いたことがあるのですが、やはり冬の夜でしたし、昔はよく北京放送やモスクワ放送なんかもよく聞こえていました。しかしベリカードなんて制度があるのは知らなかったですが、雑音の海の中に、それとなく朝鮮語やロシア語のほかにも北欧の言語を聞いていたのかもしれないですね。

*一部加筆


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