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MIさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[78806]2011年7月22日
MI
[78763]2011年7月13日
MI
[73514]2010年1月1日
MI
[69708]2009年4月27日
MI
[69704]2009年4月27日
MI

[78806] 2011年 7月 22日(金)06:14:58MI さん
日野宿か、あるいは日野村か
[78790] オーナー グリグリ さん
[78794] むっくん さん
[78797] 88 さん
[78798] hmt さん

 私も自作の市町村変遷データベースを構築するに当たり、「駅」「浦」には頭を悩ませたものでした。集計上「町」や「村」でカウントさせるための便法として、「府中駅_町」「粟島浦_村」のような表記を採用しております。ご参考までに。
 さて日野宿について、当方のデータではこれまで「日野宿_町」としておりました。それは「神奈川県町村合併誌上巻(昭330330発行)」p83以降に掲載された
県令第九号
各町村の内内務大臣ノ認可ヲ得明治二十二年三月三十一日ヲ以テ別冊ノ通リ分合改称ス
 明治二十二年三月十一日
  神奈川県知事 沖 守固
(別冊)
 町村分合改称表
新町村名 旧町村名
  (中略)
日野宿  日野宿 西長沼村飛地 平山村飛地 栗須村飛地
によったからです。さらに近代デジタルライブラリの「神奈川県各市郡改町村名大字役場位置表(明治241001出板(ママ))」にも「日野宿(ひのじく)」とあり、その構成も「日ノ、西長沼飛地、平山飛地、栗須飛地」で一致しています。
 
 皆様のご発言を読み、「神奈川県県治一斑」や「神奈川県町村合併誌上巻」での町村数を確認しまして、あらためて手許にあるものやネット上の史料を照合して驚きました。明治22年時点で「日野村」となっているものが複数見つかったのです。
 「神奈川県改定区画傍訓町村名鑑(明220406出版)」には「日野村(ヒノ)」とあり、たしかに南多摩郡は1町19村になっています。
 「新旧対照市町村一覧(明221113出版)」も「日野村(ひの)」ですが、日野宿、西長沼村飛地、平山村飛地、栗須村飛地とで構成されています。
 「現行東京府布令類纂(明310425発行)」の日野町の項が、
日野宿、西長沼村飛地、平山村飛地、栗須村飛地ヲ合村
明治廿六年告示第四十七號ヲ以テ日野村ヲ日野町ト改稱ス
 1行目の「合村」、2行目の「日野村ヲ」と明記してあります。
 ちなみに同書の府中町の項、
府中驛、是政村飛地ヲ合併
明治廿六年告示第四十七號ヲ以テ府中驛ト改稱ス
と見比べますと、その違いは明瞭です。

 この上は明治26年の神奈川県告示第47号の原文(およびその別冊)にあたる必要があると思います。私の過去の調査で、明260704官報附録p001にも同内容のものが報告されていることは分かっていますが、原文までは記録しておりませんでしたので、これも再確認が必要だと思います。
[78763] 2011年 7月 13日(水)06:26:31MI さん
ふたたび「石地町村」と「北大瀁村」について
皆様どうも御無沙汰しております。

[78755]88さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
 本当に編集作業ご苦労様でした。市区町村を語る上での基礎データとして、その重要性は申すまでもありません。私も完成に心からお祝いを申し上げたいと存じます。

 さて、早速地元である新潟県をちょっと眺めてみたのですが、ずいぶん以前に[68959]MI で指摘し、[69153]88さん からレスをいただいていた標記の件が反映されていませんし、そればかりか、中頸城郡「北大浜村」になっているようです。
 どうかご確認をお願いいたします。
[73514] 2010年 1月 1日(金)11:06:17MI さん
櫛原村 or 節原村
 新年早々、[73437] 88 さんの「市区町村変遷情報 小レス 市制町村制施行時(福岡県)について 1」を拝見しておりまして、気づいたことがありますのでお知らせします。
 御井郡合川村に関連して「御井郡櫛原村」とあるのですが、自作のデータベースでは「御井郡節原村」としております。市区町村変遷情報では「御井郡 小森野村, 櫛原村, 合川村の一部」で櫛原村を編制したとされていますが、『福岡県改正町村名(岸田穂積編,1889)』では「小森野村, 櫛原村(南薫通及國道兩側ヲ除ク), 合川村ノ内縣道以西」で「節原村」と記載され、ご丁寧に「フシハラ」とルビまで振ってあります。また、『福岡県新町村名(葉石次郎編,磊落堂,1889)』もルビこそありませんが、同様の記述です。
 『新旧対照市町村一覧』、『大日本市町村名鑑』、『大日本全国各府県市町村新旧対照一覧』、『幕末以降市町村名変遷系統図総覧』、『市町村名変遷辞典』、『旧市町村名便覧』など手許で確認できる資料は「節原村」です。一つだけ、『全国市町村名変遷総覧』だけが p1102,1109 で「櫛原村」となっていましたが、どうやらこれが誤りのように思えます。
 旧櫛原村のうち南薫通及國道兩側は久留米市になっていますので、「御井郡 小森野村, 櫛原村(本体), 合川村の一部」で「御井郡節原村」が成立したと表記すべきと考えます。併せて大正12年の久留米市への編入も「三井郡節原村」としてはどうでしょう。ご検討をお願い申し上げます。
[69708] 2009年 4月 27日(月)19:40:00MI さん
男衾郡藤田村
[69707] むっくん さん

 早速のご確認有難うございました。藤田村については私も確認漏れがあったようです。ご紹介の地方行政区画便覧には男衾郡藤田村が見えますね。大変失礼いたしました。

 幡羅郡の柳沼村か柿沼村については、その前ページの下奈良村のところに「柿沼村」として掲載されています。
 更に『市町村名変遷系統図総覧』でも幡羅郡柿沼村と記されています。聞くところによるとこの本は各県の市町村合併誌(史)を参考にしているそうですので、やはり柿沼村が正当であるように思います。

 人間のすることですから、さまざまなミスや誤りが入り込むことはやむを得ないと思います。それを訂正するのは勿論ですが、その際「何をどのように訂正したのか」を分かるようにする必要性を感じています。それを怠っていると、史料毎で一致しないデータがあったときに、どれを信用すればよいか分からず、同じ誤りを拡大してしまうことになりかねないのですね。
[69704] 2009年 4月 27日(月)15:48:46MI さん
埼玉県の郡編替について
[69697] むっくん さん

 貴重な史料を有難うございます。手許のデータと照合しているのですが、気づいた点を。

埼玉県
県令甲第6号
同国同郡 小田村
 右 武蔵国比企郡へ編入す
 入間郡小田村ではなく、小用村ではないでしょうか?

同国同郡 藤田村
 右 武蔵国榛澤郡へ編入す
 男衾郡藤田村というのが分かりません。もう少し調べてみます。

同国幡羅郡 柳沼村 新島村 北埼玉郡 戸出村 平戸村
 右 武蔵国大里郡へ編入す
 幡羅郡柳沼村ではなく、柿沼村ではないでしょうか?


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