[38502]北の住人 さん
金ヶ崎-大垣がこんなに早く開通しているのは、敦賀が重要港だったからでしょうか。
物流は海運が主流であった明治初期においては、建設資材が陸揚げされる港付近の鉄道を最初に開通させ、次にその鉄道で港に陸揚げされた建設資材を輸送して更にその先へと鉄道の建設を進めていったようです。
[38482]で挙げた明治初期の鉄道開業区間は皆、港に近い方から順次開通しています。
北海道の手宮-幌内間の路線の場合は、手宮(小樽港)-札幌間が札幌-幌内間よりも先に開通しています。
明治新政府は東京と西京(京都)を結ぶ鉄道幹線を当初は東海道ルートではなく中山道ルートで建設するつもりでした。
経路は東京-高崎-軽井沢-篠ノ井-松本-加納(岐阜)-大津-西京だったようです。
建設は東西から進めることとし、西側から建設する為の建設資材を運ぶ為に早い段階で建設されたのが金ヶ崎(後の敦賀港駅)付近の支線で、この支線で運ばれた資材で東へと幹線ルートとなる鉄道を建設して行きました。
幹線の東側は資金の関係で私鉄である日本鉄道の手でまず上野-高崎間が建設されることになりましたが、既に建物が密集していた東京市中心部に鉄道を建設して新橋-横浜間の官営鉄道につなぐのを断念した為、横浜港からの建設資材を鉄路で輸送できず、建設資材は船で隅田川を遡り埼玉県川口で陸揚げし建設を進めて行きました。
その後、当時は農村であった西郊に迂回ルートとしての品川-赤羽間の路線を開通させて横浜港からの輸送ルートを確保し、中山道幹線ルートである信越線や東北線用の建設資材の輸送が可能になりました。