[34558]NTJ会長様
この「尾久機関区」の従事者向けの駅が「尾久駅」だったというのが、正解らしいです。
このNTJさんが正解として挙げた理由も私には疑わしく、理由になっていないんです。
尾久操車場を歩いていただければ分かりますが、尾久駅と尾久車両センターとの位置関係からもそのことが読み取れます。
尾久駅は改札が1つで、その改札は荒川区側に開いています。もし、尾久機関区の従事者向けにできたとしたら、もちろんこの尾久駅は今の位置にできたとしても、車両センターもやはり今の駅舎がある方面にあいと説明がつきません。尾久車両センター(尾久操車場を統括する施設です)は、尾久駅よりもむしろ上中里駅とのつながりが強いです。距離としても近いですし。
尾久駅の位置は、昭和初期の地図を見ても、今と変わっていないように思えます。恐らく、改築されたことはあるでしょうが、移動したことはなさそうです。となると、ますます尾久駅と尾久車両センターの位置関係が説明できません。ましてや、尾久駅が開業した当時から、尾久車両センターと尾久駅をつないでいるあの地下道があったとは思えませんから、なおさら「従事者向け」という説明に疑問が出てきます。
しかし、お父上一人の考えで尾久駅と操車場の関係がすべて解けるわけではありません。
確かに当時の関係者の証言は貴重です。人の感情やら思い出話は、書類に記録として残ることがありませんし、なによりそういった証言から分かることもいっぱいあります。しかし人の記憶は曖昧です。長い年月を経て、いろいろと捻じ曲がったり、間違って覚えてしまっていたり。誤解していただきたくないのですが、私のはNTJ会長さんのことが嫌いだから尾久駅についてしつこくこだわっているわけではありません。むしろ、職業上、尾久機関区勤務だったというお父上の話はぜひとも直に聞いてみたい。そのぐらい興味があります。お父上を責めているわけでもありません。