都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
深海魚さんの記事が5件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[19960]2003年9月17日
深海魚
[19953]2003年9月17日
深海魚
[19941]2003年9月16日
深海魚
[19935]2003年9月16日
深海魚
[19932]2003年9月16日
深海魚

[19960] 2003年 9月 17日(水)15:53:03【1】深海魚 さん
深名線
[19959] スナフキんさん
冬場の運行に不安を抱えているのは変わりないようです。
こうした ローカル線の ジレンマを見ていると、晩年の深名線を連想しますね。旭川という道内指折りの主要都市を無視して深川と名寄を結ぶという、必然性に乏しい経路でしたが、幌加内町から名寄市にかけて石狩川水系と天塩川水系の大きな分水嶺を越えていた事から、峠越え流動は極めて小さかったと思われ、実態は朱鞠内を境に全く性格の異なる陣容でした。

全長 140kmのうち、交換可能駅は幌加内と朱鞠内のみで、閉塞区間が平均 40km強。加えて豪雪地帯という事で、冬季の遅延を想定した結果、運転系統が分割された朱鞠内では双方の接続が極めて悪く、車に頼らないと同じ幌加内町内でも、北母子里駅界隈から町中心部への日帰り往復も侭ならない様な珍現象も起きていたと記憶します。並行道路が未整備との理由だけで、この様な超閑散路線が存続し得るのか、と感じたものです。

そんな朱鞠内から羽幌 (苫前?) への新線建設計画もあったと言いますから、当事の感覚たるや隔世の観も一入ですね。何にせよ信号管制に基づく軌条方式という性格上、鉄道の保守点検に擁する手間や費用は、使用頻度の多寡に拘わらず、道路のそれに比べてかなり大きいと思われ、どの辺りで一線を引くのが妥当か、部外者ながら腕組みしてしまいます。

斯く言う私も、乗換えを含め都心に出る時以外は専ら自家用車に頼りがちです。高速道の I.C.と街との位置関係において、運行区間が一元的にならざるを得ない高速路線 バス等と比較して、複数の都市連絡を効率的に集約し得る鉄道が、今後どれ程の地位を保持できるのか、予断を許さない処です。

まがみさんへ)

更新紹介文を拝見しました。身に余る御褒めの言葉に恐縮千万の次第。という訳で プライベート狂養問題を進呈致します。「丸投げ」 して頂いても構いませんが、御暇な時にどうぞ。

問壱) 福島県および新潟県とかけて、正月料理と解く。その心は?
問弐) 兵庫県、福島県および北海道とかけて、斉木晶子さんと解く。その心は?
[19953] 2003年 9月 17日(水)09:08:57【1】深海魚 さん
炎の ストッパー
[19945] Issieさん
最初に会津盆地の南縁をなぞるようにして主邑を “串刺し” に設定された
会津盆地の規模ですと、中心都市の若松を含め、主邑の立地は平坦地外縁部に収まりがちなのでしょうか。城下町なら、戦略上の理由で後背地に山を求めたり、河川などの物理的な往来障害要因を求める事は往々にしてあるでしょうね。また、単純に水田地帯では、邑を形成するには、地質上の問題もあるかも知れません。そうした視点から、北会津村や湯川村の中心地区は、どの程度の市街形成があるか判りませんが、少々異色の様にも感じられます。

[19932] uttさん
津田選手が亡くなった年に優勝した際は、凄かったようですよ。
野球音痴の深海魚ですが、岸谷五郎さんが御本人を、石田ひかりさんが奥様役を演じた ドラマを観て、印象はあります。今年で没後十年ですね。今春に発展解消した新南陽市の市民栄誉賞第一号だった事も、何か巡り合せを感じます。

その一方、1993年といえば、皇太子殿下の御成婚を筆頭に (我が栄光の独身時代も、その頃に終焉を迎えたのでした。) 細川連立内閣の誕生、Jリーグ開幕、北海道南西沖地震、ゼネコン汚職など、色々ありましたっけ。
[19941] 2003年 9月 16日(火)22:54:55深海魚 さん
只見線の事
[19939] スナフキんさん
この2大集落を無視する形で、
御指摘の様に本郷、高田の街への足を集約した結果と見るのが妥当でしょうか。我が愛用の日地全国版 (1/30万) でも、高田界隈は駅から役場までの 2km近く、南北に市街の表示があり、相応に大きな街である印象を受けます。

…… それにしても、競合交通機関が無かった時代とはいえ、これ程迂回するものかな。国道 49号線に並行する経路なら、約半分の 10km少々で済む話ですが。あるいは、別路線の構想が資金難等で頓挫した結果の集約策だったりして。

只見線といえば、野岩鉄道開通直後で会津線の転換前に、上野 → 浦佐 → 会津若松 → 会津高原 → 浅草 という経路を辿った事があります。同線内は冬季運休の急行 「奥只見」。新幹線に接続する浦佐から小出までは快速扱いの為、新幹線乗継割引が効かない車内は貸切状態で、まったりと只見川渓谷の紅葉を楽しんでいたのでした。

元々が電源開発の資材運搬線として敷設された経緯に鑑みるに、会津盆地を除く沿線の人口分布や冬季の自然条件など勘案した時、この路線の将来性やいかに、とも感じてしまいます。
[19935] 2003年 9月 16日(火)15:57:24【5】深海魚 さん
会津紀行雑感
[19928] まがみさん
近江八幡付近が気候的なわかれめになるのかも知れないですね。
同地が商業の街として発展した背景には、そうした気候上の境界地である事との因果関係はあるのでしょうか。この時期、瑞龍寺辺りから眺めると、湖越しに冠雪の比良山地が綺麗でしょうね。

踏切における視認性が低下するので、警報機を設置するなどの施設改善に充てるため、
なるほど、これは高架橋下の道路を運転する時など、私も実感できるところです。

[19934] kenさん
深海魚さん方面から片道2時間半とすると、常識的には 「会津」 だと思うのですが? ストレートすぎるかな。
過ぎません。あっさり大正解。(笑)

ストレートに考えると、SL撮影と思われますが?
それに加えて、寝台・座席兼用 「月光型」 が国鉄色のまま、臨時快速として喜多方まで入線し、これまた今年から国鉄色に回帰した定期特急が、週末ならではの若松-喜多方延長を行った為、私の世代にとっては旬の食材が勢揃いした訳です。

翁島-磐梯町-東長原あたりですかね。
その通り。この区間は、前面展望が効きにくい列車よりも、より直線に近い経路を辿る車の方が、猪苗代高原と会津盆地の標高差を実感します。午後になると逆光気味の中、水田や スポット状に点在する集落が陽に映える盆地を遠望するのも、なかなか オツなものです。地形が複雑な事情もありますが、猪苗代湖から流出する日橋川の流路も結構面白いですね。白衣観音像も目立ちますが、いつ頃建てられたものだろう?

磐越西線の撮影地といえば、この辺を紹介する場合が多いのですが、私はどちらかというと、若松-喜多方の水田地帯に惹かれます。若松を挟んで広田と堂島の両隣駅が直線で 2km程度しか離れていない為、先回りして同じ列車の二度撮りが効くのは魅力です。御手軽な場所では、広田側の塩庭踏切と堂島側の郡山街道踏切かな。なお、ここで云う 「郡山」 とは、安積地方のそれではなく、河東町内の地区名です。

藩校の遺構そのものではなく、作られた施設、という匂いを感じましたので、「日新館」かなあ、と。。。
その通り、日新館です。という事は、ここは旧来の立地と無関係に、展示目的で設置された施設と考えて良いのでしょうか。立地が河東町域の丘陵地帯で、鶴ヶ城や飯盛山、あるいは日新館を淵源とする県立会津高校の何れの立地とも、関連が無さそうに感じましたが。(展示内容には興味があります。)

日新館と会津高の間に明確な継承性を求めるのは戊辰戦争に伴う戦後処理の解釈上、少々無理があるかも知れません。旧制若松中学の内容は一切不明ですが、後身の私立会津中学は 1890年設置と、県立二中 (現磐城高) より古参なので、当初から県立で設置されていれば付番対象になったのに、そうならなかった点に戊辰戦争後の確執を感じる深海魚でした。学法石川高も中学として整備されたのは 20世紀に入ってからですが、義塾時代を含めれば会津高に次ぐ古参となります。

この会津中学と対を成した会津高女の後身である会津ぢょしこぉは、2002年の共学化に際し 「葵」 と改称しています。何ぞ徳川家の意を呈した様な命名感覚ですが、さて、その背景やいかに?

「余」 ということは、2,000mを超えているということですよね。飯豊山2,105m、大日岳2,128m。
今春、冠雪の飯豊連峰を求めて ドライブしましたが、見事な眺めでした。塩川以北になると手前の山が障害となる事から、喜多方からの眺望は今ひとつ。やはり河東か湯川あたりから仰ぐのが良いですね。方角的に、国道 49号線に近い甘石山と思われる辺りの山上に電波中継施設らしき鉄塔群が見られますが、あそこに登れば絶景だろうなぁ。

若松→喜多方間の磐越西線でしょうか?
そろそろ稲刈りと思われますので、こうした巡り合わせの良さも、あるいは昨日限りだったかも知れませんね。個人的には、若松-堂島、塩川-及川-姥堂ですと、田圃の広がりを絡めた構図が確保し易い様に思われます。

この日は、河東町域と喜多方市域を二往復しましたが、塩川から磐梯方面に抜ける県道を通った際、塩川町金川地区から東方に広がる水田は、磐梯山系を背景に非常に落ち着いた佇まいで、日本人で良かったと意味不明の感傷に浸った次第。

猪苗代高原との標高差に伴う屈曲勾配区間や、会津盆地における若松や喜多方といった街の位置を考えると、磐越西線が国道 49号線に比べ、方向転換を伴ってまで著しく迂回路を採っていのは仕方ないとして (それ故、新潟方面からの蒸機も、追い駆け撮影が効く事が多いそうです。) 坂下以東の只見線の経路には何の必然性があるのか腕組みモノです。もっとも、この クラスの ローカル線を概観すると、地盤の問題がある為か、水田地帯ではあえて丘陵等との境界部分に線路を設ける事が多い様ですね。(この手法は、地元・水郡線でも多々見られます。) あるいはそうした発想の産物なのでしょうか。

なお、この只見線、六十里越え区間が開通したのは 1971年ですが、それ以前の路線呼称は、只見を擁する福島県側が 「会津線」、新潟県側が 「只見線」 と判り難く、新潟県側は 「只見を目指す」 という、小湊鉄道的な命名感覚だったのかな。
[19932] 2003年 9月 16日(火)11:30:33深海魚 さん
日本の秋
昨夜の阪神地区は相当の御祭り騒ぎだった事と思います。在京時代、関西出身の同僚と大酒を煽り、東京北区は飛鳥山公園で 「六甲颪」 を度々歌っていた手前、別に ファンという訳ではないのだけれど (それ以前に、巨人軍の現役選手名もろくに知らない程の プロ野球音痴です。) 深夜 ニュース数本 (日欧混血の女性 キャスターが現在の髪型にされてから、毎晩 23時台の フジTVを観ないと気が済まず、寝不足が深刻だったりします。) を梯子して、一人祝杯を上げておりました。前回の優勝時、私は学生でしたが、「虎なんとか会」 を結成した怖い先輩に、毎晩宴会に付き合わされたのでした。(怖)

タイガースがあれ程に関西地区の人々に愛されているのは、セ・リーグ唯一の在阪 (多少不正確な表現ですが) 球団という事情もあるのでしょうけれど、地域では唯一の球団となる ドラゴンズ、カープ、ホークス等と比べても、あの熱狂振りたるや ブッちぎりですね。(「三強二弱 ……」 などと酷評された カープが、1975年でしたか、優勝した時の広島の街の熱狂振りも相当なものだったと記憶しますが。)

昨日、女房を拝み倒し、片道数時間かけ、二市二町一村に跨り、単身列車撮影に興じて参りました。中央脊梁山脈の峠を越えると高原が広がり、その直後、目的地の盆地が遠望され、屈曲区間を経て少しずつ高度を下げて行く様子は感動的。その勾配区間の終焉近くに藩校系の展示館があり、時間の関係で見物できないのが悔やまれました。

昼からからりと晴れた空の下、2,000m弱級の山並みを背景に、収穫間近の稲穂がたわわに実る田圃が広がり、いわゆる 「国鉄塗装」 の電車複数本が往来する様は、往年の東北地方における標準的な光景を彷彿とさせ、これぞ日本の秋、という雰囲気で、やはり線路際で三脚を構えていた首都圏からの来訪と思われる集団も、「風に靡く稲穂が気持ち良いねぇ。」 と、寛ぐこと頻り。この日は様々な被写体が錯綜する為か、あちこちの踏切で三脚組が散見され、山越えに伴う線路の特異な線形と途中駅での長時間停車を利用した 「追っ掛け」 もかなり行なわれた様です。

田圃の中を直線的に貫く線路の彼方には、標高 2,000m余を最高峰に県境に跨る山脈が半ば雲に隠れつつ聳えています。積雪期になれば見事な銀嶺と化し、これはこれで正に私好みの構図と言えましょう。

(問) 上記の文章を良く読んで、撮影地の具体的な地名を類推せよ。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示