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夜鳴き寿司屋さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[28587]2004年5月24日
夜鳴き寿司屋
[28581]2004年5月24日
夜鳴き寿司屋
[28283]2004年5月15日
夜鳴き寿司屋
[28201]2004年5月12日
夜鳴き寿司屋
[28132]2004年5月11日
夜鳴き寿司屋

[28587] 2004年 5月 24日(月)23:46:00夜鳴き寿司屋 さん
Root
[28448][28449]月の輪熊さん
[28528]いっちゃん さん


 私の場合は4世代まで遡っても文化人類学的には愛媛県100になりますね。ただ出身が愛媛でも居住地が大きく変動していて、大正時代には祖父が樺太の大泊で数年生活していたり、祖母が戦前の神戸市や大阪市で生活していたり、戦後も川崎市など転々としていました。また私自身もあちらこちら転々としていました。

 感情的には愛媛県ですが、引越しを何回もするなど漂泊の生活をしていると気分は「異邦人」のような気がしてきます。
[28581] 2004年 5月 24日(月)21:24:22夜鳴き寿司屋 さん
A family's cemetery
[28569]白桃さん

ところで、お墓の数を数えたら、そこに今までどれぐらいの人が住んでいたのか、大体のところが解るのでしょうか?

 私の実家の四国某所の墓地には、各家庭ともその家の者しか葬っていなかったため、江戸時代の安政年間から昭和時代中期ごろまでの約100年ほどの墓が残されていたのですが、おおよそ30基ほど(粗末過ぎる墓もあるため詳細不詳)ありました。

 中には生後すぐに亡くなった赤子の墓まであるのですが、生没年から推測すると、だいたい一世代の時代は30年ほどで6人から10人ほどの大家族だったようです。たしか考古学の手法では統計が無い時代の人口推定法があったように思います。
[28283] 2004年 5月 15日(土)10:56:26夜鳴き寿司屋 さん
東西周波数地域
[28255] hmt さん

鉄道と言えば、東海道新幹線は全線60Hzでしたね。したがって、新幹線の富士川橋梁―東京間は50Hz地域に入りこんだ60Hz地域というわけです。開業当時、この区間沿線の国鉄変電所では東京電力から受電した50Hzを電動発電機で60Hzに変換していたのではないかと思います。現在は電子的な周波数変換設備に更新されているものと推測します。

 現在でもJR東海の施設で小田原電力所に周波数変換所があるそうです。東海道新幹線建設当時は60Hz地域の路線が長いのが想定されたので、全体のなかでもわずかとはいえ周波数変換が必要が生じたのですが、そのため事業体が異なる事やダイヤ作成が困難という事もありますが、東海道新幹線と東北新幹線はそのまま直通運転が不可能になっています。

 同じように、長野新幹線も周波数が異なる地域を走行しますが、そのため軽井沢駅~佐久平駅間で50Hzと60Hzの切り替え(この区間ではモーターを使用せずに惰性で通過し、その間に回路の切り替えを行って通過後に再始動させる車上切り替え方式)を行うデッドセクション(電流が流れない)が設けられているそうです。日本ではデッドセクションが設けられているのは電圧が異なる場合や直流電流か交流電流と電化方式が異なる場合ですが、周波数が異なるためにデッドセクションが設置されたのは長野新幹線のみだそうです。

 普通、周波数が異なる事で影響が出るいえば引越しで電化製品のタイマーが狂う事だと思います。扇風機などには60Hzと50Hzと異なるタイマー目盛があるものがありますが、その表示がなく目覚まし時計(コンセントがついてるもの)を異なる周波数地帯で使用したために会社に遅刻したなんて話をきいたことがあります。
[28201] 2004年 5月 12日(水)19:35:27【1】夜鳴き寿司屋 さん
Traveling abroad
[28148]スナフキん さん

日本国内の少なくとも3ヶ所で、諸君らの若い目と心で、過去の事実を真摯に受け止めてからでも、海外に出るのは決して遅くはない…

 私は、そのうち一箇所は3年間住んでいました。また最南端は今年になって日帰りで行ってきました。日本人やアメリカ人という枠組みではなく、人類全体の罪を感じます。現在でも戦争の大義を主張したところで同じ過ちを繰り返す事を想うと辛くなります。

 確かに自国の歴史を真摯に受け止めてから行く事は、足元を見ずに遠くに行き衝撃を受けるよりかは良いとおもいます。少なくとも「日本とアメリカが戦争し、アジア一帯に侵略した」事を知らないというのは論外です。また身内の戦争中の話を生で聞けた最期の世代として考えなければいけないです。

私が海外へ出ようとしない最大の理由は、言葉が通じないことによる恐怖感です。小心者で臆病、ノミの心臓の持ち主である私は、現地でまともにコミュニケーションがとれないのがひどく怖いのです。

 そうですね、私も語学は苦手です(笑)なのに一人で香港から澳門までフェリーで行ったり、北京市内を地下鉄やバスを使いながら移動したりと、無茶を相当しております。私もかなり小心者で少しの事でも焦りやすいので、神経が張り詰めて疲れましたが普段の延長線上のようでした。

 しかも香港は広東語なのに中国語(北京語)で云ったりするミスをしておりました。もっともワザと日本語を一言も話さずにゼスチャーと短い会話だけで済む様にしておりました。もっとも私にとっては東京に行くのも外国に行くのも同じぐらいの恐怖心があります。一人という疎外感が募る為です。

 一番、外国でドッキとしたといえば北京で日本語ガイドの方が盧溝橋(1937年7月7日に日中両軍の武力衝突が発生し、その後全面戦争に突入)に付いて触れ「何があったところかご存知ですか」と聞かれた時には正直ドッキとしました。その場は「日本軍が侵略という悪い行いをはじめた所ですね」と切り返したところ、向こうは「昔の事ですからいいですよ」と言ってはくれたのですが、もし知らなかったり日本に都合がいい様に認識していたならどうなったか、今も気になります。最近そういった論調が平気で言われているので危機感を感じます。

妹が身内だけででも海外ウェディングしようかなどと言い出したりするもので、つい戯れ言を書き込んでしまいます。

 私も弟がオーストラリアのゴールドコーストで海外ウェディングしましたが、其の時は親族は一人も参加しませんでした。仕事もあるし忙しいのに金はないのですから行ける訳ないです。(哀)

 披露宴を大規模に行わないぶん一番、費用が掛からなくって良いといいますが、御祝儀だけは掛かりますから身内としては一緒ですが、私も兄が結婚しようかというのにネバーシングル状態なので考えたこともないです(愚痴をいってすいません)邪魔する人が少ない分二人の幸福にはプラスだとは思います。

 皆さんの中でも海外で挙式された方やハネムーンで行ったのが最初の海外旅行経験という方は少なくないと思いますが、いかがだったでしょうか?

*一部訂正
[28132] 2004年 5月 11日(火)02:20:43【2】夜鳴き寿司屋 さん
RE:記念切手シリーズ「国立公園と国定公園」について
[28122] 白桃 さん

そもそも国立公園の方が格的には上なんでしょう?

 環境省の下記HP
http://www.sizenken.biodic.go.jp/park/info/npsys/define/

 などによりますと、同じ自然公園法が根拠ですが、国立、国定とも指定するのは環境相(以前は環境庁長官)がどちらも指定するのですが、公園の行政的管理責任者が国立公園が環境省に対して、国定公園は都道府県になっているそうです。その下には都道府県が指定する「県立自然公園」が多数存在するそうです。

 なんだが国道番号が2ケタ台と3ケタ台では管理者が異なると同じように、行政上の管轄が異なるだけの話ですね。この自然公園の制度はアメリカの制度に倣って制定されたので同じようにアメリカにも「国立公園」の他に「国定公園」もあるようです。

国立公園シリーズは簡素な2色刷り、国定公園シリーズは鮮やかな多色刷り、というのがどうも納得いきませんでした。国定公園の方が後だったので致し方なかったのかもしれませんが、

 其の通りでして、国立公園シリーズのほうが先発シリーズで印刷がモノクロだったのです。しかも戦前からの古い企画です。

 戦前に「国立公園」切手として発行された国立公園(各4種ずつ)は

富士箱根国立公園     1936.7.10
日光国立公園       1938.12.25
大山・瀬戸内国立公園   1939.4.20
阿蘇国立公園       1939.8.15
大雪山国立公園      1940.4.20
霧島国立公園       1940.8.21
大屯・新高阿里山国立公園 1941.3.10 *新高山は現在の玉山
次高タロコ国立公園    1941.3.10 *次高山は現在の雪山

 8回で、最後の2つの国立公園は当時日本の植民地だった台湾の国立公園でした。このまま企画が進行していたら朝鮮半島のクムガンサンやペクトサンが登場(クムガンサンは当時の日本の7銭切手に採用)した可能性がありますが、朝鮮半島で国立公園を指定したかは不明です。

 また当時の日本は皇国史観が盛んだったため同時に発行された小型シートには発行年号が2599(1939)と、皇紀と西暦で表示されていました。

 戦後は1949年から再度企画がスタートし、13回にわたり1956年まで発行され、その後で国定公園シリーズを発行しようとなったのですが、1958年に発行された国定公園シリーズ第1回は、当時の郵政大臣(第1次岸内閣)であった田中角栄(後の首相)の地元であった「佐渡弥彦国定公園」(当時、現在は佐渡弥彦米山国定公園)が採用され、2回目が岸信介首相(当時)の地元であった「秋吉台国定公園」が発行され当時から「大臣切手」として評判が悪かったそうです。そのため1974年に日本全国の国定公園が発行されていないにも関わらず企画が打ち切りになり、沖縄海岸国定公園など沖縄県の国定公園切手は未だに未発行のままです。

 また国立公園のシリーズは1962年に再度スタートしたのですが、サイズはスケールダウンしたのに戦前からのモノクロ路線は踏襲(国定公園切手がカラーイラスト原画に対して国立公園切手は写真原画)して、後から見ればアナクロで物足りない構成になったと思います。1974年に最後に発行された西表国立公園のみがカラー写真になりましたが、以後は国立、国定公園切手は発行はしない事になったそうです。

 余談ついでに「国定公園」として切手が発行され、後に国立公園に昇格した箇所をリストにします。

利尻礼文サロベス国定公園 1968.5.10
伊豆七島国定公園(現在は富士箱根伊豆国立公園)1963.12.10
山陰海岸国定公園1961.8.15
足摺国定公園(現在は足摺宇和海国立公園)1960.8.1
錦江湾国定公園(現在は霧島屋久国立公園の一部)1962.4.30




国立公園一覧
http://www.sizenken.biodic.go.jp/park/np/index.html

国定公園一覧
http://www.biodic.go.jp/jpark/jpark.html

*ケアレスミスを修正


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